新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



ドリカム「もしも雪なら」考察〜「みぞれまじりの雨」から「大人の恋」を読み解く〜

高校生の頃、何気なく見ていたミュージックステーションスーパーライブに登場した、DREAMS COME TRUEの2人。

初めは「両親がよく聞いていら」くらいの感覚で、なんの興味もなかったのですが、曲が始まった瞬間にテレビに釘付けになり、演奏が終わると同時にその曲を借りようと、近所のTSUTAYA飛び出した事を未だに覚えています。

初めて音楽に圧倒された曲。

それが、僕にとっての『もしも雪なら』でした。

 

「何度でも」「朝がまた来る」etc...

アップチューンの曲にもいいものはたくさんありますが、僕が思うドリカムの真骨頂は、切ないバラードを歌った時だと思います。

『もしも雪なら』には、その良さがつまっています。

 

 

〈今まで大人のつもりでいた この恋をするまでは どうにもならないこんな気持ち わたしのどこに隠れてたんだろう〉

「恋に落ちた」ことを知らせてこの曲は始まります。

通常なら、「恋に落ちた」という描写から始まるのだから、ポジティブな恋愛の話に発展していきそうなものですが、『もしも雪なら』はどこか様子が違います。

どちらかというと、「好きな人ができてバンザイ!」ではなく、「好きになってしまった」という印象の言葉回しです。

その証拠に「この恋をするまでは大人のつもりでいた」と述べられています。

この主人公は、これまでの恋には「大人」の対応をしてきたわけです。

ここでいう「大人」とは何なのでしょう?

〈会いたい人には会えない〉

続くBメロで、このように語られます。

主人公が好きになった人は「会えない」存在だそう。

『もしも雪なら』は、歌が進むにつれて、主人公の境遇が明らかになってく不思議な作りになっています。

そして、「大人の恋」の正体も少しずつ分かってくる。

というわけで、続きを見ていこうと思います。

 

1番の2回目のAメロ〈何気ないとわたしの〜〉というところは、1番の好きになった瞬間を詳細に語るだけなので(著作権の関係から)省略します。

というわけでBメロから。

〈会いたい人に会いたいと 言えないクリスマス〉

主人公は、確かにある人のことを好きなのですが、その気持ちを伝えられません。

なぜ伝えられないのか?それがサビ以降で明らかになります。

 

〈大人の方が 恋はせつない はじめからかなわない ことの方が多い〉

〈誰にも言えない 友だちにだって この想いは 言えない〉

サビで、「大人の方が恋ははじめからかなわない」と歌われます。

そして、主人公の恋は「友だちにも言えない」もの。

ここから分かるのは、主人公が恋をした相手はすでに恋人(や家族)がいる人だったという可能性でしょう。

だから、クリスマスに「会いたい」と言えないわけです。

告白するのが恥ずかしいわけでも、勇気がないわけでもなく、「すでに相手には好きな人がいる」から、相手に気持ちが伝えられない。

これが、主人公の抱える気持ちです。

そして、〈クリスマスが急にきらいになる〉とサビは綴じられます。

 

2番のAメロで、さっそくこの答え合わせがあります。

〈あなたはすでに誰かのもので ふざけるか他愛ない 電話以外は思い出も 増えていかない 増えるはずもない〉

家族が恋人かは分かりませんが、相手にはすでに大切な人がいます。

だから、主人公との思い出はちょっとしたやりとりしか増えないわけです。

思い出なんて絶対に増やさないと確認した上で、Bメロには〈会いたい人には ぜったい会えないクリスマス〉と続きます。

1番の言い回しを繰り返しても歌詞としては成り立つのに、すでに主人公の状況が明らかになったからこそ、「会いたいと言えない」ではなく「絶対に会えない」に変えているところが、吉田美和さんらしいなと思います。

こんな風に、この曲は似た言い回しでも、少しずつ表現を変えることで、歌が進めば進むほど、主人公の恋が叶わないものであるという確信を強めていきます。

(ドリカムの歌のこういう構成って、本当に凄いところ)

 

そして2番のサビは1番の繰り返しなので省略。

そして、大サビに入る前にBメロが繰り返されます。

〈キラキラ輝く街 みんな奇跡願う聖夜〉

ここで場面はクリスマス当日になります。

クリスマスに「奇跡」を願う「みんな」には、もちろん主人公も入っているはず。

そんな主人公が叶えたい「奇跡」が、「好きな人と一緒にいる」ではなく、ただ「好きな気持ちを伝える」であるというのが、この歌の切なさを一層引き立てます。

そして最後のサビに。

 

〈大人の方が 恋はずっとせつない はじめからかなわない ことの方が多い〉

〈誰にも言えない すきな気持ちは 何も変わりないのに〉

サビの前半部分に注目すると、1番2番では〈大人の方が恋はせつない〉だったのが〈大人の方が恋はずっとせつない〉に変わっています。

実際に(好きな人には会えない)クリスマスを迎えたことで、気持ちが強くなっていることがわかります。

さらに後半部分では倒置を用いて、「好きな気持ちは変わらないのに、誰にも言えない」と続きます。

この「変わりない」とは、おそらく「大人の恋」と対応する「子供のころの恋」なのでしょう。

どちらも「好き」という気持ちなのに、今回の方は誰にも打ち明けられない。

この1フレーズによって、好きな人にはもちろん、知人にもそのことを共有出来ない主人公の状況が表され、そのことによって一層「せつなさ」が引き立ちます。

 

そして〈クリスマスがきらいになるほど〉とサビが終わるのですが、注目したいのは末尾の〈ほど〉という部分です。

実はここは、最後のAメロの繰り返し部分の歌詞と繋がっています。

〈けっきょく雨はみぞれまじり 苦笑いするしかなく〉

〈もしも雪なら 雪になったら あきらめないってひそかに掛けてた〉

クリスマスの天気は「雨」で「みぞれまじり」だったようです。

主人公は、もし雪が降れば気持ちを伝えようと密かに掛けていたと心境を述べます。

しかし、それも出来ずに終わってしまう。

僕がこの歌で1番凄いと思うのは、実はこの部分です。

吉田美和さんは、(恐らく意図的に)「みぞれまじりの雨」ではなく「雨はみぞれまじり」としています。

「雨の中にほんの少しだけ雪が混じっている」という描写にすることにより、主人公の望みがいかに儚いものであったかを一層引き立てています。

そもそも叶っても気持ちを伝えるだけなのに、それすら叶わないわけです。

そして最後、〈この想いはもうこのまま 溶けて消えてくだけ〉と終わります。

 

『もしも雪なら』の主人公は結局、好きな人に「好き」と伝えることすらできずに恋心をそっとおしまいにしてしまいます。

この伝えることすらできずに終わる恋みたいな、確かに大人になったらままある状況に注目して、それを歌に仕上げてしまえるところがドリカムの凄さなのだろうなと改めて思います。

ちょうど『もしも雪なら』の歌詞考察を始める前に、『秒速5センチメートル』を見て、その流れで永井荷風の『濹東綺譚』も読み返していたのですが、この『もしも雪なら』に描かれるモチーフは、どことなくこれらの作品に共通するものであるように思います。

 

アイキャッチはもちろん『もしも雪なら』

もしも雪なら

もしも雪なら

 

 

 

ことばへの感度を磨くということ

検閲が厳しかった明治期のエピソードである。ある演劇のセリフに「奥さん、一度だけ接吻させてください」というのがあった。検閲のため政府に提出したら接吻が社会に悪い影響を与えるということで削除された。
困るのはここからだ。昔から役所の仕事はルーズでいけない。接吻の部分だけが削除されていて、前後の文脈が無視されていたのだ。結果帰ってきたセリフは「奥さん、一度だけさせて下さい。」
杓子定規も考えものだ      (竹内政明「名文どろぼう」)

ついつい日常に起こる出来事を、何でもかんでも自分の仕事と関連付けて考えてしまう、「職業病」なんてことばがあります。
多分に漏れず、僕もその重症患者で、普段本を読んでいても、道を歩いていても、「これは国語的に面白いかも!」なんて思うと、ついついメモに控えておいたりします。
昔、付き合っていた彼女の言い間違えを「授業に使える!」と言いながら喜々とメモを取っていて大きく起源を損ねるなんてこともありました(笑)
そんな調子で使えそうなものは何でもかんでも「ネタ帳」に書き留めておくのですが、もちろんその中の大半が授業で使える代物ではありません。
冒頭に引用したのもその一つ。
さすがに繰り返す下ネタなんて、授業の中にはいれられません。
(美意識的にもそうですし、それ以前に僕の授業に馴染まない)
そういえば、知人と福井旅行をしていたとき、「パチンコBIG」という看板から「パ」を取るのでなくよりにもよって一つ加えた「パパチンコBIG」なんてのもありました(笑)
(こちらは一文字加えてとんでもないことになった例)
理由は多岐に渡りますが、僕のメモ帳には「面白いけど授業で使うものじゃない」というネタが、いくつも転がっています。
仕事では使えないけれど、日の目を見ないままなのも勿体無いというものばかりだったので、今回のタイミングでまとめて紹介してみようかと思います。

お笑いのネタ編

漫才師に落語家さんに劇作家さんetc…
僕はこの辺りの人たちを、「言葉選びのプロ」として定期的に追いかけています。
そんな中で出てきた国語のネタで使えそうで使えなかったものをいくつか紹介します。

1.「月とすっぽんぽん」(銀シャリさん)
銀シャリさんがM-1で優勝したときにも披露した、ことわざネタに登場したのがこちら。
ボケの鰻さんがことわざを覚えてきたといい、どんどん微妙に間違えていることわざを披露していきます。
この「月とすっぽんぽん」は一つ目の言い間違い。
「パチンコBIG」に「パ」の字を加えたのと同じように、事故が起こっています。
ちなみにムーディ勝山さんは、「パチンコのパの字をとってみたい」という「奥さん、させてください」みたいなネタをしていました。

2.「お前の炊いた豆」(銀シャリさん)
二つ目も銀シャリさんのネタから。
こちらは「料理のさしすせそ」のネタででてきたオチの手前のセリフです。
本来なら「お前のまいた種」のところを「ま」と「た」を入れ替えて、「お前の炊いた豆」としてしまうこのネタ。
健全な上に凝っているので使い勝手は良いと思っていたのですが、ついぞ使う機会はありませんでした(笑)
サンドウィッチマンさんの「コインケスギ」や、マンガ『銀魂』に出てきた「松平健の名字と名前を入れ替えると『けつだいらまん』になるアルよ」というヤツもここに該当します。

3.「エッチ、エロという番組がありまして」(ナイツさん)
こちらはナイツさんのキムタクが出てくる『HERO』というドラマを紹介する際に出てきたボケです。
『HERO』というタイトルを「H/ERO」と区切るというネタで、文節や単語の説明にいいかなと思う反面、やはり若干の下ネタなのでボツに。
同じパターンのネタとして、トロサーモンさんの『桃太郎』に出てくる「イヌサ、ルキジ」(「犬、猿、キジ」の読み間違え)などがあります。

4.「ビッグバーガーを1000個で」(サンドウィッチマンさん)
5.「シーチキン、歯肉炎、資産運用、死後硬直、宍戸錠」(トータルテンボスさん)
これらは単純に面白いけれど引用する場所が無かったネタです。
一つ目は「ビックバーガーをセットで」というのを店員さんが聞き間違えたというネタで登場したもの。
語感の近さに感動したことを覚えています。
そして5の方はトータルテンボスさんの『あるあるネタ』に出てきた掛け算九九4の段の読み間違えです。
本来は「四一が四、四二が八…」といくところを、「シーチキン、歯肉炎…」と言い間違えて続いていくこのネタ。
聞き間違え、言い間違えは使い勝手がいいのかと思っていたのですが、意外と使う引用の機会がありませんでした(笑)

6.「関口ギター教室」(ロバートさん)
次はロバートさんのネタからの引用です。
これは山本さん扮するギター少年が「関口、ギター教室」に来たつもりが実は「関、口ギター(くちギター)教室」だったという設定のネタです。
これは、「ここで、はきものを脱いでください。」と「ここでは、きものを脱いでください。」という読点の位置で脱ぐのが「着物」か「履物」かが変わるという話と同じパターンです。
これは良い引用として使えると思ったのですが、マニアックなためのボツに(笑)

本当はこの先に、コピーライターさんや作家さん、翻訳家さんの言葉の中から、メモしていたものを紹介しようと思っていたのですが、既に2000字を超えてしまったので、今回はここでおしまいにします。
(続きは機会があればまた書きたいと思います。)
書く事がないのでメモ帳を振り返っていたのに、思った以上に長くなってしまった…

 

アイキャッチは昨日に引き続き、竹内政明さんの本から。

 

夜更けにコラムを―「経済大乱」見聞記

夜更けにコラムを―「経済大乱」見聞記

 

 

「戦うため」の知識と「戦わないため」の知識

ーーワンピースって『次郎長三国志』だよね。ーー

以前鈴木敏夫さんが、『ワンピース』の作者である尾田栄一郎さんを自身のラジオに招いたとき、こんなことを言っていました。

それを聞いた瞬間に、尾田栄一郎さんが「よくぞ分かってくれた!」みたいに、明らかにテンションが高くなり、そこからあれよあれよと対談が進んだ様子を未だに覚えています。

 

ジブリのプロデューサーである鈴木敏夫さんは、僕が尊敬する方の一人。

あの手腕はもちろんですが、それ以上に、映画や小説、芸能といったコンテンツに対する造形がとてつもありません。

今までに宮崎映画を彩る様々な名コピーを生み出したり、プロモーションを手がけていると思うのですが、それらがことごとくうまくいくのは、ひとえに、あの膨大な知識量ゆえだと思うのです。

 

先日所用で東京に行ってきたのですが、その際に知人とご飯を食べていたら、学生さんから「知識を身に付けたい」という話題を貰いました。

その時の知人と僕の「答え」が真逆だったのが面白かったので紹介します。

彼の「知識を身に付けたい」という言葉に対する知人の答えは「目的を見つけろ」でした。

「目的がなければどんな情報に出会っても残らない。だから自分の琴線に触れる基準を作るためにも目的が必要」というもの。

これを聞いた時、素直に「なるほどなぁ」と思いました。

一方で、僕が考えていた質問に対する「答え」とは違いました。

 

彼の「目的を見つけろ」に対して、僕の意見は、「知識に色をつけるな」というもの。

「論理的な判断には正確な情報が必要だとして、正確な情報を得るためには自分の情報感度を磨かなきゃいけない。情報感度を高めるには広い知識が必要。」というのが僕の考え方です。

これはどちらが良い/悪いとかじゃありません。

(実際に知人も僕も「なるほどね」という感じでした。)

知人も僕も、おそらく両方の知識の得かたをしているし、その瞬間に質問してくれた彼にとって、どちらが重要と判断したかというだけの話です。

 

僕は目的ありきの演繹的な知識のインプットを、「『戦うため』の知識」、情報感度を高めるための帰納的な知識のインプットを「『戦わないため」の知識」と呼んでいます。

目的に基づいて、いかに早く無駄なく必要な情報にアクセスするかというのは、ビジネスをはじめ合理的でスピードのある決定が求められる場で必須のスキルです。

だから、「戦うため」の知識。

一方で、一見無駄に見える情報を吸収し、自分の情報感度を高めようとする帰納的な知識の入れ方は、何か着想を得たり、差別化をしようとするときに重要になってきます。

例えば、あるフィールドで戦うプレイヤーのうち、自分だけが気付けた情報を持っていたら、その情報差を利用して優位にことを進められる訳です。

その意味でこちらは「戦わない」ための知識と呼んでいます。

 

冒頭で尾田栄一郎さんがラジオに出演した話を書きましたが、尾田さんはメディア露出をほとんどしないことで有名です。

そんな尾田栄一郎さんがラジオに出演したきっかけは、鈴木敏夫さんとの「任侠もの」の話だったのだそう。

任侠ものの作品なんて、およそアウトプットベースではたどり着きません。

広く浅く興味を広げて、情報感度を高めているからこその、尾田栄一郎さんを動かした接点だと思います。

 

もちろん仕事で必要だからこそ、僕は目的ありきのインプットもむちゃくちゃやっています。

ただし、「今役に立つかは分からない/今後役に立つとも思えない知識」のインプットも同じくらいに大切にしています。

そういう知識が積み上げることで初めてできるアウトプットが存在すると思うからです。

 

知識を良質な調味料としたとき、目的ありきの知識習得が味付け用の調味料の数を増やすものだとしたら、無目的な情報習得は、僕の中で「ぬか床」を用意するイメージです。

(これを僕は知識の層と書いて「知層」と呼んでいます)

例えば、映画『風立ちぬ』を見て、堀辰雄やモネ、トーマスマンにファウストにダンテなどを知っていれば、あの映画から得られる情報量は段違いになりますし、そういう人同士が出会った時の話の共感度合いは非常に強いものになります。

もし、「知識を得たい」が実戦で役立てたいという意味のものであるとするのなら目的ありきの知識習得が有効です。

でももし、その「知識を得たい」が、何かに触れたときに様々な伏線や意図に気づける能力が欲しいというのであれば、身につけるのは「目的のない知識」です。

僕は鈴木敏夫さんのような大人がかっこいいと思うし、今後必要な人材はそういうタイプなのでは?(この辺を話すと長くなるので割愛します)と考えているので、この5年くらい、意図的にインプットの質を後者に張り切っています(2:8くらい)が、学生さんであれば[目的ありきの:無目的]=4:6、社会人なら[目的ありき:無目的]=7:3くらいが妥当な気がします。

比率に関しては個人の問題意識次第なので様々な主張をする人がいると思いますが、0:10や10:0を主張する人は信用ならない(というか稚拙)な気はします(笑)

一口で知識と言っても様々なものがあるので、この辺のバランスを考えた知識習得が重要であるように思います。

 

アイキャッチは僕の今のインプットのバランスや仕組みを作るのに参考にした、読売新聞一面コラム執筆者、竹内政明さんの文章術の本。

読み物として『名文どろぼう』『名セリフどろぼう』もおすすめです。

 

「編集手帳」の文章術 (文春新書)

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Plastic Tree「サナトリウム」考察~引用とメタファーから、「死」の匂いを辿る~

僕の一番好きなアーティストPlastic Tree
以前から歌詞考察をしたかったのですが、複雑すぎてずっとためらっていました。
ただ、かれこれ20本以上書いているのに、一番好きなアーティストの曲が無いのもなあと思ったので、今回思い切って扱ってみることにしました。
「どうやったらそんな歌詞が書けるのだろう?」と思う曲が数多くあるPlastic Treeの曲の中でも、群を抜いていると思うのがこの曲。
引用されている映画や小説、情景の意図など、できるだけ取りこぼしのないように拾っていきたいと思います。

映画『禁じられた遊びに出てくる』思い出と別れの象徴としての「十字架」

〈目を閉じて、いろんな君、瞳の奥におさめました。 微熱みたく気づかないままで、恋は虫の息です。〉
この曲は主人公が恋人である「君」との思い出をふり返るところから始まります。
サナトリウムとは長期的な療養が必要な人が入る療養所のことで、元々はかかったら治らないとされていた結核患者が入院することが多かった施設で、今回のそのモチーフで用いられています。
主人公が「目を閉じて」恋人を思い出すのは、恐らく既に恋人がサナトリウムに入院しているからであると考えられます。
もちろん「主人公がサナトリウムに入院している」という可能性も考えられるのですが、僕はこの歌に引用されている『禁じられた遊び』『風立ちぬ』の主題と重ねたときに、入院しているのは恋人の方が妥当であると判断しました(根拠は後述します)。
Aメロの歌いだしで恋人のことを思い出す主人公は「恋は虫の息」だといいます。
これは、恋人の命が長くないことを暗示していると解釈してよいでしょう。

こゝろ閉じて、いろんな僕、胸の中に溶かしました。 禁じられた遊びで燃やせば 孤独ってきれいな色。〉
Aメロの後半は自分の気持ちが歌われます。
「心を閉じて色んな自分を溶かす」というのは、自分の気持ちを隠そうとすることの婉曲表現ではないかというのが僕の解釈。
その自分の気持ちというのは、後ろに書かれている「孤独」でしょう。
主人公は、恋人がいないことで感じる孤独を、「こゝろ閉じ」ることで紛らわそうとしています。
ここで細かな解釈が必要なのが、「禁じられた遊びで燃やせば」の部分です。
ここに出てくる「禁じられた遊び」とは、60年代のフランス映画のタイトル。
この作品は戦争で両親と愛犬を失った少女と、その子が世話になる家庭にいた少年のやり取りが中心で話が展開するのですが、最後は二人が働いた「十字架を盗む」という悪事がばれてしまい、少女は孤児院に入れられてしまいます。
そして、少年と少女歯離れ離れになって、再会できないまま映画は終わります。
ここでの「禁じられた遊び」はこの映画のことを指すと考えるのが妥当でしょう。
映画『禁じられた遊び』では、父親に約束を破られて少女と引き裂かれる場面で、少年歯それまでに少女と一緒に盗んできた「十字架」を川に捨てるという描写が登場します。
少女との思い出であると同時に離れる原因になった十字架を川に捨てるという行為で、少女ともう会うことはないというのが象徴的に描かれています。
そんな「印象的な場面」に重ねて、「孤独もきれい」ということで、一層悲しさが引き立っているわけです。

Bメロのこの歌詞は、「レコード」になぞらえて、恋人との想い出をふり返る場面が描かれます。
ここは(この歌の中ではまだ)分かりやすい省略。
後半の〈うれしいくるしい、似ている呪文だ。辿れない時間へ、あと何センチ?〉を見ていきます。
〈うれしいくるしい、似ている呪文だ。〉
ここは、恋人との日々を思い出すたびに「うれしい」一方で、思い出すほどに新しい思い出はもう作れないんだという「くるしい」が同時に沸き起こる主人公の複雑な気持ちと解釈できます。
また、先述した「禁じられた遊び」に出てくる少年が十字架を流す場面の「思い出とつらさ」というモチーフもここで思い出されます。
そしてつづく〈辿れない時間へ、あと何センチ?〉というフレーズ。
「辿れる時間」がレコードに例えられた君との思い出だとしたら、「辿れない時間」というのは、君がいなくなってしまった時間のことでしょう。
Bメロに出てくる〈止まらないレコード〉というフレーズ、〈あと何センチ?〉というセリフから、死期が目前に迫っていることが分かります。
1番のそしてサビへ。

〈絡めた指をほどいていく、ちいさくサヨナラ唱えるように。〉
倒置法になっているので、ここは「別れを告げるように指をほどく」という、文字通りの解釈でいいでしょう。
ただし、「ほどけていく」ではなく「ほどいていく」という他動詞である所に、(ちょうど伊藤整の『典子の生きかた』に出てくる速雄と典子の別れのような)お互いにこれで終わることを承知した上の「意志」を感じます。
そして後半の〈はぐれた君の名を告げても、戻らない世界の決まり。〉
〈戻らない世界の決まり。〉というフレーズは、Aメロで出てきた映画 『禁じられた遊び』の最後の場面を彷彿とさせます。
禁じられた遊び』では、最後の場面で主人公の少女ポーレットが、一緒に遊んでいた少年ミシェルの名前を叫びながら走りながら、結局会えないシーンで終わります。
そもそもこの映画は戦争の中で少女が少女の運命が振り回される作品です。
ここでいう〈戻らない世界の決まり。〉は、『禁じられた遊び』のラストシーンに重ねて、手をほどいたらもう二度と会えないということを歌っているのだと読むことができます。

風立ちぬ』のモチーフに現れる生きる意志と死の不安

つづいて2番のAメロは堀辰雄さんの『風立ちぬ』の引用から始まります。
風立ちぬ、甘い屑が数えきれず散らかりそう。〉
小説『風立ちぬ』はサナトリウムに入院し、やがて死んでいく恋人と「私」とのやり取りが描かれた作品です。
この引用からも、恋人の「死」がより鮮明になります。
1番のところで、僕は入院しているのは恋人の方だと思うという話を書きましたが、それは『禁じられた遊び』で離れていくのも『風立ちぬ』で死んでいくのもともに女性の方だからです。
この2作品を意図的に引用している以上、やはりサナトリウムに入院しているのは女性であるだろうというのが僕の考えです。
風立ちぬ、いざ生きめやも。」
これは『風立ちぬ』の冒頭に引用されている、ポールヴァレリーの詩です。
現代語にしたら「風が立った。生きよう、でも生きられるだろうか」といったところでしょうか。
ここには、生きる意志と、死への不安の両面が描かれています。
(ちょうど一番に出てきた〈うれしいくるしい、似ている呪文だ。〉という部分に似たモチーフです)
ここで「風立ちぬ」という言葉を用いている以上、小説『風立ちぬ』をモチーフにしているのは明らかですが、歌詞の上では「風が吹いた」という意味で用いられています。
風立ちぬ、甘い屑が数えきれず散らかりそう。〉
風に吹かれて散らかる「甘い屑」といえば、書き溜めた手紙(=ラブレター)と考えるのが妥当でしょう。
ここでは、小説『風立ちぬ』をイメージさせると共に、風に吹かれて吹き上がるラブレターの描写がされています。

Aメロの後半かサビの前半にかけては、(まだ「サナトリウム」の中では直接的な表現が多いので)著作権等を考えてカット。
〈ざわめき。胸を囲まれたら、何処にも行けないままで。〉
2番のサビの後半なのですが、僕はやっぱりここに、小説『風立ちぬ』のモチーフを感じ取ります。
風立ちぬ』の中で、風に吹かれて倒れたカンバスを直そうとするヒロインをぎゅっと抱きしめて離そうとしない主人公が描かれます。
そして、ヒロインもほどこうとするでもなくそれを受け入れる。
〈胸を囲まれたら、何処にも行けないままで。〉は、その時のヒロインが「拒むでもなくすっと受け入れた」という表現に重なる部分を感じるのです。

繰り返しのサビへと続きます。
〈花束の花がひとつずつ、枯れてくのを眺めているような。触れないことにただ気づいて、待ちこがれた涙が出た。〉
前半は恋人が徐々に死へと近づいていることの象徴と考えていいでしょう。
「枯れていく花を眺める」というのは、自分では枯れていく花に何もしてやれないことと捉えれば、「触れないことに気付く」とは、恋人の症状が悪化していき、自分ではもうどうしようもない(何ならもう会えない)ことを表していると考えられます。

これまでに出てきた「禁じられた遊び」(好きな人と離れ離れになる)→「風立ちぬ」(死へと向かうきっかけ)→「枯れて行く花びら」(強い死の匂い)というモチーフを見ると、少しずつ「死」の印象が強くなってきます。
この辺も『サナトリウム』という曲のすごいところなのかなあという印象です。
そして大サビに入る前のAメロを挟んでクライマックスへ。

〈絡めた指をほどいていく、ちいさくサヨナラ唱えた、声。はぐれた君の名を呼んでも、帰れない世界のきまり。〉
一番のサビと言葉は近しいですが、その内容はまるで違います。
一番では〈絡めた指をほどいていく、ちいさくサヨナラ唱えるように。〉だったのがここでは〈絡めた指をほどいていく、ちいさくサヨナラ唱えた、声。〉となっています。
ここではしっかりと「サヨナラ」を伝えています。
つまり、はっきりとした「別れ」が描かれているわけです。
そして繰り返しの最後のサビ。
〈目醒めて、夢の花散らばれ。愁しみも静かに、サナトリウム----------〉
現実の花が前に出てきた「枯れていく花束」で「死」を象徴したものだとしたら、「夢の花」は「枯れていない花」つまり「生」を願うものと考えられます。
そして、それを「目醒め」た世界で「散らばって欲しい」と望むということは、この瞬間に恋人がなくなってしまったのでは?というのが僕の考えです。
その喪失感が後半の〈愁しみも静かに〉という下りと、その後の〈ざわめき。胸を埋めつくして、此処から動けないままで。〉という部分。
そう考えれば、〈何処にもいけないのは「こゝろ」 其処にいた君が笑うの。〉の意味が通ります。
最後の場面でちょうど恋人は息をひきとっているからこそ、「其処にいた君」(の思い出)が笑うし、それだけ思い入れが強いからこそ、「こゝろ」が「何処にもいけない」のではないかと思うのです。

といった感じで見てきたPlastic Treeの『サナトリウム』。
とにかく言葉で伝えるのが難しい世界観の曲だと思うので、気になった方がおられたら、まず聞いてみていただくのがいいかと思います。

 

 

サナトリウム(初回限定盤B)(DVD付)

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その「話し上手」は本物!?自称話し上手にならないための「話し上手」3分類

先日の南海キャンディーズの山里さんと女優の蒼井優さんの結婚会見が本当に素晴らしくて、ここのところ毎日見返しています。
山里さんの場の空気の作り方が本当に凄いなあと、学ぶところだらけという印象でした。
本当に話が上手いっていうのは、山里さんみたいな人なんだろうなと。。。

僕は基本的に人の好き嫌いが凄くあるのですが(笑)、その中でもかなりの上位に来るのが、「自称はなし上手」のイキッた人です…
彼らはほとんどの場合、(オレの)話をするのが好きで何でもかんでも自分が話の主導権を握ろうとしがちなだけで、話が上手い訳でも分かりやすいわけでも無かったりします。
その自称はなし上手が、実は周りの人が「聞き上手」によって支えられているとかだった場合最悪です。
完全に裸の王様です(笑)
「自称はなし上手」のコミュニケーションは、学校や大学のサークル、会社の同じ部署といった、同質性の高いコミュニティの中では成立しますが、初対面の人が集まる場では歯がたちません。
そういった場面で役立つ「はなし上手」は、それこそ山里さんのようなタイプで、「自称はなし上手」とは全く違います。


はなし上手の3分類①おしゃべりモンスター

僕は、「はなし上手」という人を語るときに、次の3つに分類しています。
①おしゃべりモンスター
②傾聴力オバケ
③場作り座敷わらし
①の「おしゃべりモンスター」とは、自分がとにかくガンガン話すことで場を盛り上げようとするタイプです。
おしゃべりモンスターの中にも何段階かあって、自分の話ばかりをして自分だけが気持ちよくなるカラオケ型おしゃべりモンスターと、周りを楽しませるためにあえて自分の失敗談やキャラクターを話の種にする劇場型おしゃべりモンスターがいます。
レベルが低いうちはカラオケ型、それが徐々にスキルを身につけていくと劇場型に進化します。
上に挙げた、飲みの席で「オレ」の話ばかりする人は典型的なカラオケ型おしゃべりモンスターです(笑)
おしゃべりモンスターたちは、確かにその場を盛り上げるのですが、どうしてもその盛り上げ方の性質上、既に見知ったコミュニティや、極めてクローズドなコミュニティでしか通用しません。
初対面の場合や、それぞれの属性が異なる場合に有効なのが②や③です。


はなし上手の3分類②傾聴力オバケ

話をしていると、やたらと会話が盛り上がったなあとか、なんかあっという間に時間が過ぎたなあとか思わせてくれる人がいます。
僕が②の傾聴力オバケと呼んでいるのがこのタイプの人。
ここに属する「はなし上手」のスキルを持っている人たちは、初対面かつ1対1のコミュニケーションが必要なときに大きな力を発揮します。
ここに属する人たちは、間違えなく「はなし上手」ではあるのですが、①のおしゃべりモンスターとのアプローチとはまるで違い、彼らのそれは相手の話をきちんと拾い調理するようなイメージです。
確かによく喋るのだけれど、あくまで話題の中心は「相手」においておく。
しっかり相手の話を聞き、しっかりと真意を捉えて、相手のよさを上手く引き出すような形で話を積み上げていく。
これが傾聴力オバケの「はなし上手」です。

傾聴力オバケにも、①と同様、ツッコミ型傾聴力オバケとカウンセラー型傾聴力オバケの2つの段階があります。
初期の段階はツッコミ型。
彼らは、ともすればダラダラと冗長になりそうな相手の話に、適当な相づちや合いの手を入れることで、話がダレないようにしたり、笑いが起きるように気を配ります。
このツッコミ型が進化してカウンセラー型になると、今度は相手の話を引き出せるようになってくる。
ここの段階まで来ていると話をしている相手は「なんか楽しい」と感じるようになります。
多分、優秀なホストや、ホステスさんとかはここのレベル。
自分の「はなし上手」によって、相手の話を引き出すわけです。


はなし上手の3分類③場作り座敷わらし

さらに話し上手のレベルが上がると、今度はその人がいる場全体の空気を上手く作ることができるところまで達します。
それが③の場作り座敷わらしです。
②の人たちは1対1で相手のよさを引き出すのに対して、③に該当する人たちは、そこにいる人たち全員のポテンシャルを引き出して、その場の空気を盛り上げます。
自分が好き勝手話をしているように見せて、巧みに話の話題を全員に割り振り、誰もが会話に参加できて、その上で楽しむことができる。
そんな話の展開を作ることができるのが、③の場作り座敷わらしの人たちです。

ここに該当する人には大きく分けてさんまさん型と紳助さん型2つのタイプがいます。
因みにここの2つに関しては、本人のクセみたいなものなので上位下位みたいなものはありません。
両者の違いは、話のきっかけが本人にあるのか周りの人にあるのか。
そこにいる人たちのエピソードをきっかけに全体で話を広げていくのがさんまさん型、反対に本人がきっかけとなる話題を投げて、そこにいる人たちに話を振っていくタイプが紳助さん型です。
自分がどちらであるかというのは、完全に好みの問題なので、こういう話方をしているときがあったら、自分がどちらなのかを考えてみると面白いかもしれません。

以上が、僕が自称/通称を問わずに「はなし上手」と言われる人たちを見てきた中で考えた話し上手の分類です。
山里さんの会見は、この全てを巧みに使い分けていていました。
僕もあんな風に喋れたらなあなんてうらやましく思ったので、「はなし上手」についてまとめてみました。

 

アイキャッチはもちろん山ちゃんの本

 

天才はあきらめた (朝日文庫)

天才はあきらめた (朝日文庫)

 

 

あなたの「褒め」は求めていない〜マウントおじさんがよくやる、間違った褒め方〜

ここ最近、「超攻撃的太鼓持ちのススメ」なんてタイトルで、マウントおじさんの捌き方みたいなエントリを更新していた(超攻撃的太鼓持ちのすすめLV7〜「マウントおじさん」の倒し方〜 - 新・薄口コラムとか超攻撃的太鼓持ちのすすめLV6〜「マウントおじさん」の捌き方〜 - 新・薄口コラムとか)のですが、よくよく考えたら、僕が普段関わる人たちの年齢を見た時、自分がマウントおじさんになっている可能性も充分にあるなという可能性に気づいてしまいました(笑)

であるならば、マウントおじさんの捌き方よりも、マウントおじさんにならない方法の方がニーズがあるのではないか。

そんなことを思ったので、今回はマウントおじさんにならない方法という切り口から、エントリをまとめてみました。

 

マウントおじさんは「褒め方」が鬱陶しい

少し前、バーカウンターで隣の席で女性を口説こうとして大失敗をかましている男性を見かけました。
僕の隣に座っていた男性が、女の人(おそらく年下?)を口説こうとして、非常に頑張っていました。
具体的にどういう行動に出ていたというわけではないのですが、同じ「オス」としてひしひしと伝わってくる必至感。
その男の人はとにかく声が大きく、聞きたくなくてもその口説き文句みたいなのが耳に入ってきてしまいます。
頑張っているなあと思いつつ、耳に入ってくる声を聴いていて、ふと耳障りなフレーズが時々入ってくることに気づきました。
それは「彼の褒め言葉」でした。


恋愛本にもよく相手を褒めろと書いていりますし、一般的に褒め言葉なんて言われてうれしいものであるはずなのに、その男性の褒め言葉はなぜか鼻に突くのです(笑)

 

褒め方の2分類〜リスペクト型とマウント型〜


帰宅途中、そのときの男性の言葉を何度も頭で思い返すうちに、あのときに感じた違和感の正体が分かりました。

僕がなんか鼻に付くなと思ったのは、「褒め方」のアプローチの仕方についてだったのです。

「へー、そんな所まで分かっているなんて凄いじゃん」

「若いのにそんなことまで考えているなんて凄いね」

etc...

若い女の人を口説こうと頑張っていた男性の褒め言葉は、全てがどこか上から目線なのです。

言外に、「俺は当然そのことを知っているけど、そこまで気づけているなんて凄いね」みたいな「上から目線感」が言葉の節々から滲んでいました。

 

僕は褒め方には①マウント型と②リスペクト型の2種類があると思っています。

マウント型とは、上にあげたように「俺は知っているけど、そんなところまで気づけるなんて凄いね」というような、高い位置に自分を置いた上でなされる褒めのことです。

一方で、リスペクトタイプの褒めは、自分の持っていない相手のよさみたいな部分を言語にする褒め方。

僕がバーカウンターでみた男性の褒め方は、全部前者だったのです。

 

マウント型の褒めが通用する/しない場合とリスペクト型の強み


マウント型とリスペクト型。

この二つの褒め言葉の面白いところは、リスペクト型の褒め言葉は言う人を選ばず相手を喜ばすのに対して、マウント型の褒め言葉は言う側の資質と、言われる側との関係性の担保が必要であるという点です。
リスペクト型の人の褒め言葉から伝わる、「あなたを尊敬しています」という意思表示ならば、たとえ嫌いな人から言われても、悪い気はしません。

リスペクト型の褒めは、言う側の資質や言われる人との関係性に関係なく嬉しいのです。

 

一方でマウント型の褒め方は、仮に本人にそのつもりがなくても、相手に不快感を与えてしまうことがあります。

確かに、上から目線で「お前すごいじゃん」って言と言われて嬉しい場合もあります。

でもそれは、ⅰある程度の関係性があることとⅱ褒められる側が相手に対して尊敬をしている時に限られるのです。

見ず知らずの人にいきなり自分の頑張りを「ああ、俺も知ってるけどすごいんじゃないの?」みたいなスタンスで褒められたらムカつきます。

自分が好意を抱いている相手以外からだと逆効果になる場合さえあります。
マウント型の褒め言葉の場合、大前提として褒められる側が、褒める人に対して何らかの好意を抱いている必要があるのです。


無条件に褒めればいいと思っているおっちゃんほど、恋愛のテクニック記事みたいなものに書いてあるのような話を鵜呑みにして褒めようと実践します。

しかし、その「褒め方自体」が相手に敬遠させるだけのネガティヴを含んでいる可能性があるのです。

大切なのはリスペクト型の褒め。

偉そうな感じが滲む、マウント型の褒めは禁物です。

 

アイキャッチは世界の挨拶図鑑

この内容と合わせると、絵が絶妙に腹立たしい(笑)

 

 

あなたは相手をダメにする!?~「メンヘラ製造機」の生態系とメカニズム~

数年前。
当時付き合っていた彼女と別れて傷心していたとき、知人から「メンヘラ製造機」というたいへん不名誉な通り名を頂いたことを、未だに覚えています。
なんでも彼曰く、「生徒や保護者の相談を聞くのと同じスタンスで彼女と接するから、相手をダメにしていく」のだそう…笑
言わんとすることは、分かるような、分からないような、という感じだったのですが、それ以降、僕の中で「メンヘラ製造機」タイプの人を見つけ度に気になって生態を観察していました。
そんな僕の「探究活動」が実り(?)、ある程度特徴がカテゴライズできてきたので、ざっとまとめてみたいと思います。


そもそもなぜ「メンヘラ製造機」になるのか?

冒頭から僕は「メンヘラ製造機」という言葉を多用していますが、もちろんですが僕がメンヘラと呼んでいるのは病気の人のことではありません。
そうではなく、相手への依存気質が高かったり、相手からの承認欲求を求めたがったりする人を指してこの言葉を使っています。
僕のいう「メンヘラ製造機」とは、相手をどんどん承認欲求を求める体質にしたり、構って欲しいという性格にしていってしまう人のことです。

では、なぜ「メンヘラ製造機」なる人たちたちが相手をメンヘラにしてしまうのか?
僕はその最大の理由は親和的承認の過剰供給にあると考えています。
親和的承認とは、山竹伸二さんが「『認められたい』の正体―承認不安の時代」の中で紹介している承認欲求のひとつです。
親和欲求とは、家族や恋人から与えてもらうタイプの承認です。
何かの見返りで得られるものではなく、また、決して尽きることのない、「無償の愛」のような承認のこと。
本来、親和的承認は他者からの贈与に近い性質のものですので、本人がいくら「もっと欲しい」と望んでも、無尽蔵に得られるものではありません。
しかし、「メンヘラ製造機」の人たちは、これを際限なく与え続けてしまう。
当然受け取る側としては、何らかのコミットをしなければ得られないタイプの承認(山竹さんはそれを「集団的承認」と呼んでいます)と無償で得られる親和的承認があるのなら、後者に流れます。
結果、どんどん親和的承認を求めるようになってしまうわけです。
これが、「メンヘラ製造機」の人たちがメンヘラを生み出してしまうメカニズムです。

 

メンヘラ製造機かを判断する3つの指標

マンガ家の山田玲司先生が以前自身の連載コラム(

付き合う約束をしない男が常に欲しがるもの/山田玲司の男子更衣室(2ページ目) AM

)で、男は、自分専用のAV嬢と、ホステスと、チアガールを求めているというお話をしていました。
山田先生はAV嬢の部分は肉体的な話として説明されていましたが、僕はこれが人の求める親和欲求の構成要素だと考えています(性別は関係ありません)。
AV嬢とは自分を気持ちよくしてくれる存在、ホステスは自分の悩みを聞いてくれる存在、そしてチアガールは自分を応援してくれる存在です。
つまり、人は自分のことを①気持ちよくしてくれて、②悩みを聞いてくれて、応援してくれる承認を求めているのではないかと思うのです。

僕が見てきた限り、「メンヘラ製造機」の人たちは、それが天性のものなのか、職業上習慣になってしまっているからなのかは別として、結果的に相手にとってのAV嬢、ホステス、チアガールになっています。
「気持ちよくして欲しい」「悩みを聞いて欲しい」「応援して欲しい」の3つの焦がれている欲求を際限なく満たしてくれるから、気付くとどんどんそれを求める体質にしてしまうのです。

僕が観察してきたかぎり、「メンヘラ製造機」気質の人には以下のような特徴があります。
①ちょっとしてサプライズをしたり、ひと言お礼を添えたりしがち。
②自分の話をするよりも人の話を聞いている方が、けっこう面白いと感じる。
③何かに頑張っている人をみると、尊敬したり、損得関係なく協力したくなる。
3つ全てに大きくうなずく人がいたら、あなたは十中八九「メンヘラ製造機」です。
彼女さん、彼さんを「承認欲求モンスター」に化けさせないために、AV嬢出力、ホステス出力、チアガール出力を意識して調節することが重要です(笑)

 

アイキャッチは「メンヘラ製造機」特性をプラスに転換する主人公が出てくるスーパースーパーブルーハーツ。