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新・薄口コラム

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



ワンピ、進撃、ハンターの流れで国語の新教材「見えないだけ」を読んでみる

今年から中学2年生の国語の教科書に掲載されるようになった牟礼慶子さんの「見えないだけ」という作品。
僕はこの作品が選定されたことに関して、とても時代のトレンドを反映させているように感じました。
-あんなに確かに在るものが まだここからは見えないだけ-

おそらく通常の理解で行けば、「子供の間には見えない様々な出来事が世界にはある、世界は広くて面白い」という意味で捉えるのが妥当でしょう。
というか、作者がこの作品を書いた年代や、「年若い友へ」という副題をみたら間違えなくこれが作者の伝えたいことだったはずです。
ただ僕は、この作品が2010年の今掲載されて、子供たちを囲んでいるコンテンツの流れから見たとき、別の意味が付加されるように思います。

この作品を今の子供たちが触れているコンテンツの中で理解しようと思った時、僕の頭には次のような作品が浮かびました。
ONE PEACE、HUNTER×HUNTER、トリコ、進撃の巨人FAIRY TAIL
ハンターハンター進撃の巨人は深夜枠ではあるものの、いずれも2010年代に放送していた作品です。
また、いずれの作品もマンガとして大ヒットをしています。
僕がこれらの作品を読んで共通項を感じるのが、「守られた狭い世界とその外に広がる無秩序な世界」というテーマ性です。
ONE PEACEでは、主人公が過ごしていた世界の外にグランドライン、そしてその先に「新世界」と呼ばれる場所が広がっています。
グランドラインに行けばそれまでの海では想像もできなかったようなことが次々と起こり、そしてそれは新世界に行くと一層強まります。
守られた世界が、主人公ルフィの故郷のある海で、グランドラインが無秩序な外の世界。
HUNTER×HUNTERでは無秩序な外の世界を「暗黒大陸」と呼びます。
まだ明確な描写は描かれていませんが、そこでは人類の想像のはるか上をいく危険に溢れているようです。
トリコの場合はこれが「グルメ界」になります。
このところずっとグルメ界篇が続いているので忘れてしまいがちですが、トリコの作品の中では、人々が暮らす人間界の外に、はるかに広がるグルメ界が存在します。
当初そこは、楽園と思われていたが、実態は生きて帰ってくるものが殆どいないような過酷な世界だった。
これが、トリコにおけるグルメ界の設定です。
世界の内と外の問題を扱った作品の象徴とも言えるのが進撃の巨人でしょう。
「壁」という設定を通して、1番直接的に守られた内側の世界と、無秩序な外の世界を描いています。
そして、個人的に驚いたのがFAIRY TAILにおける外の世界の描写です。
今進んでいる話の中で(恐らくこれが最後の話になるのだと思います)アルバレス帝国という存在が登場しました。
設定は確か、自分たちが暮らす大陸の向こうにある、途轍もない魔導師たちが溢れている場所だったと思います。
それまでの物語の中では、アルバレス帝国という存在は殆ど描かれていません。
ここに来て読者の頭の中にできていた作品世界の全体像を広げてくる。
これも広義の内側の世界と外側の世界と言えるでしょう。

僕は、作品の中で守られた内側の世界と無秩序に広がる外の世界が活発に描かれるようになったのが2010年代の特徴であると思っています。
(ONE PEACEの新世界編が2011年、FAIRY TAILアルバレス帝国編が2015年です)
世界観が全く違うこれらの作品の中で、同様のモチーフが同時に描かれることに、時代の空気を感じます。
そして、この文脈で牟礼慶子さんの見えないだけを読むと、本来の解釈とは違う読み方もできると思うのです。
こうした視点で僕が感じたのが「君たちはまだ見ぬ無秩序な世界に飛びさなければならない」というメッセージです。
恐らく、牟礼さんの伝えたいメッセージは「世界は面白さに溢れている」ということだったのだと思います。
しかし、今の子供たちの周りにあるコンテンツの文脈で「あんなに確かに在るものが まだここからは見えないだけ」という文を読むと、君たちは守られた内側の世界ではなく、無秩序な世界に飛び出さなければいけないという強いメッセージとして捉えることもできると思うのです。
もちろんこれは僕の半ば強引ともいえる邪推で、こんなもの「教科書的な」正解ではありません。
ただ、読み手がどう受け取るかという意味で、こうした読み方もあながち間違えではないのかなあと思ったりするのです。
「読み方」は人それぞれなので、こんな読み方を推奨する気はありません。
ただの僕の感想です(笑)


アイキャッチはフェアリーテイルの最新巻


ロジカルシンキングの弱点と美術の強さ

日頃子どもたちに話す時はどうしても聞いてもらうことを第一にするので笑い話に仕上げるのですが、僕は美術を見に行くことが大好きです。
先日友達に「なんで美術館なんて行くの?」と聞かれました。
その時は反射的に「好きだから」と答えてしまったのですが、よくよく考えたらなぜ自分が美術館に行くことが好きなのか、考えたことはありませんでした。
で、そこからしばらくこの問いに対する自分なりの解を考えることになりました。
そして数日後。
その答えが自分なりに説明できたので紹介させて下さい。

もっと知りたいパウル・クレー ―生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション)

全くもって威張れることではないのですが、僕な正直どの絵がどのようにいいかはほとんど分かりません。
それでも美術館に行って、いろいろな絵を見たいのは、美術品を通して自分の中の「世界の見え方」が増えると思っているからです。
これは自己啓発的な意味ではなく、実際に見えなかったものが見えるようになるという意味です。
僕たちは普段当たり前のようにものを「見て」いますが、実際は知識があるからそう見えているだけです。
例えば、僕たちは都会のビル群を見たとき、近くのビルが大きく見えて、遠くのビルは小さく見えるように感じます。
しかし、実際は距離が近いと大きく見えて、遠くになるにつれて小さく見ているとは限らないのです。
もし本当に近くにあるものが大きく見え、遠くにあるものが小さく見えるとしたら、太陽は昼と夕方で随分距離が離れたということになってしまいます。
実際なそんなことはありません。
近くにあるものが大きく見えて、遠くにあるものが小さく見えるのは、僕たちの見方に遠近法がそれだけ強く影響をしているからなのです。
僕たちは「近くのものを大きく、遠くのものを小さく描く」という遠近法を知っています。
だから、僕たちの目には近くのものが大きく見えて、遠くのものが小さく見えるのだと思うのです。


同じ話をチームラボの猪子寿之さんが、「雨」を用いて行なっていました。
カイユボットという画家の「パリの通り、雨」という作品には、雨の日のパリの絵が描かれているのですが、そこには傘を持った人たちと、濡れた地面はあっても、「雨」そのものは描かれていません。
僕たちは雨を表そうとすれば、当たり前のように画面に線を引くでしょう。
しかし、「細い線を画面に引いたら雨に見える」というのは、そうやって描かれた雨の絵を見慣れているから「雨」に見えるのであって、実際の雨をよく見れば、線になどなっていないことに気づきます。
雨を線で描くというのは、浮世絵で実践された雨の抽象化であり、僕たちはそこで「雨の見え方」を学んだからこそ、雨が線として「見えて」いるのです。

僕にとっての芸術の役割はここにあります。
どうやって世界が見えるのか、その「見え方」のパターンを増やしてくれるのが、僕にとって芸術の1番の効能です。
大学時代の僕は、ある種のロジカルシンキング原理主義といえるくらいに、論理的思考をすることが大切だと思っていました。
しかし、ビジネスの場でよく言われるロジカルシンキングも、世界の「見え方」の一つのパターンに過ぎません。
もちろん何も尺度となる見え方を持っていない人にとっては、ロジカルシンキングは非常に便利な見え方でしょう。
しかし、物事の「見え方」はロジカルシンキングだけではありません。
ロジカルシンキング原理主義だった当時の僕にとっては、論理的に分解することこそが世界を正しく見る方法だと思っていたのですが、実はそれ自体が一つの価値観に過ぎないわけです。
あるデータを平均で比べるのか分散で比べるのか、それとも中央値を見るか、最頻値を見るか。
そういったパターンの違いと同じようなものです。
ロジカルシンキングが大切だと言い切っているのは、数字を平均値でしか分析できないのと同じように感じるわけです。
そんな風に思うきっかけになったのが、僕にとっては芸術です。
過去の作家が提示した「世界ってこう見えるよね」ということを収めた作品に触れると、「見え方」の引き出しがどんどん増えていくのを感じます。
ロジカルシンキングならばこうなるけど、別の見方で考えたらどうなるだろう。
何かを考える時に全く違うアプローチができるようになるわけです。

今の社会では、とかくロジカルシンキングこそが大切と思われている節があります。
だからこそ、別の見え方を知っていることが武器になる。
そんな風に思うからこそ、僕はかなり意識していろいろな「見え方」を取り込もうとしています。
その手段の一つが美術館に行くことなのです。


アイキャッチはモネの解説書

もっと知りたいモネ―生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション)

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ゆとり世代の取扱説明書②若者が会社に1番求めていないことが「繋がり」だと思う

ゆとり世代と呼ばれる僕たち今の20代。
高校や大学の同級生と一緒にご飯に行くたびに、いろいろな「ホンネ」を耳にします。
そして、それらは極めて的を得ていることばかり。
少なくとも、同世代の僕には当たり前に理解できる感覚です。
しかし、僕たちにとっての当たり前は、往々にして上の世代の人々の考える当たり前とは異なるみたいです。
だから、僕たちにとってオジサンは「ウザい」となるし、年上の人たちにとっては「若者は分からない」となるのだと思います。
そんな食い違いを、先日友達と飲んでいたときにも感じました。

僕は年上の人と飲みに行くのが(というより単純に人と飲むのが好きなだけですが)好きで、年上の人のお話を聞く事があります。
言葉やニュアンスに違いはあれど、よく聞くのは「若者が分からない」ということです。
「へぇ」と思って聞いている中でいつも感じるのは、年上の人の思いや考え方には侮蔑的なニュアンスは一切なく、若い僕たちの世代に頑張ってほしいという真摯な態度です。
表情や声色から、侮蔑的な意味で「若者が分からない」といっているのではないことくらい重々伝わってきます。
ただ、それと同時に強く感じることは、「根本的に考え方が違うんだな」ということです。

その最たる例が、会社に求める物の違いです。
あくまでこれは、僕が会ったことのある年上の「オジサン」に感じた共通項で、全員に通じるものではないとは思いますが、僕が知っている年上の方々に関しては、会社に求めるものの1番にあるのが「繋がり」なように感じます。
言い方や切り口は違うけれど、彼らの話を聞いていると、根本的には会社を通じた繋がりに対する欲求があるように感じるのです。
飲みに行ってコミュニケーションを取りたいというのも、休日にゴルフに行くのも根本は同じ。
日々一緒に戦っている仲間との「繋がり」を求めているように見えます。
一方で、僕たち若者が1番会社に求めていないのが、そうした「繋がり」です。
これは職種や業界を問わず、だいたい当てはまっているように思います。
僕たちの世代は学生時代からsnsが普及していて、常に昔の仲のいい友達と繋がっていることができる。
だから、新たに仕事で繋がった関係に寄り付かなくても、十分に多くのコミュニティに属している状態です。
むしろ、多くのコミュニティに属し過ぎていて、これ以上増やせないというのが正しいかもしれません。

仕事関係での繋がり以外にコミュニティを持っていなければ、必然的にそこでの人間関係を深めることで繋がりを持とうとするはずです。
これが、僕たちの上司に値する人たちの「当たり前」です。
それに対して、常に旧友と繋がり、いつでも連絡が取れる僕たちにとっては、繋がりは節目節目で更新されるものではなく、ずっと繋がって行くものです。
そうなると必然的に、長い期間を一緒に過ごした高校や大学時代の友達との関係が多くなるのです。
新たに繋がりを作らなければならない年上の世代と、一度築いた関係が生涯切り離せない僕たちの世代。
「繋がり」の価値がまるで違うため、それに対するアプローチが全く違うのも道理です。
若い世代にとって、新たなステージに入ったからといって繋がりを作らなければならない差し迫った必要性がないばかりでなく、そもそも既存の繋がりでいっぱいいっぱいになっています。
そんな人に対して自分の感覚で年上の人がコミュニティを作ろうと熱弁したところで、全く響かないのです。

僕たちの世代はデフォルトで繋がりを持っているから、会社に繋がりを求めない。
若者が1番会社に期待していないのが、会社での繋がりです。
そんなものわざわざ作らなくても既に持っているから。
これが、「会社で繋がりを持とうとする」オジサンたちとの最大の違いであるように思います。
会社以外の場で、強い繋がりを持っていない上司にとってみたら、職場での飲み会や休日のイベントに参加したがらない若者は理解できないかもしれません。
彼らにとっては「唯一の繋がりであるオレらとの関係を断って、あいつは孤立している」と見えるからです。
でも、会社は複数あるコミュニティのうちの一つである若者にとってはそこでいろいろ我慢して人間関係を構築する必要がそもそもないのです。
嫌なら「会社は会社」と割り切って、人との繋がりは別のところにも求めることができるからです。
この視点から僕ら世代の話を聞くと、行動に納得できるところがでてくるはず。
会社が最大のコミュニティである年上世代の価値観と、会社は複数所属するコミュニティの一つに過ぎないという価値観の差が、「若者が分からない」という嘆きの根本にあるように思います。


関連エントリです。よかったらこちらもお願いします!

僕がアクセスアップのためにしているたった2つの具体的戦略

よくブログのアクセスアップ方法と調べると、人が読みたい記事を書く、多くの人に検索されている言葉を題材に選ぶ、クリックしたいタイトルをつける、役に立つ情報を書くといったようなアドバイスが出てきます。
どれも完全にその通りで、むしろアクセスを伸ばす方法なんてそれに尽きるわけですが、とはいえたったこれだけの情報で「そうか」と納得するのは難しいと思います。
実際僕もブログを始めるにあたって、こうした記事を片っ端から読み漁りました。
それで、仕組みは頭で分かっているつもりでも、実際にどういうネタの作り方をすればいいのか、四苦八苦した記憶があります。
今でこそ自分なりのメソッドにして、アクセスが安定して伸びるようになってはきました。
僕がアクセスを稼ぐ主戦場は、他の人と競合になることが少ないということもあるので(笑)、具体的に僕がやっている方法をまとめてみようかと思います。

ブログのネタは2本軸で考える

僕がブログのエントリを書くにあたって意識するのは、①流行りのネタでアクセス数が増えることと②定期的に検索する人がいる話題をネタにするという2点です。
①でブログそのもののバリューをあげて、②の検索結果で上位表示されるのを狙うというもの。
今のGoogle検索は、バックリンクなどのSEO対策を施されたWebページよりも、読み手に役立つとGoogleのロボットが判断したサイトが上位に表示されるようになっています。
その判断基準の一つが、集客数。
単純にアクセス数が高いということは、いい情報を発信しているよねってことです。

どんな検索ワードにしろ、少しでも上に表示されたければ、Webページそのもののアクセス数がなければいけません。
そのために書くのが、アクセス数アップを目的としたエントリです。
この手のエントリを書くコツは、巷で話題になっていることを取り上げることです。
僕がこれを意識して書いたエントリを3つほど挙げてみたいと思います。
2015年1月
2015年11月
2016年5月
これらはいずれも、それぞれの作品が掲載された少年ジャンプの発売週に書きました。
そのタイミングは、読んでいて「えっ!?」と思う転換点があったとき。
ここらどうなるの?という物語の展開になったとき、続きが気になって検索する人が増えるため、そこを狙ってエントリを書きました。
実際にこの手のエントリは書いた直後から、通常ではないくらいのアクセス数をもたらしてくれます。
こうした記事でアクセス数の底上げを狙うわけです。


定期的に検索されるコンテンツを作る

話題のネタでアクセス数の底上げと同時に狙うのが、定期的に検索されている事を題材にしたエントリ作りです。
確かに話題のネタはアクセスを稼いでくれますが、アクセス数の増大は一時的です。
その話題が落ち着けば、アクセス数はもとに戻ってしまう。
そこでアクセス数を増やすために行うのが、ブームとは関係のない、定期的に検索される言葉に関連したエントリを増やすことです。
こちらのエントリを書くにあたって重要なことは、①著者適正と②競合サイトとの差別化です。
著者適正とは、自分がその題材について書くべき理由です。
例えば、仮に就活の記事に対する検索が多いからといって、そのキーワードで記事を書いたとしても、書き手が大学一年生で就活にかすったこともないのであれば、誰も記事を読もうとしません。
あくまで自分が書いていることの意味がある題材を選ぶこと。
これが著者適正です。
僕の例をひとつあげると、国語の先生という適正から、学校の教科書に載っている現代文の文章を解説するといった感じです。

著者適正のある題材を選んだら、次に競合との差別化が必要です。
差別化の最に僕が意識していることは、検索した時に出てくる方のサイトのタイトルと比べて、調べた人がクリックしたくなるようなタイトルをつけることです。
一例を紹介します。
こちらは高校の教科書に載っている、丸山真男さんの「『である』ことと『する』こと」という作品を説明したエントリです。
「『である』ことと『する』こと」と調べて上位に出てくるサイトのタイトルを見てみると、どれも硬いイメージでした。
この作品について検索する層を簡単にプロファイリングすると、おそらくは学校でこの作品を扱ったのだけれど内容が全く分からないという高校生のはず。
分かりやすく説明した記事を求めて検索した人にとって、1番開いてみようと思うのは、形式ばったタイトルのページよりも、直感的に分かりやすそうなページでしょう。
だから、タイトルは極力キャッチーで、内容も正確さよりも直感的な分かり易さを意識したものにしました。
検索結果に「『である』ことと『する』こと」に関する硬いタイトルが並ぶ中で、「おばちゃんのダイエットに例えればいい」なんてふざけたタイトルが一つだけ並んでいたら、思わず目を引くはずです。
そして、噛み砕いた説明を求めている人は、とりあえず読んでみようという気になってくれる。
そんなことを狙って、このエントリは書いてあります。


この手のエントリは、話題のネタと違って定期的なアクセスが見込めます。
「『である』ことと『する』こと」なら、少なくとも毎年3年生がいつも検索してくれます。
そのため、一度書くと毎年一定のアクセス数が見込める。
話題のネタに関するエントリがフローの情報だとしたら、こちらのエントリはストックの情報というイメージです。
また、いくら他のサイトと比較して気になるタイトルにしたとしても、検索結果で上位に表示されなければ意味がありません。
そこで重要なことが、ブログ自体に一定のアクセス数、エントリ数があること。
それを稼ぐのが話題のネタなのです。


こんな形の住み分けが、僕のブログ運営における基本スタンスです。
もし、いろいろなアクセスアップの方法を試しているという方がいましたら、ぜひそのうちの一つとして試して見て下さい(笑)

ゆとり世代の取扱説明書①若者にとって上司からのFacebook申請は想像以上に迷惑な行為

都知事のお膝元でクーポン券を使ってくる。

このギャグをするためだけに東京に行ってきました(笑)
それに合わせていくつか予定を入れて東京中を周っていたのですが、どこに行っても警察だらけ。
銀座、上野、池袋、六本木。
おそらく伊勢志摩サミットを控えての限界体制なのでしょう。
どこに行っても二人一組の警官が街のパトロールをしていました。
東京があれだけ厳戒態勢を引いて いる一方で、京都はどのくらいの警備であるのかが気になります。
正直僕はテロが起きるのなら、東京ではなく京都だろうと思うからです。
そんなわけで、京都に着いたらちょっと警察官の配置をみてみようかと思います。

さて、夕方から六本木で友達と飲んでいると、Facebookで上司と繋がるべきかという話になりました。
僕の場合は上司や先輩(と呼ぶのかすらあやしいですが)のことを、ちょっと年の離れた友達くらいの感覚なので、全く気にせず友達で繋がっているのですが、聞いている限りでは、上司と繋がりたくないという意見が大半のよう。
安易に職場の上司と繋がってしまうと、彼らに気を使って自由に投稿ができなくなるそうです。
上司とFacebookで繋がっている理由を聞くと、断れなかったというのが大半。
自分から繋がったという人もいましたが、彼女の場合は「仕事での印象のため」だそう(笑)
上司の側はフレンドリーに付き合うために友達申請を送っているのかもしれませんが、それを受け取った若者にとっては気を使うだけで全く嬉しくないので止めたほうがベターです(笑)

話の流れで具体的に何が嫌なのかという話題になったのですが、一番多かったのはプライベートでどこに行ったのかが知られることでした。
旅行に行っていることを知られたらお土産を買ったりあれこれ気を使わなければいけないということと、理由を付けて休んだときや休日の誘いを断ったときに何をいているかが伝わるのが気まずいというのが主な理由らしいです。
実際にこれに大きく頷いていた先輩は帰りの新幹線のお土産売り場でめんどうくさそうに部署の人数分入っているお菓子を選んでいました(笑)

こういう部分に気を使った人の投稿は冠婚葬祭に出席した際の全体写真か、旅行先で友達と撮った、旅先の風景と顔以外のパーツが写った写真になります。
友達の分析曰く「全体写真」と「顔意外のパーツ」と言うのがポイントです。
プライベートでの表情が特定されるような写真はほぼアップしないのだそう。
確かにこの傾向は分かる気がします。
こういう投稿ばかりの場合、上司などに気を使って投稿している場合が多いです。
僕自身も仲間内でわいわいしている写真はラインのグループ内か、Facebookでグループを作って園中で共有することがほとんどです。
Facebookのフィードで完全にプライベートの写真や内容をアップすることはどんどん減っています。
本当のプライベートは親しいグループ内でのみのやり取りになる。
この話を聞いたとき、最近の若い子達は分からないというおじさんたちの声の理由の一つはこの辺にもあるのかなあと思いました。
30代以上の人たちにとっては世代が違う人とのやりとりはリアルとネット上のものがあって、リアルはフォーマルなやりとり、ネット上はプライベートを紹介する場だと考えている。
それに対して僕ら20代は、世代を超えたやり取りをする場合、リアルなやり取りとネットでのやり取りに加えてもう一つ、閉鎖的なグループ内でのやりとりを持っているように思います。
そして、リアルは完全にフォーマルな空間、ネットでのやり取りは、「見せたい自分」を見せる半フォーマルな空間、そして完全なプライベートはLINEグループなどの極めてクローズドな場所で行う。
これは僕らの世代にとっては、極めて当たり前のやり方です。
むしろSNSとはそういうものだと思っている。
しかし、少し上の世代の人々はネット上(SNS上)に上げるのはプライベートな内容であるという認識のもとでタイムラインを見る。
「見せたい自分」を上げたタイムラインをプライベートな情報だと思ってみるから、今の若い子達は分からないとなるのだと思います。

こうした認識の世代にとって、Facebookなどのアカウントを教えるというのはプライベートでも付き合いましょうというサインではなく、「『見せたい自分』までなら見せてあげますよ」というサインだと思っておくのが無難でしょう。
結婚している男性にとっての、奥さんに送る「定期連絡」みたいなもの。
あれ、見せたい情報しか送らないじゃないですか(笑)
そんな風な若者の心情が分かるからこそ、上司の立場の人間がコミュニケーションを深めようと思ってFacebookの申請をするみたいなことは避けたほうがいいんじゃないかと思うわけです。


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相対的に、東京。

所要で久しぶりに東京に来ています。
思った以上に予定が詰まってしまったので急いでブログを更新しようと思って開店と同時にスタバへ。
で、もろもろのやることを終えていざエントリを書こうとしたのですが全く思い浮かびません(笑)
白紙のワードを見ている間にも刻々と時間が経過していく、、、
ということで本当に走り書きでるが、今日はご容赦ください。

東京は去年の夏に来て以来だったので、ほぼほぼ一年ぶりでした。
これは来るたびに感じることなのですが、やっぱり日本の首都だなあという印象を受けます。
僕が今お仕事をさせていただいている塾と僕の住んでいる場所が近いということもあり、僕の平日の生活圏はかなり狭い中で納まっています。
休日になると河原町まで広がるのですがそれでも半径10km以内。
月イチくらいで大阪に出る用事があるのでそこで初めて遠出をするといった感じです。
平均すれば僕の日常の生活圏は3km~5kmくらいでしょう。

そのくらいの生活圏で暮らしていると、自ずと見える世界の範囲は狭まってしまいます。
それに伴ってどうしても視野も狭くなる。
だからこそ逆に、たまに東京に出てくるといろいろな発見があって面白かったりします。
もともとデザインやコピーライティングに興味があったので、歩いていると思わず広告に目が釣られてしまいます。
そうやって自然に目に入ってくる広告がやっぱり普段の生活圏にはない刺激に溢れています。
色使いやコピーの作り方がいちいちそう。
また、使っている技術もみていくと面白いものをたくさん見かけます。
デジタルサイネージに関してもいろいろな気付きが。
歩いているだけで凄くアイデアの肥やしに成るわけです。

日頃狭い生活圏で暮らしているからこそ、相対的にさまざまなものが目に飛び込んでくる。
たまにくるからこその得られる「収穫」だと思います。
本当に全く文章が浮かばない。。。

薄口コラムの作り方

ブログの運営報告
ちょうど2年前の今くらいにはてなに移って始めたこのブログ。
そのアクセス数はなんとか月に2万pv前後まで持って行くことができました。
毎月ちょっと小洒落たレストランでランチを食べられるくらいの広告収入もあり、まあ悪くはないかなというくらいです。
もっと自分に著者適性があって、大きな マーケットである分野に特化すればアクセス数は容易に稼げるのだとは思います。
ただ、そんなにまでしてアクセスを増やそうという気はないので、相も変わらずの好きなことを書き散らかすというスタイルで更新しています(笑)
ただ、全くの無策というわけではなく、一応僕なりのエントリを書く上での基準やアクセスを増やすための戦略と計画を持って更新しています。

まず、エントリを書く上での基準について。
僕はこのブログを書き始めるに当たって、全てのエントリに「自分の思考を入れる」という事を決めました。
ニュースに対する感想や、事実の羅列ではなく、自分はどういう切り口で見るのかという考え方を1アイデア入れる。
基本的にこれがブログを更新する上で、ネタの選定基準になっています。
どんなに興味のあることや書きたいことでも、自分なりの考え方を載せられない場合は題材としてNG。
たとえどんなに稚拙であっても、社会のいろいろな事象に対して自分で考えた視点で切る。
「薄口コラム」というタイトルは、こんなコンセプトの元につけた名前だったりします。

また、ブログを運営するに当たって、「自分のキャラを前面に押し出さない」ということも重視しています。
アクセスアップの方法について、もちろんいろいろな切り口があると思うのですが、僕はつきつめるとキャラで売るかコンテンツで売るかという2種類しかないと考えています。
キャラで売るというのは、「誰々が書いているから読みたい」という、作者自身がブランドとなって記事を売り出す方法。
一方で、コンテンツで売るというのは、興味のある人がいて、その人に刺さる記事を書くという方法です。
アクセスを稼ごうと思うのであれば、どう考えても前者が有利。
自分のファンになってもらえば、記事同士に親和性がなかったとしても、読んでもらえる可能性が大きいからです。
本来、僕みたいに雑多なネタを扱うブログの場合、この路線を狙うのがセオリーです。
しかし、僕はキャラで売る路線は意識的に避けるようにしています。
キャラで売る方向性にした時に、一定ラインを越えた時点で、キャラを強みにしたブログは、どれも同じ方向性に行くように感じたからです。
何より、キャラを競争力にしたときに、そこで競り勝つための差別化ビジョンが思い浮かばない。
そんなわけで自分のキャラクターをブログで出すというのは極力控えています。

記事を書くに当たり、一応のアクセス目標の設定や、市場調査みたいなことはしています。
ざっくりと印象値ですが、月に更新するブログのエントリは、①自分が思いついた考えをそのまま書くだけのものと②検索で引っかかる話題を扱ったものの比率が①<②になるようにしています。
また、②の内容に関して、自分の著者適性があるかどうかというのも意識します。
僕にとっての著者適性は、「国語の先生」であること。
読解の手法を使った作品やニュースの掘り下げ、または作文の書き方を別のジャンルに応用するみたいな、何かしら国語と絡めた内容になるように注意しています。
著者適性×需要のあるテーマというのが、②に該当するエントリの書き方です。
だいたい人気のエントリとして上がってくるのはこれで書いたもの。
①と②のエントリの比率を1:1くらいにして、毎月1%ずつくらいアクセスが増えればいいなあというのが僕の想定です。
こんな感じで非常にまったり更新しているので、その運営方法を書き出したところで全く役には立たないと思うのですが(笑)、アクセス数が一定値を超えたのでこれまでの方針をまとめてみました。