新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



これからの世界で「差異」をどこに生み出すか?

変化の多いこの時期を過ごす等身大の自分の思考を記録しておきたいなんていいながら、仕事に忙殺されて絶賛更新滞り中のこのブログですが、ほんの少しでもいいので更新しようかと思います…

 

ヴェニスの商人に学ぶ価値の捉え方

先日授業準備で岩井克人さんの『21世紀の資本主義論』を読み直しました。

そのときに自分の頭をよぎったアイデアがあるので、今回はそれを備忘録としてまとめておこうと思います。

岩井さんが『21世紀の資本主義論』で唱えていたのは、仮に世界を重商主義、旧来的な産業資本主義、最近(ゼロ年代)産業資本主義と区分したとき、一見価値の源泉は変わっているように見えても、根っこには常に「差異」による価値の創出以外にないというもの。

ある土地で安価に仕入れたものを高価に取引される別の場所に持っていく重商主義の時代や、情報そのものの差異を商品にしだした最近の産業資本主義はもちろん、実は一見人間の労働が価値の源泉であったように思われる旧来の産業資本主義の時代においても、実は農村部の豊富や余剰労働力と都市部の労働という構造によって成立した労働生産性と実質賃金率の「差異」が価値の源泉なのではないかというのが岩井さんの主張。

 

SNS時代の「ヴェニスの商人」はどこにいる?

当然岩井さんのこの主張に対して、様々な立場の意見はあると思いますが、仮にこの前提に立って現在を分析すると面白いんじゃないかというのが僕の考えたことです。

岩井さんがこの本を出版したのは2006年。

インターネットは普及してきていたとはいえ、SNSはおろかスマートフォンもまだ普及していない時代です。

(僕の記憶が正しければフラッシュ素材があふれていて、Youtubeにあがるコンテンツといえば違法アップ動画が主流といった感じのとき(だったはず…)

岩井さんは現在のようにSNSが発達した世界を想定して述べたものではないはずです。

であるならば、「差異」という観点からSNSが広がった社会をみるのも面白いんじゃないかなと思うわけです。

 

SNS前半の「差異」について

ITおよびSNSが普及したことにより、僕たちは物理的制約から大きく解き放たれました。

また、ITの性質上、情報の差異もそれまでと比べれば作りづらくなったといえます。(いいか悪いかは別として、たとえば、現代であれば見たい映画や漫画があったとき、もちろん手間はかかりますが、やろうと思えば僕たちはネットを介してそうした情報に無料でアクセスすることができます。)

こうした環境下では、地理的差異も、農村-都市部の差異も、情報の差異も生まれづらくなっていると思うのです。

 

さて、上記のように考えるとしたら差異はどこに生まれるのか?

これに関してはSNSが爆発的に普及したゼロ年代前半と後半で異なるのではないかと思っています。

前半に関しては僕の考える価値の源泉である「差異」は「速さ」です。

10年代前半のSNS黎明期には、質やオリジナリティ以上に、速さが重視されていたように感じます。

情報にアクセスできる人間とそうでない人で、それにたどり着くまでには大きな時間の差があります。

その差を利用した価値生成が十年代前半の価値の生み出し方だったのかなと思います。

 

こうした速さによる差別化も、さらなるSNSの発達により誰もが情報発信をできる時代になり、次第に「差異」を生み出しづらくなりつつあります。

こうした中で今の「差異」の創出要因、そしてその先の「差異」はどこから生まれるのか。

僕はこれに関して、現代は「経験による差異」、そしてそれも飽和状態となった先には「注目による差異」あたりがくるのかなあと思っています。

「経験による差異」は一般に「キャラ」と呼ばれるものかもしれません。

速さが差別化要因にならなくなると、次に注目されるのは話し手の個性というのが僕の仮説。

その個性は個人の経験によるものだと思うのです。

たとえば、同じ主張の紹介であっても、その説明に用いる例は異なります。

そして、その部分に出てくるのがその人の経験や個性。

こういった部分の蓄積が今価値の源泉になりつつあるのかなあと思っています。

 

ヴェニスの承認の行き先は?

さらにそれが進むと、キャラクターや経験も飽和状態になります。(というか、無限にそれが増えたとき、人はそれらの中から個性を選択するのもいやになるという印象)

こうなったときに次の判断基準として生まれるのはその人のもつフォロワー(≒注目)の量。

注目が集まる人のもとに、情報や個性的な経験を得た人が集まる。

結果、注目を集める人のもとに「その人しか集められない」面白い情報やコンテンツが集まって、それが差異として価値になる。

こんな風になるのがこの先の差異なんじゃないかなというのが僕の漠然とした予想だったりします。

 

 

そもそも差異が価値の源泉であるのかという疑問もあるかもしれませんし、僕が書いた「差異」の源泉が的外れだと思う人もいるかもしれません(この部分は自分で重々承知です)。

ただ、あくまで僕の備忘録ということで広い心で見ていただけたら幸いです。

ITは良くも悪くも僕たちの生活を大きく変えます。

それが広がった先を、主張や希望や批判なく、ただ事象の広がった先の世界を想像できたらなんてなんて思っています。

 

アイキャッチはもちろん岩井克人さん

 

コロナにまつわる形而上の不安に僕たちはどう向き合うか?

僕の中でこのブログを再開したときのコンセプトのひとつに、その時代を当事者として経験した空気を記録したいというものがありました。

10年後に振り返った時のネタ探しみたいなイメージ。

その意味ではコロナについては絶対に今時点の思考を残しておきたいなと。

そういうわけで、僕のコロナに関する一連の考えを「保存」しておきたいと思います。

 

コロナに対する僕のスタンス

僕のコロナに関する見方は一貫して①項数や未知数が多い分野で独自の統計分析は行わず、②専門家の予測は信じつつ主張は参考にし、③事象理性派も慌てふためく人たちも邪険に思わないし見下さないっていうもの。
それ以上でもそれ以下でもない。

これはコロナが広がって以降定期的に僕がTwitterで呟いている言葉なのですが、僕の基本姿勢は2020年のゴールデンウィーク明けくらいからずっとこれだったりします。

当初、それこそ志村けんさんが亡くなる辺りまではコロナは自然科学と統計データに基づいて理性的に対処すべき問題という見方だったのですが、途中からは「あっ、コロナが世界に巻き起こしている混乱は"自然科学的な問題"ではないな」と。

僕のこの直感がある程度体感値として確信に変わったのは去年の9月ごろ。

その辺りからは明らかにコロナの陽性者が出た際に「どこまでが対処の範囲になるか」の方に意識が向くようになったと思うのです。

自分自身が罹患する割合はそれ程高くなく、また重症化の割合も数値的には大きく無い。

でも、もし自分が陽性者になったら周囲の活動に大きく影響を与えてしまう。

コロナに対する人々の本当の不安は実はこちらにあるんじゃないかというのが、ここ一年の僕の視点でした。

 

そして、この不安に関してはデータや科学の話をしても取り除けないだろうなと。

だから自分の振る舞いはともかく、そういう責任を追うが故に不安に押しつぶされそうになる人に正論を押し付けるのはやめようと考えるようになりました。

というわけで、僕のコロナに対する視点は「人という個体としては感染者それ自体としては極端に恐れるものではないが、社会システムに対してはとんでもなく影響がでかいウィルス」というものです。

当然さまざまな見方があるでしょうが、ここではひとまず僕の考え方を述べました。

 

コロナに対する3つの不安

僕はコロナに関して生じる不安は次の3つの積からなっていると考えています。

①かかった際に自分の行動を振り返った時の後悔

②社会的繋がりに与える影響に対する申し訳なさ

③万が一重症化するかもしれない身体への将来の恐怖

 

①は病状が出た時点で感じる不安です。

直接特定の行動が関係しているかは分かりませんが、仮にコロナのような症状がでて、潜伏期間の限度と言われる14日の自身の行動を振り返れば、「もしかしたらアレが...」と思うような行動を一つもしていないと断言できる人はほとんどいないように思うのです。

どうしたって自分の行動の中からそれらしい理由を見つけてしまう。

この不安が一つ目。

 

②は実生活で関わる人たちに与える影響の大きさに対する不安です。

よほど極端な例を除けば、僕たちは人と全く繋がりを結ばずに生活をしていることは稀です。

特に責任を負っている人ほど人とのつながりは大きくなる。

そういう人がコロナにかかると、接触した各方面にPCR検査のお願いや場合によっては一時休業や隔離措置といった影響を与えることになります。

しかも厄介なのはそれが大きく、大切な繋がりほどそうした影響を与える可能性が強くなる。

極端なはなし、山奥に一人こもって暮らす仙人のような人と、妻と子を育て両親の介護もして毎月の資金繰りをなんとかしながら30人くらいの社員を雇っている中小企業のおっちゃん経営者とでは、②の次元におけるコロナにかかることの意味はまるで違うわけです。

これが二つ目の不安。

 

そして最後が③の身体に対する不安です。

コロナにかかった場合にどこに行けばいいのか、病床は空いているのか、これから悪化しないかなどなど、自分がもしかしたら死ぬかもしれないという不安。

①〜③の中ではこれが最も分かりやすいように思います。

これに関しては自身の年齢や生活習慣、基礎疾患等等で不安の度合いは変わります。

 

というわけで、僕たちがコロナに関して抱く漠然とした不安感はこの①〜③の積からなるというのが僕の考えです。

例えば、もし仮に大型ロックフェスにこっそり参加したオーバーワークの保育士(喫煙者)がいたとして、その人が1週間以内にコロナの症状が出た場合、感じる不安感はとんでもない大きさになると思うのです。

逆にフルリモートで働く若い独身男性(飲酒喫煙なし)とかだったら①〜③のいずれの不安も最小限に済むため、前者と比べると相対的に不安は小さくなるはずです。

 

形而上学的な不安にどうやって向き合うか

というわけで、僕が考えるコロナへの対応の難しさは、ウィルスの特性から①②の不安のコストがバカ高いという部分にあります。

③の要素から全数調査的にいくら危険性の小ささを説明したところで、誰も不安感を解消できないよねと。

だって、僕たちが抱える不安の中心もう、そういった計測上の不安ではなく、形而上学的な不安に移行しつつあるのだから。

 

もちろんここで、「いやっ、だからこそ数値に基づいて理性的に行動するべきだ」と啓蒙する事が大切だという主張が出てくることも分かります。

でも、その主張をする人は実は理性的に振る舞えているのではなく、そもそも②が限りなくゼロに近いというだけなんじゃないかと思うのです。

②の責任を何も背負っていなければ、たしかに不安の中心は③になるでしょう。

しかしそれは合理的、冷静に振る舞えるから③に視点をおけているのではなく、②という背負う責任が極端に少ないために他の人が感じる不安を考慮に入れる必要がないだけなのです。

 

僕もどちらかといえばそちらのポジションにいます(まあ仕事柄対面もあるのでゼロとは言いませんが)

だからこそ、偶然②で背負う責任が少ない僕たちが、その恩恵でもってできている行動様式を「理性的」だと言い換えて③な観点から他者を見下すのはやめようよと言うのが先に書いた僕のスタンスの原点だったりします。

 

形而上学的な不安を受け入れるために

先の節で、僕は形而上学的な不安に「向き合う」と書きました。

「解決」ではなく「向き合う」

上に挙げた要素を考えた時、どこまで行っても僕らがコロナに対して抱く形而上学的な不安は取り除くことができません。

解消手段が無いのであれば「向き合う」ことで不安の値を少しでも減らすしか無いわけです。

そのために不安を減らすためにできることは、発症した時に①の不安を最小限に抑えられるように、ある程度自制した行動を心がけ、②のリスクが最大限減らせるように予め準備をしておき、その上で罹患率や割合といった客観的データを知っておくという事くらいしか僕らにできる事はないように思います。

と同時にストレスを解消する手立ても重要です。

個人的にはこちらの方が対応をしやすい印象。

 

でも、耐えられないとしても、結局あまりできることはないのです。ワクチンや特効薬の開発はまだ先のことだし、それで完全なわけでもない。だとすれば、ぼくたちは、自分や周囲が1%に入らないことを祈りながら、運よく残り99%になったときの責任を果たしていくほかない。社会を守っていくほかない。

これは東浩紀さんが2020/04/06にTwitterでつぶやいたものなのですが、まさに僕もこれだなあと思っています。

具体的な解決策はないけれど、その中でなんとかやっていく。

そして科学や理性で克服できると驕らない。

その辺を受け入れられるかどうかが、コロナを乗り切れるかどうかの分かれ道であるのでは?というのが、現時点の僕の考え。

10年後に振り返ってそれが妥当であったかどうかを答え合わせしてみたいと思います。

 

アイキャッチブラックスワン

 

 

過去の感心を書き留めておくことの本当の価値

大鏡の大宅世継ではないですが、僕はしばしば現代に起こる出来事を未来のために記しておこうみたいな視点で世の中を見たりしています。

さまざまな時代の変革があるタイミングで必要なのは現状批判でも未来予測でもなく、ただただ事実の記述だなあと。

そんな風に思うので、僕はあえて激動の変化と共に忘れ去られてしまいそうなマーケティングの事例をここに書き留めておこうと思います。

 

という事で記念すべき第一弾はゴールデンボンバーさん。

そもそもヒットのきっかけもビジュアル系エアバンドだったり、音楽の世界にお笑いを持ち込んだりという事でマーケティングセンスがバリバリに光るグループではあるのですが、やはりマーケティングの戦略という観点から見た時に最大の功績と言えるのは「令和」という曲のプロモーションであったように思います。

 

数年前、年号が変わった日。

そのわずか数時間後にはレコーディングとmvを仕上げて、新曲「令和」を発表しました。

PVを見る感じ、予め新元号のフレーズ以外の歌詞の収録と全ての撮影は済ませており、その場面だけの撮影をする事で実現した戦略であるように思います。

実際に音楽を聴いてみても、新元号の「令和」が含まれるのはサビの冒頭部分だけ。

小節とメロディから考えれば2〜6文字なら(6文字ならギリ)対応できる構成です。

つまり、この曲は時代の変わり目を指すというコンセプトのもとに作成された曲ということができます。

 

案の定この曲はネットニュースやSNSで頻繁に取り上げられ、夕方以降のテレビでも紹介さらました。

全マーケッターが羨ましがったんじゃないかと思うくらいに秀逸な企画です。

 

しかもゴールデンボンバーはこの曲を引っ提げて年末のレコード大賞に出演するわけですが、そこでもトップバッターとして、"トップバッター"ならではの活躍をみせます。

それが、歌に合わせてそれぞれの出演アーティストに書道入りの額縁(菅さんが令和を発表した時のモチーフ)を自身の演奏中に配り、大サビの部分でそこに書かれた各組の特徴を示してあり、アーティスト紹介を兼ねているという演出。

自身の楽曲の特性を活かし、他者を紹介するなんてほうほう、僕はゴールデンボンバー以上のものを見たことがありません。

おかげでその後の場の空気がどことやく和らいでいるように感じた事を思い出します。

 

そんなわけでずば抜けたマーケティングセンスを持つゴールデンボンバー

時代の変わり目だからこその戦略ももしかしたら少なくないかもしれませんが、さまざまな気づきがあるチームだと思っています。

 

 

 

 

ダメを知ることで視野を広げる

未来を予測するのに必要なこと

 

未来予測に関する精度を上げるには歴史を知ることが不可欠です。

これまでの自然の流れ、人類の営み、そして発展と失敗を知っているからこそ、目の前の出来事に対して一定の仮説を持つことができる。

しばしば歴史を学ぶ意味は未来を知るためだという意見を聞きますが、個人的にはその考えに同意です。

僕は過去未来を問わずその視点は高さが大事だと思っていて、過去をより遠くまで、そしてより解像度が高く見える視野がある人は、反対側にある未来もそれだけの範囲で見られるように思います。

 

Googleは翻訳ソフトの精度を上げるために、正解の表現や言い回しではなく、間違いのパターンを集めたためにGoogle翻訳の脅威的な精度向上を達成しました。

これまでの「正しい知識を吸収する」というスタイルから、間違いのパターンを集めるという方針で活路を開いたGoogle

 

僕はここ最近、「目的」の反対に長期的な差別化戦略の活路があるのではないかと考えて、その研究をしています。

 

「まずい料理は作れるか?」問題について

学生時代に何らかのインタビューを読んで、未だに記憶に残っているものがあります。

それが、この節のタイトルにした「まずい料理は作れるか?」という問いです。

確かこれは料理研究家の方が言っていた言葉で、要約すると以下のような内容でした。

私たち専門家は「美味しい料理」の研究はするし、学校でも「美味しい料理」の知識を教わるばかりで、その反対はやらない。そしてもし「万人がマズいと思える料理」を追究するのも、経験が多く得られるのではないか。

 

当時これを聞いた時は「へぇ」くらいの印象だった(メモに取る程度なので興味は初めからあったのかもしれません)のですが、ここ最近、この視点って凄い大事なんじゃないかなと思い始めています。

具体的にはSNSのコンテンツ作りについて。

特にここ数年、SNSでの発信のハードルが下がり、無限にコンテンツが流れるようになったことで、分析の幅が急激に拡大したように思うのです(にもかかわらずほとんどの人は上位数%だけを見ている)

 

正規分布型コンテンツの未来の観測法

参入障壁が低いということは、その分だけ誰もが参加することができ、それゆえコンテンツの質にはバラツキが生じます。

僕の仮説は、そのバラツキは参入障壁が低いほどにベルカーブ(正規分布)に近づくというもの。

もちろん人々の目に映るのはそのベルカーブの右端のコンマ数パーセントである超優秀コンテンツです。

ただ、その反対を見てみると、そのくらいのパーセンテージで拒否されている超有害コンテンツがあると思うのです。

 

こうした前提に立って僕が考えたのは、「みんな超優良コンテンツの後追い(≒コバンザメ戦略)をしているからこそ、違う系統のコンテンツを産むには反対に位置する超有害コンテンツへの造詣を深めるべきだと思ったわけです。

クソコンテンツがクソである理由を言語化できたとき、ついにあるコンテンツの価値を言語化できるのではないか?

そして、そういったアプローチからSNSの広報やマーケティング分野に向き合っている人はいないのではないか?

そんな、半分戦略で半分趣味みたいな感じでやっている今の趣味が、クソコンテンツ探しと、クソコンテンツ作り(笑)

1日あたりのアップ量がしんどすぎて心が折れかけになりつつも頑張っています。

反対面を知った時点で自分の最大の武器をコンテンツ化しようという5年計画のまっ最中なう。だったりします。

 

アイキャッチハインラインの「月は無慈悲な夜の女王

 

 

ネットの過渡期の先を見据えたマーケティング

最近数字が伸びるだけのクソコンテンツにハマっています(笑)

不倫や不適切発言で炎上した人がいたら「○○の妹です」と言って出てきたり、とにかくアクセス稼ぎのためだけに嘘で固めたニュースを発信したり、発売前のマンガの違法アップロード(の風を装った文字だけのページ)だったりetc...

こうした、誰の役にも立たない(どころか害をなす可能性さえある)コンテンツって、社会の意向期を見る上で非常に面白いコンテンツだと思うのです。

 

過渡期としての「ずる」さ

僕はあらゆるコミュニティ的なものが次のような順を追って発生から衰退までを辿ると考えています。

無法状態の場所に秩序が生まれ

②そこに集まる人が登場してコミュニケーションが発生し

③それが大きくなると利益を生むようになり

④そのことが認知されると参加者が爆発的に増え

⑤そこに一定の秩序と安定がもたらされ

既得権益と格差ができて

⑦システムは衰退へと向かう

インターネットに関して、僕の中では④と⑤の過渡期にあるというのが僕の考え。

で、④から⑤への移行期に何が起こるかというと、それが「ズル」の横行です。

 

「ズル」とは決してルールを破っているわけではないけれど、その使い方はしちゃいけないよねというシステムの穴を突いたり、自分1人の得のために他者を搾取したり、全体の活動にフリーライドしたりする状態。

いわばシステムハック型の利潤の手に仕方です。

僕はあらゆるシステムが、こうしたシステムハックに晒されて、それを問題視するようになり、さまざまなルールのアップグレードがなされ、その結果「正直者が得をする」安定した状態に到達すると思っています。

んで、これがまさに④→⑤への移行期の話。

 

本当にいいものが広がる社会で先行者利益を得るための「ズル」の研究

 

さて、僕の今の認識としては④→⑤への移行期である今はシステムハック型のコンテンツを作る人が大手を振って利益を貪っている状態です。

「ズル」した方がいい状態で正攻法で戦うのは得策ではありません。

しかし、一旦ここを通り過ぎれば本当にいいものが広がるフェーズが待っているはず。

その時に適切なマーケティングができる知見を個人レベルでは誰よりも備えておこうというのが、僕のこの5年の長期戦略だったりします。

 

広報でもマーケティングでもいいですが、今それらをしようと思う時、僕たちはどうしても「システムハック+コンテンツの質」で打ち出す手を考えなければいけません。

で、この思考に凝り固まってしまうと、長期的に「システムハックが意味をなさなくなった未来」の打ち手がブレるように思うのです。

(ちょうど検索エンジンの変化でブログの上位下位が大きく変わった時のように。)

そうならないために、というか、そうなった世界で最も効果的なポジションにいられるようにするために、今興味があるのが徹底的にシステムハックに振ったクソコンテンツの研究なのです。

 

次のフェーズになった時の手札を増やすという戦い方

そんなわけで、僕は今、次の社会になった時に1番戦いが上手くいくための動画集めをかなり意識的に行っています。

たとえば、今のシステムハック的要素が多いネット空間では競り負けてしまうから今は勝負できないけれど、将来コンテンツとしての資産価値を帯びるであろうコンテンツを着々と作っていたり。

将来の技術を見据えたコンテンツのタネを仕込んでいたり。

「時間」という絶対的な壁で守られたコンテンツを未来から逆算して作ったり。

 

本当に質の高いコンテンツ作り、次のフェーズに移行した時に役立つ戦略の仕掛け作りが車輪の右側だとしたら、徹底的にシステムハックに振り切ったコンテンツの研究は僕の中でその車輪の左側だったりします。

10年20年スパンで物事を分析して、SF的な視点から「その技術が広がった世界で僕たちはどう振る舞うのか?」を考えれば、ネット空間はまだまだできたばかり。

ここを過渡期と捉えて脆弱性と、その先に生まれるルールに対するクリアな視座がもっとも重要であると思っています。

 

アイキャッチは徹底した合理主義の行き着く世界を描いたこの作品。

未来の世界を見据える時にはSFが効果的。

 

 

新入社員と仕事がしんどい人の行動戦略

僕たちは何をもって「幸せ」を感じるか?

橘玲さんによると、自分の幸せの要素を言語化すれば僕たちには①金融資産、②人的資本、③社会資本の3つがあるそうです。

①の金融資産とは年金や株、土地や不動産といった、持っていることでお金を生み出す資産のこと。

②は僕たちの労働力で、自分が働くことによって生活に必要なお金を稼ぐ力を表します。

最後の③にある社会資本とは所属するコミュニティや周囲の友達、要するに周囲との「つながり」のこと考えていいでしょう。

僕たちはこうした資本を組み合わせで持っていることによって、幸せを感じ、すべてを失ったときに、どうしようもない絶望の状態(橘さんの言葉でいうところの貧困)に陥ります。

今回は、この前提に立って考えたときに、現在仕事がしんどいと感じている人であったり、新卒の人がまずとるべき行動戦略について考えていきたいと思います。

 

絶望状態が起こる仕組み

さて、橘玲さんの前提に立てば、僕たちが幸せな生活を送るためには金融資産、人的資本、社会資本のうちの2つ以上がそろう状態を理想状態と設定し、3要素のうちの一つが保障された安定状態を維持しつつ、3要素すべてが枯渇する「貧困状態」を避けるというのが基本的な行動戦略になってくるということができます。

たとえば年金暮らしの孤独なお年寄りが年金を取り上げられたら、たとえば仕事が全てだったビジネスマンが急な部署移動で「追い出し部屋」に左遷されたら、たとえば地域のヤンキー仲間にあらぬ濡れ衣を着せられてそのコミュニティを追放されてしまったら…

僕たちは、幸せの所在を上記の一点に求めたとき、急激に意思決定の自由度が絞られてしまいます。

そうならないように、基本的には①~③の幸福の源泉のうち、2つ以上を持っておく必要があります。

この、突発的な事故で幸福の源泉を失った場合にそなえたリスクヘッジが①~③の二つ以上を有するという戦略であり、その状態を僕は安定状態と考えます。

 

新卒と仕事がつらい人がとるべき生存戦略

さて、人の幸せを構成する要素には①金融資産、②人的資本、③社会資本があるという前提に立って考えているわけですが、ここで一旦、新卒や現状仕事がつらいと感じている人たちについて考えていこうと思います。

 

まず新卒の社会人について。

彼らのうちの少なくない割合が、就職とともに、仕事がある場所へ移ります(この辺は都市部中心の考え方になっているかもしれません)。

そして、新天地あらたな仕事を始めることとなる。

この場合、もちろんオンラインではつながっているでしょうが、それまでに築いた社会資本(友達関係やつながり)は、その土地において一旦リセットされることとなります。

また、新卒であれば、よほどの場合を除いて金融資産なんて持っているはずがありません。

そうなると、彼らの現状は「人的資本」の一本柱に頼っている状態ということができるでしょう。

 

次に、現在仕事でのストレスに悩まされている人について。

彼らが悩まざるをえない状況になってしまう最大の原因は、仕事面におけるストレスが多いにもかかわらず、その環境を捨てるという選択肢がないことにあるといえるでしょう。

僕はこの状態には2パターンがあると思っていて、ひとつは人的資本(労働)と社会的資本(コミュニティ)が一致してしまっている場合、もうひとつが自身の幸福が人的資本のみによって成り立っている場合です。

 

 

症状やその原因は異なるものの、上にあげた二つの場合の解決策はいずれも「社会的資本を積み上げる」ことであるというのが僕の持論。

新卒の人にしても仕事環境に悩んでいる人にしても、原因は異なっていても、自身の肯定感(=幸福感)が人的資本頼みになっている場合がすくなくありません。

つまり、これらの人は人的資本がライフラインとなっており、したがってそのレイヤーにおいて「選択する」という意思決定はそもそも得られなくなってしまうわけです。

 

こうした情報を脱するにはa金融資産を手に入れるかb社会的資本を手に入れるかの2択になるわけですが、この状況下でaに解決策を見出すことは現実的であるとはいえません。

(ここに答えを見出す人たちがハマるのが、古くはマルチや宗教、情報商材に一部の怪しいオンラインサロン、そして今ならば仮想通貨やFIREなのかなあと思います)

幸せに必要な要素をひとつしか持っていないことが問題で、aの金融資産を増やすという選択肢が現実的でないとすると、その場合にとることができる選択肢はbの社会的資本(=つながり)を増やす以外の選択肢はありません。

だから、僕が新卒の子に「何をするべきか?」と聞かれたら一番に答えるのがこの「コミュニティーを見つけて所属しろ」ですし、仕事がしんどいという相談を受けたときにまず確かめるのがその人が心を寄せられるコミュニティの有無なわけです。

 

人的資本への依存をやめるということ

どのような選択をするにせよ、人的資本以外に加えて社会的資本という柱があれば全てを失った状況に陥ることは回避できます。

そして、それが回避できれば幸せを見出すことができる。

こうした戦いをするためにも、僕たちはつねに先述の①~③の資本(産)をバランスよく身につけることが大事なわけです。

 

 

 

 

プロになるということ、プロという視点

コロナが世界的に蔓延する前、僕は3度の飯より酒が好きという勢いで飲み歩いていました。

飲みに行くのは馴染みの友達というよりはカウンターで出会った人との交流が目的(この辺、京都に住んでいて、かつ行きつけのお店を持つ人間特有の考え方なのかもしれません。)

週の半分以上を飲み歩いていたら少なからず変わった出会いもあるわけで、今日はその中の一人を紹介したいと思います。

 

深夜一時過ぎ。

とある居酒屋で飲んでいて、そろそろ帰ろうかという時分に、ひとりの男性がやってきました。

タイミングと彼の人柄に誘われて、もう一杯だけとそこに留まることを決めた僕は、彼と話を始めます。

そんな中で出てきた彼の職業はプロギャンブラー。

何人かでチームを組み、一年の半分をマカオで過ごし、そこで買った賞金で生計を立てているのだそう。

まさかと思いつつも彼の言葉の重みに押され、僕はポーカーの勝負を挑みました(彼がカジノでメインにするのがポーカーということだったので)

快く対戦を引き受けてくれたその方を前に、僕は「プロ」という言葉を信じずにはいられまさんでした。

 

プロとしての「当たり前」

というのも、彼は僕の捨て札、場の状況を見て、全ての勝ち札の可能性を確率計算し始めたのです。

○○は×%の確率だから、僕はこれを選ぶみたいな。

彼は、僕の捨て札から想定される僕の待ち役のパターンと確率、そして、自分の手札から組み立てられる役のパターンと確率を常に計算していたのだそう。

 

そんな解説とともに勝負をしていて、1ゲーム単位では勝てることはありましたが、勝負としては惨敗。

「プロ」というものの凄さを知った1日でした。

 

プロゲーマーでも何でも、目指す以上レベルが違う

僕がこんな経験を思い出したのは、先日偶然、ひろゆきさんの切り抜き動画でプロゲーマーについてのべているものを見たからでした。

親御さんからの相談で、息子がプロゲーマーになりたいといってゲームばかりしているけどどうしたらいいかというような相談。

ひろゆきさんはそれに対して、「本当にプロになる取り組みをしていますか?」と返します。

続けで自身が楽しんでいるゲームに絡めてこんなことを言っています。

 

プロになるってことは手札を見て全てのステータスや戦術を言えるってことが必要です。

お子さんは単にゲームをするのではなく、そういう「訓練を積んでいますか?」

と、

 

確かにその通りだなあと思います。

これはゲームに限らず、遊びでもスポーツでも、それを極めようとしているか楽しもうとしているかで全然結果は違ってくるんですよね。

この趣味としての取り組みとプロになるための取り組みの差は、ジャンルを問わず相手の志を問う質問として非常に有効だと思うんです。

 

どんなに時間を割いていても、それが快楽的消費になっているのであれば、それはどこまで行っても趣味の域を出ません。

逆に、たとえかかる時間は少なくとも、それが具体的に立つための蓄積を伴うものならその先に「プロ」という道がある。

 

僕は好きを仕事にという言葉が嫌いではない一方、(自分自身がフリーランスということもあり)安直な「好きで生きていく」論には反対だったりします。

僕にとってのその分水嶺は上に書いた部分にあるのだなあと。

もちろん才能が突出していたり、とんでもなく特定のものが好きという人に関しては、上にあげた「プロの視点」のようなものを磨かずとも一定の結果をだせるかもしれません。

でもそれ以上に多くの人き視野を置くのなら、その明文化されない部分に焦点を当てることが大事だと思うのです。

 

アイキャッチはプロの視点が学べる無名抄