コロナが世界的に蔓延する前、僕は3度の飯より酒が好きという勢いで飲み歩いていました。
飲みに行くのは馴染みの友達というよりはカウンターで出会った人との交流が目的(この辺、京都に住んでいて、かつ行きつけのお店を持つ人間特有の考え方なのかもしれません。)
週の半分以上を飲み歩いていたら少なからず変わった出会いもあるわけで、今日はその中の一人を紹介したいと思います。
深夜一時過ぎ。
とある居酒屋で飲んでいて、そろそろ帰ろうかという時分に、ひとりの男性がやってきました。
タイミングと彼の人柄に誘われて、もう一杯だけとそこに留まることを決めた僕は、彼と話を始めます。
そんな中で出てきた彼の職業はプロギャンブラー。
何人かでチームを組み、一年の半分をマカオで過ごし、そこで買った賞金で生計を立てているのだそう。
まさかと思いつつも彼の言葉の重みに押され、僕はポーカーの勝負を挑みました(彼がカジノでメインにするのがポーカーということだったので)
快く対戦を引き受けてくれたその方を前に、僕は「プロ」という言葉を信じずにはいられまさんでした。
プロとしての「当たり前」
というのも、彼は僕の捨て札、場の状況を見て、全ての勝ち札の可能性を確率計算し始めたのです。
○○は×%の確率だから、僕はこれを選ぶみたいな。
彼は、僕の捨て札から想定される僕の待ち役のパターンと確率、そして、自分の手札から組み立てられる役のパターンと確率を常に計算していたのだそう。
そんな解説とともに勝負をしていて、1ゲーム単位では勝てることはありましたが、勝負としては惨敗。
「プロ」というものの凄さを知った1日でした。
プロゲーマーでも何でも、目指す以上レベルが違う
僕がこんな経験を思い出したのは、先日偶然、ひろゆきさんの切り抜き動画でプロゲーマーについてのべているものを見たからでした。
親御さんからの相談で、息子がプロゲーマーになりたいといってゲームばかりしているけどどうしたらいいかというような相談。
ひろゆきさんはそれに対して、「本当にプロになる取り組みをしていますか?」と返します。
続けで自身が楽しんでいるゲームに絡めてこんなことを言っています。
プロになるってことは手札を見て全てのステータスや戦術を言えるってことが必要です。
お子さんは単にゲームをするのではなく、そういう「訓練を積んでいますか?」
と、
確かにその通りだなあと思います。
これはゲームに限らず、遊びでもスポーツでも、それを極めようとしているか楽しもうとしているかで全然結果は違ってくるんですよね。
この趣味としての取り組みとプロになるための取り組みの差は、ジャンルを問わず相手の志を問う質問として非常に有効だと思うんです。
どんなに時間を割いていても、それが快楽的消費になっているのであれば、それはどこまで行っても趣味の域を出ません。
逆に、たとえかかる時間は少なくとも、それが具体的に立つための蓄積を伴うものならその先に「プロ」という道がある。
僕は好きを仕事にという言葉が嫌いではない一方、(自分自身がフリーランスということもあり)安直な「好きで生きていく」論には反対だったりします。
僕にとってのその分水嶺は上に書いた部分にあるのだなあと。
もちろん才能が突出していたり、とんでもなく特定のものが好きという人に関しては、上にあげた「プロの視点」のようなものを磨かずとも一定の結果をだせるかもしれません。
でもそれ以上に多くの人き視野を置くのなら、その明文化されない部分に焦点を当てることが大事だと思うのです。
アイキャッチはプロの視点が学べる無名抄