新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



消えていく下人は何を表しているのか?羅生門で芥川が言いたかったことを考察する

ドストエフスキー罪と罰森鴎外高瀬舟、そして芥川龍之介羅生門は僕の中で三大「罪とは何かを考える」作品です。

貧しさの中自殺しようとした弟を仕方なく殺めてしまった喜助に、選民思想から強欲な金貸しの老婆を殺してしまった貧乏学生のラスコーニコフ。

これに並んで、自らの命のために老婆から服を剥ぎ取った下人は、それぞれテーマは全く違いますが、「罪」を考える上で非常に有効であるように思います。

 

僕は羅生門について説明するとき、いつも「ウシジマくん」という漫画を思い出します。

ウシジマくんの主人公は10日で5割という法外な利率で貸し付ける金貸しで、毎回様々なテーマでお金を借りなければならなくなってしまった人たち、借金の返済のために堕ちていく人たちが描かれます。

僕は羅生門を読むたびに、初めは死人から物を奪おうとしていた老婆を弾糾しようとしていたのに、その老婆から「わたしも生きるために必死なのだ」という話を聞いてついには老婆から服を剥ぎ取ることになる下人の姿が、ちょうどウシジマくんに登場する、その日を生きるために必死な最底辺を生きる人たちに重なるのです。

 

世の中が不況になり勤め先から暇を言い渡された下人は、ボロくなった羅生門で死体の髪をむしる老婆に出会います。

死人から物を奪う老婆に侮蔑の目を向けながら「何をしているのか」と問うと、老婆は自分が生きるために死体から金になりそうなものを盗っているのだと答えます。

下人は初め、罪を犯すくらいなら餓死した方がマシだと考えているのですが、老婆の話を聞くうちに、少しずつ態度が変わってきます。

老婆は、「自分が生きるためには仕方がない」「今私が髪をむしっている女だって悪事を働いていたのだから、自分にこのくらいのことをされても仕方がないはずだ」と、自分が死体からものを奪う行為の正当性を主張します。

老婆のこうした話を聞くうちに、「盗みをするくらいなら潔く死を選ぶ」と考えていた下人には、「生きるためなら悪事も仕方がない」という気持ちが芽生えます。

そして、最後に下人は「おれも生きるために仕方がないのだ」と、老婆が述べた理屈をそのまま返し、老婆から服を剥ぎ取って街の中に消えていく。

僕はこの、「罪を犯すくらいなら潔い死を選ぶ」という態度であった下人が、老婆と出会うことで「自分が生きるために他者から物を奪うのもやむを得ない」と考えるようになる変化が非常にうまいなと思っています。

 

「罪を犯すくらいなら潔く死ぬ」というのは、僕たちのような、本当の貧しさを味わったことのない人のロジックなんですよね。

いわば、ウシジマくんと全く縁のない人たち。

下人はそれまでは人に仕えてしっかりと報酬を貰っていた人間でした。

明らかに「ウシジマくん」的な世界の外にいる人間です。

それに対して、羅生門の2階で出会う老婆は、まさにウシジマくんに出てくるような今日を生きるのに必死な人たち。

老婆は「人間として」なんていう綺麗事をいう前に、何でもしなければ今日も生き延びられないというような生活を送っています。

人間としての潔白さなんかのよりも今日を生きるためには何でもしなければならないという理屈の世界で生きる人間に、下人はここで初めて出会います。

そして、老婆とのやりとりを通して、自分もこらからはそちらの世界で生きていかねばならないことを悟り、その決心をする。

僕は羅生門に描かれるストーリーはこうした場面ではないかと解釈しています。

 

下人がそれまで生きてきた世界と、老婆が当たり前のように生きている世界はまるで違う理屈で回っています。

通常、この全く違う理屈で回っている世界は交わることはないのだけれど、世の中が不安定になったせいで、下人は仕事を失い、それまでは無縁であった、それどころか軽蔑していた老婆が生きるような世界と接し、自分がそちらの世界で生きていかねばならないことを受け入れる。

下人の行動と一連の心境の変化を通して、こうした世界が描かれているように思います。

だからこそ、僕は羅生門の副読本としてウシジマくんを勧めています。

あれを読むことで、老婆が生きる、そしてこれから下人が生きていくことになる世界がどういう論理で回っているのかがより身体感覚を持ってわかると思うのです。

 

「下人の行方は、誰も知らない。」

芥川龍之介羅生門をこう終わらせます。

これはちょうど、下人が僕たちの知らないような、ウシジマくん的な「あちら側の世界」に行ってしまったことを示しているように思うのです。 

 

アイキャッチはウシジマくん

 

 

 

高校生を悩ます『水の東西』はスーパーマリオを思い出すと理解が100倍早くなる!?

<「鹿おどし」が気だるさを感じさせる>という、何とも印象的な文句から始まる山崎正和さんの『水の東西』という文章。

多くの高校で1番初めの国語の授業で扱われます。

毎年テスト前になると生徒さんから「結局何が言いたいの?」とよく聞かれるので(笑)、僕なりの『水の東西』の楽しみ方をまとめてみたいと思います。

 

この文章を何よりも端的にまとめたものが見たいのであれば、2007年のセンター本試験で出題された、『日本の庭について』という文章の冒頭をみて欲しいと思います。

確か<日本の庭は時間とともに変化し、変化することが生命なのだ>みたいに書かれていました。

初めて見たとき、「山崎さんが30文字で片付けられている!」と笑いそうになりました。

『水の東西』の中に書かれる日本の庭について聞かれたら、とりあえずこの文章を言っておけば「コイツは分かってる」と思われるように思います(笑)

とはいえ、端的にまとまったものを丸パクリするだけでは全く理解したことにならないので、もう少し噛み砕いてみようと思います。

 

『水の東西』では、「同じ「庭」なのに日本と西欧の物って全く違うよね」、というところから、日本人と西欧人の感覚の違いが書かれています。

その代表が日本の「鹿おどし」と西欧の「噴水」です。

いろいろな子から話を聞いていると、鹿おどしに関して緊張の緩和が云々という説明が出てきた辺りから苦手意識を持ってしまう人がいるように感じるのですが、あれは動画と写真の違いで考えて貰うと理解がしやすいと思います。

鹿おどしは、動画で見ると動きがあるんですよね。

一方で西欧の噴水は何時間動画で見ていても同じ放物線を描いて水が吹き出しているだけ。

鹿おどしは時間が流れる中で変化を楽しむもので、写真で切り取ってしまえばあんな竹筒面白くもなんともありません。

一方で、西欧の噴水はいつ、どの習慣にみても同じ美しさがあるため、写真で見たときのような綺麗さがある。

一方で、時間とともに変化するわけではないので、動画でみても面白くありません。

ブリュッセルの小便小僧が動画で見たときに動きがあったら、それはもうホラーです。

写真のように永遠不変の美しさがそこにあるのが西欧の噴水、動画のように時間の流れのなかで初めて良さを感じるのが日本の鹿おどし。

こんな特徴を抑えておくと、『水の東西』は読みやすくなるように思います。

 

『水の東西』では時間の変化が盛り込まれた日本式の庭と、永遠不変の美しさを追求した西欧の庭が並べられていますが、「庭」について語られるときにもう1つのよくある比較に、日本の回遊式庭園と、西欧の風景式庭園という比較があります。

(確か2005年の京都の公立高校の入試問題がこんな題材だったと思うので、興味のある方はググっていただけたらと思います。)

日本の庭は動きながら順番に景色を楽しむものであるのに対し、西欧の庭は正面からみて楽しむものであるみたいな違いです。

こうした特徴を、チームラボの猪子寿之さんが以前、日本の庭は水平方向の移動に強く、西欧の庭は垂直方向の移動に強いという表現で語っていました。

確かに日本の庭は、(猪子さんはこの言い方を嫌いますが)レイヤー構造になっていて、正面からの視線にめっぽう強いので、鑑賞者が横に動いて楽しむ作りになっています。

龍安寺の石庭の、移動しても絶対に全ての石が見えないみたいな仕組みはまさにこの典型です。

それに対して、パースペクティブに作られた西欧式の庭は、横方向の動きにめっぽう弱い反対に、実際に真ん中から庭の中に入っていって鑑賞することができます。

いろいろな「庭論」をみたことがあるのですが、僕は猪子さんのこの説明が1番しっくりきました。

 

猪子さんの西欧と日本の庭の比較の話は、ここからスーパーマリオの特徴へと繋がります(笑)

僕たちは赤いオーバーオールのオッさんが横スクロールで動くのを当たり前のように楽しんでいますが、あれを初めてみた西欧の人にとっては、平面的な風景の画面を主人公が横に動くのは非常に衝撃的な作りであったそうです。

確かに言われて見れば欧米のゲームはシューティングゲームでもレーシングゲームでも、画面=プレイヤーの視点となり、そこから奥に向かっていくものがおおいように思います。

猪子さんはこれを水平方向の視線移動を計算して作られた日本の回遊式庭園と、垂直方向の視線移動に強い西欧の風景式庭園の違いと重ねて説明していました。

曰く、「水平方向の視線移動が極めて多い京都という土地に根ざした任天堂という会社が、横スクロールのゲームを生み出したのは当然のことである」とのこと。

(例によって詳しい言い回しは忘れましたが...)

 

『水の東西』を説明するつもりで話がグッとそれてしまいましたが、日本と西欧の庭を比較すると案外違うところが多く、それを追いかけていくとスーパーマリオにまでたどり着く。

そんな風にゆるーく『水の東西』という文章を捉えてもらえたら幸いです。

テスト勉強のために検索をかけてこのエントリにたどり着いたという人がいたら、全く役に立たないと思います(すみません...)

 

アイキャッチはよくわからないけれど猪子さんで検索したら出てきたインパクトのあるこの表紙(笑)

 

美術手帖 2011年 06月号 [雑誌]

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芸術こそ学問が不可欠ではないかというお話

ここ最近藤原和博さんの話術、というか会場の人たちを巻き込む話し方を真似したく、四六時中彼の公演動画を見ています。

(そのせいで、先週やったNPOのイベントの司会がやたら「先生」っぽくなってしまった 笑)

そんなわけで片っ端から彼の公演動画を漁っているわけですが、そんな風にしている中で1つ気になる動画に出会いました。

それは、藤原さんとのトークセッションの中で下村元文部科学大臣が新しい学習指導要領の話を東京芸術大学の学長としたということで話したエピソードです。

下村さんは、確かに基礎学力は大切だけれども、芸術分野には学力では測れないものがあるのではないのか?というような話をしたとのこと。

基本的に僕は下村さんは好きですし、これは決して批判ではないと断りを加えておきたいのですが、その上で下村さんのこの発言を見て、多分この人は芸術畑の人ではないのだなあと感じました。

というのも(これはあくまで僕だけの見方なのかもしれませんが)芸術は極めて「学問的」だと思うからです。

たとえば、あらゆる絵画をみていると、しっかりと人間の骨格を「解剖学」的に見ていることがわかります。

実際にレオナルドダヴィンチは絵を描くために解剖学を学んでいるほど。

ピカソをはじめ、相当崩している人たちでさえも、正確な認識をした上で自分の解釈を加えています。

武道でいうところの守破離の世界です。

 

音楽の世界でも同じです。

バッハの平均律はもちろんのこと、一流のアーティストの人たちは「音」を極めて学問的に捉えています。

たとえば、指揮者やピアニストなインタビューをみると、度々「倍音」という言葉を見かけますが、これは物理の「波」のお話です。

あるいは、ロックミュージシャンの志磨遼平さんはロックについて、その歴史的に辿るとともに、そのリズムの乗せ方について、極めてロジカルに説明していました。

もちろん直感的なインスピレーションこそ芸術であるという人や、ウォーホルのそれまでにない価値観の提示こそが芸術であるという考えもあると思いますが、それだって緻密な解釈の上に存在するものであり、背景には、極めて豊富な知識や学問が潜んでいるように思うのです。

 

もちろん、芸術家の人には学校で習うような広く浅い知識なんて必要ないかもしれません(そしておそらく下村さんはここを以って先の発言をしたのだと思います)。

ただし、それは全くもって学問的な知識がいらないというわけではなく、寧ろ単元によっては普通の受験をする人よりも遥かに知識をもっていなければならないかもしれません。

芸術という言葉を聞くと、どうしても感性や直感の産物であるように聞こえてしまいがちですが、実際は極めて論理的。

新しい美の価値観を提示するためには、それまでの作品の意味を正しく理解しておく必要があり、そのためには勉強が不可欠です。

 

だから、芸術に勉強は必要ないみたいな言葉をみると、本当に?と思ってしまうわけです。

むしろ、芸術こそ勉強かなあと。

 

スポーツとは違って、あまり語られない芸術分野ですが、むしろ勉強と非常に親和性が高いのが芸術であるような気がします。

子どもたちの発想力や論理力、空間能力の低下を「大人の責任」として考える

スマホが普及した社会における子どもの教育で、僕は読書と物づくりが大切になるとおもっています。

生徒さんの話や、子育てをしている方の話を聞いていると、やはり子どもたちの生活のかなりの部分にスマホが入り込んでいるのだなあと実感します。

別に僕はスマホが子どもたちの生活に浸透していくことは全く反対ではありません。

新しいテクノロジーに触れることで、僕たちの世代なんかと比べ物にならないほど新しい世界に触れる可能性が増えたことは事実ですし、そもそも子どもたちが「おもちゃ」としてのスマホをどう使うかは本人の自由だと思っているから。

ただ、スマホの性質とその普及率からして、小さいころから「こうやって過ごしていたら有利になるよね」という意見はあって、あくまでもスマホが普及した社会における差別化戦略として考えているのが「読書」と「物づくり」です。

 

僕はスマホが子どもたちの生活に浸透したことにおける最大の変化は、活字と空間認識の衰退があると思っています。

これらはしばしば「スマホに奪われた」と言われることがありますが、僕はその言い方ではあまりしっくりこないような気がします。

「奪われた」というよりは「必要がなくなった」というイメージ。

スマホの画面の中にもっと面白いものがあるから、わざわざ文字を読んで世界を想像する必要もなければ、スマホがいくらでも面白いゲームを提供してくれるから、わざわざブロックのようなもので遊ぶ魅力を子供たちは感じなくなったと思っています。

一方で頭の柔軟性や発想力を鍛えるためには、こうした訓練が非常に重要です。

昔の子どもたちが当たり前のように身に付けていた能力が今は「必要性」がないために小さい子供たちはよほど意識しなければ身につけられない。

これが今の子どもたちが置かれた現状であるように思います。

 

僕は想像力や空間認識能力を身につけるうえで重要な娯楽が、読書と物づくりであると考えています。

読書をすることで文字情報を読んでそこから世界観を頭の中に想像する力を鍛えることができます。 

あるいはレゴブロックで遊んだり、外で走り回ったりすることで立体的に物事を捉える力を鍛えることができます。

これらはスマホの中の映像やゲームアプリでは絶対に身につかない能力です。

昔の子供たちは遊びの中で当たり前のように身に付けてきたこれらの力が、今の子どもたちの遊びの中では身につきません。

一方で、こうした力は今まで以上に社会に求められるようになってくる。

だからこそ、これらの能力を幼いころから身に付けておけば、それだけで希少性の高い人材になり得ると思うのです。

 

では、公教育の中でこれらの力を育めばいいのかといえば、僕はそういうわけではないと思っています。

というか、そんなことは不可能というのが僕の考え。

これまでの子供たちは、遊びの中にこうした能力を養う機会が内在されていました。

だから、彼らは自然とそれらを身に付けてきたのです。

別に努力したわけでもなんでもない。

そんな風に身に付けてきた能力を、たとえ今は意識しなければ身につかないからといって強制させたところで、絶対身につくはずはないと思うのです。

だから僕はこれらの力を必須のものではなく、差別化要因として捉えています。

気付いた子どもたちだけが、あるいはこの子は可能性があると僕が感じる子どもたちだけが先を見据えてこれらの能力を身につければいいというのが僕の正直な考えです。

厳密には僕の生徒だけがこうした能力を身に付けて優位に戦って欲しいという感じ(笑)

 

想像力を身につけるような遊びも空間認識能力を身につける遊びも、スマホを持った子どもたちが必要性を感じていないのであれば、どうしたらよいのか。

これに対して僕は、周りにいる大人がいかにスマホよりも面白くて、かつ想像力や空間認識能力を身につけられる遊びを教えられるかがポイントだと考えています。

今の子どもたちにとって、自分で見つけてくるそれらの能力を要する遊びが、スマホの中にある映像やゲームよりも面白いから、スマホに向かうわけです。

で、あるならば、近くにいる大人がスマホよりも面白い遊びを教えてあげればいい。

そんな「遊び力」のある大人が身近にいることが、子どもたちに想像力や空間認識能力を身につけさせてあげる最良の方法であると考えています。

 

そうなるとここからは僕たち大人の問題です。

たとえば、今子育てや教育に関わっている大人のなかで、どれだけの人が子どもたちにスマホよりもワクワクする「遊び」を提示することができるでしょうか?

残念ながら、大半の人が想像する子どもに教えてあげる「遊び」はスマホに遠く及ばないように思います。

僕たち大人があまりにも遊びを知らなすぎる。

たとえば、目の前で鉄クズのカタマリから自在にロボットを作るようなおっちゃんがいたり、目の前に何気なく置いてあるピアノで超一流のジャズからクラッシックの演奏をしてくれる姉ちゃんがいたり、一緒にイベントを立ち上げて人を巻き込んでいくような兄ちゃんがいたら、おそらく子どもたちは自分もやってみたいと思うはずです。

そしてその時の欲求は、スマホのディスプレイに映る娯楽から得られるワクワクをはるかに超えたものであるはず。

それが手品でも、一流のトークでも、大工の棟梁の家作りでさえもいいと思います。

とにかく大人が自分たちも熱中するような遊びをして、それに子どもを巻き込んであげる。

そういった能力を持つ大人こそが、子どもの想像力や空間認識能力を育てるのだと思います。

 

「どうやったら子どもが自主的になるか」とか、「どうやったら子どもに能力をつけられるか」とか、教育の場面ではしばしば主語を「子ども」にして語られがちですが、僕はこれが非常に無責任であるように感じています。

「子どもがどう」ではなくて、自分たちがどれだけ子どもたちにワクワクする世界を見せてあげられるか。

ここが一番重要であるように思います。

「あの人の周りには絶えず面白いことが溢れている」

そんな風に思われる大人の存在こそが、子どもたちの想像力や空間認識能力には不可欠であるように思います。

 

アイキャッチは 僕の中で「楽しむ大人」ランキングでかなり上位に食い込む西野さんのこの一冊!

魔法のコンパス 道なき道の歩き方

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本当に希少なものはお金では手に入らない

先日、僕がよく行く日本酒バーで、「こんなのお店の商品に並べられないから」と言って、あるお酒を飲ませてもらいました。

それは蔵元さんが江戸時代の製法を完全に再現して日本酒を作ってみたらどうなるのだろうと実感して作られたお酒です。

そもそも商品として作られたものではないので、本数も限られ、非常に貴重なものなので、まさか巡り会えるとは思ってもみませんでした。

僕が偶然にもそれを飲むことができたのは、「お金を出した」からではなく、「マスターと気が合った」から。

 

大学時代に読んだ本で、岡田斗司夫さんが「1番上質の製品は市場には出てこない」といっていたことを最近よく思い出します。

僕たちは普段、お金を払って商品を売買しているため、ついついお金で何でも買えると思ってしまうのですが、実はお金で買えるのは、そもそも市場に出ているものだけなんですよね。

市場に出ているものしかお金で買うことはできず、本当に貴重なものは実は「市場以外」のところでやりとりされている。

最近こんな風に思うようになりました。

 

誰が使っても等しい価値を有するというのがお金の最大の強みですが、裏を返せばそれで買えるものは、お金の額と同等の範囲でしか価値を見出してもらえないともいえます。

僕は誰が使っても同じ価値のお金で成り立つ貨幣経済と相性のよい商品は、どれを選んでも同じ価値を持っている大量生産品に最適化された流通手段であると思っています。

本当に希少性の高いものに関しては、お金という尺度で取引をするよりも、他の経路で人に届けた方が、より効用が最大化するような気がするのです。

 

例えば、仮に1トンの茶葉から100グラムしか取れない貴重なお茶があったとして、それをどうするかということを考えてみます。

普通の茶葉と比較して千倍の価値があるからといって、千倍の値段をつけて売っても、買い手はほとんどいないでしょう。

100gで1000円の茶葉だとして、千倍の値段で売ったら100万円。

完全に覚せい剤の単位です(笑)

また仮に買い手がいたとしても、お金を通して通常の千倍の値段で売った場合、その人との繋がりはそこで終了です。

一方で、非常に貴重だけれど市場に出すには量が少なすぎるということで、普段から自分たちの商品を贔屓にしてくれている常連さんにこれをプレゼントしたら、恐らくお金のやりとり以上に相手は価値を見出してくれるかもしれません。

このくらいの希少性のものに関しては、市場に流すよりも、親しい人にプレゼントするという形の方が有効利用ができる可能性があるわけです。

 

希少なものが市場を介さずにやりとりされるというのは今も昔も変わらずに行われていて、SNSが普及した社会では、そのやりとりがますます行いやすくなっていくように思います。

SNSの普及によって、これまではコンマ数パーセントしか行われていなかった市場「外」のやり取りが、もう少し増えるのではないかというのが僕の予想です。

 

お金さえ払えば最上級の物が手に入るという幻想が消え、お金を払って手に入れられるものは「市場に出回る中での最上位」であって、さらに希少性の高いものはお金だけでは手に入らないということが可視化されていくのがここからの社会であるような気がします。

そうした中で役に立つのはお金以外の評価を貯めること。

ウェブ上のやりとりでも直接的なコミュニケーションでもいいですが、お金のやりとり以外のところで価値を貯めることが、今後の有効手段であるように思うのです。

 

アイキャッチ岡田斗司夫さんの評価経済社会

 

評価経済社会・電子版プラス

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モチベーションの4分類

最近いろいろな人と話をする機会が多いのですが、話せば話すほど、その人の行動の原動力になっているものは異なるのだなあということを強く感じます。

行動の基準となっている欲求は大きく分けると以下の4パターン

①起業家メンタル:目の前の相手に競り勝つことが原動力になる

②アイドル:周囲の人に認められることが原動力になる

③マネージャーメンタル:物事を思い通りに動かすことが原動力になる

④思想家メンタル:思ったとおりに物事が動くことが原動力になる

まず、①の企業家メンタルというのは比較的理解しやすいと思います。

正面から戦って勝つという「少年ジャンプ」的な思想です。

②の「周囲の人に認められることが原動力になる」アイドルメンタルも直感的に分かりやすい。

一つでも多く、周りの人の期待にこたえることが、ここに属する人にとってのやりがいになります。

③と④は少し分かりづらいかもしれません。

マネージャーメンタルの人は、自分が管理監督したことにより、物事が自分の思い描いた方向に進むことを好みます。

「こうあるべき」と想像して、それに基づき着実に物事が展開していくことそれ自体にモチベーションを感じる人のことをさします。

最後の思想家メンタルも③のマネージャーメンタルと同じく、自分が思ったことが実現することを好みますが、最大の違いは、そこに主語としても自分を想定していないことです。

あくまで、自分が手を加えない状態で、どのように自体が推移していくのかそれ自体に興味がある。

自分にとって有利か不利かではなく、その条件から導き出した結論の通りに物事が運ぶことに面白さを感じるタイプです。

 

このモチベーションの起源の分類は、どれが優れているというものはありません。

単に、それぞれの人がやる気を感じやすい部分に違いがあるというだけの話。

これは僕の肌感覚ですが、それぞれの特性を持っている人の分布は一様であるように思います。

一方、教育現場で提供されるモチベーションの殆どは①か②。

③と④(特に④の側)を満たすシステムは殆ど存在していないのです。

だから③と④が得意な人は、自分のモチベーションのきっかけをしらないという場合が多い。

(そして、周りからはやる気のないようにみえてしまいます)

もちろん、モチベーションの種類云々の前に、そもそもエネルギー量が少ないという人も多いかも知れませんが、少なくとも、提供されるモチベーションの喚起材料の不足によるモチベーション不足もあるように思います。

自分のモチベーションの所在がどこにあるのか、そのことをしっかり理解することで、本来のポテンシャルをしっかりと発揮できるようになるわけです。

そのために必要なモチベーションの分類。

まだまだ荒削りなので、今後、もう少し体系的にまとめていきたいと思います。 

分からない人の9割がそもそも前提を理解していない

塾のコラムのために書いた文章ですが、やや厳しい言い方になってしまったので、自分のブログのエントリにしました。

 

数学の質問を受けていると、そもそも前提を理解できているのかな?と思うときがあります。

今回のテスト範囲で特にそれを感じるのが、高校1年生の「絶対値」の範囲です。

たとえば[|x+1|<4]とか[|x+2|>5]といった問題です。

僕はこのタイプの問題を持って来られたとき、必ず「絶対値」という言葉と「大なり/小なり」という言葉を使わずにこの式の意味を説明してくれといいます。

で、これがスムーズに説明できる人はちょっとした思い違いをしているだけ。

一方で、全く説明ができない場合は、この問題が分からないのではなく、絶対値が理解できていないことに原因がある事を伝えます。

そもそも絶対値とは何かといえば、直線上のある点から原点までの距離のこと。

つまり、上の[|x+1|<4]という問題を言葉で表すと、「(x+1)という値が、原点からの距離4以上離れていない範囲」ということになるのです。

原点からの距離が4以上離れていないとは即ち、-4から4までの間に収まるということです。

だから[|x+1|<4]は[-4<x+1<4]となるのです。

もちろん式を見た瞬間に、原点から4だけ離れた2点-4と4が浮かび、それよりも距離が近い範囲を頭の中で捉えられている人もいるかもしれません。

(それが無意識にできている人は恐らく理系が得意なはず!)

僕の経験則ですが、数学が得意な人はどんな内容に関わらず、言葉で理解するか図を頭に思い描くかのいずれかの方法で問題を理解しているように思います。

そして、言語で理解している人を文型脳、図や記号で理解している人のことを理系脳と呼ぶのだと思っています。

決して「数学ができる」から理系脳、「数学ができない」から文系脳ではないのです。

 

僕は文系理系の判別に関して、「数学ができるから理系、数学ができないから文系」という判断基準に、ずっと疑問を持っていました。

数学ができるか否かは、理系脳か文系脳かではなく、論理的思考ができるか否かの問題だと思っているからです。

論理的思考は文系脳、理系脳とはそもそも違う価値尺度です。

横軸に言語で物事を考える文系脳と図や記号で物事を考える理系脳があり、縦軸には論理的思考力の有無があるというのが僕の文系理系特性に関する考え方です。

これに従えば、①論理的な理系脳、②論理的な文系脳、③非論理的な文系脳、④非論理的な理系脳がいて、数学が得意なのは①か②の人だと思うのです。

ここを理解しないで、本当は理系脳(で論理的思考力がない)のが原因で数学が苦手なのに、それを「数学ができないから文系だ」なんて進路選択をすると、大きなミスになります。

そもそも論理的思考力がないのが原因で結果が出ていないのに、それを「自分には理系が向いていないのだ」なんて思って文系にいくと、今度は論理的思考力ばかりか、適正までない場所に飛び込むことになってしまうからです。

これはあくまで個人的な感想なのですが、私立文系のコースにいった人の中には、案外このパターンが多いように思います。

現象と原因の考察が一致していない。

まず自分が文系脳か理系脳か(言語で物事を考えるのが得意なのか図や記号で物事を考えるのが得意なのか)を知っておき、その上で自分の論理的思考力がどの程度のものかを知り、伸ばそうと努力することが大切であるように思います。