新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



超攻撃的太鼓持ちのすすめLV4~「離見の見」でキャラクターを強化する~

前回のエントリ(

超攻撃的太鼓持ちのすすめLV3~キャラクターを知りレバレッジをかける~ - 新・薄口コラム

)で、非モテタイプが自分の言葉に熱量を持たせたいのなら、キャラを意識するのが大切というお話しを書きました。
(そして、キャラの見つけ方は

超攻撃的太鼓持ちのすすめLV3~キャラクターを知りレバレッジをかける~ - 新・薄口コラム

.で書いた通りです)
というわけで今回のエントリでは、実際にキャラを用いて熱量のある言葉の作り方(というより見つけ方)をまとめていきたいと思います。

「離見の見」でキャラを見る

また舞に、目前心後といふことあり。目を前に見て、心を後ろに置けとなり。見所より見る所の風姿は、我が離見なり。しかればわが眼の見るところは、我見なり。~中略~後ろ姿を覚えねば、姿の俗なるところをわきまえず。さるほどに離見の見にて見所同見となりて、不及目の身所まで見智して、五体相応の幽姿をなすべし。(世阿弥『花鏡』)

世阿弥が花鏡の中で、上のように「離見の見」の大切さを述べています。
「離見の見」とは自分の演技を自分の視点ではなく、観客からはどう見えているかという視点のこと。
演技をしている自分を客観視的に捉える視点の重要さを説いています。

非モテタイプの人が自分の言葉に熱を持たせたい場合、僕はこの「離見の見」の意識が非常に有効だと思っています。

LV1のエントリで、「無条件に世界を楽しむ権利があると思える人がリア充で、世界にある物を楽しむには何か資格がいると考えるのが非モテ」という岡田斗司夫さんのリア充/非モテの定義を紹介しました。
リア充タイプが「無条件に世界を楽しむ権利がある」と思い込めるのは、よくも悪くも他者に対する「無神経さ」があるからです。
一方で非モテタイプの「資格がいると考える」というのは、周囲に無駄に気を使いすぎているから起こる症状です。
ポジティブに捉えれば、それは「観察眼が人一倍長けている」と還元できます。
ただし、非モテタイプは自分のことになると途端にその鋭い観察眼が曇ってしまう。
ということは、自分自身も「観察対象」にしてしまえば、その鋭い周囲に対する観察眼を活用することができるはずなんですよね。
そこで僕が有効だと思うのが「離見の見」なのです。

前回までに書いた方法で、帰納法的に自分のキャラクターの「タネ」を発見します。
そして、それが分かったら離見の見を意識して自分の「らしさ」を育てていく。
そうするうちに、矢沢栄吉さんが「YAZAWA」というキャラを演じているように、非モテタイプの人も自分「らしさ」に自覚的になることができます。
そして「らしさ」を自覚した状態で話せるようになれば、徐々に言葉に熱がこもるようになるのです。
僕はこんな風にして言葉に熱を乗せられるようにしてきました。

それでもキャラに自信が持てない人への特効薬

以上の手順を踏まえれば、ある程度自分の言葉に熱を持たせることができるようになります。
ただしこれはあくまでゆっくりと時間をかけて「らしさ」を尖らせていく方法です。
今すぐにでも言葉に熱を持たせたいという人には少し効果が薄いかもしれません。
というわけで、ある程度即効性のある方法も紹介したいと思います。
非モテタイプの人ができるだけ早くキャラを自覚する最も有力な方法は「他者に映った自分を分析する」という手段です。
周囲を観察することには長けているのに自分自身のこととなると上手くいかないというのなら、他者を媒介にして自分を分析すればいいのです。
他者を媒介になんて書きましたが、行うことは非常にシンプル。
要するに周囲のいろいろな人にヒアリングをすればいいのです。
その際、できれば深く関わっている人から軽い関わりの人まで、バイト先や職場の人、サークル仲間に飲み友達、普段の友人から昔の知人と、できるだけ幅広いサンプルを集めることが肝要です。
そうして他者の口を通して集めた自分のサンプルを回帰分析します。
そうすれば自分で考えるよりも数段冷静な分析ができるはずです。

そして、すぐに熱意を乗せたい場合は、キャラの育て方にも一工夫が必要です。
上記に書いたようなキャラを自覚して「らしさ」を少しずつ尖らせていくというやり方ではどうしても時間がかかってしまいます。
できるだけ早く言葉に熱を乗せたいと思う場合は、他の要素を少しだけ抑えて、相対的にキャラを尖らせるという方向に意識を向けてください。
どんな人でも当然いろいろな側面があります。
だからこそ面白いわけですが、それ故に「その人っぽさ」はぼやけてしまいます。
特に周りを気にする非モテタイプの人はそう。
だからこそ、「らしさ」と同時に取り繕ったり、とっさに見栄を張ろうとしたり出てきたような「らしくなさ」を減らしていくように意識するのが重要です。
「らしくなさ」を意識することで、逆に「らしさ」が強調され、結果的に熱の乗った言い方ができるはずです。

という感じで、今回までのエントリで「攻撃的太鼓持ち」になるにあたって必要な、言葉に熱を乗せる方法についてまとめてきました。
次からは実際に「攻撃的太鼓持ち」をするための方法をまとめていきたいと思います。

 

アイキャッチ世阿弥の『花鏡』

 

風姿花伝・花鏡 (タチバナ教養文庫)

風姿花伝・花鏡 (タチバナ教養文庫)

 

 

分節化された世界の間を歩いてみる

最近ジプシー音楽にハマっています。

といっても曲が好きというのではなく(曲は全く分かりません 笑)使っている音階に興味があるというイメージです。

ジプシー音楽にみられる、僕たちが普段聞き慣れた音階の間にある微分音が非常に面白いなあと思うのです。

僕たちが普段聞く音楽は大抵五線譜で描かれるものになっています。

そして、ギターにしろドラマにしろピアノにしろ、楽譜には基本的には同じ記号を用いて音が評価されているわけです。

例えば、ドの音なら誰が声に出してもドという音ですし、ド#の音はどの楽器で演奏してもド#の音がします。

 

楽器を演奏する人ならよく分かると思うのですが、僕たちはこうしてできた楽譜を当たり前に用いて、こうしてできた楽譜を当たり前のように楽器で演奏しています。

ピアノでもギターでも木琴でもハーモニカでも、ドの次の音はド#です。

しかし、いったん音楽という枠組みを外れて考えてみれば音はただの波長です。

波長という途切れることのない連続体として音を考える場合、ドの次はド#という、「分断された音の定義」は極めて不自然なものになってしまいます。

音を波長として見た場合、バッハが作った平均律の間にだって当然音はあるわけです。

その五線譜に現れない音を評価したものが微分音です。

 

僕は微分音に名前がつけられていないのが凄く好きだったりします。

ドとド#の間にある五線譜では評価できない音を僕たちが呼ぶ時、それは「ドとド#の間の音」としか言いようがありません。

僕にはこの「断定しない」という断定の仕方が、非常にいいなあと思うのです。

自分の価値基準では分からないもの、あるいは自分の価値基準で言語化した時に、陳腐化してしまうだろうと思って、あえて言語化しないという選択が、ここにはあるように思います。

 

数年前、サイコパスというアニメの2期に登場して、主人公にとって最後の敵となったキャラクターは、その世界の人間の価値を決めるセンサーには反応しない存在として描かれていました。

その敵は、センサーに反応しない=存在しない存在として描かれていました。

主人公たちはその「存在しない存在」の正体を追いかけるわけですが、僕はこの「存在しない存在」というキャラクターが非常に面白いなと思っていました。

高度にテクノロジーが発達した世界で、それが当たり前になった人たちにとって、そこに映らない存在は追いかけようがありません。

これって、テクノロジーの進化に対する問題提起であると同時に、すでにある僕らの生活に対する問題提起でもあると思うのです。

 

ジョージオーウェンが一九八四年で書いた、国の言語から語彙数を削ることで国民の思考力を奪おうとしたニュースピークもこれに似ています。

ちょうど国によって虹の色数が異なるように、例えばその人の世界の中に赤と黄色という言葉しか存在しなければ、橙色や山吹色、桃色、朱色みたいな中間の色の存在は区分はありません。

こういう分節された世界の間に存在するものに注目したのがサイコパスの2期だったように思うのです。

 

僕の中では微分音もこれと同じです。

そういう僕たちが認識しやすくするために、あるいは他者と理解を共有するために作り出した区分の間にあるものに気づける感性って、今後ますますテクノロジーが広がる世界の中で非常に大きな武器になるのではないかと漠然と感じています。

だから意識的にそういった「スキマ探し」をしている今日この頃。

荘子の『混沌』の中で、形のないものに形を与えていったらそれが消滅してしまったという話が書かれていますが、まさに人と認識を共有するために言語化や体系化する過程で失われてしまう「らしさ」ってあると思うのです。

そういう「らしさ」の発見が、今の僕の大きなテーマだったりします。

 

という言いたいことも結論も何もないお話(笑)

 

 

アイキャッチ荘子の話

荘子 全現代語訳(上) (講談社学術文庫)

荘子 全現代語訳(上) (講談社学術文庫)

 

 

 

検索以外の検索手段が自分を自分「らしく」する

たとえばご飯を食べたいと思ってお店を探すとき、みなさんは何を使いますか?

たとえばちょっと遊びに出かけようと思ったとき、みなさんは何で調べますか?

恐らくほとんどの人がとりあえずGoogleで検索(最近だとインスタで検索)なのではないかと思います。

因みに僕は基本的にこればかり(笑)

 

この前久しぶりにちょっと時間ができたので、無目的に散歩をしていたら、一件のお店を見つけました。

老夫婦と息子さんの3人で経営されているそのお店は検索して引っかかるようなWEBサイトを構えているわけでもありません。

食べログにもなっていないようなひっそりとしたお店。

でも、とても美味しいんですよね。

 

僕らはついつい何でも分かるように思ってしまいがちですが、ほとんどの場合で言語化されたものしか認識することができません。

それと同じでウェブに対して僕らが向き合う時も、ついつい何でも載っているかのような錯覚をしてしまいます。

でも、実際はウェブでは「載っている物しか調べられない」んですよね。

そんな当たり前のことをついつい忘れてしまう。

 

オンライン情報の情報が最終目的地である場合はオンラインの情報量>オフラインの情報量ということもありますが、観光にしろレストランにしろゴールがオフラインの場合、どこまでいってもオンライン>オフラインにはなり得ません。

でもついつい僕たちはそんな当たり前のことを忘れてしまう。

 

僕はこの、「ついつい忘れてしまう」というところにむちゃくちゃ大きな価値があると思っています。

みんながその前提を忘れてしまうということは、それを意識した情報収集手段を持っているだけで、大きな価値になります。

 

僕はその人らしさとは「他の人が真似できない部分だと思っています。

で、他の人が真似できない情報がその人「らしさ」なのだとしたら、それが足で得た情報なのか、そのジャンルで信頼できる知人からの口コミなのか分かりませんが、「誰でも真似できる」検索では出てこない情報にたどり着く手段を持っているのは擬似的に「らしさ」であるといえるように思います。

もちろん自分らしさは内からにじむものだから、周囲から情報を集めただけのことを「自分らしい」と呼ぶなんてけしからん!みたいな意見があるのも重々承知しています。

でも、僕はそういう努力してやっと手に入れられるだけじゃなく、外部の情報を持っているというだけでも充分に個性とカウントしていいと思うんです。

だって、「それを見つけるに至った過程」は十分その人らしいから。

 

検索以外の検索手段を持っている事。

そして検索しても出てこない(同じ結果を導くのではない手段で仕入れた情報)はその人らしさに相当するんじゃないか。

そんな風な事をふと思いました。

 

アイキャッチは松村圭一郎さん『後ろめたさの人類学』

うしろめたさの人類学

うしろめたさの人類学

 

 

 

超攻撃的太鼓持ちのすすめLV3~キャラクターを知りレバレッジをかける~

カリスマの2類型~スーパーサイヤ人型VSレバレッジ

以前僕は、周囲の人を惹きつける人を観察して「カリスマの研究」をしていたことがあるのですが、その際にカリスマにはスーパーサイヤ人型とレバレッジ型がいるということに気がつきました。
スーパーサイヤ人型は普段の自分をそのままに総エネルギー量を爆発的に増大させるタイプ、レバレッジ型は自分の「強み」に特化してその一点を強化するタイプです。
前者は人を惹きつける自分が素の自分の延長線上にあるのですが、後者は人を惹きつけるための「魅力」を強化するために、周囲から期待される自分の強みにレバレッジをかけているので、しばしば本人の延長ではない部分でその人の魅力を形成します。
これは決して周囲の目を気にして自分を取り繕っているというわけではありません。
そうではなくて、「自分らしさ」が一番光る部分を強調するために他の部分のねじを調整するイメージ。
「なぜかわからないけど惹きつけられる」というカリスマ性は前者で、「あの人らしい」というカリスマ性は後者です。
もちろんこれはどちらがすぐれているとか、本当の価値だとかいう話をしたいわけではありません。
ただただ2種類の系統があるよねというお話。
そして、今回の一連のエントリのテーマである「『非モテ』タイプの人の言葉に熱を乗せるのにはどういった手法が有効か」という文脈でみたとき、「非モテ」タイプの人は後者の「レバレッジ型」を目指すのがいいというのが僕の考えです。


「俺はいいけど、YAZAWAはなんて言うかな?」

矢沢栄吉さんの名言に「俺はいいけど、YAZAWAはなんて言うかな?」というものがあります。
何かを選択する際に、等身大の矢沢栄吉としての自分の意見の他に、多くの人に認知されている「スーパースター」としての「YAZAWA」像に合うかどうかという判断軸を持っている。
これって、僕はレバレッジ型の典型例だと思います。
矢沢さんのこの名言のように素の自分の価値基準と同時に、周囲の人が受け入れやすいキャラクターとしての価値基準を持っておく。
何でも興味を持ててしまい、一歩引いた視点でしか社会に参加できない非モテタイプの人には非常に相性のいい処世術だと思います。

前回のエントリで書いた通り、リア充タイプの演繹型の欲求に比べて非モテタイプの人の帰納的な欲求は他者からは見えづらかったりします。
(もちろん本当は強い欲求があるのですが)本人も自分の欲求に無頓着だからこそ色々なものに首をつっこめて、その上でそこそこ楽しめるわけなので、周囲がその欲求の所在を把握することは一層難しいわけです。
だからこそ、非モテタイプの人が周囲に自分「らしさ」を知って欲しいと思う場合は、リア充タイプがそれをのぞむのに比べて、多少の工夫が必要になってきます。
それがキャラにレバレッジをかけるという方法です。
四方八方に興味のベクトルが向いている状態では、周囲からしたらその人「らしさ」はしぼれません。
だからこそ自分の側で、自分の欲求に沿って、自分の興味のつまみを調整してキャラクターを演出することが重要なわけです。
前回のエントリに書いた帰納的な欲求の把握というのは、このレバレッジをかけるキャラクターを特定する方法です。
帰納的に自分の興味をある程度特定できたら、次の段階としてはその欲求に周囲の人が気づきやすいようにレバレッジをかけていく。
これが、非モテタイプが自分の言葉に熱量を乗せるために最も重要な部分だと思います。

文章量が増えてしまったので、具体的な手法の話はLV4で書きたいと思います(笑)

 

アイキャッチは「リア充」「非モテ」の定義を生み出した岡田斗司夫さんの名著『オタクの息子に悩んでます』

この本を読んで僕は本当に岡田さんの思考の凄さに圧倒されました。 

オタクの息子に悩んでます 朝日新聞「悩みのるつぼ」より (幻冬舎新書)

オタクの息子に悩んでます 朝日新聞「悩みのるつぼ」より (幻冬舎新書)

 

 

超攻撃的太鼓持ちのすすめLV2~熱のこもった言葉は帰納的に発見する~

言葉に熱意を乗せる方法を考えるにあたって、僕はまず自分が世界の主人公であると思い込める人を「リア充」、自分は世界の中心だと思い込めない人を「非モテ」という分類をしました。
そして、「非モテ」タイプの人が苦手とする、自分の会話への熱の載せ方を考えていこうというのがこの連載エントリの前半のテーマです。
繰り返しになりますが、別に「リア充」「非モテ」というのは性格を端的に言い表していると思って用いているだけで、実際にモテとは関係ありません
(実際に僕はモテませんが…)

リア充タイプの人と非モテタイプの人で世界に対する向き合い方が真逆であるのと同様に、熱意の感じ方も異なります。 
具体的にはリア充タイプは演繹的に熱量を見つけ、非モテタイプは帰納的に熱量を見つけます。
俺は○○がしたい!だからAもやるしBもやるしCもやるし…というのがリア充タイプの演繹的な熱量。
一方でなんとなくAもBもCも興味があるからやってみたんだけど、全部に○○が共通しているってことは私の興味はこれなのかも…っていうのが非モテタイプの機能的な熱量です。
どちらのタイプの同じように欲求も熱量も持っているんですが、発見の仕方が異なるんですよね。
だから、リア充タイプに「あなたがやりたい事についての話はいいから、やってきたものを教えてくれ」といってしまえば途端にその人の熱量は感じられないものになってしまうし、反対に非モテタイプの人に「まずはあなた自身の欲求を明確化しよう」というメンターみたいなことをしてもやりたいことが分からないなんてなってしまうわけです。

初対面で相手に熱量を伝える必要がある場合、演繹的熱量と帰納的熱量のどちらが相手に伝わりやすいかと言われれば、前者の方であるというのは明らかでしょう。
帰納法的なそれは自分の中での発見なので、時間が短い場合や関係性が薄い場合には伝わりづらいんですよね。
社会でのコミュニケーションにおいて「熱量を伝える」というのは演繹的な文脈で行われています。
だから非モテタイプの人は自分の熱量や欲求を予め演繹型の説明に対応できるように準備しておくことが不可欠なのです。

統計学の中に、集めたデータを表にして、その中に一定の方向性を見いだす回帰分析という手法があります。
クラス全員の身長と体重のデータを並べたら、なんとなく右肩上がりの直線になっているよねというのを発見するイメージです。
非モテタイプの人は、人に自分の欲求や熱意を伝えるためには、あたかも集めたデータに回帰分析の直線を引くように、予め自分が面白いと思って行動してきたものを羅列して、自分なりの傾向を理解しておく必要があります。
僕はこれを「熱意の公式化」と呼んでいるのですが、これをすることで、非モテタイプの人でも自分の欲求や熱量を初対面だったり、時間の限られたりという中でも伝えることができるようになります。

「熱意の公式化」に必要な具体的なアクションは、自分の行動の明文化に尽きます。
まずは思い出せる限り事細かに、自分がやったことを書き出して見て下さい。
ここでのポイントは、いい悪いに関係なく書き出すことと、些細なことでも漏れなく書き出すことです。
ここで、「あの時どんな風に思って行動したんだっけ?」みたいなことを思い出す必要はありません。
(そういう行動の欲求を思い出すのが苦手なのが非モテタイプですので、それを始めた途端に書き出すのが苦痛になってしまいます。)
あくまで目的は「データ集め」です。
「いつ」「どこで」「誰に」「どんなことをした」みたいな、記録でかまわないので書き出してみましょう。
で、できるだけ書き出すことができたら、その上で全て(できるだけ多くの要因)に共通しているものを考えて見て下さい。
またこの段階で「なんでそんなことしたんだろう?」を考えて見て下さい。
そこで出てきた共通項が、その人の欲求や熱量の源泉です。
これが帰納タイプの人の熱量の言語化の仕方。

次回以降のエントリで、ここで発見した熱量を用いた「攻撃的太鼓持ち」のなり方をまとめていきたいと思います。

 

アイキャッチ太鼓の達人(笑)

 

 

ミスチル「未来」考察 後編〜「ヒッチハイク」の意味を考える〜

だいぶ(というか1年以上 笑)空いてしまったのですが、Mr.Childrenさんの『未来』の考察の続きを書いていきたいと思います。

Mr.Childrenの『未来』は、BUMP OF CHICKENの『乗車権』、ポルノグラフィティの『ハネウマライダー』と並ぶ、夢と生き様を描いた三大乗り物ソングとして、勝手にタグ付けして脳内お気に入りフォルダにしまってある曲だったりします。

それぞれに作曲者の人生観が滲んでいるように思うのです。

BUMP OF CHICKENの『乗車権』(BUMP OF CHICKEN「乗車権」考察〜社会システムから「乗車券」と「バス」のメタファーを解く - 新・薄口コラム)とポルノグラフィティの『ハネウマライダー』(「ハネウマライダー」考察〜20代後半でもう一度聴きたい、ハネウマライダーの人生論 - 新・薄口コラム)はすでにエントリとして書いたので、今回はMr.Childrenの『未来』について、書きかけになっていた後半を書いてみようと思います。

(もし前半に興味を持って頂ける方がいましたら、こちらのリンク「ミスチル「未来」考察~ヒッチハイクする車のメタファーを探る~ - 新・薄口コラム」から飛んでいただけたらと思います)

 

ということで2番から。

<女が運転する 車が止まって 「乗せてあげる」と言った>

2番の出だしはこう始まります。

前半の考察で少し触れましたが、1番が周りの制止を振り切って無我夢中に夢を追いかけた主人公であるとしたら、目の前に現れた自動車に乗った「女」は幸運の女神のようなものと捉えることができます。

周囲のアドバイスも無視してがむしゃらに走り続けた結果行き先も分からなくなった(だけど引き返すこともできない)主人公の前に現れた女は、音楽業界で偶然プロデューサーのような誰かの目に止まった瞬間に重なります。

そして、主人公走り<感謝を告げて>、<助手席に座って また礼を言>います。

初めは偶然通りがかって目を止めてくれた「女」に感謝しきりの主人公。

しかし、慣れてくると次第に綻びが生じ始めます。

 

<しばらく走ると僕は 硬いシートに居心地が悪くなって>

初めは何度も礼を言っていた主人公は、やがてこのような状態になります。

僕が面白いなと思ったのが「硬いシート」というフレーズです。

これって、いざプロとして売り出す段階になった時に生じた、様々な制約やしがらみのメタファーなんじゃないかと思うんです。

偶然にもとある業界の人の目に止まって、プロになる道は開けたけれど、現実は様々な障害があった。

そんな、「プロになる」という夢の「現実」に嫌気がさし始めたのがここ。

 

続く歌詞にはこうあります。

<女の話に相槌打つのも嫌になって 眠ったふりした>

この時点で相手は話に耳を傾けなくなります。

そしてBメロへ。

 

<僕らは予定通りの コースを走ってきた 少なくとも今日まで>

1番で色々な人を排除して我が道を突き進んできたことを踏まえれば、ここの「僕ら」は主人公と女と考えることができます。

そして、そんな2人が立てた「予定通りのコース」とは、おそらく2人が出会った時に考えたものでしょう。

しかし、その後の主人公の態度からも分かるよう、徐々に堅苦しい「女」の注文に嫌気がさして、摩擦が生じ始めている。

<少なくとも今日まで>という歌詞には、そんな主人公が自分を拾ってくれた幸運の女神であると同時に、自分のやりたいことに制約をかける足かせになってしまった「女」との決別の意志がうかがえます。

そして2番のサビ へ。

 

<出会った日の僕らの前にはただ 美しい予感があって>

出会った時のワクワクはこのように示されています。

そして、それを信じていれば<甘い恋をしていた>と続く。

ここに「恋」という言葉が使われているため、この曲は恋愛の曲のように聞こえますが(そもそもこの歌詞考察は、「考察」という体で僕の主観を書き連ねるものなので、恐らく通説とは異なると思います。)それだと1番に出てきた主人公の態度と繋がりません。

だからこそ、僕はあえて「女」=「プロデューサーのような夢の案内人」という前提で書いています。

 

そして2番のサビの後半では<そして今 音もたてず忍び寄る この別れの予感を 信じたくなくて 光を探している>となります。

これはすれ違いはあるけれど、なんとかやっていける道を模索する主人公の気持ちなのかなと思います。

 

字数と著作権の関係から繰り返し部分は割愛して、最後の部分に。

<いつかこの僕の目の前に横たわる 先の知れた未来を 変えてみせると この胸に刻みつけるよ 自分を信じたなら ほら未来が動き出す>

今までは「未来を信じ」ていた主人公が、最後の場面では「自分を信じ」るように変わっています。

ここに来て主人公のスタンスが大きく変化しています。

それには1番のAメロの時にいたヒッチハイクを待っている主人公の姿はありません。

ここに描かれているのは自分を信じて歩き出そうとする主人公。

そして、最後に<ヒッチハイクをしてる 僕を迎えに行こう>のひと言。

将来の怖さに負けて、不安で待っている自分も運に頼る自分に「自分を信じたなら未来は変わる」と言いに行こうとする主人公。

これって、そう言い聞かせて一歩踏み出すということだと思うんですよね。

 

歌を通して主人公が覚悟を決めていく姿が描かれているということで僕のお気に入りの一曲であるMr.Childrenの『未来』。

当然好きであるがゆえに、多分に妄想が入っていることは承知です。

(というか「考察」とか言っておいて、実際はほぼファンの妄想 笑)

ただ、あくまで1つの見方として「へえ」くらいに思ってもらえればと思い書きました。

どうか優しい気持ちでご覧いただけたらと思います...

 

アイキャッチMr.Childrenで僕が1番好きな『HERO』

次回はHEROの考察を書きます!

HERO

HERO

 

 

 

超攻撃的太鼓持ちのすすめLV1〜言葉に感情を乗せるのが苦手な人への処方箋〜

「君の言葉は熱量が伝わらない。」

 

「君の言葉は熱量が伝わらない。」

学生時代にそんな風に指摘されたことがありました。

それが僕にとってなかなかのコンプレックになっていて、それ以来僕にとって「感情が乗った言葉」っていうのんは大きな関心事になってたりします。

先日、違う場で立て続けに僕の「感情表現のうまさ」を褒めて貰う機会があって、素直に嬉しかったのと、話を聞いている感じだと、僕と同様に言葉に感情を乗せるのが苦手という人が意外と多いのではないかと思ったので、こんな連載エントリを作ってみました(笑)

 

比較的何に対しても興味は持つし、自分に何か期待して任せられたのであればそれに応えようと全力になれるけど、「で、君は何がやりたいの?」と言われたら途端に閉口してしまう。

こういう経験がある人って案外多いんじゃないかなと思います。

僕はまさにこのタイプで、期待されたら嬉しいし、目に入った色々なものに興味は持つけれど、特に何もなければ川べりで一日中ぼーっとしていてもそこそこ楽しめてしまいます(笑)

だからこそ、「あなたの熱意はどこにある?」っていう質問が凄く苦手。

自分が興味のあることを熱く語ることはできるのですが、自分のことを熱く語ることはできないんですよね。

そんな訳で僕は就活の頃や社会人になりたての頃に結構な苦労しました。

 

「世界を楽しむ人」と「世界で楽しむ人」

岡田斗司夫さんが以前、ニコニコ動画の番組で無条件に世界を楽しむ権利があると思える人がリア充で、世界にある物を楽しむには何か資格がいると考えるのが非モテというようなお話をしていました。

(リア充と非モテ、定義してみようか! - FREEexなう。)

初めてこの定義を見たときに妙にしっくりきて、以降「自分が世界の主人公であると思い込める人」と「自分は世界の中心だと思い込めない人」というようにもう少し捻じ曲げて(笑)使っています。

この区分けで行くと、「自分の熱意を語れる人」は圧倒的に自分が世界の主人公であると思い込める人で、「自分が興味のあることを熱く語ることはできるのですが、自分のことを熱く語ることはできない人」は自分は世界の中心だと思い込めない人だと思うんです。

んで、僕は圧倒的に後者。

 

これは本人のスタンスの話なので、どちらが正しいみたいな話ではありません。

だから、前者の人が「そんな見方してたってつまらないから主人公になって楽しもうぜ!」っていっても有効な解決策にはならない。

学校の隅で友達数人と趣味のアニメについて盛り上がっている人をいきなりクラスの中心では恋バナに花を咲かせているメンツの中に引き込んでカラオケやユニバに行くのと同じ感じです(笑)

 

「自分は世界の中心だと思い込めない人」という表現をすると、(特に前者タイプの人には)ネガティヴに聞こえるかもしれませんが、当人にとって決してネガティヴな印象ではありません。

本当にただのスタンスの話。

ただ、前提となる世界への関わり方が違うわけなので、当然言葉に対する熱量の乗せ方も違ってくるわけです。

 

にも関わらず、現実には後者のタイプなのに、前者のアピール方法を頑張って取り入れようとしてしまう。

そうすると、当然ながら相手に気持ちや言葉がうまく伝わりません。

リア充集団に1人だけさらわれたオタクがU.S.Aとかで盛り上がっているカラオケで1人けものフレンズとか熱唱したら想像するだけで地獄です。

彼らは「その歌が好きだからU.S.Aを歌う」のではなく、「その歌でみんなと盛り上がるのが好きだからU.S.Aを歌う」んですよね。

リア充的な集団にはリア充的な集団の文脈があるわけです。

当然非モテの集団には非モテ集団的な文脈があります。

それが最も活きる表現方法を身につければ、自然と言葉に熱量が乗るようになります。

そんな仮説のもと、僕は「言葉への熱の乗せ方」を考えてきて、ある程度周囲の人に熱意が乗っているように思ってもらえるようになったみたいなので、具体的な手順(というか筋トレの仕方)を書いていきたいと思います。

 

アイキャッチはもちろん太鼓持ちの達人