「芸術って見ているヤツが自分に酔っているだけでしょ?」
僕の大好きな友達がよく言っていることです。
もちろん僕が芸術を好きなことを十分に知った上での発言(笑)
別にケンカを売られたというわけではないですし、実際に僕自身そういう人も多いだろうなと思うのでこの意見についてどう思うということはないのですが、「芸術の意味」について考えてみることには価値があるように思います。
僕は芸術に関して、単なる趣味ではなく社会に価値を生み出すものであると考えています。
これは他のエントリでいつか書こうと思っている(もうどこかで書いているかも…)のですが、僕は現在は偶然近代社会の発展に適した「科学」の説明が馴染んでいるために科学が過度に重宝されていると考えています。
開国以前の日本を振り返れば、戦国時代ならば武力を持っていることが重宝されていたし、農業革命が起こった卑弥呼がいた時代とかならば来年度の食料を安定して手に入れるために天候をコントロールできる呪術的な力が重宝されていました。
こんな風に、その時代を構成する要素に適した「技術」がその時代には重宝され、産業革命以後の世界に適していたのが「科学技術」であったと思うのです。
社会を説明する方法にはいろいろあって、現状最も上手く世の中を説明していて、なおかつ現在の社会に馴染んだのが「科学」であるというというのが僕の考え方です。
世界を説明することに挑戦した結果最も上手くそれができたものが科学であるとしたら、未完成の他の説明、あるいはたまたま今の社会のルールにおいては脚光を浴びなかったロジックも多くあるはず。
それならば「科学」という説明の光にかすんだ別のさまざまな「説明」を知りたいというのが僕の個人的な興味のあるところだったりします。
こうした観点で見たときに、「科学」以外の様々な世界の説明の仕方の可能性が示されているのが芸術だと思うのです。
遺跡などの残った断片から文明を明らかにしていくのが考古学であるとしたら、僕にとって時代に埋もれてしまった世の中の説明のしかたを絵画や音楽から明らかにするのが芸術を見る理由だったりします。
音楽や絵画の世界では、今僕たちが生きている世界ほど「科学」が覇権を持っていません。
そのため、他の「論理」(この言葉自体が科学にねざしているのでここで使うのが適切かはわかりませんが)が数多く残っています。
例えば音楽の世界における科学はバッハが構築した平均律。
(ひじょーにざっくりいえば)この中で音は「ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ」名づけられ、これに「ド・レ・ミ」「ファ・ソ・ラ・シ」の間の音を加えて作られた12音を用いるのが現在の西洋音楽の基本です。
ただ、音が波であることを考えると当然この「区分」の間にも音は存在するんですよね。
その辺が民族音楽には残っていて、彼らの音楽は12音階とは違うロジックで確かに存在しています。
例えばアラビアの音楽なんかがまさにそう。
もちろんアラビアの音楽を12音階に当てはめてオリエンタルスケール(C D Eb F# G Ab B)なんて呼ばれ方もしますが、これは平均律でアラビア音楽を説明したものであって、微分音(#や♭では表せない区別)を切り捨てたとりあえずの「説明」です。
このように、一見正しい説明でも、特定のロジックで説明するために細部の情報を切り捨てられている場合があります。
これと同じ事が「科学」と実社会の関係においても存在すると思うのです。
絵画の世界において「科学」に相当するものを考えたら、それはレオナルド・ダ・ヴィンチが作った「透視遠近法」が該当します。
僕たちの目には近くにあるものほど大きく見え、遠くにあるものは小さく見えるという遠近法。
それに基づいて絵を描くときに、画面上の一点から放射状の線に沿って描くと「正しく」見える。
僕たちはこの遠近法を「正しい」と思っています。
でも、例えば太陽が空にある解きと夕方みると大きさが違うこともそうですが、必ずしも近いものが大きく見え、遠いものが小さく見えるとは限らないんですよね。
たとえば日本画を見ると、極めて平面に見えますし、エジプトの壁画をみると手と顔は横を向いているのに体は正面みたいなちぐはぐな人体が描かれています。
透視遠近法的な空間認識をする僕たちにとってはこうした絵は世界を正確に描写できていない「拙い絵」に見えてしまいますが、もしかしたら、それを描いた人たちにとっては実際にそこに描かれているように世界は見えていたし、そういう空間認識があったのかもしれません。
あるいは透視遠近法的な見方が根付いた社会を生きながら別の見方の可能性を模索したのがセザンヌのリンゴの絵やサントヴィクトワール山の絵の描き方やピカソやジョルジュブラックのキュービズムの絵かもしれません。
昔東大で出題された英文に、キュービズムが世界を正確に描いていないという批判に対して「君は『僕の絵のように正確に描いたらどうだ』と僕に言うが、君の奥さんはそんな小さなサイズでぺらっぺらなのかい?」と述べたピカソのエピソードが載っていたのですが、まさに僕たちが「正確」と思っている見え方は、偶然最も支持されてきた「見方」の一つかもしれないんですよね。
或いは経済学では現在新古典派の説明が主流となっていますが、世界を自分のロジックで説明しようとしたマルクス経済学みたいなものだってあります。
僕は現時点において「科学」が最も正確に世界を表現しているということに反論がなければそれよりも適切な説明が生まれてくるとも思っていません。
ただ、適応する範囲をごくごく絞った場合においては科学よりも正確に世の中を正確に説明しうるものはあると思うのです。
そして、現在の社会は産業革命以降の平準化・マス化の動きから細分化に向かっている。
その中では科学的な説明や合理的な思考ではない、全く違うアプローチの思考が役に立つ素地があるように思います。
芸術に触れると、こうした「他の世界の説明する可能性」に対する感度が開かれる。
これが僕の考える芸術を「学ぶ」意味です。
もちろん僕は科学的見方も論理的思考もむちゃくちゃ利用していますが、それとは別に全く違う「方法論」の可能性にも目を向けておきたい。
芸術に触れるのは、そちらの可能性に手を触れる行為だと思い、だからこそ安易に「意味のないもの」と切り捨ててしまうのは勿体無いのかなと思ったりします。
というのが、僕の「芸術を見てどうするの?」に対する回答です(笑)
アイキャッチは僕が一番共感する思考法をしておられる養老先生の本。
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