新・薄口コラム

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



濹東綺譚と二つの願い

朝起きると、何故か濹東綺譚の終わりの言葉が頭に浮かんできました。
「濹東綺譚はここに筆を措くべきであろう。然しながら若しここに古風な小説的結末をつけようと欲するならば、半年或は一年の後、わたくしが偶然思いがけない処で、既に素人になっているお雪に廻めぐり逢う一節を書添えればよいであろう。猶又、この偶然の邂逅をして更に感傷的ならしめようと思ったなら、摺れちがう自動車とか或は列車の窓から、互に顔を見合しながら、言葉を交したいにも交すことの出来ない場面を設ければよいであろう。」
物語の終わりとして納得できないという意見も多いかもしれませんが、僕はこの終わり方が気に入っています。
ある雨の日、ふとした折に娼婦のお雪と知り合い、二人は仲を深めます。
付き合いが深くなるうちに、お雪は自分の借金がなくなったら妻にして欲しいと言います。
主人公はお雪を幸せにできるのは自分ではないと考えて、返事をしないでいます。
9月の末、主人公がお雪の家に行くと、お雪が入院したことを聞かされます。
主人公はお雪の家を知っている程度の間柄。
それっきり主人公とお雪は会うこともなくなっていきました。

冒頭で引用した一節は、こうした物語のあとに添えられています。
もしここで小説的な結末になるのなら、少し経ってお雪と再開できる。
しかし現実ではそんな事は起きるはずもなく、お雪とは2度と出会えぬまま元の生活に戻るだけである。
十分に理解している通り、現実では自分が期待するほど、自分が臨む展開になることはないという、別に悲しむ訳ではないけれど、少し切ないといった感情が、「濹東綺譚はここに筆を置くべきであろう」の一節から、微かに滲む様子が、僕は非常に気に入っています。
「会いたい」という言葉をつかわず、また直接的な行動を起こすでもないからこそ読み手に伝わる繊細な感情であるように思います。

槇原敬之さんの「二つの願い」とポルノグラフィティの「小説のように」という、二つの歌があります。
「今朝からずっと雨音の隙間に耳を済ましてるTVドラマの電話と間違えないように 雨が止みますように 電話が来ますように 二つの願いは必ず一つしか叶わない 〜着替えをしてドアを開けると 雲間に日傘していた」(二つの願い)
「あなたの好きな小説の中に愛を壊してしまう悲しい二人がいたね 青空を見上げて二人は別の道を歩んだ 間違った結末さ 〜 今日の空は曇り空 その後は雨が降る 永遠に雨が降り続けばいいのに あの小説は青空で終わっていた 間違えた結末さ 」(小説のように)
覚え書きなので歌詞の漢字が間違えていたらすみません。
濹東綺譚と同じ理由で僕が好きな歌です。
どちらも「雨」の描写が含まれています。
そして、雨は絶対に降り止まないことはないものなのに、どちらもそれに自分の気持ちを重ねています。
二つの願いの「雨が止みますように」とは、浮気をした君を忘れられるようにという願いで、「電話がきますように」はもう一度元の関係に戻りたいという気持ちと考えられます。
降り続く雨は止まない事がないというのを踏まえれば、「今朝からずっと雨音の」といった瞬間から主人公の決断は決まっているわけです。
そして小説のようにも、雨が止んで笑顔で別れた小説の中の主人公に2人を重ねています。
降った雨は必ず止むわけなので主人公は既に終わりを覚悟していると考えられます。
どちらも言外に「恋人と離れる覚悟」が薄っすらと出来てしまっている主人公の気持ちが描かれています。

濹東綺譚と上にあげた「二つの願い」と「小説のように」は、結末は全く違うのに、僕の中では同じ印象を受けました。
どれも言葉にできないような、非常に感覚的な不安や願望みたいなものを思い出させてくれます。
こういう言葉に表せないような微妙な感じを伝えてくれる作品をみると本当にほっこりとします。