新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



題名のない感想文

僕は意識的に「放言」をウリにしている節がありますが、政治、宗教、そしてエロは授業の中でタブーにしています。
紛いなりにも子供達に影響を与える立場、そんな僕の偏った意見を伝えるべきではないと考えるからです。

できるだけ本を読むように心がけてはいるのですが、僕の「読書習慣」は歪です。
全く本に触れない期間が何週間か続いたと思うと、急に何冊も読み始める。
そんな読み方で、月平均にしたら10冊くらいになります。

さて、日頃から子供たちに本を読もうと伝えていた本人が、忙しさや別の「おもしろさ」にかまけて本を読まないなんていうのは筋が通りません。
盆明けから、殆ど本に触れる機会が無くなっていました。
ひとつ(それまでもひどく歪なものではあったのですが)読書週間を取り戻そうと心に決めて、本を3冊ばかり買ってきました。
あわよくば授業のネタになればという、戒め半分、下心半分の決心です。

とりあえず3冊ばかりを手にして、意気揚々と自宅に帰り読み始めた昨日の朝。
手元の3冊はプロデューサーの回顧録と、都知事の本に、お色気タレントの日々の日記。
いずれも非常におもしろく、気がつくとあとがきが終わっていたのですが、読み終えてふと我に返ったときの感想はこの一言。
「・・・これ、紹介できない。」

政治、お色気、宗教の、宗教こそはないものの、初めの2つを色濃く含んだ本のチョイス。
とても紹介はできません(笑)
いずれも非常におもしろく、膝を打つ場面ばかりでしたが、どう切り取っても毒が強すぎるのです。
「おいしい毒薬」にはならなそう。。

そういえば、東北地方の一部では、フグの「毒」が料理として出されるのだそう。
フグの肝の提供は、条例で禁止されているのが大半ですが、そもそもフグ料理の文化がない地方では、その条例がないのだとか。
強ければ人を死に至らしめるフグの毒ですが、量に気をつければこれ以上ない「珍味」なのかもしれません。
それを禁止されていない地域と、それを求める客がいるのなら、「毒」も美味しい料理なのかもしれません。

僕の手にした3冊は、ちょうどフグの毒に似ています。
切り口次第では、ちょっと変わった珍味なのですが、それはお出しする時と場を選ぶ。
少なくとも「教育」の場では...

「ここまでは」と「ここからは」の線引きは人によって違います。
僕のその線引きは、かなり前者に肩入れしたものだと思います。
それを踏まえても、紹介するのは憚られるものがある。
今読み終えた3冊は、そんなもどかしさとそこに面白さを感じるものでした。

内容はヒミツ、タイトルもヒミツ。
それでどこが感想文だという話ですが、あくまで自己完結するために書き始めた感想なので、そこはご容赦願います。
(そもそもそれが「感想文」というのかも疑問ですが)
文体や散りばめた「引用文」から、もしかしたらこの本のことかもと思える感想があってもいいのかなと思い、思いきって書きました。

最後までお付き合い頂いた方には、ただ、ただスミマセンとしかいいようがありません(笑)

 

 

こち亀が終了するということで...

ジャンプで40年一度も休まずに連載を続けてきたこち亀
それが40周年の節目で連載終了ということで、1冊まるまるこち亀という少年ジャンプが発売されていました。
ワンピースの尾田先生、ジョジョの荒木先生、ドラゴンボールの鳥山先生始め、歴代のジャンプ人気作家の書き下ろしイラストが入っていて、個人的にはそれだけで満足な内容でした。
・・・多分大半が各々の先生レコメンド作品を持ち寄った総集編なので、評価しない人も多いかもしれませんが

こち亀が終わると知ったとき、なんとなくではありますが、2010年代頭から続いた「当たり前の毎日」が終了していく潮流の決定打になるんだろうなという感じがしました。
2011年9月には20年以上続いた橋田壽賀子さんの渡る世間は鬼ばかりが終了し、同年12月には水戸黄門が終わりました。
こちらはなんと40年以上の長寿番組です。
13年には宮崎駿さんが「風立ちぬ」を最後に長編映画の制作から引退し、翌年「思い出のマーニー」を最後にスタジオジブリの制作部門がなくなり(それまでのアニメーターを月給で雇うというスタイルをやめ、アニメごとに発注をかけるスタイルに)ます。
スタジオジブリがアニメーターを雇うスタイルを止めたのと同じ14年には30年以上平日は毎日続いた昼の顔、笑っていいともが終わりました。
そして、今年のSMAP解散、ここにきてのこち亀の連載終了です。
また、9月には30年以上続くさんまさんの人気番組「さんまのまんま」が終わることも決定しています。

だからなんだと言われればそれまでなのですが、こうした「当たり前」だったものが次々と終わっていくというのは、時代の空気感を投影しているように感じます。
別に上に挙げた番組などを熱心に追いかけていたわけではありません。
どちらといえば興味がない方かもしれません。
でも、これらはふと思い出した時に見て安心するような形でいつも触れてはいました。
それが僕の感じる「当たり前」という感覚です。
その「当たり前」が少しずつ終わっていく感覚。
これが2010年代は、さまざまなコンテンツの終了やSMAPの解散、宮崎駿さんの引退などで如実に表れているように思うのです。

コンテンツを通じて漠然と感じる「当たり前」が終わる感覚は、時代の変化がいよいよ加速しつつあることの表れでもあるように思います。
僕たちの世代が中学や高校だったころ、これからはIT革命だグローバル化だなんて言われながら、結局何も変わらないというような印象でした。
後から振り返れば、間違えなく世界はどんどん変化していたし、それと比較すると日本は実際に「大きな変化」を拒むような空気感があった気がします。
それが、政権交代や震災をきっかけに、変化しなければならないという方向に舵を切ったように感じるのです。
政治や大企業のレベルではまだまだ旧態依然とした状態が残っていますが、その動きは草の根レベルで着実に進んでいます。
今までは出てこなかったような問題が表出するようになったのは、変化を拒む大きな組織と変化を受け入れ始めた個人との間の溝が拡大しつつあることの表れです。

こんな風に書いていくとどんどんお堅い話の方によっていってしまいますね(笑)
僕が言いたいのはあくまで「だからこうあるべき」みたいな主張ではなく、肌感覚としていろいろ変化しているのを感じて面白いよねということです。
おそらくここからは、一番変化が早いコンテンツの分野以外からもこうした「当たり前」の終わりが次々と起こってくるように思います。
この変化が、どこ分野から起こってくるのだろうと想像すると、いろいろ楽しみです。

アイキャッチこち亀40周年記念のジャンプ


モテる日本酒の選び方-獺祭や澪が好きな女性に合う日本酒集めました。-①新政No.6

「このお酒『澪』みたい!」
以前宅飲みの場に「風の森」という日本酒を持って行ったときに、その場にいた女の子がこんなことを口にしてくれました。
また、とある飲み会の席で僕が日本酒を飲んでいたとき、「以前どこかの機会で『獺祭』というお酒をいただいたことがあって、あのお酒は本当に美味しいと思いました。」なんて話をしてくれた人がいました。
僕は獺祭という日本酒を知って、そこからどっぷりと日本酒にはまっていったのですが、飲み始めのころはとにかく獺祭のようなお酒を探していました。
しかし、いざお店に入って獺祭とにた飲み心地のお酒を探そうにも、簡単には出会えません。
飲みやすかったから「甘口」と頼んでみても少し違うし、さっと飲めたから「すっきり」したやつをと頼んでもやっぱり少し違う。
自分が飲みたい日本酒は、どういう種類なのかさっぱりわからない。
そんな経験をしたことはありませんか?(笑)

女の人が飲みやすいという切り口で日本酒を紹介するとき、僕はよく「獺祭らしさ」と「澪らしさ」という基準を使います。
チェーン店でも置いてある一番身近で有名なお酒が獺祭で、宅飲みなどで女性が気軽に選ぶように思うのが澪だからです。
獺祭らしい、澪らしいというのは、獺祭に近いか遠いか、澪に似ているか似ていないかといった基準です。
自分自身、THE・日本酒といったタイプのお酒よりも、獺祭や澪みたいな飲みやすいものが好きなので(もちろん「これぞ日本酒!」みたいなものも好きですが)結構僕の中で獺祭に近いお酒、澪に近いお酒というカテゴリに引っかかるものをたくさん持っています。
で、案外そういうジャンル分けから日本酒を紹介しているブログや記事を見たことがなかったので、僕がまとめてみようと思いました。

あくまで独断と偏見によるものなので、全然ちゃうやん!みたいなこともあるかもしれませんが、その辺は許して下さい(笑)
ということで早速一つ目を紹介します。

新政No.6です。
酵母の発酵の際にでた仄かな炭酸は(本当に僅かですが)澪のそれを彷彿させ、味は獺祭のように飲みやすいお酒です。
加えてボトルも非常におしゃれなため、家飲みのお土産としてもオッケー。
獺祭や澪のような日本酒が好きな方に自信を持ってお勧めできる銘柄です。

今回は紹介が中心であったため、お酒の紹介は一言二言でしたが、今後(不定期で)書くときは.お酒の説明をメインにしようと思います。
よかったら今後ともよろしくお願いします!



コピーライトというスキル

ここ最近、コピーライトについて考えています。
「名付ける」ことにより価値を生み出すというスキルは、様々な場面において役に立つだろうと思ったからです。
きっかけはお盆休みに大学時代の先輩とご飯に行ったとき。
某大手メーカーでマーケティングをしているその先輩が、「パンテーンの14日間チャレンジは他者ながら凄いと思って見ていた」というお話をしてくれました。
当時、パンテーンは「世界一美しい花嫁になる14日間プロジェクト」という名前でパンテーンというシャンプーを売り出していました。
先輩曰く、おそらく女性が美しくありたいであろう瞬間を言葉にして潜在欲求を駆り立てたことと、今までなかったカテゴリーを作ることでシェアを取りにいったという意味でこのアイデアが素晴らしいとのこと。
当時高校生だった僕は(そしてその先輩も恐らく高校生だったはずなのですが。。。)なんとなく見ていたCMでしたが、先輩の言葉を聞いたのと、実際に自分も結婚するような年齢になって改めてあのCMのことを考えたら、確かによくできていると思いました。

上の例はコピーライトというよりも広義にマーケティングの話に近いかもしれません。
もっとコピーライトの力に注目するのなら、みうらじゅんさんの例があります。
彼はバスの来る感覚が以上に長いバス停を集めて時刻表を「地獄表」と名付けてみたり、貰ってうれしくないお土産を集めて「いやげ物」と名付けてみたり。
とにかくいろいろな価値のないものの集まりに名前を付けることで価値を与えています。
いまや僕たちにとって当たり前となった「ゆるキャラ」という言葉も名付け親はみうらじゅんさんです。
さきのパンテーンの例は潜在ニーズを書き立てるようなネーミングやコピーライトでしたが、みうらさんのそれは全く価値のなかったものに、名付けることにより価値をつけるということです。
全く価値のないものに名付けによって価値を生み出す。
特にソーシャルがここまで発達した社会では、これが出来る人はかなり重宝されると思うのです。

LINEの取締役の田端慎太郎さんは、あるカテゴリーが存在していて、そこにお金が発生するものを「市場」と呼んでいました。
ビジネスをするのであれば市場が大切ですが、周囲の話題(あるいは岡田斗司夫さんの言葉でいうところの評価)を集めようとするのなら、市場ではなくカテゴリー自体を生み出せる力が重要であるように思います。
面白いカテゴリーがあればそれが話題になり、話題になれば人が集まる。
そうやって人の中心にいられるひとが、ソーシャル上では非常につよい影響力を持ちます。
新しいものを見つけたり、積極的に情報を発信する人をインフルエンサーと呼びますが、カテゴリー自体を作ることの出来る人は、インフルエンサーとはまた違った注目の集め方ができると思うのです。
そんなわけで今僕がプログラミング、デザインのスキルに並んで欲しいのがコピーライティングのスキル。
地道に事例集めと理論を勉強していきたいです。



アイキャッチみうらじゅんさんの「ない仕事の作り方」

「ない仕事」の作り方

「ない仕事」の作り方


安倍総理のコスプレと小池都知事の着物と、オリンピックの演出と

「いやー、オリンピックすごいですよね」
リオ五輪が始まった2日後のNPOの定例ミーティングでそう言われて初めてオリンピックが始まったと知ったくらいに僕はスポーツには無縁の生活を送っています。
そんな僕なので、当然閉会式が今週頭にあったことも知らず、今日の朝ニュースを読んでいたときに、小池百合子さんの着物姿について書かれているのを見て今更閉会式に興味をもったくらいです。
安倍首相のマリオコスプレの演出といい小池百合子さんの着物姿といい、賛否さるかもしれませんが、個人的にはいい演出だなと思いました。
まず首相のマリオ。
世界で一番有名な日本人はマリオである。
これはキングコングの西野さんが言っていた言葉ですが、マリオが日本人なのかは別として本当にその通りだと思います。
ハリウッドスターやイギリスのロックスターのように、誰が見ても「あっ!」ってなる存在は、日本では間違いなくマリオでしょう。
下手に日本人視点ではなく、リオの会場で見ている人にとって面白い演出としては、総理がポップカルチャーのアイコンに扮するというのは、非常に面白い演出であったように思います。
同じく世界的に有名ではありますが、英語表記にするとおちんちんという意味になるポケモンを選ばなかったセンスもいいなと思いました(笑)

小池百合子さんの着物も個人的に好印象です。
僕は着物のど素人なのであくまで印象の話しですが、多分ここで男性が都知事だったら、無難なスーツになったと思うのです。
しかし、女性の小池さんが着物を着るだけで「日本」という感じがします。
伝統的な服装であり、且つ公式な場で違和感がないという意味で、小池百合子さんの着物姿はかなり印象的でした。
また、細々とした絵ではない着物を選んだところにも小池百合子さんの「顧客視点」を感じます。
あれだけの大舞台で日本人が得意とする?細かな仕上げの柄を選んでは、観客には何の絵かわかりません。
大きいけれどシンプルな鶴の絵の着物というチョイスは、かなり舞台の視点がある証拠だと思いました。


なんて2人の服装からオリンピックのエンディングに興味を持って今更見てみたのですが、日本の演出の後半部分になって、椎名林檎さんが総合演出と聞いたとき、妙にしっくりきた気がしました。
あの演出をみたときからずっと感じていたのが、日本の演出にありがちな自分たちが世界に誇れる(と思い込んでいる)押し付けがなく、徹底して顧客(世界中の観客)視点だなあということです。
「日本」ではなく「東京」をアピールする。
「日本の伝統」ではなく「世界に認知されている日本文化」を取り入れる。
そういう部分がとにかく徹底されているところが、僕が閉会式のあの演出をみて一番いいと思ったところでした。
椎名林檎さんは以前から自分の音楽を「商品」と言っているくらいに、とにかく作家としての自我よりも受け手を意識した人です。
彼女のアーティストというより生産者のような気質がいい方向に働いた演出であるように思いました。


本当はARの取り入れ方や演出のひとつひとつも感想があったのですが、そんなものを全部書いたら文字数がすごいことになってしまうので、今回はあくまで大枠について思ったことをまとめました。
正直、オリンピックが決まった瞬間から、前のオリンピックに思いを馳せる三丁目の夕日的な演出、日本で流行っている有名人、そして僕たちが勝手に世界で流行っていると思っている日本文化を盛り込んだ自己陶酔型のオリンピックになるんじゃないかと危惧していたのですが、今回の演出をみてその不安は完全に払拭されました。
スポーツに全く興味のない僕ですが、少しだけ東京オリンピックが楽しみです(笑)


アイキャッチ椎名林檎さんの作品で一番好きな「落日」が収録された東京事変のアルバム

深夜枠

深夜枠



今だからこそ、文章力が武器になる

ジョーオーウェンの書いたデストピア小説「1984年」の中に出てくるニュースピークという言語。
これは、作中の政府が国民の反発を防ぐために開発した言葉です。
言語により思考がなされるのであれば、その言語自体を簡単にすれば、国民の思考力も低下する。
そんな思想のもと作られた、できるだけ語彙が少なくともシンプルな言語がニュースピークです。

ここ数年を遡ってみると、僕たちの使う言葉は、ITの発達とともにどんどん簡易化に進んでいます。
ブログなど、文章で表現していたものがメールのようにひと段落ですむようなコミュニケーションが普通になり、ツイッターを始めとするSNSが普及すると文章でではなく文でのやり取りが主流になる。
さらに短いフレーズでのやり取りが流行り、言葉そのものを投げるだけでコミュニケーションが成立し、LINEの時点ではスタンプという感情だけでのやり取りが生まれるまでになりました。
この変化は、まさにオーウェンの書いたニュースピークの普及に重なります。

もちろん政府や多国籍企業が国民の思考力を奪ってやろうと考えているといった陰謀論を唱えるつもりはありません。
そうではなくて、誰かが意図したわけでなく、全体としてニュースピーク的な「何か」ができつつある。
で、あるならばその先にあるのは国民規模での思考力の低下なのではと思っているだけです。
僕はこういう現状に対して、憂いたいわけでも非難したいわけでもありません。
単純に社会全体がそちらに流れているのなら、逆張りをするチャンスだなあと思うのです。
例えば周りのだれもが数千文字の文章ならばかけるという状況であれば、千文字程度のブログをかける僕のスキルはまるで役に立ちません。
しかし、周囲がツイッターの150字程度の文字で言いたいことを表す限界になっていたらどうでしょう。
きっと、千〜2千字の文字を書くスキルがあるだけで、相対的に強みになるはずです。

現代を生きる僕たちは、明らかに文章で自分を表現する力が退化しています。
遠方の人間と手紙でしかやりとりができなかった時代の人たちであれば、その一枚に込めることのできる情報は限られており、一つの書簡に何を書くか、どういう構成で内容を載せるかということをいやでも考えたはず。
僕たちはそんなこと考える必要すらなく、遠く離れた友達とも、会話をするようにやりとりができます。
そうなると手紙の時には当たり前のように気を配っていたであろう構成や文体といった部分への意識はどうしても減ってくるわけです。
だって必要がないから。

コミュニケーションの手段としての文字は、ますます簡易化の方向に進んでいます。
それに対して、生産物としての文章を書くスキルの必要性はそれほど落ちていない。
大学のレポートも会社の報告書も当然文章ベースです。
だからこそ、しっかりと文章を書けるだけで、相対的に評価は上がるように思います。
何より、記号としての言葉を投げるだけのやりとりが当たり前の環境にいる人と、しっかりと文章で考える習慣のついた人の思考力の差は顕著に現れます。
コミュニケーションの手段としての言葉が簡易化の方向に向かっているからこそ、文章で伝える訓練を積んでおく。
僕には英語や簿記のスキルよりも、長期的にみて武器になるように思えます。

アイキャッチはイケダハヤトさんの「武器としての書く技術」

武器としての書く技術 (中経出版)

武器としての書く技術 (中経出版)


ライフワークバランスを真剣に考えると1日3時間の残業が妥当

ライフワークバランスなんて言葉をよく聞きます。
生き方も働き方も人それぞれなので、仕事とプライベートをともに充実させるという考え方自体には全く疑問はありません。
ただ、変に細かな性格のライフワーク「バランス」という以上、しっかりと「バランス」をとるべきだよなと思ってしまうのです。
で、しっかりとバランスを取ろうとしたら、僕の中では一日3時間くらいの残業はしなければいけない計算になります。

ライフ(プライベート)とワーク(仕事)のバランスを取るという以上、その比率は恐らく1:1が妥当なはずです。
仮に移動時間や睡眠時間、そのた諸々を含めて一日あたり8時間を消費するとしたら、一日あたりの残り時間は16時間。
それをライフとワークに均等に分けるとしたら、それぞれ8時間が「バランスのとれた」配当でしょう。
これなら一見すると1秒たりとも残業せず、定時に帰るのが「バランス」のとれた働き方に見えます。
でも、基本的にこの分け方には休日は含まれていません。
当然ライフとワークでバランスを取るのならば、休日なんていう100%ライフの側による物を除いて考えるのはフェアじゃない。
休日分に生じる「ライフ」分のアンバランスは、月曜〜金曜までの部分で調整しなければなりません。

土日も本来ならそれぞれ8時間分の「ワーク」に割く時間が割り振られています。
この2日分あわせて16時間を月曜〜金曜に均等に分配すると、1日あたり3時間12分です。
というわけで、本当の意味でライフワークバランスを実現しようと考えたら平日は毎日3時間ちょっと残業して、それでちょうどいい計算になってしまうのです(笑)

決してライフワークバランスという考え方が嫌いなわけでも、そういう考え方をする人をディスりたいわけでもありません。
ただ、バランスという言葉を使う以上しっかりとバランスが取れていないと気になるし、少なくとも僕はその辺を考えずに「ライフワークバランス」という言葉を自分都合で使うのはいやだなあと思うので、数値として一回考えてみました。
というわけで、僕がもし週休2日のサラリーマン生活をしていて、ライフワークバランスという言葉を使うとしたら1日あたり3時間ちょいの残業をしなければいけないことになってしまいます。
そんなの絶対に嫌だ、、
おそらくライフワークバランスという言葉を武器に、仕事とプライベートを本当の意味で5分5分にしようとしたら、大半の人が今以上に働かなければならないという結論になってしまうのではないでしょうか?(笑)

なんて、人の半分くらいの時間しか働いていない僕が書いても全く説得力はないのですが、、、

アイキャッチ堀江貴文さんのこの本