新・薄口コラム

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



モチベーションとネガティブと、精神的エネルギー枯渇問題について。

『社会の次は”精神の持続性”が求められる時代になっていく』
最近「やる気」や「欲求」についてあれこれ考えていたのですが、家入一真さんがこんなツイートをしているのを見て、最近考えていたことが一気に繋がったので備忘録として書きとめておきたいと思います。

よく行動の源泉をエネルギーに見立てることがあります。
僕も実際にそう思っていますし、多くの成功している人を見ていてもこれは正しいように思います。
この行動に起こす源泉たるエネルギーをモチベーションと呼んでいます。
僕の興味は仮に行動を起こす源泉であるモチベーションが「エネルギー」のようなものだとすると、それを大量に消費し続けていけば、どこかでエネルギー不足になるのではないかということでした。
「あくまで『エネルギー』というのは「見立て」に過ぎないのだから本物のエネルギーと違って枯渇することは無い」という反論?(というか主張)も十分に分かるのですが、実はモチベーションが無限に見える人も、実際には「モチベーションの生産量>モチベーションの消費量」の状態が続いているだけではないかというのが僕の現時点での仮説です。

やる気の反対で、世の中に「不満」を撒き散らす人がいます。
ご飯に行ったときにグチや不満ばかりこぼしたり、Twitterで有名人に罵詈雑言を飛ばすようない人たち。
僕はこれらを負のエネルギーと捉え、正のエネルギーをモチベーションと呼ぶのに対し、不のエネルギーを「ネガティブ」と呼んでいます。
モチベーションが何かを生産するのに使える一方で、ネガティブは何かしらの成果物に変換することができず、誰かに引き受けてもらうしかありません。
産業廃棄物みたいな感じ(笑)
そしてネガティブには与える場合と受け取る場合があり、それを「発散するネガティブ」と「吸収するネガティブ」と呼ぶことにします。

上記のようにエネルギーをモチベーションとネガティブに分けたとき、その人のエネルギーは下のように表すことができます。

「エネルギー=(生産したモチベーション+発散したネガティブ)-(消費したモチベーション+吸収したネガティブ)」

仮に(生産したモチベーション+発散したネガティブ)>(消費したモチベーション+吸収したネガティブ)の場合、エネルギーの総量は増えていきます。
反対に(生産したモチベーション+発散したネガティブ)<(消費したモチベーション+吸収したネガティブ)の場合は徐々にエネルギーは減っていき、やがては枯渇してしまう。

ここ最近、新しい働き方ややりたい事をやるべきだというメッセージをあちこちで見るようになりました。
(「とにかく行動しろ」というメッセージとともに)
このメッセージ自体はいいことだと思っている(実際に僕もこっちのタイプ)のですが、行動すればその分だけモチベーションは消費されます。
だからこそ、「行動しよう」というメッセージが市民権を得ている現在では、モチベーションの消費量は上がっているでしょう。
一方で、ネガティブの吸収量も上がっています。
それまでは対面したときにしか発信できなかったネガティブが、インターネット及びSNSの発達により、①常時、②どこにいる人にでも、③匿名でネガティブをぶつけることができるようになりました。
またこうした技術の発達で、今まで見えなかった成功者が可視化したことも、ネガティブを生み出す要因になっているように思います。
以上のように、エネルギーをすり減らす要因である「消費したモチベーション」と「吸収したネガティブ」の量は増えているということができます。

仮にエネルギーが減る要因が増えていたとしても、その分だけエネルギーが増える要因が増えていればエネルギー不足の心配は無いのでは?という考えは当然出てくると思います。
ということで次はエネルギーを増やす要因について考えることにします。
エネルギーを増やしたければ「生産したモチベーション」か「発散したネガティブ」のいずれかを増やせばいいわけですが、このうち、「発散したネガティブ」、つまりネガティブの発散は行動が必要となります。
そのため、時間という物理的な制約が生まれてくる。
同じようにモチベーションの消費にも行動がともなうため、ネガティブの発散とモチベーションの消費には「発散したネガティブ+消費したモチベーション=可処分時間」という等式が成り立つことになります。
とすると、モチベーションを消費して積極的に行動する人ほどネガティブの発散に使える時間は少なくなる。
逆に、行動しない人(≒消費するモチベーションが低い人)ほどネガティブを発散しやすいといえます。
そのため、積極的に行動する人ほどネガティブの発散がしづらく、エネルギーの総量は増やしにくくなっているわけです。
ネガティブを撒き散らして自分のエネルギーの総量を増やすという方法に対するいい悪いという僕の意見は今回はおいておきます。
(というかその是非に僕は興味がないので…笑)

最後にモチベーションの生産ですが、「行動が大切」というメッセージが多く広がっている割に、モチベーションの生産方法に対して言及するメッセージは驚くくらいに少ない印象です。
(たいていは、「本当にやりたいことなら没頭できるはず」みたいな精神論か、「人は絶対にやりたいことがあるはず」というモチベーション神授説)
余談ですが僕の周りにはそんな曖昧にされがちな「モチベーションの増やし方」について教育やビジネスという枠組みから挑戦している人たちがいて、僕は彼らのことを本当にすごいなと思っています。
話を戻すと、モチベーション消費の大切さが叫ばれるほどにはモチベーションの生産が追いついていないというのが現在です(と僕は思っています)。

というわけで現在は(行動をしている人ほど)エネルギーの生産よりも消費が多い社会と言え、この状態が続けばエネルギー不足がやってくるのではないかと思うのです。
このエネルギーという言葉を「精神」と言い換えれば、まさに家入さんがいうところの、「社会の次は”精神の持続性”が求められる時代になっていく」ということになっていくと思います。

なんていう現在に対する見立ての上で、解決策としては「消費したモチベーション」か「吸収したネガティブ」を減らすしかありません。
しかし、現代の社会で生き残るには前者をやめるのはリスキーすぎる。
(もちろん、空回りするような人はそこを減らした方がいいかと思いますが…)
とすれば、やることができるのは「吸収したネガティブ」を減らすという選択。
少し前にアドラー心理学を書いた『嫌われる勇気』がヒットしましたが、そこに書かれているのは周りの目を過度に恐れないようにしようということで、それはネガティブの吸収を減らす処世術としてみることもきます。
多くの人々が薄っすらとネガティブの吸収を避ける必要性にそれとなく気付いているのではないかと思うのです。
で、さらにその先にネガティブの吸収を断つ手段としてサルトルのアイデアがあるわけですが、そんなものを書き始めたら終わらなくなってしまうので、この辺で…

 

アイキャッチサルトルの嘔吐。

たぶん、ロカンタンの気持ちが分かる人が多い気がします(笑) 

嘔吐 新訳

嘔吐 新訳

 

 

問題に対するアプローチの方法とそこに現れる人間観

繰り返し発生する問題に直面したとき、その解決策としてどの様なアプローチを取るのかは人により様々で、好みの方法には各人の人柄が出る様に思います。

ある定期的に起きる問題があって、それを解決しなければならないとした時に、僕がパッと思いつく問題解決へのアプローチは①how型と②if型と③why型の3つ。

①のhow型とは、どうやってやればその問題が解決できるのか?という、解決法を探すタイプ、②のif型は何か繰り返し起きてしまう問題に直面した時に、「もしそれが続けばどの様な損失が起こるのか?」という可能性を考え、そこから自分を律するというタイプ、そして③は「なぜその問題が生じるのか?」という原因を考え、それを取り除こうとするタイプです。

 

「朝起きられない」という繰り返し生じる問題を例にそれぞれのアプローチを考えていきたいと思います。

①のhow型の場合は、どうやったら寝坊を改善できるかという、特定の現象に対する解決策を探します。

頭が痛い時、その痛みを取るためにロキソニンを飲むイメージ。

「寝坊」という問題であれば、いい目覚ましを探すとか、短時間睡眠でも快適に起きられる方法を探すとか、快眠グッズを選ぶとかいう方法がここに当てはまるでしょう。

次に②のif型の人であれば、「寝坊という事情を繰り返すとどういうことが起こるのか?」というように、問題そのものを「問題」とするのではなく、その行為の結果生まれるリスクや損失を「問題」と捉えます。

そして、そのリスクや損失を正確に把握することで自分を自制して問題解決を図ろうとする。

これが②の手法です。

そして③のwhy型は、原因を取り除くことで問題を解決しようとします。

「寝坊」の場合、「そもそも何故寝坊するのか?」を考えて、それが寝不足だったらそれを取り除くにはどうしたらいいかを考え、起きられない理由が精神的に負担を感じることにあるのならそれを取り除かない限り寝坊は繰り返すと考えます。

 

僕はここで、それぞれの解決策のどれが正しくてどれが間違えているみたいな正誤の話や、どれが優れているみたいな優劣の話をしたいわけではありません。

ん。

(そもそも対決方法は好みの問題なので、そんなものありませんし...)

ただ、問題解決の手法としてどれを取るのかには、その人の「人間観」みたいな物が出て、分類するととても面白いように思うのです。

①〜③を時制という側面から見ると、①→現在志向、②→未来志向、③→過去志向とみなすことができます。

①のhow型の人は現在起きている問題に対して注目し、②のif型の人は「仮にどうなるか?」を考え、③のwhy型の人は起こった原因を振り返る。

それぞれの着目するところにその人「らしさ」が出るように思うのです。

 

また、それぞれのアプローチにはその人の「人間観」みたいなものも出ているように感じます。

大きく分けると②③は同じグループ。

共に問題を「自分に原因があるもの」として把握しています。

ただし、その先の人間の前提は間逆。

(やや強引な言い方ですが)if型の人は「行動は意識で変えられる」という人間観であるのに対し、why型の人は「意識じゃ人は変わらない」という人間観です。

「行動は意識で変えられる」から、それをした時の未来をきちんと意識しようがif型アプローチで、「意識じゃ行動は変えらない」から原因を取り除いて解決しようとするのがwhy型のアプローチ。

それに対し問題解決の手法に注目するhow型は、問題を特定の個人に由来する物ではなく、誰もに等しく発生し普遍的な解決策があると考える点で、「基本的には人は同じ」というスタンスと考えられます。

(この辺り、僕は③タイプなので説明が曖昧かもしれません...)

繰り返しますが、それぞれのスタンスのどれがいいとか、どれが優れているとか、優劣をつけたいわけではなく、実際に優劣なんてありません。

ただただ、こういうタイプがいて、こういう人間観なんじゃないかなと思ったことを分類しただけ。

おそらく大抵の人が、問題に直面したとき、自分の考え方に近いやり方で対応しがちだと思うので、それでうまくいかない場合は、他のアプローチを選択してみるのがいいかもしれません。

そんな問題に対応するための「カードを増やす」という意味で、この分類は役に立つ気がします。

因みに僕のイメージではホリエモン、箕輪さんは①、落合陽一さんやメタップスの佐藤さんは②、Showroomの前田さんやけんすうさんは③といった印象です。

 

 

アイキャッチはhow型で検索して一番上に出てきたこの本(笑)

できる人は超短眠!

できる人は超短眠!

 

 

 

「物語る」ことばが伝える物語

[Poets often use many words to say a simple thing.]
-詩人は簡単なことを言うのに、いつもたくさんの言葉を使うのよ-
Jazzのスタンダードナンバーの一つ、「Fly me to the moon」はこんな台詞で始まります。

この歌い出しは僕のお気に入りのフレーズなのですが、僕はこの一文が「物語とは何か」について非常に適確に表していると思っています。
物語にせよ広告コピーにせよ、本当に練り込まれた言葉は、その言葉から自然と物語が発生すると思うのです。

小説家のヘミングウェイは友人に「10文字で小説を書くことは可能か?」というお題を与えられたときに、[For sale: baby shoes, never worn]という「物語」を書いたと言われています。
日本語に直すと「売ります、赤ちゃんの靴。未使用。」といったところでしょうか。
英語にして僅か6字、日本語でも16字足らずと、俳句よりも短い言葉の中にしっかりとした「物語」が描かれているわけなので驚愕です。
この文章をただ読めば「靴を売っている人」という単なる「情報」に過ぎませんが、小説としてどのような人の言葉なのかということに意識を向けた途端、鮮明な物語が浮かびあがります。
その「物語」を説明すること自体が無粋なことは百も承知で、このエントリを進めるために、あえて[For sale: baby shoes, never worn]に込められた物語を文字にしてみたいと思います。
「ある街に、出産を控えた女性が幸せに暮らしていた。彼女は我が子の誕生が待ち切れなくて、これから生まれてくる子のためにさまざまな準備をしていた。赤ん坊の靴はその一つ。生まれてくる我が子を思いながら着々と準備を進めていた彼女だったが、不幸にも流産となってします。そこに残されたのが生まれてくるはずだった『その子』のために用意した新しい靴。今はもう自分でその靴を持っていても意味が無い。そればかりか見る度に悲しみがこみ上げる。だから売りに出すことにした。その時の立て札が『売ります。赤ん坊の靴、未使用。』だった。」
ヘミングウェイは、この、英語にしてたった6文字の文で、このような失意の女性を描ききっています。

他にもいろいろなところで「物語ることば」を見かけます。
夏目漱石が生徒たちに「[I love you]をどう訳すか」と投げかけたエピソードもこの典型でしょう。
自分の生徒に向かって「君は[I love you]をどう訳すか」と問いかけたとき、その中の一人が「我君を愛す」と訳し、それを聞いた漱石が「日本人はそんな風に表現したりしない。『月がきれいですね』とでもしておきなさい」と言ったのだそう。
[I love you]を訳した「月がきれいですね」という日本語もきれいに「物語る」言葉だと思います。
確かに、「月がきれいですね」と相手に伝えられる距離、人間関係、シチュエーションを考えれば、その言葉に含む意味は[I love you]以外に考えられません。
昔マツコデラックスさんが、「好きって言葉を使わずに好きって伝えるのが歌でしょ」と言っていたのですが、漱石の逸話は見事にそれを体現しているように思います。

冒頭で引用した[Fly me to the moon]では、詩人はたくさんの言葉を使って気持ちを表すといった主人公が、「でも君はニブいから、通訳しながらいくよ」(宇多田ヒカルさんの日本語訳です)と言ってメインの部分で[Fly me to the moon, and let me play among the stars. Let me see what spring is like Jupiter and Mars.]と歌います。
この部分を和訳すれば「私を月に連れてって 星たちに囲まれて遊んでみたいの 木星や火星にどんな春が来るのか見てみたいの」といった感じでしょうか。
この歌で描かれる詩人の女性は、自分の恋人に向かってこう投げかけたあと、[In other ward](つまり,,,)と言って[hold my hand]「私と手を繋いで!」と続けます。
確かに「月まで連れてって」という言葉は「ワクワクした世界を見せて」という意味になるし、そこに彼女を連れて行くならば「手を繋が」なければなりません。
[Fly me to the moon]を「物語る言葉」として感じると、詩人が言ったとおりになります。

いつの、どの会社のものであったかは忘れてしまいましたが、とある新聞の投稿で僕の中で出会った最も印象に残っている「物語る言葉」があります。
それが次の言葉。

「おばあちゃん」へ
私に色々なことを教えてくれたおばあちゃん。最後は命の儚さを。本当にありがとう。

確か「『ありがとう』が伝わる表現」というようなお題だったのですが、これを見た時に衝撃を受けました。
もちろん言葉で伝えているのは「ありがとう」なわけですが、そこにはどれだけおばあちゃんが好きだったのかという気持ちも、おばあちゃんを失った悲しみも込められています。
そんな気持ちを全部ひっくるめて「ありがとう」のひと言に込めている。
とても素敵な「物語る言葉」です。

ある文を見た時に文字通りに読むという力を「情報読解力」、文に描かれた背景に思いを馳せる力を「物語読解力」と僕は呼んでいます。
最近は情報に溢れ、行間より即時に文字を情報として把握することが基本となるSNSでのコミュニケーション(僕はこれをフローのコミュニケーションと呼んでいます)では、「物語読解力」は軽視されがちですが、無限に情報に溢れた社会で価値を生み出すにはこの「物語読解力」です。
情報そのものは誰でも手に入るとしても、それの解釈は人によって違い、同じ情報に触れられるとしたらその「解釈」にこそ価値があると思うのです。
「『物語る』ことば」はその訓練にちょうどいいのかなあと思ったり。。。
また、そんなものを抜きにしてもこういった文に触れると純粋に感性が刺激さませんか?
「『物語る』ことば」に触れておくことは、感覚的な面からも、実利の面からもさまざまな効果がある気がします。

 

アイキャッチヘミングウェイ

誰がために鐘は鳴る 上 (新潮文庫)

誰がために鐘は鳴る 上 (新潮文庫)

 

 

 

『性格ブス』脱出クエスト~イケメン男子に学ぶ、これがモテる男の話し方!?~

僕の研究テーマの一つに「イケメンの研究」というのがありまして、この数年イケメンと呼ばれる人たちの生態を研究しています。
このブログで何度も言っていますが、僕はイケメンが大好きです。
もちろん性的な意味ではなく、彼らの振る舞いやホスピタリティを見ていると本当に学ぶことが多いのです。
「振る舞いやホスピタリティ」という言葉から分かっていただけるかと思いますが、僕がここで言うイケメンとは、ジャニーズやオラオラ系のイケメンや合コンによくいるイケメンと自覚して女遊びに長けた人たちではなく、どちらかと言うと星野源さんやマンガでいうと『君に届け』の風早くんみたいな、無自覚に『イケメン』を振りまいているタイプの人たちです。
彼らと遊んでいると学ぶことが多く、横で見ていて男の立場から見ても「こりゃほれるわ」と思うような場面が多々あるのです。
様々な所作や思考回路まで、紹介したいことは多くありますが、全部を1エントリでまとめることは当然不可能なので、今回は話し方について「研究結果」をまとめていくことにします。

少し前に、Twitterを見ていたら雰囲気イケメンの対義語として「性格ブス」なるパワーワードが流れてきました。
それを見た時、雰囲気イケメンを正確に捉えるには、反対の概念である「性格ブス」も押さえておく必要があるなと思い、それからしばらく身の周りので「性格ブス」を探していました(むっちゃ失礼…)。
で、その結果どちらの振る舞い方もある程度言語化し、またその違いが何によって生じるかもざっくりと考えてみたのが以下の傾向です。

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「ほとんどの人は男女問わず… 『自分のこと』で一杯になってる…」「話したいけど聞いてもらえないことが一杯ある…」
マンガ家の山田玲司先生が女性が持てる方法について描いた『モテない女は罪である』という本(タイトルはキツイ表現ですが、中身は顧客視点について描かれていて、女性のモテはもちろん、男性のモテにも、また就活でも社会人の仕事術としてもオススメです!)の中でこう言っています。
僕は「雰囲気イケメン」と「性格ブス」のコミュニケーションの決定的な違いはここにあると思うのです。
「性格ブス」の男の会話は、常に「自分のこと」ばかりで、相手に聞いてもらっているという自覚がありません。
一方で「雰囲気イケメン」は、世の中の人たちが「話したいけど聞いてもらえない」ことをよく知っているから相手の話に耳を傾ける。
(因みに相手の話を聞く余裕ができるのは、イケメンであることによってそうでない人に比べ放っていても人が集まるので、そうでない人に比べて「自分問題」をこじらせていないのが原因だと思います。)
で、さらに「自分問題」という視点からコミュニケーションを分類すると、話の視点を[自分/相手]の2パターン、話しの内容を[ポジティブ/ネガティブ]の2パターン、会話のスタンスを[構って欲しい/与える/引き受ける/引き出す]の4パターンに分けることができます。
その上で、自己中心的なコミュニケーションから他者意識のあるコミュニケーションへと並べていくと以下のようになります。
①自分のネガティブ×構って欲しい
②自分のネガティブ×相手に与える
③相手と自分の会話の割合が5分5分
④自分のポジティブ×相手に与える
⑤相手のネガティブ×引き受ける
⑥相手のネガティブ×引き出す
話の視点(2通り)×話しの内容(2通り)×会話のスタンス(4通り)で本来16通りの会話がありますが、全部の分析をしていると文字数に限界があるので、今回は「性格ブス」「雰囲気イケメン」に関係する6通りでまとめました。
①~⑥がそれぞれ上図のレベル0~レベル5に対応します。
レベル0メンヘラ系①自分のネガティブ×構って欲しい
レベル1マウント系②自分のネガティブ×相手に与える
レベル2ニュートラル③相手と自分の会話の割合が5分5分
レベル3エンターテイナー系④自分のポジティブ×相手に与える
レベル4ホステス系⑤相手のネガティブ×引き受ける
レベル5カウンセラー系⑥相手のネガティブ×引き出す

話し相手にとって一番厄介なのはレベル0のメンヘラ系コミュニケーションです。
ここに該当する人は不機嫌を背負って話し相手の前に現れたり、「どうせ俺なんて…」というような「フォローしなければならない独り言」を言うことで、相手が自分のネガティブに意識を向けることを強制します。
これは僕が男だからかもしれませんが、男性のこの手のコミュニケーションが一番厄介です。
雰囲気イケメンを目ざすのであれば、まずここを脱する必要があるでしょう。

メンヘラコミュニケーションを脱することができたら、次のフェーズはマウント系コミュニケーションです。
世の中の男性に多い(特に「おじさん」と呼ばれるひとたち)ように思います。
ここに該当する人たちは、相手から自分を気にかけて欲しいというそぶりは見せませんが、代わりに相手が自分の話を聞くことを強制します。
また、ネガティブな内容の他に攻撃的なものや自慢も含まれている(僕はそれらも含めて「ネガティブ」と呼んでいますが)ため、聞き手の負担は相当なもの。
こちらから構いに行かなくて言い分メンヘラコミュニケーションよりはコストが少ないですが、相手のネガティブを引き受けることを強制する点で、非常に面倒なコミュニケーションと言えます。

レベル2のニュートラル型コミュニケーションが、いわゆる普通の会話に相当します。
相手の話を聞く分量と自分の話をする分量がほぼ同量で、しっかりと会話のキャッチボールになっている。
平均的な女性はここに属す一方、男性はやや平均より会話が上手い人でなければここに到達しないように思います。

で、ここからが相手に(相対的なものも含めて)プラスを与えるコミュニケーションです。
レベル3になると、話し手自らが面白い話を用意して、その場を盛り上げようとします。
このタイプの人は自分が中心になってはいるけれど、周りを楽しませようということが根底にあるため、一緒にいて周りは楽しく感じます。
(因みに周りを楽しませようという意志を持たずにこれをやっているのはレベル2のマウント系です)
ここに該当するのがエンターテイナー系コミュニケーション。

中学校や高校、ギリ大学生くらいまでの最上位の会話スキルはおそらくレベル3のエンターテイナー系コミュニケーションです。
ここまでできる人は恐らくクラスの人気者だったはず。
しかし、大学生以降になると、これより先のスキルを持っている人がでてきます。
それがレベル4のホステス系コミュニケーションです。
ここにいる人は、相手の話をニコニコしながら聞き、相手が話やすいように必要に応じた合いの手を入れることに長けています。
だから、話をしたいと思っている人は凄く気持ちよく話すことができる。
それがたとえネガティブであってもしっかりと受け止めるのがここにいる人の特徴です。
ここに該当する人は「あの人は私のことをわかってくれる」という印象をもたれがち。

そして、ホステス系コミュニケーションのさらに上に、相手のネガティブを自然に引き出して解消してしまうようなコミュニケーションを取ることができる猛者がいます。
これがレベル5のカウンセラー系コミュニケーションです。
ここに該当する人は相手が話しやすい空気を作るばかりでなく、相手が自然とネガティブを打ち明けられるような雰囲気を作ります。
ここまでくると雰囲気イケメンです。

以上が僕の考える「性格ブス」から「雰囲気イケメン」になるための手順です。
皆さんはどこにいますか?
(因みに僕はせいぜいレベル2か3です…笑)

BUMP OF CHICKEN「乗車権」考察〜社会システムから「乗車券」と「バス」のメタファーを解く

金環日食という言葉を特に意識していた訳ではないのだけど、歌詞は私の中から出てきたものだから、きっとどっかで見て、どこかで気になっていたんだと思う」

ドリカムの吉田美和さんが昔、テレビのインタビューでこんな風なことを言っていました。

(細かな言い回しは違うと思います)

「時間旅行」という曲の中に出てきた「金環日食」という言葉に対するインタビューでの言葉だったのですが、いかにも美和さんらしい答えだなあと思います。

僕はアーティストさんの中には、頭の中にファンタジーを思い描いて言葉にする人と、どこまでもリアルな体験から感じたことを言葉にする人がいると思っています。

例えば松任谷由実さんは前者で(本人がインタビューで答えていました)、吉田美和さんは後者。

自分が経験したこと、感じたことをそのまま歌にするタイプの人たちの曲は、聞くほどに自分の解釈が構築されていき、どんどん好きになっていくような気がします。

(もちろん前者の歌にもそういうものは多くあります)

そういった理由から好きなアーティストがたくさんいるのですが、僕にとってBUMP OF CHICKENはその代表例だったりします。

 

僕はここ最近、『乗車権』という曲にハマっています。

初めて聞いたのは高校生の時で、その時は漠然と「攻撃的な曲だなあ」くらいに思っていたのですが、改めて聞くととても意味深に聞こえてくるのです。

以前、ハネウマライダーの考察エントリ(「ハネウマライダー」考察〜20代後半でもう一度聴きたい、ハネウマライダーの人生論 - 新・薄口コラム)でも書きましたが、BUMPの『乗車権』も大人になって自分の中での解釈が大きく変わった一曲だったりします。

 

排気ガスを吐いて 腹ぺこのバスが来る 夢の先に連れてってくれんだ どうだろう>

『乗車権』はこう始まります。

僕が最初に気になったのは「バス」が何のメタファーであるのかということでした。

主人公が<夢の先に連れてってくれる>と思い乗り込むバスが、非常に印象的です。

結論から言えば、「バス」は中高大と入試を通って進学し、その先の就職活動を経て社会人になるという、決められた「人生像」のメタファーであるというのが僕の解釈です。

学生時代、よく考える時間も与えられず、とりあえずどこの学校に進むかを決めさせられ、就職活動ではとにかく「いい企業」に入ろうとし、そしてそんな行動に疑問を持つことすらなかった自分たち。

そんな大多数を無思考のまま大人にしていくシステムのメタファーとして公共交通機関としての「バス」ではないかと思うのです。

主人公は「夢の先に連れてってくれる」と謳うバスと対峙します。

 

<強く望む事を 書いた紙があれば それがそのまま 乗車券として 使えるらしい>

仮に受験や就活のシステムそのものがバスのメタファーだとしたら、ここに出てくる<強く望む事を書いた紙>というのは、志望理由書や自己PRといった紙ということになります。

そういった「紙に書いた夢」を乗車券にして乗ることのできるバス。

Aメロの1回目では、そういった前提情報が提示されます。

 

2回目のAメロには、そんな「バス」に対する主人公の漠然とした不安と焦りが描かれていきます。

<我先に群がり 行列出来上がり ぎらぎらの目 友達も皆 どうしよう>

<強く望む事か 適当でもいいか 取り敢えずは 乗車券の替わり>

ここでは、「バス」に乗る時を目の前にして周囲の人間が大きく変わった(「バス」に乗るために必死な形相になっている)ことと、そんな周囲に対して自分には「紙に書く」ような大層な夢なんかないと考える主人公の不安が書かれます。

そして、適当でもいいので<とりあえず 乗車券の替わり>として強く望む事を書く主人公。

そうやって適当な夢を書く事で「乗車券」を手に入れた主人公は、Bメロで競争に身を置きます。

 

<どけ そこどけ 乗り遅れるだろう 人数制限何人だ 嘘だろう これを逃したら いつになる>

乗車券を手に「バス」の列に並んだ主人公は、<そこだけ>といってそのバスに乗り込もうと必死になります。

そしてサビで<あぁ ちょっと待ってくれ 俺を先に乗せてくれ>といってバスに乗り込むことに必死になって1番は終わりです。

そして何とか「バス」に乗れたとこらから2番が始まります。

 

<鈍い音で吠えて 食い過ぎたバスが出る>

1番では「腹ペコ」だったバスが「食い過ぎ」になっています。

あぶれるくらいに人が乗った「バス」は、さらにここからも振り落とされる人がいる可能性を暗示しています。

主人公な「泣き落としで順番を譲るバカ」のお陰で無事そのバスに乗車することができます。

先ほどまでは「友達」と言っていた周囲の人も、バスに乗る時には「バカ」と表現しているところも非常に印象的です。

そして数時間後に<次の乗り継ぎ>がやってくる。

ここに出てくる「乗り継ぎ」が1つ目の試験を突破した先にも次の試験が待っているという意味で、受験や就活に縛られた僕たちの生活が重なります。

そんな乗り継ぎの直前、主人公は<あれ ここに無い でも こっちにも無い なんで乗車券が無い 予定外 見付からないまま 日が落ちる>と言って1番で「乗車券の替わり」としてとりあえず書いた紙を無くしてしまいます。

そして、それが見つからないまま日が落ちていく(=乗り継ぎが迫ってくる)。

「乗車券」が見つからない主人公は、とりあえず書いた夢なんて競争しているうちに忘れてしまう。

ここには「強く望む事」のためにバスに乗ったはずなのに、気がつくとそれを忘れてバスに乗り遅れないように必死になる主人公(たち)が描かれています。

その証拠に2番目のサビでは<あぁ ちょっと待ってくれ 俺もそれに乗せてくれ おい そこの空席に 鞄 置いてんじゃねえ>と言っています。

この言葉から、主人公にはもはやバスに乗るべきか否かな選択の余裕はなく、乗ることが目的になっていることが伺えます。

そして間奏後の3回目のBメロへ。

 

<違う これじゃない これでもない 違う 人間証明書が無い 予定外 俺が居ない>

ここにきて主人公はとりあえずの夢を書いた「乗車券」ではなく、「人間証明書」なるものが無いことに気がつきます。

ここであえて「乗車券」とは違うものを出してきたということから考えれば、「人間証明書」というのは「とりあえず書いた夢」とは真逆のもの、つまり「自分とは何か」とか「自分の本当にしたいこと」とかいった根源的な自分に対する問いかけのようなものでしょう。

主人公は「乗り継ぎ」をする中でそれが無いことに気がつきます。

しかし、もう「乗車券」すら無くなっていて、今更バスから降りることもできない主人公はこう言います。

<やばい 忍び込め>

そして最後のサビに向かいます。

 

<あぁ ちょっと待ってくれ やはりここで降ろしてくれ なぁ こんな人生は望んじゃいない 望んでたのは---・・・>

最後のサビで主人公はこう叫びます。

次々に乗り継ぐバスの中で主人公はこう気づき、<あぁ 見逃してくれ 解らないまま乗ってたんだ>と言いますが、今更乗ったバスを降りることはできません。

実際に主人公も<俺一人 降ろす為 止まってくれる筈もねえ>とそのことに気づいています。

 

僕はこの曲で非常に面白いと思うのはやはり「バス」というメタファーを使っているところだと思います。

乗ってしまえば次の目的地まで連れていかれ、途中で降りることはできない。

そんな公共交通機関から降りたくても下ろしてもらえないという所に、現代社会が投影されているように思うのです。

 

<強く望む事が 欲しいと望んだよ 夢の先なんて 見たくもないから>

主人公は最後にこう言います。

「夢の先なんて見ないから強く望むことが欲しい」という部分からは、初めに出てきた「乗車券」の替わりとして「とりあえずとりあえず適当にでも夢を描く」という自分のした選択に対する後悔が感じられます。

そして、本当に「強く望むこと」が欲しいと思う。

この一連の主人公の心境の変化が、今を生きる僕たちを非常によく表しているようち思うのです。

 

もちろん作詞した藤原さんはアーティストなので、「バス」や「乗り継ぎ」というメタファーが、オーディンやらレーベルへの所属やらから来ているのかもしれません。

しかし、この曲がシングルの表題曲でも無いのに根強い人気があるのは、こうしたその時代を生きた人々が無意識に感じていたものを巧みに織り込んでいたからでは無いかと思うのです。

受験なのか、就活なのか、或いはそのほかの何かなのか。

この曲に対する共感は、自分にとっての「バス」が何であるのかによって変わってくると思います。

しかし、共感した人は、必ず何かしら分からないままにシステムに乗ってしまった経験と、それに対する後悔があるように思うのです。

あなたにとっての「バス」は何ですか?

 

 

ユグドラシル

ユグドラシル

 

 

 

 

AO入試の倒し方[受験作文攻略ガイド]③文章の型より大切な2つの力

小論文の指導をしていると、必ずと言っていいほど全員の生徒さんが「書き方がわからへん!」と言います。

しかし、実際に指導を開始してみると、分からないのは書き方ではなく、「アイデアの出し方」のほうだったというのがほとんど。

手が動かない、文章が進まないから「書けない」と思い込んでいるのだけれど、実際には書くべきことが浮かばないという場合がザラにあります。

そういう人には試しに自分について問われているような、主張を組み立てやすいテーマの小論文を課すのですが、その場合、多くの生徒さんが途端にかけるようになります。

文章が書けないのは、書き方を知らないことが原因なのではなく、与えられたお題からアイデアを出して、論に落とし込む方法を知らないのが原因なのです。

 

では具体的にアイデアを出すためにはどんな準備が必要なのか。

それを考えるために、そもそも小論文を書く際に必要なアイデアについてまとめていこうと思います。

一般的に小論文の王道とされる文の型に序論-本論-結論という形式がありますが(書きやすい文の型には、他にも起承転結なり序破急なりいろいろなパターンがありますが、いずれにせよ)その中身は①自分の主張、②その理由、③具体例、③まとめあたりで構成されていて、それぞれの能力を高めていくことが必要です。

このうち、②と④は次善準備をするというよりは実際に文章を書いていく中で身につけるものなので、能力は練習量に比例します。

また、この2つの書きやすさは、それぞれ前の主張と具体例の分かりやすさにある程度比例します。

だから説明は後回し。

重要なのは①の自分の主張と③の具体例です。

ほとんどの生徒さんが、与えられたお題から自分の主張を組み立てられない、またはそれを説得するのに適当な具体例が思いつけないということで悩んでいます。

だからこそ、小論文の練習においては、まずこの2点に焦点をあてることが重要なのです。

 

①の自分の主張と③の具体例を素早く、かつ適切に考えるためには、与えられたお題に対して様々な角度からアプローチをかけるための思考ツールを身につけておくことと、適切な具体例を引き出すための、知識のストックを作っておくことがそれぞれ必要になります。

意見を生み出すための思考ツールを知り、それを使いこなせるようになることで①の自分の主張が短時間で(しかもさまざまな角度から複数)作ることができるようになり、知識のストックを日頃から積み上げておくことで主張に説得力を持たせられる具体例を用意することができるようになるのです。

次回以降の数回で、まず意見を作るための思考ツールとその使い方を紹介し、その後、具体例に役立つ知識の集め方をまとめていきたいと思います。

今すぐにでも動かなければと思っている人がいれば、まずは前のエントリで書いた「ノート作り」をはじめてください。

小論文はこういった基礎力の部分が本当に重要になってきます。

コツコツと頑張って下さい。

 

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デジタル「以前」を武器にする

数年前にサイコパスというアニメにはまっていました。
サイコパスで描かれる世界では、その人の「悪意」が数値化されます。
ドミネーターという自動照銃のようなものを向けると、その人の悪意の指数が表示されて、潜在的な凶悪性を持つものほど「悪意の数字」が大きくなる。
主人公はそんなドミネーターを持って、凶悪な犯罪者と戦います。
そんな世界観で話が展開されるサイコパスですが、主人公たちの最大の敵として登場する槙島という人物は、紛れもなく凶悪な犯罪者にも関わらず、「悪意」が表示されません。
機械には数値化できない悪意を備えた人物なのです。
サイコパスという作品にはまったのは純粋に作品の面白さによるものですが、同時に槙島という人物の設定を見て以来、僕の中で「数値化できないこと」というのが一つのテーマになりました。

先日葉加瀬太郎さんが、自身の楽曲『エトピリカ』の演奏解説を見たときに、意図的に微分音を混ぜているという話しをしていて、それに驚きました。
微分音とは、CとC#の間にあるような五線譜には現れないような音のこと。
ピアノから楽器に入った僕にとって、音は五線譜で書き表されるもの、白鍵と黒腱によって表されるものであって、五線譜には表れず、まして鍵盤の存在しない部分に音があるなんていう視点はなかったので、非常に新鮮でした。

ジャンルを問わず、僕たちはある出力装置に慣れ親しんでいると、そもそも「その出力装置が表せるものしか目の前には現れない」という極めて当たり前の前提をちょいちょい忘れてしまいまる。
一見何でも調べたら出てきそうなGoogleでも、そもそも誰にも言語化されていないものは検索しても到達できませんし、誰もそれに「投稿すべき価値」を見出さないような情報はアップされません。
あるいは、僕たちは言葉によって、他者に自分の意図を伝えられるように思いがちですが、言葉にした時点で、頭の中で想像していた周辺にある細かなニュアンスのようなものはそぎ落とされてしまいます。
僕たちはそうやって、無意識の内にその出力装置で表されるものが世界の全てと思い込んでしまうわけです。

 

僕は統計的に考える事が大好きなのですが、一方で誤差項をとても大事にしています。
ナシーム・ニコラス・タレブ教授が『ブラックスワン』の中で言うように、統計的にはたった1つの「異常値」にすぎなかったとしても、それが決定的なインパクトを与える場合があるからです。

デジタルの根本が世の中の事象を0と1で表すことにあるとして、そのことによりあらゆるものが効率化されていくのだとしたら、その世界観における最大の差別化は0と1に変換する際に切り捨てられた誤差の部分になります。
宮崎駿さんは現実の自然とアニメ世界の自然の違いを「情報量」といい、猪子寿之さんは芸術の差別化要因を「文化」と、それぞれの分野に適した言い方をしていますが、僕の考える「誤差」はまさにそんな感じ。
デジタルに変換されたあとの部分で差別化を測ろうとするのではなく、デジタルに組み込まれた時点で削ぎ落とされた部分を武器にする。
確かな根拠があるわけではありませんが、直感的にそういう戦い方の目を肥やしておくことが、これからの社会で価値を生み出すのに大きな強みになるように思うのです。

 

 

ブラック・スワン[上]―不確実性とリスクの本質

ブラック・スワン[上]―不確実性とリスクの本質