新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



日常としての非現実と非日常としての現実

僕の家にはバーカウンターがあります。
といってもオンラインのmtgや飲み会用に簡易的に用意した一畳くらいのスペースです(別にいい家に住んでいるわけでも、お金をかけて改築したわけでもありません)。

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春先のコロナの流行をきっかけに作りました。

コロナで生活スタイルの大幅な変更が余儀なくされたときから、僕の中で「身体性」という言葉が非常に大きなテーマとなっています。
物理的なさまざまな制約とここ数年のテクノロジーの進化から、僕たちはこの半年でさまざまな分野において急速にICTを取り入れてきました。
そうした変化の先にどのような世界が広がっているのだろう?ということを考えたときに、僕の中でひとつの「解」であると思えたのが「身体性」だったのです。

未来を考えるとき、僕は技術脳とSF脳で物事を考えるようにしています。
技術脳とは「今ある技術で何ができるかを考える」を考える思考で、SF脳は「今ある技術が広がった先にどのような世界が待っているか」を思い描く思考です。
たとえば、ベーシックインカムについて技術脳で考えると、「全員に一律のお金を給付すれば、つまらない仕事につく人は減り、多くの人がより楽しんで暮らせるようになる」となる一方SF脳で考えたら、「完全に仕事から自由になった人々は、それまで仕事で得られていた承認欲求や帰属意識からも解き放たれ、それらを満たすために結局『搾取』のような構造を求めるようになる」みたいな感じ。
未来を考える際には、技術で論理的に可能な「強い世界」ではなく、その論理的に可能な世界と論理では割り切れない世界の差を考えることが大事だと思うのです。
それが、僕のいう技術脳と論理脳という考え方です。

こうした考え方からコロナ禍をみたとき、僕が興味のあるのが身体性です。
コロナでさまざまなものがオンラインでできるようになった反面、実体ベースの体験が大幅に減りました。
テレワークが大幅に進んだり、オンラインでの飲み会が増えたりと、僕たちの生活に便利な選択肢が増えました。
反面失われた(今後さらに失われるだろう)ものが実体を伴う体験だと思うのです。
オンラインの飲みは距離のある人とも繋がることができて、好きな時間まで飲むことができていいことが多いですが、やっぱりやればやるほどに対面で飲む楽しさを時間します。
表情の節々、一緒にメニューを選ぶ過程、その場の匂い、偶然居合わせた人との即興的な関係性などなど、対面の良さを思い出します。
飲みに限らず、僕たちがオンラインで得たものが多ければ多いほど、トレードオフになっているものへの価値みたいなものへの欲求は大きくなると思うのです。
僕たちのメンタリティ的に、どこかのタイミングでそういったものへの回帰が起こるというのが僕の予想。
だからこそ、身体性を感じられるものを今のうちから積極的に開拓しておこうというのが僕が取っている選択だったりします。
冒頭で紹介したBarスペースもこの考え方の延長です。
オンラインで背景が自由に選べるからこそ、実体のあるセットのような背景を作ってみたのです。

ITの進歩は素晴らしいけれど、僕たちはどこまでも実態としての存在です。

だとすれば僕らの日常がバーチャルによればよるほど、僕たちは非日常にリアリティを求めるのではないか?

今までは当たり前だったリアリティこそ、贅沢品になるのではないか?

そんな仮説を持っての、「身体性」というテーマだったりします。