新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



「忙しさ」の異文化理解〜仕事型の忙しさと研究型の忙しさ〜

入試が近づくと毎年そうなのですが、ここ最近、問題研究に追われています。

特に今年は受験生が異様に多いので、(ありがたいことに)寝ても覚めても問題の事を考えているみたいな感じです。

この前夢に光源氏が出てきました(笑)

で、問題研究をしていて、「研究」的な忙しさと、いわゆる「仕事」的な忙しさとでは、全く毛色が違うんだなあということを強く感じました。

営業や企画みたいなマルチタスクを行うタイプの忙しさって、まとまった時間が取れないタイプの忙しさなんですよね。

だから、うまく仕事を回そうとすると隙間時間をいかに使うかというお話になってくる。

まとまって「○○時間」みたいなのは無理だけれど、細かな時間は工夫して捻出することができますというのが「仕事」タイプの忙しさ。

それに対して、研究職の仕事の忙しさって少し違います。

研究において最も重要なことはまとまった時間を1つの案件に投資するということ。

つまり、ある程度まとまった時間を捻出することはできるけれど、細切れの時間を作るのが難しいわけです。

1つのことにずっと没頭しなければならない時に、定期的にノイズが入ってくると、その度に集中が切断されてしまいます。

だから、どこかでまとまった時間を取ることはできるけれど、細かなやり取りが難しいというのが「研究」タイプの忙しさであるように思います。

そして、それぞれ「仕事」タイプの忙しさを感じている人と「研究」タイプの忙しさを感じている人は基本的に違うタイプの忙しさを理解することができない。

 

塾の先生といえば授業をしているイメージですが、授業の準備の方が数倍も手間がかかっています。

昔、「講習大変でしょ?」と言われたことがあるのですが、どちらかといえば講習そのものが大変というよりは、その準備が大変というのが塾に関わる多くの人の意見だと思います。

極端な話、授業準備さえできていれば、後はそれを「話すだけ」ですので。

そんなわけで、僕は塾講師は研究職のような側面が強い仕事だと考えています。

大学入試の問題研究をしようとしたら、解く所から、傾向や特徴を掴むところまでを含めると、どうしても2.3時間のまとまった時間が必要です。

(少なくとも僕の場合は)

で、研究なんて基本的に知識と情報の積み上げが命なので、他のノイズが入って来ない状態を長時間取ることができればそれだけアウトプットの精度は高まるように思うのです。

僕は常々「電話が嫌い」と言っているのですが、その最大の理由はここにあります。

状態を分析しているときにその集中力が分断されて、アウトプットの精度が下がるのがとにかく嫌なのです。

文理を問わず、また職種を問わず、何らかの研究的な要素があることを仕事にしている人ならば、少なからず共感して頂けるところだと思います。

あとは研究職意外にも、文章を書いたり、プログラムを作ったり、デザインを作ったりする人もこの感覚に近いんじゃないかなあと思います。

 

僕は昔、営業としてバリバリ仕事している友達にこの時期は忙しいと言われて「じゃあ空いた時間にゆっくり電話させて」と言ったら、「だからその時間がとれない!」と怒られたことがあります。

僕にとって忙しい=まとまった時間を邪魔されたくないなので、むしろ集中してパフォーマンスが発揮できる時間が終わったあとの枠を貰えたらという意味で言ったのですが、彼にとっては逆に細かなLINEには直ぐに返信できるけど、電話みたいな時間が拘束されるのは勘弁ということだったみたいです。

この辺、僕には全く理解ができない視点でした(ゴメン...!)

後で聞いた話では、忙しい時はマルチタスクをガンガン回しているから、寧ろ細切れの時間なら取りやすいとのこと。

これが「仕事」型の忙しさです。

 

仕事型の忙しさにしろ研究型の忙しさにしろ、「忙しい」という事実は変わりません。

しかし、それぞれの忙しさの毛色は全く違い、むしろ一方にとっての暇な時の対応の仕方が、もう一方にとっての忙しさになる。

この辺はすごく面白い現象であるように思います。 

多分この辺って、その人の向き不向きにかなり営業を与えているはず。

だから、仕事選びの際にどちらの忙しさが自分には向いているのかという視点で考えてみるのもいい視点なのではないかと思います。

まとまらなくなってしまったのでこの辺で、、、

 

アイキャッチはちきりんさんの生産性の話

 

 

 

2017年京都産業大学一般入試本居宣長「紫文要領」現代語訳

 今年度入試で出題された、古文の現代語訳速報です。

仕事の合間に急いで訳しているので、細かな違い(時に大きな読み間違えがあるかもしれません..)はご了承下さい。

また、あくまで話の筋を追うことを第一に訳しています。

そのため、文法事項や敬語はあえて無視しているところがあります。

随時アップしていく予定ですので、よかったらご参照下さい。

 

問題

次の文章は『源氏物語』蛍の巻で、玉鬘と源氏の間に交わされた「物語」についての会話を本居宣長が解説した『紫文要領』の一節である。『源氏物語』では、はじめ源氏は物語に夢中になっている玉鬘をからかって、物語をけなすようなことをいうが、むきになって物語を擁護する玉鬘に、改めて自身の物語についての考えを述べる。読んで、後の問いに答えよ。

 

 

 さて、以前に源氏は物語のことを「嘘をよく付きなれた人の作ったものでしょう」と言いましたが、ここには源氏なりの持論が隠れています。その答えはこうです。物語はいかにも嘘のようではあるけれども、現実でまったく起こっていないことではありません。そこに描かれるのは、全て世の中で起きていること。ある人のことを名指しでありのままに言っているわけではないけれど、全てが現実に起こったことで、良いことや悪いことで目や耳にあまった出来事を、後の世界にまで語り継ぎたいと思いが心の中で抑えきれなくなって、それを作り物語に託して書いたものなのです。それならば、物語は嘘でありながら嘘とは言い切れないということになりましょう。
 さて、人びとは源氏物語に書かれたことを勧善懲悪の筋書きだと思うそうだけれど、それは浅い解釈であり、紫式部が込めた本心ではありません。たとえを挙げて紫式部の本心を言うのであれば、日常生活の中でめったに無いことや不思議なことを見たときに、自分の心の中でだけひっそりと「不思議だ、珍しい」だなんて思っていられないでしょう。そのようなことに出会ったり、聞いたりすれば、人に語って聞かせたいものなのです。このことを思い出して、紫式部の本心を考えてみてください。たとえ人に語ったとして、自分にも人にも何の役にも立たず、また、自分の心のうちにしまっておいたところで何の不都合もないのでしょうが、これは珍しいと思い、これは恐ろしいと思い、いとおしい、趣深いと感じ、うれしいと思ったことは、心の中で思っているだけではすまないもので、必ず人に語らずには居られないような代物なのです。世の中に溢れるあらゆるものを見たり聞いたりして心が動いて「これは!」と思うものはみなここに漏れません。詩歌を歌わずにはいられないという気持ちも、これと根っこは同じところにあるのです。
 さて、見たり聞いたりして、珍しいとも不思議とも、趣深いとも恐れ多いとも、そして慈しみや趣深さを感じたともわかりませんが、何かしらたものに心が動いたときは、その見たり聞いたりしたものを心の中で思っているだけではいられなくなって、人に語り聞かせるものなのです。それは語ることも物語として紙に書くのも同じこと。さて、その見たり聞いたりしたものに対して「あはれ」や「かなし」といった感情が生まれることを、心が動くというわけです。その心が動くことこそが正に、「もののあわれ」を知るということなのです。その点から見れば、この作品は「もののあわれ」を知るものというほかありません。作者の本意が「もののあわれ」にあるのであれば、見たままを忠実に書くのに満足せず、まら聞いたこと以上の物語に仕立て上げるのも、それを読んだ人に「もののあわれ」を伝えようとするためであるということを、この源氏と玉蔓のやりとりから悟るべきでしょう。

 

 アイキャッチ源氏物語の漫画「あさきゆめみし

 

2017年京都産業大学一般入試1月25日「十訓抄」現代語訳

今年度の入試問題の全訳を徐々にアップしていこうと思います。

内容の背景を捉えることを第一目標としているので、直訳とは若干異なるところがありますが、ご了承下さい。
(かなり急いだので、大分雑になってしまいました。。。)
順次、他の大学、他の日程もアップしようと思うので、よろしくお願いします!

 

 和泉式部の娘、小式部の内侍が、この世のものとは思えないほどに重い病にかかった。病が進行し、命も限界に近づいて、人の顔を見分けることもできないほどになって臥していた。和泉式部は側にいて、額を押さえて泣いていた。小式部の内侍は目をわずかに開けて、母の顔をつくづくと見て、息をあげながら、
どうしようか、私はもう生きられそうにありません。母に先立って死んでいく私は、その行き先もわかりません。
と震える声で詠んだところ、天上の上から、あくびを押し殺したのだろうか、と思うような声で、「まあかわいそうに」というのが聞こえた。
 さて、日がたつと、小式部の内侍は体の熱も冷めて、病気はすっかりよくなったそうだ。
 大江挙周が和泉に赴任した後、重病にかかった。住吉にたたりがあるとの事を知って、母の赤染衛門
 息子に代わって死んであげたいと祈る私の命が惜しいだなどということは思いませんが、願いが叶ったときに息子と別れなければならないことばかりが悲しいのです。
と読んで、神様へのお供え物に書き添えて、この神社に奉納したところ、その夜に夢に白髪の老人が現れて、このほう納品を取ると、息子の病が癒えた。

Google翻訳のカメラ機能は、Twitterでイジる以上の価値がある

朝起きたら、google翻訳の画像翻訳機能が出てきて、久しぶりにこれは凄いと思いました。
サービス内容は専用のアプリをダウンロードして起動すると、それをかざすだけで自動に翻訳されるというもの。
GATSBY FACIAL PAPER→ギャツビー顔の紙」や「With Rose Hips→ローズで尻」みたいに、 まだまだ誤訳が多く、Twitterではそれがネタにされていましたが、このサービス、ポテンシャルを秘めていると思うんです。
ちょうど先日、藤沢数希さんのメルマガでGoogleフォトの話が出ており、この二つのサービスが組み合わせて考えると、とんでもないポテンシャルを秘めたサービスだと思ったのです。

僕は基本的にGoogleのビジネスモデルって、便利なサービスを無料で提供し、そこで得た膨大なデータを下に様々なサービスを作りあげて圧倒的な差別化を測るってところにあると思っています。
アンドロイドもそのソフトウェアを売ることでは無くて、それを通してGoogleのサービスを使ってもらうことが目的。
とにかくGoogleのプラットフォームを使ってもらえさえすれば、そこに広告を貼ってマネタイズすることもできるし、企業向けに提供する消費者の行動を記録した膨大なビッグデータを抱え込むこともできてしまいます。
極端な話、全てのウェブ上の行動をGoogleが所有してしまえばそれを使ってGoogleはどんなサービスでも提供できます。
企業向けに膨大なデータを用いて消費者層に最適化した広告を作ることもできるし、そのデータを下にコンサルティング的なこともできる。
絶対にやらないとは思いますが、Googleのサービスが僕たちの生活に無くてはならないものになった段階で有料に切り替えたら、僕たちはお金を支払ってでもそのサービスを使い続けなければならないでしょう。
今でもgmailなど、明日から有料になるからといって別のサービスに乗り換えるなんてことはできないって人は多いと思います。

僕はGoogleフォトに関して、利用者がクラウド上に画像を保存できるというサービスは表面的な部分であり、このサービスの根幹は膨大な画像データの分析にあると考えています。
世界中のあらゆる人が撮った写真データを持っていて、それを人工知能で解析する技術も持っていれば、世界中の人びとのあらゆる行動パターンをデータとして分析することが可能になります。
たとえば夏休みにはどの世代のどういう人種の人がどこに旅行に行く傾向が強いみたいな分析も容易にできるようになると思うのです。
画像データからは検索ワードやメールの言葉からは分からない、より日常に即した行動パターンが得られるはずです。
その辺のデータを集めることが、このサービスの根幹だと思うのです。

翻訳に関しても同じです。
今はまだ誤変換も多いですが、世界中からの膨大なデータが蓄積されれば、すぐにその辺は修正されるでしょう。
というか実際にテキストベースのGoogle翻訳も音声文字起こしも間違えのデータを蓄積することで現在かなりの精度になっていることを考えれば、すぐにそれらとど同等の精度になるのは眼に見えています。
より精度が上がれば、このサービスは海外に出かけるときに必須のアイテムになります。
圧倒的な即時性があるからです。
「分からない後があったら打ち込む」というのは、タイムラグがありますし、英語であればアルファベットを打ち込むだけだから問題ないけれど、そもそも中国語や日本語みたいなものの場合、読み方が分からなければ翻訳以前にスマホやパソコンに打ち込むことがすらできませんでした。
それが、カメラをかざすだけで認識し、勝手に翻訳してくれるとなれば、その辺の障壁が一気に解決します。
このサービスは恐らく日本人以上に欧米の人たちがアジア圏やアラビア語圏に旅行に行くときに便利なサービスになるはずです。
Googleフォト同様に、僕がこのサービスで面白いと思っているのは、ユーザーの生活がデータとして手に入るということです。
人びとが海外に出かけた際に、どういう行動パターンを取るか、どういうところに煩わしさを感じているか、そして当然どういう層の人間がどのような商品を購入するかというパターンが翻訳で当てた画像から分析することができるわけです。
ここまで人びとの生活に踏みこんだデータを持ってしまえば、他の企業はいよいよ追いつく手段はなくなるように思います。

僕はウェブを介したグローバル企業の勝負は、データの収集が勝負だと考えています。
人びとの消費行動の情報を握っているのがアマゾン、コミュニティ情報を握っているのがFacebook、人びとの感情の情報を握っているのがTwitterという感じです。
いずれの企業も踏み込めなかったのが現実世界における行動パターンです。
GoogleフォトやGoogle翻訳のカメラ機能は、その辺まで踏み込んでいけるという点で、情報収集の勝負において、頭ひとつ飛びぬけた感じがするのです。
スマホの普及で日常にウェブ環境を携帯できるようになったことの本当の影響は、いつでもウェブにアクセスできるという消費者サイドではなく、24時間ユーザーの行動パターンを徹底的に分析できるようになった企業サイドにこそ大きなメリットになるように思います。
この辺の動きはここ数年本当に重要になってくるように思うので、しっかりとチェックしておきたいです。

「美味しい」会話の作り方

「今日は全然しゃべらないんですね」
半年前くらいに知り合いの方とご飯に行ったときにこんなことを言われました。
イベントで知り合って、気があったのでその後改めてのみに行ったのですが、初めて会ったときの僕と、2度目にあったときとで、全然印象が違ったのだそうです(全然悪い意味で言われたわけではありません!)。
僕はよくその日によって雰囲気が違うと言われることがあるのですが、それは全くその通りで、その場の人数によってかなり意識的に立ち位置を変えています。
これはたぶん職業病なのだと思います。
塾の先生をやっていると、どうしてもクラスの規模感や空気感で、自分の立ち回りを変える必要が出てきます。
4~5人のクラスの場合は子供たちを主役にして話題を展開していくことも容易ですが、20人近くになってくると、自分のキャラクターで子供たちの注目をひきつけなければ不可能です。
かといって大人数相手にするような接し方で1対1の個別授業をしようものなら、あっという間に生徒さんに嫌われてしまうことでしょう。
人数によって、または相手や空気によって自分の立ち位置を変えるというのは、塾の指導に限らず、様々なコミュニッケーションの場で不可欠なスキルであるように思います。

僕は、コミュニケーションの方法を①タモリタイプ②さんまタイプ③たけしタイプ④紳助タイプの4つに分けて考えています。
さらに、コミュニケーションの場として、2・3人の場合、4~5人の場合、それ以上の場合という、シチュエーションによってそれぞれのタイプの振舞い方が異なってきます。
タモリタイプとは聞き訳に徹するタイプのコミュニケーションです。
1対1の時には徹底して相手の話に耳を傾ける人。
このタイプは1対1のコミュニケーションを最も得意としています。
親身に相談に乗ってくれるといわれる人はだいたいこのタイプ。
タモリタイプの人が4~5人での会話のグループに入る場合は、基本は聞き訳に周っているのですが、話のところどころで、自分の興味がある分野に関しては急に割り込んで、話に緩急を与えます。
もっと大人数の会話は苦手。
何人もいる飲み会の場では、盛り上がっている集団から少し離れたところで独自の空気感を築いてゆったりと2人くらいで深い話に花を咲かせています。

2つ目のさんまタイプは1対1のときは自分がひたすら面白い話を振りまいて相手を楽しませるパフォーマー
大人数のときはいろんな人の話にとぼけた返しをするリアクション芸人です。
さんまタイプが1番得意とするコミュニケーションは4~5人くらいの少人数のグループ。
相手の話を匠に膨らませて、その類稀な突っ込みのセンスで話のリズムを作り上げます。
居酒屋のカウンターとかにいる面白いお客さんや魅力的な大将は、だいたいこのタイプです。

3番目のたけしタイプは徹頭徹尾、自分が中心になって盛り上げるタイプ。
大人数の場を盛り上げるのは苦手ですが、4~5人のグループや、1対1のコミュニケーションで、圧倒的な力を発揮します。
4~5人のときは面白いボケや相手がツッコミやすいエピソードを提供してくれます。
一方で1対1のときは他の人が経験していないような特別なエピソードや人生観に溢れたネタの宝庫。
知らない世界を教えてくれる、トレジャーハンターみたいな人が、ここに該当します。

なかなかいない、大人数のコミュニケーションを最も得意としているのが、④の紳助タイプの人たち。
ここのタイプの人たちは、とにかく仕切りがうまい!
どんなキャラクターの人たちが集まっていても、その場に一番即した話題を提供できる人を選び出し、場全体を面白くすることができます。
4~5人のグループでは自分のエピソードを中心に話題を回し、他のメンバーを優秀なツッコミ役として参加している館を醸し出す。
1対1のときは相手の悩みに的確な答えを出して上げるコーチングタイプ。
場合によってはおせっかいに思われるかもしれませんが、上手く立ち回れば、絶大な信頼を獲得することができます。

以上に書いたのが、僕の思うコミュニケーションのタイプです。
これはあくまで向き不向きではなく、自分はどのシチュエーションでどのタイプを選んでいるかという自己分析に使う指標です。
その場にいるメンバーの中で一番中心に添えたい人がどのタイプであるかによって自分の立ち位置をどこに置くかを決めると、円滑なコミュニケーションの役に立つように思います。」

2010年京都産業大学一般前期1月30日日野名子「竹むきが記」現代語訳

赤本に全訳が載っていないので、全訳を作ってみました。
内容の背景を捉えることを第一目標としているので、直訳とは若干異なるところがありますが、ご了承下さい。
(かなり急いだので、大分雑になってしまいました。。。)
順次赤本に全訳が載っていない古典の文章の訳をアップしていこうと思います。

 

 2月の中頃に、夫に先立たれ残された子供たちを連れて天王寺を参拝したことがあった。御牧のあたりから船に乗った。ことさらに浦に沿って尋ねていかなければならないことがあって、難波の浦に出たときに、「川船で海を渡るのは危ないだろう」と言い合っているのを聞いた。なるほど、海と川の境になっているあたりを見ると波はとても高く、様子が普通でなかった。見たこともない景色であったため、非常に珍しい。日が暮れるくらいのときに、貧しい宿に着いた。旅先で仮寝のために草枕を作ろうにも結ぶほどの長さもなく(そこに長く滞在するでもなく)その日の夜深くに出発して、芦屋の里という辺りに留まった。
 日が暮れ行くままに、浦の風は激しく吹いたのだけれど、そうはいってもさすがに春さきだったからか、霧で霞んだ月の光も海のかなたまで反射するほどに澄んでいた。この景色が岸に繋がれていない船が浮いているように見え、またそれが夫を亡くして頼るべきものをなくした私自信の身の上に重なって、しみじみと哀れに感じた。
 日が明けたのでこの宿を出発することになり、そこに書き置きをするのも風流だろうと思い、一首書き残すことにした。
宿とひて誰またこよひ草枕仮寝の夢を結びかさねん
(宿はないかと尋ねてきて、誰かがまたこの宿に泊まるのだろう。旅先で知らない者が偶然同じところに泊まっていく。それがなんとも面白いことです。)
その夜に一緒に泊まった旅人たちが、すぐに船で自分が向かう先へさまざま散っていくのを、どこに向かうのだろうかと考えるとしみじみとした気持ちになる。
 夜のほども泊りは同じ旅寝とて四方(よも)に別るる沖の釣船
(昨晩は同じところに泊まった者たちであるのに、朝になれば船でそれぞれの目的地に向かい、散り散りになって行くのだなあ。)
 天王寺について、住吉に参拝へ行ったところ、岸に忘れ草が咲いていた。「何前は『忘れ草』というのに、その名前は永劫忘れられないというのは面白いことだ。」と感じながら、ふと見た海の寄せては返す浦の波も羨ましく見ながら、「もし私が帰る場を持っている身であったのなら」と思い続けているのに気付くたびに、いつまでも殺された夫のことを思い過去に捉われる自分のことを、神の御心に照らして恥ずかしく思うばかりであった。

塾講師の差別化とレバレッジの掛け方

コンサルタントでも塾講師でもそうですが、この手の職業の差別化は、突き詰めると持っている知識とノウハウによるものに尽きると考えています。

コンサルタントであれば、それまでの成功経験やマーケットの分析情報、そして各種分析ツールやアイデアなどなど。

こういったものの蓄積が、そのままもろにサービスとなって現れます。

塾講師の場合もこれとほとんど同じというのが僕の考え。

もちろん、熱心な指導だとか、子どもたちとどれだけ根気よく向き合えるだとか、マンパワーの部分が決定的に重要なのですが、そこは時間をどれだけ費やすかという話だけで、レバレッジをかけることができません。

その辺の勝負は、費やした時間=価値となるため、極端な話、就業時間とかを無視して時間をかけるくらいの差別化は要員にしかならない。

仮に子どもたちと接することが1時間あたり1単位という価値を生み出すとしたら、睡眠時間以外の全ての時間を投資したとして、せいぜい15.6単位分の価値しか生み出すことはできないわけです。

(そもそも生徒がいなければ時間を費やすこともできないので、実際にはせいぜい3.4単位分が限界でしょう)

 

塾講師において、生み出す価値をこれ以上に増やそうとしたら、つまり労働時間=価値単位という状態を超えて、自分の価値にレバレッジをかけようとしたら、一人当たりがどれだけ知識やノウハウ、あるいは指導のためのツールを持っているかしかありません。

これらは情報ということばにまとめることができますが、塾講師が集まるべき「武器となる」情報は以下のものになります。

①科目の研究

②入試問題の情報

③入試制度の情報

④学校の情報・進路の情報

⑤勉強方法の情報

もちろん他の要素も多々あるのかもしれませんが、僕はこの5つの要素をどれだけ溜めこめるかが、ある個人の「指導力」なる価値を決定すると考えています。

①は文字通り教えている科目に関する知識です。

それは、教科書に載っている範囲でどれだけ掘り下げられるかということもとちろんですが、同時に様々なジャンルのものに当たって仕入れてくる情報などもここに入ります。

たとえば僕は和歌の技法を教えるために江戸時代の狂歌や川柳を漁ったり、落語家の人がネタで使う川柳を集めたりしています。

或いは古典文法の説明を組み立てるために日本各地の方言を調べたり。

そういう本質となる知識や周辺情報を含めたものを研究して得られるのが①の科目に関する知識です。

 

②の入試問題の情報というのもそのままなので分かりやすいと思います。

入試問題の情報で差別化するには、大きく2つのベクトルがあります。

1つ目が時系列の情報で、2つ目が横展開の情報です。

時系列の情報とは、ある特定の学校(或いは地域)に関して、何年分も遡って問題を分析し、知識を蓄えるという物です。

○○大学は伝統的に××というタイプの出題が多いから、こんな対策が必要だよねといったタイプの情報がここに該当します。

時系列の情報は積み重ねた量がそのまま価値になる。

それに対して横展開の情報とは、広く浅く全体の動向を分析することで得られる情報です。

こちらはその年に出題された問題に1つでも多くあたり、トレンドを捉えるといったタイプの情報になります。

この時系列の情報と横展開の情報で差別化するのが②の方法。

予備校の先生なんかは、圧倒的にここに優れているように感じます。

 

そして③つ目が入試制度に関する情報です。

各学校の設けている試験の制度や合格最低点、倍率といったのがここに該当します。

どういう試験があり、どういう算出方法がなされているので、○○という学校には××というやり方が入りやすいといった情報をどれだけもっているかが、ここでの差別化要因です。

ここは研究というよりも完全な情報収集と分析です。

数値やニュースとのにらめっこ。

アドバイザー的なポジションだからということもなるのかもしれませんが、案外ここの情報を武器にしている人は多くないように思います。

 

④つ目は学校情報・進路に対する情報です。

こういう学部に進んだら、どんなことが学べるとか、特定の職業につくにはどんな進路を進むべきとか、そういうものがここに該当します。

就職率や資格取得率みたいなのもここに入るでしょう。

 

そして最後⑤入るでしょう勉強方法の情報です。

どのように勉強をすればいいのか、成績を上げるためにはどういうことが必要なのか。

そういう「なぜ成績があがるのか?」をノウハウ化することがここの情報の特徴です。

コンサルタント会社が持っている、会社独自の分析ツールみたいなもの。

ベテランの先生は暗黙知としてこの辺を蓄えている場合が多いのですが、案外これを言語化してノウハウにまで落とし込んでいる人はいないような印象です。

 

上に書いてきた①〜⑤の情報は、大きく①②が講師に求められる差別化要因、③④⑤はアドバイザー的な差別化要因であるということができます。

そして、これらの情報の中で①と②と④を自分の武器と位置づけている人が多いというのが僕の印象。

というか、③と⑤を武器に選んでいる人がほとんどいないという方が的確な描写であるような気がします。

少なくとも個人レベルでそこに焦点を当てて差別化しようとする人はあまり見かけたことがありません。

一方で、コンサルタント会社が強みとしているのはまさに③と⑤の情報だったりします。

もちろん教育とコンサルは違うのでそのまま当てはめて考えることはできませんが、価値を付加する方法が似ている以上、そこを武器にする人が1人くらいいてもいいのかななんて思います。

僕が(特に個別指導で)一貫してこだわっているのはここの部分。

1:1で子どもたちと向き合う際の最大の情報提供って、その子にとっての最上のコンサルタントであるということだと思うんですよね。

これは僕が塾でバイトを始めたときから一貫して思っていることだったりします。

僕は科目の研究が好きだからこそ①や②もやりますし、④についての情報も、他の同年代の人と比べて圧倒的に仕入れやすい状況を持っているから提供できる情報としてある程度用意はしていますが、自分が1番の武器にしようと考えているのは③と⑤の部分だったりします。

①は参考書を始めとした大量の入試勉強コンテンツとの競争になるし、②は予備校の先生のフィールド、④はITが発達して、途端に情報が拡充しつつある分野です。

③と⑤が拡充しない理由は非常にシンプルで、③は学校に好まれないからベネッセ始めウェブで情報を提供する企業は大々的に打ち出せない、⑤は直接お金にならないので時間を割けないというところがあると思います。

で、そこを武器にする人がいないからこそ、そこを強みにしようというのが僕のここ数年の戦略だったりします。

おかげで大分情報が集まってきました。

その辺を体系化したものは、またおいおい「研究成果」としてまとめてアップしたいと思います。

酔いが回ってきたのでこの辺で(笑)