次の時こそと思い、ながいながい先生の説明を、僕は震えながら聴いた。
時計の針は30分を指している。授業が始まって半分が過ぎた。いい加減、我慢も限界を迎えのようとしている。「次こそは、、、」右手を机の上に置き、臨戦態勢を敷いた。
次の問題はまさかの先生による解説だった。また僕は発言の機を逃す。残り時間は15分に近づく。
「次こそは」そう思った瞬間、脳裏に別のビジョンが浮かび上がる。「ここまで我慢したなら、今更トイレに行きたいと叫ぶのは損ではないか?」。
僕はその囁きを吟味する。確かにその通りだ。40分近く我慢を続けた。残りは数分だ。膀胱のダムは決壊寸前だとしても、気合いでなんとかなる気配はないこともない。
仮にここで、観念して「トイレに行かせて下さい」と言おうものなら、今まで我慢した時間が無駄になる。ならばこのまま、残りの時間を漢の気合いで我慢で貫く方が良いのではないか?
以上が、「授業中トイレに行きたくなったけど、恥ずかしくて言い出せない男子生徒の心情」です(笑)おおよそ当たってませんか?
これはそのまま、経済学の「サンクコストの呪縛」という現象を表しています。サンクコストの呪縛とは、何かに対する進退を決めるとき、それに対する投資が大きすぎて、容易に撤退という選択肢は取れないという人間の行動原理を指した言葉。今回の例で言えば「ここまで我慢したのなら、今さらトイレに行きたいと申し出るなんて恥ずかしいし勿体無い」という考えです。パチンコで負けが続いたときに、なんとか逆転しなければと、さらにお金をつぎ込んでしまうのがちょうどこんな感じ。。
確実に悪くなると分かるのに、それにのめり込む人がいる。それを端的に示したのが、サンクコストの呪縛という考えだと思います。
「トイレ行きたかったのに半分過ぎたら挙手したら負けな気がする」。これが経済学でいうサンクコストの呪縛をものーーーすごくシンプルにした説明です(笑)
※このエントリは僕が酔って思いつきで書くものなので、一部に根拠の薄さや内容の不整合が見られるかもしれませんがご容赦願います。