新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



二つの積極性

僕たちは真面目に勉強に取り組む子供たちを見て、能動的に勉強に取り組んでいると思ってしまう。しかし本当に僕たちが言った通りに勉強できる子が、イコール真面目な子供なのだろうか。自分自身の経験と、実際に講師として教育に関わるようになった身として、必ずしも指示した課題に真剣に取り組む=能動的な生徒とは思えない。


僕は2種類の能動性があると思う。ひとつは「勉強へのの能動的参加」、もうひとつは「勉強からの能動的対峙」だ。二つの段階を経て、初めて能動的な学習というものがあると思う。


前者の「勉強への能動的参加」とは、僕たち教育に関わるものが、その子どもにとって最適と考えるプロセスを、自らの意志を以って歩もうとする姿勢だ。言わずもがな何かを学ぶ際にこうした姿勢は不可欠だ。それが勉強でなくとも、新たな物事を学ぶ時、1番大切な姿勢は「教える者の方法論を一旦全て信じること」だと思う。これはとりわけ芸術やスポーツで欠かせない姿勢だ。具体的なゴールが示されぬ中で、自らの指針を決めるためにはとりあえずのゴール、すなわち目標が必要だと考えるからだ。勉強でも同じ事が言える。

「いい成績を取る」という目標設定は、余りにも漠然としている。具体的に目指す事が可能な指針で無い限り、それは目標とは言えない。したがって勉強で推進力を得るために「勉強への能動的参加」は不可欠だ。

では、指示された課題に能動的に取り組めばいいのか。僕は違うと思う。受験勉強だけを見れば、或いはそれで足りるかもしれない(よっぽどのスペックと純粋さがあればだが、、)。しかし、長い目で見た時に、素直に言われた事に取り組むだけではいずれ大きな壁にぶち当たる。受験勉強のその先、自らの意志でもって将来を開拓しようとする時に必要になるのが「勉強に対する能動的対峙」だ。

言われた事に積極的に取り組む姿は一見すると能動的に見えるが、そこに自らの意志はほとんどない。行動自体は極めて能動的であっても、その選択自体は、自らの頭で考えたのではなく、言われたことに素直に従っているという点で受動的な行為だ。いくら熱心に取り組もうとも、その内容自体を自ら選択していない限り、そこに責任は発生せず、自らその道を選んだのだという当事者意識は生まれない。解という試験上の「正しいこと」や「志望校合格」という、誰もが共通に理解できる明らかな目標が決まっている間はいい。だが具体的な評価基準、ゴールが決まっているのは受験勉強まで、その先はあらゆるルールが未整備であることが殆どだ。そうした中で生きる上で不可欠なことが自らの責任で行動することだと思う。それを勉強に当てはめるならば、「なぜその勉強をするのか」「その勉強をしてどれだけ効果があるのか」などを自らの判断する事だろう。与えられた事を鵜呑みにするのでなく、自らの意志で取捨選択をする。それが二つ目の積極性、「勉強からの能動的対峙」である。

与えられた事柄を100%信じ、必死に取り組むという力は、ゴールが決まった事に対しては非常に有効だが、新たなものを生み出そうとしたり、斬新な改革をしようとした時には役立たない。新たな価値を生み出すためには「勉強からの能動的対峙」が不可欠なのだ。そしてこれからの社会では、そうした視点を持つことが求められる。

教育の現場はどうなっているのか。中高大と入試があり、「勉強への能動的参加」をする子どもに育てることで終わってしまっている場合が多いように思う。こちらが課したタスクを確実に行わせることに力を入れてしまう。本当の意味で子供たちに最適な勉強をさせようとするのならば、子供たちに課題の中から自分にとって必要なものは何なのか、自ら選ばせるべきだ。教える側が能動的参加の先に、「勉強からの能動的対峙」を想定した教育ビジョンを持って指導する事が大切だと思う。


書きかけだったやつの続きを書いていたらちぐはぐな文章になってきてしまったので、崩壊する前に書くのやめときます、、(笑)