新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



星の花が降るころに考察〜主人公の成長を、心情「以外」から読み取る〜

中学一年生の教科書に載っている、安東みきえさんの星の花が降るころにという作品。
中学校に入って、まだ十分にクラスに溶け込めていない主人公。
そんな彼女は小学校からの友達(そして本人は唯一の友達だと思っています)である夏実と、ちょっとしたことからすれ違いが重なり、声がかけられない状態になっています。
2人は別々のクラス。
主人公が勇気を振り絞って声をかけたところ、ちょうど夏実がクラスの友達に声をかけられて、そちらに返事をしてしまう。
なんとか仲直りをしたい。
そう思って声をかけたのに、結果として無視されたような形になってしまいます。
そんな主人公が、幼馴染の男の子である戸部くんや、銀木犀の話を教えてくれるおばちゃんの言葉をきっかけに、前を向いて進もうとする。
主人公の葛藤と、前に進もうと決めた心情の変化が面白い作品です。

どうしても学校の教科書だと、主人公が前に進もうとする部分に注目されます。
国語の問題として扱う以上、僕たちもそうした読みに終始しなければならないのですが、個人的にこの作品の好きなのは、心情意外の部分に散りばめられた、主人公の気づきです。
夏実との思い出、自分の気持ちばかりが前に出ている主人公は、この作品のなかで2つのことに「気づき」ます。
ひとつは幼馴染の戸部くんの身長が高くなっていたこと。
主人公が夏実に無視されたところを見ていた戸部くんは、ぎこちないやり方で主人公を慰めるために声をかけます。
そんな彼の優しさに気づいて思わず涙を流す主人公。
戸部くんと久しぶりにしっかり話した主人公は、彼の身長が伸びていることに気づきます。
戸部くんの身長が伸びたことは、主人公が「自分意外の周りの変化」に気づく初めての場面です。
それまでにも変化に気がつく場面はありました。
しかしそれは全部、去年夏実と拾って袋に入れてあった銀木犀の花が枯れていくという変化だけ。
ポケットの中の銀木犀は、いわば夏実の内面のメタファー。
夏実は頻繁に銀木犀の花を思い出しますが、そこには周囲に対する目は無いわけです。
一貫して自分の問題でいっぱいいっぱいです。
夏実に頑張って声をかけようとしたり、それまでも主人公は何とか前に踏み出そうと、変化しようとします。
しかし、その時に頭にあるのはポケットの枯れた銀木犀、つまり、昔の思い出に囚われる自分の気持ちばかりです。
そんな、自分の方向にばかり向いていた主人公の視点が、戸部くんの背が伸びたという気づきで初めて外に向けられます。

もう一つ、物語の後半で、主人公がおばちゃんから銀木犀の葉が落ちることを聞きます。
「常緑樹じゃないの?」と主人公は銀木犀の葉が落ちることを知った主人公ら問いかけます。
それに対して「いくら常緑樹といったって、ずっと同じ葉っぱが付いているわじゃないよ」と答えるおばちゃん。
(思い出して書いているので、言い回しは違うと思います)
ここで主人公は常緑樹の銀木犀でも葉を落とし、そして新たな葉をつける事をしります。
ここも、主人公が新たなことに気づく場面と言えるでしょう。
銀木犀に主人公の気持ちがそのまま重ねられています。
それまでの主人公にとっての銀木犀は「一度つけた葉をずっと持ち続ける常緑樹」でした。
ちょうどここに、夏実との友情がずっと続くものであることを信じていた主人公の気持ちが重なります。
ずっと葉が落ちない、ずっと友情が続くと思っていたからこそ、主人公は萎れても尚、夏実と取った銀木犀の花を持っているわけです。
しかし、ここで主人公は常緑樹である銀木犀でさえも、一度は葉を落とし、新たな葉をつけることを知ります。
ここで初めて主人公は、夏実との思い出に執着するのをやめて前を向こうとする。
この心情の変化のきっかけになったのが、おばちゃんの話しによる「気づき」です。

自分の内面ばかりに囚われないで、外に目を向けて気づきを見つける。
そうすることで主人公が少しずつ成長していく。
僕が思う星の花が降るころにの魅力はここにあるような気がします。
分かりやすく主人公の心情が描かれているため、わざわざ情景描写の意味なんて考えなくてもこの作品は楽しめます。
しかし、散りばめられた情景描写の意味を追ってこそ、この作品ほ楽しめると思うのです。
なぜ銀木犀なのか?なぜその花を持っているのか?
そういった設定一つ一つに思いを巡らすことで、一層楽しめる作品のように思います。


 アイキャッチは安東みきえさんの「頭の打ち所が悪かった熊の話」(笑)

頭のうちどころが悪かった熊の話 (新潮文庫)

頭のうちどころが悪かった熊の話 (新潮文庫)


意識高い系という言葉と、彼らの価値を定義する

交流会に積極的に参加したり、イベントを立ち上げたりする学生を、いわゆる「意識高い系」なんて言葉で揶揄される場合があります。
意識低い系の学生(笑)よりは意識高い系の学生の方がずっといいんじゃないかというのが僕の考えでした。
ただ、同時に意識の高低という2分類では、自分の中でどうもしっくりこない部分があります。
そんな時にふと、今までは積極的か消極的かで意識高い系か否かを決めていた軸に、もう一本、「顧客視点」という軸を加えたら、意識高い系の学生というのが説明できることに気がつきました。
縦軸には顧客視点の有無、横軸に積極的か消極的かを置きます。
ここでいう顧客視点とは、思考の発露が自分が何をしたいではなく、周囲にどんなニーズがあるか、自分はどういう立ち回りをすればいいのかという視点で物事を見ているという意味です。

顧客視点の有無と積極的、消極的の2軸を引くと、4つのカテゴリーに分類されます。
①積極的で顧客視点がある
②積極的ではないが顧客視点がある
③積極的だが顧客視点がない
④積極的でなく顧客視点もない
この中で、意識高い系と揶揄される学生や若手社会人は③に分類されるのだと思います。
④の積極的でなく顧客視点もない人と比べれば、③の人たちが優れているのは明らかです。
そして、①の積極的で顧客視点がある人と比べたら劣ってしまうことも納得できます。
問題は、②の積極的ではないが顧客視点がある人と、意識高い系が含まれる③の積極的だか顧客視点がない人であれば、どちらが優れているかということ。

結論から言うと、僕は番号の通り、③よりも②の積極的ではないが顧客視点がある人の方が優れていると思っています。
その理由は、②の人の方が「価値」を生み出しやすいから。
どんなにエネルギーに満ちていても、ニーズと合わなければそのエネルギーが表出することはありません。
他に連結しないまま物凄い勢いで回る歯車みたいなイメージ。
どれほどエネルギッシュでも、自分の「したい」だけでは自己満足で終わってしまい、そのエネルギーが実際に評価される形にはならないわけです。
(そういう人たち同士が集まって、エネルギーの高さを評価し合うようなコミュニティもありますが、それは身内で完結した評価であり、外からは評価されません。バーチャルゲームの中でいい武器をたくさん持っている人の評価と同じです。)
一方で、多少エネルギーが低くとも、また積極的で無かったとしても、顧客視点があれば、周りが求めるものに目がいって、価値を生み出すことができます。
エネルギーは低くても、それを伝えるエネルギー効率がいいため、結果としては積極的だが顧客視点のない③の人よりも多くの価値を生み出すことになる。

社会に出ると、いやでも顧客視点を意識するようになります。
お金をもらうためには相応の価値を生み出さなければならず、その価値を生み出すには、何が求められているのかを考えることが不可欠だからです。
もちろん、それでも顧客視点がない人が殆どかもしれませんが、そもそもそういった視点が求められない学生と比べれば、顧客視点を持っている割合は社会人の方が高いように思います。
さて、顧客視点の有無という評価軸を持っていない人にとっては、②に当てはまる社会人は単に「やる気のないモブ社会人」と映るはずです。
積極性やエネルギーの高さという評価軸だけでいけば、②の人は③の人にはるかに劣っているからです。
しかし(エネルギーの高さをそのまま能力として評価されるコミュニティではなく)実際の社会で価値を評価しようとすると、③よりも②の方が多くの価値を生み出している。
この辺に、意識高い系という言葉がやや批判的なニュアンスで使われる理由があるように思います。

僕は別に、意識高い系が悪いとは思いません。
そうではなくて、顧客視点を身につければいいのにというスタンス。
自己啓発で奮起したり、交流会で夢を語るといったスマートなスキルアップもありますが、同時に地味な作業から地に足のついた実力をつけていく。
そういった部分も大切なのかなあと思います。

アイキャッチは若き老害(笑)常見陽平さんの「『意識高い系』という病気」


答えの質ではなく、過程の質が大切というお話

最近アウトプットの量が増えすぎて、自分のブログのネタが尽きかけています(笑)
とはいえこれ以上更新しないのもまずいなあとそろそろ切に感じています。
ということで、塾の日刊コラムにあげようとしたネタを。

重松清さんの「峠うどん物語」に、つゆの仕込みに毎日使っていた菜箸をうっかり主人公の母が洗剤で洗ってしまい、うどん職人であるお爺ちゃんが激怒する。
主人公の父が全く同じ材料で作られたつゆの味見をして、「いつもの味になっているじゃないか」というのだけれど、どこか言葉に表せない部分で味が欠けている。

もう、ずいぶん前に読んだお話なので、細かな会話は忘れてしまいましたが、峠うどん物語のこのワンフレーズが未だに印象に残っています。

箸に染み込んだ味。
そこにこそ、長年積み重ねてきたものにしか出せない味の秘訣がある。

たどり着く答えが全く同じであったとしても、そこに到達するまでの過程で経験してきたことはまるで違います。
問題と格闘して、何度も自分の答案を消しゴムで消して、そうやって試行錯誤するうちにたどり着いた答え。
そうそうに分からないと匙を投げて、解答用紙を開き、解説もロクに読まず正解の数字だけを写した答え。
どちらも同じ答えです。
ただ、両者は明らかに違います。

この違いは、「応用力」となって自分に返ってきます。
持っている知識を使って教科書レベル以上の問題を解こうと思ったとき、それには自分の頭のなかで仮設と検証を繰り返す必要があります。
浮かんだ解法を試してみて、ダメだったら他の方法を試す。
ここで、泥臭く問題に向き合った人と、直ぐに答えを求める人の差がでてきます。
泥臭く問題に向き合った人にとって、最初に頭に浮かんだ解き方が間違えであるということなんて当たり前のこと。
だから、考え方が間違えであると思ったら、直ぐに別の方法を探そうとします。
それに対して常に効率よく(ときにズルく)答えを求めた人は、最初に頭に浮かんだ解き方が違ったときに、別の方法を探そうという方向に考えが向かいません。
で、頭に浮かんだ方法が通じないと、その時点で諦めてしまう。
何度もぶつかることが当然の人と、答えがあえばいいと思っている人には、この部分で決定的な違いが生まれます。

峠うどん物語に出てきたおじいちゃんの菜箸は、日々の試行錯誤を積み重ねたものです。
そこには、表面的には分からないけれど、味を左右する「決定的な何か」があったのです。
勉強も同じです。
何度も考えて、間違えては消して、そうやってたどり着いた答えと解答を写しただけのもの。
表面的には同じに見えるかもしれません。
しかし、両者には決定的な違いがあり、それは応用力が試される場、つまり入試のときに初めて気付きます。
もちろん提出期限があるので、効率よく、スピード重視で課題をこなすのも大切ですが、同時に時間をかけて、試行錯誤して経験を積むことも大事にして下さい。
その経験が積み重なると、後から逆転できない自分だけの強みになるはずです。

アイキャッチは峠うどん物語

峠うどん物語 上 (講談社文庫)

峠うどん物語 上 (講談社文庫)




友情・努力・勝利のその先へ〜最近のジャンプマンガに通じるメッセージ〜

努力・努力・勝利といえば、言わずと知れた少年ジャンプの3大テーマですが、ここ最近、ビミョーにこのコンセプトが変わってきたような気がします。
いやっ、厳密には「作者が伝いたいメッセージが変わってきた気がする」というほうが表現が適当かもしれません。
<「正解」ひとつしかしらないやつは
「もっと凄いもの」にはたどり着けない気がするんだ>
これは今週号のジャンプに掲載された料理マンガ「食戟のソーマ」に出てきたセリフ。
似たような言葉は、他のマンガにも見られます。
<道草を楽しめ 大いにな 欲しいものよりもっと大切なものが きっとそっちに転がっている>
コレはハンターハンターで主人公のゴンに向かって父親が言ったセリフ。
<試合終了した時どんなに相手より多く点を取っていても嬉しくなければそれは「勝利」じゃない・・・!>
こっちは黒子のバスケ
そして、直接セリフとして書かれたわけではありませんが、暗殺教室では、教室の中で必死に勉強をするエリート学生と、「落ちこぼれ」の烙印を押された子たちが殺せんせーの下で、自然に触れながら楽しく学び、机に向かった生徒たちに勝つ場面が描かれています。

これらの作品に共通するのは「勝てばそれでいいの?」という価値観です。
勝つことこそが正義であった90年〜0年代。
それに対応するように、勝つだけじゃない、その先が描かれ出したところに、何か時代の移り変わりを感じます。
勝つための戦略やノウハウはあるけれど、それでいいのか?
勝つことだけを求めても、その先にあるものにはたどりつけない。
ここ最近のジャンプを見ていると、作者からのこうした問題提起がなされているように感じるのです。

言われた中で「頑張れば成功できる」から、システムの中でいくら頑張っても、構造上手くいかなくなったことに少しずつ気づきはじめたのがゼロ年代の半ば。
そこに出てきたのが進撃の巨人をはじめとする「壁のなか」という世界観です。
守られた壁の中で言われた通りに暮らしてきた壁の内側の人々は、ある日突然壁が壊され、急な危険に襲われます。
壁の壊れた世界、つまり無秩序な世界に対する生き方に関するある種のアンサーであるよくにも見えます。

あちこちでルールそのものに綻びが生じてきているのに、その枠の中で考えているだけでいいの?
週刊連載のマンガ家は、毎週アイデアを自分で出して、キャラクターと世界観を生み出して、それを絵と言葉で切り出すとい、創作の極みみたいなことをしている人たちです。
そうしたマンガ家さんたちが、同時期に似たメッセージを発しているというのは、何かしら感じるものがあるからなのでしょう。
「コンテンツは時代の空気を映し出す」とは、マンガ家の山田玲司さんのことば。
確かに、バブルの頃の作品を見ると、歌も、映画も、そしてマンガも、どこかしら「このまま永遠に伸び続けるさま」を感じます。
その象徴が、倒したらもっと強い次の敵が現れるというジャンプ方式。
失われた10年、20年といわれる時期には、終わらない日常を描いた作品や、現実とは違う世界をテーマにした作品が目立ちました。
そして壁が壊れ、上に挙げたようなモチーフが登場し始めた現在。
「勝利の、そのさきへ」
最近のジャンプマンガを見ていると、こうした空気を感じます。

ギリシャ危機の時に遊びで買った、ビットコインの話

去年の7月5日、ギリシャ国民投票がありました。
それでEUによる緊縮反対派が勝利した場合、ギリシャはEU離脱の危機。
理由は全く覚えていないのですが、ちょうどその時ギリシャについて調べていて、そして同時にビットコイン界隈の仕組みを勉強していました。
ビットコインの仕組みを自分なりに理解したときに僕が思ったことは次の2点でした。
①今後、IT革命が進むと必然的に重要なポジショニングになるだろうなという可能性と②今後、自国通貨の信頼度<ビットコインの信頼度というシチュエーションが来るたびに注目されるだろうなということです。
ひとつ目に関しては、ネットが普及して、企業活動、人々のコミュニティがリアルタイムで世界規模で取れるようになりました。
企業で言えば、AmazonAppleFacebookをはじめ、国境という枠組みでは測りきれない規模で動いているものが多数存在するようになりました。
で、あるならば、通貨だって当然世界規模のものが出てきてしかるべきだと思ったのです。
グローバル企業に適した決済システムはグローバル通貨かなあと。

通貨がもともと、なんらかの信用に紐付いて生まれたものであるとすると、その信用の源泉のないビットコインは通貨と成立するのだろうかと初めは不安に思っていました。
しかし、現状の通貨を見てみれば、実態は兌換紙幣だからとか、政府の信用の下でというよりは、使用者と受け取り手の間で同じ価値だと判断されるから成り立っているというようにも見えます。
それならば、まさにビットコイン(というかブロックチェーンの技術)はグローバル通貨てきなボジションになり得るのではないかと思いました。
これが試験的にビットコインを持ってみようと思ったきっかけ。

もうひとつの興味があった点は、個人れべにおいて儲け話としてのビットコインの可能性です(笑)
仮に特定の国や企業の信頼度に依存しない貨幣が存在したとして、先進国に住む僕たちにとってその信頼度は、自国通貨に比べてはるかに低いものでしょう。
しかし、途上国や情勢不安が続く国では、自国通貨の信頼度よりも、時にビットコインの信頼度が上回る可能性もある。
そういった特別な瞬間がきた時、ビットコインには需要が産まれるのだろうと思っていました。
また同時に、これだけ世界が不安であるならば、自国の通貨<ビットコインの信頼度となるシチュエーションは度々訪れるのではないか。
そのひとつのサンプルが、僕にとってのギリシャ国民投票でした。
結局EU離脱は免れましたが、国民投票で緊縮反対派が勝った時、ビットコインは暴騰しました。

こうした興味がきっかけで試しに持ってみたビットコイン
当時は1ビットコインあたり3万円弱、そして丁度昨日、一瞬ですが1ビットコイン7万円を超えました。
遊びで買ったものですから、金額が増えたことにはあまり興味がありません。
むしろ僕が興味をもっているのは、この一年で大きく成長したビットコイン界隈のほうです。
ビットコインが主流になるかは別として、暗号通貨的な「何か」は今後のIT革命に必須のアイテムになるだろうと自分なりに確信を持てました。
僕は、2000年代からの20年くらいを100年後の人たちがみたとき、驚くほどの変化を遂げ瞬間だと評価していると思っています。
丁度産業革命がもたらした衝撃と同じ感じ。
そんな変化の真っ只中にいるのなら、その変化自体を肌で感じないのはもったいないと思うのです。
だからこそ個人レベルであれば、年金や保険のような将来に対するリスク分散の仕方ではなく、副業ならぬ複業で、自分の生活を安定させるという方向を実験的に試したいですし、生活にもIT革命によってもたらされた変化を積極的に取り入れたいと思っています。
その一つがビットコイン

ここ数週間で、ビットコインは久しぶりの暴騰をしています。
これだけの上げが起きたら、近いうちに再びテレビの報道で注目を集めるのではないかと思います。
その段階で、今度は一気に認知が広まるのではないかと。
経営学にはイノベーションに関するさまざまな理論が存在しています。
その理論をリアルタイムに当てはめて観察できる。
こんなチャンスはそうそうありません。
そんな好奇心からちょっとだけ持つことにしたビットコイン
人以外の観察対象として、久しぶりに面白い個体です(笑)

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長期的に差別化を目指すなら言語でも論理的思考でもなく読書をするのがいい

僕は自他共に認めるスマホ中毒者で、YouTubeやブログ購読、ニュースアプリは言うまでもなく、このブログはもちろん、塾のブログや報告書の原案、プリントのプロットまでちょこちょことスマホで書いたり、とにかく一日中スマホをいじっています。
日がな一日スマホに触っていると、目に見えて読書の時間が減っているのが分かります。
前は普通に暮らしていたら月10冊くらいは読めたのに、今はかなり意識して時間をとらないと、その程度の量も読めません。
これが最近の悩みだったりします。

スマホが普及して、僕たちにとって隙間時間をつぶすのに1番最初に手に触れるのがスマホになりました。
今まで移動中に雑誌や新聞を読んでいた人の中にも、それがスマホをいじるのに取って代わったという人が多いんじゃないかと思います。
雑誌や新聞よりもスマホのコンテンツが面白いとかではなく、単純に使いやすいからという理由で。
同様に、僕に限らず読書の時間もスマホに奪われたという人は多いのではないでしょうか?

別に、読書をしたら頭がよくなるとか、人生が豊かになるみたいなことを考えて本を読んだことはありません。
ただ好きだから読む。
明確なメリットがあるとは思っていないので、僕は基本的に周囲に読書は「大切だ!」とは言わないようにしていました。
「〜だから本を読んだ方がいい」の「〜」の部分に、理屈の通った説明が見当たらなかったからです。
でも、スマホをずっといじるようになって、自分の中で一つ読書をすべきという理由ができました。
それが、損得感情から読書をしようというもの(笑)

スマホが普及することで、全体的に読書をする機会が減りました。
もちろんKindleで読むようになったという人もいると思うので、その辺がどの程度かは分かりませんが、すくなくともディスプレイ上で競合するコンテンツが出てきたという意味で、それ以前よりは全体的に読書量は減っていると仮定します。
本を読む人数が絶対的に減っているとしたら、そこから得られる情報を持っている人も少なくなりつつあると考えられます。
本を読むことで得られる知識とニュースを読むことで得られる知識の最大の違いは、体系的に学べるか否かということにあります。
ニュースアプリやウェブページの情報は、本に比べてどうしても短なものになってしまいます。
したがって基本的に体系的な情報を収集するのには向いていません。
体系的な情報を得る手段を使う機会が減ったということは、そういった情報なり知識が今後差別化要因になってきます。
その意味で、読書は有効だと思うのです。

体系的に知識を学べるというのは専門書などの評論系の文章の強みですが、もちろん小説にも強みはあると思っています。
それは、活字から情報を組み立てる能力です。
やっぱりこちらもスマホで得られる情報からは鍛えづらい能力ではないでしょうか。
活字から情報を集めて頭で再構築するという作業は、ある程度の情報量(文字数)、そして筆者の強い意図がなければできません。
やはりこういったことが必要になるのは単発のニュースや感情系動画ではなく、本みたいな媒体でしょう。
情報を頭で組み立てるというスキルも、スマホが普及するにつれ低下していき、だからこそ相対的に強みになっていくように思います。

体系的な知識、情報を集め再構築する力は、訓練してすぐに役に立つものではありません。
効率化を尊ぶ現在の社会では、むしろ軽んじられている分野にさえ思います。
しかし、差別化された何かを生み出すには、本来ならそうした長期的な投資を要する下地が不可欠なはず。
僕には効率化の評価がインフレしているように見え、そしてそれは石油を見つけたばかりの人類が、やがて枯渇するものであるとも知らずにガンガン使っている様に重なります。
ヤバいって思った時に動いてもそこから身につけるのには時間がかかりすぎます。
だからこそ、今の時点で読書をして、こういった力を身につけておくことに意味がある。
10年後に僕たちくらいの世代が周りと比べて差別化できるスキルは、英語力でもプログラミングスキルでも、ましてロジカルシンキングでもなく、読書で身につけた体系的な知識、情報を集め再構築する力だと思うのです。
(英語力、プログラミング、ロジカルシンキングはいらないというわけでなく、そんなの持っていて当たり前という意味です。)
そんなわけで、改めて意識して読書時間を確保しようと思う、今日この頃。

アイキャッチは知識の強さを嫌でも分からせてくれる、竹内政明さんの名文どろぼう

名文どろぼう (文春新書)

名文どろぼう (文春新書)


余事象では生み出せないものが「魅力」であり、それこそがIT時代の差別化要因なのだと思う

ここ最近、でんぱ組inc.の「でんパーリーナイト」という曲のJAZZアレンジ作りにハマっています。
で、今日も朝から作業をしていて現在6時半(笑)
何かを作っていると改めて感じるのは、ビジネスで使う時の脳みそと、何かを作り出す時に使う脳みそは正反対だなあということです。
頭の使い方というか、アプローチの仕方がそもそも全く違います。

僕の中でビジネスは余事象の考え方。
いかに無駄を削って、分かりやすいものに落とし込んでいくのかが大切。
論理的にもれなく、重複なく考えていくのが大切です。
それに対して芸術の分野は真逆。
いかに思考をめぐらして、細部にまで神経を配るかが重要です。
人気の香水は必ずメジャーな香りに加えて、本来なら一般受けしないような変な香りが混ざっていると言われます。
これと同様に、何かを創作する際には王道の上になんらかのプラスαが必要です。
その部分が人を惹きつけるものであり、それは合理的な考え方では絶対にたどり着けない。
これは、ブログを書いたり音楽を書いたりと、なんらかの「造る」趣味を始めるまでは気づけない視点でした。

僕は人をカテゴライズするときに生産者と消費者という2分類を好んで使います。
テレビなどから受け取る情報を丸々自分の生活文脈で解釈したり、払ったコストは必ず等価で返ってくると思っている人、或いは成果を獲得するために努力や時間が必要ということを肌感覚として認知していない人たちが消費者の定義です。
一方生産者は、あるものの実際の価値と、表出した価値の差を認識できたり、発信者の立場で物事を解釈できるなど、作り手の立場から物事を見ている人たちのことです。
最近僕は、これに加えて生産者は思考法によってさらに作り手と売り手に分けられるのではないかと考えています。

作り手とは、ゼロからものを生み出すタイプの思考をする人のこと。
ムダが多いし、しばしば論理的に見えないこともあります。
しかし、膨大なムダのバックボーンがあるからこそ、そこから新たなものを生み出すことができる。
こういったタイプが作り手です。
それに対して売り手の思考は徹底したロジカルシンキング
ムダをなくして効率的に考える。
何かを生み出すのは得意ではありませんが、何かを世に出したり、組織を運営する上では不可欠な存在です。
売り手も作り手も同じ生産者の視点ではあるのですが、そのアウトプットの仕方が真逆です。
この3分類にすると、だいたいほとんどの人が説明できるように思うのです。

一見ムダに見えるものの積み重ねを、僕は知識の層と書いて「知層」と呼んでいます。
バラバラの石や砂が地中で硬くなって層になるまでに膨大な時間がかかるのと同様に、知層は一朝一夕で完成するものではありません。
十分にたまらない内ははたからみたらただのムダ。
しかし、それが層になったとき、アウトプットの下地として、圧倒的な強みになると思うのです。 
なんの栄養もない科学的に作った土で作物を育てるのと、山から採ってきた土で育てるのとの違いみたいなもの。
ロジカルシンキングで生み出したアウトプットと、知識で育てたアウトプットには明確な違いがでてきます。
ロジカルシンキングの根本が合理化にあるのであれば、その行き着く先のアウトプットは再現可能性が極めて高いものであるということ。
すべての人類がロジカルシンキングで合理的に考えたとしたら、彼らの生み出すアウトプットはみんな同じになるはずです。
それに対して知層の生み出すアウトプットの源泉はムダにあります。
いわばロジカルシンキングで切り捨てられた要素から生み出されるもの。
これは、性質上どうやってもロジカルシンキングでは到達できません。
そして、コンピューター技術が発達するにつれて、こうした合理化では到達し得ない部分こそが、唯一の差別化要因になると考えています。

前で今まで使ってきた生産者と消費者という2分類から、消費者と作り手と売り手の3分類で考えることにしたと書きましたが、それはこれからの社会では作り手の意味と売り手の意味は明確に違ってくると感じるからです。
チームラボの代表である猪子寿之さんが、「言語化できない部分こそがこらからの競争力になる」と言っています。
まさに、クリエイター的な視点はここに立ったもの。
自分自身の中にどれだけ作り手の視点を持っていることができるかが、これからの競争力になるというのが僕の持論。
その競争力を今の内に育てたいからこそ、ここ最近は芸術に触れたり、かなり意識的に何かを作ったりということをしています。
今はまだ売り手優位であまり日の目を見ない「作り手」という性質。
だからこそ、その分野の思考法に時間やお金を投資することに価値があるように思うのです。

アイキャッチは猪子さんのチームラボに関する本

チームラボって、何者? [DVD付]

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