新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



ゴダイゴ銀河鉄道999考察~英語詩と日本語詩の対比から見る映画のその続き~

最近ゴダイゴさんの代表曲、「銀河鉄道999」にハマっています。
僕が生まれるよりもずっと昔の曲ですが、平成生まれの僕が30年以上経ったいま聞いても、名曲だなと思います。
何より、あれほど映画のシーンにマッチした曲はそうそうないと思うのです。
Aメロの「さあ行くんだ その顔をあげて」の部分は低いBの音からどんどんうえに上がっていきます。
この歌いだしが、映画で銀河鉄道999が夜空に向かって昇っていくシーンとぴったり重なります。
その結果、出だしを聞いただけで映画を知っている人間をワクワクさせてくれます。
また、原作者の松本零士さんは「999」という名前には「1000の1つ手前」つまり少年が大人になる直前という意味を込めたのだそう。
映画は、主人公がメーテルと別れて終わるのですが、「銀河鉄道999」という名前を松本零士さんのいう意味で解釈したら、少年が自分を運んでくれる列車から降りて一人で歩き出す、つまり少年が列車から降りて大人になったと解釈することができます。
しかし、映画の最後だけをみるとどうしてもメーテルとの別れを悲しむ少年の姿が印象に残ります。
これから一人で歩き出す姿はあまり想像できない。
そこにゴダイゴ銀河鉄道999が流れ、Aメロでグッと上り調子のメロディが流れることで、少年が前を向いて歩き出したと安心させてくれます。
あの出だしの4小節で銀河鉄道999が空へ昇っていく場面と、主人公が前を向いて歩き出す(=少年が大人になる)という成長の両方が伝わってくる。
本当に面白いAメロだと思います。

メロディはもちろんのこと、歌詞に関しても面白いなあと思うことが多くあります。
僕がこの曲を初めて聞いて真っ先に気になったのは、視点が三人称であるということです。
「あの人はもう思い出だけど君を遠くで見つめてる」
「そうさ君は気づいてしまった」
「あの人の目がうなづいていたよ別れも愛のひとつだと」
おそらくここで言う「君」が主人公の鉄郎、「あの人」がメーテルなのでしょう。
この歌の歌詞では特定の人物の視点ではなく第三者の視点で書かれています。
この書き方のおかげでいい意味で感情移入せずに歌詞の展開を聴けるのだと思います。
そしてサビの部分の英語詩。

「The Galaxy Express 999 Will take on a journey A never ending journey A journey to the stars」
銀河鉄道999が君を旅に連れて行く、終わりのない旅、まだ見ぬ星へ向かう旅に)
鉄郎にもメーテルにも感情移入していないからこそ、この歌詞を僕たちは自分達に重ねて聞くことができます。
この歌詞は銀河鉄道999の英語詩を作詞した奈良橋陽子さんが最もこだわったフレーズだそう。
そして、ゴダイゴのメンバーの人たちも、英詩のまま残したいといって、この形になったようです。
何度も出てくる「journey」のフレーズがあることで最後のリフレインがいっそう引き立っているように思います。

サビの英語詩の部分は曲の雰囲気を決める際にも影響を与えたのだそう。
あるインタビューで、タケカワユキヒデさんがこの曲を作曲した時点ではもともとバラードだったと言っていました。
それを編曲したミッキー吉野さんがアップテンポな曲調にしたと言っていました。
その際に「Fly me to the moonならゆったりだけど、Journey to the starsだったらもっと早いイメージだ」と思ったのだそう。
Fly me to the moonはゆったりとしたジャズのスタンダードナンバーの一つ。
確かにそれと比べると「銀河鉄道」「Journey to the stars」はもっとテンポが速いような感じがします。
凄く的確な表現だなあと思いました。
こうしてできたのが、今の銀河鉄道999。

いつものことながら考察を書くつもりがただのファンの感想になってしまいました(笑)
ただ、もう一点だけどうしても紹介したいことがあるので書かせてください。
それはもともとの英語詩についてです。
この曲は作詞家の奈良橋さんがまず英語詩を書き、曲が完成した時点で日本語の歌詞が乗せられるという形で作成されています。
元の歌詞と日本語の歌詞を比較するととても面白いのです。
「I thought I reached the end」
「The end of a long long journey」
「Only to find It’s not over」
「There’s so much more to discover」
(僕は長い長い旅の終わりに着いてしまったと思っていた)
(でもまだ旅は終わっていないことに気づいたんだ。まだずっとたくさんの見つけなきゃいけないものがあることに気づいたんだ)
英語の歌詞では一人称で描かれています。
そして、日本語の歌詞よりも主人公の「これから」に向かって進んでいく姿が伝わってきます。
「I thought I reached the end」というのが銀河鉄道999での冒険のこと。
前で挙げたように、少年であった「鉄郎」の気持ちです。
そして、映画の最後でその旅の終わりにたどり着きます。
そして歌の中で主人公は「Only to find It’s not over」まだ終わっていない、というより自分の足で探さなければならない新たな旅に気がつきます。
これが
文法的にここで「Only to find」と結果用法が用いられることで「少年としての旅が終わり、『その結果』新たな旅に気がついた」というニュアンスが伝わります。
少年としての旅が終わった結果気づく新たな旅というのは紛れもなく「大人になる」ということ。
日本語の歌詞は映画のナレーションのような第三者視点で映画の最後をきれいに纏め上げているのに対し、英語の歌詞は主人公の「言葉」で描かれている。
僕はこの両方を聴くことでまるで映画の続きを見ているような印象を受けました。
そして、その両者がサビの「A never ending journey」の部分で繋がる。
そんな風に聴くと、凄く壮大な世界観を持った曲のように感じます。

・・・と言うわけで結局完全にファンの感想文になってしまいました(笑)

 

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使うデバイスが思考を規定する

少し前にひどく酔っ払って、大きく転倒してしまい、スマホの画面に大きなヒビが、、、笑
酔っ払って転ぶ時はスマホが割れないように転ばなきゃと反省しました。
(まあ、そんなになるまで 飲むなという話なのですが、、、)
で、新しいスマホに替えようと思ったのですが、欲しい機種は2ヶ月待ちとのこと。
そんなに待てないので画面だけどこかで治すことにしたのですが、そのまま帰るのも味気なく、ふと視界に入ったiPadを衝動買いしてしまいました。
もともと仕事に色々使えないかと興味があったのでまあいいかなあと購入したのですが、予想外に使い道がなくて困っています(笑)
遊び道具としてはこの上無いのですが、やはりそれだけではもったい無いので。。
そんなわけで色々実験中です。

そんな実験のひとつとして、このエントリもiPadで更新しています。
もともとピアノをやっていたということもあって、片手でのタイピングに慣れれば、パソコンでの入力に近い速度でいけそうなんですよね。
パソコンと同等のスピードでタイプできれば、出先のどこでも文章が書きやすくなるというのと、iPadのサイズに最適化した思考による文章というのが書けるかと思い、目下練習中です


僕は使うデバイスやアプリのフォームによって思考のパターンが変わってくると考えています。
例えば、ツイッターでのやり取りに慣れている人は自ずと表現できる文字数が140字であることから、その範囲で思考するようになります。
また、ラインでのやり取りは基本的に一文完結型。
その行間を感情を表すスタンプで埋めるという形をとります。
そうなると必然的に思考は会話のそれと近くなるはず。
使うアプリ以上にデバイスによる制約は大きなものであると言えます。
たとえばスマホ(iPhone5s)のメール機能の1行あたりの字数は19字。
そして、文字を打ちながら見ることのできる行数は10行です。
必然的に文章の前後のつながりを意識するのはその範囲になり、パソコンで考えたときの文章構成とは異なるものになります。

 

リア充非リア奮闘記〜「君に届け」と非リアがリア充になる方法〜

今朝Facebookを見ていたら、ブラックサンダーのCMが流れてきました。
リア充vs非リアのラップバトルという内容。
ブラックサンダーにもラップバトルにもほとんど興味がないのですが、内容が面白く、ついつい最後まで見てしまいました。

僕は自分のターニングポイントがどこだったかと言われたら、迷わず高1のときのクラスであったと答えます。
なんというか、クラスの9割がリア充で、その上半分以上がリーダー肌みたいな、とんでもない連中が集まっていました。
今でも入学式の日の自己紹介の後のちょっとした自由時間に何故か始まった、罰ゲームがショートコントのタケノコニョッキを覚えています(笑)
男女関係なく当たり前のように罰ゲームで即席コントをして、キチンと笑いをとっていく。
人を楽しませることに特化した人が集まっているクラスでした。

6月くらいになったとき、偶然席替えで隣になったヤツが何故か僕のことを好いてくれて、そこから色々なことに巻き込まれるようになりました。
その最たるものが生徒会長への立候補
「俺生徒会になるから、応援演説よろしく」
そう言われてからトントン拍子に進んでいき、気がつくと彼が生徒会長になっていて、僕も役職をやることに。
ぶっ飛んだヤツだったために同級生だけでなく先輩との交遊も広く、気がつくと僕の交遊関係はとんでもなく広がっていました。

ブラックサンダーのCMでいうところのリア充と非リアで言うのであれば、間違えなく僕は非リア気質です。
それが、高1のときのクラスの環境とそこで出会ったヤツに生徒会に巻き込まれたことによって、僕はリア充側も体験することができました。
一方で非リアの友達がたくさんいて、一方でリア充な友達とも関わってという形で、僕の高校生活は結構楽しいものだったように思います。
そんな感じで幸運にもリア充と非リアの両方の交友関係があり、またどっちつかずでもあったため、それぞれの長所や短所をどちらかに属するよりも引いた目で見てきたつもりです。

リア充サイドの印象を一言で表すと「楽しいけど疲れる」です(笑)
とにかく陽気な連中が集まるため、びっくりするくらい面白いことが次々に起こり、まず飽きることはありません。
反面、交友関係が広くなるので、空気を読むとかそういうのと別に、単に友達関係が大変だったように思います。
何より最大なのは面白いけれど明らかに生産性がゼロであるということが分かりきっていることがツライ(笑)
それに対して非リアサイドを一言で表すと「充実しているけれどつまらない」といった感じです。
リア充と聞くと充実しているのはリア充サイドのように聞こえますが、実際に充実しているなと感じるのは非リアの方でした。
深く狭い交友関係で、共通の趣味を掘り下げるため、自分自身の知識の蓄積を確認できます。
だから充実感は非リアの方があったように思いました。
(この辺は僕の適正が非リアサイドということもあるかもしれませんが)
ただ、非リアサイドはびっくりするくらい「キラキラ感」がなくつまらない。
男女関係なく一緒に遊ぶことが当たり前で、オシャレに気を使い周りを楽しませることに特化した人が集まった環境のほうが、どう考えたって刺激的です(笑)

非リアでありながら行きたいときにリア充を体験させてくれる。
僕の立ち位置は客観的にみて恵まれたものだったように思います。
で、そんなツイている立ち位置にいられた人間として、非リアがリア充のコミュニティに属す方法をあれこれ考えたのですが、①みんなに知られる一芸をもっていて、②リーダータイプのリア充の友達と仲良くなるの2つしか無いように思います。
しかも、より重要になってくるのは②の方。
つまり運です(笑)
非リアの人がリア充コミュニティと関わろうとしたら、単発的でいいなら自ら声をかけるだけで大丈夫ですが、継続的な関係を作るのであれば、向こうサイドから声をかけられなければなりません。
君に届け」の爽子メソッドですね(笑)
声をかけられそうな環境にいてタイミングを待つ
次に向こうが声をかけるだけのメリット(一芸)を持っておく。
そして、声をかけられたときに向こうサイドに飛び込む。
これが僕の考える非リアがリア充と関わるための手法です。
爽子であれば肝試しの相談でやのちんとちづが偶然教室に残っていたタイミングで霊感が見えると皆に怖がられていた爽子が出くわし、それをきっかけに2人のグループに入った。
こんな具合になると(それが楽しいかどうかは別として)非リアがリア充サイドに関わりを持つことができるように思います。

ブラックサンダーのラップバトルにいちいち共感しつつ、このエントリの草稿を考えている最中、リア充が非リアサイドに関わる方法も同時に思いついた(海月姫メソッド)のですが、それはまた次回書きたいと思います。




Aal Izz well〜きっと、うまくいくとカイジの思考法における類似点

先日知り合いの方からご紹介頂いた、「Aal Izz well〜きっと、うまくいく」という映画を見ました。
この映画の感想自体は書くととても長くなってしまうので、また今度にするとして、同時に久しぶりに賭博黙示録カイジを読んでいて、個人的にこの二つの作品は似ているなあと感じました。
一流大学の教育に疑問を持った主人公が自らの行動で周囲の人間の考え方を変えていく、「Aal Izz well〜きっと、うまくいく」。
借金を背負った身で命を掛けたギャンブルに挑み未来を切り開くカイジ
書かれている内容も扱うテーマも全く異なりますが、僕は両者に妙な共通性を感じました。

僕がこの2つの作品に感じた共通性は、先入観に流されない主人公の姿勢と、理不尽を受け入れる主人公の考え方です。
この2つの作品の主人公は、徹底して「事実」だけを見ています。
「普通に考えたら」とか「あの人が言うのだから」といった、わけを考えずに事象に納得するということは絶対にありません。
Aal Izz wellのランチョーは、周囲が理不尽と思いつつも受け入れてきたことには当たり前のようにNOをつきつけ、黙って聞いていた話に疑問符を投げます。
ここで徹底されるのが、常に事実を追い、自分の頭で考える姿勢です。
カイジも同様に、一貫して「事実」のみに忠実です。
勝負内容こそギャンブルですが、そこで勝つための戦略は、先入観を捨てて常に事実と向き合って導いた確かな戦略。
問題にぶつかるたびに、徹底して頭で考え、勝てる方法を紡ぎます。
この、「困難に対峙したときにノイズに惑わされない思考」が、両者には共通しているように感じました。

もうひとつの共通性が、2つの作品の主人公が理不尽に文句を言わないということです。
“理不尽な事が世の中にあるのは当たり前” 、”それを恨んだり諦めているヒマがあったら…”“楽しんで理不尽と戦おう”
暗殺教育の最終巻に出てくる台詞です。
Aal Izz wellとカイジが似ていると感じたもうひとつのポイントは、この「楽しんで理不尽と戦う」というような主人公の問題に対する向き合い方です。
どちらの主人公も、幾度となく理不尽な壁にぶつかります。
その度に周りはその現状に文句をいうのですが、この2作品の中で主人公だけが置かれた状況に文句を言いません。
むしろ置かれた状況を利用して、どうやって逆転するかを常に考える。
明らかに理不尽と思えることにぶつかっても、ランチョーは文句を言わず、状況を上手く使ったその場の機転で乗り越えます。
同様にカイジも現状の過酷さに悲観するのではなく、敷かれたルールを使ってどう勝ちを掴むかを考えていきます。
この考え方を見て、2つの作品の主人公が似ているなと感じました。

同じ思想を持った主人公でありながら2作品のアプローチは間逆です。
王道から自分の頭で考えることと理不尽への向かい方を書いたAal Izz well〜きっと、うまくと、邪道(「王道に対する」という意味で)からその2つを描いたカイジ
先入観にとらわれないこととルールを利用するということは好き嫌いが分かれるかもしれませんが、僕は大好きな考え方です。
そして、この2作品はどちらも、そういう思考法の主人公が出てくる物語。
僕はコンテンツを楽しむときに、特定の登場人物にライドすることはあまりないのですが、これらの作品に関しては久しぶりに主人公にライドしてしまいました。
ストーリーに共感して一方の作品だけみたことがあるという人にはオススメできませんが、主人公の思考方法に惹きつけられたという人には是非2作ともを見て欲しいなと思う作品です。




現職の政治家が「今回の選挙はとても大切です」というのは失礼だと思ったというお話

「今回の選挙はとても大切です。是非とも皆さんの一票を○○にお願い致します!」
授業をしていたら、目の前の駅の街頭演説が聞こえてきました。
細部にこだわる必要はないのかもしれませんが、僕はこの応援演説の言葉を聞いて、申し訳ないですがこの候補者だけは「無いな」と思ってしまいました。
この候補者の方は現職の参議院議員
前回の選挙で当選した方です。
今回初めて当選を狙っている人ならともかく、現職の参議院議員が「今回の選挙はとても大切です。」というのは、あまりに失礼ではないかと思ったのです。

「今回の選挙はとても大切です。」
「今回の選挙は」というような「は」の使い方をしてしまうと、当然そこには「前回と比べて」というニュアンスが出てしまいます。
従って、言外に「前回の選挙は大切でなかったけれど」という意味を含んでしまうわけです。
今回初めての当選を狙っているのなら、この言葉を使っても全く問題はありません。
しかし、現職の議員さんが「今回の選挙は大切」といってしまえば、そこには「前回自分に皆さんが投票してくれた選挙は大切でなかった」という意味が加わってしまいます。
つまり、「今回の選挙は」と強調してしまった瞬間、前回の選挙で自分に一票を入れてくれた有権者投票行動を無下にしたことになるのです。
もちろんこれを言った人にはそんな意図は微塵もないことでしょう。
そして、そんな一言をとってケチをつける人なんてほとんどいないのが実情でしょう。
そもそも大半はそんなこと気にも止めない。
しかし、実際問題として僕はどうしてもこの言葉に違和感を感じましたし、せっかく投票するのなら、そういう細部の一言、一文字にまで気を配り通せる政治家に投票したいと思ったというのが正直なぼくの気持ちです。
「てにをは」一つにまで気を配っている政治家さんは、やっぱり自ずと言葉に説得力を感じます。

元芸人で2000年に芸能界を引退した上岡龍太郎さんの「私が上岡龍太郎です」という登場文句。
或いは黒子のバスケに出てきた「赤司はエンペラーアイを持つから強いんやなくて、赤司がエンペラーアイを持つから強いんや」という台詞。
たった一文字でニュアンスが変わるという言葉選びの妙をつついた表現をみると、思わずグッと引き込まれます。
これは単に僕がそういった表現が好きだという好みの問題ですが、やはりそういった部分を意識した言い回しを選べる人は、教養があるように感じますし、どこか信頼できるように思います。
投票日は明後日。
もしかしたら明日、明後日で僕がみた某候補者はまた、僕の職場の最寄駅の前で演説をするかもしれません。
その時は是非、「てにをは」に滲むニュアンスまで意識して、100%自分の主張が伝わるようにして欲しいなあと陰ながら願ったりしています。
たった一文字で変わるニュアンス。
「伝えること」でご飯を食べている人間として、自分自身の言葉選びを意識させられた瞬間でした。

上岡龍太郎かく語りき―私の上方芸能史 (ちくま文庫)

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子どもたちの憧れの職業「YouTuber」は絶対にラクな仕事じゃない

少し前に子供たちになりたい職業を聞くと、結構な人数がYouTuberと答えるというニュースを読みました。
実際にYouTuberという言葉を子供たちからも頻繁に聞くので、それ自体は全く驚かなかったのですが、「僕は楽しそうだから」という理由で憧れの職業に上がっているものだと思っていました。
先日、生徒さんと将来の話をしていたら、その流れでYouTuberという言葉が出てきました。
そのときにちょっと驚いたのは、YouTuberがいいなと思う理由です。
彼ら曰く、「YouTuberはラクそうだから」なりたいのだそう。
YouTuberを見た僕の印象は、楽しいかもしれないけれど、とてつもなく大変だろうなあというものです。
競争率云々もそうですが、単純に一つ一つの作業をとってみても、よほど普通の仕事なんかよりも大変に見えます。
だから、「ラクそう」という子供たちの挙げた理由に少し驚きました。

僕にはどう見てもYouTuberは大変そうに見えてしまいます。
それは、表出しているあのコンテンツの裏で、どれくらいの手間がかかっているのかがなんとなく分かるから。
僕がYouTuberという「仕事」を大変そうだと思った理由を、いくつか挙げてみます。

人前で声張って格好悪いことができるか?
まず前提として、何人の人が人前で声を張って、オーバーリアクションで、恥ずかしいことをできるのかというところがあると思います。
会社の会議でプレゼンをしたり、学校で発表したりといった、いわゆる普通の説明であれば、誰でもできると思います。
しかし、YouTuberのようなことをしたい場合はちょっと違います。
声を張って、大きなリアクションをとって、思い切りオーバーなキャラクターを演じなければいけません。
その時点で、大抵の人にとってはとても大きな負担だと思うのです。
僕が学生時代バイトをしていた塾では毎年集団授業志望の先生が多く入ってきていましたが、はじめに躓くのは授業の組み立てでも説明の仕方でもなく、声が張れるかというところと、「笑われる」キャラクターを演じられるかというところです。
人前で興味を惹きつけるということは、それだけオーバーな人間を演じなければならないわけです。
そして、このオーバーなキャラ、見てくれるひとにバカにされるというのは、案外羞恥心とプライドが邪魔してできません。
YouTuberなんて、そのキャラを振り切ることの必要な最たる例でしょう。
人前であそこまでやるには、相当の覚悟が必要だと思います。


毎日一定以上の質を担保したネタを出し続ける大変さ
僕はこのブログと塾のブログの2本を更新しているのですが、1番大変なのは、文字を書く部分ではなく、圧倒的にネタを考える部分だったりします。
一本だけ面白い文章を用意してくれと言われれば全く難しくないのですが、ほぼ毎日、同じクオリティのネタを書き続けるとなると、話がかわってきます。
常に書けるネタのストックを用意しておかなければいけませんし、どんなものなら読者に刺さるだろうかということを普段から考えつづけなければなりません。
あらゆるコンテンツに言えることだと思うのですが、このネタ出しの部分が何より大変なのです。
YouTuberも例外ではないはずです。
やはり成功しているYouTuberさんのコンテンツは(くだらなく見えるものもありますが)どれもしっかりネタを考え尽くしていることが伝わってきます。
毎日あのクオリティの面白さを担保してコンテンツを作り続けるというのは、24時間365日のほとんどが企画会議みたいな状態だと思います。

動画の編集や台本などの準備
当然アップする動画が1本あたり2〜3分であったとしても、撮影はその時間で終わるわけではありません。
どんなにありものでできるコンテンツであったとしても、2〜3分で一定の面白さを入れようとしたら、ミステイクも含めたらどう見積もっても10倍くらいの映像はとっておきたいところでしょう。
また、「○○を使ってみた」みたいな時間のかかるものだってあります。
素材となる映像の撮影だけでも、相当の時間を要するはずです。
また、人前で話したことがある人なら言うまでもないことと思いますが、どんなにフリートークに見える話であっても、一定の筋書きを用意しておかなければなりません。
ましてYouTuberはリアルなやり取りではなく動画という一方的なもの。
会話の軌道修正が効きません。
そのため、どんなに雑にみえるものでも、大まかな台本のようなものを用意しなければならないでしょう。

さらに、こうしてとった動画に今度は編集を加えなければなりません。
コンテンツを作ったことがある人や、テレビの収録現場を見に行ったことがある人ならば、編集がどれだけ面白さを加えるかは言うまでもないことでしょう。
よく女性のメイクをみて驚くことがありますが、編集にはそれと同じくらいに素材を引き立てる強さがあります。
逆に言えば、どんなに面白いネタをとったとしても、編集が手抜きでは十分に面白さは伝わらないということです。
当然そこに費やさなければならない時間も、動画の素材をとるのと比べたら、ずっと多くの分量がかかります。
こうしたところの手間も、僕らが思う数倍の労力なのではないでしょうか。



っというように、パッと考えてみただけでも、YouTuberが大変だろうなあと思う要因は枚挙に暇がありません。
僕たちが完成品としてみている数分の「面白いコンテンツ」の裏には、こうした膨大な手間があると思うのです。
それらを少しも視聴者に感じさせることなく「楽しそう」、ときに「ラクそう」とさえ思わせる彼らは、間違いなくどこの会社でも活躍できるくらいに群を抜いて優秀な人たちでしょう。
逆に言えばそのレベルの人でなければ成功できない世界。
一度やってみるというのは、凄く多くの経験が得られて面白いと思いますが、ラクだからなってみたいというのは注意が必要なのかなあと思います。


アイキャッチはヒカキンさんの「YouTuberの作り方」

400万人に愛される YouTuberのつくり方

400万人に愛される YouTuberのつくり方


ニュースアプリは自社コンテンツをどう持つかがポイントだと思う

けんすうさんのツイートに、ニュースキュレーションアプリの行き着く先を感じました。

NewsPicksは本当に日経新聞になりかねないなあ、と思う感じはある。ビジネスモデルが成立すれば、編集部が大きくなっていき、編集部が大きくなっていけばオリジナル記事が増え、オリジナル記事が半分以上になったときに、もはや誰も真似できない感じになるから・・・。」

巷に溢れるニュースアプリの多くが、色々なニュースサイト、ブログ、既存のマスメディアの記事からコンテンツを引っ張ってくることでなりたっています。
ヤフーニュースなんかもそう。
こうなってくると、他のニュースアプリとの差別化ができるポイントは、どういう切り口でニュースを集めているのかというキュレーションの仕方と、ユーザーの囲い込み方しかなくなってしまいます。
前者はコンセプトの違いなので真似することが容易で、後者は規模の問題です。
どちらもニュースサイトの本質的な差別化になるとは考えづらいものです。


個人的にニュースアプリが頭打ちになるだろうと思っていたのはここのポイントにあって、いよいよ競争が本格的になってきたときに、どうやって他を圧倒するような差別化要因を生み出すのだろうかということでした。
そして、けんすうさんのツイートをみて、ニュースアプリの進化の仕方が見えた気がします。
僕はそれまで、ニュースアプリはキュレーションの角度で住み分けを作り、コメント機能などでユーザーを囲い込み、アプリ内のネイティヴアドやバナー広告で収入を出すモデルが完成形だと考えていました。
しかし、マネタイズできる方法を増やし、自社コンテンツの比率を高めていけば、そこには他社が真似できないオリジナリティーを付加できます。
ちょうどニコ動が初めから目指し、YouTubeがここ数年でシフトしようとしているのと同じ路線。
初めはどこでも見られるコンテンツ(他媒体が出しているものやコピー)で人を集め、規模が大きくなったらその知名度で人を集めその中にあるコンテンツを楽しんでもらい、やがてそこで作られる独自コンテンツそのものを強みにしていく。
その先にはコンテンツホルダーとなって他の媒体にコンテンツを載せるというのがあるかもしれません。
この方向性は、あらゆるネットでコンテンツを提供するサービスに一つの流れとして当てはまるものであるように思います。
そしてその方向性を見据えているサービスをできるだけ多くの分野に渡って観測できれば、面白いデータが取れるハズ。
今のところニュースアプリでその方向性を成功させられそうなサービスはNews Picksでしょう。
けんすうさんは日経新聞てきな立ち位置になると言っていますが、僕はその路線は難しいのかなあと思います。
取材に基づいたジャーナリズムを既存の新聞社と同じレベルで行うことは不可能だからです。
むしろ、現在のインタビュー記事などを読んでいると、ネットにおける経済誌的な部分になるような気がします。
それでも、単なるニュースアプリから頭一つ飛び出た形ではあると思うので、今後が非常に楽しみです。