新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



往復書簡[5通目](2019.11.3)しもっちさん(@shimotch)へ

前回のしもっちさんからの往復書簡はこちら!

https://note.mu/shimotch/n/n32c2e4a93495

 

拝啓しもっち様

旅先の見知らぬ街の一角で不意に出会うあの懐かしさ。僕も何度も経験したことがあります。(僕の場合は海辺の街に行ったときによく感じます)

何が、どう「懐かしい」のか、その時はうまく言葉にできないのだけれど、確かに懐かしさを感じている。

あれ、不思議ですよね。

潮の匂いを鼻が捉えたからなのか、はたまた吹きつける浜風が原因か。あの「懐かしさ」は視覚や聴覚以外の記憶が呼び起こされるのが原因なのではないかと思ったりしています。

 

僕にとっての島原といえば、社会の授業で扱った天草四郎雲仙岳、それからしもっちさんから頂いた書簡を読んですぐに調べた写真の中の絶景の数々です。この往復書簡をきっかけに、紙の上の文字でしかなかった僕の島原に色彩が宿りました。まだまだ音は無いので、いつか機会があればぜひ訪れてみたいです。

 

しもっちさんからの書簡を受けて、言葉についてあれこれ考えていました。同じ言葉であってもそこからお互いが連想する情景は異なっている。にもかかわらずお互いがその言葉について共通理解ができる。前回の「城」の例でいえば、しもっちさんの頭にあるのは「島原城」で、僕の頭に頭に浮かんだ「浜松城」とは明らかに違うのに、「城」という言葉そのものは、何の違和感もなく使えている。

本当に言葉って面白いですよね。

 

言葉について考えている内に、言葉の印象は、それまでの自分の体験の集合知なのではないかなんて考えに至りました。例えば僕が島原という言葉を聞いた時、これまでは教科書で見知った種々の知識の集合体としての「島原」が思い出されました。でも今は、そこにGoogle検索で調べた島原の海の風景や武家屋敷跡、そして何よりしもっちさんという存在が紐付いています。この書簡を始める前と後では、明らかに僕にとっての「島原」という言葉の解像度は変わりました。言葉の輪郭が自分の体験と紐付いているのだとしたら、ひとつひとつの言葉を鮮やかに保つために、きちんと経験を積まなければなあと、背筋が伸びる思いになりました。

と、書いたところで出口治明さんの「人・本・旅」なんて言葉を思い出しましたが、脱線してしまうのでここはグッと堪えます(笑)

 

九鬼周造の『「いき」の構造』僕も大好きです!(論文読書会、うらやましいです...!)「いき」を媚態、意気地、諦観という3つの要素に分けてみせたのは本当に凄いなと思います。ただ一方でどうしても、この定義では、どこか「いき」を掴みきれないのではないかと思ってしまう僕がいたりもします。これはひとえに僕の経験がまだまだ未熟だから「いき」を捉えきれていないだけなのか、それとも「いき」そのものが時代と共に変わってきたからなのかは分かりませんが、いずれにせよどこか非常に言語化しにくい部分で「もっとこんな感じ!」というモヤモヤが燻っている気分です。

 

モヤモヤの正体が気になりすぎて、ここの所ずっと考えていたのですが、この前ふと、このモヤモヤの正体は個人の「美意識」なんじゃないかという解が頭に浮かびました。媚態、意気地、諦観を持ちつつ自分の美意識を貫く姿勢。これが「いき」なんじゃないかと思った訳です。こんな定義で「いき」を考えると、不粋な人とは媚態、意気地、諦観のいずれかを持たずに自分の美意識を押し通そうとする人、野暮な人とは美意識を持たない人となります。「いき」という言葉について、僕はこんな風に思いました。

 

因みに「いき」について考える過程で、「婆娑羅」「侘び寂び」「数寄」「をかし」「みやび」など、様々な日本らしい感覚に出会い、現在僕は、「いき」と共にそれ以外の日本ならではの価値観にも興味が芽生えつつあります(笑)「いき」に関する考えはもちろんですが、その周辺にある日本的な価値観について、しもっちさんの視点を頂きたいです。

 

 

すっかり「いき」の沼にハマっている十一月上旬のころ。

 

いきと風流

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