新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



大塚愛プラネタリウム考察~「泣かないよ」と「泣きたいよ」に表れる主人公の本音を読む~

ここ最近、「大塚愛さんと見立ての系譜」というテーマで大塚愛さんの曲ばかりを聞いていました。
本当は『さくらんぼ』『PEACH』『CHU-LIP』辺りを題材に大塚愛の「見立て」のクセについてまとめていこうと思ったのですが、掘れば掘るほど分析する視点が多くて全くまとまらなくなってしまいました(笑)
そんなこんなをしているうちに、『プラネタリウム』が流れてきて、久しぶりに聞いたらどっぷりハマッてしまったので、今回はこちらについての考察をまとめてみたいと思います。

この歌に関して、大塚愛さん自身は「あんまり思い入れもなく作った」と言っていますが、本人の気持ちが投影されているかどうかは別として、僕はひとつの物語として非常にいい曲だなあと思っています。
(余談ですが、大塚愛さんの曲を見ていると、「やっつけ感」がある曲の場合はストレートに感情が描かれている場合が多く、反対に時間をかけているなと思う曲は情景描写が巧みで気持ちを表すときにも非常に繊細な言葉選びがされていて面白いです…笑)
この『プラネタリウム』という曲は解釈を巡って様々な説が流れていますが、僕は「若い頃に死んでしまった彼氏を思い出す主人公」について歌った曲であると考えています。
(繰り返しますが、それが大塚愛さんの体験に基づいているとかいう話ではありません。)

〈夕月夜 顔だす 消えてく 子供の声〉
僕はこの出だしが非常に気に入っています。
Aメロの初めの段階で月が顔を出すという視覚情報と子供が家に帰る時間ということを声という聴覚情報で伝えています。
たった4小節、文字にすれば14字で聴覚情報と視覚情報を混ぜ、どのくらいの時間帯であるかを伝えてしまうこの出だしは凄いと思います。
そして直後で主人公の(おそらく)女性の〈この空のどこかに 君はいるんだろう〉という心情が描かれます。
僕は「君」が死んでいると思っていて、その根拠はまたあとで出てくるところで述べますが、この表現からもうっすら今はもういない人であるということが漂っています。
そして1番の2回目のAメロで二人の思い出の公園にいることが描かれます。
〈夏の終わりに2人で抜け出した〉〈あの星座 何だか 覚えてる?〉という歌詞の「抜け出した」という部分から、まだ様々な制約のある年齢ではないかと推測することができます。
(成人の2人では「抜け出す」と表現する必要性がありません。)

Bメロで〈あの香りとともに花火がぱっと開く〉とあるのですが、僕はここで「花火」が出てくることに注目しています。
Aメロでは彼との思い出は「夏の終わり」です。
にも関わらずここでは花火の日に彼を思い出している。
花火は多くの場合お盆の時期に打ち上げられます。
ここには「鎮魂」の意味や送り火の意味があると言われるのですが、『プラネタリウム』における花火もこの文脈で捉えるのが妥当でしょう。
ここから(他にも根拠はありますが)、この歌は亡くなった恋人を想う歌だと思っています。
また、内容とは別に歌の進行として一瞬で消える「花火」というモチーフを挟むことで、感覚的にサビに入る手前の「間」を表現する効果もあるように思います。

そしてサビに入ると〈行きたいよ 君のところへ〉というように、あなたに会いたいという気持ちが表現されます。
そしてサビの後半では〈数えきれない星空が 今もずっと ここにあるんだよ〉と、再び視覚情報が入ります。
そして、それを踏まえて〈泣かないよ 昔 君と見たきれいな空だったから〉と主人公の内面が描かれる。
ここはきれいな空だから(涙で)滲ませたくないという気持ちと、もう前を向いているという主人公の気持ちが描かれていると考えればよいでしょう。

2番のAメロは聴覚情報による思い出から入ります。
このパートは後半部分の〈大きな 自分の影を 見つめて 想うのでしょう〉というところに注目すべき部分です。
歌詞の表記が「想う」となっているため、「あなたのことを想う」という解釈が妥当です。
この部分を恋人は亡くなってしまっているという前提の下、「自分の大きくなった(比喩的に成長したと考えてもいいと思います)影をみてあなたのことに想いを馳せる」と考え、前の「耳に残ったふたりの足音」と合わせて考えれば、若いときに二人で歩いた様子と、1人だけ成長した自分の影をみて不意に「あなた」を失った喪失感が描かれます。
因みにここで「影」がはっきり見えているところから、1番で「顔を出し始めた(=日暮れ直後)」からの時間の経過が読み取れ、さらに1番で「子供たちの声が消えていく」という表現から雑音が無いことがさりげなく示されることで「足音」という表現が生きてきます。
しかも、「影を見つめる」という部分から、主人公は下を向いている(=悲しさやつらさがある)ということも読み取れます。
この辺の描写の運びが本当に上手だなあと思います。

そして、2番のBメロ。
〈ちっとも 変わらないはずなのに せつない気持ちふくらんでく どんなに想ったって 君は もういない〉
変わらないはずなのに切なさは増えていくという部分には、「気持ちはあのときと同じつもりなのにあなたがいなくなってから確かに時間が流れていることを実感して悲しくなる」という主人公の気持ちが表れています。
そして〈君はもういない〉というところで既に恋人は亡くなっているのだろうという印象が強くなる。

そして2番のサビに入ります。
〈行きたいよ~小さくても小さくても〉の部分で描かれる「小さくても」は星に投影している(=亡くなった)恋人に会いたいと解釈ができます。
サビの後半で再び〈泣かないよ〉という恋人に対する「約束」が出てきます。

そして最後のサビに向かうための3回目のBメロが登場します。
1番のBメロと同様に花火の描写が入ります。
そして、音楽的にはすぐにサビに入らず、1小節空白が作られます(そこに打ち上げ花火の音が挟まれる)。
そして、転調する最後のサビに向かいます。
ここでの2度目の「花火」の描写によって、時間経過が表されています。
そしてその後の転調のおかげで、さも花火大会が終盤に向かっているという印象を与えてくれます。

そして転調したあとの最後のサビ。
〈泣きたいよ それはそれは きれいな空だった〉
これまでは〈泣かないよ〉と「あなた」に対して語っていたのが、最後のサビでは「泣きたいよ」と自分の心情をこぼしています。
1番2番で出て来た空は〈昔君と見たきれいな空だったから〉という表現から「今」見ている空であることが分かります。
それに対して「泣きたい」と言っているここで表される〈きれいな空だった〉というのは明らかにあなたと見た「過去」の空のこと。
今見ている空は昔あなたと見た空のようにきれいだけれど、あなたがいないという事実を思い出すたびに、過去の空を思い出す。
ここで主人公の「あなたがいない世界にも慣れてきた」と強がっているけれど本当は全く立ち直れていない本音がこぼれます。

以上のような構成の『プラネタリウム』という曲。
ここまでで、構成や言葉選びにより表現したかった作者の意図のようなものを考えてきましたが、僕が何より凄いと思うのは、この曲の中で「悲しい」や「うれしい」といった直接的な感情表現は一つも出てこないところにあると思っています。
せいぜい出てくるのは「好き」という言葉が一回だけ。
にも関わらず、歌全体から感情がにじみ出ている。
大塚愛さんというとアップテンポで直接感情を表した曲の印象ですが、この曲や『恋愛写真』、そして『クムリウタ』のような、感情を描写だけで描くことにこそ彼女の真骨頂があるように思うのです。

 

アイキャッチは『プラネタリウム』は入っていないけれど僕が一番好きな大塚愛さんのアルバム。 

LOVE PiECE

LOVE PiECE

 

 

芸術作品に見る「常識」と養い方

daguerreotypeの写真が当然であった時代の人々にとっては、現代の街を行き交う人々が写っている写真は極めて不自然なものに見えるだろう。

これは昔、東大の英語入試で出題された文章の一部を和訳したものなのですが、僕にとってこの文章は芸術や文化に興味を持つきっかけになったもので、未だに強く印象に残っています。

当時のdaguerreotype、つまり銀盤写真では、カメラの前で長時間動かずにいることで写真に写ることができました。

f:id:kurumi10021002:20180227011537j:image(ウィキペディアより引用しました)

だから、例えば町の写真を撮ろうとしたら、上の図のように動いている人々は写真に写らず、止まっている都市の風景だけが写ることになります。

だとすれば、そういう写真が「常識」の人たちにとっては、「数時間止まったままにできない存在は写真に写りこまない」というのが「当たり前」になるわけです。

であれば当然、スマホを取り出してボタンを押しっぱなしにするだけで連写ができる現代の僕たちとは世界の見え方が当然違うはずだし、それによって導き出されるアウトプットも違うものになるはずである。

この文章を読んだときにそんなことを思い、以後作品に現れる見え方の「常識」みたいなものを集めています。

 

現代との見え方の違いという観点から面白いと思うのはカイユボットの『Paris Street; Rainy Day』という作品です。

f:id:kurumi10021002:20180227012153j:image

(ウィキペディアより引用)

ご覧の通りこの作品には雨の降るパリの街並みが描かれているわけですが、そこには僕たちが雨を表す際に使う細い線で描かれたような「雨」はありません。

チームラボの猪子さんはこの絵と、その数年後、日本の浮世絵から「雨を線で描くといい」ということを学んだ後の絵を引き合いに出し、ジャポニズムが広がる以前のフランス人の文化においては、雨は線で捉えるものではなかったのではないかという仮説を立てていますが、おそらく文化という意味ではその通りでしょうし、雨が線に見えない文化を知ろうとする上で非常に学ぶことが多いのが、このカイユボットの作品であるように思います。

 

アラン・ルノーの『個人の時代』には(確か)昔の作品に描かれる、「着ている洋服に関しては細部まで描かれているのに対して被写体の顔が曖昧である」ということを以って、「この時代には『個人』という認識がなかったのではないか」と結論づけていますが、これも上の例と同様にその通りで、同時に作品に現れるように、当時の人々にとっての社会の見え方が反映されているように思います。

 

視点を日本に向けてみれば、小林一茶の「手向くるや むしりたがりし 赤い花」という俳句からも、当時の文化背景をうかがい知る事ができます。

この歌は、一茶が死んだ自分の娘を題に詠んだ歌なのですが、これを理解するためには江戸時代の「時間感覚」を理解する必要があります。

一茶がこの歌を詠んだときは、生とは向こう側の世界から形を持って現れるものだという認識が常識でした。

だから植物の開花は、ない世界からある世界への新たな命の芽吹きを表し、それを積むのは忌むべきことだったわけです。

唯一花を積むのが許されるのは、死者に対する手向けをするときだけ。

一茶が詠んだ「君が小さいころむしりたがった花を、君が死んでしまったからやっと摘んで墓前に飾ってあげられる」という歌の意味に込められた悲しみは、こうした 当時の価値観を知ることで初めて理解できるわけです。

 

僕は芸術の強みはここにこそあると思っています。

芸術に触れ、当時の人々が芸術に込めた意図や思想を理解しようとすることで、初めてその時代の価値観がわかり、作者がその作品で言わんとしたことも理解ができる。

芸術にはそんな、僕たちを常識の外へ連れて行ってくれる機能があるように思います。

新大学生が好待遇なバイトを探す5つの方法

この時期進路が決まった生徒さんが挨拶に来てくれることが多く、1年は早いものだなあと感慨深くなるのですが、そんな生徒さんからよく、「どんなバイトをしたらいいか?」ということを聞かれます。

 で、この前もそんな質問をされたのですが、その時にふと考えたら、僕は今まで「求人サイトに応募してバイトを探す」という経験をした事がなかったことに気がつきました。

というか、今もメインでお世話になっている塾の他にもう一つお仕事をさせてもらっていたり、ライターのお仕事をしたりNPOに関わったり、他にも諸々単発長期を問わなければ色々やっているのですが、いずれも自分から求人サイトで見つけてくるという過程を踏んだものではありません。

だから、僕にとって「バイト探し」をサイトで行うこと自体が極めて不自然なことだったりします。

そんな話をしたら、その生徒さんから逆にサイト以外でどうやって探すのと言われ、ここの認識ギャップが面白いと思ったので、僕が今学生でバイトを探すならという切り口でバイトの探し方を考えてみたいと思います。

 

求人サイトしか探す方法が無いは思い込み

まず、だいぜんていとして大前提として僕は「求人サイトによるバイト探し」は最終手段だと思っています。

これは決してネガティヴな意味で言っているのではなく、その前にもっと効率のいい探し方があるよねというお話です。

 

僕自身がこんな生き方をしているということもあり、周りには自分で会社を起こしたり、団体を立ち上げたりということをしている人が多いのですが、彼らの組織ではたいていバイトを雇っていて、待遇を聞く限りコンビニやチェーンの居酒屋よりもずっといいバイトであると思うものばかりです。

でも、彼らは当然求人サイトになんか募集は出していません(というか出す予算はない)。

だから僕はそもそも面白くて好待遇なバイトにたどり着きたいのなら、求人サイトとは違うアプローチをとるべきだと思っています。

 

僕がバイトを探すのならおそらく下のような順番でアプローチをかけると思います。

①向こうからオファーがある

②よく行くお店に頼む

③親類・知人に紹介してもらう

④自分の足で歩いて店前の求人募集を探す

⑤求人サイトを見る

求人サイトを見るのは①〜④で上手くいかなかった時。

多分この方が結果的に面白いバイトにたどり着ける気がします。

(もちろん「制服がかわいい」とか「その職業がやりたい」とかなら求人サイトが1番の近道です。)


フェーズ別アプローチの仕方(前編)

まず①の向こうからオファーがくるというものについて。

高校を卒業したばかりの人にそんなもの来るわけないと思うかもしれませんし、実際殆どの人にこのパターンはありません。

ただ、中にはよく行っていたカフェのマスターから誘われたりとか、習い事をしていた教室から誘われたりということがあります。

っというか、うちの塾もたまにありますし、僕が学生時代にバイトをしていた塾でもありました。

経営者側がこの子に働いて欲しいと思えば当たり前ですが声をかけますし、その場合はたいてい待遇がいい上に居心地もよくなります(何と言っても向こうから誘っているわけですから!)。

だからまず自分の周りに①が転がっていないかを探すのが先決です。

 

①がなければ次に行うのが②のよく行くお店に頼むというものです。

よく行く文房具屋さんや立ち寄るカフェみたいなところに頼むという手法です。

或いは通っていた習い事の教室から①のように向こうから声がかからなくても、こちらから頼んでみるとか。

人手が足りないタイミングで、関係が良好(こいつに頼めば大丈夫という信頼関係がある)ならば十中八九雇って貰えます。

これはコンビニなどでも同じ。

実際に僕の友達の何人かは、塾で毎日使っていたコンビニの店長と仲良くなっていて、大学で地元を離れるまでの間や、長期休暇の間だけ雇ってもらうみたいなことをしていました(笑)

これなんか、一般的に大変と思われるコンビニのバイトなのに好待遇で迎え入れられた例です。

 

フェーズ別アプローチの仕方(後編)

ここまでのやり方が自分の信頼を使ってバイトを探す方法なので非常に効果的な方法なのですが、一方で高校生の段階でそんな信頼を勝ち取っている人は稀です。

そんな場合に有効なのが③の親類・知人に紹介してもらうという方法です。

親類の仕事場や親類の知り合いの仕事場、或いは友人が働いているバイト先などに自分を紹介してもらえないか頼んでみる。

基本的に「コイツなら紹介してもいい」と思われていなければ紹介してもらえませんし、紹介された側も紹介者の信頼を担保にしているため、比較的好確率で好待遇なバイトにたどり着けます。

知り合いに仕事を紹介してもらうというのは当人が紹介者の信頼を勝ち得ていて、その信頼を元本に紹介者が信頼を得ている人に紹介してくれるわけなので、直接自分が求人側に信頼されている場合には及ばなくとも(時にはそれ以上にレバレッジがかかることもある)、それなりのバイトにたどり着ける可能性は高いわけです。

 

人づても見つからない場合は、今度は自分の足で探します。

自分が働きたいあたりを回って見て、いいなと気になるところがあったらそこを訪ねてみる(個人経営がオススメ)。

向こうが求人広告を出してくれているわけなので、欲しいと言っている人に「僕はどうですか」と営業をかけに行くイメージです。

優秀な営業マンだと同じ商品でも売り上げが全然ちがうのと同じように、清潔感のある服装で爽やかな印象、そして礼儀正しくハキハキ見えればかなりの確率でいい印象を持ってもらえるはず(そこは本人の心がけ)。

また、ここでいう「足で探す」とは、実際に歩くことには限りません。

ウェブで求人サイトを使わずに興味のあるものを探してみるというのもここに該当します。

求人サイトにはなっていないけれど、自分のウェブサイトに求人を出しているという会社にとって、自らたどり着いてくれた時点で、多少興味があるのではと思ってもらえるはず。

そこで上に書いた清潔感×爽やか×礼儀があればやはり好確率でいい待遇に出会えるように思います。

 

求人サイトで探すのもいいけれど

以上のように、バイト探しと一口に言ってもいろいろな方法があります。

少なくとも僕がパッと思いついただけでも(このエントリはある生徒さんと話していたときにパッと思いついて説明したものを書き起こしたものです)上の5パターンが出てきます。

もちろん求人サイトで探すのもいいと思いますが、その中からラクで楽しくて時給のいい仕事を見つけるのはなかなか難しいと思います。

・・・そもそも求人サイトに掲載している時点で、雇った瞬間に掲載料金分は働かせようと思うわけですし(笑)

僕はバイトを探す軸が「ラク」でも「時給」でもないので、正直こうした基準で選ぶのはよくわかりませんが、確かにラクな仕事も時給がいい仕事もたくさん存在します。

ただ、それにたどり着くには①〜④の方法でないとかなり難しいのではないかと思うのです。

バイトを探す新大学一年生の方の参考になったら幸いです。

 

アイキャッチは「愛されニート」という生き方が書いてある岡田斗司夫さんの「僕たちは就職しなくてもいいのかもしれない」という本。

僕たちは就職しなくてもいいのかもしれない 電子版

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デジモン世代だけが持つ武器!?20代後半〜30代前半だけが圧倒的活字耐性を持っている

日本語の語彙を増やすために、日本語を観察するために、間違いに気づすために、そして、人と同じ過ちを犯さないためにも、聞くことをなおざりにはできない。

ふと手にした野口圭子さんの「かなり気がかりな日本語」(集英社新書)という本に、こんなことが書かれていて、この本が2004年に出版されたということを知り、僕たちの情報処理活動は90年代後半からゼロ年代前半にかけてだけ「例外的に」文字情報が中心の生活だったのだなあと思いました。

10年代後半を生きる人間は、ウェブ環境の急速な発達とスマホの普及により、波形情報、つまり音と映像の情報に囲まれて生きています。

電車に乗ればほとんどの人がイヤホンをつけていますし、ふと除くと結構な人がスマホゲームをしていたり、youtubeで動画を見たりしています。

今の僕たちが情報を取り入れる間口は、圧倒的に映像情報(画像情報を含む)と音声情報です。

一方25年くらいさかのぼってみると、一般にはインターネットが普及しておらず、携帯電話も広がっていなかった時代を振り返ってみると、やはりその時も私たちの情報処理活動は波形情報が中心でした。

家に帰ればテレビを点けたり、CDコンポで音楽を流しておく。

こんなライフスタイルが定番であったように思います。

僕たちは基本的にずっと映像と音声に囲まれて生きてきたというのが僕の解釈です。

 

インターネット成長期だけ一時的に訪れた文字情報の社会

 

基本的に映像情報と音声情報に囲まれて生きてきた僕たちですが、パソコンが一般家庭に普及し、ウェブ環境が整いつつあった90年代後半からゼロ年代前半にかけてだけは、圧倒的に文字情報に触れる機会が多くなります。

パソコンが普及したために触れられる情報量が圧倒的に増えた一方で、インターネットの技術がそれほど進化していなかったため、技術的な制約があり、ウェブ上の情報は文字情報が溢れかえっていました。

また、携帯電話もコミュニケーションはメールが中心ですし、そこからウェブにアクセスしたときもパケットなどの制約上、得られる情報は活字ばかりでした。

ゼロ年代半ばくらいから急速にウェブ環境が整い、youtubeのようなサービスが生まれた辺りから急にウェブ空間には動画やビジュアル情報が増えるようになり、その動きは10年代前半にスマホが発売されたことで決定的になりました。

こうやって見てみると、僕たちの生活に活字が溢れていたのは、環境が生み出した例外的な状況で、90年代後半〜ゼロ年代前半の特徴であるように思うのです。

 

デジタルネイティブの最大の武器は圧倒的活字感覚にある

 

僕は自分たちの世代ならではの武器は何かということを頻繁に考えているのですが、上のように90年代後半〜ゼロ年代前半だけが例外的に文字情報に溢れる社会であったとするなら、その時代を生きた人は圧倒的に文字による情報処理をしてきたということになります。

そしてその時代に幼少期を過ごしているのは僕を含む今の20代後半から30代前半の人たち。

いわゆるデジタルネイティブと呼ばれる世代です。

時代の流れの中で技術の制約上一時的に文字情報溢れた期間に偶然幼少期を過ごしたこの世代だけが、他の世代と比べて圧倒的に文字情報に触れ、文字情報を処理することが肌感覚として染みついているように思うのです。

僕たちの世代は、とにかく文字ベースでコミュニケーションをして、文字ベースで娯楽を探すことに長けています。

(というかそれしか道具がなかった)

当たり前のようにLINEやTwitterとは違うそこそこの文字数のメールというコミュニケーションツールでやりとりをしていたし、プロフやmixiのようなサービスで誰もが普通に日記を書いたりしていました。

だから、振り返ってみればこの世代は(論理的な文章などは別としてつ)文章を書く能力が平均的に高いはずです。

 

文字ベースの思考とデジタルネイティブ生存戦略

現代は圧倒的に映像情報と音声情報が身の回りに溢れ、相対的に文字情報に触れる機会が減りつつあります。

今の子どもたちを見ているとそれは明らか。

今後もこの傾向は続き、基本的には文字情報を中心とした文化に戻ることはないと思います。

身近な環境にどのような情報が溢れているかは、思考方法に直に影響を与えます。

文字ベースで思考する人と、ビジュアルベースで思考する人では、同じものに対して考えたとしても出てくるアウトプットは異なるでしょう。

今後ますます映像ベース、音声ベースの思考をする人が増えてくるとしたら、相対的に文字ベースに思考する人の割合は少なくなっていきます。

だとしたら、使い方によってはそれ自体が大きな差別化要因になるように思うのです。

この辺りが僕を含む20代後半から30代前半の生存戦略を考えるときのポイントになってくるのではないかと思う今日この頃。

環境の関係で偶然手に入れることができたこの「差異」を最大限有効活用する方法を考えぬくということは、結構重要なことであるように思います。

 

アイキャッチはまさにデジタルネイティブの世代しか知らないのではないかといわれるデジモン(笑)

 

 

成果が出なくても努力し続けられる期間を自覚する

成果を上げるには、自分が成果が出ると想定している10倍くらいの努力が適正値である。

これが僕の努力に関する考えでした。

例えばこれは僕の印象値ですが、受験勉強をして「私頑張っています」という人は、毎年同じレベルの学校を目指し受かっていった人と比べると大体そのストイックさは1/10にも満たないくらいの感覚です。

努力をしていないわけではありませんが、そもそも当たり前の基準が足りていない。

もちろん勉強に限らず、あらゆることも同様です。

だから、それこそ幻冬社見城徹さんではないですが、結果を出したいのであれば圧倒的な努力をしろと思っていました。

 

ただ、僕はここ最近努力について、もう一つ重要な指針があるのではないかと考えています。

それが「成果が出なくても頑張れる期間を知る」ということです。

確かに何かしらの結果を出したければ圧倒的な努力が必要である(しかもその努力は無駄になる可能性も覚悟する)ことは間違えないのですが、一方でいつ来るかもわからない(場合によっては無駄になるかもしれない)投資を成果に結びつくまでやり続けるということはなかなかできないと思うのです。

成功するまで圧倒的努力を続けられるのは根性でも才能でもなく、単純な適性のお話。

偶然、そういうやり方ができた人の「結果が出るまで耐えられるスパンが異常に長かった」というだけのことだというのが僕の最近の考えです。

 

そういった「適性」がある人しか成果を上げられないのかと言えば、決してそんなことはありません。

自分の「結果が出るまで耐えられるスパン」が短い人は、単にそのスパンの中で結果が出そうな段階に、目標を分割してあげればいいわけです。

 

こういう文脈の場合、有り体の自己啓発書であれば、「だから目標を細分化しましょう」という話に繋がると思うのですが、僕はそれとはちょっと違うアプローチが重要であると思っています。

それが、自分にとって結果が出なくても努力を続けられる期間を正確に把握するということです。

これさえできていれば、あとはやりたいことを常にその期間より短くて結果が出るであろうレベルに下げて、ひたすら積み上げていくだけ。

nという期間で努力ができる人がいたとして、それよりも1/6の期間しか成果の出ない努力に耐えられないという人は、(a+b+c+d+e+f)というように6コ積み上げればいいだけの話なのです。

 

「成果が出なくても努力できる期間」という軸で社会をみると、大抵は1週間〜1ヶ月くらいの所に落ち着き、優秀と呼ばれる人は半年〜1.2年、いわゆるリーダーと呼ばれる人は2〜5年くらいであるように思います。

それよりスパンが短い人はいわゆる「落伍者」的に思われ、反対に10年くらいのスパンで頑張る人は「仕事が遅い」とか「マイペース」みたいな評価がされます。

大体2〜3年を最大値とした上に凸の2次関数的な評価がなされるというのが僕の印象です。

2〜3年の努力を積み上げた先の成果が最も評価されるのであれば、それより短いスパンでしか耐えられない人も、積み上げにより追いつくことは不可能ではありません。

(流石に10年スパンで頑張る人に1月の努力の人が120積み上げるというのは難しい気がします)

というわけで努力に関しては、圧倒的な努力と自分が成果が上げられずに耐えられる期間を知ることが重要であるように思うわけです。

 

時間がないので今日はマジでたんに思いついたこと(笑)

見せ方による価値の作り方の類型とその事例10選

価値の生み出し方には色々ありますが、僕は最近「見せ方」による価値の創出に注目しています。

希少性が高いから価値になる、ニーズがあるから価値になる、手間がかかっているから価値があるetc...

こういった価値と同時に、「見せ方が上手いから価値になる」というのがあると思うのです。

この話をする時、僕がいつも具体例として書くのがみうらじゅんさんの「地獄表」です。

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こんな感じで1日のバスの本数があまりに少ないバスの時刻表のことを、バスを逃すと地獄をみるというところから「地獄表」と名付けて集めて(確か)本にしました。

もともと、「極端に本数の少ないバスの時刻表」には何の価値もありません。

しかし、「地獄表」というなるほどと思う名前をつけて、それに該当するものを集めることで、多くの人が興味を持つ(=価値のある)コンテンツにしてしまっているのです。

これが見せ方による価値の創出です。

 

価値の作り方①名付け型

見せ方による価値の創出には、大きく分けると①名付け型と②因数分解型と③再解釈型の3パターンがあります。

一つ目の名付け型は上に上げたみうらじゅんさんの「地獄表」のパターン。

もともとは何の価値も無いものなのに、名付けをすることによって魅力的なものとなります。

小池百合子さんが作ったクールビズという言葉もここに該当します。

それまでは「ネクタイをつけない」だけだった(だらしないとも思われる)見た目に、「クールビズ」と名付けることで、ポジティブなものとして社会に定着させました。

或いはハイボールもそうだと思います。

ハイボールも元はただの「ウィスキーのソーダ割り」です。

ウィスキーだと頼むのにハードルが高い人にも、ハイボールなら全く違う、気軽なイメージを与え、頼みやすくなっています。

こういうタイプが名付け型に該当します。

 

価値の作り方②因数分解

 二つ目の因数分解型は、既にある物を自分なりの味方で繋ぎ合わせることで新しいジャンルを作り出す方法です。

例えば、社会にab、bc、caという3つのコンテンツが存在していたとして、今の社会ではbに注目してカテゴリ化されている(上の例なら[abとbc]とcaというイメージ)ものを、bやcに注目して集めてみては?と提案することで新しいジャンルを生み出します。

これが因数分解型。

ここに該当する例としてはコンビニアイス評論家のアイスマン福留さんが分かりやすいと思います。

アイスマン福留さんはコンビニアイスを徹底的に食べ尽くし、コンビニアイス評論家というカテゴリにしました。

コンビニアイスという要素で社会を区切り、それを集めることで「コンビニアイス評論」というジャンルを作っているわけです。

こんな風に一つの要素(因数)に注目して数を集めることでジャンルとして確立するのがこの因数分解型です。

例えば、唐揚げアイドルの有野いくさん(「唐揚げ」というジャンルを作ろうとしている人としてしか知らないのでもしかしたらアイドルじゃないかもしれません)やモノマネメイクのざわちんさんなんかもここに該当します。

あとはTwitter界隈だと、日本にある面白い地名をつぶやくおもしろ地理さんやプラレールで本物の駅を再現した画像をアップしているプラレール宿の松岡さんなんかもそう。

こういう、要素を決めてひたすら集めている人がここに該当します。

 

価値の作り方③再解釈型

最後の再解釈型とは、既にあるものに違う意味性を与えることで価値にするパターンです。

このパターンでは、刻み海苔はさみのエピソードが有名です。

 

パール金属 彩創 きざみ海苔ばさみ 5枚刃 HB-655

パール金属 彩創 きざみ海苔ばさみ 5枚刃 HB-655

 

この刻み海苔はさみは、もともと少量の個人情報を含む文書を安全に捨てるための「手動シュレッダー」として売り出されていたのだそう。

しかし全く売れませんでした。

それを、細かく裁断できるという部分に注目して、今度は全く同じ商品を「刻み海苔専用はさみ」として売りだしました。

そうすると急に売れるようになったのです。

コンテンツそのものは全く変わっていないのに、用途(=解釈)が変わったことで全く違う商品として受け入れられています。

このように、消費者に対して違う解釈を見せるのがここに該当する価値のつけ方です。

 

最近だと前田裕二さんが代表を務めるShow roomというサービスがここに該当します。

Show roomのサービス自体は投げ銭型の動画視聴サービスで、それほど新しいものではありません。

しかし、前田さんは投げ銭サービスを「路上ライブでお金を渡す感覚をウェブ空間で再現した」と表現することで、

ややもすると配信者が視聴者にお金欲しさに媚を売るような印象を与えかねないサービスを、「路上ライブ」と表現することで、あくまで視聴者と演者の立ち位置が(イメージの上では)逆転してしまわないようになっています。

昔の例を挙げるならエジソンの蓄音機もそうです。

エジソンは元々蓄音機を「遺言を音声で残す装置」として発明しました。

優秀な広告のコピーなどもここに含まれます。

しかし全く売れず、後の人がこれを「音楽鑑賞器」として売り出すことで爆発的に広がったのだそう。

これが再解釈による価値のつけ方です。

 

 今の社会で求められるのは見せ方で価値を生み出せる人

商品も情報も溢れている現代において、上に挙げたような言葉の力で価値を生み出せる能力に対する需要は絶対的に上がってくるのではないか。

数年前にそんなことを思って興味本位でストックしていたものが大分溜まってきたので、1度まとめてみました。

まだまだサンプル数も少なければ、体系化も不十分なので、今後も定期的にまとめてみたいと思います。

 

アイキャッチは僕が尊敬する前田裕二さんの「人生の勝算」

 

人生の勝算 (NewsPicks Book)

人生の勝算 (NewsPicks Book)

 

 

 

貨幣と世間とSNS〜「信用」をキーワードにお金について考える〜

貨幣とは何か?

 最近「貨幣とは何か?」みたいなことについて、あれこれと考えています。

経済学の定義でいけば、価値保存、価値尺度、価値の交換ができる便利なツールということになるのですが、僕はざっくりと説明するのなら、堀江さんや西野さんがいっているような、「貨幣とは信用の証明である」というのが最もしっかりくる説明であるように思います。

例えば知人に対してなら、仮に商品Aというものを「今度なんかで返してや!」っていって渡したとしても、かなりの確率で「お返し」が来るはずです。

もし私と知人の関係は、両者の間、そして両者が所属するコミュニティの中での信頼関係によって成り立っているわけなので、それを反故するということは起きづらくなります。

しかしながら、2人に全く接点のない場合は、こうした「信頼による担保」が生じ得ません。

そのため、商品の売買などの際には第三者に介入して貰うことで、信頼の保証を求める必要があります。

この第三者としての保証人が貨幣だと思うのです。

例えば、日本円であれば、「日本国」がその価値を担保してくれています。

或いは仮想通貨の場合は、仮想通貨使用権の人々がその価値の保証人になっている。

このように、全く接点のない人の間にも「信用」の保証をしてくれる働きこそが、通貨の最大の役割だと思うのです。 

信頼の保証を貨幣の価値としたときのコスト

さて、通貨の最大の役割が信用の保証にあるとしたら、既に充分信頼関係が成立している人同士の間の交換に関しては、一旦貨幣というツールを通し、第三者の担保を仲介させるのは、コストなのではないかというのが最近僕の考えている事です。

例えば、70年代の様子を描くドラマなどに出てくる「隣の家に醤油を借りる」、(代わりに後日お隣さんが困っていたら手を差し伸べる)という交換ができるとしたら、そこにいちいち貨幣を介在させるのは手間にしかなりません。

「醤油大さじ2杯分だから2円ね」みたいな形でお金のやり取りをしていたら鬱陶しくて仕方がありません。

こういう、十分に信頼関係が保証されているコミュニティにおいては、わざわざ改めて第三者による信頼の保証(すなわち貨幣の介入)を介さずに交換した方が圧倒的に低コストなのです。

 

もちろん、価値の大きな商品の交換に関してはこうはいきません。

例えば3000万円くらいの家を「今度助けて」なんて言って立てて貰うことはできないのです。

せいぜい「コミュニティに所属している」ということで信用が保証できるのは数千円〜数万円程度。

それ以上の交換に関しては、貨幣による第三者の保証を介した方がリスク>コストとなります。

というわけで、僕がここで話しているのはマイクロエコノミーとでも言うのか、極めて小さな交換におけるお話であるという前提はご了承下さい。 

西欧的「社会」VS日本的「世間」

阿部謹也『「世間」論序説』によると西欧には社会があり、日本には世間があると述べています。

社会というのは個人一人ひとりの努力によって作り上げられるひとカタマリのコミュニティ、それに対して世間は無限に存在する、そこに「いる」人たちの関係によって成立する小規模なコミュニティであるとしています。

(「コミュニティ」という言葉を使っていたかは覚えていませんが...)

例えば、混んでいる電車に乗った女の人が隣の席が空いた時、遠くから友人を呼んできて、「座れてよかったね」と喜んでいる時には、その2人にとって、車内に同乗している人たちは完全に無視されているわけです(同著より引用ですが、やや書き方は違ったかもしれません)。

これが「世間」です。

世間は社会を無視する代わりに、同じ世間の中にいる人とは極めて強い関係を結ぶことになります。

とするのなら、世間の中では貨幣を介さない交換が低コストになるのではないかと思うのです。

成熟したSNS空間は「世間」を作る

SNSが普及したことで、ウェブ上には様々な「新たな世間」といえるようなものが生まれています。

LINEやメッセンジャーのグループがまさにそう。

また、こうした繋がりの先に、シェアハウスやサロンのような、ウェブ空間的な繋がりを物理的に落とし込んだ空間も登場しつつあります。

これも形態をみれば「世間」と言えるでしょう。

小規模の交換において、既に信用の担保がなされているコミュニティ内でのやり取りならば、貨幣を介さない方がコストがかからないという先ほどの僕の仮説は、こうした新たにできつつある「世間」でこそ機能するように思います。

シェアハウスで「ちょっとご飯作りすぎたからよかったらどうぞ」とか、「駅まで行くから送ってく?」みたいなやり取りは、貨幣システムが浸透したり、高度経済成長を経験するなかでどんどん失われていきましまが、インターネットというツールが再びこうしたコミュニティを生み出しつつあるように思うのです。

(それに敏感になれず、SNS上で他者の批判をしている人もいますが...)

 

作家で思想家の東浩紀さんは、『弱いつながり』の中でインターネットには情報検索機能と他者とのコミュニケーション機能の2つがあると言っていました。

その、後者の機能の価値に気づき始めているのが、新たなコミュニティを作り始めている人たち。

その中で貨幣を保証人としない価値の交換が生まれるのは、ある程度起こりうることであるような気がします。

 

アイキャッチはモースの贈与論

贈与論 (ちくま学芸文庫)

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