新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



2017年龍谷大学一般入試2/1「戴恩記」現代語訳

今年度入試で出題された、古文の現代語訳速報です。
仕事の合間に急いで訳しているので、細かな違い(時に大きな読み間違えがあるかもしれません..)はご了承下さい。
また、あくまで話の筋を追うことを第一に訳しています。
そのため、文法事項や敬語はあえて無視しているところがあります。
随時アップしていく予定ですので、よかったらご参照下さい。

基俊の歌に対する見地を憎み、とある腹黒い者が、『後撰集』の中にある人々にあまり知られていない悪い歌を自分の歌の中に混ぜて見せた。基俊はそんなことはつゆ知らずそれらの歌に批判を加えて返したところ、この腹黒い者は手を叩き「『後撰集』の歌を批難するということは、あなたは梨壺の五人よりも和歌の名手というのですね。」と言ってあちこちでこのことを言いふらしたと、無名抄で鴨長明が載せた。この腹黒い者よりも、長明のほうが心あさましく、また歌の道の本質を理解していないように見えて、かえって恥ずかしいものである。
 たとえば、歌集を編算するのは、一瓶に花を活けるようなものである。花を立てるといっても、花ばかりを立てるわけではない。どうということはない草木の枝を、あるいは細いものや太いものを、あるいは長いものから短いものまでをそれぞれに適したかたちで配置するものだ。そうやって成り立っている活け花を崩して、花のついていない枯れ木の上の枝ばかりをひとつふたつ手にとって、これも花瓶に活けてあったものだからという理屈で花と呼ぶようなものだ。『後撰集』であるからといって全ての歌が良いものだろうと決め付けるのは、それを言った者が間違えなのだ。秀歌があるのならば、そこに良くない歌もあるということを知るべきだ。どれも、古今の一部は一つの世界を表し、人の一生をかたどっているといえる。どの和歌集もこれに準じる。(中略)人丸や赤人のような和歌の名手の歌にも、決して優れない歌があるということを知るべきなのだ。俊成が『千載集』を選んだとき、「私は人を見ず、ただ歌だけをみるのだ」と言ったのもここに意図がある。あの基俊が、梨壺の五人の名前に、恐れを感じるだろうか、いや、そんなことになることはないだろう。彼が批難した歌たちは、きっとどこかしらに欠点があったのであろう。本来であれば正しいはずであるのに、それを間違えであると後の世まで語り継ぐのは、和歌の道に明るくないことの表れであると言わないではいられない。歌の道は非常に深い部分に秘伝があるからこそ、いつの時代でもそれを知っている人は少ない。知る人が少ないがゆえに、何のいわれもない基俊を罪人とするのである。
 客観的にこの無名抄を、見ると、基俊の間違いを指摘しているところが多く載っていた。その根底には、俊成卿の威勢を妬んで、だからこそその俊成卿を馬鹿にするように思われるものだ。長明ほどの世捨て人でも、本当の君子ではないので、同じ道にいるものを妬む気持ちが消しきれなかったように思う。長明は俊恵の弟子である。その俊恵は俊頼の子どもだ。俊頼と基俊は同じ時代の名匠である。「二人の英雄は必ず争うことになる」という習慣であるので、お互いにその批難すべき点を見つけては文句を言っているように見えた。どちらも道理の通ったことであるのだが、今改めて見返すと、どちらもどうとはない思い込みに過ぎないということが分かった。それでもこれらは、後世にとっては役に立つ論争である。その上、よくよくその時期の書物を読み解くと、今の連歌師を敵のように憎んで、妬んでいるわけではない。
また、仲が悪いとも見えない。和歌の批判に関しては、それぞれの思う理屈を述べているので、お互いに違うと思うとこも好むところも変わるようだ。基俊の俊頼の歌を下手と書いたことも見たことがない。ただ、「俊頼は学が無く、人が言ったことをそのまま正しいものとして、言われたままに歌を詠んでいた。」と批難した。また、古い歌にもない言葉を新しく作り出して、「言葉ぬさ」などと詠み。或いは水に隠れたことを「みがくれ」と古い歌にはあるものを、この俊頼は水の心を捨てて、自身の身を隠すことのように読んだのを、基俊は腹を立てて、「俊頼はこの道を乱す人だ」と言ったそうだ。これらはどれも、道理にあった批判であるので、あながち仲が悪く、妬んで言った言葉とはかならずしも言えないのだろう。

 

伊勢物語は雰囲気イケメンのガイドブックだと思う(前編)

池澤夏樹さんの個人編集で作られた日本文学全集。

これに思い惹かれて、久しぶりに伊勢物語を読み返しています。

もちろん歌物語ですから、原文のままの良さはあるのですが、現代を生きる作家が、今の言葉で語る、その言の葉に、原作とはまた違う良さを感じます。

僕は元々、伊勢物語を色男の指南書と思っています。

在原業平をモデルにしたと思われる色男の所作が、どれをとっても時に雅で、時に浅はかで、そこに妙な色気を感じるのです。

無粋な口上はさておいて、とりあえず僕は伊勢物語を読み返してみて、改めていいなと思う歌がいくつかあったので、その辺を含めて、伊勢物語で詠まれるお気に入りの歌を、紹介したいと思います。

 

1.うぐひすの花を縫ふてふ笠もがな濡るめる人に着せてかへさむ

伊勢物語120段からの引用です。

「男がいた。」というお馴染みの文句から始まるこの物語は、雨に濡れる女を見て、男が読んだとされる歌です。

現代語訳は池澤夏樹さんの日本文学全集から。

(この訳が最もきれいで、心が通じているように思いました。)

「うぐひすの花を縫ふてふ笠もがな濡るめる人に着せてかへさむ」

 

うぐいすが

花から花へ跳びまわるさまを

花笠を縫う、と言います

その笠を

わたくしも欲しいのです

濡れているあなたに

着せかけるために

 

「花笠を縫う」という比喩を使って雨に濡れた女性に気を配りつつ好意を示す。

そんな繊細な気持ちが書かれているように思えて、僕のお気に入りです。

 

 

三段もお気に入りです。

たった数行の段なのですが、そこに出てくる歌がお気に入りです。

「思ひあらば葎の宿に寝もしなむひじきものには袖をしつつも」

 

わたしに対する思いがあるのならば葎の茂るような宿にも寝ましょう。

しきものはわたしの服の袖で十分です。

 

思いさえあればあとは質素でもいい。

言っていることはたったそれだけなのに、こんなにも雅で、お気に入りの歌だったりします。

 

「ならはねば世の人ごとに何をかも恋とはいふと問いし我しも」

38段に出てくる和歌です。

わたし自身が聞いたことも無いので、人と出会う度に私は「恋とは何か」と問うていたのです。そんなわたしがあなたのような人に恋とは何かを教えていたのだとは。

和歌の名手、紀有常がある男から「人を待つのがこんなにもつらいものだとは...」と言われて返したこの歌。

「恋を探していたわたしが『恋』を教えるなんて」と読んだその心意気がお気に入りです。

 

続いては百人一首にも掲載されているこの歌。

「ちはやぶる神代も聞かず龍田川からくれなゐに水くくるとは」

伊勢物語106段に載っているこの歌。

僕の最もお気に入りの和歌の一つでもあります。

神の時代にも聞いたことがありません。こんなにも龍田川が紅葉で赤くそまっているなんて。

ちはやふる」という枕詞(次に続く後を導くための決まった5音の言葉)の本来の意味である、「荒々しくも堂々とそこにある」という意味を考えると一層引き込まれる歌です。

 

45段の亡き女に向けて送った男の和歌も秀逸です。

「行く蛍雲の上まで往ぬべくは秋風吹くと雁に告げこせ」

宙を漂う蛍、もしも雲の上にまで行くことができるのなら、秋の風が吹いたのだと、雁に告げてあげてくさい。

死んだ女に対して「私の生きる現世には秋が訪れました」と述べる男の今はいないと分かっているのに、尚愛しているということが伝わるのが、凄いなあと思います。

という具合で、お気に入りの和歌を挙げればキリがないので、ちょうど半分くらいのここで切りたいと思います!

 

という

やりたい事をして金を稼ぐという「経験」

以前ツイッターでつぶやきながら考えたマネタイズと価値に関するお話です。

 

好きなことで生きていこうとすれば、好きなことがどうやったらお金になるかを考えることが必要。

で、お金にしようと考えるなら、どの層にどのようにアピールしたら価値を認識してくれるかを考える必要がある。

価値を認知する人が一定数いれば、それは必ずお金になる。

 

たとえばむっちゃ古典が好きな人がいたとして、どうやって好きをお金にすればいいか?

1番分かりやすいのは古典の先生になること。

でも、それ以外だってやり方はいくらでもある。

ここで考えるのが、どうやって価値を届けるか。

古典によって価値を感じる層、或いは価値を感じる見せ方を考える。

 

詳しい解説サイトを作ればそこに「価値」が生じるかといったら、答えはNOだと思う。

その情報で価値を感じる人が明確に想定されていないから。

もちろん、「古典が大好きな人」がターゲットということは言えるけど、それがどのくらいの人数で、具体的にどういう価値を感じるかが分からない。

 

僕が考えつく最も「古典の知識」に価値を感じる層は高校生だ。

彼らには古典のテストという、越えなければならない壁があり、分からないという悩みを持っている場合が多い。

それを解決するような見せ方を作れば、立派な価値を提供したことになる。

では、高校生向けに好きな古典の話を書けばいいか?

 

もちろんそんなことはない。

今度は彼らにとってどう「古典というコンテンツ」を提供するかが重要になる。

例えば、様々な教科書を取り寄せて、多くの学校で使われる古典の作品を徹底的に分かりやすく説明したコンテンツを作る。

そうすれば紛れもなく、特定の人に価値を持つものとなる。

 

まだこの段階ではお金は発生していないのだけれど、そこに「価値」があり、それを求める人がいれば、その価値を欲しがる人が絶対に出てくる。

それはサービスそのものかもしれないし、特定の層を集めているという「現象」それ自体かもしれない。

 

いずれにせよ中心に価値があり、そこに人が集まる状態ができていれば、そこに何らかの形でお金を介在させることは可能である。

僕はこの「価値」と「需要」が揃っている所に「お金」が組み込まれることが「市場化」することだと思っている。

そして、この経験をしている人は、何をやるにしても強い。

 

学生さんを見ていると「ヤリタイコト」をしている人は多く見かけるけれど、「市場化」まで意識している人は驚く程に少ない。

多分それは得手不得手ではなく、そもそも市場化という発想がないのだと思う。

もちろんやりたいことをしていて満足というならそれでいいのだけれど、あくまでそれは消費者。

 

これはあくまで僕の定義だけれど、たとえ人を多く集めていても、たとえ人に感謝されていても、あくまでそれは生産者ではなく消費者だと思う。

誤解のないように弁解しておくと、決して「消費者」が悪いと言いたいわけではない。

ただ、生産者が少ないなら、その経験は色々得だろうというお話。

社会人は皆知っている読ませるエントリーシートの作り方①面接官と学生の視点のズレ

今年も就職活動の解禁日が近づいてきました。
そもそも僕は正規の「就職」という形をとっておらず、著者適正がないことは分かっているのですが、それでも「書くこと」に関しては何かしら役に立つコンテンツを作ることができるのではないかと思い、毎年自己PRと志望理由書の書き方について文章を書いています。

今年度は僕自身採用に関わる機会があり、学生さんから社会人まで、多くの人との面接を行ってきました。
いざ自分が面接をする立場になると、いろいろと気付くことが多くありました。
というわけで、今年度はその辺の「採用する側」の視点も踏まえてエントリーシートの書き方についてまとめていきたいと思います。


僕が採用面接をする際に思ったことは、「こちらが求めている人材であるかどうか」が最も重要ということです。
具体的には、たとえどんなにやる気や熱意はあったとしても、求めている人材で無ければ採用できないよねという話。
僕は就職活動の志望動機に関して、下の表のように考えています。

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採用する側として欲しい理想的な人材は、「熱意があり、且つ仕事に向いている」右上の人。
ここが最も求められているというのは就活をする学生さんであっても、採用をしている面接官であっても、同じ意見でしょう。
また、採用したくないと思うところも意見が合致するはずです。
すなわち、向いていない上にやる気も持ち合わせていない左下の人材。
右上が最も需要が高くて、左下が最も需要が低いというのはどんな人にとっても共通認識できることだと思います。
僕が学生と試験官の側で違うんじゃないかと思うのは右上の優先順位が最も高く、左下の優先順位が最も低いとしたときに、2番目にくるのと3番目にくるのとで、どう並んでいるかという認識の違いです。
おそらく殆どの就活生は、右上の次に求めているのは左上だと思っているのではないでしょうか。

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だからこそやる気や熱意をアピールするし、そのアピールは自分がいかに学生時代に凄いことをしたか(そして往々にそれは誰もがやっていることに終止してしまう…)になるような気がします。
思いや熱意の大きさをアピールしようとすると、どうしてもそういう「キラキラ」合戦になってしまうんですよね。

それに対して、採用する側が大切にしているのは、「その人が求めている人材であるかどうか」です。
たとえどんなに熱意があっても求めている人材でなければ取らない、というか取ることができません。
だから優先順位としては、必然的に右上の次に右下がくるわけです。

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そんな、自分たちの求める人材であるかどうかを見極めるのに最も重要になるのは、その人が普段の生活の中で、どういうところにモチベーションを感じ、何を大切にしているかが分かること。
いうまでも無く、採用をすれば、その後ずっと一緒に働くことになります。
だからその人が過去の一瞬に輝いたエピソードなんかよりも、日頃の行動原則みたいな思考のプロセスが分かるようなことの方が重要なんですよね。
で、向いている・向いていないの部分に関しては、特別な「実績」のあるものよりも、本人も気付かないくらいの日常の方が案外いいアピール素材が転がっている。
女子高生のプリクラばりに頑張って盛りまくって凄いエピソードをひねり出すより、身近なところに転がっている「らしさ」の方が、読み手にはささるわけです。
なんていうか、男の人がいう「料理ができる人がタイプ」っていうのが、「料理教室に行っていてフランスのフルコース作れます!」みたいな人じゃなくて「派手なものは作れないけれど、冷蔵庫の食材で今晩の夕食が作れます」みたいな人だというのと同じ感じ(笑)

僕は結構大学生の人と接する機会が多いのですが、毎年内定を貰っている人は、右上の「スーパー学生」タイプか右下の「社会人タイプ」の売り込みができる人。
もしくは左なのだけれど、数多く受けている中で偶然向いている企業と当たってその職場でだけ右上と同等の評価を受けた人(そしてこのパターンは大抵「自分の行きたい会社に出会えた」って言います。)のいずれかです。
左上になって物量作戦で偶然向いている仕事に出会うまで続けるのもいけれど、折角なら自分に向いている仕事にターゲットを絞って、その会社の方から是非来て欲しいと言ってもらえるような自己PRをしていこうよ。
今回の就活のエントリーシートの書き方は、そんなコンセプトの下まとめてみました。

さて、ここまででちょうど1800文字。
ここまでお読みいただいた方は少なくとも僕の文章を自己PRのエピソード2~3本分は目を通してもらえたことになります。
因みに第一回のこの文章には、具体的な方法論は一つも挙がっていません。
それでも一定数の方に最後まで読んでいただくことは可能です。
もちろん内容が重要であることはいうまでもありませんが、読まれる文章にはある程度のテクニックみたいなものが存在するのです。
そうした「読まれる文章」のテクニックも披露できたらと思っていますので、よかったら御覧下さい。
不定期更新で全5回くらいを想定しています。

2017年佛教大学一般入試A日程2/3「撰集抄」現代語訳

今年度入試で出題された、古文の現代語訳速報です。
仕事の合間に急いで訳しているので、細かな違い(時に大きな読み間違えがあるかもしれません..)はご了承下さい。
また、あくまで話の筋を追うことを第一に訳しています。
そのため、文法事項や敬語はあえて無視しているところがあります。
随時アップしていく予定ですので、よかったらご参照下さい。


中頃、播磨の国、平野というところの山の麓に、海に向かって体裁だけは何とか整っている庵を建てて、そこで仏道修行をしている法師がいました。一日中念仏を唱えておりました。ある時、法師の下へ人が行って仏門に入った理由を尋ねましたところ、法師は「私にはたいそう仲の良い妻がいました。その妻が亡くなったので、どこかの場所でどのような苦行を受けて苦しんでいるのではないかと不憫に思って、彼女の後世を弔おうと思い、持っていた田んぼなどもみな捨てて、このような身になってからは、欠かさず念仏を唱えているのです。」と語ったそうだ。法師は里に出かけていく托鉢などもしなかったので、人々が同情してもってきてくれる食料で暮らしていた。
 あるとき、普段とは違って、この僧(法師)が里に出てきて人々にこう言った。「私は明日の夜明け前には極楽往生しますので、今日で最後となる対面をしたいと思い、山里へ出てきました。私のために日頃行ってくれたあわれみは、感謝しきれないほどありがたく感じております。」。とてもしみじみと言っていたのだけれど、里の人々は僧の言うことが本当だとも思えなかった。しかし、僧は言った通りに、翌日の暁方、息絶えてしまった。神秘的な雲が空に満ちて、庵は普段とは違う香りに満ちていた。法師はその庵の中で眠ってるようにして、西を向き、手を合わせて亡くなっていた。
 この事を伝え聞くと、哀れに悲しいことです。本当に、夫婦となって、愛情深く過ごし、来世でも一緒になろうと願う気持ちが浅くなかったのでしょう。唐の玄宗皇帝は「空を駆けるならあなたと一緒に翼を並べるような鳥となり、地に住むならば、あなたと枝を連ねる木となろう。」といって契りを交わし、また日本にも、「うずらとなって一緒に泣こう」と言った者がいましたが、生きているうちは熱心にしていたようですが、死んだ後は人の心の情けなさでしょうか、妻の死後、他の女性に心を移して、自分の慕ってくれた妻の言葉も忘れて、熱心に妻の死後のことを弔う情もかけなかったのに、この僧はしっかりと妻のために勤めたのです。やはり、めったにないほど素晴らしいことと思います。弔いをした聖(僧・法師)が往生をしましたのだから、ましてその女はまさか往生していないことなどないでしょうと、返す返す羨ましいことです。なるほどどうすれば、生きているうちはともかくとして、自分が死ぬまでずっと、思う人の死を悲しみ続けることができるのだろうと、しみじみと心惹かれるきがするのです。
 さて、この聖はいつの人であったのでしょうか。何処にいたのかも知りません。姿かたちなどは断片的にきいているとはいえ、彼の心境を思いやると、どのような人だろうかといっそう知りたくなるものです。仏門に入ったときから亡くなるまで、きっと澄んだ心だったのだろうと思われます。

 

 

撰集抄 (岩波文庫)

撰集抄 (岩波文庫)

 

 

信用を集める装置としてのクラウドファンディング

年末から年始にかけて、クラウドファンディングに関して面白い話をたくさん聞いたので、僕なり考えをまとめてみました。

(最近古典の現代語訳ばかり書いていたので、久しぶりに書きたいネタでやや分量が大目です 笑)

 

 

ここ最近、個人で事業を起こしている人たち見ていると、クラウドファンディングをやっている団体が増えているように思います。

僕は比較的初期の頃から面白いクラウドファンディングの仕方をしている人たちなどを追いかけていたのですが、ここ最近で、本来あるべきところに収束しつつあるように感じています。

それは、クラウドファンディングによってファンを増やしていくという使われ方です。

 

そもそもクラウドファンディングとは、何かを作りたい人がウェブ上で出資者を募るシステムです。

最大の特徴は一人当たりの出資額が極端に小さいということ。

従来のであれば一人の賛同者がパトロンとなって大金を出資していたのですが、クラウドファンディングは、その活動に共感した人や、そのサービスが欲しいという多数の人から、少しずつお金をもらうことで成り立っています。

例えば、被災地の子どもたちに音楽を届けるために1000万かかる音楽フェスを企画したとして、今までならこの活動に共感した人からお金を貰っていました。

1000万×1人という具合です。

これがクラウドファンディングだと、日本中(時に世界中)にいる活動に共感した人たちから小口でお金を集めます。

1000円×10000人という感じ。

大人数から小口でというのが、僕が見るクラウドファンディングの「装置として」の革新的な部分だと思います(「装置として」というカッコ抜きの部分は後で説明します)。

 

初期のころは純粋に一人当たりの支払額が少額のパトロンを募るというイメージでした。

例えば僕が面白いなあと思っていたのは、ある女性用下着の事例です。

この事例では、クラウドファンディングの目的は「カワイイ女性用下着(ややエロ)」を作ることでした。

それに対して出資者へのリターン(お金を出してもらうお礼に渡す品)はネットアイドルの方がその下着を着用した写真集(DVD)というもの。

当然下着のターゲットは女性ですが、このリターンを見る限り、あくまで出資者のターゲットは男性です。

つまり、この事例ではお金をネットアイドルの下着写真集が欲しい男性から募り、女性向けの下着メーカーの立ち上げに使うという形をとっているわけです。

これに対して賛否は分かれると思いますが、僕は非常に上手なやり方だなあと思って追いかけていました。

他にも、アイドルが一緒に散歩みたいなものをリターンにしようとして炎上しかけたみたいな事例もありました。

この頃は明らかに複数人からお金を集める手段として、クラウドファンディングという装置は機能していました。

しかし、ここ最近になって、全く違うクラウドファンディングの捉え方が出てきて、そして、それが主流になりつつあるように感じます。

 

クラウドファンディングを「小口のお金を複数人から集める」装置として利用していたのに対して、ここ最近は「ファンを増やす」装置として捉える団体が増えてきたように思います。

ある作者が本を出版したいから、どんな本を出すのかを熱心に語ってそのリターンに本を贈る、どうしても作りたい映画があるから賛同してくれる人を集めてリターンは上映会やクレジットへの名前の記載にする等々。

僕はこのクラウドファンディングの「ファンを集める装置」としての捉え方が非常に面白く、かつ、様々な可能性を秘めていると思っています。

たとえば出版において非常に重要なことは初期の出版見込みと言われています。

それが、仮に本を出版したいというクラウドファンディングをして、出資額を本の値段(かもうちょい上)にして、リターンをその本そのものにし、1万人の出資を募ることができれば、それはそのまま発行部数となるわけです。

本来、発行部数はその作者の知名度やコンテンツの強さで決められます。

しかし、クラウドファンディングで一定数の出資を集めていれば、それがそのまま見込み数となります。

いわば人気の前借りです。

 

同じ「不特定多数から小口の出資を集める」という装置であっても、「出資者=お金を出す人」とみるのではなく、「出資者=ファン」と捉えることで、一気に可能性が広まります。

先の下着の例(たまたま今回は否定的な文脈で使ってしまいましたが、本来はとても凄い戦略だったと思っています)では、あくまでクラウドファンディングはお金を集める手段であり、出資者と企画の意図は完全に分離していました。

この場合、お金を集めるという目的は達成できますが、ファンを集めるということはできません。

これだと定点的にお金を募るのならば大丈夫だけれど、支持層を広める手段としてはまるで機能しません。

お金ではなくファンを集める手段として使われてこそ、クラウドファンディングの真価が発揮されるというのが僕の持論。

そして、実際に多くの成功事例が、徐々にこの方向にシフトしてきているように思います。

 

で、ここからは実際にクラウドファンディングを立ち上げるときのお話です。

こんな使い方に特化したクラウドファンディングがあれば面白い差別化になるだろうななんて僕の考えを、クラウドファンディングをしたことのある人たちに話していたら、そのたびにサービスによってかなり思想やターゲットが違うということを教えていただきました。

その中でも二人の団体の代表さんたちから聞いたお話が印象的だったので少し紹介します。

一人の方が教えてくれたのは会社によって、案件を立ち上げてからのフォローが全然違うということ。

あるサービス(名前は出すなと言われました…)では立ち上げに殆ど費用はかからないのだけれど、その分どうやれば成功するみたいなフォローも全然ないとのこと。

逆に、費用はかかるけれど「クラウドファンディングを成功させる情報」みたいなものを細かく教えてくれるサービスもあったということです。

そういう面でも単に案件の立ち上げやすさではなく、サービスを見てえらぶことが大事なのだとか。

僕は全くクラウドファンディングをする予定もないのですが、むちゃ参考になりました。

 

もう一人の方から聞いたのはサービスごとの思想の違いというお話。

やはり同じクラウドファンディングといっても、資金調達に主眼を置いているサービスもあれば、あくまでクラウドファンディングをする人の「夢」をかなえることに特化したサービスを提供する企業さんも多いとのことでした。

話の中で具体例として出て来たのはモーションギャラリーさん(こちらは名前を出してもいいとのことだったので企業名で…)という会社。

企業の方針として、単なる資金集めではなく、活動の意義を重視しているのだそう。

ちょうど、僕が考えていたクラウドファンディングの使われ方と一致していました。

やっぱりすでにそういう企業さんがいたみたいです。

 

クラウドファンディングはファンを作る装置としてこそ真価を発揮するというのが僕の持論なのですが、具体的にどのようなプロジェクトに向いているのか。

これはもう、「ファンを作ることが最大の武器になるもの」に尽きるのではないかと思います。

先に挙げた本の出版はもちろんのこと、映画なんかもそう。

本来ならば「世の中に発信→ファンの獲得」であったのを、クラウドファンディングは「ファンの獲得→世の中に発信」という順番に逆転させてしまいます。

これって、かなり大きな出来事だと思うんですよね。

そしてそれは、予算規模が大きければ大きいほど効果を発揮します。

プロジェクトの規模感=ファンを集められる規模感といえます。

たとえば、「東京の劇団を応援したい」では、ファンを募れるのはあくまで足の運べるせいぜい関東圏に留まりますが、映画や書籍みたいな全国規模なものであれば、潜在的なファンはそのまま全国にいるということになります。

2016年後半にかけて大ヒットした「この世界の片隅に」とかは、まさにここに該当します。

その意味で、映画を初めとする、全国規模でファンを獲得する潜在力のあるプロジェクトに関しては、ファン獲得の装置としてクラウドファンディングを提供するサービスとは相性がいいように思います。

これは完全に僕の肌感覚ですが、「この世界の片隅に」やキンコン西野さんの絵本「えんとつ町のプペル」の成功例に倣って、今後さらにファン獲得の側面を生かしたプロジェクトが増えてくるような気がしています。

そんな期待感も込めて追いかけているのがクラウドファンディングという「装置」だったりします。

 

 アイキャッチは川上さんのネット論

 

 

 

2017年佛教大学一般入試A日程2/2「大和物語」現代語訳

今年度入試で出題された、古文の現代語訳速報です。
仕事の合間に急いで訳しているので、細かな違い(時に大きな読み間違えがあるかもしれません..)はご了承下さい。
また、あくまで話の筋を追うことを第一に訳しています。
そのため、文法事項や敬語はあえて無視しているところがあります。
随時アップしていく予定ですので、よかったらご参照下さい。

問.次の文章を読んで、後の問に答えよ。

貞峯の少将は旅の道中で、五条あたりについたとき、ひどい雨に見舞われたため、近くにある荒れた門のところに立ち隠れて、中を覗いたところ、五間ばかりの檜の皮で覆われた屋根の下に、土蔵はあるけれど、特別に人などがいる様子ではなかった。中に入ってみると、階段を覆う屋根の間に、たいそう趣深い梅が咲いていた。鶯も鳴いている。不意に、人がいるとも思えないような御簾の内側から、薄色の衣の上に濃い衣を着て、背丈・風貌などが非常に良い人で、髪の毛の長さが背丈ほどになるかと見える人が、
よもぎ生いて荒れたる宿をうぐひすの人来と鳴くやたれとか待たむ
(蓬の葉が咲くくらいに荒れている宿に「人が来る」と鳴いているなあ。しかし誰が来るのを期待して待っていればよいのでしょう。)
などと独り言のように言った。少将はこれを聞いて、
 来たれどもいひしなれねばうぐひすの君に告げよと教へてぞ鳴く
 (私はここに来たのだけれど、あいにく女性に声を掛けなれていないので、鶯は私に向かって、主人にやってきたことを告げなさいと鳴いてくれているのです。)
などと趣深い声で言った。女はこれに驚いて、「人がいないと思っていたのに、恥ずかしい姿を見られてしまったことだ」と思って、何も言わず黙ってしまった。男は縁に登って座った。「どうして何も言ってくれないのですか。雨が降ってきてしまったので、止むまでこうしていようかと思います。」と男が言えば、「雨漏りのせいで、大路よりも濡れてしまうかもしれません。ここは却って…」と女が答えた。時は一月の十日ほどのことだった。女は、御簾の内側から、男に向かって敷物を渡した。男はそれを引き寄せて座る。簾もこうもりに所々食われ、なくなってしまった箇所もあった。部屋の中の様子をみると、昔の様子が忍ばれるように、畳などはよかったのだけれど、みすぼらしくなってしまっていた。日もだんだんと暮れてきたので、男はそっと部屋に上がって、女が奥に入ってしまわないように引き止めた。女は悔しいと思ったけれど、それを制する術もなく、どうしようもなかった。雨は一晩中降り続き、翌朝になると少し空は晴れていた。男は女が室内に入っていこうとするのを、「ただ、このままで」と言って入れさせない。日が高くなると、この女の親は、少将たちにご馳走を用意する手段も持ち合わせていなかったため、少将の付き添いの小舎人童には塩を肴に酒を飲ませ、少将には広い庭に生えている菜を摘んで、蒸し物にして茶碗に盛って、端には梅の花の多く咲いた枝を折って添えて、その花びらにたいそうかわいらしい女の筆跡で、こう書いたそうだ。
君がため衣のすそをぬらしつつ春の野にいでつめる若菜ぞ
(あなたのために服の裾を濡らしながら、春の野に出て摘んできた若菜でございます)

 

 

大和物語(上) (講談社学術文庫)

大和物語(上) (講談社学術文庫)