新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



2017年京都産業大学一般入試「今昔物語集」現代語訳

今年度入試で出題された、古文の現代語訳速報です。
仕事の合間に急いで訳しているので、細かな違い(時に大きな読み間違えがあるかもしれません..)はご了承下さい。
また、あくまで話の筋を追うことを第一に訳しています。
そのため、文法事項や敬語はあえて無視しているところがあります。
随時アップしていく予定ですので、よかったらご参照下さい。
問.次の文章は『今昔物語集』に収められている話である。中将は清水寺で、若く美しい女性と出会う。いかにも身分の高い良家の娘がお忍びで来ている風なので、従者に後を付けさせると、家は市中ではなく山里にあった。訪れてみると、堅固な土塁と堀がめぐらされていたが、室内の調度は由緒ありげで、清らかに住みなしている。中将は女にひかれ、やがて二人は恋仲になり末永い愛を誓い合う。読んで、後の問いに答えよ。


そうしている間に、中将はここ数日抱いていた気持ちをこめて、末永い愛を誓って寝ていると、この女はたいそう思い悩んだ様子で、こっそりと泣いているように見えた。中将は不審に思って、「どうしてそのように思い悩んだ様子でいるのか」と尋ねた。女は、「ただしみじみとしているだけでございます。」と返したが、中将はその言葉をいっそうあやしく感じた。「今はお互いこのような関係になったのだから、今更何事も隠す必要はありません。何を思っておられるのですか。これほどまでに尋常ではない悩みようではないですか…」と無理に中将が聞いたところ、女は答えた。「私もあなたに言いたくないわけではないのですが、あなたに言うのがとてもつらいことですので。」泣きながらこう答えた女に中将は「とにかくお言いなさい。それを聞くことで私が死ななければならないとでもいうのでしょうか。」と言うと、女は「本当にあなたに隠していいことではありません。」「私は京都にある何々という人の娘です。両親が死んでしまったので、一人で暮らしていたのを、私が今住んでいるこの家の主は、乞食からたいそう裕福になって、ここに長年住んでいるようなのですが、私が京都にいたのをさらってきてここで育てたのです。時々私を着飾らせて清水に参拝をさせるのでございます。そうして同じく参拝に来ていた男が私に声をかけて来ると、あなたがここにいらっしゃったのと同じように、ここにおびき寄せろというのです。そして、寝ている隙に天上から矛を下ろしてくるので、それを私がおびき寄せた男の胸に刺して殺させて、その着物を剥ぎ取り、さらにはお供の人びとを堀の外にある家でみな殺しにして、その着物を剥ぎ、乗り物まで奪わせます。私は今までにもう、このようなことを二回も行ってきました。これから先も、主人の命令に従って、このようなことをさせられ続けるのでしょう。こうした事情があるからこそ、今回は私があなたの代わりに矛にさされて死のうと思っていたのです。どうかあなたはすぐにお逃げ下さい。お供の人はもうすでに殺されていることでしょう。ただただ、あなたにもう会えないことだけが悲しいのです。」と言い、流した涙は留まることがなかった。
中将はこれを聞くと、何も考えられなくなってしまった。なんとか気持ちを抑えて「本当に驚いたことだなあ。あなたが私に代わって死のうという気持ちは、めったに無いほどにうれしいものなのですが、そんなあなたを見捨てて一人逃げるなどというのは悲しいことです。それならば一緒に逃げましょう。」と言う。女はこれを聞いて「何度もそのことは考えましたが、矛に手ごたえがなければ、きっと急いで天井裏から降りてきて、二人がいないことを確認したら、必ず追いかけてきて二人とも殺そうとするでしょう。ただあなた一人で生き延びて、私が死んだ後の弔いをして下さい。これよりあとも、どうして私は罪を重ねていいことがありましょうか。」と言った。中将が「あなたが私に代わって死んだとなれば、どうして功徳を積んで恩に報いないことなどございましょう。それにしても、どうやって逃げればよいだろう。」と女に返すと、女は「堀の橋はあなたが先ほど渡ってきた後、すぐに引き上げられてしまっていることでしょう。だから、向こうにある遣戸から出て、堀のむこうにある狭い岸を渡って下さい。そこの築垣(塀)に小さな水門があります。そこからなんとか這い出して出て行ってください。すでにその時刻に近づきました。矛が下りてきたら、私が自らの胸にさして、刺されて死のうと思います。」と言った。そう言っているうちに、奥のほうから人が来る音がしたので、恐ろしいというのさえ言葉に足りないほどだ。
中将は泣く泣く立って、衣ひとつだけを着て、女が密かに教えてくれた遣戸を出て、岸を渡り、水門から命からがら這い出した。

 

 

今昔物語集 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス)

今昔物語集 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス)

 

 

非喫煙者は喫煙者の「お前はいない」という態度にムカついている

「路上禁煙区域」で吸う人の論理|日経ビジネスオンライン
江戸川区日台親善議員連盟会長、前江戸川区議会議員の田中けん氏に聞く
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/interview/15/238739/020100231/

 

タバコに関していつも思うことなのですが、大多数の人が「吸う」か「吸わない」なので、両者の立ち位置を強く押した意見になだてしまいがちなように思います。

因みに元喫煙者も、喫煙者の気持ちは理解できるものの、吸わなくなった成功体験がある分、大抵は「吸わない」人に大きく振れているように思います。

 

僕は凄く中途半端な立ち位置で、そこにタバコがあって、吸った方が会話が弾むなと思う場合は吸うけれど、そういう場合を除いてはほとんど吸わないというくらいの立ち位置です。

高校の保健の授業で言っていた、一本吸ったら辞められなくなるから絶対吸うなみたいな言葉がずっと気になっていて、大学時代に吸ってみたのですが、全く辞められなくはならなくて、それ以降はあれば吸うみたいな感覚です。

ちょうど飴玉やガムと同じイメージ。

そんな立ち位置なので、僕は吸う人の意見も吸わない人の意見もわからないではありません。

特に路上喫煙に関しては、お互いの言い分がなんとなく思い浮かびます。

 

まず、路上喫煙をする人に関して。

もちろん禁止区域とされているところで喫煙をするのはそもそも違反行為なのでやってはいけないというのは当然なのですが、それでも吸っているのは、潜在的に「何が悪いか納得していない」からなのだと思います。

これがもし、おが屑やティッシュペーパーが積もった狭い部屋の中ならば、絶対に吸わないと思います。

何故なら発火の危険性が明らかに認識できるから。

或いは、自分の大好きな人や子供が大病を患って咳き込んでいる病室のベッドの横でも、相手の身体に及ぼす影響を考えて、やはりタバコは吸わないでしょう。

よほどの中毒者でもない限り、喫煙者だってその辺の分別はわきまえています。

そんな喫煙者でも、路上喫煙禁止区域では吸ってしまうのは、本質的に「路上で吸うことは、危険性もなければ誰かに害を与えていない」と思っているから。

そもそも、周囲の迷惑を省みないとかではなく、「周囲」そのものが視界に入っていないのです。

そして、非喫煙者が怒っているのは、タバコの煙でも火そのものでもなくて、そんな「私たちを視界にすら入れていない」というような喫煙者の態度そのものなのだと思います。

マーケティング等をしている永江一石さんがブログで、電車で化粧をしている女性に腹をたてる理由というエントリをあげていました。

その中で触れられていたのがこの理論。

化粧は周りに美しく感じてもらいたいが故にするもの。

その過程を見せるという行為はその場にいる人に「相手にすらしていない」というメッセージを与えている。

だから電車で化粧をしている人を見ると無意識にそれを感じ取って不快になる。

タバコに関して受動喫煙などの様々な理由が挙げられますが、根っこの部分は「無いものとあしらわれた上に迷惑を被っている」ということに関する不快感になるような気がします。

 

僕はタバコを持っているときでも、その空間に子供がいる場合、少人数でご飯に行くときに1人でも非喫煙者がいる場合、隣に座った人がタバコを吸わない場合は絶対にタバコを吸わないと決めています。

それは、僕自身も他人のタバコの煙が嫌だから。

因みに知り合いとご飯に行ったときにタバコを吸われるのは全く不快に思いません。

気を許している相手なので、その煙が顔にかかっても、汚いとは思わないんですよね。

逆に、見ず知らずの人の煙はむちゃくちゃ気になります。

特に禿げ散らかした人相の悪いおっさんの煙とかはムリ(笑)

こういう人って少なく無いと思うんですよね。

この視点が中々理解してもらえないという喫煙者の方には、煙を全部唾液だと考えてみてもらうとイメージが近いかもしれません。

その人の口から出てきた(タバコの先の煙は違いますが、そんなの吸っていない人間には関係ありません)ものが顔や身体にかかる。

咳で飛んだ唾液の飛沫は目に見えないですが、煙の場合はさながら全て可視化されたような印象を受けます。

見ず知らずの汚いおっさんに唾を吹っかけられたらそりゃ嫌じゃないですか(笑)

外でタバコを吸う場合は非喫煙者にとって、タバコの煙を浴びるのは、そのくらいの事だと認識して吸っておくのが喫煙者の配慮として必要な気がします。

 

僕は喫煙問題を解決する方法は、喫煙者の側の配慮をもっと高めることに尽きると思います。

昔ご飯を食べに行ったとき、カウンターの1番奥でタバコを吸っていたおっちゃんと話していたのですが、子連れの親子が入ってきた瞬間に、その人はすっと火を消しました。

その親子は全然離れた所に座ったのに、結局おっちゃんは一本も吸いません。

その姿勢に対して、本当にカッコいいなと思ったのと同時に、こういう喫煙者は嫌がられないのだろうなと思いました。

非喫煙者が嫌っているのは喫煙することそのものというよりは、喫煙者の「私たちを見ていない」と伝わってくる態度である。

実際にそうなのかは分かりませんが、少なくともこの前提で気を配っていると、だいぶ喫煙者の振る舞いも変わり、非喫煙者の認識もよくなるように思います。

2017年関西大学2月1日入試「紫式部日記」現代語訳

 今年度入試で出題された、古文の現代語訳速報です。

仕事の合間に急いで訳しているので、細かな違い(時に大きな読み間違えがあるかもしれません..)はご了承下さい。

また、あくまで話の筋を追うことを第一に訳しています。

そのため、文法事項や敬語はあえて無視しているところがあります。

随時アップしていく予定ですので、よかったらご参照下さい。

問.次の文章は『紫式部日記』の一節である。これを読んで、後の問いに答えよ。

 

 全ての女性の有様は、穏やかで落ち着いていればこそ、品格や振る舞いにも趣深さを感じるものだと思います。もしくは、色好みで心が移り変わりやすい性格であっても、生まれつきの人柄にくせがなく、周りの人に対して付き合いにくいような態度さえせずにいれば、憎くは思われないでしょう。「私こそは特別だ」というような様子で、周囲と違った態度を取る人は、立ったり座ったりというちょっとした動作につけて、自分では気を使っていたとしても、周囲の人の目についてしまうものです。一度でも人の目につけば、必ず何か言った言葉の中にも、やってくるときの振る舞いにも、立ち去る後ろ姿にも、周囲からあら捜しをされるようになるものです。話の整合性が取れていない人や、他人の身の上をけなすような人は、まして目も耳も立てられることになるのです。弱みの無い人たちは、どうにかちょっとした批難の言葉も人に言わないようにと謹んで、お世辞の情をかけたく思うものなのです。
人が進んで憎いことをしたときはもちろん、間違えて悪いことをしたときでさえ、それを笑うことに対して人びとは気後れしないものです。とても心が広い人であれば、たとえ自分が憎まれたとしても人のことは憎まないかもしれませんが、そのようなあしらいはどなたでもできるものではありません。あの慈悲深い仏であっても、仏教における三宝の悪口をいう罪は軽いものであろうか、いやそんなはずがないとおっしゃっています。まして、このように邪なことが多いこの世に住んでいる私たちならば、不遜な態度を取る人には、同じく不遜な振る舞いをすることでしょう。それを、自分が言い負かしてやろうとひどい言葉を浴びせて、向かい合って非常に悪い態度でお互いを見合うことと、そうではなく気持ちをおさめ、上辺の表情はなだらかにしているのでは、その人物の懐の深さが推し量れることです。
左衛門の内侍という人がいます。何のいわれもないのに不思議と私のことをよく思ってはいなかったようですが、そのことは知りませんでした。それが、聞くに心地よくない罵詈雑言が多く私の元に伝わってきたのでございます。
内裏の、私の仕える主人が「源氏の物語」を周囲の人々にお話になりながら私のことをふと、「この人は日本書紀を初めとする歴史書を多く読んでいるのでしょう。本当に博識です。」と言ってくれたのを、ふと聞いて思いついたのでしょう、「非常に博識な女房がいる」と殿上人などに言いふらして、その上私に「日本紀の御局」などとあだ名をつけたのだそうです。本当に滑稽だといわざるを得ません。私の故郷の女たちの前でさえ、こうしたことは表に出さないようにしているのに、宮中のような恐れ多いところでどうして才能をひけらかしたりなんてしましょうか。
私の兄弟の式部の丞と言う人が子供のときに漢書を読んでいたのを近くで聞いていたところ、この式部の丞は読み取るのも遅く、忘れるところもあったのに、私は自分でも驚くほどにすっと入ってきましたので、それを見た漢書に造詣の深い親に、「残念でならない。お前が男でないのが不幸でならない。」と言われるほどだったのです。
それを、「男でさえも才能をひけらかす人はどうであろうか。見栄えのしない行為でありましょう。」などと、少しずつ周りの人に言われるようになってからは一という字すらも書かないようにして、学の無いように装っていたのです。以前読んだ漢書などには目も留めないようになって後、ますます周囲から私が学をひけらかすなどという悪口を聞くようになりまして、私は屏風に書かれた文字さえも読めないような顔をして過ごしておりました。そんな折、中宮彰子さまが御前で私に白氏文集などをところどころ読ませたりなどして、その内容を知りたいような御様子でいらしたので、お忍びで、人のいないときを狙って、一昨年の夏ごろから、楽府という漢書を2巻ほど、おぼろげながら教えて差し上げていたのです。これも私は隠しておりました。中宮彰子さまもそのことを隠してくれていたのですが、殿も内裏もその様子をお知りになって、漢書などを書かれて殿が彰子さまに渡しなさるのです。それを彰子さまが私に読ませなさることなどは、私を悪く言うあの内侍はまだ聞いていないでしょう。もしこのことを知ったならば、どれほど悪くいわれることかと思うと、全くもって世の中というのは嫌なものでございます。

 

 アイキャッチはもっさい紫式部が表紙の本

人生はあはれなり… 紫式部日記

人生はあはれなり… 紫式部日記

 

 

「忙しさ」の異文化理解〜仕事型の忙しさと研究型の忙しさ〜

入試が近づくと毎年そうなのですが、ここ最近、問題研究に追われています。

特に今年は受験生が異様に多いので、(ありがたいことに)寝ても覚めても問題の事を考えているみたいな感じです。

この前夢に光源氏が出てきました(笑)

で、問題研究をしていて、「研究」的な忙しさと、いわゆる「仕事」的な忙しさとでは、全く毛色が違うんだなあということを強く感じました。

営業や企画みたいなマルチタスクを行うタイプの忙しさって、まとまった時間が取れないタイプの忙しさなんですよね。

だから、うまく仕事を回そうとすると隙間時間をいかに使うかというお話になってくる。

まとまって「○○時間」みたいなのは無理だけれど、細かな時間は工夫して捻出することができますというのが「仕事」タイプの忙しさ。

それに対して、研究職の仕事の忙しさって少し違います。

研究において最も重要なことはまとまった時間を1つの案件に投資するということ。

つまり、ある程度まとまった時間を捻出することはできるけれど、細切れの時間を作るのが難しいわけです。

1つのことにずっと没頭しなければならない時に、定期的にノイズが入ってくると、その度に集中が切断されてしまいます。

だから、どこかでまとまった時間を取ることはできるけれど、細かなやり取りが難しいというのが「研究」タイプの忙しさであるように思います。

そして、それぞれ「仕事」タイプの忙しさを感じている人と「研究」タイプの忙しさを感じている人は基本的に違うタイプの忙しさを理解することができない。

 

塾の先生といえば授業をしているイメージですが、授業の準備の方が数倍も手間がかかっています。

昔、「講習大変でしょ?」と言われたことがあるのですが、どちらかといえば講習そのものが大変というよりは、その準備が大変というのが塾に関わる多くの人の意見だと思います。

極端な話、授業準備さえできていれば、後はそれを「話すだけ」ですので。

そんなわけで、僕は塾講師は研究職のような側面が強い仕事だと考えています。

大学入試の問題研究をしようとしたら、解く所から、傾向や特徴を掴むところまでを含めると、どうしても2.3時間のまとまった時間が必要です。

(少なくとも僕の場合は)

で、研究なんて基本的に知識と情報の積み上げが命なので、他のノイズが入って来ない状態を長時間取ることができればそれだけアウトプットの精度は高まるように思うのです。

僕は常々「電話が嫌い」と言っているのですが、その最大の理由はここにあります。

状態を分析しているときにその集中力が分断されて、アウトプットの精度が下がるのがとにかく嫌なのです。

文理を問わず、また職種を問わず、何らかの研究的な要素があることを仕事にしている人ならば、少なからず共感して頂けるところだと思います。

あとは研究職意外にも、文章を書いたり、プログラムを作ったり、デザインを作ったりする人もこの感覚に近いんじゃないかなあと思います。

 

僕は昔、営業としてバリバリ仕事している友達にこの時期は忙しいと言われて「じゃあ空いた時間にゆっくり電話させて」と言ったら、「だからその時間がとれない!」と怒られたことがあります。

僕にとって忙しい=まとまった時間を邪魔されたくないなので、むしろ集中してパフォーマンスが発揮できる時間が終わったあとの枠を貰えたらという意味で言ったのですが、彼にとっては逆に細かなLINEには直ぐに返信できるけど、電話みたいな時間が拘束されるのは勘弁ということだったみたいです。

この辺、僕には全く理解ができない視点でした(ゴメン...!)

後で聞いた話では、忙しい時はマルチタスクをガンガン回しているから、寧ろ細切れの時間なら取りやすいとのこと。

これが「仕事」型の忙しさです。

 

仕事型の忙しさにしろ研究型の忙しさにしろ、「忙しい」という事実は変わりません。

しかし、それぞれの忙しさの毛色は全く違い、むしろ一方にとっての暇な時の対応の仕方が、もう一方にとっての忙しさになる。

この辺はすごく面白い現象であるように思います。 

多分この辺って、その人の向き不向きにかなり営業を与えているはず。

だから、仕事選びの際にどちらの忙しさが自分には向いているのかという視点で考えてみるのもいい視点なのではないかと思います。

まとまらなくなってしまったのでこの辺で、、、

 

アイキャッチはちきりんさんの生産性の話

 

 

 

2017年京都産業大学一般入試本居宣長「紫文要領」現代語訳

 今年度入試で出題された、古文の現代語訳速報です。

仕事の合間に急いで訳しているので、細かな違い(時に大きな読み間違えがあるかもしれません..)はご了承下さい。

また、あくまで話の筋を追うことを第一に訳しています。

そのため、文法事項や敬語はあえて無視しているところがあります。

随時アップしていく予定ですので、よかったらご参照下さい。

 

問題

次の文章は『源氏物語』蛍の巻で、玉鬘と源氏の間に交わされた「物語」についての会話を本居宣長が解説した『紫文要領』の一節である。『源氏物語』では、はじめ源氏は物語に夢中になっている玉鬘をからかって、物語をけなすようなことをいうが、むきになって物語を擁護する玉鬘に、改めて自身の物語についての考えを述べる。読んで、後の問いに答えよ。

 

 

 さて、以前に源氏は物語のことを「嘘をよく付きなれた人の作ったものでしょう」と言いましたが、ここには源氏なりの持論が隠れています。その答えはこうです。物語はいかにも嘘のようではあるけれども、現実でまったく起こっていないことではありません。そこに描かれるのは、全て世の中で起きていること。ある人のことを名指しでありのままに言っているわけではないけれど、全てが現実に起こったことで、良いことや悪いことで目や耳にあまった出来事を、後の世界にまで語り継ぎたいと思いが心の中で抑えきれなくなって、それを作り物語に託して書いたものなのです。それならば、物語は嘘でありながら嘘とは言い切れないということになりましょう。
 さて、人びとは源氏物語に書かれたことを勧善懲悪の筋書きだと思うそうだけれど、それは浅い解釈であり、紫式部が込めた本心ではありません。たとえを挙げて紫式部の本心を言うのであれば、日常生活の中でめったに無いことや不思議なことを見たときに、自分の心の中でだけひっそりと「不思議だ、珍しい」だなんて思っていられないでしょう。そのようなことに出会ったり、聞いたりすれば、人に語って聞かせたいものなのです。このことを思い出して、紫式部の本心を考えてみてください。たとえ人に語ったとして、自分にも人にも何の役にも立たず、また、自分の心のうちにしまっておいたところで何の不都合もないのでしょうが、これは珍しいと思い、これは恐ろしいと思い、いとおしい、趣深いと感じ、うれしいと思ったことは、心の中で思っているだけではすまないもので、必ず人に語らずには居られないような代物なのです。世の中に溢れるあらゆるものを見たり聞いたりして心が動いて「これは!」と思うものはみなここに漏れません。詩歌を歌わずにはいられないという気持ちも、これと根っこは同じところにあるのです。
 さて、見たり聞いたりして、珍しいとも不思議とも、趣深いとも恐れ多いとも、そして慈しみや趣深さを感じたともわかりませんが、何かしらたものに心が動いたときは、その見たり聞いたりしたものを心の中で思っているだけではいられなくなって、人に語り聞かせるものなのです。それは語ることも物語として紙に書くのも同じこと。さて、その見たり聞いたりしたものに対して「あはれ」や「かなし」といった感情が生まれることを、心が動くというわけです。その心が動くことこそが正に、「もののあわれ」を知るということなのです。その点から見れば、この作品は「もののあわれ」を知るものというほかありません。作者の本意が「もののあわれ」にあるのであれば、見たままを忠実に書くのに満足せず、まら聞いたこと以上の物語に仕立て上げるのも、それを読んだ人に「もののあわれ」を伝えようとするためであるということを、この源氏と玉蔓のやりとりから悟るべきでしょう。

 

 アイキャッチ源氏物語の漫画「あさきゆめみし

 

2017年京都産業大学一般入試1月25日「十訓抄」現代語訳

今年度の入試問題の全訳を徐々にアップしていこうと思います。

内容の背景を捉えることを第一目標としているので、直訳とは若干異なるところがありますが、ご了承下さい。
(かなり急いだので、大分雑になってしまいました。。。)
順次、他の大学、他の日程もアップしようと思うので、よろしくお願いします!

 

 和泉式部の娘、小式部の内侍が、この世のものとは思えないほどに重い病にかかった。病が進行し、命も限界に近づいて、人の顔を見分けることもできないほどになって臥していた。和泉式部は側にいて、額を押さえて泣いていた。小式部の内侍は目をわずかに開けて、母の顔をつくづくと見て、息をあげながら、
どうしようか、私はもう生きられそうにありません。母に先立って死んでいく私は、その行き先もわかりません。
と震える声で詠んだところ、天上の上から、あくびを押し殺したのだろうか、と思うような声で、「まあかわいそうに」というのが聞こえた。
 さて、日がたつと、小式部の内侍は体の熱も冷めて、病気はすっかりよくなったそうだ。
 大江挙周が和泉に赴任した後、重病にかかった。住吉にたたりがあるとの事を知って、母の赤染衛門
 息子に代わって死んであげたいと祈る私の命が惜しいだなどということは思いませんが、願いが叶ったときに息子と別れなければならないことばかりが悲しいのです。
と読んで、神様へのお供え物に書き添えて、この神社に奉納したところ、その夜に夢に白髪の老人が現れて、このほう納品を取ると、息子の病が癒えた。

Google翻訳のカメラ機能は、Twitterでイジる以上の価値がある

朝起きたら、google翻訳の画像翻訳機能が出てきて、久しぶりにこれは凄いと思いました。
サービス内容は専用のアプリをダウンロードして起動すると、それをかざすだけで自動に翻訳されるというもの。
GATSBY FACIAL PAPER→ギャツビー顔の紙」や「With Rose Hips→ローズで尻」みたいに、 まだまだ誤訳が多く、Twitterではそれがネタにされていましたが、このサービス、ポテンシャルを秘めていると思うんです。
ちょうど先日、藤沢数希さんのメルマガでGoogleフォトの話が出ており、この二つのサービスが組み合わせて考えると、とんでもないポテンシャルを秘めたサービスだと思ったのです。

僕は基本的にGoogleのビジネスモデルって、便利なサービスを無料で提供し、そこで得た膨大なデータを下に様々なサービスを作りあげて圧倒的な差別化を測るってところにあると思っています。
アンドロイドもそのソフトウェアを売ることでは無くて、それを通してGoogleのサービスを使ってもらうことが目的。
とにかくGoogleのプラットフォームを使ってもらえさえすれば、そこに広告を貼ってマネタイズすることもできるし、企業向けに提供する消費者の行動を記録した膨大なビッグデータを抱え込むこともできてしまいます。
極端な話、全てのウェブ上の行動をGoogleが所有してしまえばそれを使ってGoogleはどんなサービスでも提供できます。
企業向けに膨大なデータを用いて消費者層に最適化した広告を作ることもできるし、そのデータを下にコンサルティング的なこともできる。
絶対にやらないとは思いますが、Googleのサービスが僕たちの生活に無くてはならないものになった段階で有料に切り替えたら、僕たちはお金を支払ってでもそのサービスを使い続けなければならないでしょう。
今でもgmailなど、明日から有料になるからといって別のサービスに乗り換えるなんてことはできないって人は多いと思います。

僕はGoogleフォトに関して、利用者がクラウド上に画像を保存できるというサービスは表面的な部分であり、このサービスの根幹は膨大な画像データの分析にあると考えています。
世界中のあらゆる人が撮った写真データを持っていて、それを人工知能で解析する技術も持っていれば、世界中の人びとのあらゆる行動パターンをデータとして分析することが可能になります。
たとえば夏休みにはどの世代のどういう人種の人がどこに旅行に行く傾向が強いみたいな分析も容易にできるようになると思うのです。
画像データからは検索ワードやメールの言葉からは分からない、より日常に即した行動パターンが得られるはずです。
その辺のデータを集めることが、このサービスの根幹だと思うのです。

翻訳に関しても同じです。
今はまだ誤変換も多いですが、世界中からの膨大なデータが蓄積されれば、すぐにその辺は修正されるでしょう。
というか実際にテキストベースのGoogle翻訳も音声文字起こしも間違えのデータを蓄積することで現在かなりの精度になっていることを考えれば、すぐにそれらとど同等の精度になるのは眼に見えています。
より精度が上がれば、このサービスは海外に出かけるときに必須のアイテムになります。
圧倒的な即時性があるからです。
「分からない後があったら打ち込む」というのは、タイムラグがありますし、英語であればアルファベットを打ち込むだけだから問題ないけれど、そもそも中国語や日本語みたいなものの場合、読み方が分からなければ翻訳以前にスマホやパソコンに打ち込むことがすらできませんでした。
それが、カメラをかざすだけで認識し、勝手に翻訳してくれるとなれば、その辺の障壁が一気に解決します。
このサービスは恐らく日本人以上に欧米の人たちがアジア圏やアラビア語圏に旅行に行くときに便利なサービスになるはずです。
Googleフォト同様に、僕がこのサービスで面白いと思っているのは、ユーザーの生活がデータとして手に入るということです。
人びとが海外に出かけた際に、どういう行動パターンを取るか、どういうところに煩わしさを感じているか、そして当然どういう層の人間がどのような商品を購入するかというパターンが翻訳で当てた画像から分析することができるわけです。
ここまで人びとの生活に踏みこんだデータを持ってしまえば、他の企業はいよいよ追いつく手段はなくなるように思います。

僕はウェブを介したグローバル企業の勝負は、データの収集が勝負だと考えています。
人びとの消費行動の情報を握っているのがアマゾン、コミュニティ情報を握っているのがFacebook、人びとの感情の情報を握っているのがTwitterという感じです。
いずれの企業も踏み込めなかったのが現実世界における行動パターンです。
GoogleフォトやGoogle翻訳のカメラ機能は、その辺まで踏み込んでいけるという点で、情報収集の勝負において、頭ひとつ飛びぬけた感じがするのです。
スマホの普及で日常にウェブ環境を携帯できるようになったことの本当の影響は、いつでもウェブにアクセスできるという消費者サイドではなく、24時間ユーザーの行動パターンを徹底的に分析できるようになった企業サイドにこそ大きなメリットになるように思います。
この辺の動きはここ数年本当に重要になってくるように思うので、しっかりとチェックしておきたいです。