新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



テクノロジーに最適化する

僕はテクノロジーを人間に最適化するという考え方に懐疑的で、むしろ歴史上の流れを振り返れば、大きな革命が起こったとき、人間がテクノロジーに最適化してきたという事実があると考えています。

これまでの大きな革命といえば農業革命と産業革命がありますが、僕たちの祖先は農業革命を通して、移住から定住に、その日暮らしから収穫時期に合わせた暮らしに、そして、小規模のまとまりから集団生活へとその生活のしかたを変化させてきました。

これは、農業という大きな「発明」によって、完全に生活スタイルが変化した例といえます。

農業において最も重要なことは、収穫時期に次の収穫時期まで生き延びることのできる食料を確保すること。

そのため、人々の生活は日の出入りや四季に合わせたものになりました。

また、個人で行う狩猟とは違い、農業は集団で行うことでより効率的になります。

したがって集団で過ごすようになり、かつ優秀な指導者が一定規模の人たちを束ねるようになります。

 

同様に産業革命を経て、僕たちは自分たちの生活をテクノロジーに最適化してきました。

産業革命の最大の発明は「蒸気機関」、人間以外の動力の発見です。

1人の人間が担っている全工程を蒸気機関が一度に担うことはできませんが、行程を細分化し、それぞれにあった単一の動きをし続ける機械を生み出せば、結果として1人の人間が生み出していた製品を機械によって生み出すことが可能になります。

僕はこれが産業革命の重要なポイントで、これを実現するために産業革命以降あらゆる分野で行われてきたことは「行程の細分化」であると思っています。

あらゆる行程を細分化することで、技術を代替可能なものにしてきました。

たとえば、ある機械のパーツが壊れても、すぐに同様のパーツと取り替えれば、全体としてすぐに復帰するという具合です。

これは機会だけでなく、人間にも当てはまります。

様々な仕事を部署で分けることで、「その人がいなければ成り立たない」ものから、「どんな『労働力』でも代替可能」なものにしてきました。

色のついていない「素材」を大量に採用し、様々な部署に配置する新卒一括採用は、まさにそうした思想の基づいている制度だと思うのです。

 

農業革命、産業革命を通して僕たちは生活のスタイルをテクノロジーに最適化してきたということを考えると、今日のIT革命の中でも、恐らく僕たちは生活をテクノロジーに合わせて最適化していくことになるはずです。

実際に、パソコンやスマホなしに今の生活は考えられないことからも分かるように、既にミクロな部分では、最適化をしつつあります。

ただ、僕が興味のあるのは、もっと大きな枠組みの部分。

農業革命でいうところの「時間概念」、産業革命でいうところの「細分化」のように、IT革命によって生まれるコンセプトのようなものがあるように思うのです。

それをいち早く見定めて、そこに向かって自らを「最適化」することができれば、今後、面白い立ち位置がとれるように思うのです。

そのコンセプトの可能性として「多動力」や「評価」、「好奇心」みたいなものが上げられますが、僕はどこかしっくりこない気がしています。

もっと、端的で(そしてそれは恐らく期待するポジティブなものではないもの)があるのではないかと思うのです。

話上手の「作り方」

円滑なコミュニケーションは実は簡単で、僕はコミュニケーションとは相手に何かを押し付けることと自分が引き受けることのシーソーゲームであると思っています。

相手に引き受けてもらう自分の話の総量と、相手が話したい内容を引き受ける自分側の分量が等しければ、それは円滑なコミュニケーションになり、相手よりも自分の方が引き受ける分量が多ければ、その相手にとって自分は「話を聞いてくれる人」ということになります。

コミュニケーション能力について、しばしば「話すのが上手い人」という認識がされますが、実態は巧みに相手を話しの主役にできる人が「コミュニケーション能力の高い人」という評価を貰っているように思うのです。

 

話が上手い人が、相手よりもしっかりと話に耳を傾けることであるとしたら、コミュニケーション能力が低い人というのは、「自分の話ばかりをする人」ということになります。

僕はこの「自分の話ばかりする」には、相手に無理やり話を聞くことを共用させるタイプと、相手が話を聞かざるを得ない状態にさせてしまうタイプの2通りの種族がいると思っています。

僕はそれぞれマウンティングタイプ、メンヘラタイプと呼んでいます。

 

マウンティングタイプに関しては会話において相手を「負かそう」としがち。

誰かが話しているときに自分のエピソードをかぶせてきたり、相手を論破しようとしたりするタイプがここに該当します。

相手は話が面白いから「聞き手」を引き受けてくれているわけではなく、「聞かざるを得ない」から聞いてくれているというのが最大のポイントです。

マウンティングタイプの会話が生まれやすいのは、年齢的に差がある場合や、立場的な差がある場合。

聞き役と話し役の比率が歪んでいるだけでなく、会話のコンテンツ以外の部分で「聞かざるを得ない」状況を作っているため、会話をしていて聞き手には大きな負荷をかけています。

いつも会話をする人が後輩や若い人ばかりという人は注意が必要です。

 

もう一つのメンヘラタイプとは、自分は悲劇のヒロインであるというアピールをすることで周囲に無理やり聞き役を強いる人たちのこと。

通常、自分の話に興味を持ってもらうことはそんなに簡単ではありません。

しっかりと相手の興味の範囲で話題を考えなければ、自分の話に耳を傾けてもらうことは容易にはできません。

しかし、不幸アピールだけは別。

自分がいかにつらいかというアピールは容易に相手の関心を惹きつけることができます。

目の前で「自分はこんなにつらい境遇なんだ」という会話をされれば、周囲は聞かざるを得ないからです。

オンラインサロンの最大の強みは「社会で楽しむ人」と「社会を楽しむ人」の接点を作ったところにあると思う

ここ最近、柄にもなくいろいろな人とあってしまって(?)います。笑

で、そんな人たちと話をしている中で思ったのが、「社会で楽しむ人」と「社会を楽しむ人」がいるなあということです。

本当はこれをx軸としたらy軸には「能動的な人」と「受動的な人」があるのですが、それを書くと内容がずれてしまうので、今回は予め「能動的な人」の群に絞ったお話です。

「社会で楽しむ」というのは、今の社会に対して何らかのアクションを起こし、自分のやりたい事をどんどん作っていこうとするタイプです。

新しいビジネスを作りたいとか、新しいコミュニティを作りたいとかそんな感じ。

「社会」というおもちゃを使って、新しい遊びを発見する人たち。

彼らは非常に熱量に溢れていて、絶えずいろいろな人をひきつけます。

一方で「社会を楽しむ」というのは、何かを生み出すことは好きだけれど今ある社会の中に「自らが関わって」何かしようというのではないタイプです。

今の社会に面白い素材は十分にそろっているのだから、それを楽しもうというのがこの人たちです。

「社会で楽しむ人」が「社会」というおもちゃを使って新しい遊びを発見するのであれば、「社会を楽しむ人」は「社会」という遊び場の中でワクワクを見つけるイメージです。

この人たちも同じく非常に大きな熱を持っています。

 

「社会で楽しむ人」も「社会を楽しむ人」も、能動的に動いている時点で「熱」に溢れているのですが、その「熱」の見え方は少し異なります。

僕は「社会で楽しむ人」の持つ熱はエネルギー(Energy)と形容するのが最も近く、「社会を楽しむ人」の持つ熱は好奇心(Curiosity)と呼ぶのが一番近いように感じています。

前者は面白いことを生み出すために行動するため、その行動力の源泉としてエネルギーに溢れていて、後者は面白いことを発見するために行動するため、その行動力の源泉として好奇心に溢れています。

これらはどちらに優劣があるというわけではなく、単純に志向性の問題なのです(社会で活躍するには前者の方が向いていると思いますが…)。

 

いろいろな人や組織を見ている中で思うのは、面白いものを次々と生み出せるチームには、例外なくかなり高次元の「社会で楽しむ人」と「社会を楽しむ人」を抱えているということです。

仮に「社会で楽しむ人」の持つ熱をE型、「社会を楽しむ人」の持つ熱をC型とすると、E型とC型の熱量が交わったとき、単体で攻める異常の能力が発揮されます。

たとえば、E型の熱しかない組織はガス調節ねじだけを開いてガスバーナーの火をつけているようなものです(赤い火のヤツ)。

そもそも燃費が悪いし、仮にそれで限界まで火を大きくしたとして、土台となるバーナーが痛んでしまいます。

E型の熱量の人が集まった組織は、そこについていく人たちが疲弊しやすくなってしまうのです。

反対に、C型の熱量を持った人ばかりが集まった組織では、構想ばかりが先走り、全く形になりません。

先ほどのガスバーナーでたとえるのなら、空気調節ねじだけが前回の状態(笑)

こうしたひとばかりが束ねる組織ではついてくる人々は何がしたいのか分からず、いずれ空中分解を起こしてしまいます。

ガス調節ねじと空気調節ねじの両方を開いて初めてガスバーナーが機能するのと同じように、E型の熱量とC型の熱量がそろったとき、初めて大きな力になると思うのです。

(もちろんそれぞれ単体でも一定の結果はでますが)

 

E型の熱量とC型の熱量が混在するコミュニティを作りだすというのが、これからの社会で何かを生み出すためには非常に重要であるような気がします。

そして、実際に多くの人たちがそれに向かって動いている。

堀江貴文さんや西野亮廣さんのやっているオンラインサロンなんかは、まさにこうした流れにあるように思います。

2013年龍谷大学一般入試「今鏡(藤波の中 飾太刀)」現代語訳

内容の背景を捉えることを第一目標としているので、直訳とは若干異なるところがありますが、ご了承下さい。
順次赤本に全訳が載っていない古典の文章の訳をアップしていこうと思います。

※因みに過去問は東進の大学入試問題過去問データベース から入手可能です

 

富家の入道、藤原忠実のご子息は、長男が法性寺の太政大臣で藤原忠道、次男は宇治の左の大臣で藤原頼長と言いました。

ご令嬢は高陽院と呼ばれ、泰子の后という名で、法性寺(忠道)殿とは同じ母を持つ姉という関係でありました。

たしか齢40のころだったでしょうか、高陽院は長承3年3月に、后となり、その後保延5年に、院号を与えられたのです。

 

頼長は確か土佐守盛実の娘を母に持っていた者であったと記憶しておりますが、彼は見た目も素晴らしく、多方面にわたり、優れた才を発揮しておりました。

堀河大納言から、『前漢書』という書を引き継いでおりました。

その書は堀河大納言が匡房の中納言から伝えられ、その後に伝える人が現れずにいたのを、頼長が引き継いだのでございます。

今はその伝えも絶えてしまいました。

頼長はこのように、様々な書物に造詣が深く、『因明』という名の、僧が読むような本までも、奈良の僧たちをたどり、読んでいたと聞いております。

詩歌管弦を披露する場では笙の笛を演奏したそうです。

書をお書きになるときは、わざといい加減にお書きになったのでしょうか。

兄の法性寺(忠道)殿に自分の筆跡が劣っているから比べられたくないというそぶりをしていたのを見て、 法成寺(忠道)殿は、「私は漢詩も作るのに、それならばお前は漢詩をお作りにならないほうがいいだろう」とおっしゃったとかうかがいました。

法成寺の焼けてしまった塔を修理しなさるときも、滞りなく進め、日記等にも広く精通しておりました。

 

一方、性格は自分に対しても相手に対しても大変に厳しいものでした。

行事を行うときは伝統を好み、上達部で公式の席に現れないものに対してはみな呼び出し、時には道で会う人に厳しく叱責することもあったと評判でした。

公事を行うときは、遅れてやってきたものや用事で出席を拒むものがいれば、家を焼き払ったほどであるそうです。

奈良に済円の僧都という名僧がおり、彼が公事への出席に出席できないと伝えたときは、京にある彼の宿坊を壊したほどです。

済円の僧都には仲胤の僧都という盟友がいて、2人は日頃から歌合いの場などで「お前こそが鬼だ」と言い合うような仲だったのですが、仲胤が「済円が公事を断ったら宿坊を壊された」という話を聞いて、済円の元に

(和歌)本当にあなたの家を壊したような人がいるのだとしたら、それはあなたに勝る鬼のような人であるようだなあ

と読んで送らせたのだそうです。

(中略)

 父の富家殿と法性寺(忠道)殿の親子の間柄は、最後にはよくないものになってしまい、父は頼長を鳥羽院とともに引き立てて、藤原家の長男の位を授けてしまいました。

加茂の詣でなどは本来最高の権力者がするものなのですが、頼長は兄の殿を差し置いて参拝をし、また藤原家の本流である東三条殿をも手に入れてしまったと聞いています。

法性寺(忠道)殿と頼長殿が並んで内覧の宣旨などを受け、帝のお供をしていました。

こうした時期に鳥羽院はお亡くなりになって、讃岐院と頼長殿が策をめぐらせて、後白河院が位にいるときに、大炊の御門殿で戦が起こしたのですが、帝の守りも強く、頼長殿は馬に乗り前線に出ていたときに、誰が討った矢だったのだろうか、頼長殿に当たって、奈良まで逃げた辺りで、ほどなく息を引き取ったのでした。

 

 

今鏡 (上) (講談社学術文庫 (327))

今鏡 (上) (講談社学術文庫 (327))

 

 

SNS上での企画会議の弱点と、差別化戦略を生み出す方法

僕は何かの打ち合わせをする場合、できるだけ「顔をつき合わせたい」と思っています。

SNS上でのやり取りは、どうにも自分に向いていないと思っているからです。

簡易な連絡をしたり、人と繋がったりするのには便利なSNSですが、企画会議のようなものはやはり顔を付き合わせたほうがいい(最低でも電話)というのが僕の持論です。

SNS上でのやり取りは、少なくとも速度と情報量の2点において、リアルなコミュニケーションよりも劣っているように思うのです。

 

僕が最も億劫に感じるのは情報を伝えるスピードです。

知り合いと話したり、居酒屋で飲んだりするときはかなり意識して話すスピードを落としているのですが、本来僕はかなりの早口です。

その場でアイデアを出さねばならない場合や論理を構築する局面になると、雑談をしているときの2倍くらいの早さになってしまいます。

で、僕はこの緩急が自分の中で非常に重要だと思っているのですが、文字情報のやり取りには速度がないのです。

もちろん、SNSで発言を投稿するのにはスピードがあるのですが、僕が言いたいのはもっとミクロな視点で、一つのメッセージを構築する場合のスピードです。

いつも文章を書いているということもあり、普通の人と比べればいくらかタイピング(スマホフリッカー入力も)は速いほうだと思っているのですが、それでもしゃべっているときのスピードと比べれば圧倒的に遅くなってしまいます。

僕は別に頭が良いわけではありません。

だからとにかくしゃべるスピードに任せて手数を増やすのが僕の打ち合わせでの振舞い方です。

これがSNS上のやりとりになると意見のやりとりの速度の差が話しているときほど大きくならず、おまけに話しているときの文字数とは違う、身近なやり取りが中心になる(僕は話しているときの一文がものすごく長いのです)ので、明らかにパフォーマンスが下がってしまうことが分かるのです。

 

もう一つ、僕がSNSでの議論を好まない理由が情報の伝達量の差にあります。

文字情報よりも話し言葉話し言葉よりも映像、映像よりもリアルな体験というように、情報量はどうしても文字になると少なくなってしまいます。

これは僕の感覚値ですが、SNS上での企画会議の場合、最大でも口で説明したときの80%くらいしか自分の意図は伝わらないと思っています。

また受け手が理解するフェーズでも、情報伝達の制度は下がると思っています(こちらも80%くらい)。

仮に自分の意見を100としたときに、顔を付き合わせていつ場合、ジェスチャー等も交えて都度調整をすることで90くらいの情報が相手に伝わるとします。

一方で文字情報の場合、自分が文字に起こす段階で100×0.8=80という情報量になり、さらに相手が受け取るタイミングで8掛けになるため、実際に相手に伝わる量は64となってしまいます。

大きな枠組みや手数の多さで勝負する人ならばそれで構わないと思うのですが、僕みたいな理屈をこね繰り返してアイデアを出すタイプの人間にとっては、この伝達する情報量の差が致命的だと感じるのです。

 

SNSが発達した結果、どこでも打ち合わせができるようになったという人もいますが、僕はそれで上手くいくのは①基本方針を定めて、②いかに速く、③どれだけ手数が多いかが勝負になる系統の仕事の進め方に限るように思います。

(逆に言えば、今はそうした戦い方をする人に有利な土壌ということもできるでしょう。)

しかし、それで生み出すことができるのは独自性の高くない、スピード重視のアイデアです。

そうした、「ジャンク品」ともいえるアイデアではなく、しっかりと練り込んだ、そのアイデア一つで差別化が計れるというようなものを出そうと思った場合、Face to Faceのコミュニケーションが重要だと思うのです。

SNSによって、一見するとドコでも会議ができるようになったように感じます。

しかし、それは上の3条件を満たす会議がしやすくなった(幅を利かせるになった)ということであり、裏を返せば、そうでないアイデアを要する場合は対面が重要で、そこにこそ独自性の鍵が眠っているのではないかと思うのです。

だから僕はできるだけ対面での企画会議をしたいし、そういったことを続けられる組織が長期的に独自性を出し続けられる気がします。

 

アイキャッチは飲み会でのアイデアを最大の強みにしているキングコング西野さんの「魔法のコンパス」

 

魔法のコンパス 道なき道の歩き方

魔法のコンパス 道なき道の歩き方

 

 

七夕なので、和歌をテーマにしてAIについて考えてみた

狩り暮らし たなばたつめに 宿借らむ 天の川原に 我は来にけり

―狩をして気がつくと日が暮れてしまった。ここは天の川という名前の土地のようだから、織姫に頼んで宿を借りようか。―

一年に 一度来ます 君待てば 宿貸す人も あらじとぞ 思ふ

―織姫は一年にたった一度だけ会うことのできる彦星を待っているのですから、私たちに宿を貸してなどくれないのではないですか。―

(現代語訳は僕のオリジナルで、かなり意訳してあります。)

七夕になると、伊勢物語のこの和歌を思い出します。

(たしか)天の川という土地にやってきて狩を楽しんでいた、惟光の皇王たちの読んだ歌です。

文法を説明するときに、「これでなければならない理由」もないため、めったに引用することはないのですが、結構僕のお気に入りだったりします。

7月7日に七夕を思い出す。

そういう生産性や合理的思考では割り切れない「ムダ」を楽しむことって、特に合理化が進む世界で価値を生み出すことを考えたとき、長期的に大きな差別化要因になると思っています。

 

かささぎの 渡せる橋に 置く霜の 白きを見れば 夜もふけにける

―かささぎが集まって架けた真っ白な橋のように、星たちが集まってまるで銀色の橋が架かったようにみえる空を眺めると、夜がふけたことを実感するなあ―

(先と同じく、現代語訳はかなり意訳してあります)

七夕と聞くと、百人一首の中に収められているこの歌も思い出します。

一見?一読?すると七夕とまるで関係のないこの和歌。

しかし、この歌にもしっかりと「七夕」が織り込まれています。

初句と2句に書かれている「かささぎの渡せる橋」とは、一年に一度、七夕の時期に対岸で互いを思う織姫と彦星が会うために、神様がかささぎをつかって二人のために川に渡してくれる真っ白な橋のこと。

つまり、冒頭の「かささぎの渡せる橋」は単なる霜の降って真っ白な橋の比喩ではなく、織り姫と彦星のエピソードを組んだこちらがメインということになるのです。

それを踏まえて改めて訳すとしたら、「今は冬なのに、まるで織姫と彦星を引き合わせるためにかかるあの橋のような真っ白な橋を星たちが作り、その事が私に夜が更けた事を感じさせるなあ」といった感じになります。

 

先日、知人に相談に乗ってもらったときに、話の流れでAIの話になったのですが、僕はAIが自分たちの環境に溶け込んだときの僕たちがあるべき姿は、上に挙げたような和歌に対峙する姿勢に近いのではないかと思っています。

「事象」をどう解釈するかの部分は(合理的結果から導き出されるものは別として)昔も今もこれからも、ずっと僕たちにしかできないことだと思うのです。

今日、AIは急激な速度で技術が進歩していて、まるで僕たちと同じように思考して解を導いているように見えるアウトプットを出すものも出始めていますが、あくまでその判断は膨大な集合知から導いた「最適解」に過ぎません。

たとえばGoogle翻訳にしても、AI自らが感情を持って「こうあるべき」という意訳を道いいているのではなく、「Xの場合は多くの人がYという訳にしている」という集合知から「人間らしい」意訳を創出しています。

かりに人間と人工知能で同じ訳が生まれたとして、その生み出したプロセスは全く異なるものです。

「私は〇〇だ。」と「私が〇〇だ。」の違いを区別することは機械にできても、そこで生じる受け手への印象を「感じ取ること」は機械にはできません。

単なる記号としても文字列に文脈という意味を見出し、その背景に思いをめぐらすのは獏たちにしかできないと思うのです。

 

僕はAIの問題はここに集約されると思っています。

例えば、上に挙げた「かささぎの 渡せる橋に 置く霜の 白きを見れば 夜もふけにける」という和歌の訳に関してですが、「かささぎの渡せる橋」はどう解釈しても文字情報の上では「七夕」とは結びつかないのです。

明らかにそこから読み取ることができない情報を加えるのは、情報処理型の考え方ではご法度です。

仮にAI(のようなものに)僕の現代語訳を添削してもらうとしたら、恐らくかなりの低評価になるはずです。

あるいは、小林一茶の「手向くるや むしりたがりし 赤い花」という俳句を例に考えてみるとより明らかです。

この俳句には、亡くした自分の娘に対する一茶の悲しみが読まれています。

しかし、現代の僕たちの文化背景では、どうやったってそんな解釈にはたどり着けません。

これがどれほど悲しみを含んだ歌であるかを味わうためには、一茶が詠んだ当時の「時制」の概念のこちら側が理解し、その範囲で解釈をなさねばならないのです。

(細かな解釈を書くと長くなるので、興味を持って頂けた方がいらしたらこちらをご覧くださいシードゼミ - 「手向くるや むしりたがりし 赤い花」 小林一茶の詠んだ句の中で、僕が最も好きな詩です。... | Facebook)

やはりこちらもAIには難しいのではないかなと思っています。

 

ITやAIが当たり前の環境になった未来を見据えるといったときに、多くの人がAIそのものを知ろうとしますが、むしろ僕たちは反対方向の、極めて人間的な部分に目を向けるべきだというのが僕の意見だったりします。

落合陽一先生が、(たしか)魔法の世紀という著書の中で、「人々はパソコンの中でどのような処理が起こって目の前の現象が起こっているかなんて気にせずに、当たり前のようにそれを利用している」と言っています。

AIに関しても、それ自体の見識を深めてどうやって勝つかみたいな議論ではなく、それが広がった世界を想像し、そこで必要なものを磨くべきだと思うのです。

で、僕なりに競争力になると思うのが「感情」と「文化」という言語化した時点で陳腐化する無形物。

もちろん電極を頭に刺して、感情を電気信号として集積するみたいなことをすれば、そこもAIの領域になるかも知れませんが(笑)、裏を返せばそうでもしない限り、最大の差別化要因として残るように思います。

僕が考えるその一例が上に挙げた和歌の訳なのです。

 

七夕をテーマに書こうと思ったのですが、最近吸収した内容に影響されすぎてしまいました(笑)

 

アイキャッチは落合陽一先生の『魔法の世紀』

 

魔法の世紀

魔法の世紀

 

 

社会に出るときに知っておきたい、自分の戦い方講座

どんな仕事であれ、一定の関わりをしていると自分の得意とする「戦い方」に出会えるように思います。

最近の僕の関心事の一つが、この闘い方論。

ビジネスでも身近な駆け引きでもそうなのですが、僕はその人が何を使って勝負するのが得意なのかで、以下の3パターンに分けられると思っています。

①が殴り合い型で②がシステム利用型、そして③が環境利用型です。

一つ目の殴り合い型とは、どんなフィールドであってもスピードと手数で相手を圧倒するタイプです。

起業家や若手敏腕営業マンみたいな人に多いのがこのタイプ。

このタイプの人はどんな分野であっても、素早く動き、相手より早く結果を出すことができます。

だから周囲から優秀な人、凄い人という評価をされがち。

一方で、速く、手数の多さが最大の持ち味なので、出てくる戦略時代に他には真似できない独自性はありません。

だから、常に先陣で闘い続けないと後続勢に追いつかれてしまいます。

 

2つ目のシステム利用型とは、既存のルールを対極的に理解して、そのルールを用いて有利に戦える方法を模索するタイプです。

ホリエモン高橋洋一さんあたりがこのタイプかと思います。

このタイプの人たちは普通の人が気付かないシステム上の穴を使っての勝負を好むので、しばしば「ズルい」と揶揄されます。

一方で、自分の力だけでなく、システムを見方につける姿から「頭がいい」という評価も受け取りがち。

良くも悪くも評価が分かれるのがこのパターンです。

 

3つめの環境利用型は非常に稀です。

常に俯瞰的に物事をみて、絶対に周囲に追いつかれないという要素をしっかりとそろえてから戦おうとするのがこのタイプ。

最も敵に回すと厄介なタイプです。

僕の中では西村博之さんあたりがこのタイプ。

環境を見方につけるので、最も効率的に自分の本来の能力以上の結果を引き出すことができます。

一方で、そうそう環境要因で勝負できる場は無いので、必然的に手数は少なくなる。

 

こうした3タイプはざっくりとその人の性格で向き不向きを考えることができます。

例えば、人との競争や他人から認められることが生きがいになっている人にとっては、①のタイプが最も向いています。

或いは行動力や熱量には自身がない代わりに、自分の考えた法則やロジックには人一倍自信があるという人は②に向いています。

さらに、自分の野心は殆ど無く、ただありのままの社会を観察したいみたいな人は③の闘い方が向いています。

 

別にこうした3タイプに優劣があるわけではありません。

単純に自分に向いている闘い方があり、違うフィールドで無理して戦うのはしんどいよねとうお話。

みなさんはどんな闘い方を得意としていますか?