新・薄口コラム

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



思考の離乳食〜情報格差と思考格差〜

微妙な気持ちを言語化するのが面倒なとき、僕はよくラインスタンプに逃げます。
あれは本当によくできてると思う(笑)
喜怒哀楽が抽象化されてるため、四分類の中で自分の今の心情に最も近いものを選んでおけば、とりあえずなんとかなるってのが凄いと思います。

で、ふと思ったのが、このままラインスタンプのようなサービス?技術?が進化してそれに慣れてしまうと、僕たちは無意識に感情も選択するものになって行くのではないかということです。
「自分は今こんな気持ちだ」って伝えるのではなく、自分の気持ちに一番近いのはどのスタンプだろうって探すのがスタンダードな世界。
そもそも言語自体自分の気持ちの中で翻訳(言語化)可能な部分しか伝えられないのでは?と突っ込まれたらなにも言い返せないのですが、それでも自分の気持ちをスタンプで表示される8つくらいの中から選択するのが当たり前になった人たちのコミュニケーションがどんなものか想像するとちょっとゾッとします。



もうひとつ最近よく思うことが、「検索する」ことの不自由さです。
僕らはついついGoogle先生に聞けば、なんでも答えてくれると思いがちです。
しかし検索システムの性質上、大前提として僕らが知っていることしか検索することはできないわけです。
そんなの当たり前という人が多いと思うのですが、僕が不安に感じるのは、同時に「そんなこと考えもしない」人たちが間違えなく増えている、そしてそれが本来大多数であるのではないかということです。
イノベーター理論でいうところの、レイトマジョリティといわれる層の人たち。


最近よく、アーリーアダプターとアーリーマジョリティ+レイトマジョリティの間の溝が深くなりつつあるという主張をよく目にします(僕がそういう情報に触れているだけかもしれません)が、ここの溝がさらに深くなったときに生じるのは、考える事について知っている者と、知らない者の格差ではないかと思うのです。


「なんでこんな当たり前のことをわざわざ言ってんのや?」
先日、塾の先生と話していた時にハッとさせられた言葉です。
ちょうどアドラー心理学についてとんでもなく丁寧に噛み砕かれた「嫌われる勇気」という本と、検索で出ない言葉を探せと東さんが一般の人(マニアではないという意味で)向けに書いた「弱いつながり」について話していたときの言葉です。
(全然関係ないですが、僕はこの二冊のように、興味のない人でも理解できるように書いた本を「思考の離乳食」と呼んでます)
僕も一応国語講師の端くれなので、そんなこと当たり前やんという姿勢でこの二冊を読んでいました。

ただ、この二冊が高評価で世間に広がっているという現象自体をみて、いかに「当たり前」とされていたことが「当たり前」でなくなっているのかを感じました。
それは物理的なことではなく、思考的なことにおいて。。

よく情報格差という言葉を聞きますが、僕は情報格差という現象自体が過渡的な現象で、その先に新たな問題が待っているのではないかと思っています。
あえて言うのならそれは「思考格差」。
IT技術の性質をしっかり把握してツールとして扱う人と、気がつくと身の回りにIT技術が溢れていてそれを利用している人。
両者の技術に対する向き合い方は決定的に異なります。

僕の実感でしかないですが、今は単に便利なものと捉え、ラインやGoogleをはじめとする種々のサービスを無批判に受け入れているのがマジョリティな気がします。
それ自体が悪いとは全く思いませんが、あらゆる感情がラインスタンプで表現できると考えたり、検索システムにより世界の全てを知ることができると当たり前に全ての人が思う社会を考えるとちょっと不安になります。
あらゆる自由選択がシステムの中で行われている社会。
SFによく出てきそうなテーマですが、あながち将来予想として間違えていないように思います。


ドラえもんの未来世界に描かれているような技術と共存する世界と、1984年(最近この例ばっかり、、、)に描かれるような技術に支配された世界を考えると、今は若干ジョージオーウェルが考えた世界に近づいている気がします。
少なくとも日本においては。。

思考警察みたいなものはもちろん生まれる訳がないのですが、日本においては「空気感」みたいなものがそれに相当するような気もしなくありません。
そして双方向テレビジョンはスマホが代替する。
ある意味ベンサムパノプティコンよりえげつないシステムにも思います。

新しい技術の負の側面を当たり前のように認識している人と、新しい技術を当たり前のように歓迎する人の間のキャズムが、とても大きくなっているような気がします。


・・・朝から何を書いてんだ(笑)