新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



ハンマーソングと漱石と。痛みと、孤独と、その先と。

「孤独」というキーワードを耳にした時、僕の頭にはパッと二つの作品が浮かびます。

ひとつBUMP OF CHICKENの『ハンマーソングと痛みの塔』で、もう一つは夏目漱石の『野分』です。

どちらも十分すぎるくらいの「孤独」を感じつつ、その先の答えが真逆なところが僕には、面白くて仕方がないのです。

 

僕はBUMP OF CHICKENの曲の中でも、『レム』『乗車券』『K』『ダンデダイオン』辺りがすきなのですが、その中でも特に好きな一曲が『ハンマーソングと痛みの塔』だったりします。

ひたすらに自我のメタファーである「箱」を積み上げてその頂から他者を見下す主人公。

どんどんどんどん箱を積み上げて、どんどんどんどん他者を見下す視線が強固になるのですが、どこかそこには「なんで僕を分かってくれないんだ!」という、孤独な主人公の悲痛の叫びのようなものが描かれています。

そして、ある時「同じ高さまで降りてきてくれないか?」と声をかけてくれる他者と出会う。

その瞬間、自分の「独りよがりな孤独」に気づき、おのれの自尊心が単なる弱さに過ぎなかったことを主人公は悟ります(この辺、聴く人によって解釈は異なるかもしれません…)

ざっくりと書けば、こんな展開をするのがBUMP OF CHICKENの『ハンマーソングと痛みの塔』。

それに対して漱石の『野分』では、孤独を望みつつ他者からの承認に焦がれる高柳君に対して、いわば『ハンマーソングと痛みの塔』における主人公を引き戻そうとする存在である道也先生は、正反対の態度を取ります。

曰く、「君は人より高い平面にいると自信しながら、人がその平面を認めてくれないために一人坊っちなのでしょう。しかし人が認めてくれるような平面ならば人も上ってくる平面です。芸者や車引に理会されるような人格なら低いにきまってます。それを芸者や車引も自分と同等なものと思い込んでしまうから、先方から見くびられた時腹が立ったり、煩悶するのです。」だそう。

漱石の描く道也先生は、生徒の高柳くんの「自分は他者とは違うけれど理解して欲しい」という、敢えて言えば、「臆病な自尊心」のようなものを真正面から否定します。

中途半端に見下すな、と。

恐らく道也先生の意図を端的に表せば、末次由紀さんの『ちはやふる』に出てくる須藤暁人を周囲が形容した「本当に高いプライドは人を地道にさせる」という言葉が近いように思います。

(反対に中島敦の『山月記』に出てきた李徴が自身で気づいた「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」は、むしろ前者的な「痛み」なのかもしれません。)

 

「孤独の痛み」と「孤独の崇高さ」という比較は、作品の形態を超えて面白いテーマなのではないかと思ったりしています。

才能故に理解されない主人公や敵キャラが登場するコンテンツは枚挙にいとまがありませんが、例えば『結界師』に出てくる日永や月久、『BLEACH』に出てくる愛染、『fairy tale』のゼレフ。

主人公の側で言えば『ワンパンマン』のサイタマ、『RAVE』のジークハルトなどなど。

どことなく、ゼロ年代初めから十年代前半の作品には、「孤独を分かって欲しい」敵キャラか、「孤独を引き受けた」味方キャラという構造があったように思います。

 

冬季講習の京大対策のテキストを説明しながら、ふとそんな事を思いました。

どうしても目的のために学んでいると、他分野は視野狭窄に陥るように思うのですが、そんな時期だからこそ、多方面に情報感度を巡らせてみては?なんて思い、理屈ではなく、思った事を綴ってみました。。

 

アイキャッチはもちろん漱石

基本コンテンツに影響を受けない派の僕ですが、「それから」は僕が衝撃を受けた一冊だったりします。

 

それから

それから

  • 発売日: 2015/08/01
  • メディア: Prime Video