新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



サービスとしての個別指導の抱える問題点をサプライサイドとデマンドサイドから考える

前回の続きです。

ここ最近、特に個別指導の戦略について色々考えています。

大量生産大量消費からニーズの細分化に向かってきた社会の流れに違わず、教育もニーズが細分化されつつあります。

特に僕の住む京都市には全国の市町村で7番目に多い53の高校があり、日本の中でもかなり教育の細分化が進んでいる地域といえます。

 

子供たちの学びの中心である学校教育が細分化されつつあるということは、当然塾業界にもその影響がきます。

何の雑誌か忘れましたが、教育についての特集記事を読んだ時、個別指導の需要が急速に高まっているということが書かれていました。

学校教育の細分化されていく現状を見れば、納得の結果です。

 

一方で、サービスを提供する側として個別指導という「商品」を見たとき、コスト面からもサービス面からも、まだまだ洗練されたサービスに落とし込めてはいない商材であると感ぜずにはいられません。

ここ最近、色々な塾のお話を聞いているのですが、やはりどの塾をとってみても、そもそもサービスの明確な定義やシステム化ができておらず、問題を抱えています。

市場のニーズに対して、提供する側のサービスの成熟が追いついていないというのが、あらゆる塾の本音だと思います。

 

個別指導というサービスを考えるとき、コスト面とサービス面のどちらで話を進めていくのかで全く議論が分かれる所だと思いますが、とりあえず僕はサービス面から何が必要かを考えて、それをコスト面の制約のなかで実現するというのが現実解であると考えています。

さらにサービスの側から個別指導をみたとき、サプライ側とデマンド側から考えることができます。

後者は比較的どの塾でも考えられています。

それに比べて手薄になっているのが前者の視点。

そもそも「自分たちはどのようなサービスを提供しているのか」という視点が決定的に欠けているように思うのです。

 

僕は個別指導の授業スタイルを考える上で、横軸に積極的介入と消極的介入を、縦軸にインプット重視かアウトプット重視かの基準を置いた次の図を考えています。

積極的介入/消極的介入というのは、どの程度子供たちを引っ張っていくかということ。

積極的介入は勉強の仕方や計画をこちらが提案して引っ張っていくタイプなのに対し、消極的介入はあくまで子供たちの勉強の補完をするイメージです。

ここに優劣はなく、どちらをとるのかは完全にニーズの問題です。

インプット重視/アウトプット重視の区分は書いた通りで、基礎が十分に定着していないからゼロから知識を教えて欲しいというニーズに応えるのがインプット型、基礎はできているから演出でアシストが欲しいというながアウトプット型です。

僕はこの軸で分けた4つの指導スタイルを①ティーチャー(積極的介入×アウトプット重視、②インストラクター(積極的介入×インプット)、③コンサルタント(消極的介入×インプット)、④チューター(消極的介入×アウトプット)と呼ぶことにしています。

当然①〜④のいずれにもニーズはあるので、そこにサービスとしての優劣はありません。

一方でサプライサイドに立ってみると、どうしても提供するサービスは①と④に偏ってしまいます。

どうしても1人ないし2、3人の生徒に対して1人の講師が必要な個別指導では、コストの観点からアルバイトに頼らざるを追えません。

そうするとどうしても提供できるサービスは偏りが生じてしまいます。

僕の肌感覚では、上の4区分に対するニーズの比率が①:②:③:④=25:25:25:25なのに対して、現在多くの塾で提供されている個別指導というサービスは①:②:③:④=35:5:20:40くらいな気がします。

で、サービス利用者からすれば②や③を求めているのにいざ入塾すると①や④のサービスが無理やり充てがわれミスマッチが起こり、一方でサービス提供者側の塾を見てみると確保した人材の育成やらホスピタリティやらで、ニーズが50%の所に供給が75%という明らかに供給過多な③と④というサービス提供という枠組みの中で食い合っている。

現在の個別指導はこの辺に本質的な問題があるように思うのです。

 

明らかにニーズの高まっている個別指導に対して提供者の側が最適解を見出せていないというのは大きなチャンスだと思います。

一方でそうした状態にも関わらず、少子化が叫ばれる反面で加熱する教育市場に押されプレイヤーはどんどん増えて、既にレッドオーシャンになってしまっている。

教育というとどうしても指導力と熱意みたいなフワフワした言葉で語られがちです。

だからこそ一歩引いた戦略が必要なのではないかと思ったりするわけです。