新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



米津玄師「Lemon」考察~Lemonの見立ての真意を解く~

レモン哀歌とLemon

そんなにもあなたはレモンを待つてゐた

かなしく白くあかるい死の床で

私の手からとつた一つのレモンを

あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ

トパアズいろの香気が立つ

その数滴の天のものなるレモンの汁は

ぱつとあなたの意識を正常にした

あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ

わたしの手を握るあなたの力の健康さよ

あなたの咽喉に嵐はあるが

かういふ命の瀬戸ぎはに

智恵子はもとの智恵子となり

生涯の愛を一瞬にかたむけた

それからひと時

昔山巓でしたやうな深呼吸を一つして

あなたの機関ははそれなり止まつた

写真の前に挿した桜の花かげに

すずしく光るレモンを今日も置かう

高村光太郎『レモン哀歌』

 

 

僕が米津玄師さんの『Lemon』を聞いてはじめに思い出したのが上に挙げた高村光太郎の『レモン哀歌』でした。

この詩には妻の死に際が描かれています。

この曲を聞いたとき、僕は冒頭に書いたように「愛する女性と死別した悲しさを歌った曲」と捉えたのですが、そう思ったのはこの詩を連想したからでした。

じつは米津玄師さんの『Lemon』には直接的に「死んだ」ことを表すフレーズは出てきません。

にもかかわらず、節々から明らかに「死」を連想されるのは、一重に米津玄師さんの言葉選びの妙なのだとは思うのですが、その背景にはこの詩のイメージがあったからこそ、鮮明に「亡くなったあなた」を連想させる歌詞になっているのではないかと思ったので、冒頭で紹介しました。

(因みにその後調べたら、米津玄師さん自身が「レモン哀歌」についてインタビューだかなにかで触れていたそうなので、恐らく「レモン哀歌」の印象を引いた曲という解釈でいいと思います。)

ということであとは前から考察をしていきたいと思います。

 

レモンのメタファーに託した「あなた」への深い思い。

〈夢ならばどれほどよかったでしょう 未だにあなたのことを夢にみる〉

Aメロの冒頭に出てくるこの歌詞で、主人公が「あなた」のことを忘れられずにいることが描かれます。

僕はこの歌いだしの言葉選びが天才的だと思っています。

「あなたの死」が〈夢ならばどれほど良かったでしょう〉ということと、「あなたが生きていたときのこと」を〈未だに夢にみる〉という対比で書かれていることで、強烈にあなたがいないことが伝わってきます。

普通「夢ならよかった」と「あなたのことを夢にみる」という言葉を同時に並べてしまえば、ともすれば聞き手に違和感を与えかねない(「何を」が抜けた状態では「夢ならよかった」と「夢を見る」は並ばない)のですが、あえてこの並びにすることで、「もういないあなた」が聞き手に伝わってくるようになっています。

そして続くAメロ後半で〈忘れたものを取りに帰るように 古びた思い出の埃を払う〉と歌われることで、主人公がずっと「あなた」のことを引きずって前に進めないでいることが聞く側に伝わってきます。

(因みにサビのところで触れますが、〈忘れたものを取りに帰るように〉という部分がサビの〈雨が降り止むまでは帰れない〉の部分に繋がってきます)

 

そして2回目のAメロとその後のBメロでもあなたのことを今でも思っていることが伺える内容が続きBメロへ(著作権の都合上まるまるアップは厳しいのでカットします。)

そしてサビへ。

 

〈あの日の悲しみさえ あの日の苦しみさえ 全てを愛していた あなたとともに〉

サビの前半はこうはじまります。

僕がこのサビで注目すべきと思うのは〈あなたとともに〉という部分。

これは、あとになって出てくる〈切り分けた果実〉という表現の伏線になっています。

「それまでは一対の果実のようにずっと一緒にいたあなたが死んでしまうことで離れ離れになってしまった」ということがこのひと言に現れています。

そして続く〈胸に残り離れない 苦いレモンの匂い〉というサビ後半言い回し。

この『Lemon』という歌では、終始愛する人との別れが、「レモンを2つに切る」という行為に例えられています。

初めがこのレモンの香り。

レモンの香りがさわやかでもすっぱいでもなく「苦い」のは、後悔や悲しみの表れでしょう。

レモンを2つに切ったときにフッと沸き立つ「苦いレモンの香り」がいつまでも忘れられないというのがここでの解釈でしょう。

死に分かれたときのつらさが1番のサビでは嗅覚情報として表現しています。

そして〈雨が降り止むまでは 帰れない 今でもあなたはわたしの光〉

〈わたしの光〉という表現に関しては曲中で最期に意味が説明されているので、ここでは前半の部分だけに注目することにします。

〈雨が降り止む〉は自分の心境と考えるのが妥当です。

悲しみが癒えるくらいに僕は捉えました。

それがいつになるかは本人にもわかっていません。

そして、「帰れない」のは冒頭のAメロで歌われている〈忘れたものを取りに帰るように 古びた思い出の埃を払う〉から、亡くなった「あなた」との思い出の世界から帰れないということと考えられます。

「あなた」との思い出が鮮明すぎて、まだ全然前を向けないという感じで僕は解釈しました。

あまり細かく書きすぎると先に進めないので、この辺に…

 

つづいて2番のAメロです。

〈暗闇であなたの背をなぞった その輪郭を鮮明に覚えている〉

ここは実際の「あなた」の背をなぞったと捉えることもできますが、辞書的な意味で「輪郭」

を解釈するのなら全体像が把握できなければなりません。

とすれば、ここでいう〈指先でなぞった〉のはレモンに見立てた「あなた」だろうというのが僕の解釈。

1番のサビでレモンに見立てた「あなた」を嗅覚でとらえたのに続き、今度は触角であなたのことを思い出しています。

 

著作権の都合で引用は避けますが、この続きのAメロからBメロにかけて、自分の知らない「あなた」の一面に思いを馳せています。

これは一番で自分の隠していた思い出を打ち明けておけばよかったと語る部分と対の関係になっています。

そしてサビに。

〈どこかであなたが今 わたしと同じ様な 涙にくれ 淋しさの中にいるなら わたしのことなどどうか 忘れて下さい〉

2番のサビでは私のことなど忘れてくれと「あなた」に頼んでいます。

ここには「あなた」に苦しんで欲しくないという相手を思う気持ちが描かれます

と、同時に「それくらい自分は苦しんでいる」ということが、聞いている側には伝わってくる。

「忘れて下さい」と頼む形をとることで、むしろどれくらい自分が忘れられないでいるかが表現されているわけです。

 

そんな自分の気持ちをCメロで〈自分が思うより 恋をしていた〉と吐露しています。

そして、〈あんなに側にいたのに まるで嘘みたい〉と続くのですが、ここで「側にいた」と1つのカタマリであったレモンをそれとなく暗示する言葉を置くことで、最期のサビで出てくる〈切り分けた果実〉という言葉の印象を強める効果があります。

そして、最後のサビへ。

 

サビの前半は1番と同じなので省略。

このサビで凄いのは伏線を全て回収していく後半部分です。

〈切り分けた果実の片方の様に 今でもあなたはわたしの光〉

ここの部分で最初に考えなければならないのは〈切り分けた果実の片方の様に〉という比喩です。

半分に切ったレモンの断面を思い出して欲しいのですが、みずみずしい果汁と放射状に見える部分はまるで輝く光のようになっています。

ここでは「あなた」を見立てたレモンを視覚的に見ています。

しかも見ているのはその断面。

当然ですが断面は「切り分けて」からでなければみられません。

つまり離れ離れになって始めて(というか改めて)あなたの大切さに気付いたということです。

これはCメロの〈自分が思うより 恋をしていた〉からも明らかでしょう。

そして、そんな2つに分かれて(別れて)しまった「あなた」が〈今でもわたしの光〉と歌われているわけです。

2つに切ったレモンに対する情報を並べてみると以下のようになります。

1番のサビ〈胸に残り離れない 苦いレモンの匂い〉

2番のAメロ〈暗闇であなたの背をなぞった その輪郭を鮮明に覚えている〉

最後のサビ〈切り分けた果実の片方の様に 今でもあなたはわたしの光〉

嗅覚、触角、視覚のどの思い出も「忘れられないもの」として描かれています。

ただ忘れられないでなく、様々な器官であなたを「忘れない」と表現することで、「あなた」に対する思いの強さがいっそう明確になります。

しかもそれをレモンに見立てているため、下品じゃない。

僕はこの「言外に思いを伝える」部分こそが米津玄師さんの『Lemon』の凄さだと思うのです。

そしていちいちそんなことを考えなくても、歌を聞くだけでそれとなく全てが伝わってくる。

宮崎駿さんの『風立ちぬ』もそうですが、どの深さで作品に向き合っても楽しめるという部分が本当に凄いと思います。

 

アイキャッチはもちろん米津玄師さんの『Lemon』

 

Lemon

Lemon

 

 

「アナ雪嫌い」を言語化してみた

僕は「アナ雪」が嫌いです。

というか、正確には「アナと雪の女王」のメッセージに共感している人が嫌いです(笑)

なんていうか、「アナと雪の女王」に出てくる「ありのままで」というメッセージを、勝手な解釈で受け取っているような感じがしてならないのです。

 

誤解のないように断っておくと、僕は「ありのままでいればいいよ」という、「アナと雪の女王」の持つ、本来のメッセージにはむちゃくちゃ共感しています。

全員が無理に人に合わせたり、自分を押し殺す必要はないというのは本当にその通りですし、何より当時の時代の空気感にあっていたと思うからです。

僕が違和感を抱くのは、この「ありのままでいればいいよ」というメッセージを、「ありのままを受け入れて」という意味で解釈して共感している人たちです。

「ありのままいればいい」とは言っているけど、「受け入れて」なんて言っていないだろと思ってしまうのです。

 

「ありのままでいればいい」というメッセージは、自分のスタンスの問題です。

同調したり自分を取り繕うといったことをせず、自分らしくいればいいという、「自分に対する」強いメッセージです。

この意味における「ありのままで」という言葉には、言外の「周りにどう思われたとしても」という意志の強さがセットになっていると思うのです。

つまり、「アナと雪の女王」的なありのままは、「周りにどう思われても自分らしくいればいいよ」という肯定の言葉です。

その結果、周りにどう見られるかは分からないけど、きっと理解してくれる人が現れるはずという、ある意味で大変に自分のメンタルの強さが求められる意志表明妥当な思います。

でも、これがアナ雪で言いたい「ありのままで」というメッセージの真意だと思うのです。

 

一方で、「ありのままの自分を受け止めて」という言葉は、上に書いたアナ雪のメッセージに一見すると似ているようにも聞こえますが、内実はまるで異なります。

「ありのままでいる」というのは、周囲の奇異の目に耐えるというリスクを含んでいます。

つまり、周りに快く思われないかもしれないというリスクを背負う覚悟が含まれた言葉なのです。

それに対して「ありのままで受け止めて」という言葉には、自分が自分らしさをさらけ出したときに生じる他者の接し方に対する注文になっています。

「ありのままで受け止めて」というのは周囲に対する願望であり、本人のリスクを背負う覚悟が存在しないのです。

その意味ですごく無責任な姿勢です。

 

僕はこの「ありのまま」でいることと覚悟がセットになったアナ雪のメッセージを、都合のいいように編集して、自分はリスクを背負う気はないけれど「ありのまま」でいたいし、そういう自分が認められる社会であるべきみたいに見える「ありのままを受け入れて」型のアナ雪ファンが非常に苦手なのだと思います。

 

一方的に「自分らしさ」なるものを出した上で、それを認めない社会が間違えているというのは無責任な気がするのです。

別に「自分らしさ」はいくらでも出せばいいけれど、それが受け入れられるかとうかは別問題です。

かりに「自分らしさ」を出したときに周りが冷たい目をしたとして、それは間違った世界でも、まして周囲の人が悪いわけでもなく、ただただその人の「自分らしさ」に需要がなかっただけのお話なのです。

それでも「自分らしさ」を出し続けて、そういう目に耐えていれば、もしかしたらその「自分らしさ」を受け入れてくれる人がいるかもしれない。

それがアナ雪的な「ありのままで」なんじゃないかと思うのです。

だから、受け入れてもらえる所までをセットにした「ありのままで」を欲する人がとっても自分に都合のいい解釈をしているように思えてしまうのかもしれません。

これが、僕が「アナ雪」を好きになれない理由だったりします。

 

ありのままでいいけど、受け入れる事を周囲に強要するのではなく、リスクを背負おうよ。

 

アナ雪に共感する話を聞くたびに、こんな風に思ってしまうのです。

 

アイキャッチはアナ雪のDVD

 

アナと雪の女王 (吹替版)
 

 

 

有縁社会の縛りと無縁社会の秩序

「素顔同盟」の主人公はどうなったのか?

「......きみたちも現在,義務として仮面を着用しているわけだが,不便を感じたことがあっただろうか。考えてもみなさい。もし,きみたちが仮面をはずし,喜怒哀楽をそのまま表したりしたら......。この世は大混乱に陥るだろう。人は憎しみ合い,ののしり合い,争いが絶えなくなるだろう。いつもニコニコ,平和な世界,笑顔を絶やさず,明るい社会。仮面はわたしたちに真の平和と自由を与えてくれたのだ......。」

ぼくは友人にきいてみた。

「先生の今の話,おかしいと思わない?」

(すやまたかし『素顔同盟』)

僕が大好きな小説『素顔同盟』の1冊です。

この作品の世界では、争いや揉め事を無くすため、すべての人間が外に出るときは常に笑顔に見える仮面を被っていなければなりません。

学校の先生や友人など主人公の周りにいる人々は、この「仮面」のおかげでヘタないざこざがなくなってよかったと思っています。

でも主人公だけは違う。

笑顔の仮面の裏のホンネを見せないままに成り立つ世界に(そしてそれに疑問を持たない周囲の人たちに)、非常に違和感を抱いています。

ある日主人公はそんな窮屈に耐えきれなくなって、川のほとりでこっそりと仮面を外してしまいます。

この作品の世界で人に見られる可能性のある場で仮面を外すのは許されない行為。

それでも主人公は耐えきれなくて外してしまうのです。

そんな仮面を外した主人公の前に一人の女性が現れます。

仮面を外したところを人に見られたと恐れたのですが、その女性も仮面を外していました。

一瞬の出会いの後、彼女はふっと消えてしまいます。

そんな出会いから数日、学校ではどこかに仮面を外して暮らす人たちがいるという噂が流れていました。

主人公はその話を聞いて、誘われるようにその集団の元へ向かっていくのです。

 

「素顔同盟」をすごーーくざっくりとまとめるとこんな感じ。

(いい加減すぎるので、ぜひこちら素顔同盟 - 教育出版で全文を読んで見て下さい)

当時子供だった僕は、主人公の抱く違和感に非常に共感したのと同時に、その後の主人公はどうなったのかということが、ずっと気になっていました。

 

進撃の巨人」と壁の向こうというモチーフ

僕がゼロ年代を象徴する作品をあげて欲しいと頼まれたら間違えなく挙げるであろう作品の1つに進撃の巨人があります。

巨大な壁に守られた世界で生活していた人々の前に、ある日突然大型の巨人がやってきて、その壁を壊して平穏な生活をする人々の世界に侵入します。

そして次々とそこに住む人々を襲い、人々はどんどんと食べられてしまう。

そんな衝撃的なシーンから始まる進撃の巨人ですが、当時の僕はこの「突如外部から壁を壊される」というモチーフが、その頃の情勢と合致していて非常に面白いなと思っていました。

当時の僕は、震災だとかグローバル化による海外との接点の急増だとか、そういうものに対する不安が(作者の意図に関わらず)象徴的に描き出されているように思っていたのです。

 

そんな風に思って読んでいた進撃の巨人ですが、少し停滞期を迎えていたのと、仕事が忙しくなってマンガに触れる機会が激減していたのとが重なって、13巻くらいから読むのが止まっていました。

そして、最近久しぶりに読み返すことがあった(というか絶賛読み返し中)のですが、読み返した僕の中にはもう1つ別の文脈で見る進撃の巨人があったのです。

それが「素顔同盟」に出てきた仮面に疑問を持たない人々と、仮面を外して生きる人々の2つの世界の断絶です。

僕には巨人の住む世界が、素顔同盟における仮面を外した人々が暮らす世界であるように思えたのです。

 

「楕円幻想論」と「賭ケグルイ」に出てくる無縁社会の秩序

僕が昨年読んだ本の中で、かなり影響を受けたものの1つに平川克美さんの『21世紀の楕円幻想論 その日暮らしの哲学』があります。

この本に出てくる「無縁社会」という考え方が非常に面白いなと思いました。

僕たちが「普通」に暮らしている社会は、様々な人との繋がりで成り立っている、いわば有縁社会です。

そこでは困った時や大きなアクシデントに見舞われた時に手を差し伸べてくれる様々なセーフティネットが存在しています。

他方、そうした「普通」の社会からはみ出してしまった人がいるのが無縁社会です。

ヤクザやその日暮らしの人たちがそう。

「普通」の側からそうした人たちを見たら、そこは困った時に頼れるセーフティネットのない、荒涼として絶対に足を踏み入れるべきではない世界に見えます。

しかし、実際にそこに属する側となって見ると内情は異なり、確かにそこには有縁社会でいうセーフティネットは存在しないけれど、確かな秩序が有るのです。

楕円幻想論では、筆者の経験を踏まえて、こうした「無縁社会の秩序」が描かれています。

 

僕は『賭ケグルイ』という漫画作品のテーマは極めてこれに近いのではないかと思っています。

賭ケグルイ』には主人公の女の子がギャンブルで競り勝つことで学校生活を生き抜く様が描かれていますが、そのギャンブルの構造を見ていくと、必ず無縁vs有縁という形になっています。

(いうまでも無く主人公は無縁社会の側です)

この作品では、無縁社会の論理で生きている主人公が、有縁社会で勝ち残った様な人たちとギャンブルを通して戦い、そして勝つことで物語が成立しているのです。

もちろん主人公が有縁社会で勝ち抜いた敵を倒していく爽快感はもちろんですが、また1つ僕はこの作品の中で興味があることがあります。

それは、(敵味方を問わず)元々は有縁社会で疑問を抱えていた人間が無縁社会の扉を叩く瞬間が多数描かれている部分でした。

この作品では主人公の夢子とギャンブルをすることになった相手が、度々それまで当人が守ろうとしていた全てを捨ててギャンブルに向かう様が描かれます。

物語の構成上、出てくる敵が敵である以上、確かに夢子の破れ、それこそ有縁社会では再起不能なほどのペナルティを追うのですが、この作品ではそんな状態に陥った敵にも救いの場が与えられています。

それが無縁社会的な秩序の中での救いなのです。

賭ケグルイという作品の中では、どんなに重いペナルティを追って、「普通」の社会(有縁社会)ではもう生きていけなくなった様な人たちでも、必ず無縁社会の理論の中では生きていく術が与えられています。

逆に、最後まで有縁社会的な戦いにこだわる人は絶対に主人公たちには勝てないし、そこには救いも用意されていません。

僕はこの、全てを賭けて勝負をして、それで負けて全てを失った人間でも生きられるというのを描き切ったというのがすごいと思うのです。

 

縁の無い世界とそこにある秩序

僕の中では「素顔同盟」「進撃の巨人」「賭ケグルイ」はどれも同じカテゴリに含まれる作品です。

それらは僕にとって有縁社会の外にある無縁社会というテーマでつながっているのです。

「素顔同盟」では有縁社会の違和感に耐えられなくなって無縁社会に向かう主人公の姿が、「進撃の巨人」では断絶された有縁社会と無縁社会の距離が、そして「賭ケグルイ」には無縁社会の側の秩序が描かれている様に思います。

僕はこの「無縁社会」という部分に共感を持つ人々が一定数いると考えています。

有縁社会の側から見れば恐ろしく無秩序で、救いのない非常に怖い世界に見えるけれど、実はそこにはしっかりとした秩序がある。

素顔同盟で思わず仮面を外した主人公は、仮面を被っている人たちの論理からすれば非常に恐ろしい世界に行ってしまったように見えるけれど、実は本人にとっては生きやすい、そちら側の秩序があるところに行って、それなりに幸せに暮らしているんじゃないか。

色々な作品と、そこに出てくるモチーフのトレンドを見て、10数年越しにそんなことを感じました。

 

 

アイキャッチ賭ケグルイ

 

 

続・カリスマは、近しい人を不幸にする

以前、「カリスマは、近しい人を不幸にする」というブログを書いて(カリスマは、近しい人を不幸にする。 - 新・薄口コラム)、そこそこのアクセスを頂いていたのですが、それから読んできた本や出会ってきた人々を見ている中で、もう少しバリエーションがあるのではないかと思うようになったので、カリスマ研究の続編としてまとめて行きたいと思います。

 

カリスマの持つ「高エネルギー」は他者がいて知覚されるもの

 

僕たちは、自分の時間を動かす歯車を持っていて、

それは一人でいるなら勝手な速度で回る。

他の誰かと、例えば君と、触れ合った瞬間に、歯車は噛み合って時間を刻む

ポルノグラフィティハネウマライダー

 

ハネウマライダーの中でこんな風に歌われています。

僕は人の持つエネルギーってまさにこんな感じだと思うんです。

単体でどんなにエネルギーを持っている人であっても、その人が他者に影響を与えていないうちはそこにあるだけです。

それはエネルギーがないのと本質的には変わりません。

 (山奥にスティージョブズやマイケルジャクソンが住んでいたところで、誰にも自覚されなければいないのと同じです 笑)

他者に影響を与えて初めて、カリスマの「カリスマ性」意味を持ち始めると思うのです。

 

カリスマが周囲に与える2種類の欲求

 

他者に影響するのがカリスマだとして、何を与えているのか?

僕はその正体が山竹伸ニさんの『「認められたい」の正体』 (講談社現代新書)で書かれいてる親和承認と集団的承認という2つの承認にあると思うのです。

親和欲求とは、家族や恋人、友人から与えてもらえる無償の愛のようなもの。

いわゆる「ぬくもり」とか「分かってくれる」みたいなものがここに該当します。

もう一つの集団的承認とは、特定の組織や集団の中で成果を出すことによって周りに認められるというタイプの承認です。

カリスマ性のある人たちは、上に挙げたような他者の求める承認を人一倍相手に与えることができます(できてしまいます)。

だからこそ、それを許容できる人ならば最大限の能力が発揮できるのですが、与えるエネルギー量に対して受け取る器の大きさが伴っていなければ、その受け手が壊れてしまうと思うのです。

というのが前回までのお話。

 

2通りのカリスマ性と、侵食されないメンタルの作り方

 

僕はこのカリスマ性を①焚き付け型と②懐柔型のふたつに分類しています。

①の焚き付け型とは、他者の承認欲求に対して次々と期待値と言う名の信頼を与え続けられるタイプのカリスマ性のこと。

このタイプは太陽みたいな輝きを持っており、みんな近づこうとしますが、近づくほどにその熱量の大きさに焼き尽くされてしまいます。

もう1つの②懐柔型は、相手のことを全て許容して、この人だけは自分の事をわかってくれると思わせてしまうタイプ。

新興宗教やマルチ、ホストなどに多い気がします。

ここにいる人を慕ってしまうと、強すぎる親和欲求で、他者からの意見に耳を傾けられなくなってしまいます。

あたかも蟻地獄に吸い込まれるかなように...

本来コミュニケーションをベースに得なければない集団的欲求との和で保つはずの承認欲求が、本来自分ではアンコントローラブルな親和欲求で満たされてしまうからです。

(逆に、焚き付け型のカリスマの場合は、本来親和欲求で得るべき承認までもを集団的欲求で満たせてしまえるから壊れて行くのかもしれません。)

 

僕はこの焚き付け型のカリスマと懐柔型のカリスマを、それぞれHUNTER×HUNTERに出て来るイルミの念能力と、NARUTOに出て来るカグヤの能力に近いものと捉えています。

前者はキャパ以上の成果を要求し(そして太陽に焦がれているからこそ近づこうと頑張って)、後者は実社会では本来得られないほどの承認を与えることで現実世界を相対的に生きづらく思わせてしまう。

いいとか悪いとかじゃなく、カリスマ性を帯びた人には少なからずそういった側面があると思うのです。

 

カリスマ性を帯びた人は意図的に他者を傷つけようだなんてもちろん思っていません。

むしろ、本気で相手のことを考えている場合が殆ど。

しかしその優しさは、トラとかライオンとかが与える優しさだったりします。

トラにとってはスキンシップのつもりで撫でたつもりでも、ネコや、まして雑草のようなものにとっては致命傷になることは不可避です。

 

カリスマ性のある人に近づきつつ幸せに暮らすには、自分自身が同じ強さを手に入れて横に並ぶか、相手のエネルギーを全て受け入れきる許容度が不可欠です。

僕はこれを、2年前のエントリでは不動明王タイプと弥勒菩薩タイプと呼びました。

たぶんこの説は間違えていないはずです。

 

不動明王タイプと弥勒菩薩タイプ。

以前はこの辺について何もまとめていなかったので、今回はきちんとまとめてみようと思います。

(続きはいつになるのやら...笑)

 

アイキャッチはMr.カリスマといっても過言ではないローランドさんのこの本。

彼は懐柔型の典型だと思います。

俺か、俺以外か。 ローランドという生き方

俺か、俺以外か。 ローランドという生き方

 

 

 

強いメンタル作りの前に大事な弱ったメンタルの救い方

強いメンタルを作る前にしなきゃいけないこと

季節が原因なのか人の移動が多いことが原因なのかは分かりませんが、毎年この時期になると、メンタルが弱っている人が増えるような気がします。
かくいう僕もこの時期は気持ちが落ちていることが多かったりするわけです。
メンタルが弱ってしまう原因と対処法について、僕は次のように考えています。
まずはメンタルが弱ってしまう原因について…

基本的に僕は人のメンタルをポケモンの体力ゲージのようなものと考えています。
対人関係で気を使ったり、つらいことや威圧的な環境にさらされると徐々にそのゲージが減ってきて、50%をきると自身を喪失したり、元気がなくなってしまいます。
そして、30%を切ったあたりから今やっていることが嫌になったり、身の回りの多くが楽しく感じられなくなります。
そして、10%になってしまった状態がメンヘラというのが僕の印象です。
僕たちは普段、いい状態を保つためにゲージを60%以上を維持するように生活しています。
メンタルがつらいと感じるのは、このゲージが自分が普段維持している水準に比べ極端に下回っている場合です。

もちろんこうした状態にならないように「予防」をすることが第一なのですが、そういったアドバイスは既に50%を切ってしまっている人には役に立ちません。
風を引いて寝込んでいる人に向かって「運動してしっかり食え!」なんて言ったら怒られてしまいますよね?笑
メンタルに関してもそれと同じで、万全の状態のときと弱っているときでは、取るべき行動は異なってくるのです。

メンタルを回復させるための2つの方法

通常の場合(メンタルゲージが50%以上の場合)であれば、メンタルゲージが減りづらいマインドセット作りが有効になってきますが、既にメンタルが弱っている場合の回復手段としては、そのやり方は十分に機能しません。
こうした状態のときに必要なのは、「メンタルゲージが減りづらいマインドセット作り」ではなく、「メンタルゲージを回復させる具体的な手段」だからです。
メンタルゲージを回復させる具体的な手段として、①自然治癒と②他者からの注入の2つがあるというのが僕の持論です。
①は言葉の通り。
人は寝るなりご飯を食べるなりをすることで、メンタルゲージを少しずつ回復することができます。
メンタルゲージを減らす要因を避けつつ、自己治癒で回復を待つのが、①を使ったメンタルの持ち直し方です。
こちらは自分でできるという利点がある反面、時間がかかりすぎるというのと、外部からのストレス等から逃れられない場合には効果が発揮されないという弱点があります。
(そもそも通常は[ストレス<自己治癒]であるはずのところに何らかの外的影響で[ストレス>自己治癒]になってしまったのがメンタルが弱る原因なので、これは仕方のないことです。)
こういった状態を抜け出す手段として重要なのが、②の他者からの注入という方法です。

 

「『認められたい』の正体」と「スリランカの悪魔祓い」


孤独感に苛まれ、寂しさに打ちのめされた経験を持つ人なら、誰でも愛や友情を希求して止まない思いに駆られたことがあるだろう。~大多数の人間は、こうした親和的承認への欲望を抱き、愛と信頼の関係を求めている。
しかし、親和承認は自分ではどうにもならないという一面を持っている。
山竹伸ニ「認められたい」の正体

山竹伸二さんは、家族や恋人、友人から得られる無償の愛や信頼といったものを親和承認と呼んでいます。
これらは多くの人が求めるし、人に不可欠なものだけれど、それを多く望んでも自分でコントロールすることはできないものとされています。
だって他者から与えられるものだから。
僕はこの親和承認こそが、メンタルが弱ったときに回復させるため特効薬であると考えています。

スリランカでは自分が住む村の中の人が引きこもってしまったとき、その人に悪魔が取り付いたのだと考え、村人総出でその人のために他のことは投げ出して3日3晩踊って悪魔祓いをするそうです。
この自分の所属するコミュニティにいる人に問題が起こったときに、村人が全員一人のために時間を尽くすというのは、一人のために利害関係を捨てて無償の愛を注ぐという点で、山竹伸ニさんのいうところの親和欲求に近いものがあります。
ゲージの減り具合に赤信号が灯った場合、周囲から親和欲求を注いでもらうことがメンタルを回復するのに非常に効果的なわけです。
これを踏まえると、メンタルゲージを回復するもう②の方法は「家族や恋人、あるいは親しい友人に親和欲求を満たしてもらう」ということになります。

自己治癒力と知人を頼ることで弱ったメンタルを一気に回復して、元気になった段階で傷つきづらいメンタルを身につけていくといのが、メンタルが弱った人の戦略になります。
弱っていると感じる人は、何よりもまず①②をフル活用してメンタルの回復に努めることが大切なのです。

 

アイキャッチ上田紀行さんの『スリランカの悪魔祓い』

 

1万時間の法則と作ることが「気づき」を深くする

何でも1万時間くらいかけたら100人に1人くらいの実力になれるという「1万時間」の法則があります。

僕は塾の先生を始めて、なんだかんだ予習や業務をいれず、授業をしてきた時間だけの通算で1万時間をとうに超えているわけですが、やっぱりそこそこ見えてくるものがある気がしています。

授業の展開や子供たちのやる気を引き出すノウハウetc...

そういう部分ももちろんなのですが、それ以上に僕が1番実感していることは、「気づける」ようになったという部分です。

 

この「気づき」には色々あります。

パッと出せるものだけでも教材作成者の意図、生徒の表情や仕草の機微etc...

もちろん昔からそういった部分を汲み取ろうと意識してはいましたが、1年目と現在を比較すると、気づけることの細かさがまるで違っているように思います。

ある程度経験値が溜まって、自分の中に基準線となるようなものができてきたからこそ、そういった基準線と比べた部分の差異に意識が向けられるようになったのだと思うのです。

どんな分野であっても、そういった基準線がないうちは、どうしても漠然と全体を捉えるしかなくなってしまう。

漠然と捉えているうちは細かな差異なんて見えてくるはずがないんですよね。

 

「気づく力」という意味では、経験の積み上げともう1つ、作るという体験が非常に重要だと考えています。

僕は趣味が手品だったり、作曲だったりと、とにかくとっ散らかっている(笑)とよく言われるのですが、自分の中では全て同じ趣味だと思っていて、その共通の軸が「作ること」だったりします。

別に手品や作曲が熱烈に好きというわけではなく、多分何かを「作ること」が非常に好きなのだと思うのです。

 

んで、この「何かを『作ること』」のどこが好きなのかっていうのを掘り下げてみると、自分の興味の源泉は作り手になることで得られる気づきの深さにあるのだということに気がつきました。

例えば、手品の演者になってみると、なぜその手の動きなのか?なぜそのセリフなのか?というような、見ている時には気にも止めなかった仕草の意図や、演出効果が驚くくらいに分かるようになります。

あるいは作曲なら、ベース、ギター、ピアノ、ドラム、ストリングスetc...という音を重ねていく経験をすることで、普通に今日を聞いている時に、どの楽器がどんなメロディになっていて、それが全体にどういう影響を及ぼしているのかということに気がつけます。

もちろんそれらを体系的に分類して、自分が作ることに生かすみたいなことは一朝一夕でできるはずもありませんが、「きづく」だけでいいのなら一度でもそのジャンルの作り手を経験するだけでかなり変わってくるように思います。

受け手として関わっているうちには絶対に気づくことができない視点に気づくことができる。

これが「作ること」の最も魅力的な部分だと思うのです。

 

目の前に与えられた物の持つ情報量が同じであるとするなら、価値を生み出す場合でも個人として楽しむ場合でも、どちらも自分がどこまで気づけるかが重要な気がします。

その気づきの深度を得るための分かりやすい手段が1万時間の法則(趣味を楽しむ程度なら100時間くらいでいいと思いますが...)だったり、作ることだったりだと思うのです。

「気づきの深度」を上げていくっていうのは、結構色々なことに役立つ、便利なライフハックなんじゃないかなと思います。

 

アイキャッチ円城塔さんの『道化師の蝶』

ここに描かれる「銀色の糸でできた網」の目の細かさが僕の「気づきの深度」に近い印象です。

道化師の蝶

道化師の蝶

 

 

 

物語を「物語る」ことば

「待つことも 恋でした くるり かざぐるま」

一青窈さんの『かざぐるま』の一節です。

この曲は藤沢周平さんの『蝉しぐれ』を映画化した時の主題歌なのですが、僕は冒頭に引いた一節が、これ以上の言葉はないというくらいに作品を表していると思っています。

蝉しぐれ』はとある藩で生まれた少年文四郎が、幼い頃から心を通わせていた少女ふくと紆余曲折と数十年の月日を経て、一日だけ結ばれるお話です。

文四郎は幼少期に父が謀反を起こして切腹させられたことや、それをきっかけに起きたさまざまな出来事で、多くの苦労を重ねます。

一方でふくは藩主に見初められて側室となり、二人は到底接点を持ちようのない存在になってしまいます。

しかし、20年の歳月を経て、不意なことから二人は再開することになり、一夜だけ共にすることになります。

その後に結ばれるわけでもなく、翌日からは再び決して交わることのない二人の生活があるわけですが、そこで二人の思いは遂げられます。

僕ごときの陳腐な要約力ではとても説明しきれない作品なので、ぜひ読んで欲しいのですが、そんな長編小説を踏まえて改めて冒頭に挙げた『かざぐるま』の一節を読むと、本当に見事にこの小説の内容を凝縮しているように思うのです。

 

こんな風に、本当に見事にその物語を言い表しているなあと思う作品は、小説以外にもたくさん見つけられます。

歌で言えばBUMP OF CHICKENの『K』なんかがまさにそう。

『K』というタイトルだけでは何のことかわかりませんが、その中に出てくる主人公が愛した聖なる夜にちなんで名付けられた「ホーリーナイト」という猫の名前と、主人公と猫の一生を知った後、最後の一節を聞くことでこのタイトルの意味が分かると共に、歌の中で展開する物語が完結します。

タイトルを物語の最後のピースに使うという意味で、これも物語を象徴する凄い「ことば」だと思います。

 

そしてもう一つ、映画の作品の中で「ことば」が作品を見事に表している思うものがあります。

それが『スラムドッグミリオネア』の映画のキャッチコピーです。

『スラムドッグミリオネア』は、日本でも以前みのもんたさんが司会者になってテレビで放映されていたクイズミリオネアのモデルになった(詳しくは知らないので違っていたらごめんなさい)作品です。

インドのスラム街で育った少年が、様々な知識や経験がなければおよそ攻略することができるはずのないクイズに次々と正解し、ついには優勝してしまうというお話。

話しはここから始まります。

主催者側はそんなみすぼらしい少年がクイズに正解できるはずもないと考え、どんなイカサマをしたのかと尋問します。

しかし、少年の話を聞くと、そのクイズに出てきた内容すべてが、その少年のスラムでのつらい人生の中で経験してきたものだったのです。

一見するとスラム街育ちの無知な少年ですが、実はそのクイズに出題された全ての問題と似たことを、その境遇ゆえに体験していた。

だから学も教養もない(と思われていた)少年が全ての問題に正解できたのです。

と、こんなあらすじの『スラムドッグミリオネア』(因みにこの作品はネタバレしても十分に面白いと確信しているので、あえてぼかさずに書きました)。

この作品のキャッチコピーは『運じゃなく、運命だった。』です。

『かざぐるま』『K』と同じで、内容を知るまでは何のことか皆目検討もつきませんが、全編を通して知った後はこれ以上ない素晴らしい要約であるように感じます。

 

自分の意見でも物語でもそうですが、端的に(なのに言われてみれば)これ以上ないというような言葉で表されたものをみると本当に感動します。

上記の3つの「ことば」は僕がそれを感じた数々のことばの中でも特に凄いと思うもの。

こういう次元での言葉選びができるようになりたいなあと思う今日この頃...

 

アイキャッチBUMP OF CHICKENの『K』が収録されたこのアルバム

THE LIVING DEAD

THE LIVING DEAD