何で読んだのかは忘れましたが、天職の定義について、二つの言説が印象に残っています。
ひとつは「人が気付かないような部分にまで気付いてしまう分野が、あなたにとっての理想の仕事だ」というもの。
そしてもうひとつは「自分があたり前のように没頭しているだけなのに、周囲から見たら努力しているように映るものが天職だ」というものです。
人の気がつかない分野に気付くことができて、当たり前のこととして没頭できるのが、その人にとっての天職であるように思います。
僕は驚くくらいに営業の適正がありません。
好き嫌い以前に、人が当たり前に気付くところに気がつけないのです。
たとえば、プレゼンの資料を作ったとして、営業がうまい人は当たり前のようにミッションが正しく表記されているか、数値の「,」の使い方はどうか、フォントは組織で統一されているかということに気がつきます。
しかし、僕の場合は、そういうところが重要であるという「認識」そのものがない。
だから、僕にとって営業面の細部は気がつかないのではなく、そもそも「目に写らない」のです。
一方で、使っている文字ひとつひとつがとても気になってしまいます。
LINEで会話をしていても「て」「に」「を」「は」一つまで気になってしまう。
だから、何かで言い争いをするときには、ついつい「あそこで無意識に『も』って言っていたけど、どういう意図があるの?」というようなことを聞いてしまう。
先ほど言った営業がものすごく上手な友人は、反対にこういった部分に無頓着です。
彼にとっては「彼が」も「彼は」も対して違わない。
その違いが目に写っていないのです。
彼は文字を扱うことに対してはそれほど得意ではないのだと思います。
あるいは、音楽に適正がある人であれば、同じ曲を聴いたとしても、全ての楽器の音が認識できます。
一方で音楽に適正が無い人にはそもそも細かな違いは「聞こえ」ない。
デザインが得意な人には当然のように見えているも文字の背景の影や視線誘導の導線も、苦手な人にはそもそも見えていないし、映画監督に適正のある人には気になって仕方がないカメラワークやカットの部分も、興味の無い人には認識すらできない。
これが、「人が気付かないような部分にまで気付いてしまう分野が、あなたにとっての理想の仕事だ」という言葉の真意であるように思います。
もう一つの「自分があたり前のように没頭しているだけなのに、周囲から見たら努力しているように映るものが天職だ」という言葉も凄くしっくり来たことを覚えています。
僕はよく、新しく出た参考書や入試問題が載っている問題集を自腹で買って休日の暇なときに解いたりノートにまとめたりしています。
あるいは仕事終わりに飲み屋の席でお酒を飲みながら、新しいプリント作りをしている。
昔友人と飲んでいて、「何で仕事時間外でそんなことしているの?」と言われて初めて気がついたのですが、僕にとって新しい入試情報を調べてまとめるというのは、全く苦痛ではないんですよね。
だから、「勤務時間外に仕事をしている」という実感が全く無い。
逆に、事務的な雑務を頼まれたときは一分でも勤務時間を超えたらやりたくない。
後ちょっとだけみたいに頼まれると、強制されているという意識が強くなり、明らかにパフォーマンスが落ちる。
逆に、僕の友人でエクセルの入力みたいな作業には没頭できるのに、デザインのようなものになると全く進まなくなるという人がいます。
「細部に気がつく」という能力と、「没頭できる」という能力。
どちらか一つでも備えている仕事であれば、その人にとって向いている仕事であるのだと思います。
「何がしたいか」みたいな軸が、必ずしも自分に向いている仕事を選ぶ判断基準になるとは限りません。
「細部に気がつく」ことと、「没頭できる」ことという2軸による仕事の適正の判断は意外と重要であるように思います。