新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



細かなテクニックや戦術よりも基礎練が圧倒的に大切というお話

僕は真剣に?ブログを書き始めて、かれこれ6年くらいになります。

「真剣に?」と書いたのはそれまでもちょこちょこ書いてはいたからです。

高校時代にはプロフのやつなものが流行り日記を書き、mixiが流行っている時はそこでふざけた文を投下してと、(振り返ってみれば)なんだかんだで文章を書くことはずっと続けていた気がします。

もう覚えてすらいないけれど、確か中学の時にライブドアブログを書いていたような(笑)

ただ、それまでに書いていたのは特に理由があったわけではなく、ただ面白そうだから。

しっかりと1つの媒体で定期的に書いて積み上げていこうと考えたのは、就職活動を控える大学3年生の12月でした。

 

もちろん月によりその分量はまちまちですが、僕は21歳の時くらいからブログを書き続けています。

そんな事を続けてきて思うのが、やっぱりテクニックよりも戦術よりも泥臭い基礎練が1番重要なんだなということでした。

僕がブログを書こうと思ったきっかけは、就活の時に大学のOB相談会に来てくれた方でした。

彼が就活についてブログを書いているというのを聞いて、僕はそれをみたいという以上に、自分自身もそういったノウハウをまとめたブログを書きたいと思ってしまったのです(笑)

で、家に帰って早速エントリーシートではなくブログのネタを書き始め、受験勉強について独りよがりな文章をアップしました。

その時はまだ書くための材料集めも構成も考えておらず、当然うまくいきませんでした。

ひと記事300字くらいで、内容も訳のわからないものだったわけですから当たり前です。

だいたいひと月くらいで書くことがなくリタイア。

 

ただ、幸いなことにひと月くらい更新を続けていたおかげで「書く」という習慣はついていました。

そのため、一旦受験ブログみたいな思いつきから離れて、好きな事を書くようになりました。

それが例によってありがちな自分の思う事を好き放題に書く随筆です(笑)

当時の自分なりに面白い視点だなと(自分が勝手に)思ったことに関して好きに書いていました。

流石にこの時期のブログは恥ずかしすぎるので、とっくに削除済み...

格好つけて「だ。」「である。」調で書いていたのがいっそう恥ずかしい、、、

取り敢えず100本と決めて書いていたのですが、なんだかんだで、この独りよがりの記事を書いていたことには一定の効果がありました。

初めは300字くらいを書くのがやっとだったのが、普通に書いたら800字〜1000字くらいになるようになっていたのです。

いうまでもないことですが、300字なんて、そもそも記事としてカウントすらされません(笑)

そんな文字数で何を伝えられるのというお話。

最低でも1000字くらいあって初めて、文章として成立するように思います。

 

そんなこんなでブログを続けていて、好き放題書くエントリ(このころに記事ではなくエントリと呼ぶようになりました)も100本を超えたあたりで、内容についてあまりに中身がないものであるということに気がつきました。

当時の僕は岡田斗司夫さんにハマっていて、岡田斗司夫さんの書いたものや動画を見るたびに、なんでこんなに面白いんだろうと考えていました。

そんな時にふと気付いたのが岡田斗司夫さん(もちろんそれ以外の僕が面白いと思うあらゆる人の話や文章にはその人ならではの思考やアイデアが入っているということでした。

今にしてみれば当たり前なのですが、当時の僕にとっては、非常に重要な気づきでした。

それ以来、必死にノートにアイデアを書き溜めるようになりました。

(それも岡田斗司夫さんのスマートノートという本に影響されたから)

で、自分なりのロジックや分類、フローチャートみたいなアイデアを大量につくりあげて、それを紹介しようというコンセプトで書き始めたのが、今の僕のブログだったりします。

その後も、単に分類やロジックを書くだけではアクセスは伸びず、その理論をどういった社会現象に当てはまるのが重要なのかとか、人々がどういうことに関心をもっていて、何を書けばアクセスが集まるのかとかいう知識は否応なしに溜まっていきました。

冒頭でも書いた通り、あくまでこのブログはアクセスを狙ったものではないので(そういうのは寄稿依頼のある文章などでやってます)まったくアクセス面では成果が上がられていないのですが、文章を書くという面においては、かなりの経験値がつめたように思います。

テーマさえ決まれば、少なくとも今は数千文字で自分らしい「思考」を提示した文章なら抵抗なく書けるくらいには。

こういうのはテクニックでもなんでもなく、ただ量をこなすことによってのみ得られる能力であるのうに思います。

根性論の嫌いな僕が、一方で最低限の努力は必要と思うのには、自分の体験があるからかもしれません。

 

っと、酔って書いたので意味のわからないものになってしまった(笑)

恋愛の仕組みから考える音楽が売れる方法と、それに基づくマーケティング事例集

何度も顔を合わせているうちに付き合うことになった。

大して好みでもなかったのに会っているうちに好きにお互いが好きになるという経験は、結構多くの人がしているのではないでしょうか?

実際のところ、一目ぼれのように会った瞬間に好きになるというよりも、何度も会っているうちに好きになるという方が圧倒的に多いように思います。

で、これは音楽に関しても同じ事が言えると思うのです。

聞いた瞬間にビビッときてその曲が好きになるという場合もあるにはありますが、実は何度も聞いているうちに好きになるというパターンが多いのではないかというのが僕の持論。

好きなアーティストがいて、その人が出す新曲をいいなと思うのは、そのアーティストが出す曲が毎回必ず素晴らしいからではなく、好きなアーティストが出す曲はとりあえず何度も聞くために、結果として好きになるから。

反対に、アイドルファンの人が新曲を「今回の曲はいい!」と言うのも、別に握手権目当てに買ったといわれるのが嫌でそう言っているのではなく、本当に何度も聞いているうちに曲のよさが分かってくるのだと思います。

 

これは完全に僕の感覚ですが、1回聞いただけで「この曲は素晴らしい」と思えるようなものは、恐らく100曲に1曲くらいだと思います。

まして、15秒くらいのCMや偶然耳にしたくらいで凄いと思う曲となれば数百曲に1曲レベル。

殆どの曲は自分にとって良くも悪くもなく、それが好きと思うのは、どれだけその曲を耳にしたかという聴いた回数に影響される気がします。

 

これを踏まえて、固定ファンがいないアーティストが新曲を多くの人に届けようと思うと、重要なのはいかに多くの回数を聞いてもらうかということになります。

Youtubeが無かった時代やスマホが無かった時代は、音楽と出会う窓口はテレビくらいしかありませんでした。

だから、人々が一定期間に聞く曲の数は限られ、そのため多くの音楽番組に登場していることである程度印象に残すことができたわけです。

しかし今はYoutubeには大量の音楽がおかれ、スマホでいつでも音楽を聞くことができます。

受動的に何度も音楽を聞かせて、その曲が好きになっているという状態は作り辛くなっているのです。

テクノロジーの発達によって環境が変化してしまった以上、音楽を提供する側が戦略的に何度も音楽が聴かれる環境を作らなければなりません。

そして、それに気付いているアーティストは、すでにそれを実践している(っと僕は勝手に考えています)。

 

「何度も聞かせる工夫」を導入している例としてぼくが興味を持っている曲をいくつか例示します。

一つ目はゴールデン・ボンバーぼ「女々しくて」です。

恐らくあのバンドは曲を売ることを目的に戦略をとっているわけではなく、ライブへの動員を考えているのだと思いますが、その戦略が結果的に音楽を売ることに役立っていると思うのです。

そのやり方と言うのが、彼らのテレビで行う「また見たくなるパフォーマンス」にあります。

ゴールデン・ボンバーは曲以上に、演奏中の演出が魅力です。

同じ曲でも、出演者や番組によって間奏のネタ(演出)を変えます。

そのため、一度でも面白いなと思った人がたら、Youtubeなどで別の番組を調べていろいろな演出を見ているうちに、自然と曲自体が好きになってしまう効果があるのです。

 

次に面白いと思ったのは、星野源の「恋」です。

ガッキーが主演の「逃げるは恥だが役に立つ」のエンディングテーマで起用されたこの曲は、「恋ダンス」とともに話題になりました。

恋ダンス」は見ていて楽しいだけでなく、多くの人が踊ろうとし、その動画を見ようとアクセスします。

そうすると必然的に曲を聞く回数が増えて、好きになってしまう。

また、見ていて飽きないダンスなので、ネットで恋ダンスを調べるほどの熱中度合いではなくとも、エンディングでは毎回「恋」が流れ、それを「ながら聞き」していれば自ずと耳に残ります。

こういう意味で「恋」も自然と好きにさせる仕掛けが働いた曲であるといえるでしょう。

 

僕が直近で一番面白いと思ったのは泣きWebというページで紹介された(http://www.nakiweb.com/)安田レイさんの「きみのうた」です。

これはページ下部についている再生ボタンをクリックし音楽を流すとウェブページが動き出し、あらゆる箇所に仕込まれたファクターが涙を流し始めます。

そして、記事全体に曲の歌詞がちりばめられている。

この仕掛けがあまりに細かく作られているため、思わず何度も見返してしまいます。

そして、それらの仕掛けは曲と同時に展開するため、ついつい何度も音楽を聴いてしまう。

ウェブの仕掛けを追いかけて再生しているうちに、気がついたら曲自体が好きになってしまう。

 

こうした例はまだまだ他にも多く存在すると思うのですが、楽曲を売るという上で、これから不可欠になるやり方であるように思います。

回数をみるうちに好きになっている。

そういう売り出し方をしているアーティストの事例を今後も集めて、パターン集みたいなものが作りたいなあと思っています。

 

アイキャッチは安田レイさんの仕掛け人、元面白法人カヤックの佐藤ねじさんのこの本

 

超ノート術 成果を10倍にするメモの書き方

超ノート術 成果を10倍にするメモの書き方

 

 

 

「アツい」人がエネルギー量の高い人ではない

僕は熱量が大きな人が大好きなのですが、一方でアツい人が苦手だったりします。

で、友達にこの事を言うと「矛盾してへん?」と言われてしまうので、今後知り合いに説明するためにも、僕にとっての「熱量の大きな人」の定義をまとめてみようと思います。

僕にとって、熱量の多い人とアツい人は明確に違います。

熱量の多い人=アツい人というのではなく、熱量の多い少ないという評価軸とアツい/冷静という評価軸の2つが組み合わさった平面のイメージです。

したがって僕は人と接するとき、その人のことを以下の4分類で考えます。

①アツい性格で熱量が多い人

②クールな性格で熱量が多い人

③アツい性格で熱量が低い人

④クールな性格で熱量が低い人

 

僕が好きなのは①か②のパターンで、その人の性格的な「アツさ」は関係ありません。

っというよりむしろ「アツい」人は苦手なタイプ(笑)

僕は熱量と性格は全く違う評価軸のものだと思うのですが、多くの場合これが同一の尺度で測られている気がするんですよね。

それ自体は別に構わないと思うのですが、採用や人事評価の場、或いは一緒に何かを運営するときなどは本来エネルギー量の多い人が求められている分野において、この性格とエネルギー量がイコールで結びついた形で評価されるのはどうなのだろうと思います。

こういった場面でエネルギー量多い人がアツい人と思われるというのは、評価において問題ありません。

逆にエネルギー量が低い人がクールな性格に見られ、それが判断として低い評価となるのも構わない。

しかし、問題はこの逆の評価が生じてしまう場合です。

例えば、性格が熱量を表すものだと考えている人がいたとします。

その人からすれば、アツい=熱量が高い、アツくない=熱量が高くないという評価になってしまうのです。

この考え方だと、そもそもアツいだけで熱量が低い人という可能性にそもそも視野が向かないため、結果として結果といて全く熱量の高くない人を集めてしまいがちです。

こうした可能性があるので、僕は性格とエネルギー量は分けて考えるべきだとおもうのでうす。

 

では、どうやったらエネルギー量の多い・少ないを確認することができるのでしょうか。

僕は昔から、その人のエネルギー量の多きは、性格的なアツさとまるで関係ないと思っています。

エネルギー量はただ、①どこまで気付いているか、②どこまで考えているか、③どこまで行動しているかの3点のみで測られる。

これが僕の持論です。

これらの指標には性格的な「アツさ」は関係ありません。

 

エネルギー量の低い人がエネルギー量の高くなりたくて自己啓発本等をみても熱量は上がりません。

自己啓発本で手に入るのは「やる気」であり、熱量を構成する要因では無いからです。

熱量を上げるには①特定の分野で気付く感度を上げる、②その分野に関して考え抜く、③特定の分野に関して行動する、の3要素に尽きます。

熱量と性格をリンクさせないように見ることは、自分自身の熱量を上げたいと思うときにも役に立つ考え方であるように思います。

 

アイキャッチはアツい上にしっかりエネルギー量も高い武井壮「勝つ人」

 

勝つ人 13人のアスリートたち (Sports graphic Number books)
 

 

 

「就活生、スーツに着られている」問題と就活生コスプレ仮説

4月に急遽後輩を集めて飲み会を開いたときに、就活中の子たちがたくさんいて、そのときに「就活生、スーツに着られてるくない?」という話になりました。

街を歩いているときや駅のホームで電車を待っているときに、同じスーツを着ているはずなのに、なんとなくパッと見で就活生だと分かるんですよね。

このエントリを書いている平日昼間のカフェでも、「あっ、この人就活生だ」と明らかに分かる人がチラホラと入ってきます(笑)

で、「就活生スーツに着られている」問題について数週間考えている中で、一つの仮説にたどり着きました。

それが就活生コスプレ仮説です。

 

僕は基本的にスーツや制服というのは「である」ことを証明するためのツールであると考えています。

制服を着ていれば高校生、スーツを着ていたら社会人みたいに、自分が今何をしているかを周囲に認知してもらうための道具が、スーツなり制服なりだと思うのです。

社会人がスーツを着ていたり、学生が制服を着ていたりしても全く違和感が湧かないのは、彼らが服装で示される属性をしているからです。

仕事をしている人がスーツを着ている、学生をしている人が制服を着ている

だから、それらを着ている姿を見ても違和感が無いのです。

 

僕が就活生のスーツに感じる違和感が、「である」ことを示す服装と実際にしていることの不一致によるものであるとしたら、恐らくテレビでタレントが着る学ランやAVに出ている女の子の着るセーラー服と構造的には同じものであるはずです(笑)

しかし、僕はそういったものにはあまり違和感を覚えないんですよね。

だからこそ、なぜ就活生のスーツだけが不自然かと納得できる理由が見つけられずにいたのですが、それも就活生コスプレ仮説である程度解消されました。

テレビタレントでもAV女優でも、服装によって「である」ことを示す前に、その人が何をしているのかというキャラがはっきりしています。

だから、制服やスーツに「着られている」という印象は受けないのです。

スーツを着ているサラリーマンや制服を着ている学生は、ちょうどキャラクターと服装が示す印象が同じベクトルを向いている。

だから違和感が無いのです。

それに対して就活生の場合、まず自分のキャラクターありきではなく(それどころか押し殺そうとする勢いで)、スーツを着て就活生「である」ことを演じようとする。

コスプレイヤーの人から「キャラクターをどう演じるか」という話を聞いたのですが、まさにそれと同じ印象でした。

コスプレイヤーの場合は、それを見る側の人間も、キャラになりきった演者としてのその人を求めています。

だから、なりきればなりきるほどよい。

これはテレビドラマに出ている俳優も同じです。

彼らは消費者から「演じている役」を求められているから違和感がない。

むしろ役者やコスプレイヤーが「自分」を出したら不自然になってしまいます。

彼らはある意味で役を引き立てる「裏方」に回って初めて役割を全うできるのです。

しかし就活生は違います。

就活生が消費者(この場合は面接官)に求められているのはあくまでその人がどんな人であるのかという部分です。

にも関わらず、スーツを着ることで就活生(これが「社会人」でないというところもポイント!)を演じようとしてしまう。

就活生だからピンと気を張っていなければならない、就活生だからできる人っぽい表情をしなければならない。

そんなスーツを着ることにより「演じる就活生」になってしまうからこそ、パッと見で就活生だと分かる空気になってしまうのだと思うのです。

 

こうしたコスプレ状態にならないためにはどうしたらいいのか?

就活生の方々がスーツを着た瞬間に無意識に「就活生」を演じてしまっているのなら、予め自分らしさを意識しておけばこの問題は解決します。

自分は普段どんな人なのかという「自分らしさ」を一度言語化してみる(これは就活における自己分析のようなものではありません)。

そして、「就活生らしさ」ではなく、「自分らしさ」を演じればいいわけです。

自分らしさを演じるなんていうと矛盾があるように思いますが、普段の自分を自覚している人は案外多くありません。

だからこそ、それを知っているだけで、スーツをきると無意識に「就活生」らしさを演じてしまうという状態をさけられるようになると思うのです。

殆どの人が「就活生」らしさを演じる中で1人だけ「自分らしさ」を演じることが出来れば無双状態です。

だって、面接官は「自分らしさ」を求めているのだから。

 

っというのが、僕の「就活生スーツに着られている」問題に対する答え。

 

 アイキャッチはお世話になっている(入り浸っている)お店の大将が書いた就活本

内定力

内定力

 

 

摂取しすぎには要注意!?雰囲気イケメン・雰囲気美人になるための特効薬とその効果

「美容師」「バーテン」「バンドマン」

女の人が恋をしてはいけない職業の3B(美容師はBじゃないけど…)としてマンガ家の山田玲司先生が自身の番組で言っていたこの言葉。

山田先生がこれを言ったときの驚きは今でもはっきりと覚えています。

今日の朝、起きて寝転がりながらニュースを漁っていたら、久しぶりにこれと同じレベルの衝撃を受けました。

それが「かわいいと言われて吐き気がしたことがあります」というこの記事

shakasssh.hatenablog.jp

 

女子高育ちだった筆者が、セブンティーンに書いてあるような(裏返せば)男にモテるテクニックを片っ端から実践したというもの。

そこに書かれている具体例がとにかく面白い(ここに書いたらパクリになってしまうので上の記事を御覧下さい)くて、どれも男性側の率直な気持ちとして「そりゃ好きになるわ!」というものなんです。

で、筆者がそれらを全て行った結果感じたことを学校の先生に話したときに言われたという言葉が秀逸です。

「でも、共学で育った女性は、

好きな男子の話にしか笑いませんし、

好きな男子にしか親切にしません。

はじめてあなたに出会った男性は

自分が特別扱いされていると感じて、きっと

あなたが自分に恋してると思っていますよ。」

本来ならば好きな人にしかしないようなしぐさを手当たり次第に行っている結果相手に与えているであろう誤解を端的に伝えたこの先生の言葉が非常に面白いなと思いました。

この筆者さんのやったことって、山田先生が言った「女の人が恋をしてはいけない職業の3B」ちょうど女性バージョンなんですよね。

 

 

「女の人が恋をしてはいけない職業の3B」として山田先生が美容師、バーテン、バンドマンを挙げている理由は、彼らがいずれも「話を聞くプロ」であるということからでした。

しっかりと最後まで相手の話を聞いてくれる男性は、思いのほか多くありません。

大体の男は、自分の話をしたがったり、女の子の話を聞きながら、ついつい(上から目線の)アドバイスをしがち。

しっかりと女の子を主役にして、女の子の話に耳を傾けてくれる人は驚くほどに少ない中で、これらの職業の人は仕事で「聞く姿勢」を鍛えているから、当たり前のように話を聞けて、だからこそそんな男性の姿に「この人は私のことをわかってくれる」と思って好きになると痛い目をみるよという話だったみたいです。

女性にとって「男性が相手の話に真剣に耳を傾ける」というのは、基本的に好きな人に見せる姿であるように映るのではないでしょうか。

実際に男の立場から考えても、好意のある人に振り向いてもらおうとすると、しっかりと相手の話を聞こうという姿勢になります。

だから、しっかりと話を聞く=自分に興味があるのではないかと思われ安いというわけです。

これって、先ほど紹介したブログに書いてあった、「自分が特別扱いされていると感じて、きっとあなたが自分に恋してると思っていますよ。」というのと非常に近いように思います。

男性にとって「話に耳を傾ける」が好きな人にしか行わないサービスで、女性にとってブログに出てくるような一連の「かわいいしぐさ」が好きな人にしか行わない好意ではないかと思うのです。

 

 

このどちらも、注意喚起・失敗事例として書かれていますが、これらを意図的に行うのは「モテる」という目的に対してはかなり効果的なアプローチであるように思います。

ただしここで注意しなければならないことがあります。

それは、「モテる」という言葉の定義です。

僕がここで使う「モテる」というのは「不特定多数の異性から好意を抱かれる」という意味の状態動詞です。

自分が好意を持っている特定の異性に好きになってもらえるというのではありません。

それが全然興味のない会社の同僚かもしれないし、親の年くらいのおっさん、おばちゃんかもしれないけれど、不特定の何人かから声をかけてもらえる(男性の場合は食事に誘っても断られない)状態。

これが僕の考える「モテる」という状態です。

上に挙げたことを実践して得られるのは、あくまで「モテ」であるとうことは注意しておかなければいけません。

しかし、反対に「不特定多数から好意をもたれる」という状態でいいのなら、こうした方法で驚くくらいにモテることができるでしょう(笑)

 

僕はよく、雰囲気イケメン・雰囲気美人についての研究レポートをブログで書いていますが、上に挙げたのは全くの別モノ。

漢方薬みたいに徐々によくしようというものではなく、飲んだ瞬間に効くタイプのもの。

劇薬でもあるため、使用の際には分量と回数をしっかりと守る必要のあるものです。

今まで山田先生が言っていたことを参考に考えていた話が、「かわいいと言われて吐き気がしたことがあります」という記事を読んで完璧に補完されました。

とにかく面白い内容なので、是非読んでみてください。

っていう、あまりにも面白かったので勢いだけで書いてしまったエントリ。。

 

雰囲気イケメン・雰囲気美人の研究レポートです。よかったらこちらもお願いします。

「恋ダンスのガッキーが可愛すぎる」問題について雰囲気イケメンの五大法則から考えた - 新・薄口コラム

なぜあの人はいつも彼女が途切れないのか~デブがモテるのにはワケがある!?レバレッジデブ理論~ - 新・薄口コラム

 ・マンガで読み解く男女のすれ違い〜少年マンガVS少女マンガ - 新・薄口コラム

 

アイキャッチは何度も紹介している、山田玲司先生の「モテない女は罪である」

 

モテない女は罪である

モテない女は罪である

 

 

 

量より質のウソホント

しばしばブログ界隈では、アクセス数を増やすためには記事の質なんて考えないでとにかく数を書けという主張とロクでもない文章を投稿しても誰も見ないのだから渾身の記事を投稿すべきという真逆のアドバイスを見かけます。

因みに僕自身は量より質が大事と考えています。

ただし、ここでいう「質」というのは今書いている一本にとことん時間をかけて...というのとは少し違います。

僕が考える質の高い文章とは、大量に書き出したアイデアの中でいいものだけを選りすぐって、それを更に磨いたものという意味です。

つまり、選定の段階で「量」はこなしている。

 

質より量が大事という意見には、どんなコンテンツが受けるかは分からないのだから、とにかく数を書こうという意味が含まれていると思っています。

また、量を書けば自ずと技術が上がるという意味もあるのでしょう。

後者の利点はいうまでもありませんが、前者に関しても基本的にはたくさん投稿すること自体に価値があるのではなく、たくさん書く中で質の高い記事が生まれるというところに価値を見出している言葉です。

つまり、アイデアを多く出してその中からいいものを選ぶという「質」の求め方と基本は同じです。

例えば、広告のコピーライター養成講座などでは1つの商品に関して100くらいのコピーを考えるなんて課題があると聞いたことがあります。

その中で1番よい一本だけを人前にお出しする。

そりゃいいものが出てくるはずです。

 

一方で、ひとつひとつに質の高さを求める人は、自分が生み出したたったひとつのものをよりよくしようとしがち。

しかし、いくら技術や手間でアイデアを磨き上げようとしたところで、それには限界があります。

どんなに「盛れる」プリクラ機にも限界があるように、どれだけとり繕おうが、元のアイデアそのものが磨かれていなければ到達できる「質」には限界があるのです。

(すごい失礼な言い回し・・・)

逆に、アイデアがしっかりしたものならばそれだけである程度の質は担保されます。

すごい美人さんが写ったプリクラならば全く落書きや修正が入っていなくても可愛く見えるのと同じです。

(・・・すみません)

で、質のいいアイデアを揃えるには、やっぱり数多くのアイデアを生み出すしかないよねという話。

5人の中からプリクラ映えする人を探すよりも100人の中からプリクラ映えする人を探したほうが、確実にクオリティの高いものが撮れるじゃないですか。

(・・・マジですみません)

 

別にプリクラに恨みがあるわけでも、ましてプリクラが好きな女の子に恨みがあるわけでもありませんが、現実問題として、質を求めるにはやはり「数」というのが重要になってくると思うのです。

その中で思いついた全てを表に出すのではなく、特に輝くひとつを選び出すという印象。

質にこだわらなければ100本くらいは書けたという日の目を見なかったコンテンツ群の中から光る渾身のネタを選ぶからこそ、質は保証されるのです。

量で勝負というのは、その辺の選定を読者に任せているように思うんですよね。

 

おそらく、日頃から仕事などで「質」を求められる人たちは、その過程に膨大な「量」を通っていることを知っているのだと思います。

だからこそ、一本の光るネタを見せる時に、その背後にある努力の後を見せない。

そしてそんな「質」を求める人たちをみて、その努力を知らない人たちは1つのものにこだわれば「質」のいいものができると考えてしまう。

で、結局本当の意味での「質」を追求したコンテンツは生み出せないのだと思います。

 

本当の意味で「質」を求めるとは、1つに極限までこだわることではなく、膨大に生み出した平凡なアイデアをもったいないと思わず切り捨てた上で、そこから生まれた優れたアイデアに磨きをかけることだと思うのです。

 

 

アイキャッチはアイデアについて書かれたこの本!そ

 

ここらで広告コピーの本当の話をします。 宣伝会議

ここらで広告コピーの本当の話をします。 宣伝会議

 

 

 

授業の形態における差別化戦略をサプライサイドから考えた

僕は普段、何を考えているのか分からないと言われてしまうことも少なくないのですが、教育に関してはかなりいろいろと考えている方だと(自分では)思っています。

特に、ここ最近GWの間はずっと、ある授業形態においてでしかできない授業の在り方というものを考えていました。

反転授業とか、演習中心とかいう授業の形式は除いて、あくまで教師と生徒の関係という「授業形態」でみたとき、今の塾業界には様々な形態が存在します。

家庭教師、個別指導、集団指導に映像授業etc...

授業形態を特徴で分類して、それぞれどこが競合しているのか、またどの部分で差別化戦略を取れるのかを考えてみると、僕の中で面白い分類ができました。

僕の作った分類は①個別指導群②集団指導群そして③非インタラクティブ指導群の3種類です。

さらに僕の中では①の個別指導群には家庭教師と1:1の個別指導が含まれ、②の集団指導群に1:2〜4の個別指導、少人数集団指導、大人数集団指導が含まれ、③に映像授業が含まれるというわけ方になります。

(個別指導の分類が少し特殊ですが、これについては後々説明します。)

 

まずはそれぞれの指導群の強みについてはまとめたいと思います。

①に該当する指導方法は完全に1人の子に焦点を絞ります。

そのため、スポーツのインストラクターのように、文字通り手取り足取り指導することができる。

極端な話、野球のノックのように、応答の繰り返しで一問一答のような覚え方をさせることだってできてしまうわけです。

これは1人の生徒さんを相手にするスタイルでしかできません。

僕は他の指導群に比べ①が持つ最大の強みは、この「覚える過程踏み込める」点にあると考えています。

それに対し②の指導群はライブ授業であることが最大の強みだと考えています。

目の前に複数の生徒がいて、生徒と教師のインタラクティブなやりとりの中で授業が組み立てられる。

思わぬ気づきや、その瞬間ならではの教わり方というのは②群にしかない強みです。

Googleの翻訳制度がここ数年で著しく高度になっていますが、その理由は間違えの蓄積にあると言われています。

集合知で臨めるライブ授業は、こうした蓄積に大きな威力を発揮します。

最後の③非インタラクティブ指導群に関してはテクノロジーの進化が最大の強みでしょう。

理解が十分でないとき、何度も見直すことができるというのは、映像授業でしかあり得ません。

例えば、テキストに細かく時間が書かれていて、分からなかった場所に関しては何度も見直せるみたいな授業作りは、非インタラクティブだからこそです。

以上が①〜③群の、形態別の差別化です。

 

次にそれぞれの指導群内の差別化戦略について考えます。

一つ目の個別指導群は、担当と生徒が完全1:1という定義にしました。

1人の教師が1人の生徒を教えるのと、2人以上を教えるのとでは、上に書いたように、全く意味合いが違うと考えたからです。

この分類にすると、完全1:1の個別指導と家庭教師が競合関係にあたります。

従って家庭教師と1:1個別指導の両者にとって、両者が相対的に武器とし得る強みを考えることにします。

まず、個別指導にできて家庭教師にできないことを考えていきたいと思うのですが、最も簡単にできる差別化戦略といえば、授業外学習指導の時間の有無につきるでしょう。

家庭教師は家に教えに行くことが大きな利点です。

逆にいえば、質問対応はその場でしかできません。

対して塾の個別指導であれば、原則(担当でないにしろ)塾に行けばいつでも先生が待っています。

そのため、質問対応がしやすい。

また、補修や呼び出しみたいな付加価値で家庭教師と差別化することもできます。

従って、家庭教師との差別化を考えるのなら、この辺に特化することが重要でしょう。

一方で、家庭教師が個別指導と差別化をできるところは何か?

1番の強みは「毎回家に行く」という部分にあると思います。

家庭に顔を出すということは、保護者の方とのコミュニケーションの度合いにおいて、個別指導を圧倒している。

したがって、学習状況の共有や進路相談といった、保護者とのコミュニケーション密度の部分で差別化を図るのが有効といえるでしょう。

 

次に②群内での差別化です。

僕はここに属する授業形態にはA演習密度とB体系化して伝えられるという2つの軸があり、対象とする人数により、それぞれの比率が異なって行くと考えています。
例えば、1:2の個別の場合、一人当たりに目を向けられるA演習密度は50%とかなり大きくなります。
反対に演習を見ることに軸足を置いている分、体系化して知識を教えられる割合は少なくなる。
これに対して100人クラスの場合、Aの一人当たりに向けられる意識は1%になりますが、代わりにBの体系化された授業の完成度という観点では非常に大きな数値になる。
②群においてAとBはトレードオフの関係です。
また、雇われる側の給料という観点からみれば、当然一人当たりの持つ人数が多いほど多くの給与を支払うことができ、より腕のいい教師である可能性が高くなるでしょう。
予備校が日本を飛び回るようなカリスマ講師を雇うのはこういう仕組みです。
こうした構造を踏まえるのなら少人数であるほどに面倒見の良さを売りにすることが有効で、大人数になる程講師の腕やブランド、あるいは知識の体系化という部分での差別化が有効といことができるでしょう。

 

最後に③ですが、ここに関しては僕の勉強不足もあり、そもそも③群内での差別化があまり思い当たりません。

もちろん同じ形態での差別化はいくらでも考えられますが、そこに関しては他の群と違うレイヤーのお話になってしまうので、今回は触れません。

あえて言及するのであれば、1.いかにインタラクティブを取り入れるか2.映像の尺による工夫3.価格帯や付加価値の充実といったところになるでしょう。

 

ということで、授業を「売る側」にとっての差別化戦略について、あれから考えたほんの「さわり」の部分だけまとめてみました。

これが塾選びに役に立つのかどうかは甚だ疑問ですが、1つの指標になれば幸いです。

 

アイキャッチはさんざん勉強についてかいたクセに山田詠美さんの「ぼくは勉強ができない」

 

ぼくは勉強ができない (新潮文庫)

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