新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



2015年龍谷大学公募推薦入試「発心集」現代語訳

久しぶりの現代語訳です。

この現代語訳は文の内容を理解することを優先し、文法に即した訳ではないところがあります。(とくに敬語はそれが内容を複雑にしている場合もあるので、よく省略します。)

内容の確認程度のものですので、逐語訳と比べると細かな違いは多々ありますが、悪しからず。。。

 

 中頃のことだったであろうか、山に貧しい法師がいた。自分がこの世の中を上手く渡っていくことはもう難しいだろうと悩みあきらめて、朝夜と問わず、山王(比叡山の地主神)の下へ参拝をして、涙ながらに祈っていたのだけれど、全くその効果はない。法師はそれをたいそう残念に思っていた。また法師は「山王はきっと私に『前世での行いが非常に悪かったため、いくら祈ったところでその願いは叶うまい』と言いたいのだろうな。やはり私の祈りは聞き入れてもらえないのか。」と恨めしく思い、「それならばどうしたらよいだろうか」と思っていたときに、ちょうど知っている人が稲荷で修行のために籠もっていたので、その者と一緒に七日間神社に籠もり、熱心にお祈りをささげ続けた。
 こうして7日目の夜になった。法師は夢の中で、唐衣をまとった非常に気高く素晴らしい女房が部屋の戸を押し開けて入ってくるのに出会った。その女房は法師の胸元を引きあけて、二寸ほどの多きさの紙切れを押し付けて渡し、帰っていった。法師がこの紙を見たところ、そこには「千石」という文字が書かれていた。法師はそれを見て「素晴らしい神様からの徳を頂いた」と思って座っていた。すると、鳥居の方からたいそう身分の高い人が周辺を召使に囲まれて入ってきた。法師は「誰だろうか、どうしてこれほどの装いでやって来たのだろう。」と怪しんでその者を見ていると、宝殿から先ほどの女房が急いで駆け寄って「どのような理由でこちらに来なさったのでしょうか。思いがけないことでした。」と言った。
 やって来た客人は女房に向かって「もしかしたら桓舜という法師がここに望みを叶えようと来てはいないか」と尋ねた。「その通りです。七日に渡って様々な祈りを熱心に行っていたため、たった今法師の望んでいたものを叶えたところです。」と女房は答えた。すると客人は、「それは、けっしてしてはいけないことなのだ。あの法師は私にも長年祈りをしている。僧として私にすべき勤めはすでに十分すぎるほどなので、何かを与えようと思えば何でも与えることはできたのだが、わざと祈りを聞き入れないでいたのだ。すでに渡してしまったのであれば、すぐに取り上げて欲しい。」と女房に伝えた。女房はそれを聞いて驚いて、「そのようなことがあったとも知らず、大きな過ちをしてしまいました。私が徳を渡した僧はまだそこにいますので、それを取り返すことは簡単です。」と言って、法師の下へやって来て、先ほど渡した紙を奪い取って帰っていってしまった。
 この僧(法師)は「さきほどの客人は、間違いなく山王であったのだ。山王自らが私の望みを叶えることは難しのだろうけれども、他の場所でいただけた褒美まで邪魔をして取り上げるとはどういうことなのだ。」と恨めしさのあまり涙して、その場に座っていた。女房はその姿を見て、「それにしても、どういう理由でわざわざ比叡山から伏見までやってきて、このように法師の望みを叶えることを妨げるのですか。」と聴いた。それに対して客人は「あの僧はこのままいけば必ず往生できる者なのだが、もしここで豊かになったら、そこで執念深くなり、まだ長生きしようという気を起こすだろう。こういうわけで自然に行けば法師にとってよくなることでも、私がわざわざ出向いて妨げて、往生を遂げさせてやりたいと構えているのである。」と答えた。法師はここで目を覚ます。
 夢で聞いた山王のその言葉をかたじけなく思った法師は、比叡山に戻り、現世に対する未練もすっかり断って、ひたすらに来世のための祈りをするようになった。そしてついに往生を遂げることとなった。月蔵房の僧都というのが、この法師である。
 このような話を聞くたびに、とにかく仏神の構えほど素晴らしいものはないとおもうのである。

人気ドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」は大人版「君に届け」だと思う

僕は基本的にテレビを見ず、コンセントも入れてないため、ただただ毎月NHKの受信料が発生するだけの負債としての役割しかなかったのですが、最近久しぶりにテレビをつけています。

といっても週に一度だけ(笑)

今クールで始まった「逃げるは恥だが役に立つ」。

テレビドラマなんて久しく見ていなかったのですが、久しぶりに大ハマりをしてしまいました。

ハマったらどんどんのめり込むタイプのなので、ドラマを見てソッコー原作マンガを購入。

原作マンガもやはり期待を裏切りません。

東村アキコ先生の結婚できない女性を描いた「東京タラレバ娘」が掲載される講談社の雑誌Kissに連載しているため、それと比較したり、所々で感じるさくらももこメソッドを追いかけたりと、あれこれ考えて読んでしまったのですが、「逃げ恥」(タイトルが長すぎるので省略させて下さい...)を読んで一番最初に浮かんだのは、椎名軽穂先生の「君に届け」でした。

「逃げ恥」って、(契約とはいえ)結婚している2人の模様を描いているので風早くんと爽子の関係とは違うようにも見えるのですが、主人公みくりとその夫津崎の少しずつ近づいていく様は、ちょうど君に届けのそれと重なります。

君に届け」の大人版っていうのが、僕の第一印象でした。

 

風早くんと爽子の場合は、お互いに気にしあっていて、周りの助けの中で少しずつ近づき付き合い始めるわけですが、逃げ恥の場合はこれの真逆をいきます。

始めに恋愛感情ではなく仕事として結婚した2人が、少しずつお互いが気になり始めて近づいていく。

つまり、みくりと津崎は夫婦から少しずつ恋人になっていくわけです。

仕事として付き合っているときは様々なことを割り切っていたのだけれど、恋人として意識するようになって、ちょっとしたことでも気になってしまうようになる。

ちょっとしたことでギクシャクしてしまう。

そんなところも、ただのクラスメイトだった2人が近づくにつれちょっとしたことで心が揺れ動く君に届けの風早くんと爽子の関係に似ています。

そんなところからも大人版「君に届け」だなあと思うわけです。

 

このマンガを読んでいて感じたことがもう一つあります。

それは、登場人物がいちいち全員頭がいいということです。

主人公のみくりも夫の津崎も、そして2人を取り囲む多くの人がみんな深い考察をします。

単に2人の恋愛を描くのではなく、所々で労働ってなんだろう?幸せの形は何なのだろう?ということを登場人物たちが考えるんですよね。

みくりと津崎の恋愛を見届けたい人にはもしかしたらそれがノイズになってしまうのかとも思いましたが、個人的には登場人物たちが不意にこうした「哲学的な問い」に思考を傾けることで、それぞれのキャラクターの考え方が厚くなっていって、面白いなあと感じています。

 

大抵の場合、原作マンガが面白ければ面白いほど、ドラマはイマイチになってしまうのですが、「逃げ恥」に関してはそうはなっていません。

僕はマンガを読んでからドラマに入ったのですが、一話目を見たときに相当読み込んで作られているなという印象を受けました。

前でも少し触れましたが、このマンガには所々でギャグ混じりの心の声のようなさくらももこさんの作品的なタッチや、マンガや番組のパロディのような挿入が出てきます。

あの手の演出は、マンガならではの面白さであって、映像にしたら繋がらないのではないかと思っていたのですが、その辺りのチューニングが非常に上手くなされています。

また、話を濃密にするために、話が進むうちに出てきた場面を一話に挟んできたりというところも、非常に上手く感じました。

相当読み込んで、整合性を意識して脚本にされているんだなあと、素人の僕でも分かるようなうまさです。

原作の面白さを活かす脚本に、とどめは主演のガッキーの踊る恋ダンス。

YouTubeで再生回数が非常に伸びているということですが、その辺のネットでバズらせる戦略もちゃっかり盛り込まれています。

そもそも、「逃げるは恥だが役に立つ」というタイトルも人を惹きつけるものになっています。

コピーライトやウェブ戦略といった、この辺のマーケティングも含めて面白いと思いドラマです。

 

1・2話目に入れられた原作にはない場面を見る限り、後半は原作と違ったものになりそう(原作もまだ連載中です)ですが、僕の予想している限りではきっと、ドラマらしいいいラストになるのではないかと思っています。

(その辺の予想に関しては寄稿依頼をもらった記事に書いたので、アップしたらまたそちらも載せたいと思います)

というわけで僕が今クールオススメする「逃げるは恥だが役に立つ」。

是非是非見てください!

 

アイキャッチ海野つなみ先生の原作

なんと電子版一巻は無料!

 

 

 

恋愛クライシス~エルザに憧れる女性陣と三葉を待っている男たち~

「確かにいい映画だったけど、世間で言うほど感動した!とは思わなかった」

「君の名は」について、僕の周りにいる女の人からこんな感想を度々聞きました。

一方で、映画を見に行った男友だちはほぼ全員が絶賛。

こうした評価を聞いて、男女で評価が割れるというのがとても面白いなあと思いました。

 

こうした「君の名は」に対する男女の意見の違いを目の当たりにして、僕はアナ雪ブームが一番に頭に浮かびました。

2014年に日本で上映された、「アナと雪の女王」。

その年の大ヒット映画となりました。

アナ雪ブームのときは、君の名はとは全く逆の反応であったことを鮮明に覚えています。

つまり、アナ雪では女性が共感し、大絶賛をしているのに対し、男たち手放しに拍手とまではいっていなかったのです。

 

「君の名」は男たちが絶賛し、「アナと雪の女性」は女性が共感したという現象が、個人的には非常に面白いなと思います。

この男女による支持率の差にはそれぞれの描く理想が反映されていると考えることができます。

女性はエルザに憧れて、男たちは三葉のような女性を待っていると考えると、非常に面白いなと思うのです。

 

女性が共感したアナ雪のエルザは、「少しも怖くないわ」と言って1人で生きていこうとする女性として描かれています。

この生き方に強く共感するのが今の女性。

それに対して僕たち男は、「君の名は」のヒロイン三葉のような、田舎の無垢な少女との、まるで赤い糸で結ばれていたかのような運命的な出会いみたいなものをどこかで期待している節があります。

「君の名は」はそんな男たちの淡い夢を完璧な形で描いている。

だからこそ、どっぷりと作品世界に浸かり、あそこまで感動してしまうのだと思います。

 

女性が憧れるのがエルザで男性が待っているのは三葉。

それぞれがこれらこキャラクターに共感するのはなんとなくわかります。

しかし、エルザと三葉は全く逆の存在。

女性と男性がそれぞれエルザと三葉を望む限り、両者の希望はどんどんかけ離れていくように思います。

女性はエルザの様に、どんどん自分らしい生き方を探し、男性は三葉のような田舎の純朴な少女との運命的な出会いを待っている。

若者の恋愛離れが深刻なんてニュースを時々見かけますが、女性はエルザを

求め男性は三葉を待っているなんて理想を持っているのだとしたら、恋愛の希薄化もらどこか仕方がないようにさえ思えてしまいます。

 

きっと、エルザのような女性を受け入れたいと思う男たちは女性の思う以上に少ないし、男性が心のどこかで待っている三葉のような女の子との出会いなんて、女性に言わせれば妄想もいいところなのだと思います。

現実ではエルザみたいな生き方はできないし、三葉みたいな女の子との出会いなんてそうそうありません。

だからこそ、それぞれがエルザに憧れて、三葉を待ってしまうのでしょう。

 

男女がそれぞれの思い描くのとは逆のものを追いかけていたら、それで両者が交わるはずもありません。

君の名はがここまで男性に人気で、アナと雪の女王があそこまで女性に人気だったということを見て、どこか現代の日本の問題と重なっているように感じました。

 

アイキャッチは「君の名は」

 

 

 

ライフワークとしての天才の作り方

生徒さんたちを見ていると、数学が得意な子、英語が得意な子、そして国語が得意な子には、それぞれ特徴があるように思います。
例えば数学が得意な子は、問題を解く際に、いつも頭に空間が浮かんでいる。
英語が得意な子は、文法が頭の中に整理して収納されていて、国語が得意な子は、読んだ文章を頭の中に留めておくことができる。
数学でいえば、問題を解くときに意識せず頭に空間を思い浮かべることができる子のことが、周囲から「あの人は頭がいい」と思われているように感じます。

で、僕が最近よく考えているのは、数学でいうところの空間が頭に浮かぶ力、英語でいう頭に文法を整理して収納する力、そして国語でいうところの読んだ文章を頭の中に留めておく力が人工的に身につけることができるかどうかということ。
頭の中にこういったイメージが身についているか否かは、幼少期の遊びに大きく影響されているように思います。
例えば、僕の場合は母の実家が大工で、父が配管工であったため、物心付くころから木やパイプといったもので遊んでいました。
そのため、数学の問題を解く際に、問題文を読んで図形を頭に浮かべることはめっぽうとくいだったりします。

もちろんこういったスキルは、幼少期に無意識に身についているかどうかということが大きいと思うのですが、いざ受験時期になったとき、意識して身につけることは不可能ではないと思うのです。
例えば、一年間みっちり受験勉強をしたとします。
そのときに欠かさず全ての問題で丁寧に図形を書いていれば、十分に空間を把握する能力は身につきます。
幼いころに無自覚にやっていたことを、大きくなって無自覚に行うことは不可能(大きくなると何も考えずに物のごとに取り組むという機会が減るため)でも、意識すれば身につけることはそれほど難しくはありません。
実際に僕が質問対応等で数学の解説をするときは、このことを強く意識しています。
どんな簡単な問題でも図形を書く習慣を付けさせることで、少しずつ紙上の数式で考えるクセが抜け、空間で語ることができるようになってきます。

これは、数学に限りません。
英語でも国語でも、それぞれに必要なスキルが身に付くように意識しながら問題にとりくめば、少しずつその力が身につきます。
例えば、英語であれば文法問題集を漠然と解いて帰納法的に知識を身につけようとするのではなく、そもそもその単元にはどのような知識があり、相互にどのような関連があるのかを意識しておく。
国語であれば、段落ごとに読み終えた部分を忘れないようにパッと要約を横に書き止めておく。
そういったことの積み重ねで、少しずつ核となるスキルが身に付くようになるわけです。
なんて仮説を立てて、僕は今の古文の授業にたどり着いたのですが、少なからず効果は出てきているように思います。
そうした、知識を教えるのではなく、得意な人間の頭の中を分解して、それを細かなトライアルにしてインストールしていく。
受験勉強が勉強の全てではないと思いますが、受験で合格するために効率的な勉強方法はこの先に作れるような気がしています。
僕は19歳くらいから、自分のライフワークを「人工的に天才を作るノウハウを生み出すこと」としているのですが、コツコツその方法を作り上げています。
もちろんまだまだ自身をもってお届けできるクオリティではないのですが、少しずつそういった僕の「研究過程」もブログエントリとしてアップできたらなと思います。

今から就活を始めるなら、髪染める前に飲みに行け!

たとえば野球の場合、上達しようと思ったら、試合に出る以前に、素振りや筋トレが必要です。
ピアノであればいざ人前で弾く前に曲が弾けるようになるための練習とブルグミュラーやツェルニ―のような指の訓練、絵画であれば出展する作品を描きあげる以前に練習で絵を描いたりデッサンをしたりということが必要になってきます。
何かで一定の成果をあげようと思ったら、分野を問わず、人前に出す完成形の前には膨大な「基礎体力作り」と「型の練習」が必要です。
就職活動も同じだと思うのです。

大抵の場合、一定の成果をあげるためには「基礎体力作り」と「型の練習」が必要で、これは就職活動についても同じことがいえます。
基礎体力作りも型の練習もせずにひたすら何社も応募したところで、採用してくれる会社が出てくるはずはありません。
全く練習もしていない素人のピアニストのコンサートになんて、誰も行こうとは思いませんよね(笑)
就職活動もそれと同じだと思うのです。
就活における「基礎体力作り」と「型の練習」。
これを意識できているかどうかで、結果は大きく変わってきます。

僕がよく飲みに行く居酒屋の大将は、店を営む傍らで学生の就活相談会を開いたりしているのですが、その人はいつも就活相談に来た学生さんに、「おっさんと話すのに慣れる」ことと、「気付いたことを書き留めるノートを書く」ことを推奨しています。
隣で話を聞いていて、時には混ざって話をしていると、本当にその通りだなと思います。
大抵の学生さんが社会人の人と話し慣れていないんですよね。
年上というだけで緊張して、黙ってしまう。
なんとか話始めても、どこか会話がぎこちない。
僕自身、学生時代にそうだったのでよくわかりますが、社会人と話す機会がほとんどないため、相手が年上というだけで、とても緊張してしまうのです。
何の関係もないただの飲み屋にいる大人にすら緊張しているのだから、面接官の前ではさらに緊張してしまう姿が容易に想像できます。
逆に、そんな学生が殆どだからこそ、ただ自然体でしゃべることができるだけで、面接官側には頭ひとつ飛びぬけて見えると思うのです。
社会人を前にして緊張しない練習をする一番手っ取り早い手段が、居酒屋でおっさん(=年上の社会人)と話すこと。
ちょうどこれは野球における素振り、ピアノにおける楽曲の練習、つまり「型の練習」に相当します。

もうひとつ重要なのが「基礎体力作り」です。
どんなに技を磨いても、基礎体力がなければお話になりません。
就活における「型の練習」がおっさんと話すことであるとすれば、「基礎体力作り」は自分の気付いたことを書き集めた「ネタ帳」です。
僕の友達で活躍している人は、例外なく自分が気付いたことや思いついたアイデアを書き溜めるノートを持っています。
また、優秀な経営者や成功している人たちの話を聞いていると、殆どの人が、ノートのようなものをつけています。
ノートに思考や気付いたことを書き留めることで、その場で思いついたことを話すという会話の仕方ではなく、長く、深く考えたアイデアを話しに織り交ぜることができるようになり、その人の話は何倍も芳醇なものになるのだと思います。
もちろん人生経験を積めば、そんなものを作らずとも忘れずに残っている体験だけで面白い話ができる人もいるでしょう。
しかし、20代の始めの就活生がその域に達するなんて不可能です。
そんな経験不足を補うのがアイデアを書き留めたノートなのです。
まさにそれは野球における筋トレ、ピアノにおける指の練習でしょう。
直接的ではなく、そして即効性のあるものでもありませんが長く続ければそれを積み上げたことが大きな力となることは間違えありません。

そろそろ熱心な3回生の学生さんは就職活動に意識が行くころだと思います。
早く動き出しているからこそ、説明会や小手先のテクニックを教えるようなセミナーなどではなく、「基礎体力作り」と「型の練習」に目を向けたほうがいいんじゃないかなと思います。
なんて、組織に属さず生きている僕が言っても全く説得力がないかもしれませんが…(笑)

音楽が売れないのは無料だからではなく、視聴回数が減ったから

恋愛結婚が増えると離婚が増えるとか、縁故採用から就活が一般的になるとミスマッチングが起きやすくなるなんてことをよく聞きます。

僕はこれらの例に限らず、選択肢が多くなると受け手はわがままになるという関係があると考えています。

たとえば、縁故採用やお見合い結婚/許嫁結婚の場合、そもそも選択肢が一つ、或いは数種類しか用意されていません。

そのため、選ぶ側は必然的に「ここでもいいかな」という思考が働きます。

つまり、消極的であれ納得した上で選ぶことができるわけです。

それに対して、選択肢が完全に自由(であるように一見して見える)場合、僕らは自分の(本当は存在しない)欲求を完璧に満たす選択肢を探そうとします。

そのため、いざ選んだ後は「あれも違う」「これも違う」と、減点法的に粗探しをするようになる。

結果として同じ質のものであっても、限られた選択の中で選んだ場合と膨大な選択肢から好きに選んだ場合では、後者の方が満足度が低下するのです。

 

同じものであっても選択肢の広さがあると満足度が低下するというのは、コンテンツの世界でも言えることだと思います。

YouTubeなどの動画サイトが普及して以来、音楽産業の売り上げが激減したと言われています。

で、その理由は無料で音楽が手に入るからと言われていますが、僕は必ずしもそうではないんじゃないかと思うんです。

たとえば、YouTubeが流行る前だって、お金を払ってまで聞きたくない人は、テレビやラジオで録音して聞いていました。

或いは、興味があるにしても、TSUTAYAのレンタルでオッケーというのがほとんどだったように思います。

CDを買うという行為まで結びついているのは、「その曲自体がいいと思ったから」ではなく、アーティストのファン(もしくはその曲自体のファン)になったからです。

アーティストを応援している気持ちがあるから、レンタルでコピーするのではなく、正規のものを手元に置いておく、その曲のファンになったから、音源だけでなくパッケージも置いておく。

曲が好きだからCDを買うのではなく、まずはファンになることありきなのがCDを購入するという行為であるように思うのです。

 

僕が考えるYouTubeが出てきてCDが売れなくなった根本原因は、「無料で手に入る」からではなく、選択肢が膨大になってしまい、そもそもひと作品あたりにかけるリスナーの熱量が減ったことにあるというものです。

録画したテレビで何度も音楽を再生するうちにその作品が好きになって、CDを買いに行っていたという経験をした人は多いのではないでしょうか。

僕たちには、何度もそれと接しているうちに好きになるという感情の動きがあります。

仮に僕たちは1週間の音楽を聴く回数が500回、そして一曲(或いは一つのアーティストの曲を)100回聴いたらそのCDを買いたくなるとしましょう。

YouTubeのようなプラットフォームがなかった時代は、せいぜいテレビの音楽番組で曲を聴くくらいでした。

どの番組でも基本的にリリースされたばかりの曲が流されるので、毎週多くても10曲くらいしか情報として僕らの元には入ってきません。

先に設定したように、1週間で500回くらいが音楽を聴ける限度であるとすると、平均して一曲あたり50回、好きな曲があれば、100回くらい聴くのはそう珍しいことではありません。

 

YouTubeのようなプラットフォームが広がった現在では、僕たちはあらゆる音楽にアクセスできます。

それに対して音楽を聴くのに割ける時間は以前のまま。

1週間で100回しか音楽を聴く時間はない状態で、仮に聴ける音楽の種類は50種類になったと考えれば、一曲あたりに割ける回数は2回です。

そもそもある曲を好きになるまでに要する聴いた回数が全然足りないのです。

 

上に書いたような理由から、僕は音楽業界の売り上げが減ったのは、それまでは常套手段であった、新曲を聴くことによってファンになるという間口がなくなってしまったことにあると考えています。

無料で聴けることが問題なのではなく、無料だからこそ一曲あたりの視聴回数が減ったことが問題であり、何らかの方法で視聴回数をとにかく増やすことが大切。

視聴回数を増やしてファンを作る。

それが、今後の音楽業界が生き残るために考える戦略じゃないのかなあと思ったりします。

 

アイキャッチドレスコーズの新曲「人間ビデオ」

 

人間ビデオ【溺れる盤】

人間ビデオ【溺れる盤】

 

 

 

先生が偉そうになる理由

1年ぶりに髪の毛を切りました。
これまでがすごくモッサリとしたロン毛だったので、今回はかなり短くして、立てています。
といってもオシャレ要素は微塵もなく、おそらく「なにそれ!?」って思われるような髪型です(笑)
これは僕だけの考え方なのかもしれませんが、塾の先生はどこかで子どもたちにバカにされるべきだと思っています。
子どもたちがバカにすることのできる「隙」を作っておくべきというのが正しいかもしれません。
どうしても何かを教えるという性質上、時に偉そうな物言いになったりと、生徒と先生の関係には主従関係というと大げさですが、一定の上下関係が発生してしまいます。
僕はこれがすごく嫌なんですよね。
あくまで構造でいけば僕たちにとって子どもたちはサービスの提供相手。
ある意味で「お客さん」です。
そんな子どもたちに対して、指導の中ではどうしても教える側の僕たちが優位に立ってしまいます。
だから、それ以外のところで子どもたちが優位に立てる部分を用意しておきたい。
そんな想いもあって、僕は常に「ちょっと変わったルックス」というのを意識しています。
授業の中で優位な立場になってしまったポジションを、「変な奴」と子どもたちに笑われるためのネタを提供して相殺する。
そんなイメージです。

僕は学生時代から、ずっと学校の先生に対して「なんでこの人たちはこんなにも偉そうなのだろう」と思っていました。
(もちろんそんなこと微塵も感じさせない素晴らしい先生は何人もいました!)
大学生になって塾でバイトを初めてしばらく経ったとき、不意に教卓にその答えみたいなものが分かった気がしました。
それは、教卓からの視線です。
僕たちは立って子どもたちに指導をしていて、子どもたちは座って僕たちの話を聴く。
そうするとどうしても子どもたちは僕らを見上げる形になりますし、正面には黒板と自分しかいないため、否応なしに視線は僕に集中します。
そして、それは話が面白くなくても変わりません。
これが、先生を偉そうにしてしまう最大の原因ではないかと、ふと気がついたのです。
普通、人の視線を集めようとしたら、相手の喜ぶことをしなければなりません。
また、尊敬(見上げられる)されるためには、何かしら憧れるだけの実績を残さなければならない。
「何人もの人たちに見上げられる」というのは、本来とても難しい状態なのです。
それが教卓の前に立ってしまうと、極端な話、なんの中身もない当時の僕のようなそこらの大学生ですら、その状態を味わうことができてしまいます。
そんな本来なら才能や努力がなければ得られない特殊な環境を、職業として何年も目の前にしていたら、それが当たり前になっていくのでしょう。
その結果、先生が偉そうに見えるようになるのだと思ったのです。

そんなわけで、僕は教卓に立つとき、子どもたちが僕を見上げてくれているのは「特殊な環境が生み出したものである」ということを絶対に忘れてはいけないこととして、肝に銘じています。
それが当たり前になってしまった瞬間、根っこの部分から「偉そうな」空気が滲み出てしまう気がするからです。
「偉そうな」演技をするのと、素で「偉そうな」ことはまるで違います。
後者になってしまったら、僕が嫌い続けてきた大人になってしまう。
だからこそ、そうならないために日頃から気を張っておかなければなりせん。
僕にとって、変わった見た目にしておくというのは、そういう意味もあったりします。
先日生徒さんに「なんでそんな髪型にしたん?」と言われました。
僕にとってはこれはとても嬉しい「褒め言葉」です。
「偉そうな人」というキャラクターは押し出しても、素で偉そうにならない。
特に若輩者の20代のうちは、これを強く意識しなければと思います。

アイキャッチ内田樹さんの「先生はえらい」

先生はえらい (ちくまプリマー新書)

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