新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



「壁」をモチーフにした10年代のマンガたちと、20年代のマンガから見る今後の世界の歩き方

僕は以前、ゼロ年代~10年代の漫画の特徴として、「壁」をテーマに考察を書いたことがあります。
僕がライターの仕事をいただけるようになったのもその記事がきっかけだったので、感謝してもしきれないような記事なのですが、それを書いたのが今からちょうど8年前。
その中で中心的に扱っていたのが『進撃の巨人』だったのですが、実はそれ以降読みかけで終わっていました(笑)
そんな『進撃の巨人』を先日読み終えたので、答えあわせと、改めて感じたことをまとめていこうと思います。

 

「壁」というモチーフの変化

 

20年代に入り、『進撃の巨人』を読み終えたときに、まず気になったのは、ゼロ年代(正確には95年~05年)と、10年代(05年~15年)に登場する「壁」というモチーフに対する描かれ方の印象の変化でした。
HUNTER×HUNTER』の暗黒大陸、『ONE PIECE』のグランドライン、『トリコ』のグルメ界、『FAIRY TAIL』のアラキタシアの大陸、『進撃の巨人』の壁、『約束のネバーランド』の農園と、物理的・心理的「壁」というモチーフは、とかくゼロ年代、10年代に多く書かれたように感じますが、そこにこめられた「意味」が前者と後者では大きく違うように感じるのです。
HUNTER×HUNTER』『ONE PIECE』『トリコ』といった作品には、「壁の向こう側の世界」は無限の可能性を持つものとして描かれていました。
ちょうどやや後半に該当する時期に始まった『トリコ』の面白いのは、前半は希望の土地として描かれた世界が、いざ入ってみるととんでもない地獄であったという形で物語に組み込まれているところです。
また、『HUNTER×HUNTER』や『ONE PIECE』でも、話数を進めるごとに、希望の土地から弱肉強食の厳しい世界であるように描かれ方が変化したのも象徴的です。
しかし、これらの作品では、初めは「希望の土地」として描かれていました。
それに対して、『FAIRY TAIL』『進撃の巨人』『約束のネバーランド』といった10年代の作品(と僕が分類している作品群)では、「壁」の外の世界が、希望ではない不安な存在として描かれていました。

コンテンツが反映させる「時代性」について

僕は作品を楽しむ際、共通する「時代性」のようなものを考えます。
90年代、ゼロ年代は別の記事で昔書いたことがあるので今回はふれませんが、10年代の作品に強く感じたモチーフが「理不尽な呪いからの解放」と「理不尽な運命の受容」です。
たとえば、男性向けの漫画をいくつかあげると、『進撃の巨人』『約束のネバーランド』に加えて『呪術廻戦』『鬼滅の刃』『ぼくのヒーローアカデミア』などがここに該当すると思うのですが、こういった作品はいずれも、いきなり巨人に襲われる、食料にされる、悪霊に取り付かれる、妹が異形、敵の標的となるというような「ある日突然理不尽な目に会う」ということと、自身が全てを引き受けて世界を滅ぼすor救うみたいな「解決策が極めて理不尽なものである」というような共通点があるように感じます。
僕はある日突然振ってきた理不尽を「呪い」、自分ひとりがそれを引き受ける解決手段がない状態を「生贄」と呼んでいるのですが、その文脈でいえば「呪いと生贄」が10年代の時代性なのかなという印象。
僕はゼロ年代を、壁というモチーフを基準にして、グローバル化や世界基準での動きを考えなければならないという「壁を壊された」危機感をもつ人と、「壁の内側に閉じこもって」現実から目を背けたい人たちが両方存在する「新時代への挑戦と拒絶」の時代と考えていました。
それがいざグローバル化によって外に視線を向けたらそこにあったのは壁の中よりもはるかに厳しい、ときに理不尽であったということが僕たちの気持ちの中にこれでもかと染み付いてしまった時代ろいうのが僕が思う10年代です。
そこでは、新時代へ挑戦しようとした人間の、「外の世界」にあった今まで以上の競争や理不尽な環境と、もう篭っていられないと思い「外に出ようと」壁の中で世界を拒絶していた人たちを鼓舞するもなびかないことに絶望し、一人で向かい合わなければ行けないというような関係しかなかった。
これがそれぞれ、前者が「呪い」後者が「生贄」というようなモチーフに象徴されているのかなというのが僕が10年代の作品を非常に大雑把にではありますがまとめたときに抱いた感想でした。

 

壁のない世界の歩き方

 

こんな風に書くと非常にヘビーな結論しか残っていなかった10年代ですが、出口のない閉塞感で記事を終わるのも味気ないので、20年代の「歩き方」を、これまた漫画を参考に考えていきたいと思います。
僕たちは20年代をどのように立ち回ればいいのか。
これを考えるために僕は先に挙げたような10年代のバットエンドにならざるを得なかった作品の共通点と、ゼロ年代、10年代、そして20年代の今もなお「壁」というテーマを含めた上で連載する『ONE PIECE』に答えを見出したいと思います。

10年代の閉塞感に満ちた作品のほとんどはまとまりが国家や種族、そしてそれらの衝突
というものでした。
だから物語を終えるためには①対立するもの同士の間で白黒つけるか、②一人が生贄となり両者の妥協点を探るしか存在しません。
そのためどうしてもハッピーエンドにはなりづらくなっていた。
これはそのまま今の時代に投影できることだと思います。
ひとことでいえば、「国家」や「民族」、「同じ価値観」といった抽象的なつながりに依拠した団結間とそのぶつかり合いなため、主語が大きすぎるわけです。
こういった単位あたりの「壁」が取り払われ、絶えず自分たちの存在意義を能動的に探し続けねばならない社会では大きすぎる主語はまとまりを生みづらくなります。
そして生まれるのは異なる価値集団との争いと、同じ価値集団の中での価値観への忠誠度合いによる見下しです。
少なくとも僕には「壁」がもう存在しない世界において、ここにはポジティブな出口は存在しないように思います。

 

ではどうすればいいのか。


ゼロ年代を超え、こうした10年代の作品群も超え、なお連載が続く『ONE PIECE』では、海賊の冒険が描かれるわけですが、それぞれの年代ごとにきわめてその時代性を表したような冒険が描かれたように思います。
かなり大雑把なくくりですが、『ONE PIECE』ではまず世界の大秘宝を探すというコンセプトで海賊ごとの競争が描かれ、そこから徐々に国を助けるといったテーマになってきて(それでもアラバスタ、空島、ウォーターセブン編あたりまでは国民を救うという色合いは少なく、魚人島あたりから民を救う色が強くなってきたのは印象的です)、そして最近は「同盟」という考え方が多く出てくるようになりました。
僕は20年代の身の振り方に関してはこの『ONE PIECE』的な仲間意識が重要になるのではないかなあと思っています。
ONE PIECE』の世界では、自分を受け入れてくれる仲間のクルーとなり、目的が合致するもの同士が同盟という形で手を組む(「傘下」というのもほぼ同じでしょう)という関係が登場します。
これと同じように、極めて親しい人たちで家族的な仲間関係を構築するとともに、その時々に価値観や利害関係で合致した人たちと手を組む関係性を結ぶというのが「壁」の壊れた社会での立ち回りかただと思うのです。
価値観と利害関係と居心地が三点セットのすりあわせが求められる主語の大きな集まりに居場所をもとめるとこはどんどん厳しくなり、そういう集まり同士はぶつかりが絶えないというのがこれからの社会だと思うのです。(実際に僕の目にはそういう歪が表出しつつあるように映ります)
こういう大きな主語にいれば自分が強くなった気がしますし、なによりその価値集団において熱心に貢献している人たちは構成集団のうち関心の低い人たちに対してもマウントがとれるため心地よさを感じるかも知れないですが、その巨体そのものの寿命が近いというのが僕のみたて。
そういうところから出て、気心知れた団結と利害関係による団結のハイブリッとな生き方のポジションをとる。
これが、20年代の空気感であり、振り返ってこういう結末に向かう作品が多く出てくるのではないかなあというのが僕の20年代のコンテンツの予想です。
答え合わせはまた6年後くらいにしてみたいと思います。

 

アイキャッチはワンピース