新・薄口コラム

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



分節化された世界の間を歩いてみる

最近ジプシー音楽にハマっています。

といっても曲が好きというのではなく(曲は全く分かりません 笑)使っている音階に興味があるというイメージです。

ジプシー音楽にみられる、僕たちが普段聞き慣れた音階の間にある微分音が非常に面白いなあと思うのです。

僕たちが普段聞く音楽は大抵五線譜で描かれるものになっています。

そして、ギターにしろドラマにしろピアノにしろ、楽譜には基本的には同じ記号を用いて音が評価されているわけです。

例えば、ドの音なら誰が声に出してもドという音ですし、ド#の音はどの楽器で演奏してもド#の音がします。

 

楽器を演奏する人ならよく分かると思うのですが、僕たちはこうしてできた楽譜を当たり前に用いて、こうしてできた楽譜を当たり前のように楽器で演奏しています。

ピアノでもギターでも木琴でもハーモニカでも、ドの次の音はド#です。

しかし、いったん音楽という枠組みを外れて考えてみれば音はただの波長です。

波長という途切れることのない連続体として音を考える場合、ドの次はド#という、「分断された音の定義」は極めて不自然なものになってしまいます。

音を波長として見た場合、バッハが作った平均律の間にだって当然音はあるわけです。

その五線譜に現れない音を評価したものが微分音です。

 

僕は微分音に名前がつけられていないのが凄く好きだったりします。

ドとド#の間にある五線譜では評価できない音を僕たちが呼ぶ時、それは「ドとド#の間の音」としか言いようがありません。

僕にはこの「断定しない」という断定の仕方が、非常にいいなあと思うのです。

自分の価値基準では分からないもの、あるいは自分の価値基準で言語化した時に、陳腐化してしまうだろうと思って、あえて言語化しないという選択が、ここにはあるように思います。

 

数年前、サイコパスというアニメの2期に登場して、主人公にとって最後の敵となったキャラクターは、その世界の人間の価値を決めるセンサーには反応しない存在として描かれていました。

その敵は、センサーに反応しない=存在しない存在として描かれていました。

主人公たちはその「存在しない存在」の正体を追いかけるわけですが、僕はこの「存在しない存在」というキャラクターが非常に面白いなと思っていました。

高度にテクノロジーが発達した世界で、それが当たり前になった人たちにとって、そこに映らない存在は追いかけようがありません。

これって、テクノロジーの進化に対する問題提起であると同時に、すでにある僕らの生活に対する問題提起でもあると思うのです。

 

ジョージオーウェンが一九八四年で書いた、国の言語から語彙数を削ることで国民の思考力を奪おうとしたニュースピークもこれに似ています。

ちょうど国によって虹の色数が異なるように、例えばその人の世界の中に赤と黄色という言葉しか存在しなければ、橙色や山吹色、桃色、朱色みたいな中間の色の存在は区分はありません。

こういう分節された世界の間に存在するものに注目したのがサイコパスの2期だったように思うのです。

 

僕の中では微分音もこれと同じです。

そういう僕たちが認識しやすくするために、あるいは他者と理解を共有するために作り出した区分の間にあるものに気づける感性って、今後ますますテクノロジーが広がる世界の中で非常に大きな武器になるのではないかと漠然と感じています。

だから意識的にそういった「スキマ探し」をしている今日この頃。

荘子の『混沌』の中で、形のないものに形を与えていったらそれが消滅してしまったという話が書かれていますが、まさに人と認識を共有するために言語化や体系化する過程で失われてしまう「らしさ」ってあると思うのです。

そういう「らしさ」の発見が、今の僕の大きなテーマだったりします。

 

という言いたいことも結論も何もないお話(笑)

 

 

アイキャッチ荘子の話

荘子 全現代語訳(上) (講談社学術文庫)

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