新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



2015年京都産業大学一般前期3ヶ目型「徒然草」現代語訳

古文の現代語訳です。

赤本に載っていないので訳してみました。
急いで訳しているので細かな違い(時に大きな読み間違えがあるかもしれません..)はご了承下さい。
また、あくまで話の筋を追うことを第一に訳しています。
そのため、文法事項や敬語はあえて無視しているところがあります。
随時アップしていく予定ですので、よかったらご参照下さい。

 

分別のないように見える人も、良い一言を言うものである。

ある荒々しい武士が知り合いに「子どもはいらっしゃるのか」と聞くと、「1人も持ってはおりません」と答えた。
武士は「それならばあなたはもののあはれを知りなさらないだろう。風流が分からない心の持ち主であると思うと大変おそろしいことだ。子どもがいるからこそさまざまな情緒を自然と知る事ができるものだ。」と言ったが、まさにその通りだろう。
家族を愛することでなく、どうしてこのような者の心に慈悲が生まれるだろうか。
親を大切にする心のないものも、子を持つと親の気持ちが分かるようになるものである。

世を捨てあらゆるものを手放して、無一文である者が、さまざまな足かせをもつ者がいろいろなことで媚びへつらい、欲望が深い様をみて、無下に見下すような態度は間違えである。
その人の気持ちになれば、本当に愛している親のため、妻子のために恥を捨てて、ときには盗みもしてしまうのも分からなくない。
だからこそ、盗人を罰して、間違いを正すよりは、世の人が飢えず、寒さを避けられるような世を作りたいものだ。
人は平常の資産を持たないときに平常心を失う。人は追い詰められて盗みを行う。
世の中が安定しておらず、寒さの苦しみや飢えの苦しみがあれば、罪を犯す者は絶えないだろう。
人を苦しめて、法を犯させて、それを罰しようというのは不都合のことである。

さて、どうのようにして世の人を豊かにしようとするべきか。
お上のおごりや無駄遣いをやめ、民を勇気付け農業を勧めれば、世間の人々が利益を享受することは間違えないだろう。
衣食が足りた上で間違いを起こす人を、本当の盗人と言うべきだろう。

 

 

 

京都産業大学(公募推薦入試) (2017年版大学入試シリーズ)

京都産業大学(公募推薦入試) (2017年版大学入試シリーズ)

 

 

 

2012年関西大学センター利用中期試験2月7日「平中物語」現代語訳

古文の現代語訳です。

赤本に載っていないので訳してみました。
急いで訳しているので細かな違い(時に大きな読み間違えがあるかもしれません..)はご了承下さい。
また、あくまで話の筋を追うことを第一に訳しています。
そのため、文法事項や敬語はあえて無視しているところがあります。
随時アップしていく予定ですので、よかったらご参照下さい。

 

またこの男は、決して駿馬のようにすばらしい女性ではないとはいえ、一途に思っている女性のもとに通っていた。この男が女のもとに通っているとき、女にこの男とはくらべようもないほどの身分の男と連絡を取り合っているような気配がした。女が連絡を取り合っているらしい男は、(主人公の)男も出入りしている宮の方であったので、その男の気配を疑いつつ、密かに別の男と連絡を交わしていた女のことを恨んでいた。しかしながら、今女の下に密かに通っている男は身分に関係なく心に任せて女のもとを遊び歩くような性格であったため、女をこの男の手から守ることもできないまま、悔しく思い女のもとに会いに行っていた。男は何も知らない振りをして女と語り合っていた。男は女が高貴な男と連絡を交わしているのではないかということを言えるわけもなく、密かに女のやっていることを酷いと思っていた。
さて、女が密かにやり取りをしている男は、口癖のように「逢坂」と言っていたので、男は女が密かにやり取りをするその男に「逢坂」というあだ名をつけた。そして男は「逢坂の男」を暗に示すようにして、こう詠んで女のもとに歌を送った。
大好きなあなたに逢うために、まるで逢坂の関へ向かうような気持ちで私はあなたのもとを訪れていたのに、あなたはそれを別の「誰か」を守るための関にしてしまおうというのですか。
女は
  「逢坂の関」は非常に「高く」て大変なものなのだから、あなたが「守り人」として(あの)人を諫めればいいでしょう。
といって、強く返してきたので、男はもう一度
  偽りを正すと、ただすの森の木綿をかけて神にちかってくれ。もし私のことをまだ本当に思ってくれているのなら。
と言ったのだけれど、女は「里へ帰る」といって返事もしなかったので、男はつらく思い、また何も言わないままに、時間が経過してしまった。
 さて、この男にはときどき通うことのある別の女ができ、その日も朝日が出始めた自分に帰宅していた。男は当時の女の家の近くを通りかかったときに、「あの女が『里へ帰る』と言ったのは本当かと思って、まだ完全には思いを捨て切れていなかった様子で女の家を見た。すると、門の内に車を停めて、あの身分の高い男のお供の男たちが多く立っていた。それを見て男は物も言わずに女の屋敷の奥に入って、隠れて様子を見ていたところ、女が蔀を上げて、例の男を送り出しているところであった。女が別の男と連絡を取っていたとは思っていたが、現実にそれを見た男はつらく思って、「今までにないほどに悲しく、つらい気持ちなのだが、せめて一言だけは女に伝えよう。私が一部始終を見ていたということだけは本人に知らせてやりたい。」と思って、板敷き端に立って声高に「まあ、きれいな花だなあ」と叫ぶと、まだ奥へと入っていなかった女が気付いて「どうしてこんなところにいるのです。」と驚いた。男は女に対し「この庭の植え込みの花が目に見えて色あせていく様を最後にひと目見ようと立ち寄ったのです。」と返した。家の前には素晴らしい桜が咲いていて、ちょうど春の終わりだったこともあり、散りかけていた。男はそれを見て、
  明らかになったことに対してこれ以上何も言わないで下さい。春の終わりと共に散ってしまう桜の花を見るように、私たちの関係もはっきりしたようです。
と言って、ふと女の家を出て行った。女は「少し待ってください」と言ったが、「つらすぎてそんなことできない」と思って男は止まらなかった。女はなんとか
  目に見えてはかなくなっていった桜の花だけれど、風が吹かなければ散らないと思います。(あの人に言い寄られなければ私だってあなた以外の人に気をおこそうなどとは思っていなかったのです)
と言ったが、男は「用事で帰る」と言って、返事もしなかった。
 さて、女と密かに通じていたあの身分の高い男も、もとの男が女の家に入って行くのを見たという者にそのことを聞いて、「いまも通っていたのか」と思い、女のもとへは通わなくなってしまったそうだ。

 

アイキャッチ関西大学の赤本

関西大学(全学部日程・センター利用入試〈中期〉) (2014年版 大学入試シリーズ)

関西大学(全学部日程・センター利用入試〈中期〉) (2014年版 大学入試シリーズ)

 

 

 

11月19日京都産業大学公募推薦入試の英文法解答&解説(2019年度入試)

質問に来た生徒さんが持っていたのでざっと英文法の解答を作ってみました。

テスト対策の合間に急いで作ったので、教科書的な内容として見たら解説に至らない点も多々あると思いますがその辺はご勘弁ください。

実際の試験の時に「どうやって考えて正解にたどり着くか?」ということを念頭にまとめてみました。

まだ木曜日に試験が残っているという人の考え方の参考になれば幸いです。

 

(1)形式目的語の知識の確認
( )の後ろが動詞の原形であることから、3.4はNG.
[difficult]は原則主語に人を取らない&仮に1を当てはめるとto不定詞の副詞的用法で文意が成り立たないため正解は2

(2)不定詞[in order to~(~するために)]
( )の後ろのto+V原形に注目する。
選択肢の述語の後ろに来る内容をそれぞれ吟味すると1.[get accustomed to Ving](~することに慣れている)、2.[In addition to 名詞](~に加えて)3.[in order to V原形](~するために) 4. [Look forward to Ving](~することを楽しみに待つ)より、後ろに動詞の原形を取ることができる選択肢は3のみ。

(3)動名詞の慣用表現
( )の後ろの動名詞に注目する。
1.[couldn't help Ving](~せずにはいられない)、2.[didn't know why SV]、3[shouldn't have p.p](過去に対する後悔・批難)4[wasn't supposed to V](~することになっている)より( )の後ろに[laughing]をとることができるのは1のみ。

(4)動詞の語法 5文型
まずは( )の後ろ[me give]がO+C(=原形)という形であることを押さえた上で選択肢を確認する。
1.allow 2.ask 3.get 4.letのうちSVOCの5文型でCに原形をとることができるのは4のletのみ。したがって4が正解。

(5)等位接続詞の慣用表現
後ろのnorに注目する。
[Neither A nor B](AとBのどちらも~ない)が正解。
[both A and B](AとBの両方)
[either A or B](AかBのどちらか一方)
[none of ~](3つ以上のもののうち、いずれも~ない)

(6)関係代名詞what
[What ( ) at that time was ~]というように、後ろにこの文の動詞は[was]であるためwhatからがwasの前までが主語であると考えられる。
従ってここでの[what]は関係代名詞。
関係代名詞の[what]は後ろに必ず不完全文が来るため、目的語抜け不完全文として考えられる3が正解。
1. were we interestedおよび2. were we interesting inは不自然な倒置が起こっているためNG
4. we wereは[what S was/were]「かつてのS」という形で慣用表現として存在するが、文以上NG

(7)時制
後ろにある過去分詞[been]に注目する。
各選択肢のうち、後ろに過去分詞をとることができるのは1か3。
[from when](いつごろから)、[since when](いつから)といずれも存在する表現だが、受動態では明らかに文意が通じないので、正解は3。

(8)熟語
後ろの原形[reduce]に注目する。
前置詞の後ろは必ず動名詞となるので、正解は4。

(9)熟語、形容詞・副詞の用法
前置詞の後ろに来ることができるのは名詞または動名詞
[useful](有用な)は形容詞であるためこの位置で用いることはできない。
したがって2と3は不適。
また、名詞を修飾することができるのは形容詞。
[extremely]と[greatly]は副詞であるため後ろの名詞を修飾することはできない。
よって答えは4。

(10)比較
選択肢のうち、成立するものを考えたら答えが出る。
1.as faster asはas~asの間に比較級が入っているためNG
2.as fast thanはthanは比較級で用いる。前にas fastは成り立たない。
3. faster than構造上問題なし。
4. fastest as最上級の後ろにasは来ない。
したがって成り立つのは3のみ。

(11)等位接続詞の慣用表現
昨年の公募推薦1日目に類似問題あり。
[not only A but also B](AだけでなくBもまた)
接続詞のbutは前後に同じ形を並べる。
後ろにshe also always enjoys itと現在形が来るため、時制の一致により前も現在形になる。
したがって正解の候補は1か2。
また( )の後ろには原形が来ているため、2は不適(現在完了形を表すhasは後ろに過去分詞を取る)。
以上より答えは1。

(12)too~to構文
選択肢のうち、be動詞[was]の後ろに来ることができるのは1,2,4のいずれかのパターン。
(3は過去形になっているため無理)
また、1の[as~as]の後ろの[as]は接続詞であるため後ろにはSVがこなければならない。
また2のように受動態では文意が成り立たないため、too~to構文(~すぎてtoVできない)が正解。

(13)前置詞
( )の後ろに注目する。
後ろには今回名詞が来ているため、( )には前置詞を入れるのが正解。
1,2,3は接続詞であるため正解は4。

(14)動名詞
主語に注目すれば答えが導き出せる。
前には主語としてHeがきているため、動詞として成立するものを選ぶ。
2のVingは現在分詞または動名詞でいずれもここに用いる個とはできない。
3.は三人称単数現在のsがついていないので不適。
4のcomplaintsは名詞で苦情の意味を表すため不適。
よって正解は1。
[of]の後ろについているnotは動名詞の否定を表す。

(15)不定詞
( )の後ろが原形であることに注目して選択肢を見る。
1.の[favor of] と3.の[kind of]は前置詞であるため後ろに動名詞がこなければならず不適。
4にある[prefer]は動詞であるため、be動詞の後ろで用いる場合は過去分詞形または現在分詞形になっていなければならないが今回は原形であるためやはり不適。
したがって2が正解となる。

 

 

アイキャッチは関正夫先生の前置詞を説明した新刊

核心のイメージがわかる!前置詞キャラ図鑑

核心のイメージがわかる!前置詞キャラ図鑑

 

 

 

日本人が大好きな「空気を読む」を細かくカテゴリーに分けてみる

「彼らを見つけ出すたびに、そっと、子共たちは、ラベルを剥がしてみる。そのことが、教師を喜ばせ、休息を伴った自らの地位の向上に役立つのを知っていたからだ。…〈中略〉…教師に意味嫌われる子供は、その方法を、知らないのだった。修得してしまえば、これ程便利なものの存在に気付いていないのだ。鈍感さのために。あるいは、知ろうとしない依怙地さのために。」
山田詠美さんの『眠れる分度器』の中に出てくる一節です。
ここ最近、日本人の空気を読む文化についてあれこれ考えていて思い出しました。
少し前に2ちゃんねるの管理人であるひろゆきさんが自身の番組で「日本には法律とは別に守らなければならないルールがある」と言っており、僕はそれを一般的には「空気」と呼ばれていると考えているのですが、この「空気」を読むというのが非常に面白いなと思っています。

毎年中学生の夏休みの課題として「税」に関する作文が多くの学校で課題に出されます。
学校によってはどういった切り口で書けばいいのかという具体例が書かれたプリントが配布されるのですが、そこに書かれていた切り口が全て「納税」に関するものであったのが非常に印象的でした。
本来なら「税」というテーマであれば、「払いすぎた税金は戻ってくる」という切り口をはじめ様々な角度から作文を書く事ができます。
しかしながら、具体例として書かれているのはどれも「納税」に関するものばかり。
学校で課された「税」の作文が求めているのは、実際には「納税」の作文であるわけです。
別に僕はこれに対して「学校教育は思想を植えつけている」みたいなことがいいたいわけではありません。
おそらく、いろいろなアイデアを出した結果、そもそも「納税」の切り口しか出なかったのだと思うのです。
僕はここに、日本人の「空気を読む」が端的に表れていると思っています。
誰も意識もせずに、「税」の作文を「納税」の作文として考えている。
これがひろゆきさんのいうところの日本に存在する「法律とは別に守らなければならない」何かだと思うのです。

「あいつは空気が読めない」といった言葉に表れるように、僕たちはしばしば「空気が読める/読めない」という二つの区分で考えがちですが、実際は日本人の「空気」に対するスタンスはもう少し複雑であるというのが僕の考えです。
先に挙げた学校の「税」の作文の例のようにそもそも無意識のうちに空気を読んでいる人が大多数だと思うのです。
ちょっと前に話題になった「忖度」という言葉だってこれと同じです。
彼らは空気を読んだのではなく、そもそも無意識にやっていると思うのです。
ここに属する人はそもそも空気を読む必要がありません。
したがって日本人の「空気」に関するスタンスを表すのなら、まずは「空気を読む必要がある人/空気を読む必要がない人」という区分が先にくるのが適切です。

「空気を読む必要がある人」という区分の中に初めて「空気を読める/読めない」という区分けが生まれます。
ただし、ここも単順に「空気を読める/読めない」とするのではなく、もう少し細かくする必要があります。
僕は「空気を読む必要がある人」はさらに「空気を読める人」と「空気を読むべき人」にわけられると考えています。
その上でさらに、「空気を読むべき人」の中に「空気を読まない人」と「空気を読めない人」がいると思うのです。

僕の考える日本人の「空気」に対するスタンスを改めて並べると以下のようになります。
①空気を読む必要がない人
②空気を読める人
③空気を読まない人
④空気を読めない人
先ほどの税の作文に対するスタンスでこの4区分を表現すると、税の作文が課題として与えられたときに意識しなくても「納税」の作文が書ける人が①、税の作文が課されて「納税」以外の作文のアイデアが頭に浮かんだけれどあえて「納税」の作文を書く人が②、税の作文の課題に俺は「納税」以外の観点から書いてやると考えて意図的に「納税」以外の観点から書く人が③、税の作文に対して本人は意識もしていないのに「納税」意外の観点から作文を書いてしまう人が④です。
感覚値ですが、それぞれの比率は80:10:5:5くらいな気がします。

さらに、カテゴライズをしていくと、僕の中では①に当てはまる人の中で競争が起こり、その上位にいる人がいわゆる世間で言われる優秀な人で、僕は彼らを「エリート」、それ以外の人を「いい人」と分類しています。
②の「空気を読める人」に関しても、空気を読めるからそれを利用して上手く立ち回る人と、空気を読めるからこそ「空気」自体を憂う人がいて、前者を「上手い人」、後者を「ひねくれ者」としました。
③の「空気を読まない人」に関してはこれ以上細分化する必要がないので「ずるい人」としておきます。
そして最後④の「空気を読めない人」はたまたま成功してしまう一握りの人とそうでない大量の人がいて、成功した人が「天才」、そうでない人が「落ちこぼれ」と名づけてみました。
おそらく、僕たちが人に対して持つ印象はこんな感じが近いのではないでしょうか。

日本人の空気の好きさ加減を「読める/読めない」の2区分に分けるのはあまりに勿体無いと思ったので、日本人の繊細な「空気」に対するスタンスを細かく分類してみました。

 

アイキャッチはもちろん山田詠美さんの「ぼくは勉強ができない」

 

ぼくは勉強ができない (文春文庫)

ぼくは勉強ができない (文春文庫)

 

 

 

悪用厳禁!?メルカリでブランド服をほぼ送料のみで楽しむ裏技

いかにもネットに量産されるコピペ記事みたいなタイトルにしてみました(笑)

たまには「釣りタイトル」っぽいのもいいかなあと...

僕はそもそもファッションに興味がないということと古着が苦手ということでオークションやフリーマーケットには殆ど興味がないのですが、仮に僕が使うのなら洋服のレンタルサービスみたいな使い方をするだろうなと思ったので、そのアイデア?を紹介したいと思います。

 

「この車のお値段は○○ですが、3年で下取りに出して頂ければ××円ほどで下取りさせて頂くので、実質の負担は△△円(元の値段から下取り価格を引いたもの)です。

昔、こんな車の営業トークを聞いていて上手いなと思ったことがありました。

確かに、買って終わりと考えたらその値段自体が負担額ですが、下取りを前提に考えたら、実質の負担額が変わってきます。

仮に300万円くらいの車があったとして、中古車の買取市場で150万円くらいで取引されていたとしたら、実質的には150万円の負担で購入できると考えられます。

車の場合は長く乗るので、その間に車体の劣化や人気の低下、或いは売る時に仲介者を挟む分だけ色々なリスクがありますが、逆に言えば、①商品の劣化が殆どなく、②人気が維持された状態で、③マージンをとる仲介者を挟まなければ、殆ど購入時と同じ値段で売却することができ、商品を購入する際の実質的な値段はほぼゼロに抑えられるのではないかと思うのです。

で、①〜③の条件を満たしやすいのではと思ったのがメルカリです。

例えば5万円のジャケットが非常に人気があって、多くの人が出品していたとして、その商品を購入して2、3回着て、他の出品者と比べてほんの少しだけ安い値段(ここでは49500円とします)ですぐに出品して購入されれば、実質負担金は500円(+送料)で5万円の服が楽しめることになります。

しかもケータイ払いとかにしておいて引き落とし日までに商品を捌けるように計算しておけば、自分の懐は痛みません。

こんな風な方法をずっと回し続ければ、ほとんどフリマアプリをタダ同然で好きな服を借り放題のクローゼット的に利用することができるのではないかと思ったのです。

 

ここからは僕ならこうやるという方法を書いていきたいと思います。

まず、改めて出品した時に売れなければ元も子もないので、ざっと見て多くの人が出品していて、且つよく購入されている洋服を探します。

そして、その中から自分が着たいものを選んで購入。

家に届いたらまず始めに商品の写真を撮って、その場で商品を出品してしまいます(相場と比べてほんの少し安い値段に設定)

そして、購入者が決まるのを待ちながら1回か2回その服を楽しんで、購入されたら即梱包して発送。

(届いた箱とかも全部残しておいて、それをそのまま利用します。)

どうせ平日は仕事なので、ちょうど商品が週末に届くように調整して、土・日にその服を使用、月曜の朝には新たな購入者に発送みたいなルーティンにします。

 

仮に送料や購入時と売却時の値段の差で1回あたり1000円かかるとして、5万円の服であれば着る回数が50回未満であればこちらの方法の方が得になります。

実際に(仮に休日にしか着ないとして)一つの洋服を着る回数は、ワンシーズンあたり10回くらいではないでしょうか?

それなら、同じ値段の服の中から毎週着たいものを選んで購入&即売却のルーティンを回した方がいろいろな服を楽しめる分、特であるように思います。

ブランドの人気服を購入&即出品。

そして購入者が決まるまでの間に数回その服を楽しむというサイクルを回し続けるというのが、僕が仮にメルカリというサービスを上手く使おうと思った時にやるだろう方法です。

ただ、これが利用規約的に大丈夫なのかを知らなければ、実際にそんなに都合よく回すことができるのかの実証をしたわけではありません。

(そもそも、サービスをこういう使い方をするという考え方自体が受け付けないという人もいるかもしれません)。

あくまで僕の思いつきで、実現可能性は分からないから「悪用厳禁」としました(笑)

(こんな面倒なことする人はいないと思いますが)仮に実践してみる場合は、あくまで自己責任でお願いします。

 

 アイキャッチは「メルカリ」で検索したら出てきたメルカリ活用本。

絶対僕が書いたような「活用」法は載っていないと思う(笑)

 

 

aiko「カブトムシ」考察~語感で語りかける歌詞の構成とカブトムシを選んだワケ~

センター試験に代わって2020年度から始まる「大学入学共通テスト」。
今年の夏に国語の例題が発表されました。
そこで例題として出題されていたのは和歌の鑑賞文。
その和歌が「視覚情報」であるのか、「触覚情報」であるのかというような内容でした。

この文章を読んで以降いろいろなJ-POPについて、この歌はどの感覚器官からの情報をもって歌にしているのかという視点で色々な歌を聞いているのですが、そうするといろいろなアーティストの癖が発見されて、アーティストやその歌にいろいろ驚かされることがあります。
その中でも僕が改めて凄いと思った一曲がaikoさんの「カブトムシ」です。
もともと好きな曲ではあったのですが、「どの感覚からの情報を歌ったものであるのか」という視点で見たときに、「嗅覚情報」「視覚情報」「触覚情報」「聴覚情報」が散りばめられていて、そこから伝わる情報量に圧倒されました。
例のごとく著作権に気を配りつつ、あくまで解説が主になるように歌詞を見ていきたいと思います。

僕がこの歌について最も気になっているのは、1番のAメロの後半〈「どうしたはやく言ってしまえ」 そう言われてもわたしは弱い〉という部分です。
ここの「わたし」が言われる言葉が何なのかを、他の歌詞から得られる情報を元に考えていきたいと思います。
まず冒頭の〈悩んでる身体が熱くて 指先は凍える程冷たい〉についてです。
冒頭は「体温」という情報から始まります。
〈指先は凍える程冷たい〉という表現から、季節が秋の終わりから冬にかけてと考えられます。
(後に〈琥珀の弓張月〉と出てきますが、これが秋の季語ということも根拠の一因です。)
外の寒さにも関わらず、気持ちが高まって身体は暑いというのがここの状況です。
そして先に挙げた〈はやく言ってしまえ〉のセリフ。
主人公であろう〈あたし〉がaikoさん自身を投影していると考え、またその口調からも考えれば、〈はやく言ってしまえ〉と言っているのは男性であると考えることができます。
男性のこの言葉に、主人公は〈そう言われてもわたしは弱い〉とためらいを示します。
直後2回目のAメロでは「将来のことなんかより今が大切」という主人公の心情が歌われます。
そしてBメロに入って突如として出てくる「メリーゴーランド」。
もちろんこのメリーゴーランドが実際に遊園地にいることを示しているという見方もできるとは思いますが、僕は〈白馬のたてがみが揺れる〉という実際には起こり得ないことで幻想的な描写にしているこの部分を、気持ちや二人のこれからを暗示したものであると解釈しています。
言わずもがな、遊園地のメリーゴーランドは楽しいアトラクションです。
そこには二人で過ごした楽しい日々というものが重ねられているように思います。
また、なぜ数あるアトラクションの中でメリーゴーランドであるのかということを考えると、永遠に続くと思っていた日々が、クルクルと周るメリーゴーランドに重なります。
メリーゴーランドがゆっくりと止まろうとしている。
そこには、二人の楽しかった日々が終わることが暗に示されています。

そしてサビに入ります。
〈少し背の高い あなたの耳に寄せたおでこ〉
この一節から、二人の身長差や距離感が分かります。
そして耳に触れるくらいの距離に近づいたときに香る〈甘い匂い〉。
嗅覚情報が入ることで二人の距離感が改めて聞き手に伝わります。
そして、〈甘い匂い〉が感じられるほど彼に近づくとその後ろで流れ星が流れる姿を目にします。
ここは視覚情報。
こうした距離感の中で胸を痛めながらあなたのことは生涯忘れないだろうと思っている。
主人公の気持ちがストレートに語られて一番が終わります。

2番のAメロは四季をあえて2小節ずつ使ってゆっくりと表現されます。
四季は「巡る」ものであり、それをひとつずつ丁寧に回想している。
これは、1番のメリーゴーランドを受けての表現と捉えるのが適切でしょう。
メリーゴーランドとの繋がりも去ることながら、1番のAメロは「感覚情報」にも注目する点が多々あります。
〈春〉は〈鼻先をくすぐる〉ということで嗅覚の情報、空の青さを見て感じる視覚情報としての夏。
そして袖を風が過ぎる触覚情報として秋を感じ、最後にふと気がつくと冬になっている。
それぞれの季節を感じる感覚器官を変えているところも非常に上手いなと思います。

2番のBメロになると、〈息を止めて見つめる先には 長いまつげが揺れてる〉という視覚情報が登場します。
この表現からはまつげの揺れが感じ取れるくらい近くにいるということが読み取れます。
距離を示す表現が全くないのに聞き手に距離感を伝えてしまうaikoさんの表現力はさすがです。

〈少し癖のあるあなたの声耳を傾け〉
2番のサビで再び聴覚情報が歌われます。
Bメロのおかげで耳を傾けなければ伝わらないくらいの声の大きさに〈深い安らぎ〉を覚えている主人公が想像でいます。
そして再び〈琥珀の弓張月〉という情景描写が登場します。

弓張月とは、ちょうど弓のように見える半月のことで、大体一ヶ月の中で7~8日か、21~22日くらいを表します。

〈気がつけば真横を通る冬〉という表現と合致する日付を考えるとしたら、11月の下旬と捕らえるのが妥当でしょう。

(11月の7~8日では冬には少し早く、12月の7~8日では遅い気がします)
また、やや強引になってしまいますが、ここにも「満ちては欠ける」という月にメリーゴーランドや四季と同じモチーフを見出すことができなくもありません。
そして、〈生涯忘れることはないでしょう〉ともう一度続く。
改めてみてみるとそれほど言葉も多くないのに、その中でみごとに物語が表されています。

最後に、この歌について最も疑問に残る「カブトムシ」について。
何を思ってaikoさんは恋愛の歌に昆虫の名前なんて付けたのかということについて考えてみたいと思います。
この「カブトムシ」という題名を読み解く鍵は、aikoさんが想定している季節を考える必要があります。
冒頭でも述べた通り、「弓張月」は秋の季語。
また、1番に〈指先は凍える程冷たい〉、2番で〈気が付けば真横を通る冬〉とあることから冬の始まりくらいと考えられます。
カブトムシは冬を越せない昆虫として知られており、そんな虫に〈私はカブトムシ〉というように自分を重ねるということは、ここでもやはり「もうすぐ終わる二人の関係」を暗示しています。
止まりかけのメリーゴーランド、冬へ向かう四季の移ろい、そしてカブトムシ。
一見すると意外性を狙ったようにみえるタイトルですが、ここにもしっかりとモチーフが含まれて居ます。

歌詞の内容を全部見てきたところで、最初の疑問である〈「どうしたはやく言ってしまえ」 そう言われてもわたしは弱い〉という部分に書かれた「言ってしまえ」と主人公が言われた言葉について考えたいと思います。
ここまでの僕の解釈で見ていただいたとおり、僕は「カブトムシ」の随所に散りばめられている「近いうちに直面する別れ」の歌と考えています。
その観点から僕が思う主人公がっているセリフは別れの言葉。
皆さんは主人公がためらったのは、どんな言葉だと思いますか?

 

アイキャッチaikoさんの「カブトムシ」

 

カブトムシ

カブトムシ

 

 

芸術を見る理由と相対的に「科学」を見るということ

「芸術って見ているヤツが自分に酔っているだけでしょ?」
僕の大好きな友達がよく言っていることです。
もちろん僕が芸術を好きなことを十分に知った上での発言(笑)
別にケンカを売られたというわけではないですし、実際に僕自身そういう人も多いだろうなと思うのでこの意見についてどう思うということはないのですが、「芸術の意味」について考えてみることには価値があるように思います。
僕は芸術に関して、単なる趣味ではなく社会に価値を生み出すものであると考えています。
これは他のエントリでいつか書こうと思っている(もうどこかで書いているかも…)のですが、僕は現在は偶然近代社会の発展に適した「科学」の説明が馴染んでいるために科学が過度に重宝されていると考えています。
開国以前の日本を振り返れば、戦国時代ならば武力を持っていることが重宝されていたし、農業革命が起こった卑弥呼がいた時代とかならば来年度の食料を安定して手に入れるために天候をコントロールできる呪術的な力が重宝されていました。
こんな風に、その時代を構成する要素に適した「技術」がその時代には重宝され、産業革命以後の世界に適していたのが「科学技術」であったと思うのです。


社会を説明する方法にはいろいろあって、現状最も上手く世の中を説明していて、なおかつ現在の社会に馴染んだのが「科学」であるというというのが僕の考え方です。
世界を説明することに挑戦した結果最も上手くそれができたものが科学であるとしたら、未完成の他の説明、あるいはたまたま今の社会のルールにおいては脚光を浴びなかったロジックも多くあるはず。
それならば「科学」という説明の光にかすんだ別のさまざまな「説明」を知りたいというのが僕の個人的な興味のあるところだったりします。
こうした観点で見たときに、「科学」以外の様々な世界の説明の仕方の可能性が示されているのが芸術だと思うのです。
遺跡などの残った断片から文明を明らかにしていくのが考古学であるとしたら、僕にとって時代に埋もれてしまった世の中の説明のしかたを絵画や音楽から明らかにするのが芸術を見る理由だったりします。

音楽や絵画の世界では、今僕たちが生きている世界ほど「科学」が覇権を持っていません。
そのため、他の「論理」(この言葉自体が科学にねざしているのでここで使うのが適切かはわかりませんが)が数多く残っています。
例えば音楽の世界における科学はバッハが構築した平均律
(ひじょーにざっくりいえば)この中で音は「ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ」名づけられ、これに「ド・レ・ミ」「ファ・ソ・ラ・シ」の間の音を加えて作られた12音を用いるのが現在の西洋音楽の基本です。
ただ、音が波であることを考えると当然この「区分」の間にも音は存在するんですよね。
その辺が民族音楽には残っていて、彼らの音楽は12音階とは違うロジックで確かに存在しています。
例えばアラビアの音楽なんかがまさにそう。
もちろんアラビアの音楽を12音階に当てはめてオリエンタルスケール(C D Eb F# G Ab B)なんて呼ばれ方もしますが、これは平均律でアラビア音楽を説明したものであって、微分音(#や♭では表せない区別)を切り捨てたとりあえずの「説明」です。
このように、一見正しい説明でも、特定のロジックで説明するために細部の情報を切り捨てられている場合があります。
これと同じ事が「科学」と実社会の関係においても存在すると思うのです。

絵画の世界において「科学」に相当するものを考えたら、それはレオナルド・ダ・ヴィンチが作った「透視遠近法」が該当します。
僕たちの目には近くにあるものほど大きく見え、遠くにあるものは小さく見えるという遠近法。
それに基づいて絵を描くときに、画面上の一点から放射状の線に沿って描くと「正しく」見える。
僕たちはこの遠近法を「正しい」と思っています。
でも、例えば太陽が空にある解きと夕方みると大きさが違うこともそうですが、必ずしも近いものが大きく見え、遠いものが小さく見えるとは限らないんですよね。
たとえば日本画を見ると、極めて平面に見えますし、エジプトの壁画をみると手と顔は横を向いているのに体は正面みたいなちぐはぐな人体が描かれています。
透視遠近法的な空間認識をする僕たちにとってはこうした絵は世界を正確に描写できていない「拙い絵」に見えてしまいますが、もしかしたら、それを描いた人たちにとっては実際にそこに描かれているように世界は見えていたし、そういう空間認識があったのかもしれません。
あるいは透視遠近法的な見方が根付いた社会を生きながら別の見方の可能性を模索したのがセザンヌのリンゴの絵やサントヴィクトワール山の絵の描き方やピカソやジョルジュブラックのキュービズムの絵かもしれません。
昔東大で出題された英文に、キュービズムが世界を正確に描いていないという批判に対して「君は『僕の絵のように正確に描いたらどうだ』と僕に言うが、君の奥さんはそんな小さなサイズでぺらっぺらなのかい?」と述べたピカソのエピソードが載っていたのですが、まさに僕たちが「正確」と思っている見え方は、偶然最も支持されてきた「見方」の一つかもしれないんですよね。

或いは経済学では現在新古典派の説明が主流となっていますが、世界を自分のロジックで説明しようとしたマルクス経済学みたいなものだってあります。
僕は現時点において「科学」が最も正確に世界を表現しているということに反論がなければそれよりも適切な説明が生まれてくるとも思っていません。
ただ、適応する範囲をごくごく絞った場合においては科学よりも正確に世の中を正確に説明しうるものはあると思うのです。
そして、現在の社会は産業革命以降の平準化・マス化の動きから細分化に向かっている。
その中では科学的な説明や合理的な思考ではない、全く違うアプローチの思考が役に立つ素地があるように思います。
芸術に触れると、こうした「他の世界の説明する可能性」に対する感度が開かれる。
これが僕の考える芸術を「学ぶ」意味です。
もちろん僕は科学的見方も論理的思考もむちゃくちゃ利用していますが、それとは別に全く違う「方法論」の可能性にも目を向けておきたい。
芸術に触れるのは、そちらの可能性に手を触れる行為だと思い、だからこそ安易に「意味のないもの」と切り捨ててしまうのは勿体無いのかなと思ったりします。
というのが、僕の「芸術を見てどうするの?」に対する回答です(笑)

 

アイキャッチは僕が一番共感する思考法をしておられる養老先生の本。