新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



100日後に死ぬワニはコンテンツとして100日後に死んだ

ここ最近SNSで話題になっていた、きくちゆうきさんの『100日後に死ぬワニ』というマンガ。

第1話から4コマの下に〈あと○日〉という形で、主人公のワニくんの死がカウントダウンされていくという形で話が進んでいき、ちょうど昨日、その100日を迎えました。

仕掛けも内容も面白く、100日に近づくにつれて盛り上がりを見せていた(ヒッチコックの映画術に絡めてこの辺の考察もしたいのですが、話が長くなりすぎる気がするので、機会があればまた書きたいと思います)のですが、最後100日目になり、主人公のワニ君が死んだ直後にグッズ展開や各種コラボイベント等の、いわゆる「広告案件っぽさ」を前面に出し、その結果、作品の感動とは裏腹に賛否の声が溢れています。

僕はコンテンツでお金を稼ぐのは当たり前だろうと思うタイプですし、それ以前に僕も物作りをする人間なので、一人のクリエイターがどれくらいの想いと熱量でコンテンツに向き合っているかも知っているので、きくちたかし先生がお金稼ぎで書いた訳ではないということは初めから分かっている気がします。

一方で、様々な非難の理由も分かる気がします。

だからその辺の両方の食い違いがなぜそうなってしまったのかなということについて自分なりに言語化していこうと思います。

 

僕たちは3つの空間を生きている

nanapiやミルクカフェ、最近であれば無料マンガサイトのアルなどを作った実業家のけんすうさんが、以前、R25のインタビューで、人々は「愛情空間」「貨幣空間」「信用空間」の3つに属しているというお話をしていました。

(会社の人間関係はなぜしんどい? けんすうの助言「コミュニケーションを2つに分けよう」|新R25 - シゴトも人生も、もっと楽しもう。)

愛情空間、貨幣空間、信用空間ではそれぞれ、「愛情」「貨幣」「信用」が相手との価値交換の手段になります。

 

3つの空間ではそれぞれ価値交換の手段が異なり、それを間違えると不具合が生じるわけです。

僕が今回の『100日後に死ぬワニ』の問題を見ていた時に感じたのはまさにこの、所属空間と価値交換の手段の食い違いでした。

 

二重の食い違いを見せた『100日後に死ぬワニ』というコンテンツ

発信者が生活していくためには、どこまでいってもマネタイズは欠かせません。

したがって最終的に「貨幣空間」で回収しようとすることは何も間違えていないわけです。

そんなことは、恐らく『100日後に死ぬワニ』の読者のほとんどが分かっていることでしょう。

それにもかかわらず、僕たちは作品が終わった途端に出して来たあの「商売っ気」に、どこかしら違和感を覚える。

この違和感の正体は、投下されたプラットホームと、コンテンツの性質と、回収手段の属する空間がそれぞれ異なっていたからだというのが僕の解釈です。

『100日後に死ぬワニ』が投下されたプラットホームはSNSでした。

SNSはフォロワーがつき、気に入ったコンテンツに賛意を示すことができ、そこでのフォロワーやいいねの数は、直接マネタイズされるわけではありませんが、人気度/認知度としての一定の価値を帯びています。

その意味で、SNSは「信用空間」に属すると言えるでしょう。

 

一方で『100日後に死ぬワニ』という作品のファンの反応を見てみると、やがて死ぬ定めである主人公のワニくんに、ファンの人たちはどんどん感情移入していました。

描かれていることはありきたりな日常で、正直これといった盛り上がりも見せないのにも関わらずここまでの注目を集めたのは、ひとえに死に向かう主人公に対する興味があったからでしょう。

こうした主人公に対する感情移入から考えると、『100日後に死ぬワニ』は、「愛情空間」のコンテンツであるということができます。

 

本来「愛情空間」で解釈されるコンテンツが、「信用空間」のプラットホームに投げられた結果、僕たちはこの作品に対する愛情を、「いいね」や「リツイート」といった、信用空間での価値交換手段で表現をしていました。

(これ自体はそれほど問題ではありません。)

そうして集まった何万人もの人々の「信用の皮を被った愛情」の総和を、発信者を含む広告会社は安易に貨幣に変えてしまった。

ちょうどおじさんが女の子に喜んで貰いたくて買ってあげたバックなのに、それをこっそり質屋に入れていることを知ってしまったようなイメージ(笑)

 
馴染み始めた「信用⇔貨幣」の交換とまだ馴染まない「愛情⇔貨幣」の交換

ここ数年、クラウドファンディング、オンラインサロン、youtube等の課金システムなど、僕たちは新たに出てきたこれらの仕組みを当たり前に感じるようになってきました。

これらの仕組みの共通点はいずれも「信用を貨幣に変換できる」という点です。

僕たちはこれらの仕組みの登場により、信用空間で得た信頼を貨幣空間でお金に変換することにそれほど抵抗を感じなくなってきました。

 

信用と貨幣の交換には抵抗がなくなってきた一方で、愛情と貨幣の交換にはまだまだ僕たちは抵抗があります。

これまでもAKB商法等のアイドル産業はそれを行ってきたわけですが、それはあくまでお客さん側が「愛情⇔貨幣」の交換をしてきました。

(先ほど『100日後に死ぬワニ』は「信用の皮を被った愛情」と述べ、ここでも「愛情⇔信用」の交換がなされていますが、やっぱりこれもお客さん側による交換で、先にあげたサービスのように、売り手の側による交換ではありません。)

 

この作品の作者と代理店は、この事を忘れて、馴染みのある「信用⇔貨幣」の交換のつもりで、全く慣れない(それどころかしばしば嫌がられる)「愛情⇔貨幣」の交換を、意図的では無いにせよやってしまった。

これが『100日後に死ぬワニ』に非難の声が上がる理由だと思うのです。

 

新たな可能性の芽を摘むということ

以上が僕の考える、『100日後に死ぬワニ』におけるモヤモヤの正体なのですが、じゃあ、発信者の側が「愛情⇔貨幣」の交換をするのに反対なのかと言われれば、僕自身決してそのようには思いません。

ただ、今回のコンテンツに関してはそれをやるのが早すぎたと思っています。

その場の空白を抑えるために、これから果実をつける芽を摘み取って食べてしまえば、2度と果実が実らないように、早すぎるビジネスモデルの試験運用は、その市場の可能性そのものを摘み取ってしまう危険性をはらんでいます。

今回の場合でいえば、読者の一定数はこのコンテンツに対し「だまされた」という印象を持ってしまったと思います。

この「だまされた」という感情を抱いた読者たちは、今後似たようなコンテンツが出てきたとしても、もう同じような没入はできなくなるでしょう。

もちろん、今回の『100日後に死ぬワニ』に関しては、意図せず起こったことであると思います。

ただ、結果として素晴らしい仕掛けの1つがこれきりの物になってしまったよつな気がします。

僕はこの作品をただただコンテンツとして楽しみましたし、それで満足していますが、最後のマネタイズ手法に関しては勿体無いことをしたなという感想を持ちました。

と同時に、「愛情⇔貨幣⇔信用」の交換に関してはさまざまな知見を得られて非常に楽しかったです。

冒頭に触れたヒッチコック的な仕掛けも、それを広め手法も、そして何よりコンテンツそれ自体が面白かっただけに、このプチ炎上(してるのか?笑)が収まる時期が早くきて欲しいなと願っています。

 

アイキャッチはもちろん『100日後に死ぬワニ』

ここまで書いて、作品タイトルを『100日目に死ぬワニ』と間違えていることに気がついた...