新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



中学生を悩ます魯迅の『故郷』のスポット考察①間接描写の意図を考える

何度もの教科書改訂を乗り越えて教科書に掲載され続けている魯迅の故郷。
個人的にはさすがの名作だなあと思う反面、中学生の子達にはすべてを理解するのは難しいんじゃないかとも思ったりします。
実際、ここ数年は特にあの小説に関する質問が増えているなあという印象です。
中学生の皆さんがなぜあの作品を苦手とするのでしょう?
それは「行間を読む習慣の有無」にあると思っています。
魯迅の『故郷』はよくできた作品だと思うのですが、それ故にゆっくり時間をかけて行間にこめられた意図を考える必要があります。
それをグループワークなどで分断したり、コロナ化でコマ数がが圧縮されていたりしたら、そりゃ深い理解なんてできないよなと思ったりするわけです。
というわけで、今回は僕が思う『故郷』の注目すべき表現をピックアップして考察をしていきたいと思います。
少しでも本文理解の助けとなればうれしいです。

 

開始二段落の技巧!?心情と情景を一致させる技術

 

「厳しい寒さの中を、二千里の果てから、別れて二十年にもなる故郷へ、私は帰った。」
こう始まる魯迅の『故郷』。、
冒頭の数行からして、その凄さがあふれています。
この二段落を通して読むと、その心情や情景描写が全て「覚えず寂寥の感が胸に込み上げてきた。」という表現を引き立てるために用意されているかのように読めるのです。
ここを理解するには「寂寥の念=物寂しく感じる思い」ということを抑えておかなければいけません。
主人公の「私」は、20年ぶりに故郷に戻ってきて、なんとも言えないもの寂しさをかんじとるのです。
この「寂寥の念」を引き立てるために描かれたこれまでの描写をあげると次のとおり。
「厳しい寒さの中を」「真冬の候」「空模様は怪しくなり」「冷たい風がヒューヒュー音を立てて」「鉛色の空の下」「わびしい村々」「いささかの活気もなく」「あちこちに横たわっていた」
わずか160字ほどの中の約70字が、「寂寥の念」を引き立てるための表現として使われています。
これだけの「どことなく『ものさびしさ』を感じさせる言葉」がちりばめられているために、僕たちはこの作品の冒頭で、ぐっと「私」の心境にひきつけられるわけです。

 

核心に触れず状況を伝える魯迅の手法

 

「私」は一族全体としてそれまでほど裕福でいられなくなったために家を売らなければならなくなった(その程度に困窮している)わけですが、そのことが直接書かれることはありません。
小説を読みなれていない方は、ここで小さなつまずきができ、そのようなつまずきが少しずつ積み重なるうちに、気づくと内容がわからなくなっている。
こんな人はいませんか?
そういった状態になるのを避けるために、今回は間接的な表現はできるだけ拾って、意図を記していこうと思います。

というわけで、その第一弾は「家を売らなければならなくなった」場面です。
「私」は故郷に対して「寂寥の念」を感じ、同時に昔はこんなではなかったといっているのですが、直後に、こうした故郷に対する印象の変化は、故郷が衰退したことではなく、自身の心境の変化が原因であるという結論に至っています。

では、なぜこうした心境の変化が生じたのでしょう?
本文にはその状況をそれとなく示す表現として、「今度の帰郷は決して楽しいものではない」「故郷に別れを告げに来た」「私たちが長いこと一族で住んでいた古い家は、今はもう他人の持ち物になってしまった」「どうしても旧暦の正月の前に、住み慣れた古い家に別れ、馴染み深い故郷をあとにして」とあります。

また、「屋根には一面に枯れ草のやれ茎が、折からの風になびいて、この古い家が持ち主を変えるほかなかった理由を説き明かし顔である。」という表現から、「私」の家が手入れもできずボロボロになってしまったということが分かります。

①家の手入れができないほどにボロボロになってしまった、②家を人に譲らざるを得なかった

この2点から裕福では無くなったために家を他人に売却しなければいけなくなったということが分かります。

 

もちろんこれは、日頃から物語を読み慣れている人ならわざわざ言葉にしなくても分かると思うのですが、苦手な人はこういった細かな事実の積み重ねからその意味を考えることが大切です。

ということで2000文字に近づいたのに、まだ冒頭数行しか書けませんでした(笑)

 

ただ、逆にいえばそれくらい丁寧に追いかけなければいけないのも事実です。

ということで無理にまとめずこれからのエントリで細かく分析していこうと思います。

よかったら応援よろしくお願いします。