新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



言語化とギターとバイオリン

バイオリンは弦楽器だけどギターは弦楽器じゃない。

もちろん一般的な認識とズレていることを承知の上で、僕はこのように考えています。

僕は弦楽器の構造上の強みはAとA#の間、EとFみたいに、音と音の間の区切りがないことだと思っています。

例えば、バイオリンであれば音と音の間には連続性があるため、いわゆる微分音と呼ばれるような"音"も確かに「ある」ことになります。

一方で、フレットで区切られたギターの場合は、どれほど音と音の間の"音"を探ると言っても、フレットという物理的な装置で区切られた「文節」が存在しています。

その意味でギターの場合はどんなに頑張っても非連続の音にならざるを得ないと思うのです。

それをピックで弾けばなおのこと、非連続の楽器になります。

(弾き方まで持ち出してくると、むしろ弓で弾くバイオリンの方が特殊なのでは?という議論も持ち上がりそうですが、今回はあえて目を瞑っていただけると幸いです)

音と音の間の、平均律では「無い」とされている音の存在を意識できる。

僕はバイオリンの面白さはここにあるように思っています。

 

僕は何でもかんでも言語化したい理屈人間ではあるのですが、同時に頭の片隅、右の端っこの方では「言語化しない事の大切さ」みたいな事を考えています。

言語化するとは文節に区切ることだと思うのですが、その「文節に区切る」という行為によって失われる物が間違いなく存在し、それを無視するということに酷く違和感を抱くのです。

日本には「ナシラズ」や「ナナシノキ」のように、神聖なものや人の手に余るものにあえて「名無し」という名付けをすることがあります。

からくりサーカスの「ノーフェイス」、千と千尋の神隠しに出てくる「カオナシ」etc...

名付けないという「名付け」はアニメや漫画にも頻繁に登場します。

あらゆるシーンで言語化し他者と思考を共有する事は大切ですが、同時に言語化の際には「言語化することによって失われるもの」に思いを馳せるべきだと思うのです。

例えばある映画を見て強烈に感情を揺さぶられたとして、それを何とか人に伝えたいと思い、「憎しみと喜びが同時にこみ上げる凄い映画だった」みたいな言葉にすれば、確かに相手にある程度の印象は伝わるかもしれませんが、恐らく映画を見た時に受けた「強烈な印象」は、「憎しみ」と「喜び」の間にある、複雑な気持ちを必ず含んでおり、それは言語化した時点で絶対に伝わりません。

チープな言葉で言語化された深い感動は、むしろ言語化されたことにより、共感性が薄れてしまうと思うのです。

そういう時は「言葉にできない」と言うことがむしろ最も適切な言語化になる可能性もあります。

もちろん、言語化して共有できる部分でのみ共感するのが人のコミュニケーションだという意見もあるでしょうし、それは実際にその通りだと思います。

しかし、言葉に表して共有することにより失われる部分にこそ重きを置いている人にとっては、「ナシラズ」という名の言語化もあり得ると思うのです。

 

音と音の間の"音"を追究するバイオリン弾きに、「そんなことよりギター弾こうぜ」と迫るのナンセンスです。

微分音にこだわるバイオリン弾きにとっては「フレット」という存在そのものがノイズでしかないからです。

人とのコミュニケーションにおいては、とかく適切な言語化を求められがちです。

しかし言語化する以上、必ずその過程で失われる物があるのも事実です。

仮に自分が話す相手が、言語化し得ない部分で格闘する人であったなら、言語化しないまま共有する術を模索するのもいいんじゃないかと思います。

バイオリン弾きにギターを渡すのではなく、ギター弾きがバイオリンに触れてみる。

言語化の間で格闘する人」を知ろうとする際には、そんなコミュニケーションの選択肢を持つことが大事な気がします。

 

アイキャッチは音と音の間の"音"で格闘することが明確に伝わる葉加瀬太郎さんエトピリカ