とかく昨今は情報過多と言われ、僕たちの周りには情報が溢れています。
ゲームにマンガに映画に音楽、大学講義にヨガのレッスンまで、ウェブで検索するとあらゆるコンテンツにアクセスすることが可能になりました。
こうしたコンテンツの供給過多の状態は、僕たちのコンテンツに向き合うスタンスに大きく影響を与えました。
ビジネス書で「可処分時間の奪い合い」なんて言葉を見かけるくらいに、今はどのコンテンツにどれだけの時間をかけるかに頭を悩ます時代になっています。
情報過多の時代のコンテンツ
消費するコンテンツには溢れているけれど、それを楽しむ時間がない。
そんなコンテンツ過多な世界では、人々は長く楽しめるコンテンツよりも短い時間で楽しめるコンテンツを、集中力や深い予備知識が必要なコンテンツよりも気楽にながら見で楽しめるコンテンツを求めるようになります。
お笑いのネタ見せ番組にYouTube、コロコロと展開が変わるアイドルのポップソングなどは、コンテンツの短尺化や軽量化の典型例でしょう。
能力が低下したとか文化度が下がったとかではなく、情報過多の時代には構造上そういったコンテンツに流れていくのだと思います。
「速いコンテンツ」の競争原理
さて、僕たちが消費者として現代にコンテンツを楽しむのなら、短尺で見る側の労力がいらないコンテンツを大量消費さるという形でいいと思います。
ただし、作り手になるということになると話は変わってきます。
消費者に受け入れられやすい短尺でチープなコンテンツは、作り手サイドから見れば参入障壁が低く、レッドオーシャンになりなりやすい分野であると言えます。
例えば、YouTuberさんの辛い物を食べてみたとか、大食い系の動画はこの典型。
極論誰でも出来てしまいます。
誰でもできるコンテンツというのはすぐに人に真似されるため、そこで生き残ろうとすれば①企画内容を過激にするか②コンテンツの制作本数を増やすか③投稿スピードを上げるかの3通りしかありません。
そして現状「速さ」を求めるコンテンツの多くがこのいずれかの勝負をしているわけですが、どれも物理的に限界があるので、そこで勝負する人たちは少しずつ疲弊してきます。
こうした戦い方は、短期的な成功を収めるには有効だとしても、その先に中・長期的があるわけではないのです。
「速い世界」における作り手としての希少価値の作り方
作り手がこうした過激度合、物量、速さの戦いに陥らざるを得ない最大の理由は、作り手自身のインプット先がそうした「速いコンテンツ」しかないという所にあるように思います。
そもそもの情報源がそうしたコンテンツだから、そこから生まれるものは、「速いコンテンツ」の再生産になってしまうわけです。
作り手がこうした速さのスパイラルを抜け出す最良の方法は、別の畑からインプットをするというものです。
(たしか)手塚治虫さんはいい漫画の書き方を聞かれたときに「映画を見なさい」といい、立川談志さんは弟子に落語以外の芸事を学ばせたということが示すように、ある分野で独自のポジションを得ようとしたとき、別の分野からインプットすることが効果的なわけです。
では「速い世界」における希少性の高いコンテンツとはなにか?
端的に言えば、これは長尺で受け手に深いコミットを求めるコンテンツと言えるでしょう。
例えば映画や小説、落語やクラシックetc...
情報過多の現代、こうしたコンテンツは内容の良し悪しとは別の「時間がかかる」という入り口の部分で、短尺で軽いコンテンツとの戦いで苦戦を強いられています。
裏を返せば、短尺で軽いコンテンツを求める大多数の消費者にとっては、見慣れないコンテンツということも出来るでしょう。
こうしたコンテンツを情報源にしたコンテンツはまだ少なく、実際にこの希少性ゆえに注目を集めることが少なくありません。
分かりやすい例だと(内容の良し悪しや好みは別として)中田敦彦さんやメンタリストのDaiGoさんのYouTubeなどはここに該当するでしょう。
既視感があるようにと、YouTubeの例をあげましたが、これは直近のコンテンツ作りだけに言えることではありません。
(むしろ、中長期的にアイデアを積み上げようと考えた時に有効な戦略だと思っています)
流行を捉えることは作り手としては必須です。
しかし、「流行だけ」とらえていては作り手ではない。
流行を捉えた上で希少性のあるインプットを積み上げ、希少性のあるコンテンツを流行の形に収める。
これから「作り手」として仕掛けていこうと思うのなら、こんな視点が大事なのではないだろうかと思っています。
僕はその仮説に基づいていろいろ準備をしていたりします。