新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



これからの世界で「差異」をどこに生み出すか?

変化の多いこの時期を過ごす等身大の自分の思考を記録しておきたいなんていいながら、仕事に忙殺されて絶賛更新滞り中のこのブログですが、ほんの少しでもいいので更新しようかと思います…

 

ヴェニスの商人に学ぶ価値の捉え方

先日授業準備で岩井克人さんの『21世紀の資本主義論』を読み直しました。

そのときに自分の頭をよぎったアイデアがあるので、今回はそれを備忘録としてまとめておこうと思います。

岩井さんが『21世紀の資本主義論』で唱えていたのは、仮に世界を重商主義、旧来的な産業資本主義、最近(ゼロ年代)産業資本主義と区分したとき、一見価値の源泉は変わっているように見えても、根っこには常に「差異」による価値の創出以外にないというもの。

ある土地で安価に仕入れたものを高価に取引される別の場所に持っていく重商主義の時代や、情報そのものの差異を商品にしだした最近の産業資本主義はもちろん、実は一見人間の労働が価値の源泉であったように思われる旧来の産業資本主義の時代においても、実は農村部の豊富や余剰労働力と都市部の労働という構造によって成立した労働生産性と実質賃金率の「差異」が価値の源泉なのではないかというのが岩井さんの主張。

 

SNS時代の「ヴェニスの商人」はどこにいる?

当然岩井さんのこの主張に対して、様々な立場の意見はあると思いますが、仮にこの前提に立って現在を分析すると面白いんじゃないかというのが僕の考えたことです。

岩井さんがこの本を出版したのは2006年。

インターネットは普及してきていたとはいえ、SNSはおろかスマートフォンもまだ普及していない時代です。

(僕の記憶が正しければフラッシュ素材があふれていて、Youtubeにあがるコンテンツといえば違法アップ動画が主流といった感じのとき(だったはず…)

岩井さんは現在のようにSNSが発達した世界を想定して述べたものではないはずです。

であるならば、「差異」という観点からSNSが広がった社会をみるのも面白いんじゃないかなと思うわけです。

 

SNS前半の「差異」について

ITおよびSNSが普及したことにより、僕たちは物理的制約から大きく解き放たれました。

また、ITの性質上、情報の差異もそれまでと比べれば作りづらくなったといえます。(いいか悪いかは別として、たとえば、現代であれば見たい映画や漫画があったとき、もちろん手間はかかりますが、やろうと思えば僕たちはネットを介してそうした情報に無料でアクセスすることができます。)

こうした環境下では、地理的差異も、農村-都市部の差異も、情報の差異も生まれづらくなっていると思うのです。

 

さて、上記のように考えるとしたら差異はどこに生まれるのか?

これに関してはSNSが爆発的に普及したゼロ年代前半と後半で異なるのではないかと思っています。

前半に関しては僕の考える価値の源泉である「差異」は「速さ」です。

10年代前半のSNS黎明期には、質やオリジナリティ以上に、速さが重視されていたように感じます。

情報にアクセスできる人間とそうでない人で、それにたどり着くまでには大きな時間の差があります。

その差を利用した価値生成が十年代前半の価値の生み出し方だったのかなと思います。

 

こうした速さによる差別化も、さらなるSNSの発達により誰もが情報発信をできる時代になり、次第に「差異」を生み出しづらくなりつつあります。

こうした中で今の「差異」の創出要因、そしてその先の「差異」はどこから生まれるのか。

僕はこれに関して、現代は「経験による差異」、そしてそれも飽和状態となった先には「注目による差異」あたりがくるのかなあと思っています。

「経験による差異」は一般に「キャラ」と呼ばれるものかもしれません。

速さが差別化要因にならなくなると、次に注目されるのは話し手の個性というのが僕の仮説。

その個性は個人の経験によるものだと思うのです。

たとえば、同じ主張の紹介であっても、その説明に用いる例は異なります。

そして、その部分に出てくるのがその人の経験や個性。

こういった部分の蓄積が今価値の源泉になりつつあるのかなあと思っています。

 

ヴェニスの承認の行き先は?

さらにそれが進むと、キャラクターや経験も飽和状態になります。(というか、無限にそれが増えたとき、人はそれらの中から個性を選択するのもいやになるという印象)

こうなったときに次の判断基準として生まれるのはその人のもつフォロワー(≒注目)の量。

注目が集まる人のもとに、情報や個性的な経験を得た人が集まる。

結果、注目を集める人のもとに「その人しか集められない」面白い情報やコンテンツが集まって、それが差異として価値になる。

こんな風になるのがこの先の差異なんじゃないかなというのが僕の漠然とした予想だったりします。

 

 

そもそも差異が価値の源泉であるのかという疑問もあるかもしれませんし、僕が書いた「差異」の源泉が的外れだと思う人もいるかもしれません(この部分は自分で重々承知です)。

ただ、あくまで僕の備忘録ということで広い心で見ていただけたら幸いです。

ITは良くも悪くも僕たちの生活を大きく変えます。

それが広がった先を、主張や希望や批判なく、ただ事象の広がった先の世界を想像できたらなんてなんて思っています。

 

アイキャッチはもちろん岩井克人さん