煙という言葉を含む故事成語を辞書でめくってみますと「火のないところに煙は立たぬ」「煙に巻く」などの言葉に出会います。
前者は「うわさが立つ以上何かしらの理由がある。」といった意味、後者はごまかしなどという意味の言葉です。
「煙」というものは今も昔もあまりいいものと受け入れられていなかったみたいです。
近年、愛煙家にとってはとても窮屈な世の中になってきたように思います。
オフィスの分煙。
公共の場での禁煙。
2010年のたばこ増税。
今ではたばこを吸うだけでその人自身が煙たがれる、そんな風潮になってしまいました。
正月の時分、コタツから寒いキッチンまで足を運んですまなさそうに肩をすぼめながら換気扇の下でたばこに火を点けた父親のさみしそうな背中を思い出します。
禁煙の風潮、それ自体に異を唱えるではありません。
けれども私には昨今の禁煙ブームはその意気込みばかりが独り歩きしているように思えてならないのです。
有無を言わさずして煙は悪とみなす風潮には疑問の念を覚えて仕方がありません。
「あなたの体を思うから。」「我が子の体を思えばこそ。」
それぞれ意見を持っている人も多いことと思います。
しかし大半は周りに合わせて禁煙をうたっているのではないでしょうか。
さまざまな住民運動が広まるにつれて初めの目的を忘れて独り歩きし始める。
有史以降を振り返ってみても幾度と繰り返されてきた流れです。
近年の禁煙運動の高まりにこの構図が重なります。
「百害あって一利なし」の言葉からもたばこが多くの害を及ぼすことはご周知のとおりです。
しかしその「害」が何たるかも知らずに辺りに「たばこ反対」を押し付けるのはどうでしょうか。
周りに踊らされることなく自分の主張を作ることが大切であると考えます。
それは先の原発問題においても同じでしょう。
表立った賛成・反対のみに目を向けるのではなくその背後にある歴史等々にも耳を傾けなければなりません。
その歴史の良し悪しの議論はともかく、原子力が推進された背景にはそれなりの歴史があります。
同時に仮に望まずとも原発の恩恵を受けてきたことも事実です。
これらのものをまるでなかったかのようにして反対を唱えるのは都合がよすぎるでしょう。
相手の立場を理解したうえで反対を唱える。
このような心がけなくしては、原発問題は次第に一人歩きを始め本当に必要であったことはうやむやになることでしょう。
そうなれば文字通り「煙にまかれ」ることとなってしまいます。
こうした事態を招かぬためにも、今一度私たちの「考える」姿勢をみつめなおす必要があるように思います。