僕には(控えめに言って)素行のよろしくない幼なじみがいて、彼と遊ぶことで、いろいろな「知識」を教えてもらいました。
自動販売機からジュースを抜き取る「知識」とか、自転車の鍵を外して盗む「知識」とか、原付を鍵なしてパクる「知識」とかetc...
もちろん僕はそんな事を実際にしていないし、しようとも思ったことはありません(だからこそ、それらをカギカッコつきの「知識」と呼んでいます)
僕が小・中学校時代に家が近いから遊んでいた友達をみてみると、多くは中卒で、良くても高卒くらい。
成人式で久しぶりにあって、大半が働いていたのをみて、大学に通っている僕なんかよりも彼らの方がずっと「大人」だなあと感じたのを今でも覚えています。
一方で、中学時代の僕はありがたいことにそこそこ勉強ができた(笑)ので、学校でよくつるむ友達は委員長をやるようないわゆる先生ウケのいい人たちでした。
で、こっちはこっちでむちゃくちゃ面白い。
全く違う文脈のグループにいるときに、「楽しい」ことも「大切な」こともまるで違うということをとても面白いなと思ってみていました。
高校に入ると、今度はリア充のグループとオタクのグループに(なぜか)所属することになります。
自分が自然と仲良くなったのは、少数の仲間内で同じ趣味について盛り上がるオタク気質のグループ。
一方で、偶然席が隣になった友達と馬があって、彼とつるむうちに仲良くなったのは学校の空気を作るようなリア充グループ。
女の子と喋る必要性すらないようなグループで過ごしているかと思うと、一緒に遊びに行くのが当たり前の空間でワイワイやっているみたいな印象で、ここでも全く違う文脈が流れていることを面白く思っていました。
大学に入ると今度は、サークルでワイワイするのが第一のグループと、バイトに全てを捧げるようなグループに所属することになります。
サークルにいるときは大学生なんだからとことん楽しまないとというのが「当たり前」の生活をし、バイト先では社会に触れるのだから「こうあるべき」という振る舞いをするような生活をしている。
ここでも僕は違う文脈があることを楽しんでいました。
少し前、居酒屋で飲んでいたときに、「その人の特性は小さい頃の経験から決まる」という話と「社会人になって振り返ってみると気づきがあるかもしれない」という話を聞いて、なるほどと思いざっと振り返ってみたのですが、改めて思ったのは、僕にとっては常に2つの対照的な文脈に身を置くのが心地よいということでした。
だいたい僕がしんどさを感じるのは、義務感や競争なりで、一つのグループに打ち込んでいるとき。
盲目的に何かに取り組むというのが凄く苦手なのだと思います。
バーベキューをするのなら1番楽しいのは肉を焼いたりする係だし、海に遊びに行くのなら泳ぐよりも荷物番をしてたまに疲れて休みに来る人と話すくらいがいい。
飲み会の席でもちょっと引いたところで楽しい空気に触れているのが1番楽しい。
グループで集まろうと呼ばれるよりも、
好きな先輩や贔屓にしていた後輩から「久しぶりに合わないか?」と個人で連絡をもらうとむちゃくちゃ嬉しくなる。
一貫して自分が心地よさを感じるのはこういった部分であるように思います。
ある組織に没頭してそのメンバーを引っ張っていくとか、そのグループの中でやるべき仕事を引き受けてその役割に責任感を持つみたいな関わり方は多分自分の性分にあっていない。
それよりも後方にいて、穴があったらそこにそっと入るみたいな関わり方をしているときが1番自分では力を発揮できているように思うのです。
少なくともそうやっているときが僕にとっては1番楽しい。
「いなくてもいいけれど、アイツ呼んでおこうか」くらいのところが、多分僕にとってのベストポジションなのだと思います。
こういう関わり方が好きな人って、案外多いんじゃないかなって思います。
そして、そういう人たちの欲求を満たせる場は少ない(笑)
僕の経験上、こういうグループへの関わり方をするには、組織を作るタイプの人に気に入られることが不可欠です。
自分でグループを作っても上手く回らないし、役割を担った一員として参加したら役に立たないやつとなってしまう。
僕の座右の銘は「好きな人の懐刀になる」。
ここでいう好きな人が組織を作る人だったり、圧倒的なカリスマ性を備えた人だったりすると、上手くいくのかなあと思います。
ちょうど、黒子のバスケの黒子と赤司くんみたいな関係(笑)
僕みたいなグループとの関わり方が好きな人は、人を集めるタイプの人と出来る限り出会う機会を増やして、縁があった人とは片っ端から付き合ってみる。
そんな風にしていくと、自分のやりがいや勝ちパターンが見えて来るような気がします。