日本一説得力のないブログの続け方講座(仮)
- 作者: 染谷昌利
- 出版社/メーカー: インプレスジャパン
- 発売日: 2013/06/21
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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「なぜおばちゃんは高校野球を見て感動するの?」問題について
毎日書いているときは、一日でもブログを更新していないときがあると、「あっ」となり、半ば強迫観念といえるような「書かなければいけない」という気持ちに迫られるのですが、何日も書いていないと、パソコンの前に向かってブログのエントリを書こうとすると、なぜか書きたくないという気持ちが勝ってしまい、気がつくとずっと更新をしていない状況になってしまいました。
やはり、習慣化することは大切だなと思う今日このごろです。
大分ブログの更新をしていなかったこともあり、ポケモンや都知事選など、書きたいネタはたくさんあるのですが、直近で面白いなと思ったことがあるので、「なぜおばちゃんは高校野球を見て感動するの?」問題について書かせてください。
始めに僕の立ち位置を確認しておきますが、僕は高校野球に全く興味がありません。
正直なところ見ていて感じる感想といえば、熱そうだなということと、チアの子がかわいいなくらいです。。。
先日、母の実家に挨拶に行ったとき、祖母がテレビで高校野球を見ていました。
そして祖母はいつものように「やっぱり高校球児が頑張っている姿をみると感動する」といっていました。
ここです!!僕が高校野球についてずっとわからなかったのは球児が頑張っている姿を見ると感動するというところなんです。
先日生徒の女の子も球状に試合を見に行ったらしく、同じことを言っていました。
高校野球に限らず、箱根マラソンなどもそうですが、僕は「人が頑張っている姿を見ると感動する」という言葉を聞くたびに「どこにどうして感動するの?」と聴いています。
もちろんこれは決して嫌味ではなく、本気で何処に感動するかを知りたいと思うからです。
で、何人にも聞いているのですが、どうしても僕が納得できる理由が得られませんでした。
何人にも聴くうちに(そしてその殆どに面倒なやつという視線を向けられるたびに)、これはもう、向こうに懇切丁寧に説明してもらうのではなく、こちらから擦り寄っていくしかないなという結論に至りました。
そして、僕が自分の中で高校野球をみて感動する理由を考えてみました。
それが以下の仮説です。
僕が考えたのは、高校野球に感動するか否かのポイントは、その人が高校球児以上の努力をしているか否かにあるというものです。
仮に高校球児と比べると、自分は全く努力をしていなかったとします。
そうすると、高校野球を見ていると、「あれだけ頑張った子たちが努力で結果を掴んで感動した。」あるいは「あれだけ人生をささげて頑張ったのに夢が破れてかわいそう」という気持ちが生まれるのだと思います。
逆に、普段から高校球児よりもはるかに多くの努力をしている人がいるとします。
この部類の人にとっては、高校球児の努力は別に評価に値するレベルではありません。
むしろ何かを掴み取ろうと思うのであれば最低限必要な努力量。
そうなってくると、高校野球の見え方が途端に変わってしまいます。
当たり前の努力をした人たちが試合をして勝ち負けを競っているだけ。
そこには一過性の勝敗に関するワクワクはあるかもしれませんが、「努力した人たちが夢に向かって頑張る」という種の感動は生まれません。
自分が高校球児(ここでいう「高校球児」はスポーツをみて感動するという手のコンテンツの代名詞としての扱いです)の努力が自分の想定する努力よりもはるかに大きいと感じる人にとっては、高校野球は感動するコンテンツで、自分の方がはるかに努力していると自負している人にとっては何も感動する要素がない。
これが、高校野球に感動する人としない人の違いなのかなあと思います。
こんな風に書くと高校球児の努力を馬鹿にするなと言われてしまうかもしれませんが、少なくとも僕は自分の仕事や関わるプロジェクトに関して、高校球児と比べても負けないくらいの努力をしていると自負しています。
だから、高校野球をみて微塵も感動はしないけれど、磨かれたプレイを見れば凄いとは思うし、その練習量を察すると彼らに負けないくらいに努力をしようと元気づけられることはあります。
たぶん感動するか元気づけられるかは、コンテンツに対する向き合い方の違いなんだろうなあと思います。
そんなわけでこれが現時点で考える、高校野球に感動するか問題のとりあえずの考えです(笑)
受験で成功するのに必勝法はないけれど、上手くいかない「必敗法」はあるのではないかというお話
僕は学生時代も含めると、かれこれ8年ほど塾講師をしているのですが、これまでに出会って来た子どもたちを振り返ってみると、つくづく「合格する子にパターンはないけれど、落ちる子は共通しているな」と思います。
よく、合格するための「正解」を聞かれるのですが、正直なところ、勉強時間にしろ勉強方法にしろ、自分が第一志望に掲げた大学に入学した子の方法は様々です。
量と時間と根性で突破した子もいれば、徹底的な効率化で合格した人もいます。
「これさえすれば!」といったうたい文句の塾や参考書を見かけることがありますが、正直受かるのには(無駄を省くことはできても)正しい道なんてないように思います。
一方で、受験が上手くいかなかった子に目を向けてみると、いくつかの共通点を見出すことができます。
合格する子には共通項、必勝パターンみたいなものはないが、失敗する子には多くの点で共通するパターンがあるというのが、おそらく教育に関わる人たちの共通認識であるように思います。
ということで、僕が強く感じる「上手くいかない子」の共通項をまとめてみたいと思います。
①スケジュールを立てない、計画通りに動けない
何かを達成するためには、その工程表、つまりスケジュールが不可欠です。
家を建てるのであれば設計図が、銀行から資金を調達するためには事業計画所が。
そういった「どういう工程で進み、どのくらいの期間で達成するか」という計画がなければ、ある程度の規模の目標は達成できません。
もちろん計画表がなくても達成できることは多く存在しますが、それは①計画表がいらないくらい簡単な目標であるか②計画表がいらないほど自分の能力が上回っているかのいずれかです。
誰の目にみても明らかにその工程どおりにいけば目的を達成できるという計画を示せる人はどんな分野でも一定の成果を出すことができます。
逆に、無計画な人は現状の実力の範囲内でしか成果を得られません。
そのため、受験勉強で自分の現状よりも大きな目標を掲げる場合、計画をしっかりと立て、且つそれを守れなければ目標を実現することは不可能なのです。
受験が上手くいかない人は例外なく、このスケジューリングができていません。
②勉強を「~したい」で行っている
受験勉強がある目的を達成するための手段である以上、そこあるのは「~しなければならない」という、mustによる意思決定です。
当然そこには自分の好き嫌いやわずらわしさといった「気持ち」と対立する事柄も多く登場します。
結果がでない人ほど、「この勉強がしたい」「この科目が好き!」といった、自分の感情を優先しがち。
結果として、好きだったりラクだったりする科目にばかり勉強の配分が傾き、合格からどんどん遠ざかります。
勉強の成果は対数関数的に増大します。
したがって、たとえ得意な科目であっても、9割から9割5分に伸ばすことは苦手科目を5割から5割5分に伸ばすことと比べれば大変なのです。
その辺を割り切ることができず、自分のやりたい気持ちを優先していれば、当然結果として合格は遠ざかります。
これもやはり受験勉強がうまくいかない子に共通する特徴です。
③コスト意識がない
時間であれお金であれ、基本的にあらゆるものが有限です。
特に試験日が固定されている受験生に関しては、「時間」は非常に貴重な資源です。
どんなささいな物に関しても、常に投資した時間に対してどれほどのリターンがあるのかには意識を向けておかなければなりません。
極端な話、周りに時間の制約があって自分にだけ時間が無限に与えられたならば、どんなことでもかなえることができるのです。
受験で上手くいかない人ほど、この「コスト感覚」が薄いように思います。
「この勉強をしなければいけない」というものを見つけたら、それのリターンがどれほどかを考えず、とにかく膨大な時間を費やしてしまうのです。
本来有限であるはずの時間を無限のものであると思い湯水のように使いこめば、当然そのツケは後の自分に回ってきます。
受験勉強でいえば、受験日に間に合わないということになるのです。
限られた期間の中で目標を達成しようとすれば、限られたリソース(時間)をどう使うかに目を向けなければいけません。
それをしなければ当然、得られる結果は配分ミスによる期待にそわないものとなってしまうのです。
他にもいろいろとありますが、特に上に挙げた三点は、受験で上手くいかない人に例外なく共通します。
もちろん、これら3つをしないようにするだけで合格できるなんてものではありませんが、少なくとも合格の可能性は出てきます。
もし受験生の方で、自分でこれらを自覚している、あるいは周りに注意されたことがあるという人は、ぜひ注意してみてください。
EXILEの銀河鉄道999はマーケティング的に成功か
少し前に銀河鉄道999のエントリを書いた関係でYouTubeで銀河鉄道999の動画を貪っていたのですが、その過程でEXILEのカバーする銀河鉄道999にたどり着きました。
普段はあまりコメント欄は見ないのですが、不意にコメント欄が気になって見てみたら批判の嵐(笑)
EXILEファンの方のEXILE擁護意見、EXILEアンチの方の批判、そして往年のゴダイゴのファンの声と、多方面で面白いなあと思いました。
それぞれのコメントはともかく、僕は純粋にEXILEのマーケティング戦略として、ゴダイゴの銀河鉄道999カバーが成功だったかどうかに興味があったので、その辺をいじってみたいと思います。
これは完全に僕の憶測ですが、そもそもEXILEが銀河鉄道999をカバーした動機って、新しいファン層の開拓にあったんじゃ無いかって思うんです。
普段EXILEに馴染みが無いであろう団塊ジュニア世代に対してアプローチをかけようと思ったとき、ゴダイゴというチョイスは大正解だと思います。
ただ、問題はここから。
新しいファン層を獲得しようと思ったら、カバー曲をきっかけに、他の曲にも興味をもってもらうことが不可欠です。
そこが銀河鉄道999をカバーしたことでできたかどかがポイントだと思うのです。
僕がEXILEを聞くようになったきっかけは、Choo Choo Trainでした。
これもカバー曲。
アレンジにボーカルの声が合っていたこともあり、そこからEXILEを聞くようになりました。
今まで興味のなかった層にリーチして、そこから新たなファン層を開拓していくといういう意味で、ChooChoo Trainのカバーは成功だったと思います(少なくとも僕みたいなタイプには)
それに対して銀河鉄道999の場合は、Choo Choo Trainのときの様にはなりませんでした。
むしろ、EXILEのカバーをきっかけに、ゴダイゴの歌う原曲を久しぶり聞いてみたいと思った人の方が多い様な気がします。
EXILEが銀河鉄道999をカバーしたのと同じくらいの時期からゴダイゴのテレビ露出が増えていることからも、EXILEのカバーを聞いてEXILEに興味を持つよりも久しぶりにゴダイゴをみたいと思った人が多かったと考えることが出来ます。
EXILEのカバーした銀河鉄道999については、特に思ったことはありません。
ただ、純粋にマーケティング的な観点で見たときに、僕は失敗、、、Choo Choo Trainのときほどは上手くいかなかったのでは無いかと思うのです。
将来役に立つスキルを身につけるなら、英語よりパソコンだと思う
僕の基本的な考え方はとてもシンプルで、一言でいえば「逆張り」です。
以前、超簡単!自発的に女の子がスカートを短くするのと男子の制服着崩しをやめさせる方法 - 新・薄口コラムというエントリを書いたのですが、これの基本的な考え方も、「どうしたらスカートを短くするのをやめさせられるか」ではなく、「どうしてスカートを短くしたいのだろう」という考え方から行いました。
多くの人がAに行くのなら、その反対方向を考える。
何かについて考えるとき、僕はまず、この逆張りから入ります。
就活シーズンになったためか、僕のFBやTwitterのタイムラインにしばしば就活に役立つスキルなるものが流れてきます。
その中でよくあるのが「英語力」です。
で、これを見てぼくが考えるのは「逆張り」で、むしろ英語力は役に立たないのではないかということ。
小中高の学習指導要領に大学まで、様々な場面でグローバル人材としての英語の必要性みたいなことを耳にしますが、ここまで重要性が説かれてしまったら、「最低限必要なスキル」としてならともかく、「英語ができる=武器になる」とはいかないように思うのです。
もちろん、現実として僕の周りには英語ができるが故に一流企業に勤めている友達がたくさんいます。
しかし彼らの「英語ができる」は海外に1年以上の留学をしていて、且つTOEICでは軽々900点を超えるレベルのお話です。
確かにこのレベルならば武器になりますが、それも現時点(厳密には僕が就職活動をしていた3年前)のお話。
ここ何年も英語力の大切さが強調されているので、おそらく「武器になるレベル」は今後ますます高くなると思うのです。
英語力はいわば求められるハードルがインフレ化している分野です。
世間でその重要性が叫ばれれば叫ばれるほど、要求されるラインは上がり、投資した時間あたりのリターンは小さくなっていくはず。
そんなわけで僕には、英語をこれからの自分の武器にしようとはどうしても思えないわけです。
こんなことを言うと、「じゃあお前は何を武器にしたらいいと思ってんねん!」と突っ込まれてしまいそうです(笑)
僕が仮に今大学生だったとして、これからの社会に出る上で身に付けておこうと思うスキルを考えるとしたらそれは、間違えなく「デフレ化」を起こしている分野だと思います。
たとえばパソコンなんかがその典型例です。
i-Phoneを筆頭に、ゼロ年代後半から、驚くべきペースでスマホが普及しました。
それに伴って、若者のパソコンの所有率は低下しています。
しばしばスマホはパソコンの小型版というような紹介のされ方をしますが、その機能的な特徴から見たとき、明らかにパソコンとは異なるものであるということができます。
パソコンの基本的な用途が「生産」にあるのに対して、スマホの基本は「消費」です。
これは、オフィスワーカーをターゲットにしたことで成功したマイクロソフトがパソコンでのシェアで圧勝し、消費者をターゲットにスマホのシェアを撮っていったApple社の成功からも明らかです。
根っこをたどればパソコンは生産のための「道具」で、スマホは消費のための「道具」なのです。
この辺はちきりんさんのブログで詳しくまとめられています。
僕がねらいどころだなと思うのは、生産者側のデバイスであるパソコンと消費者側のデバイスであるスマホという明確な特性の違いがあるにも関わらず、両者はしばしば混同して語られ、しかもこの軸で見たときにスマホのシェアが圧倒的に伸びているという部分です。
スマホとパソコンという同じ電子機器としてみれば、より新しい技術が古い技術を淘汰しつつあるというように見えますが、パソコンを「生産デバイス」と、スマホを「消費デバイス」と読み替えると、消費デバイスが生産デバイスを淘汰しつつあると見ることができます。
これが、僕の考える「スキルのデフレ化」です。
度々このブログのエントリで言っていますが、僕は現状起きていることに対して「いい」とか「わるい」とかいう意見は持ち合わせておりません。
単順に、「こう見えるから、僕はこう動く」という部分のみ書いています。
したがって、上に書いたお話に関しても「こうあるべき/こうするべき」といった「べき論」は一切ありません。
ただ、生産ツールとしてあるパソコンが今の一番若い世代にとってなじみの薄いものになりつつあるのであれば、それを使いこなせることは大きな武器になるなと思っているだけの話。
少なくとも、インフレ化しつつある「英語力」よりは、デフレ化しつつある「パソコンのスキル」の方が、効率よく周りと差別化できるように思うのです。
もちろんここで言う「パソコンのスキル」とは、ExcelやWard、パワポにとどまらず、最低限のプログラミングやデザインができるというレベルです。
ただ、それでも今後求められるであろう英語力の水準と比べたら、こちらのハードルの方がずっと低いように思います。
よく、僕みたいな考え方は天邪鬼とかひねくれてるとか言われますが、100%間違えではないと思っています。
少なくとも変革期には「逆張り思考」が思はぬところで役に立つような気がするのです。
なんて、英語を教えている人間が言うのもおかしな話ですが。。。
アイキャッチはこの前偶然すれ違った落合陽一さんの本
ゴダイゴ銀河鉄道999考察~英語詩と日本語詩の対比から見る映画のその続き~
最近ゴダイゴさんの代表曲、「銀河鉄道999」にハマっています。
僕が生まれるよりもずっと昔の曲ですが、平成生まれの僕が30年以上経ったいま聞いても、名曲だなと思います。
何より、あれほど映画のシーンにマッチした曲はそうそうないと思うのです。
Aメロの「さあ行くんだ その顔をあげて」の部分は低いBの音からどんどんうえに上がっていきます。
この歌いだしが、映画で銀河鉄道999が夜空に向かって昇っていくシーンとぴったり重なります。
その結果、出だしを聞いただけで映画を知っている人間をワクワクさせてくれます。
また、原作者の松本零士さんは「999」という名前には「1000の1つ手前」つまり少年が大人になる直前という意味を込めたのだそう。
映画は、主人公がメーテルと別れて終わるのですが、「銀河鉄道999」という名前を松本零士さんのいう意味で解釈したら、少年が自分を運んでくれる列車から降りて一人で歩き出す、つまり少年が列車から降りて大人になったと解釈することができます。
しかし、映画の最後だけをみるとどうしてもメーテルとの別れを悲しむ少年の姿が印象に残ります。
これから一人で歩き出す姿はあまり想像できない。
そこにゴダイゴの銀河鉄道999が流れ、Aメロでグッと上り調子のメロディが流れることで、少年が前を向いて歩き出したと安心させてくれます。
あの出だしの4小節で銀河鉄道999が空へ昇っていく場面と、主人公が前を向いて歩き出す(=少年が大人になる)という成長の両方が伝わってくる。
本当に面白いAメロだと思います。
メロディはもちろんのこと、歌詞に関しても面白いなあと思うことが多くあります。
僕がこの曲を初めて聞いて真っ先に気になったのは、視点が三人称であるということです。
「あの人はもう思い出だけど君を遠くで見つめてる」
「そうさ君は気づいてしまった」
「あの人の目がうなづいていたよ別れも愛のひとつだと」
おそらくここで言う「君」が主人公の鉄郎、「あの人」がメーテルなのでしょう。
この歌の歌詞では特定の人物の視点ではなく第三者の視点で書かれています。
この書き方のおかげでいい意味で感情移入せずに歌詞の展開を聴けるのだと思います。
そしてサビの部分の英語詩。
「The Galaxy Express 999 Will take on a journey A never ending journey A journey to the stars」
(銀河鉄道999が君を旅に連れて行く、終わりのない旅、まだ見ぬ星へ向かう旅に)
鉄郎にもメーテルにも感情移入していないからこそ、この歌詞を僕たちは自分達に重ねて聞くことができます。
この歌詞は銀河鉄道999の英語詩を作詞した奈良橋陽子さんが最もこだわったフレーズだそう。
そして、ゴダイゴのメンバーの人たちも、英詩のまま残したいといって、この形になったようです。
何度も出てくる「journey」のフレーズがあることで最後のリフレインがいっそう引き立っているように思います。
サビの英語詩の部分は曲の雰囲気を決める際にも影響を与えたのだそう。
あるインタビューで、タケカワユキヒデさんがこの曲を作曲した時点ではもともとバラードだったと言っていました。
それを編曲したミッキー吉野さんがアップテンポな曲調にしたと言っていました。
その際に「Fly me to the moonならゆったりだけど、Journey to the starsだったらもっと早いイメージだ」と思ったのだそう。
Fly me to the moonはゆったりとしたジャズのスタンダードナンバーの一つ。
確かにそれと比べると「銀河鉄道」「Journey to the stars」はもっとテンポが速いような感じがします。
凄く的確な表現だなあと思いました。
こうしてできたのが、今の銀河鉄道999。
いつものことながら考察を書くつもりがただのファンの感想になってしまいました(笑)
ただ、もう一点だけどうしても紹介したいことがあるので書かせてください。
それはもともとの英語詩についてです。
この曲は作詞家の奈良橋さんがまず英語詩を書き、曲が完成した時点で日本語の歌詞が乗せられるという形で作成されています。
元の歌詞と日本語の歌詞を比較するととても面白いのです。
「I thought I reached the end」
「The end of a long long journey」
「Only to find It’s not over」
「There’s so much more to discover」
(僕は長い長い旅の終わりに着いてしまったと思っていた)
(でもまだ旅は終わっていないことに気づいたんだ。まだずっとたくさんの見つけなきゃいけないものがあることに気づいたんだ)
英語の歌詞では一人称で描かれています。
そして、日本語の歌詞よりも主人公の「これから」に向かって進んでいく姿が伝わってきます。
「I thought I reached the end」というのが銀河鉄道999での冒険のこと。
前で挙げたように、少年であった「鉄郎」の気持ちです。
そして、映画の最後でその旅の終わりにたどり着きます。
そして歌の中で主人公は「Only to find It’s not over」まだ終わっていない、というより自分の足で探さなければならない新たな旅に気がつきます。
これが
文法的にここで「Only to find」と結果用法が用いられることで「少年としての旅が終わり、『その結果』新たな旅に気がついた」というニュアンスが伝わります。
少年としての旅が終わった結果気づく新たな旅というのは紛れもなく「大人になる」ということ。
日本語の歌詞は映画のナレーションのような第三者視点で映画の最後をきれいに纏め上げているのに対し、英語の歌詞は主人公の「言葉」で描かれている。
僕はこの両方を聴くことでまるで映画の続きを見ているような印象を受けました。
そして、その両者がサビの「A never ending journey」の部分で繋がる。
そんな風に聴くと、凄く壮大な世界観を持った曲のように感じます。
・・・と言うわけで結局完全にファンの感想文になってしまいました(笑)
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