新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



往復書簡[7通目](2019.11.26)しもっちさん(@shimotch)へ

前回のしもっちさんからの書簡はこちらです。

 

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拝啓 しもっち様

「秋になれば食に読書に紅葉狩りに…」なんて、やりたいことをあれこれ思い描きつつ、夏を耐えしのいでいるうちに、気がつくとグッと気温が下がり、京都は冬に包まれていました。
僕が夢に見た秋の喜びはいつの間に過ぎ去ったのだろうかと、開け放しの窓から吹き込む朝の冷気に頬を叩かれながら思い返す昨今です。
しもっちさんの推察どおり、こちらは中々の寒さです。(月末に来る際は厚手の服装をお勧めします)

毎度のことですが、こちらからの無茶振りに、「いき」から「エモい」まで広げた風呂敷を構造主義で纏め上げるしもっちさんのセンスに脱帽です。
以前の書簡でこのお題を頂いて以来、専ら僕は日本の美意識の沼にはまり、手に取る文章で日本の美意識に出会う度に、メモ帳を開く毎日が続いています(笑)
そんな美意識を巡る旅の最中に、侘び寂びから派生する、水へと溶ける氷に美しさを見出す心敬の「ひえさび」や、硝子に射す光の反射と透過に美を求める篠原資明の「まぶさび」などのさまざまな「寂び」と出会って、相違点から「詫び」を、共通点から「寂び」を考えたりしています。
しもっちさんのような、時代を縦に跳躍して日本の美意識に迫る力はないので、僕は「詫び寂び」という点を反復横跳びして対抗してみました。

さて、この書簡がまさにそうなのですが、僕も楽しくなるとついつい難しい方向へ、難しい方向へと話を持っていってしまいます。
普段授業をする際は、そうした方向に話が飛ばないようにと気をつけています。
以前テンションがあがって、その形状から福建土楼パノプティコンを引き合いにだし、贈与と功利主義について熱弁して、教室を凍りつかせたことがあります。
(一人だけ、飛び出そうなくらいに輝いた目を見開いてくれていましたが…笑)
これでも一応「指導のプロ」ということで、こうした自己満足の語りにならぬよう日々伝わる説明の仕方を探っています。
僕が特に普段の授業で心がけているのは、生徒さんの持つ既存の知識と未知の知識の接続です。
イアン・レズリーが、『子供は40000回質問する』という本の中で、好奇心は知っていることと知らない事の狭間でうまれるというようなことを言っています。
ジョージ・オーウェンは一九八四年の冒頭で、「13時の鐘」という不自然な鐘の音で、既知と未知の間を読者に示しているし、スーパーマリオでは「右に進めばいい」という既知と「何が起こるか分からない」という未知が用意されています。
勉強でも同様に、既知と未知の導線を用意してあげる事が大事だと考えています。

たとえば、無い美しさに思いを馳せる「幽玄」という美意識は、言葉で伝えようとしても中々伝わりません。
でも、「好きなマンガがアニメ化されたとき、主人公の声に『なんかちゃうな?』って思った事ない?それって頭の中では理想の声があったんやろ?そのイメージで浮かぶ理想に近いのが幽玄なんよ」みたいな伝え方をすると、納得してもらえます。
ただ、そこで終わらせてしまえば、子供たちの好奇心は広がりません。
先の話で言えば、子供たちの既知の世界を出ていないということです。
そこで、兼好の「花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは。-中略-咲きぬべきほどの梢、散り萎れたる庭などこそ、見所多けれ。」や、藤原定家の「見わたせば 花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮れ」などを紹介します。
そうすると初めて既知と未知が結びついて、「幽玄」という概念や、場合によっては古典や和歌に興味を持ってもらえるわけです。

なんて、本業の話になるとついつい熱が入ってしまいました…
むちゃくちゃ気持ちがいいパスを頂いたので、偉そうに「分かりやすい説明」なんて書いてしまいましたが、「人に対する説明」ということでいえば、日々お客様との「乱取り」をしているしもっちさんも相当だと思います。
ということで、「人に伝えるコツ」という、同じボールを返球させていただきます。

P.S 来週お会いできることを楽しみに、レヴィ・ストロースに漬かる今日この頃。

 

 

野生の思考

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