新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



学芸員を求めて〜宮崎駿が風立ちぬに散りばめたオマージュを読み解く

美術館に行くと学芸員の方たちが、作品の背景や、作者が影響を受けた芸術家などを説明してくれます。
僕たちはその時の作者の心境や人柄を知ることで、作品をずっと深く味わうことができる。
美術館に作品を見に行くことの面白さの一つは、ここにあるように思います。

学芸員がいることでさらに楽しむことができるのは、アートばかりではないと思います。
宮崎駿さんの風立ちぬを見たとき、僕は学芸員の解説みたいなものが欲しいと感じました。
もちろんそんな予備知識がなくとも十分面白かったのですが、やはり所々で多くのオマージュが盛り込まれていて、それを知ったあとでは、また違う切り口で映画をみられます。
多くの作家や評論家の方が、風立ちぬの評論をしていました。
宮崎さんがオマージュとして取り入れたカットの説明もいくつもあります。
そうした評論の中でも印象に残っているものを、さながら学芸員のように解説としてまとめてみたいと思います。


1.「日傘の女」に込められた意味
映画のポスターにもなっている菜穂子がパラソルの下で絵を描くシーン。
次郎と菜穂子が始めて出会った場面です。
宮崎さんは、構図をクロード・モネの「日傘の女」に重ねています。
愛妻家であったモネは、自分の妻カミーユをモデルにしてこの日傘の女を描いたとされています。
そして、この絵を描いたあと、結核を患っていたカミーユは32歳の若さでこの世を去りました。
それ以降、モネは女性をモデルに絵を描けなくなったと言われています。
こうしたエピソードの残る「日傘の女」をあえて二郎と菜穂子の久しぶりの再会の場に持ってくることで、次郎は一人の女性を愛する人であるという印象を観客に伝えます。
また、菜穂子がこの後結核を患い若くしてなくなることの暗示にもなっている。
モネの絵をモチーフに取り入れることで、堀越二郎が菜穂子に対してどんな気持ちを持っていたのか、言葉にせずに伝えています。



2.軽井沢の山の中と「魔の山
軽井沢の山の中で二郎が出会うドイツ人のカストロプというおじさん。
彼は二郎に向かって「ここは魔の山だ」と言います。
これはトーマスマンの「魔の山」のこと。
トーマスマンの「魔の山」はカタストロフという主人公が親戚が病気で療養している雪山の中のサナトリウムに見舞いに行った際、自分も結核であることが分かり、そこで生涯を過ごすことになるといったストーリーのお話です。
誰一人看取る人がいなく、そこから出られずに結核を患い死んでいく。
菜穂子が死ぬ間際、1人でサナトリウムに帰って行くことになる将来を暗示しています。
人の心が分からない存在として描かれる二郎。
二郎は菜穂子のどこが好きと聞かれる度に「綺麗なところ」と答えています。
自分の大好きな男が「自分の綺麗なところが好き」と言い切ってしまっている以上、菜穂子は老いていく姿も、病気で血を吐き死に向かう姿も見せられない。
だから最後に仕方なく「死の森」に1人で戻っていく。
カタストロフの言葉は、こうした演出の伏線になっているのだと思います。
結局二郎は菜穂子の死に際、菜穂子が入院するサナトリウムには1度も行きません。

3.メフィストフェレスとカプローニ、カタストロフ
宮崎駿さんは、インタビューでカプローニは二郎にとってのメフィストフェレスだと語ったそうです。
夢の中で二郎に希望を語るように見えるけれど、実は飛行機を完成させるその先にあるのは戦争や貧富の差が広がる世界。
そのどちらを望むか?という問いかけは、ゲーテファウスト」の中に出てくる誘惑の悪魔メフィストフェレスです。
カプローニ=メフィストフェレスとなっていますが、僕はカタストロフもカプローニと同じ立ち位置であるような気がします。
これは評論家の岡田斗司夫さんの意見。
カプローニもカタストロフも、二郎に問いかける時の目がかなり独特な放射状の光で描かれています。
それは同一人物、あるいは同じような役割を持っているということのメタファー。
カタストロフと二郎がサナトリウムで話しているシーンで、振り返るとタバコの煙だけが残り、カタストロフはいなくなっていたという描写があります。
メフィストがいたところには煙だけが残っているという、悪魔を暗示する時の表現手段です。
(岐阜県美術館にあるウジェーヌ・ドラクロワファウストの絵を見に行くと、確かこんなシーンあったと思います、、)
カプローニとカタストロフがセットでメフィストフェレスの天使的な役割と悪魔の役割が描かれています。


4.「あなた生きて」とダンテの神曲
プロデューサーの鈴木敏夫さんのインタビュー曰く、最後の菜穂子のセリフは「あなた生きて」ではなく、「あなた、来て」だったのだそう。
そして、死んだ菜穂子が立っているのは煉獄です(これは宮崎駿さんが確か言ってました)。
ざっくりいうと、この世と天国の間にある世界が煉獄です。
ダンテの神曲の中の地獄のひとつみたいなもの。
本人はただ、自分の好きなものを追い求めて零戦を作ったただけなのに、それが日本を泥沼の大戦へと導き、結果として二郎は地獄のひとつに落とされる。
そこで菜穂子から掛けられる「あなた、来て」という一言は、神曲の地獄を彷徨うダンテたちを救うために、ヒロインのベアトリーチェがかける声と重なります。
絵コンテ集によれば、本来は菜穂子の声の後に二郎が飛行機に乗って空に(天に)登っていくシーンを宮崎さんは書こうとしてたらしいです。
つまり、好きなものを追い求めた主人公が犯した罪を、菜穂子が救済するというのが元々のストーリー(笑)
一応主人公が救われるという意味ではハッピーエンドですが、そんな終わり方したら置いてけぼり感がすごくなってしまうとのことで、鈴木敏夫さんが一文字加えて「生きて」としたのだそう。

菜穂子の「あなた、来て」という言葉には、明らかにベアトリーチェによる主人公の救済の意味があったのだと思いますが、もうひとつ救済者としての菜穂子ではなく、ひとりの女性としての菜穂子の叫びという意味も含まれていたように思います。
死に際、好きな男性に朽ちて行く姿を見られたくないと、ひとりサナトリウムに戻る菜穂子。
結局最後も二郎はお見舞いに来てくれません。
零戦の設計を終え、熱中していた飛行機から解放された二郎に対して、女性として私の方を見てという気持ちも込めたかったのではないかなあと思います。
これは僕の主観的な意見なので無視して下さい。


宮崎駿さんのすごいところは、こういうものを一切知らなくても楽しめる形で作品にしてしまうところだと思います。
その意味で徹底してエンターテイナーです。
一方で本当に細部までこうした演出が施されている。
このエントリ自体のテーマをオマージュの解説としていたので、ここではあえて作品からのオマージュに絞ってまとめてみました。
あくまで作品の文脈とは直接関係ない所だけをピックアップしています。
しかし、それ意外にもキャラクターの演技や小道具の描き方で、観客に投げかけているサインが非常に散りばめられています。
菜穂子が軽井沢の山の入り口にキャンバスを置いた理由であったり、カプローニのセリフであったりと、書き出したらきりがありません。
こういうサインが圧倒的に多いからこそ、ネット上にたくさんの考察記事が出回っているのだと思います。
僕は正直こうしたものが全くわかりません(笑)
色んな人の評論を見たあとだと、また違った楽しみ方ができました。
その意味でこの作品は美術館の学芸員みたいな人ありきでみるとより楽しめる、アートでもあると思いました。

このエントリを書くにあたり、岡田斗司夫さん、山田玲司さん、村上隆さん、鈴木敏夫さんのインタビューなどを参考にしました。
非常に鋭い指摘をされているので、興味のある方は是非調べてみて下さい!

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