新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



キレイな社会の残酷さ

先日、「ホワイト企業がホワイトすぎて辞める若者たち」という記事を目にしました。

転職する際の転職理由を聞いたところ、いわゆるホワイト企業に勤める若者が「ホワイトすぎる」ことを理由にやめるのだそう。

企業が本人に聞いた場合であれば、それの真意は眉唾ですが、「ホワイト故に辞める」というのは一定のロジックが組めるように思いました。

 

僕は以前からホワイトかブラックであれば、若いうちはややブラック、というかハードな仕事をした方がいいのでは無いかという考えだったりします(もちろん体を壊してしまうような長時間労働や、余暇を楽しむ余裕もない安月給、精神を壊してしまうような酷いパワハラ体質等は別ですが...)

完全定時、でそこそこの給与、おまけに精神的な負担がまるでないという真っ新なホワイトというのは、その時は良くても、長期的なキャリアを考えた時に自分にとってどうなのだろうと考えるからです。

 

さて、ブラック企業という言葉を用いる時、①その人がどの定義でその言葉を用いているのかということと、②その人がどの程度のブラック企業を想定しているのかという点は共有しておく必要があります。

例えば長時間労働でもってブラックという人と、パワハラ体質でもってブラックという人では話が噛み合いませんし、企業文化としてハードなノルマを課すことをブラックと呼ぶ人と、業務改善命令が必要なレベルの悪質な搾取が行われるレベルでのブラックでは程度が違いすぎる訳です。

今回の僕の話が前提としているブラック企業とは、先の「転職理由としてのホワイト企業」の対になるものとして考えます。

恐らく先のホワイト企業という言葉が指すところは①の観点からすると給与のこととは考えにくいので、労働時間と職場環境という2点の側面で「ゆるい」職場、また②の程度としては「直ちに逃避する必要があるレベルではないが、いい条件の転職先が見つかったので転職した」というあたりでしょう。

それを踏まえて、今回の話をする際に想定するブラック企業は①a労働時間が時に長くb精神的な負荷が多少あり、②直ちに逃避する程ではないがキツイ職場とします。

 

ホワイト企業の残酷さ

 

そもそも僕が先のニュースに興味を持ったのは、常々「完璧なホワイト企業ほど冷たい会社はない」と思っていたからです。

基本的に何かができるようになるということには①自分の能力の範囲内で習得することと②自分の能力自体が拡張することの二つがあると考えています。

そして①に関しては負荷なく適切なマニュアルが有れば習得できる一方、②に関しては一定程度の負荷をかけることが必要です。

これは例えば筋トレを考えるとイメージがつきやすいと思います。

筋肉をつけたいと思った時、自分の限界+αのトレーニングをし、筋肉が痛み、その回復作用で元よりも筋肉がつくのと同様に、能力値そのものを上げるにはどうしても負荷が必要です。

仕事においてその負荷の部分が長時間やプレッシャーというようなものなのですが、それを適切な量と程度で新人に施すのは、実は膨大なコストがかかります。

 

時に本人のキャパシティを超える作業を習得してもらうために適切な手当を支払い、本人の苦にならない範囲で残業を依頼する。

あるいは就労時間内にキャパシティをギリ超える分量を課し、同様の教育効果を提供する(その場合はある程度の精神的負荷あるいは消化できなかった分を上司がフォローするというコストが発生します)。

さらには適切な評価指標や丁寧な面談や声かけによる目標設定における成長促進。

こういったものは莫大なコストがかかります。

 

一方で単に自分の企業に最適化した優秀な労働力に仕上げるのはそれほど難しくはありません。

どんな人でも仕事が円滑に進むように細かく設計された良質なマニュアルと、それを適切に与えるようなシステムを構築していればいいからです。

それがあれば企業の側はいちいち新入社員に膨大なコストをかけて育てなくとも、一定の水準でワークする労働力に仕上げる事ができます。

ホワイト企業の高待遇のカラクリは、本来人の能力値を育てるためにかけるコストをカットし、その分を社員に還元しているというものだと思うのです。

 

もちろん、そういった環境でも(そういった環境だからこそ)自ら主体的に動く人は育ちます。

しかし向上心や主体性に乏しい"普通の人"はそうはいきません。

本来ならそういった"普通の人"出会っても、少し多めの仕事を早くこなせるようになろうとしたり、予算目標とその達成に対する精神的負荷などによって本人にその意思がなくとも少しずつ成長できるように設計されているわけで、その負荷こそがブラックと呼ばれる根源なのだと思うのですが、そのコストを丸々カットし、やる気の無いものへの成長は期待せず、そういうものはシステムで最低水準を変えさせようとするホワイト企業では、"普通の人"の成長は見込めません。

 

終身雇用が当たり前ではない社会を想定して立ち回る

 

それでも終身雇用が当然であった時代であれば、全く問題はありませんでした。

別に本人が成長せずともその組織にいる限り企業の持つマニュアルやシステムによって一定水準のパフォーマンスが上げ続けられ、そのまま定年まで迎えるのであれば本人にデメリットは無いからです。

しかし、こうした特定のシステムに最適化した人材は別のシステムにも適応できるわけではありません。

また、仮に他のシステムに最適化したとしても、転職先のそもそも企業のシステムが優れていなければ、前と同等のパフォーマンスは出せません。

 

現在の企業の平均寿命は23.8年とされています。(10年未満に倒産する企業は26.5%、30年以上続く企業が倒産する割合は33.8%)

そんな中で終身雇用を無批判に前提とした(慎重な検討の末ならいいと思います)キャリア設計はリスキーでしょう。

自ら主体性に動ける人ならともかく、そうでない"普通の人"であれば、転職や自分のスキルで食べたいかねばならない可能性を視野に入れて、完璧なホワイト企業を避けるというのは合理的な選択のような気がします。

 

ホワイト企業というブランドの価値に注目されるようになるほど、"普通の人"が目の前の高待遇につられ、(長期的なビジョンを持たず)そちらに流れ、10年20年と経った時に困る人が大量放出されるということが起きるような気がします。(因みに僕はアイドル業界においてAKBグループで近いことが起きたと思っています)

そういった観点から、その匂いを嗅ぎつけた人が「ホワイト企業」を理由に転職するのは納得できるように思いました。

(まあ、その意思決定ができる人は、そもそも主体的に動ける人な気もしますが...)

 

アイキャッチは徹底的にマニュアル化された"いい会社"に作者される主人公を描くこの作品。