新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



イケメンの研究①プロローグ〜なぜイケメンは「イケメン」なのか

僕はイケメンが好きです。

というか、モテる男の人と他愛もない話で盛り上がるのが好きという方が正しいかもしれません。

(でないとあらぬ誤解を招く気が...笑)

僕は高校時代からなぜかずーーーっとイケメンの友達がたくさんいて、なぜか気が合い、イケメンの素に触れてきました。

自分でいうのもおかしな話ですが、女の人だったらむちゃくちゃ羨ましいポジションであったように思います(笑)

 

周りからモテて、いわゆるイケメンと呼ばれる男友達を「最前列」で見続けているうちにふと、僕は周りからイケメンと言われている人も、実は本当のイケメンは少ないのではないかと思うことがありました。

もちろん、平均と比べれば(それこそ僕なんかと比べたら)はるかにカッコいいのですが、写真や動画を通してしか知らないアイドルや俳優のような「イケメン」と比べると、そこまで超絶カッコいいという人は案外いないように思ったのです。

グループでわいわいやっている時は、テレビで見るカッコいい人たちよりもずっとイケメンに感じるのに、サシで冷静に顔を見る場合はわいわいしている時に感じたほどにはカッコよく見えない。

そんな感覚を何度も経験しているうちに、僕は「イケメンは振る舞いや言動で補正されるのではないか」という仮説を持つようになりました。

 

昔、学生時代のOB訪問会の時に話に来てくれていた、塾で働くおねーさんが、バイトでどんな人を採用するという質問に対して、少し考え込んだあとにボソッと「...イケメン」と答えて大爆笑が起こったことがありました。

その方は慌てて「あっ、雰囲気イケメンね!」と付け足していたのですが、初めのインパクトが強すぎて、教室はしばらくざわついたままでした。

周囲が「イケメン」という言葉につられる中、僕は「雰囲気イケメン」という言葉が気になり、その言葉を反芻していました。

「雰囲気イケメン」という言葉が、僕が周りの「イケメン」たちに感じた事にぴったり当てはまったからです。

僕の周りにいるイケメンたちは、カッコいいことは疑いようのない事実として、それ以上に立ち振る舞いや仕草、表情が圧倒的に「イケメン」だったのです。

みなさんも雰囲気イケメンと言われると、言葉ではどんな人か説明できなくても「あっ、◯◯君のことだ」と頭に浮かぶ人がいませんか?笑

 

「雰囲気イケメン」というパワーワードに出会ってから、僕は雰囲気イケメンの観察を始めました。

そもそも「イケメン」ってどんな人だろう?モテるとはどういうことか?みたいに、いろいろな観点から「雰囲気イケメン」について考えるうちに、僕の中でいくつもの仮説や説明ができてきました。

この「イケメンの研究」という連載もののエントリは、僕が雰囲気イケメンについて考える中で思いついた理論や仮説をまとめるためのものです。

例えばぽっちゃりした人は何故好印象なのかを説明した「レバレッジデブエフェクト」や、高校まではルックス=モテである場合が多い理由を説明した「イケメンタル補正」。

少女マンガに出てくるイケメンと少年漫画に出てくるイケメンとの比較や、そもそもの「モテる」という言葉はどういう状態を指すのか?

あるいは「同性に好かれるイケメンとは何か?」といったお話や金持ちバイアスの話やなどなど、「イケメン」を研究しようとした時に考えるべきトピックは枚挙に暇がありません。

こういった、現時点で僕が「イケメン」に対して考えた説明を1つ1つまとめていきたいと思います。

 

イケメンとは何か?モテとは何か?

その辺を、僕の膨大なフィールドワーク(笑)の末に得られた見地から考えてみたいと思います。

 

これ絶対友達が減る...笑

 

アイキャッチはイケメンで調べたら一番上に出てきたこの本

イケメンは、つくれる。: この物語の主人公「ユウキ」は、過去の僕の姿です。

イケメンは、つくれる。: この物語の主人公「ユウキ」は、過去の僕の姿です。

 

 

 

「勝てる」戦を探す力

もともと職場の近くに小さな薬局があったのですが、半年くらい前に近くに大手の薬局ができて、僕はどれくらい持つのか興味があって定期的に様子を見ていたのですが、今日見たらその薬局がつぶれていました。

いろいろと仮説がたったので備忘録を。。。

 

僕が大手薬局ができたときに面白いと思っていた最大の理由は周囲に他の薬局が全くない状態であったということがあります。

薬局という性質上置いている商品は大体同じなので、純粋に個人経営のお店の耐久力の観察ができると思っていたのです。

新しくできた方の薬局はそれほどセールも行っていなかったので、置いてある商品は殆ど同じで、規模は元からあった薬局の倍くらい。

基本的に商品が同じであればシェアはちょうど半分になり、かつ後からできた薬局(面倒なので元からあった薬局をA,後からできたものをBと呼びます)のほうが大きいので、理論的薬局Bのシェア(S)は100≧S≧50ということになります。

元々どれくらいの耐久力があったかは知りませんが、仮に薬局Aの利益の余裕が営業を続けるのに必要な額の倍以上でない限り、理論上絶対に経営が成り立ちません。

反対に薬局Bの場合は、たとえ店として利益を出すためには70%くらいのシェアをとらなければならなかったとしても、薬局Aの経営が成り立たなくなったらそのごシェアが全部取れるわけなので、どれだけ赤字を垂れ流していたとしてもいずれは「勝てる」勝負ということになります。

 

薬局Bができたとき、僕は思考実験として、どういうデータを取れば必ず「勝てる」と判断できるかということを考えていました。

で、もし僕がそこに出店するのなら、①その薬局の売り上げの推定値と②薬局を経営するのにかかる費用の概算値、そして③新しく店舗を置こうとしている貸し店舗の家賃を見るだろうという結論になりました。

大手の薬局であればさまざまな地域ごとの客単価みたいなデータを持っているはず。

あとは誰かがこっそり薬局Aの利用者数を数えればかなりの精度の売り上げ推定値が立つはずです。

次に、薬局Aを経営するコストですが、こちらも一度お店に出向き店員の数を把握し、不動産屋で隣の店舗の坪当たりの家賃を聞けば、こちらもかなりの精度で分かります。

そして①と②があれば薬局の余剰利益の概算も立ちます。

仮にその数値が運転費用の200%に達していなければ、先に書いたシェアの観点から費用を投入し続けさえすればいつかはそのお店を潰すことができるため、薬局Aの売り上げ推定値が薬局Bを運転するにあたり必要な費用を僅かでも超えていた場合、絶対に「勝てる」勝負といえるでしょう。

 

もちろんBは大手の薬局なので、専門のマーケッターがもっとずっと精緻な理論に基づいて「勝てる」と考えたからこそ出店したのだとは思いますが、そんな専門家でなく、素人目にも「勝てる」という計算が立ちます。

 

「勝てる」という計算は、僕がここ最近非常に興味を持っているテーマだったりします。

僕が「勝てる」と考えるのは大きく2種類で、一つは上に書いたように時間経過により相手に勝てるというパターン。

そしてもう一つが確率>50%の事象をひたすら繰り返すというパターン。

仮に得られる報酬が一回あたり0.1で、勝てる確率が51%であったとして、一回あたりの勝ちが小さいとして(あるいは時に負けが続くとしても)、1万回試行すれば([0.1報酬×10000回×51/100]-[0.1報酬×10000回×49/100])で20のプラスになるというように絶対に勝てます。

これがもう一つの僕が好きなパターン。

大きく勝てる事象は中々存在しませんが、非常に勝ち幅の薄い事象なら案外世の中に溢れています。

それをひとつひとつ収集しておくことで、長期的に見たときに、「何故か勝っている」と見えるような戦略になると思うのです。

 

理屈で「勝てるところ」を探して、ひたすらに気付かれないように差を積み上げていく。

これがここ最近、僕が特に意識している戦略だったりします。

 

久しぶりに書いたら文章がむちゃくちゃヘタクソになってしまった(笑)

 

アイキャッチは最近の大当たり「確率思考の戦略論」

 

確率思考の戦略論  USJでも実証された数学マーケティングの力

確率思考の戦略論 USJでも実証された数学マーケティングの力

 

 

才能は「気づく」力ではないかということ

以前、とある番組でジブリのプロデューサーである鈴木敏夫さんが、宮崎駿監督の事を「あの人は分析が凄い」と言っていました。

例えば宮崎駿さん曰く、人のご飯の食べ方には①お椀を顔の方に近づけてくる人と、②顔を机のご飯に近づけて駆け込む人と、③お椀と顔を同時に近づけて行く人がいるのだそう。

言われてみれば確かにこの3パターンな気がします。

宮崎駿さんはこうした「日常の気づき」を絵に落とし込んでいくということです。

 

最近、「才能」の定義について、「他の人よりも細かな部分に気づくこと」ではないかと考えています。

上の宮崎駿さんの例であれば、人間の細かな動き一つ一つに気づけることが圧倒的な才能ということになります。

或いは人体には共通の比率やバランスがあるのではないかと「気づいた」レオナルド・ダヴィンチも、言語とは既にあるものに名前をつける行為ではなく名前をつけることで物が存在するのではということに「気づいた」ソシュールも、リンゴの落下する様から重力に「気がついた」ニュートンも、或いは平均律という波長の規則に気がついたバッハも、みんなその分野で卓越した観察眼を持ってきたように思うのです。

 

上にあげたような数世紀に1人生まれるか生まれないかの才能(気づける力)は普通の人にはそうそう備わっていないかもしれませんが、100人に1人くらいの倍率の「気づく」力ならば、ジャンルを問わず、どんな人でも何かしら備えているように思います。

もしかしたらそれが「人の髪の毛のパーマ具合の違いがわかる」とか、「人のまばたきのタイミングが正確に捉えられる」とか、全く役に立たないものかもしれません(笑)

(そういった能力でも使い方次第であるということをテーマにした「僕のヒーローアカデミア」がこの辺をテーマに扱っています)

ただ、何かしら人よりも敏感に「気づける」分野があり、それを自分で知っておくと、仕事探しでも趣味でも人付き合いでも、非常に有効であるように思うのです。

 

例えばお客さんのニーズに10000人に1人くらいのレベルで「気づける」のであれば、それはコンサルタントをすれば成功するかもしれません。

仮に100人に1人レベルのその能力を持っているとしたら営業マンをしたら優秀は成績を残すかもしれません。

或いは日頃道を歩いていて、やたらと広告のコピーの意図や機微に気がつくのであればコピーライターが向いているかもしれません。

僕の場合は受験勉強をしていたころから、ほんの少しだけ「参考書の行間の解説の足りなさ」に気づくことがあったので、それを理屈で補うということばかりをしていたら、結果的に今でも塾の先生をやっています。

これだって、一応は「気づく」力と言えます(ショボすぎて恥ずかしいですが...)。

 

自分の「気づける」力が何であるのかをリストアップして、それぞれを抽象化し、何かしらの仕事に役に立たないかを当てはめていって、それが役立ちそうな分野を見つけていく。

そうすると「やりたいこと」ではなく「向いていること」が見つかるような気がします。

よく、学校の大学選びに関する面談で「やりたいこと」ベースの進路相談を聞くのですが、こういう形で「向いていること」ベースの考えも大切だと思うのです。

そのためにもまずは「気づく」訓練をしなければなりません。

作家の円城塔さんが「道化師の蝶」の中で「思考の網」という言葉を使っていますが、まさにそもそも自分がどういった才能(「気づく」力)があるのかを知らなければなりません。

思考の網を細かくして、自分は何に「気づき」を得やすいのか。

その辺を知っておくということは、非常に重要であるように思います。

 

アイキャッチはマルコムグラッドウェルの「天才!」

天才!  成功する人々の法則

天才! 成功する人々の法則

 

 

 

奨学金を受け取って積み立てに使ったらどうなるかという思考実験

僕は座右の銘として「ルールは絶対」というものを掲げています。

ただこれは、「絶対にルールは守るべき」というような、聖人君子のような観点から述べているものではありません。

むしろルールさえ絶対ならば、立場の弱い人でもそれを利用して逆転する可能性があるのではないかという面から掲げているものです。

ルールさえ変えられなければ、頭を使ってそれを利用すれば勝負を上手く運ぶことができるはず。

そんな打算的な視点から大切にしているのが僕のいうところの「ルールは絶対」だったりします。

 

で、そんな観点から色々な社会の仕組みをテーマに、僕はよく「思考実験」をするのですが、最近興味を持っている仕組みの1つに奨学金のシステムがあります。

以下は「あくま」で思考実験なので、ずるいみたいな道徳的判断は棚上げしてお読み下さい(笑)

 

もちろん生徒さんにそんなことは言いませんが、僕は基本的に奨学金とは、国が正式に定めたルールの上で運用されているシステムである以上、要件を満たす人は貰っておけばいいと思っています。

必要な人はともかく、必要もないのにそんな「借金」を背負ってどうするのみたいに思う人もいるかもしれませんが、僕はむしろ奨学金が必要ない人ほど(少なくとも無利子のものに関しては)要件を満たして貰えるのなら貰っておけばいいと思うのです。

(この辺が道徳的観点から話をする人には嫌悪されるところなのですが...)

 

仮に奨学金を毎月3万円もらったとして、それを全て年利3%積み立てに回すとします。

(年利3%はそれほど高いハードルではないはず...)

毎月3万円を4年続けたら複利込みで約152.7万円になります。

何もせずお金をもらっているだけで、約9万円の利益を得るわけです。

卒業旅行の費用の足しにはなるでしょう(笑)

 

また返済のことですが、この金額を借りたとしたら、大抵は月に約1万円×12年という返済プランになります。

仮に奨学金をもらっていない人が毎月1万円を積み立てていたら、負担額はほぼ同じ。

ここで、奨学金を借りてその額を運用に回していた人の場合と、社会人になってから毎日1万円を積み立てる人を比べてみましょう。

前者の奨学金を借りていた人は、すでに152.7万円のお金があります。

毎月の1万円は奨学金の返済に使われていくので元本はこれ以上増えません。

奨学金を返すまでの12年間、152.7万円のお金を利率3%で回すとします。

計算すると217.5万円、つまり65万円近くの利子を得られることになります。

一方で、社会人になってから、毎月1万円を12年間積み上げた場合をみてみます。

この場合では、12年×1万円 を3%の運用で、約30万の利益になります。

実質額は全く同じなのに、運用により得られる額は倍近く異なってきます。

 

もちろん、奨学金は金銭に余裕がないけれど学問に励みたいという人のための制度です。

ただ、その条件を満たしていて、支給されるのであれば(もちろん返済が前提です)、どんな人でも貰って構わないし、そのお金をどう使おうが構わないと思うのです。

少なくとも制度の上では「貰うに足る人」と認められているわけですから。

 

こういう、色々な制度に対してルールや仕組みをどう見るのかという思考実験は、むちゃくちゃ面白いように思います。

これを見て実際に試して見るのは勝手ですが、あくまでこれは僕の思考実験なので、実際に運用するのならくれぐれも自己責任でお願いします(笑)

 

アイキャッチは調べたら出てきたこの本(笑)

「奨学金」地獄 (小学館新書)

「奨学金」地獄 (小学館新書)

 

 

 

Dr.STONEとノアズノーツの企画を担当編集がどう通したか妄想する

今週号のジャンプで新連載として始まったノアズノーツという作品。

昨日の夜、仕事終わりにジャンプを買ってきて読んで以降、ずっとこの作品のことばかり考えるくらいにハマっています(笑)

歴史(というか考古学?)をテーマにした作品なのですが、歴史嫌いのヒロインがとあるきっかけで考古学と出会って(巻き込まれて)、そこからの展開がむちゃくちゃ面白いです。

内容に関して話したいことは山ほどあるのですが、昨日発売の作品について書いてしまったらネタバレになるので、あくまで内容ではなく、周辺で気になったことについての感想を書きたいと思います。

 

 

 

Dr.STONEと同じ担当編集者では?

僕がこの作品を読んだとき、内容よりもまず、担当編集者が誰なんだろうということに興味が行きました。

ノアズノーツを読んだ時に最初の印象は、この漫画は少し従来のジャンプマンガとは毛色が違うのではというものでした。

それまでのジャンプ作品では「友情・努力・勝利」は描かれるのだと思うのですが、「実用性」は意図的に排されてきたというのが僕の持論。

(メタ的なメッセージ性みたいなものはこれまでもありましたが)現実的な説教臭さはなく、純粋にワクワクできるというのが僕のジャンプに対するこれまでの印象です。

しかしノアズノーツでは、明らかに歴史嫌いのヒロインが登場し、その女の子が「歴史なんて学ぶ意味があるの?」といい、学校の先生はそれに対して凡庸な解答しかできないところに主人公が現れ、歴史の面白さや重要性を伝える。

明確に「歴史って楽しいよね」というメッセージが感じられるのです。

これと同じ印象をDr.STONEというマンガを読んだ時に持ちました。

Dr.STONEは「科学って面白い」というのを子どもたちに強烈に伝える作品になっています。

僕はDr.STONEがジャンプに連載された時に、新しい編集が加わったのかななんて思ったのですが、この作品からもそういう印象を受けました。

 

担当編集がどうやってノアズノーツとDr.STONEの企画を通したかを邪推する

以下は僕の完全なる妄想です(笑)

僕がノアズノーツとDr.STONEを読んですぐにハマった最大の原因は狙って当てにきている感じがしたからです。

狙ってというのは語弊があるかもしれません。

作者がその分野(Dr.STONEなら科学、ノアズノーツなら考古学)に興味があるのは当然ですが、それをウケるようにエンタメに昇華したという方が僕の印象に近い表現です。

で、そんな風にややもすれは説教臭くなりそうなテーマを子どもにウケるコンテンツに仕上げた裏には同じ担当編集がいるのではないかというのが僕の仮説です。

①エンタメに勉強の楽しさを織り込んだマンガがあればジャンプでヒットするのではないかという仮説を持った編集者(おそらく新しく配属になった人?)がいて、②元々科学や考古学というお堅い分野を書きたいマンガ家がいて、その人の企画を通して自分の仮説を実現するために③編集会議でロジック構築してねじ込んだ。

僕はそんな背景があったのではないかなあと思っていたりします(笑)

で、仮にそんなスーパー編集Aがいたとして、どんなロジックでこの企画を通したのかなということを、僕が勝手に予想(というか妄想)してみました。

 

ノアズノーツとDr.STONEを連載に持っていくにはどうしたらいいか会議(笑)

科学や考古学をはじめとする「役に立つ」或いは「勉強になる」テーマを選ぶというのは、ゼロ年代中頃位からの青年マンガの系譜だというのが僕の持論。

きっかけは『神の雫』あたりで、その辺から読むとちょっと得した感じになる業界知識が載っているマンガが増えたように思います。

(山田玲司先生の『アリエネ』は、実際にその手法を参考に美術ネタをふんだんに盛り込んで欲しいと言われたのだとか。)

僕は、上司にDr.STONEやノアズノーツの企画を通す時、こうした青年マンガでの成功メソッドを説明したのではないかと考えています。

しかし、これだけでは説得力がありません。

これだけでは「ジャンプ」で載せる理由にならないからです。

青年マンガでちょっとためになるマンガが流行っているというのなら、青年マンガでやればいい話ですし、そもそも子どもたちが説教臭いマンガを受け付けないだろうという意見に反論できません。

 

次に考えられるのは「ジャンプでなければならない」理由です。

僕はここに関して、マーケティング的な視点で説得したのではないかと思っています。

ジャンプの最大の強みは小学生〜高校生くらいがターゲットになっていること。

ここに対して「ちょっと役に立つ」マンガを打ち出した作品はこれまでなかったように思います。

単なる雑学や小難しい知識では子どもたちにはもちろんウケないけれど、身近なもの(=勉強)をおもしろおかしく扱ったら興味を引ける。

そんな主張をしたのかなと思います。

 

他にも今の出版不況を指摘して、いかに単行本が出た時に買ってもらえる作品にするかが重要。

手元に置いてもらうには読み返す価値のある内容にしなけらばならず、そのためには役に立つ情報が入っている必要があるみたいな主張や、子供が科学や歴史に関心を持つという評判になれば保護者の財布の紐も緩むだろうみたいな主張もあったのかなと思ったり思わなかったり。

 

 

そんな風に考え出すとアレコレ止まらなくなってしまう程度にこの2作品にはハマっています。

僕は性格上、今までと違うものを見たら、つい内容そのものよりも「なんでそんなものが生まれたのか」に興味がいっまうので、こんなよく分からない「妄想」をしてしまいましたが、そんな邪推を抜きにして、Dr.STONEもノアズノーツも純粋に面白い作品です。

(ノアズノーツは始まったばかりですが、絶対に面白くなるはずと思っています)

今後の展開が楽しみな作品ですので、興味がある方は是非読んで見て下さい!

 

※あくまで自分のブログで好き勝手妄想するのが今回のエントリのテーマなので、無粋なツッコミはご遠慮下さい。

(的外れなことは承知しています 笑)

 

 

アイキャッチDr.STONEの第1巻

 





時間を売る仕事と時間「以外」を売る仕事

最近学生さんとご飯に行く機会が多く、バイトのことだったり、勉強のことだったり、将来のことだったりを聞く機会が多いのですが、僕は圧倒的にバイト(下世話な言い方をすればゼニ稼ぎ)の話に興味があったりします。

色々なバイト事情(+特殊な稼ぎ方をしている人の話)を聞いていると、「時間を売る働き方」をしている人と「時間以外の働き方」をしている人で、全然思考法や将来に対する考え方が違うように思うのです。

 

僕はあまりお金には興味がないタイプですが、振り返って見たら小さい頃からなんだかんだで「何かを売る」という経験をしてきました。

1番始めは多分小学校のころ。

手芸が趣味で、筆箱のチャックの部分にビーズアクセサリーで作ったアクセサリーをつけていたのですが、それをみたクラスの女の子が「それ名札の飾りに欲しい」と言ってくれたことがきっかけで、名札をデコレーションするアクセサリーなる謎のアクセサリーを作ったことがありました。

(多分彼女たちにとって、男子が学ランの裏ボタンでオシャレするみたいなイメージだったのだと思います)

で、それが思いの外流行り(笑)、別のクラスの人からも欲しいと言ってもらえるようになり、6年生の終わり頃は材料を買いに行き、翌日に作ったものを並べて選んでもらうみたいなことをしていました。

たしか材料費+100円くらいで売っていたと思うのですが、小学生の僕にとっては結構な額であったのと、何より自分の趣味で人が喜んでくれるのが嬉しくて(しかも女の子!笑)、毎日制作に没頭していたのを覚えています。

 

中学に入ってからはビーズアクセサリーなんてめっきり作らなくなったのですが、遊戯王カードにはまっていて、カードのパックを売る商売をしていました。

当時は売っている商品の中から好きなパックを選ぶことができ、「サーチ」というレアカードを選ぶテクニックが横行していていました。

で、僕はどうせ買うのなら当たりカードが入っているパックがいいと、必死にその技術を開発していて、ほぼ100%当てる事ができるまでになっていたのですが、その技術は上級生や高校生の中では当然多くの人が持っていて、自分たちの学校の周りではいくらカードを買ってもレアカードがそもそも存在しないという状況でした。

だから、僕は発売日や仕入れたばかりのお店、或いは遠方のコンビニまで足を運び、とにかくレアカードの入ったパックを仕入れてきて、それを何倍かの値段で友達に売るみたいなことをしていたのですが、これも結構なお小遣い稼ぎになっていました。

 

高校ではそういうカード熱も冷めて、自分のカードや、近くの大型リサイクルショップで全く価値のわからない売り方をしていたカードを買い集めて、ネットの掲示板で販売したりということをしていましたが、受験になってそれも終了。

大学に入って、塾のバイトを始め、社会人になりそのまま塾の先生をしたり、時々人のお仕事を手伝ってお金を頂いたり、ライターの仕事をしたりという感じで生活を送っています。

それが良いことか悪いことかは別にして、あまり意識はしていませんでしたが、僕は(利益はいずれも微々たるものですが)「時間を売る」以外の仕事の仕方をやった事があったのでお金が欲しい=時給を見てバイト選び一択というのに疑問があったりします。

誤解の無いように断っておくと、時給バイトが悪いと言いたいのではなく、あくまで選択肢の1つだよねという意味です。

 

もちろん上に書いたような超マイクロビジネスとでも呼ぶべきものは、沢山のお金が欲しいという、あくまで「お金」目的の人には向いていません。

そういう人は、引越しとかキャバクラとかのバイトをすればいい。

(因みに知り合いのキャバクラで働いていた友人たちはそこそこ高級な上に、トークや仕草などむちゃくちゃ色々なスキルを身につけていて羨ましかったです 笑)

ただ、本当に身近な人に向けた超マイクロビジネスをすると、振り返ってみて様々な事が学べたなあと思う事があるのです。

ようやく本題に入れた。。。

 

例えば小学生の時にやったアクセサリー販売は、材料を仕入れ、手を動かして付加価値を生む典型的な職人工。

仕入れコストをはらみながら商売をするというタイプです。

中学校時代のトレカに関しては物理的な差や情報の差を利用した、いわば商人みたいな商売といえます。

自分で作るわけではないので、コスト自分の労働力のみ。

高校生のネットでの販売はいわゆる「せどり」に近いもので、これも中学校時代と同じ感じです。

で、大学に入って塾講師のバイトを始めたのですが、これはいくらコマ数を増やしたくても、一定以上は先生や子供達からの信頼がないと増えないという点で、成果給みたいな働き方でした。

自分の技術や経験が仕事を増やすというのを学んだ気がします。

一方でシフト制で事務やビラ配りみたいな時間給の仕事をさせられたこともあり、僕にはこれが向いていませんでした。

で、社会人になってからは塾の傍らライターの仕事を頂いて行うこともあったのですが、これは自分の経験をベースに発注される仕事(だと思いたい)です。

純粋に時間給で仕事をする以外にも、お金をもらうという手段は案外あるように思います。

 

他にも諸々やってはいましたが、具体例ばかりになっても仕方がないのでそれらは割愛。

上にあげたものを並べると、お金を貰うには①自分の時間をお金に変える以外に②材料を商品に加工してお金に変える③情報・物理的な差をお金に変える④信頼や経験をお金に変える⑤自分の技能をお金に変えるという手段があるという事ができます。

①の場合の時間給は単位時間当たりにどれだけの仕事量を詰め込めるかによって決まるため、作業内容はどんどん過酷になるし、単位時間当たりに詰め込める作業量は限界があるので、どれだけ時給が上がるといっても限界がある。

②の場合は需給で値段が決まるので価格の上限がない代わり、自分の作業量が上限になる。

③は値段の上限もなく、一回あたりの仕入れ数をあげれば作業量の上限もないけれど、資源の枯渇(ルールが変わる)とその瞬間に利益がゼロになる恐れがあります(僕のトレカの場合は、次々にサーチ禁止になり、自然消滅しました)。

そして④と⑤に関しては生産性に価値の源泉があるため、自身の技量を磨き続ければ(そして需要さえあれば)青天井で価値が上がります。

僕は性格的に②や③が好きだから、見つけてはちょこちょこ手を出すのですが、もし長期的に上手くいきたいと思うのなら④か⑤を選ぶべきだと思うのです。

そして、それをするのなら早い方がいい。

僕が塾の先生をしている理由はいくつかありますが、その中の1つには18歳の頃から④をしてきたので、同世代に比べて勝算が高いと踏んだというのがあります。

こんな風に考えると、一口に「バイトしたい(以下では「金を稼ぎたい」と同義として捉えてください)」にも色々な戦略があると思うのです。

仮に一回生(もっといえば中高生)のころからこれを意識していたら、恐らくそのレバレッジはとんでもないことになっています。

当時の僕はアタマが悪くて(今も悪いですが...)、そんな計算が立ちもしませんでしたが、今学生に戻るなら、こんなことを意識してバイトを選ぶように思います。

 

っと、バイトの話を何人かの人から聞いた雑感。

 

 

アイキャッチは上の話が1000倍論理的にまとまっている藤原和博さんの本。

 

 



国民性は言語が規定する~「幸福」と「楽」という言葉に見る日本人の精神性~

ソシュールの言うように言語が世界を文節するのだとしたら、それを使う僕たちの思考は、その言語の文節に影響を受けるということになります。
例えば日本語では違う生き物として「文節」されている蝶と蛾は、フランス語ではどちらもパピヨン、日本語では兄と弟と分ける「血の繋がった男兄弟」を表すこれらの言葉は英語の場合ともに[brother]となってしまいます(『言葉についての新しい認識』池上嘉彦より)。
あるいは英語では羊と羊肉を、[Sheep]と[mutton]と区別するのに、フランス語では羊も羊肉もともに[mouton]と呼ぶ(『寝ながら学べる構造主義内田樹)とか、こうした例は枚挙にいとまがありません。
このように言語によって特定の概念(ここでは動物なども「そういう生き物である」という概念として考えています)が規定されるのであれば、それを使って行う思考にも、そしてその先にある僕たちの行動様式にも、言語による世の中の文節の仕方が影響を与えると思うのです。

言葉の定義が無意識の内に僕たちの思考や行動様式を規定するというのが最近の僕の考えなのですが、その視点から見た時に、日本人にとって非常に厄介な言葉があると思っています。
それが「幸福」という熟語と「楽」という漢字です。
「幸福」という熟語に関しては筑波大学学長補佐を初め、多くの肩書きを持つ落合陽一先生が「この言葉は明治時代に福沢諭吉が外来語を翻訳する仮定でできたものであり、ハッピーとラッキー併せ持った『幸福』なんて概念はもともと存在しない」と度々言っている通り、言葉の意味を見たら、もともと幸せな状態であることを指す言葉と、運がいいという状態を指す言葉が混ざっています。
辞書的な意味を調べると、福という字には「運がいい」という意味と「幸せ」という意味が含まれますが、幸せという言葉には「運がいい」という意味はありません。
つまり本来なら「福(=運」と「幸せ」は十分条件ではあるが必要条件ではないはずなのです。
にもかかわらず僕たちは「幸福」という言葉をあまりに当たり前のものとして使い、その際には必要十分条件的なものとして考えています。
だから多くの人が無意識の内に「幸せになるには運が必要だ。だから幸せそうに見える人たちは運がよくてずるい」みたいな妬みや嫉みみたいな感情が生まれやすいのではないかと思うのです。

「楽」という言葉に関しても同様のことが起こっています。
「楽」という字は「ラク」と音読みすると[easy]の意味に、「たのしい」と訓読みにすると[pleasant]という意味になります。
本来であれば「ラク」であることと「楽しい」ことはまるで違うものであるはずなのに同じ言葉で表現されてしまうが故に、僕たちは本来なら殆ど存在しない「ラクで楽しい」ものを探してしまいがちです。
(ラクだけどつまらない仕事や、大変だけど面白いイベントの例はこちらであげるまでもないでしょう)
仕事を探して「楽しい仕事」という場合、かなりの割合で無意識の内にそこには「ラクで」という言葉が含有されているように思うのです。

日本人はそもそも、使っている言語体系の影響で[happy]は[lucky]によってもたらされると考え、[easy]で[pleasant]な物事を求めがちである。
仮にこれが正しいとして、ここから分かることは「努力」の欠落です。
楽しい状態にしろ幸せな状態にしろ、本来であればそれを得るための「当人の努力」が不可欠になります。
しかしながら「幸せ」と「福」を同列に結んだ「幸福」という言葉と、「ラク」と「楽しい」という意味を同時に持ったこれらの言葉には「当人の努力」という概念が加わる余地がありません。
丸山真男さんは『「である」ことと「する」こと』(「日本の思想」岩波新書)の中で日本人のメンタリティを「である」と「する」に分けていますが、僕のいう「当人の努力」の欠如はまさに「である」ことと同義のものです。
日本の急激な「民主化」によって日本では「である」理論と「する」理論が混同し、解決にはラディカルな精神的貴族主義がラディカルな民主主義と結びつくことが必要だと指摘していますが、日本人の間に存在する「である」メンタリティは普段使う言葉にまで根ざしているものなので、取り除くことは不可能であると思うのです。

ちょうど高校1年生の生徒さんから言語論について、そして2年生の生徒さんから『「である」ことと「する」こと』について聞かれたのであれこれ考えてみました(笑)

 

アイキャッチは落合陽一さんの日本再興戦略

 

日本再興戦略 (NewsPicks Book)

日本再興戦略 (NewsPicks Book)

 

 

*1" src="https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/41XEPVMR1ML._SL160_.jpg" alt="寝ながら学べる構造主義 *2" />

寝ながら学べる構造主義 *3

 

*1:文春新書

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