新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



動画メディアが広がる先に音声や文字への回帰が起こるのではないか説

最近、ものすごい勢いで動画メディアが広がっています。

また自分自身の体感としても、ここ数年で動画メディアの利用率がぐっと増えたなあと。

数値的にも体感的にも動画の需要が増えたと感じると同時に最近よく思うのは、動画メディアの時間の占有率の高さです。

 

言わずもがな動画コンテンツを楽しむ場合、視覚と聴覚を必要とします。

おまけにコンテンツを楽しむ速度まで決められている。

時間潰しにはちょうどいいのですが、何かしらの情報収集という意味でみたとき、その取られる手間と時間が大きすぎるように思うのです。

もしかしたらこの感覚は僕が元から活字が好きで、文字コンテンツに対する抵抗が少ないからなのかもしれません。

そもそも読むのが嫌いという人が大多数ならそうした需要はないのかもしれません。

ただ、少なくとも一定数はそうした動画より本気で見せてくれた方が楽なのに!という人がいる気がするのです。

 

動画投稿プラットフォームが普及して無限に動画コンテンツが生まれた世界で、僕たちはどのような行動選択をするのか?

そんなことをふと考えたりします。

僕たちの周りには見るべきコンテンツが無限に溢れている。

それに対してその動画に向き合える空き時間は少なすぎる。

そうなると、見るコンテンツの吟味か、「ながら見」できる時間のコンテンツ消費になるように思います。

 

さて、見るコンテンツの吟味ということに関して、僕たちはそんなことをしないように思います。

そもそも暇な時間を潰すために見るのが動画コンテンツだったはずなのに、その暇つぶしを選ぶのに時間をかけるなんて、矛盾しているからです。

「1時間の暇な時間を潰すために20分かけてどの動画を見るか考えました」なんて、ちょっときたギャグですよね。

したがって、コンテンツが増えた先にコンテンツの吟味という習慣はあまり考えられません。

 

となるともう一つの「ながら見」型のコンテンツ消費になるように思うのです。

移動中や作業中に音だけを聞いたり、手や耳を使う仕事をしながら目で見たり。

あるいはテキストでぐっと時間を圧縮して内容をざっくり把握したり。

僕たちはそんなにじっくりと動画を見る時間がなくなると、こうした生活習慣になる気がします。

 

コンテンツの質という意味での是非はともかく、最近の切り抜き動画流行は僕たちのこうしたニーズを捉えた物であるように思います。

元ネタを短くキャッチーなタイトルでまとめ、丁寧に字幕をつけてジャンルごとに分ける。

これのおかげで、僕たちはその動画が内容的に「見たい/見たくない」に関わらず、「内容が分かっている」ということや「隙間時間に消費できる」という理由から、そのコンテンツを消費します。

もちろん人にもよると思うのですが、少なくとも僕はその行動は何かしらの情報を得たいという気持ちではなく隙間時間を潰したいという気持ちからきているように思うのです。

 

もともと時間を潰すための動画コンテンツだったはずが、量が増えすぎてその中から選ぶのも手間になる。

結果、丁寧に加工された動画の需要が増える。

もっといえば、その先には音声や文字のニーズも増えるように思っています。

例えば、内容がざっと文字起こしされていて、興味があれば聞いてみるみたいな。

動画が溢れた先にある僕たちの行動はそんなところなのかなあと思っています。

 

 

こういう話題ならアイキャッチはもちろん時間泥棒でしょう(笑)