高瀬舟は人殺しの罪で島流しにあった身寄りのない喜助という男に同伴した庄兵衛が、舟の上でやりとりを交わす形で進みます。
人殺しの罪でこれから島流しになった喜助は、船中で信じられないほど落ち着いていて、それどころかどこか嬉しそうですらありました。
これから島流しに合うにも関わらず、たいそう落ち着いている喜助を怪訝な様子で見守っていた庄兵衛は、どうしてそんなに落ち着いていられるのだと喜助に理由を尋ねます。
庄兵衛が尋ねたことで明らかになった喜助は身の上は、想像以上に過酷なものでした。
喜助にとってそれまでの暮らしは、その日を越すのもままならない程に貧しいものでした。
そんな喜助は弟殺しの罪で投獄されると、何もしないのに三食を与えられる。
それまでは毎日の食事もままならず、居場所も無かった喜助にとって、たとえ島流しで苦役が待っているといえど、喜助にとってはそれまでよりかはずっといい生活なのです。
喜助が弟を殺めたのも、止むに止まれぬ事情ゆえ。
病気で動けなくなった弟が、自分がいては迷惑をかけるからと、喜助がいないうちに、喉をきって自殺しようとしていました。
喜助が家に着くと死にきれず苦しんでいる血まみれの弟を発見し、弟は喜助に「俺を殺してくれ」と頼みます。
そして仕方なしに喜助は弟を手にかける。
これが、喜助が親族を殺した真相だったのです。
庄兵衛は喜助のこの話を聞いて、自身の立場を重ねながら、さまざまなことを思います。
こんな感じで進む高瀬舟。
高瀬舟は国語の教科書にも載っているので、ウェブで調べるとさまざまな指導案が出てきます。
圧倒的に多いのは、喜助や庄兵衛の気持ちについて考えようというもの。
もちろんそこも大切なのだとは思いますが、僕が高瀬舟を好きな理由は、少し違うところにあります。
僕が高瀬舟を読んで最も印象に残ったのは、庄兵衛が喜助の話を聞いて、「法」について考えをめぐらすところです。
僕はこの作品を読んだとき「法とモラル」は違うということを改めて考えさせられました。
僕たちはたいてい、法と善悪を同じものと考えます。
法を犯すことイコール悪いことで、法を守ることイコールいい事といった具合です。
確かにたいていの場合、法とモラル(善悪)は一致しているのかもしれません。
ただし、全てがそうであるわけではない。
もともと法は社会を円滑に運営されるためのルールであり、本質的に善悪とは関係ありません。
たまたま、社会を円滑に運営されるルールと善悪が一致している部分が多いというだけ。
そんな当たり前のことに気付かせてくれるのが、この「高瀬舟」という作品だと思うのです。
喜助は確かに法を犯します。
だからこそ裁かれる。
法を犯し、罰を受けることに、喜助は何の不満もなく、全て受けいれています。
自分は「法」を犯した、だから罰を受けるのです。
一方で庄兵衛は喜助のこれまでの経緯を聞いて法で罰せられるとはなんだろうと考えてしまいます。
僕はこの二人の態度の違いが面白いと思いました。
それまでの庄兵衛にとって、法の判断と善悪の判断は完全に一致したものでした。
だから、初めに喜助を見たときには悪人としてみていたし、身の上を聞いた後は喜助が裁かれることに複雑な思いを抱く。
それに対して喜助は終始落ち着いています。
それまでの境遇や弟を失ったことから全てを達観しているようにもみることが出来ますが、僕は喜助のことを当たり前のように法とモラルを区別して考えている人物だと見ています。
だからこそ、罪を犯した自分が罰せられることを受け入れるし、境遇も受け入れているのだと思うのです。
現代社会を生きる僕たちにとって、自分自身が「法」を意識することはあまりないので、僕たちはどうしても法の判断と善悪の判断をごっちゃに考えがちです。
法を犯したから悪いという評価や、その逆でモラルに反することをしたから罰せられるべきといった具合です。
『高瀬舟』は僕たちに「法とモラルは違うよ」という気付きを与えてくれるという意味で、非常に面白い作品だと思うのです。