新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



しょーもないルールを作ることの本当のリスク

緊急事態宣言でさまざまな混乱が起きています。

まあ感染の拡大に対して何らかの対策を講じなければならないのはその通りなので、こういった状況になるのは仕方ないことなのかなあと思います。

(その内容の良し悪しには一切言及しません)

それはいいとして、個人的に気になる事があります。

飲食店のお酒の提供の禁止だったり、外で飲んでいる人に対する見回り&取締りといったこと、あるいは小池百合子さんが提案した電気を消そうといったもろもろの対策に関してです。

別に僕はその対策がエビデンスに基づかず、効果もないという愚かさを指摘したいわけではありません。

僕が気になるのはこうした「守る価値のないバカバカしい規制」を強要することで、人々の「ルールを守らねばならない」という当たり前の意識が欠けてしまうことの長期的なリスクの部分です。

 

ルールは守らなければ怖くない

僕はルールに対して①ルール内で行動する、②ルールを利用して行動する、③ルールを破って行動するの3種類があると思っています。

例えばドッヂボールならルールに則って試合を進めて勝ち負けを競うのが①、試合開始と同時に一番弱そうなやつをぶつけて後は味方内でパス回して時間切れを狙うのが②、ノーカウントの顔ばかり狙ってとにかく相手を潰すのが③みたいな感じ。

別にどのやり方でもいいわけですが、普通僕たちは①を行います。

なぜ僕たちが①を行うかといえば、それは僕たちがa.ルールをを守ろうという意識に加えて、b.互いに協力して社会を持続させようという意識があるからです。

 

極端な話あらゆるルールなんて、そのルールに乗っからなければなにも怖いものなんてありません。

「ものを盗んではいけない」という法律だって、極論「で?」と思う人にはなんの拘束力もないわけです。

それにもかかわらず僕たちがそれを守ろうとするのは、「罰則の重さ」という側面以上に「お互いに住む社会だからルールを守り合おう」という意識があるから。

僕は安定した社会の実現にとって、この遵法意識が非常に大切だと思っています。

 

 

ルールを守る必要がないことに気づかせる怖さ

頑張って予算を達成しよう→達成しなくても正社員なら首を切られない

学校の提出物をひたすら出さない→そのひとつだけでは留年にはならない

もちろんルールを守らなければ怒られるなどのペナルティがあるように見えますが、結論の部分の影響がほとんどない事が分かりきっていれば、それはただの騒音にすぎずどうって事がないと割り切る事ができてしまいます。

僕たちは普段ルールを守らなければならないということを当たり前としてきたわけですが、それらのルールの中には上のように守らなくてもどうにもならないものが少なくありません。

にもかかわらず、こうしたものも僕たちは守ってきた。

それはお互いの関係性を維持しようとお互いに考えていたからです。

 

今回の非常事態宣言に伴い、対象地域外に出かける人が続出しました。

これは冒頭のルールに対する向き合い方としては②のやり方です。

全てルールに則っているけれど、徹底的に穴をつくというスタンス。

あるいはお酒を持ち込み可能とする居酒屋もここでしょう。

そして爆発的に広がった路上飲みは一応控えることを要求されていたけれど無視しているという点で③といえます。

 

こうした現状をもってけしからんという人たちが多いですが、僕はこうした現状そのものが問題ではないと思うのです。

それ以上にまずいのは、一度ルールを利用する狡猾さを覚えてしまった②の人や、破っても問題のないルールがある事を知ってしまった③の人々は、今後も無意味なものに対してこう言ったスタンスをとり続けるであろうという部分。

非常事態宣言中の愚かな対策の数々の最大の問題は、国民に過度なストレスをかけることでも感染拡大を防げないことでもなく、国民全体の遵法意識を大幅に落としてしまう部分にあるというのが僕の考え。

 

 

バカ正直にルールを守るのではなく、その制度を利用したり、場合によっては無視した方が有利になるということは確かにこの社会には数多く存在します。

それはもちろんその通りなのですが、だからといってみんなが万事そんなスタンスでルールに向き合ってしまえばとんでもないことになる。

そうならないためにもルールには正しい効果と理由が必要なわけです。

(僕が学校の訳のわからない校則が嫌いなのもこういう理由)

僕は基本的にルールを利用するタイプの思考が好きな人間ではあるのですが、だからこそこういった観点から今の対策の数々はちょっとまずいのではないかなあと思ったりしています。

 

アイキャッチはルールを利用して勝ちきるスタンスを描いた賭ケグルイ

 

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マーケティングの分析④不都合な真実を公にすることで自社を相対的に持ち上げる無印良品の戦略

自分の商品の価値を説明する時、その方法には①自社サービスの最も強い部分を押し出す絶対評価型と、②他社サービスと比較した強みを押し出す相対評価型があります。

独自の強みを押し出すのが前者、価格や品質など他社と比較して強い部分を押し出すのが後者です。

別にどちらがいいというわけではないと思うのですが、マーケティングという観点でみたとき、創造性があるのは前者、戦略性が高いのが後者であるように思います。

このうち、前者に関してはその商品の独自性やトップのキャラクターが影響する戦略が多く、周囲が参考にしづらい側面があります。

一方で後者のタイプに関しては相対評価であるため、比較的さまざまなものに転用しやすい。

というわけで今回は②の相対評価型のマーケティングについてまとめてみたいと思います。

 

自社のPRで相対的に競合を負かす無印良品戦略

相対評価マーケティングの成功事例として僕の頭に真っ先に浮かんでくるのは、無印良品です。

無印良品は過度な梱包、無駄なモデルチェンジ、派手なプロモーションといった、従来のお店がやりがちな販促方法の全て裏をつく形で市場に現れました。

そして、その無駄のないイメージとリーズナブル(実際にはそうでもないのですが)な値段から、瞬く間に広がっていきます。

僕はこの無印良品がとったマーケティングにかんして、中々エグいものだなあと思っています。

 

確かこれはNewsPicksの対談動画か何かで触れていたことなのですが、無印良品の自社の「無駄な包装、余計なコストをかけていない」というプロモーションの仕方は、結果的に安かろう悪かろうの姿勢やみせかけのパッケージやデコレーションを変えただけで新商品として購買意欲をそそろうとするような従来の小売業界の問題とみてとれるような体質を明らかにするようなものでした。

 

「無駄なデコレーションがあるから値段が上がる、意味のない新商品を作るから環境に悪い。だからうちはシンプルで機能性に特化した商品を作ります」

このメッセージは、裏を返せば視聴者に「従来の小売店は無理やり売りつけるためにこんな悪知恵を用いてました」と言っているようなもの。

つまり、無印良品は自分の商品の魅力の説明を100%ですることで、同時にそれと悟られないように、他者の印象も下げていたわけです。

 

こうした事象はさまざまな場面でみられます。

例えばバーバリーの大量に新品の服を焼却していたことを知らせた広告や、イギリスのボディシャンプーの「私たちは動物実験をしていません」というコピーを用いることで暗に化粧品業界で行われる動物実験の事実とそれによる自社の安全のアピールに成功した企業など。

最近では「環境にやさしい」電気自動車という印象でもって「環境に悪い」ガソリン車を作っているTOYOTAの人気を相対的にかえることとなったテスラの戦略などもそう。

 

僕たちの業界でいえば、「うちは低価格帯で教える個別指導にありがちな学生バイトは一切雇っていません」みたいな文言もそうです。

それを用いることにより、消費者に対してそれとなく、低価格の個別指導は学生バイトなんだというネガティヴな印象を植え付ける事ができるわけです。

 

こうした広報に関して、個人的にはあまり好きではないのですが、すごいなあとおもうところがあります。

それが、直接的に自社のページで悪口を言っているわけではないということです。

言っているのはあくまで普遍的に自社が持つ強みや事実の部分。

だから特定の企業を潰そうというようなものではありません。

しかしむちゃくちゃ戦略が張り巡らされている。

 

今後の社会において、こういうある種したたかなやり方は効果的な場面があるように思います。

というわけで、これは一つ平成の発明のように思ったので紹介させてもらいました。

 

アイキャッチ無印良品大百科

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マーケティングの分析③〜2つの課題を同時に解決するくら寿司のわさび戦略〜

マーケティングの凄さということで書くのであれば、パンテーンゼロ年代に打ち出した「14日間チャレンジ」や、あえてクリスマスはうちを使わなくていいと書いたガストの広告など、記録しておきたいコンテンツはたくさんあるのですが、これらは以前触れた事があるような気がするので今回は後回しに。(あくまで今時点の思考をまとめたいので)

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というわけで今回はくら寿司について触れていきたいと思います。

 

優秀な人間は課題解決を強みに変える

なにかと注目される西野亮廣さん。

映画や絵本、オンラインサロンで注目されがちな芸人さんですが、個人的に彼の最高傑作はハロウィン翌日のゴミ掃除のイベントであると思っています。

当時ハロウィンが盛り上がりを見せていた時、同時に翌日に廃棄されたままになる大量のゴミが問題になっていました。

その時に西野さんが打ったイベントが「ゴミを使ってアートを作ろう」というもの。

ハロウィンの翌朝にゴーストバスターを模した揃いの衣装に身を包み、ゴミを集めて渋谷の清掃をし、集めたゴミを使って一つの作品を作る。

僕はこの一連の設計をマジで面白いなと見ていました。

 

僕がこのイベントをみてすごいと思った一番のポイントは、ゴミを「いらないもの」から「なくてはならないもの」という解釈に転換した部分です。

僕は昔から[事象=事実×印象]と考えているのですが、この西野さんの企画は、「ゴミ問題」という事象を事実(ゴミがある)と印象(迷惑である)と因数分解した上で、印象の方を(なくてはならない)という好意的な要素に転換した事で、(ゴミがある)ということをポップなイベントに仕上げたものだと思うのです。

こういう印象の部分の転換で物事を好転させるあんが僕は大好きです。

 

くら寿司のわさびの戦略

西野さんのゴミアートと同じ戦略を取ったのがくら寿司のわさびです。

現在くら寿司で回ってくる回転寿司には全てわさびが入っていません。

わさびが欲しい人はテーブルに置いてあるものを自分でつけろというスタイル。

ほかの回転寿司でも概ね同じスタイルなので違和感がないかもしれませんが、実は昔はそうではありませんでした。

 

僕の記憶が正しければ、昔の回転寿司はサビ抜きとサビ有りの皿があり、それが同時に回転していました。

わさびが苦手な人はその中からサビ抜きのお皿を取っていた。

このやり方はわさびが苦手な人や子供に配慮した素晴らしい戦略だと思います(確かかっぱ寿司が最初?)。

ただ、反対に全ての商品にサビ抜きとサビありを作っていると考えたら、単純にコストが倍になっていると考えることもできます。

このロスはもったいない。

そう考えた時に最も有効な解決策は、すべてサビ抜きにして欲しい人だけ自分でつけるという方法です。

 

しかし、ただそれを導入して仕舞えば、今までわさびありを楽しんでいた既存ユーザーにとっては一手間増えるということでフラストレーションの発生要因になりかねません。

もちろんそんなこと気にする人がどれほどいるかと言われれば疑問ですが、理論的にはその可能性はある。

そこにきて出てきたのがくら寿司のわさびの提案です。

 

くら寿司のわさびの入れ物には「当店ではわさびの風味を味わってもらうために『あとのせ』という方法を採用しております」というような断り書きが書かれています。

僕はこれが凄いなあと思うのです。

「風味を楽しめる」というのは利用者にとっての価値になります。

と、同時に後の差ならば食品ロスが全て無くなります。

お店側の「サビあり/抜き」というコストを減らしたいという問題を「新鮮な風味を楽しんで欲しい」というポジティブな印象で解決しようとする手法が本当に優秀だと思うのです。

 

印象の転換で課題を解決するという手法

広報やマーケティングの課題解決は、必ずしもお金をかければいいというものではありません。

頭を使って工夫をすれば、案外既存の持ち札で驚きの解決策を生み出す事ができたりします。

それを考えるための手法が[事象=事実×印象]という公式。

渋谷のゴミ問題にしろくら寿司のわさびのお話はまさにこの、印象の部分の転換によって解決した典型例だと思うのです。

他にも身近な例で言えばファミマのワカメご飯とかも(ご飯の色艶の劣化をカモフラージュするために混ぜご飯にしていると同時に消費者には「わかめ飯」という付加価値で値段を上げている)

ある課題を見つけた時、要素分析して事実と印象を分けて、印象の部分に対するアプローチを探るという手法はさまざまなことに役立つように思います。

 

アイキャッチはビジネス臭が漂う前の西野さんが見られるこちら。

 

 

マーケティングの分析②〜岡田斗司夫のコンテンツ再生論〜

SNSの発達により、個人の発信が容易になった昨今。

どの媒体を見ていても、質はもちろんですが、それ以前にとにかく物量が求められる激しい戦いになっているように思います。

最近はピーク時より多少減っているもののYouTubeでいえばTOPどころは毎日配信が当たり前。

クリエイターが増えているために、純粋に数の勝負が激化しているように思います。

 

さて、そんな物量を求められるようになって困るのは、安定してコンテンツを出し続けなければならないという部分です。

いいアイデアや才能を持っていてそれを形にすることと、物量を出し続けるというのは別のスキル。

昨年末、久しぶりにとある会社の広報をさせてもらったのですが、その際はまさにこの「物量」という部分で大きな壁を感じました。

一定の質を担保したコンテンツを大量に作り続けるためのアイデア出しの体制、そしてコンテンツに仕上げるチームの準備。

この辺の仕組みづくりがかなり重要になってくるのかなあと思います。

 

天才岡田斗司夫さんについて

そんなことを考える中でひとつなるほどと思うやり方を提案していた人がいました。

それが岡田斗司夫さんです。

岡田さんは僕が22歳の時に知り、そこから3年間くらい徹底的に真似させてもらったくらいに個人的に影響を受けた人物です。

現在の評価経済的なことを既に90年代には語り実践し、オンラインサロンの先駆けとなる仕組みはゼロ年代に作って機能させていた。

全く出世欲がないような人なので(僕は彼を見て競争心みたいなものを捨てました)こう言った仕組みの先駆者として名が表に出ることは少ない方ですが、間違いなく時流を読む力に長けた天才だと思います。

そんな岡田斗司夫さんが1年くらい前に堀江貴文さんとの対談で話したコンテンツ作成の戦略が見事だったので、今回はそれについてまとめてみました。

 

コンテンツの再利用という考え方

岡田斗司夫さんはYouTubeで7年、ニコニコ動画を含めれば10年以上動画を配信し続けています。

ただしそれらは週一回の講義形式で殆どが1時間近く(初期はもっと長い)のものばかり。

今いるYouTuberのセオリーとは少し違うスタンスをとっていました。

それがこの一年、毎日配信をするようになったのです。

このやり方が非常に面白いものなのです。

 

岡田斗司夫さんは毎日更新をするにあたって、「アップグレード」というシステムを考案しました。

彼はもう10年以上コンテンツを作り続けており、しかもそれらは時事ネタに触れたものや日常の雑談ではなく、映画やマンガの考察や社会事象の分析がほとんど。

そのため、今見返しても十分にコンテンツとしての価値があります。

岡田さんはそれを利用して、かつて自分が発信した動画を短く編集して、しかもその冒頭と終わりに現在の自分のコメントを挟むことで新たなコンテンツにするという「アップグレード動画」という手法を思いついたのです。

 

岡田さんの理論は次のようなもの。

・自分のコンテンツは流行の影響を受けづらい

・したがって今でもみたい人はいる

・しかし昔からのコンテンツに検索でたどり着いてもらうことは難しい

・だったらそれを発見されやすいように新たなコンテンツとしてリメイクすることに価値がある

こうして毎日配信が可能なアップグレード動画という仕組みを作ったようです。

 

岡田さんのコンテンツは毎回深い思考だけでなく図解や時に模型を用いた解説など、とにかく準備に時間がかかっています。

それを毎日作るのは物理的に不可能です。

しかしアップグレード動画であれば、本編部分は既にできています。

そこに自分の解説を乗せるだけならそれほど手間はかかりません。

長いことコンテンツを作り続けている人だからこそできる面白い戦略だと思います。

 

 

現在岡田さんはこのやり方を使って、毎日配信を可能にし、かつ今まで通り週一の生配信を続けることで新たなコンテンツを作り続けています。

アップグレードという岡田斗司夫さんのコンテンツの作り方は新規の方が真似できるものではありませんが、大量にコンテンツを作らなければならない人にとってはひとつ大きな参考になるものだと思うのです。

 

僕はコンテンツをフローとストックに分けた時、SNS時代のコンテンツはフローの色合いが濃いように思っています。

つまり一度消費されたら忘れられてしまい、そこに再び注目が当たりづらい。

だからこそ自ら「再利用」して再び注目を浴びるようにするという戦略は今のSNS主流の時代のマーケティングとしてとても面白い戦略であるように思うのです。

 

アイキャッチは岡田さんの天才性が最も出ているこの本。

90年代に書かれた本ですが、現在の社会を驚くべき精度で言い当てています(笑)

 

 

「子役」として見るゆだぽんと芦田愛菜の戦略

僕が教育業界にいるからなのかもしれませんが、たびたび見かける学校に行かない系YouTuberのゆだぼんさん。

僕のSNSのTLに流れてくるのは、彼の行動への賛否が多いのですが、正直僕はそこに興味がありません(笑)

子どもの決定は子どもの自由なのだから、どう転ぼうがいいんじゃない?というのが率直な感想。

というか、もうちょっといえば僕の中でゆだぼんさんはYouTube初の子役なので、「メディアで我が子を活躍させたい熱心な親御さん」というお父さんが主役のイメージ。

だから「中学生ゆだぽん」が彼が何をしているか?というよりは「天才子役ゆだぽん」が何を演じているか?という視点で見ています。

ドキュメンタリーではなく良質なドラマというカテゴリ。

なので、僕がゆだぼんさんに関して感じることは教育的にどうというのとは少し違うところにあったりします。

 

「子役」としてマーケティング戦略

というわけで、ここからはあくまで「子役」ゆだぼんさんについて考えていきたいと思います。

(全くの他人の家の教育に口出す権利も義理もないというのと、何よりそこに僕の興味はありません)

まず、YouTubeを主戦場とした子役としてのポジショニングとしてはゆだぼんさんは非常にうまいポジションを取ったように思います。

おそらく全国に「学校が嫌」という層は少なからずいるはずです。

そして「自由に生きたい」あるいは「子供には自由に生きてほしい」と思う人はそれ以上に。

それまでの「若さ」を売りにしたYouTubeコンテンツは「たった○○歳で××を達成」という、通常その年齢では到達し得ない超絶技巧を若くして身につけたという珍しさをフックにしたものがほとんどでした。

これらはコンテンツ的に広がりがないのと、何より「最年少」こそが差別化の要であるため、寿命が長くありません。

そこにきてゆだぼんさんは同じ「若さ」を売りにしているとはいえ、①特定のコンテンツに依存したものではないことと、②「最年少」という冠が重要ではないため商品としての寿命が他のそれと比べて格段に長いといえます。

その意味でとても優秀だなあと思うわけです。

そんなわけで、僕の中で周囲の強豪と比べてゆだぼんさんを子役として成功させたお父様の戦略は凄いなという印象です。

 

子役としての賞味期限

というわけで、現時点のゆだぼんさんの成功に関する感想としては、個人的にはマーケティングの観点から凄いの一点なわけですが、同時に義務教育への反発という、「子どもだから使えるコンテンツ」を失ったときにどういくのかが気になります。

主力コンテンツを作り得ていた環境はその年ならではのものな訳なので、「無理やり与えられた同調圧力に反発する」というキャラ設定は中学卒業とともにできなくなるわけです。

 

もちろん、それまでにファンを作り次のステージに進むという戦略などは想定されているでしょう。

しかし、ほかの数多の子役がそうはならなかったように、若さのレバレッジがあるからこそ生きたキャラ設定を捨てて、次のステージにステップアップするのは容易ではないように思うのです。

その辺も僕は彼に注目している理由だったりします。

 

「子役」からの脱皮に成功した芦田愛菜さんの凄さ

そんなわけで、僕は子役上がりの人の将来に関してはなかなか難しいものがあるように思っています。

極めてざっくりとした分類であることは自覚しつつも、僕が考えるもともと子役だった人が将来芸能界で活躍するパターンとしては安達祐実さんや内山信二さんのような①永遠の子役タイプか、その他大勢のかつての知名度を利用した②貯蓄切り崩し型の2パターン。

(例外的に坂上忍さんのような大器晩成型もあるかもしれません)

どちらも活躍の手段としてはいいと思うのですが、①には絶大な支持と永遠の愛嬌、②には子役時点の絶大な人気が必要であるように思うのです。

つまり「子役」で売れた人が、子役以外のブランドに鞍替えするのは難しいわけです。

 

こうした中で、子役からの転換を成功させた人が1人います。

それが芦田愛菜さんです。

彼女は天才子役として活躍した後、2年間の芸能活動停止の後、難関校に進学しています。

そして再び芸能活動をしている。

僕はこれを完全な子役からの脱皮のパターンであるように思っています。

別に受験勉強を頑張ったとか、普通の人と同じ道を進んだとかそういう話ではなく、子役特有の「かわいい」というイメージから、「才女」というイメージへの転換を完璧にしてのけたからです。

おそらく僕を含め、多くの視聴者にとっての芦田愛菜さんは「かつての子役」ではなく「賢い女優」という印象なのではないでしょうか?

このブランド転換は容易ではありません。

これが子役として名を馳せた人がずっと活躍し続けるための王道であるように僕は思います。

 

 

さて、そう考えた時にゆだぼんさんはどういった戦略をとるのか。

正直僕にはどの選択をするのかは見えません。

彼は新しい媒体に出てきたニュースター的な子役なので、もしかしたら今後の展望も僕らが思いもしないものがあるのかもしれません。

そういう意味でとても興味があるゆだぼんさん。

個人的には3年後からのマーケティング戦略がとても楽しみだったりします。

 

 

まなの本棚

まなの本棚

 

 

 

転換点をリアルタイムで記録するという価値

最近めっきり更新頻度が落ちていた僕のブログですが、久しぶりに再開しようかなと思ったりしています。

しかもブログを始めた頃と同じく自治的な話を中心に。

ここ数年は自分が考えたロジックや歌詞考察、勉強解説などを中心に書いていたのですが、もともとは時事問題について自分なりの解釈をまとめるためにつかっていました。

この「薄口コラム」というブログ名も、僕が時事問題を見てこうだろうなと思うことをまとめているので辛口ではなく「薄口」で解説という意味で名付けたもの。

その当時のブログコンセプトに(一時的かもしれませんが)戻ろうかなと。

 

久しぶりにブログを書こうと思った背景には僕なりの意図があります。

現在、コロナ、五輪など大きなところから、僕が足を突っ込んでいる教育という場でいけば共通テストやカリキュラムの変更、また大きな枠組みでいけばテクノロジーの進化など、様々な分野で非常に大きなことが起きているように思います。

その種々の出来事は10年後に振り返った時、きっと僕たちにとって大変大きな影響をもたらした「何か」になっていると思うのです。

それらは事実としての情報はたくさん残るでしょう。

そしてその時点から振り返り、様々な解釈は判断を下していることでしょう。

しかしその事件のまさに真っ只中で僕たちは何を考え、どう向き合い、どうやって乗り切ってきたかというリアルタイムの苦戦や足掻きみたいなものは、どんどん風化してしまうように思います。

転換点の真っ只中にいる自分がこの先どうなるか分からない中でどのような思考をし、どういう判断を下して行動したのか?

そのパターンそのものの記録には、後から振り返った時に何かしらの価値があるように思うのです。

というわけで久しぶりにブログを本腰入れて再開しようと思っています(どれだけ続くかわかりませんが)。

内容的にもここ数年のものとは少し毛色が違うものになるかと思いますが、よかったら今後ともお付き合い下さい。

原因と解決策は必ずしも一致しない

雨の日に雨漏りがあるとして、降っている雨に文句を言っても仕方がない。

これは僕が結構大切にしている考え方だったりします。

明らかに根本的な原因はAにあるのだけれど、そのAはアンコントローラブルなとき、そこにいくら文句を言ったところで事態は好転しないよねというようなニュアンスで使っています。

例えば仕事でそもそも納期自体に無理があるのは明らかだけれどそこに文句を言ったところで納期が変わるわけではないとか、東京の地価の高さが家賃の高騰の根本原因だからといって地価を下げろと言っても意味がないとか。

こんな風に原因の所在は明らかでも、それを指摘したところで何の改善にもならないということは、僕たちの日常には溢れています。

コロナの諸政策についても、僕の中では完全にこのカテゴリです。

 

コロナ関連の一連のパニックや非合理的な行動に対して、「もっと理性的になれ」、「数字を見ろ」みたいな主張をしばしば見かけます。

もちろんそれはその通りなのです(僕も自身の振る舞いに関しては完全にそちら寄りなので言わんとすることはわかります)

ただ、じゃあその主張が「正しい」からと言って、現状の社会を混乱から救うかと言えば、必ずしもそうではないと思うのです。

 

たとえば長く付き合っていた恋人(こちらはまだまだ大好き)から、①あなたは私の全恋愛対象のうちの15206目でした。②そしてこの度15205番目相当の男性と出会ったのです。③というわけで15206番目のあなたではなく15205番目の彼と付き合います。

こんなふうに言われたらどうでしょう?

恐らく、「わかりました!それは合理的に正しいから私が身を引きましょう」と快くその場を去ってくれる人はいないと思うんです(笑)

仮に合理的には正しくても、人はそれを必ずしも選択するとは限らない。

そんなことは経済学でも研究されていますし、また先の例よろしく、わざわざ特別な理論を持ち出さずとも納得できることだと思うのです。

 

僕の中でコロナに対して感情優位でヒステリックになっている人は同じカテゴリです。

「あんなバカがいるのか」というよりは、「僕も状況次第で同じような行動を選択するのだから、あの姿は将来の自分である」とビビる方が多かったりします。

たしかにコロナに関しては長期的には感染拡大以外のさまざまな観点から冷静な行いを選択肢しなければなりません。

しかし、だからといって、「この事象」に関しては「たまたま」「冷静な」判断を下すことができているだけの人が、「たまたま」「その事象」に対して「盲目的」になっている人をバカにしたら皮肉を言ったりするのが正しいかと言えば、決してそんなことはないと思うのです。

むしろそういう姿を見た時は、バカにするのではなくて自分もそういう振る舞いをするシチュエーションがあるだろうなということに思いを馳せるべきなのかなと思ったりする今日この頃。

コロナに対する過剰な忌避感からの他人の排斥はたしかにいかがなものだろうとは思うのですが、僕にはそれと同じくらいコロナをきっかけに非合理的な人を過剰なくらいバカにする"理性派"層もどうなのかなあと思います。

 

困難を前にして、ある事象Aに対する賛成派も反対派も「自分の信じる正解」だけが正しいと思ってしまいがちな今だからこそ、他の主張を受け入れる余裕が大事なんじゃないかなと思う今日この頃。

 

アイキャッチパーミッションマーケティング

 

パーミッション・マーケティング

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