新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



坂本冬美『夜桜お七』考察〜紅白の対比に込められた女性の気持ちを辿る〜


 桜の時期が来るたびに思い出すのが坂本冬美さんの『夜桜お七』。改めて歌詞を読み込むと面白いところが多々あったので、今回はこの曲を考察してみようかと思います。

 

〈赤い鼻緒がぷつりと切れた すげてくれる手ありゃしない 置いてけ堀をけとばして 駆けだす指に血がにじむ〉

こうスタートするAメロですが、入り口から複雑です。まず冒頭の「赤い鼻緒がぷつりと切れた」の部分からですが、Aメロの後半に「血がにじむ」とあるため、ここでは物理的に下駄の親指と人差し指の部分にある鼻緒が切れた事を表すと考えていいでしょう。歩いている時に「ぷつり」と切れてしまった下駄の鼻緒。

「すげる」は穴に何かを差し込む事。ここでは鼻緒を直してくれる事を表しています。「鼻緒をそれとなく直してくれる関係性」と考えたら、自然と相当深い繋がりがある人が想像されます。「すげてくれる手」と歌う事で、2人の関係性をさらっと伝えるのは、この曲の本当に凄いところだなあと。

「今までなら隣を歩いていた恋人がすぐに鼻緒を直してくれた。でも今はそんな「あたりまえ」だったあなたがいない。」鼻緒が切れるところから、こんな場面と心情が伺えます。

 

ただしもちろんこれだけではありません。この歌は自分への愛情が薄れてしまった恋人に対する未練を歌った曲。であるならば、ここの「赤い鼻緒」は「赤い糸」を暗示しているとも捉えられます。「赤い鼻緒」と始まる事で恋人がいかに大切な存在であったのか、そしてその関係性の終わりを示しているわけです。

 

続いてAメロの後半です。注目したいのは「置いてけ堀」という言葉です。辞書で引いてみると、この言葉には次のような2つの意味があります。

 

①(置いてけ堀)江戸本所の堀の名。釣りをして帰ろうとすると、水中から「置いてけ、置いてけ」と呼ぶ声がして、魚を返すまで言いつづけたという。
②他の者を残したまま、その場を去ってしまうこと。置き去りにすること。おいてきぼり。

 

もちろん解釈は人によるかと思いますが、僕はここでの「置いてけ堀」は①の意味だと思っています。本所七不思議に出てくる「置いてけ堀」を引くことで、主人公の未練を表します。

それを「蹴飛ばす」わけですので、ここでは未練を断ち切るという意味で捉えるのが妥当でしょう。主人公はまるで「置いてけ、置いてけ」と後ろからかけられる声のように思い出す恋人の未練を断ち切るために進もうとします。

しかしそうして未練を断ち切るために走る度痛むのが、血が滲んだ指先なわけです。下駄を履くと、どうしても親指と人差し指の間が擦れてしまいます。切れた鼻緒と、それでついた傷。ここでは未練を断ち切ろうと駆け出す姿と、駆け出す度にやっぱり思い出してしまう恋人との思い出を描いているわけです。

 

そしてAメロが終わると曲調がいきなりかわって登場するサビ。この曲は歌詞もさることながら曲としても非常に特殊な形態をとっています。グッと抑えたAメロの印象から一転してアップテンポになるこのサビ。ちょうど歌詞の内容も繊細に描かれていた心情描写が一転して、ストレートに男を待つ女性の情念が描かれるようになります。

〈さくら さくら いつまで待っても来ぬ人と
死んだひととは おなじこと〉

ここではストレートに待ち人が来ない事を恨む歌詞に。

 

〈さくら さくら はな吹雪 燃えて燃やした肌より白い花 浴びてわたしは 夜桜お七

僕は『夜桜お七』の1番のポイントはこの部分だと思っています。ここを理解しようとするためにはまず、童謡の『さくらさくら』と井原西鶴の『好色五人女』に出てくる「八百屋お七」を踏まえる必要があります。『夜桜お七』のサビでは〈さくらさくら〉と印象的なフレーズをあえて冒頭に、それも平仮名で持ってきています。

さらにメロディは童謡のそれに倣っている。

それだけでなく、似たメロディに乗せて、童謡では「はなざかり」である部分を「はな吹雪」として歌っている事から、作詞者はこの歌を想定しているはずです。というわけで童謡の『さくらさくら』の歌詞はこちら。

 

さくら さくら
やよいの空は 見わたす限り 
かすみか雲か 匂いぞ出ずる 
いざやいざや 見にゆかん

さくら さくら
野山も里も 見わたす限り
かすみか雲か 朝日ににおう 
さくらさくら 花ざかり

 

弥生の空に満開に咲き乱れる桜を見たいというこの歌詞。『夜桜お七』に出てくる「散るはな吹雪」と対比すると、別れの印象が引き立ちます。さながら満開の桜に惹かれた昔の私と、思いが儚く散ってしまった今の私のよう。

さらには「花ざかり」だった私と、それをすぎて「散る桜」を浴びる私も対比しているようにも感じられます。童謡の「さくらさくら」を想起させることで、情念が一層引き立つというのが僕の解釈です。

 

もう一つ、おそらくモデルになっているであろう井原西鶴の『好色五人女』に出てくる「八百屋お七」を見ていきたいと思います。

「ならい風激しく、師走の空雲の足さえ速く、春の事ども取り急ぎ、餅突く宿の隣には、小笹手ごとに煤掃きするもあり。」

こう始まる「八百屋お七」の物語には、恋仲に落ちたが自分の前から姿を消した男に再び会うために、自らの家に火をつけた女性(お七)が登場します。お七はその罪から火あぶりに処せられるわけですが、『夜桜お七』に出てくる「燃えて燃やした肌より白い花」とはこれをイメージしたものでしょう。好きになった男性を忘れられずに家に火をつけてしまった八百屋お七。それと同じくらい恋人のことが今も忘れられない主人公が『夜桜お七』には歌われています。

男の思い出を振り払って前に進みたい。でもどうしても忘れられない。そんな事を散る桜吹雪の中で思い出す。だからこそ「そんな私は夜桜お七」なのでしょう。

 

そんなわけでようやく2番に(説明が長くなってすみません)

〈口紅をつけて ティッシュをくわえたら 涙が ぽろり もひとつ ぽろり

こう始まる2番のAメロ。再び落ち着いたメロディになるとともに歌詞の内容も繊細で内向的になります。主人公の女性は口紅を整えたときに先だった男を思い出します。

〈熱い唇おしあててきた あの日のあんたもういない たいした恋じゃなかったと すくめる肩に風が吹く〉

主人公の女性は口紅を整えたときに、男性の口づけを思い出します。そして昔の恋だと割り切るようなセリフが続きますが、直後に「すくめら肩に風が吹く」とすることで、これが精一杯の強がりであるという印象を強めます。そしてそんな女性を描いた状態で最後のサビに。

 

長くなりすぎたのと、著作権の関係で最後のサビに関しては要所だけにしたいと思うのですが、ここでは昔の思い出を思い出す主人公と、その思い出に「さよなら」を告げる姿が描かれます。

あれは二十歳の時の若い思い出だと言って男を忘れようとする。そんな女性が花吹雪に包まれる姿でこの曲は終わるわけです。

 

最後にもう一つだけ。

この曲に出てくる「色」について触れておきたいと思います。僕がこの曲に初めて興味を持ったのは、そこに使われている色の対比からでした。この曲には「赤い鼻緒」「血」「燃える火」「口紅」と強い赤色のイメージと、「肌」「白い花」ティッシュ」と白さを強調する2種類の色が登場します。

というかその2色以外は登場しない。

僕はここを「赤」には今の女性が抱える情念を、「白」にはかつての女性の純粋さを対比させているのではないかと思って解釈しました。

 

そんなわけで何重にも解釈の幅があって面白い『夜桜お七』という曲。

よかったら桜のこの時期に聞いてみて下さい。

みなさんはどのような解釈をしますか?