新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



反対意見に出くわしたときに必要なこと

少し前、僕のSNSのタイムラインに選択的夫婦別姓についての意見が流れてきました。
それは「いやっ、別に『選択』はできるのに反対する理由がわからない。なにもあなたたちの自由を狭めていないでしょ」というもの。
僕は夫婦別姓に賛成派なのでその意見にそりゃそうだよなと理解できる一方、その意見を主張したところで反対派の人たちは一人も変わらないだろうなと思っていました。

何事でもそうですが、僕は対立する意見があるとき、自分の意見を主張する前に反対意見の人たちの思考や立場を理解しようとすることが大切だと思っています。
相手の立場を理解・納得した上で対立する。
そうでなければどんな主張の言い合いにはなんの価値もないというのが僕の考えです。
「選択的夫婦別姓」の問題はその典型。
というわけで、僕は一ミリも共感できないのですが、共感しないままに、理解・納得できる理由を探っていきたいと思います。

この立場で考えるにあたってまず僕の頭に浮かんだのは、「そもそもすでに権利が与えられている側には『変える理由』が存在しない」というものです。
選択的夫婦別姓にすれば、姓を変えることも変えないこともできます。
しかし、現行では入籍したら姓を変えることになっているわけですので、選択的夫婦別姓に反対する人にとってはすでにその権利が保証されているわけです。
すでに自分たちは満たされているときに、わざわざ手続きを踏んで改めて自分の権利の保証を獲得するのはただのコストです。
したがって反対というのが、ぱっと思いつく1つ目の主張。

2つ目に思いついたのは「実害が出る」と思っている人がいるというパターンです。
これに関しては、たとえば子供や孫がいる世代が想定されます。
自分自身が家族という価値観を非常に大事にしている人けれど、子供や孫は別姓に賛成みたいな場合、もし選択的夫婦別姓が導入されれば、この親や祖父母の願いは聞き入れられづらくなるでしょう。
そうなることがいやな層が子供、孫を持つ世代に多いとすれば、反対派の意見が一定数存在することもうなずけます。
断っておきますが、それがいいか悪いかの議論はしていません(というかそこに興味はない)

最後にもうひとつ。
それは「選択できる」ことそれ自体が嫌であるという意見。
選択的夫婦別姓に賛成の人たちは、「姓を変えないという選択もできるのだからいいじゃないか」という論を張りがちですが、その「選択」という行為自体に嫌悪感を抱くというのがこの主張です。
もし「選択的」にしてしまえば、結婚の際に夫婦同姓にするという「選択」行為を行わなければなりません。
それにはかりにどれほど小さかったとしても夫婦間でどちらにするかという「議論」をし、「選択する」という責任が発生します。
もし夫婦の姓を同一にするのであれ別姓にするのであれ選択的でなければそこで選ぶ必要はなく、したがって「責任」が発生する余地もないのです。
「責任」が生じた場合、どこかしらのタイミングで追及の可能性が生じます。
それが嫌だという意見もあるかもしれません。

さて、ざっと思いついた反対派の意見を書いてみました。
もちろん、選択的夫婦別姓に関する反対派の意見を調べてみれば、もっとずっと専門的で説得力のある主張は数多く存在するでしょう。
でも、今回やりたかったのはあくまで対立したときに「反対意見」に思いをめぐらすという行為です。
何か対立した意見に出会ったときにすることは、より強固な主張をすることではなく、反対意見を受け入れる姿勢である。
その話のための具体例が選択的夫婦別姓のお話というだけ。
(もちろん対立する立場の人の主張に寄り添うために専門的な主張を調べるも大切です。)
何か対立意見があるとき、共感はともかく理解・納得しようとする姿勢は非常に大事で、この姿勢の養成にSNSとは絶望的に相性が悪いというのが僕の見立て(笑)
だからこそ意図的にそういった姿勢を身に着ける機会を設けることが大切であるように思います。

 

アイキャッチは反対の正義を描いたこの作品