新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



米津玄師『カムパネルラ』考察〜カムパネルラに問いかける主人公は誰なのか?〜

「なに大丈夫よ。大きな迷子ですもの」
「迷子だから捜したでしょう」と三四郎はやはり前説を主張した。すると美禰子は、なお冷やかな調子で、
「責任をのがれたがる人だから、ちょうどいいでしょう」
「だれが? 広田先生がですか」
 美禰子は答えなかった。
「野々宮さんがですか」
 美禰子はやっぱり答えなかった。
〈中略〉
「迷子」
 女は三四郎を見たままでこのひとことを繰り返した。三四郎は答えなかった。
「迷子の英訳を知っていらしって」
 三四郎は知るとも、知らぬとも言いえぬほどに、この問を予期していなかった。
「教えてあげましょうか」
「ええ」
「迷える子(ストレイシープ)ーーわかって?」

 

夏目漱石三四郎

 

米津玄師さんの『STRAY SHEEP』というアルバム名を見た時、初めに浮かんだのが夏目漱石の『三四郎』に出てくるこの場面でした。

責任から逃げている、そしてそんな自分を正当化している主人公に向けて美禰子がいう「ストレイシープ」という言葉。

「迷える羊(STRAY SHEEP)」は新約聖書にも出てきますし、むしろ頭に浮かぶのはそちらが王道である気もしましたが、僕にはこのアルバム名における「STRAY SHEEP」は『三四郎』のそれとしか思えませんでした。

 

というのも、このアルバムに入っている作品のいくつかに、所々文学作品へのオマージュが含まれている(と、僕は勝手に思っている)から。

(因みにこう書いておいて何ですが、このアルバムに入っている『迷える羊』の方は羊を探しに行く新約聖書の方がモデルだと思っていますが、その辺の矛盾を説明するとそれだけで終わってしまうのでまたの機会にします)

 

さて、そんなアルバムの中でも群を抜いて僕が惹かれたのが『カムパネルラ』です。

背景知識がなくとも楽しめるようにはなっていますが、この歌も当然ある作品がベースとなっています。

今回はその辺に触れつつ、米津玄師さんが描きたかった世界観を考えていこうと思います。

 

銀河鉄道の夜』に登場するカムパネルラという人物像

宮澤賢治の『銀河鉄道の夜』を読んだことがある人であれば、『カムパネルラ』と聞いた瞬間、この作品が思い浮かんだのではないでしょうか。

カンパネルラは『銀河鉄道の夜』の主人公であるジョバンニの友人で、ある日川で溺れたクラスのいじめっ子のザネリを助け、溺死してしまいます。

そのことを受け入れられずにいるジョバンニは気づくと銀河を駆け抜ける電車の中でカンパネルラと向き合っている。

そして、ジョバンニは銀河鉄道の中でのカンパネルラとのやりとりを通してゆっくりと友人の死を理解し、受け止めてゆく物語です。

すごーく、ざっくりといえば『銀河鉄道の夜』はこんなお話(うろ覚えであることと、本筋とは違うため短く済ませたいと考えたことから、細部にかなり誤りがあるかもしれません、、)

米津玄師さんの『カムパネルラ』がこの作品をモチーフに作られていることは間違いないでしょう。

歌の中に「リンドウの花」「月光蟲」「陽炎がゆれる」「真っ白な鳥」「歌う針葉樹」あたりは、それぞれ、銀河鉄道での旅に出てくる「りんどう」、「青い光の虫」、「蠍の火」、「白鳥」、「祭りの日のもみの木」といった表現を踏まえたものかと思われます。

(もっと関連するものもあるかと思いますが、記憶を頼りに手元の『銀河鉄道の夜』でパッと照らし合わせることができたのが上記のあたりです)

こんなふうに、『銀河鉄道の夜』をモチーフに、この歌ではいったい何を伝えたいのでしょうか。

 

主人公は誰か?

銀河鉄道の夜』を参考にしていることはわかりましたが、この歌は単純にカムパネルラが主人公となっているわけではありません。

〈カムパネルラ 夢を見ていた〉と呼びかけから入るこの曲。

一見すると、また『銀河鉄道の夜』の文脈からすると、主人公ジョバンニがカムパネルラに声をかけていると考えそうですが、ここはそれだと次のような歌詞にすこし違和感が生じます。

〈わたしの手は 汚れてゆくのでしょう〉

〈追い風に翻り わたしはまだ 生きてゆくでしょう〉

〈いつになれど 癒えない傷があるでしょう〉
〈黄昏を振り返り その度過ちを知るでしょう〉

このあたりは、単に友人を思い出すというよりは、友人の命と引き換えに「生かされた」かの印象を与えます。

そこから考えると、冒頭で「カムパネルラ」と語りかけているのは、ジョバンニというよりはザネリの立場ではないかと考えるべきだと思うのです。

クラスメイトの命によって生かされたいじめっ子のザネリが、生かされた命の重みと意味に向き合う話というのが僕が考える『カムパネルラ』という曲のモチーフです。

 

生きる意味をカムパネルラに問うザネリ

前置きで書きすぎてしまったので、歌詞そのものはざっと追いかけていこうと思います。

〈カムパネルラ 夢を見ていた 君のあとに 咲いたリンドウの花〉

「夢を見ていた」と過去形で始まるこの歌いだしは、夢の中でカムパネルラに会ったということでしょう。

そして減いつにあるのは「リンドウの花」

咲いて枯れる「花」はしばしば時間経過を表します。

今回も時間の経過=カムパネルラのいない現実を示していると考えてよいでしょう。

そして、先にも触れましたが、「りんどう」は『銀河鉄道の夜』とのつながりを暗示させるモチーフとしての働きもあります。

 

さらに、「君のあとに咲いたリンドウの花」という部分を考えてみると、ここには、リンドウの花言葉である、「正義感」が当てはまるように思います。

ザネリのことを救ってくれたカムパネルラは成績優秀でクラスの人気者として描かれています。

まさにリンドウの花言葉にぴったりでです。

また、ザネリはいじめっ子。

そんなザネリを命と引き換えに助けてくれたカムパネルラ(の影)を見て、リンドウの花と重なるというのは、生かされたザネリの心情としてもぴったりです。

 

〈この街は 変わり続ける 計らずも 君を残して〉という部分は「変化=成長」と捉えるのが妥当でしょう。

街はどんどん変化していく、つまり時間は流れていくけれど、そこに死んだカムパネルラだけはいないわけです。
ここから流れていく時と、空虚な日々を過ごす主人公が描かれるのですが、サビでは〈君を憶えていたい〉というフレーズが出てきます。

変わっていく、どんどん時間が流れていく世界の中で主人公にとってできることはなにか。

主人公なりの答えが「君を覚えている」というわけなのです。

 

そして2番。

〈カムパネルラ そこは豊かか 君の目が 眩むくらいに〉

再びカムパネルラへの呼びかけで始まる2番は、「そちらの世界」への伺いから始まります。

そしてBメロからサビにかけては再び自分が残されたことへの罪の意識を感じている。

〈波打ち際にボタンが一つ 君がくれた寂しさよ〉というフレーズは、そのことを象徴しています。

そしてここからはこれまでの内容を交えながら、〈いつになっても傷は癒えない〉、〈君がいない日々が続く〉と展開します。

 


このように、過ぎ行く時代の中で「救われた命」という意識からどこか変化に対する抵抗感のようなものを抱く主人公。

そしてそんな主人公の償いは「カムパネルラの存在を一生忘れない」こと。

これはある意味で一番重い十字架といえるかもしれません。

銀河鉄道の夜』で宮沢賢治さんはカムパネルラの「自己犠牲」とその後の列車でのやり取りを通して命の意味を知る主人公ジョバンニを描いたのに対し、米津さんは『かむパネルラ』という曲の中で、ザネリという、自己犠牲によって救われた側を主人公にすえることで、救われた側の背負うものを描きたかったのではないかと思うのです。

『カムパネルラ』が好きな人で、気になった方がいれば、ぜひ『銀河鉄道の夜』のほうも読んでみてください。