新・薄口コラム

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



あなたはどれくらい生きづらい?〜文学作品で生きづらさレベルを測定する〜

I am GOD'S CHILD 
この腐敗した世界に堕とされた
How do I live on such a field?

こんなもののために生まれたんじゃない

 

私はこんな世界に産み落とされた神の子、こんな世界でどう生きたらいいの?

そんな攻撃的な出だしから始まる鬼束ちひろさんの代表作『月光』。

エラく歯切れのいい生きづらさの告白だなあと思う一方、「密かにギュッと抑えていた『周囲に溶け込めない』という直感レベルの想いをよくぞ言ってくれた」というように思った人もいるのではなきでしょうか。

僕自身この手の周囲に溶け込めない「感じ」を表した作品がとても好きだったりします。

音楽や映画の中にもこう言ったテーマを表すものは、それこそ数限りなくありますが、こういった気持ちを探すのならば僕はやっぱり文学なのかなと思います。

 

周りに対する「生きづらさ」を書いた作品という括りで僕の頭に浮かぶのは①すやまたけしさんの『素顔同盟』、②山田詠美さんの『眠れる分度器』、そして③太宰治さんの『人間失格』です。

僕は①→③に向かうに従って、周囲に溶け込めないことに対する苦悩が増えていっているように思っています。

そんなことから僕はこの「生きづらさ3部作」のどれに共感をするのかで、その人の拗らせ度合いが分かる(笑)と思っているのですが、皆さんはどれに共感をするでしょうか?

 

①生きづらさ度合い 軽症(すやまたけし『素顔同盟』)

教育出版の国語の教科書に掲載されていた(されている?)すやまたけしさんのこの作品。

その朝も目を覚ますと仮面をつけ,鏡に向かった。にせものの笑顔がそこにある。人工的すぎる,口もとだけでしか笑っていない。その他の部分は,目もほおも無表情ですらある。そしてなによりも,その無個性な笑顔はみんなと同じなのだ。人と同じであることは幸福なのだとみんなは言うが,ぼくはそれに息苦しさを感じている。

こんな風に始まる素顔同盟の世界では、人と人の間に争いが起きないように人前に出るときは誰もが「笑顔の仮面」をつけなければならず、そのことを主人公が通う学校の先生も友達もみんな素晴しいことだと考えています。

そんな中、主人公だけは「本音を出してはいけない状態で幸せ」ということに疑問を感じている。

しかし周りにはそんなことを思う人はおらず、そんな学校生活に生きづらさを感じています。

ある日そんな窮屈さに耐えられなくなった主人公は、「人前に出るときは仮面を外してはいけない」という法律を破り、河原でそっと仮面を外すのですが、その場面をある女の子(だったはず...)見られてしまいます。

「しまった!」と思ってその子を見たら、その子もなんと仮面をつけていなかったのです。

そして、仮面をつけることの生きづらさに耐えられない人の集まる場所があると聞いて、主人公はその子についていってしまいます。

 

作品のあらすじはザッとこんな感じです。

おそらく学校にしろ社会にしろ、この主人公と同じような生きづらさを感じる人は少なくないのではないでしょうか?

本気で笑顔の仮面がいいものだと信じる先生、そして生徒たち。

そんな周りの人たちよりも少し色々なことに気づけてしまうからこそ、生きづらさを感じてしまう主人公。

この主人公に共感を覚える人は少なからず生きづらさを感じているはずです。

 

②生きづらさ度合い 中 山田詠美『眠れる分度器』

すやまたけしさんの『素顔同盟』よりももう少し尖っているのが山田詠美のさんの『眠れる分度器』です。

主人公の時田秀美は、周りの子供たちと比べるとエラく大人びた小学5年生。

小さい頃から自分らしさを貫く人たちを見てきたこともあり、学校という「社会」から学ぶべきことが多いと思っている担任の先生やそこが社会の全てである子供たちにはうまく溶け込めません。

頭がいいが故に周りに溶け込めない。

そんな生きづらさが描かれます。

そこに、「尊敬に値いするもの」というラベルの扱い方を、上手い具合に、組み込んでいた。それ故、子供たちは、そのラベルを剥がすのが、自分に困難をもたらすことに等しいと、本能的に悟っていた。親しみ深い教師は、何人も存在していた。彼らを見つけ出すたびに、そっと、子供たちは、ラベルを剥がしてみる。そのことが、教師を喜ばせ、休息を伴った自らの地位の向上に役立つのを知っていたからだ。しかし、糊は、いつも乾かさないように注意している。生暖かい唾を広げて、不都合を察知すると、すぐに、休息を封印する。教師に忌み嫌われる子供は、その方法を、知らないのだった。習得してしまえば、これ程便利なものの存在に気付いていないのだった。鈍感さのために。あるいは、知ろうとしない依怙地さのために。賢い子供たちは、前者を見下し、後者を排斥する。

周囲よりも一回り大人で、学校の外に広がる本当の社会を見ているからこそ感じる教室という「社会」の「嘘っぽさ」。

秀美は(勉強ができるという意味ではなく)頭がいいが故にその事に気付いてしまい、大人びているが故にラベルを剥がしたりつけたりして、先生を慕っているというフリをするごっこ遊びなんてできむせん。

これが秀美の生きづらさ。

頭がいいからこそ見えてしまい、頭がいいからこそそんな茶番に付き合えない。

そういう気持ちを持っている人の生きづらさはここに該当します。

 

③生きづらさ度合い 重症 太宰治人間失格

『素顔同盟』でもなく、『眠れる分度器』でもない人が共感するのかなと思うのが太宰治の『人間失格』です。

この作品に出てくる主人公の葉蔵は生きづらさの極致を行っているように思います。

これを超えている人はそもそも社会で生きていけていないか、一周回って自由に生きているような気がします(笑)

主人公は幼少期から人の本音のようなものに対する恐怖感があり(というか根本的に理解ができない?)、それ故にいつも道化を演じています。

自分は子供の頃から 、自分の家族の者たちに対してさえ 、彼等がどんなに苦しく 、またどんな事を考えて生きているのか 、まるでちっとも見当つかず 、ただおそろしく 、その気まずさに堪える事が出来ず 、既に道化の上手になっていました 。つまり 、自分は 、いつのまにやら 、一言も本当の事を言わない子になっていたのです 。

あまりにも周りに感じる違和感がありすぎると、この主人公のように徹底して道化を演じ、逆に人に合わせようとするようです。

しかしそれは、決して周りに溶け込めているのではないので、そんな自分に対していつも葛藤があり、実際に葉蔵はついに人の心に対する恐怖が無くなることはなく、アル中になり、そしてモルヒネをやめられなくなり、やがて精神病棟に入れられてしまいます。

そこで主人公は自分が人間失格であると悟るのです。

 

『眠れる分度器』では頭がいい故に周りに溶け込めない生きづらさが描かれてきましたが、『人間失格』になるとさらに上を行き、あまりに周りが理解できないために、かえって道化を演じざるを得ない主人公が登場します。

太宰治自身にも数度の自殺未遂があることからも、おそらく本人にも周りがこう見えていたに違いありません。

道化を演じなければ周囲と関係を保てないレベル。

こちらに共感する人の生きづらさは重症というべきでしょう(笑)

 

 

という具合に、「生きづらさ」というテーマでぱっと思いつく作品と、その生きづらさ度合いをレベル別に分けてみましたが、皆さんはどこに該当したでしょうか。

きっとどれにも共感しない人もいるでしょうし、反対に『人間失格』よりももっとずっと深いところで絶望している人もいるかもしれません。

仮に①〜③のいずれかでピンときた人がいたら、その本を読んでみたら共感できるように思います。

 

冒頭で引用した鬼束ちひろさんは、初期の頃、2000年には、「こんな世の中でどうやって生きればいい?」と嘆いていました。

果たしてその「生きづらさ」はどのレベルでのものだったのでしょうか?

2013年(ちょうど奇抜なファッションや言動で注目を浴びていたころ)にリリースした『悪戯道化師』を見てみると、<心はいつだって偽物に〜溺れぬ本音や拍手という名のうわべで><暴かれるのは嫌 脱がされるのは嫌 そう このまま生きて行こうとも>と歌っています。

(http://j-lyric.net/artist/a000679/l02cda5.html より)

少なくとも僕には、間違えなく鬼束ちひろさんは『人間失格』と同じ生きづらさのレベルであったように思います。

 

みなさんの「生きづらさ」はどこですか?

 

アイキャッチは数ある人間失格の中でもこの表紙。

(僕はこの人も実は生きづらさレベルが高いのではないかなと思っています)

人間失格 (ぶんか社文庫)

人間失格 (ぶんか社文庫)

 

 

 

AO入試の倒し方[受験作文攻略ガイド]①合格するには最初に○○を用意しろ!

AO入試の倒し方」だなんて挑発的な名前をつけたので、もしかしたら「こんなフレーズを入れたら受かる!」みたいな必殺ワードとか、「こう聞かれたらこう答えろ」みたいなパターン集のような物におもってアクセスした人もいるかもしれません。
そういう人には予め謝っておかなければならないのですが、この連載はそもそもあらゆるOA入試の参考書が小手先のテクニックだったら、基礎力ありきの必殺技のようなものばかりを説明しているから、根本的な基礎力のつけ方を説明してみたいというコンセプトの基で始めているため、一切表面的なテクニックを書くつもりはありません。
(なので、そういったすぐに役に立つ(ように見える耳ざわりのいい方法論)を知りたい方はブラウザバックをオススメします。)
この連載エントリでは、そういった技術というよりは、もっとずっと基本的な部分、スポーツでいうところの筋トレの部分を説明するようなものです。
僕の小論文指導の実体験や、企業や団体の広報をしてきた経験、あるいはライターをやっていた経験や、はたまた就活相談を長年し続けている方との数えきれない意見交換から僕なりに一定の成果があげられると自信をもっていえるようになったその方法論を書いていきたいと思います。

さて、前置きはこれくらいにして、早速本題に入ろうと思います。
小論文にでも感想文でも自己PRでもAO入試の面接でも構いませんが、こういったものに関して書く(あるいは話す)練習をする前にずっと大事なことがあります。
それが「自分の思考と言葉を増やす」ことです。
巷には様々な文章術や作文の型などが溢れていますが、これらは大前提として「書きたいこと」がある場合に役にたつ道具です。
小論文を初めとする作文の練習をいざ始めようとして、学校の先生に習ったり参考書に書かれていることを参考にしてとりあえず書き始めようとしたのはいいけれど「そもそも何を書いたらいいの?」というところで止まってしまったという人はいませんか?笑
こういった人はそもそも文の型や技術を覚える前に自分自身の中に知識をためなければならないのです。
数学の公式や英単語などと同じです。
小論文等が入試科目である以上、それに立ち向かうには「知識」と「技術」の両方が必要です。
普段からいろいろなことを考える習慣がついていたり、書く事に慣れていたりするのならともかく、そうでない人がいきなり技術を覚えたところで文章を書くことは不可能です。
だからまずやるべきことは「知識」をつけることなのです。

では小論文(を初めとする作文や面談)の準備としての知識とはどうやってつければいいのか。
僕がこの訓練でオススメしていることが「ノートを持つ」ことです。
はっ?って思われたかもしれなませんが、ここでいう「ノート」とはいわゆる学校の授業のときに書くノートや提出を目的としたノートとは少し違います。
そういった演習や言われたことをまとめるためのノートではなくて、自分の思考を書き溜めるためのノートです。
どちらかといえばメモに近いかもしれません。

みなさんちょっと今日一日を振り返ってみてください。
友達と話していたとき、トイレにいたとき、お風呂に入っていたとき、通学の間etc…
そういったちょっとしたときに何か面白いことを考えたり思いついたりしていませんでしたか?
ふとしたきっかけに「あれどうなっているんだろう?」とか「こんなアイデアどうだろう?」とか、或いはマンガを読んでいるときにふと目が留まったところとか、日常生活の中には些細なところで脳で考えるタイミングがあります。
しかし、私たちはそんなものに価値を感じていないのでふと思いついてすぐに忘れてしまう。
この一見なんの価値も無い思いつきや思考が、小論文では大きな役に立ちます。
決められた時間内にお題が与えられてそれに対して自分の意見を書くということは、ふとしたアイデアの種を制限時間内にどれだけ用意することができて、その中から的確なものを選び、相手に伝わる形に仕上げるかです。
ここでいうアイデアの種はまさに日頃ふと思いついたり考えたりすることに近いのです。

私たちは日頃たくさんのことを思いついて、気がつくと忘れています。
仮に一時間に3個思いついているとして、一日18時間行動したら54個のアイデアが浮かんでいることになるのですが、私たちはそのほとんどを忘れてしまいます。
もし入試まで100日あって、こうした小さなアイデアを全てノートに書き留めて忘れないようにしていたとしたら、54個×100日で5400個のアイデアストックを持って入試に臨んでいるのと同じことになります。
何気なく思いついたものをストックしておくだけでこれだけの分量になるのなら、それを意識して毎日ノートにつけるようにしたらどうなるでしょうか?
いうまでもなく、入試会場でそれらは最強の武器になります。
こういった武器をつくるために有効なのがノートをとることなのです。
詳しいことは次のエントリに書きますが、まずはノートを用意してみてください。
そして、そこには何でも構いません。
とにかく思いついたこと、いいと思ったもの、気になった作品やCM、看板、Twitterのつぶやき、ニュース記事など、何でもいいので全て書き留めてください。
目標は30枚の標準ノートなら一月に1冊。
一ヶ月も続ければ、あっという間に自分の思考やアイデアのストックが溜まり、作文用紙を前にして何もできずにフリーズするという自体はなくなります。
これが作文における「知識」なのです。
まずはノートを用意して何かしら書き込む。
その行動を今この瞬間に起こせるかどうかが非常に大切です。
ぜひここから始めてみてください。

 

アイキャッチは僕のライターになりたいと思うきっかけになった読売新聞の一面コラムを書かれている竹内政明さんのこの本。

「引用」だけで一冊まるまる読み物として成立させてしまっているとんでもない作品です。

名文どろぼう (文春新書)

名文どろぼう (文春新書)

 

 

擬似的な金融資産としてのブログは成り立つか?

よく友達と飲んでいると、「お前は何がやりたいのだ」と言う疑問を投げかけられます。

僕は基本的にお金儲けにも、ビジネスにも、興味はなく、ただただ現象を観察しておきたいというのが行動欲求なのですが、それでも自分の中で積み上げて実験していることがいくつかあります。

このブログもそのうちの1つです。

 

もちろん大前提として、このブログでお金を稼ぐことをPVを目標とすることもありませんが、一応自分なりにやってみたいことがあります。

僕の30代になるまでにやりたいことの中に、擬似的なベーシックインカムの実現(&その実験)と、貨幣以外で物やりとりが成り立つ「ご縁経済」の実験があります。

このうち後者のほうは説明するのに時間がかかるため今回は触れる事はしませんが、特に前者に関してブログは僕の中で大きな役割を占めています。

 

現在僕のこの「薄口コラム」は、年間約100,000円程度を広告収入から得いています。

改めて断っておくと、もちろん僕はこの収入が目的でブログを運営しているわけではありません。

そもそもこのブログのきっかけは、マーケティングなどを無視して、好きなことを書いてどれだけアクセスが増えるかを実験したかったから始めたものなのです。

ただせっかく興味のあるベーシックインカムの話にもつなげることができそうなので、今回はお金に紐付けてこのブログについて考えていきたいと思います。

 

仮に僕が年利2%の金融資産で100,000円を稼ごうとしたら、5,000,000円が必要です。

だとすれば、このブログは金利だけを考えるのであれば5,000,000円を持っているのと同価値であるといえます(笑)

ちなみにこの場合ならば福利で、1年後、100,000円分が資産に追加されているわけですが、そこから生まれる利子は、100,000円× 2%で2000円となります。

これはブログのアクセス数で言う所の2%増加に相当します。

現場の僕のブログのアクセス増加率は毎年約40%。

ということで、よほどのことがない限りこの年利2%の金融資産と言う過程でのブログのケースは上滑りすることがあっても下回ることがないということができます。

 

そもそも僕はお金儲けに全く興味がなかったり、他にやりたいことがたくさんあったりするので、資産運用みたいなものにはほとんどお金を回していません。

(去年の11月位まではビットコインでだいぶ遊んでいましたが…笑)

そんなわけで資産運用には全く強くない僕ですが、このブログを疑似的な資産を運用として考えるということにはちょっとだけ余っていたりします。

 

何の僕のブログのアクセス数から考えると、年間4,500人ほどのアクセス増でこの数値は達成できます。

そして仮にこの数値で成長し続けることができれば(当然ブログと言う性質上そんな事はありませんが、仮定の話です)

 10年後には計1,200,000円以上のお金を生み出すことになる。

こんな風に考えたらブログの運用もちょっとだけ楽しく感じることができる人がいるかもしれません。

僕のブログの運用の1つ目標は、擬似的な資産運用ではなく、擬似的なベーシックインカムを作り出すことです。

ただその過程で、二次的な資産運用の実験もできるということで今回はこのエントリを書きました。

ブログを実際の金融資産の金利等に当てはめると、疑似的なブログの資産価値が出てきます。

皆さんもよかったら試してみてください。

あなたのブログの資産価値はいくらですか?

 

アイキャッチは最近ダイエットの鬼となった与沢翼さん。

今をときめく編集者の箕輪さんが手がけたほんです。

 

 

高校生を悩ます「鴻門の会」が100倍理解しやすくなる!?登場人物をワンピースのキャラにたとえてみた

※あらすじが必要なひとは、二つ目の小見出しから読み始めてください。

この時期になると多くの学校で扱う史記『鴻門之会』。
この辺りから急に漢文を苦手になってきたという人も多いのではないでしょうか。
僕は毎年テスト前の質問対応をしているのですが、その際に心がけていることがあります。
それが、「ざっくりストーリーを理解すること」です。
『鴻門之会』を持って来られたとき、僕はまず、教科書の細かな言い回しでも重要句形でもなく「で、ざっくり内容を話してみて?」と聞き返すようにしています。
そうすると、文法や単語は細かく覚えられている子ほど、大まかなあらすじが話せなかったりします。
『鴻門之会』で苦戦する最大の理由はここにあります。
みんな文法や単語に即して丁寧に読む「逐語訳」を意識しすぎて、「で、結局どんな話」が分からなくなってしまい、その結果テストでは点数に繋がらないということが非常に多いように思います。
『鴻門之会』くらいの長さになってきたときに重要なことは、「あらすじ」を押さえておくことです。


丁寧に読めば読むほど内容が分からなくなる?


冒頭で僕は、逐語訳ばかりをしているとあらすじが分からなくなると言いました。
その例として、「ワンピース」の冒頭部分を漢文の現代語訳風にして(主語述語をきちんと補い、必要な情報を逐一記述する)みました。
みなさん以下を読んでみて下さい。
=================================
「むきっ!」「どんっ!」という効果音とともに、ルフィは目の前の海賊たちに向かって「私は遊び半分なのではありません。その証拠をあなたたちに見せましょう。」と言った。
前にいる海賊のうちの一人が、「それならやってみて下さい。あなたが何をするつもりなのか私は分かりませんが。」と言った。また別の海賊が「またルフィが面白いことを私たちにしています。」と言った。ルフィはそれから「ふん!」という効果音とともに頬にナイフを突き刺した。見ていた海賊たちは「な・・・」と驚いてルフィたちを見ていた。
=================================
いかがですか?全く内容が入ってこないでしょ?(笑)
文法や単語、主述関係に注意して行う逐語訳は、正しさを重視するために、文章の面白さやスピード感が失われてしまいます。
そのため、やたらと説明口調になり、物語としての面白さが失われてしまうのです。
で、話に抑揚がないからどういうストーリーであったかが頭に入ってこない…
こうした欠点を克服するために、僕が『鴻門之会』を説明するときは、あえて細かな部分の間違えには目をつむり、ざっくりと大筋が分かる説明をするようにしています。
毎回これを聞いてくる人が多いので、いっそのこと全てブログにまとめてしまおうと思い、今回は剣の舞いの前半部分、樊噲が出てくる前までの部分をこのエントリをまとめました。
(ストーリーを直感的に理解することを目的として書いたので、細部でわざと間違えている部分や、キャラクターをデフォルメしている部分があります。その点は自覚してやっているのでご理解下さい。)


まずは登場人物とキャラ設定を確認しよう


ストーリーを掴む上で重要になってくるのが、そもそもどんな人物が登場するのかを理解しておくことです。『鴻門之会』には多くの人物(しかも名前が似ている!)が出てきます。
まずはコイツらをしっかりと覚えていきましょう。
登場人物を把握する際に、まずはっきりと頭に入れておかなければならないのは、この話が項王と沛公という二人のボスの争いであるという点です。
その上で、誰がどちらの看方であるのかを正確に把握しておく必要があります。
というわけで、項王VS沛公ということを意識しつつ、登場人物を以下にまとめていきたいと思います。
-沛公軍-
沛公(はいこう):沛公軍のリーダー。頭の回転が速く、人望もアツい。ワンピースで言えばシャンクスタイプ。
張良(ちょうりょう):沛公の名参謀。分析力・状況判断能力に長けていて、常に沛公の危機を救う。昔、今は項王軍に属する項伯を助けたこともあり、二人は敵味方を超えた関係。ワンピースで言えば時には敵も助けるゾロタイプ。
曹無傷(そうむしょう):項王と沛公の間に仲たがいを生じさせた張本人。リーダーを見限れば裏切りも辞さない、ワンピースで言えば「雨のシリュウ」タイプ。因みに「鴻門之会」のエピソードの後に処刑される。
樊噲(はんかい):男気溢れる沛公軍の切り込み隊長。野蛮な印象もあるが、リーダーのために単身で乗り込んだり、勢いよく啖呵を切って項王とやりとりをするアツい男。熱血で猛進するタイプだが、以外に周囲もみているルフィタイプ。

-項王軍-
項王(こうおう):項王軍のリーダー。卑怯なことが嫌いで、何事にも正々堂々と向かいたい、王道の王様タイプ。樊噲のような血の気の多い、男が嫌いじゃない。死の間際に、自分を裏切って殺そうとしたかつての部下にまで情けをかける男の中の男。白ひげタイプ。
項伯(こうはく):項王が絶大な信頼を置いている部下。今回の席を設けたのも項伯のおかげ。今は沛公軍にいる張良に助けられたことに恩義を感じており、項荘に殺されそうになる沛公を助ける。信頼が置けて義理に厚い、ワンピースでいえばジンベエみたいなタイプです。
范増(はんぞう):項王軍の名参謀。作中では何度も項王に「沛公をここで殺せ」と合図を送ったり、項荘に剣舞に乗じて沛公を殺させようとしたりして、ずるい奴のように映るけれど、それらは全て項王を思ってのこと。憎まれ役を買ってでも大切な者を守ろうとするサンジの恩人オーナーゼフタイプ。
項荘(こうそう):范増の説得に納得して、剣の舞で沛公に近づき殺そうとする実行犯。言われたことを忠実に守るバーロソミュークマタイプ。

という、登場人物のイメージを踏まえて、あらすじを掴んでいこうと思ったのですが、文字数がだいぶ多くなってしまったので、続きは次回にします。
まずは登場人物を整理して頂けたらと思います!

 

アイキャッチは金玉袋を取られてでも史実を後世に伝えようとした司馬遷史記について。

司馬遷―史記の世界 (講談社文芸文庫)

司馬遷―史記の世界 (講談社文芸文庫)

 

 





 

AO入試の倒し方[受験作文攻略ガイド]①なぜ私は作文を書けないのか?

先日、今春から某国立大学に通うことになった教え子の子から、一本の連絡を頂きました。

入試の成績開示が面白くて、思わず連絡をくれたのとのこと。

内容を見てみると、一次試験(センター試験)は合格者最低点で二次試験(小論文のみ)は合格者最高点!笑

小論文を指導していた身として、とってもとっても嬉しい連絡でした。

 

僕がメインで勤める塾では、基本的に高校生の子は個別指導で、作文・小論文は全て僕が担当しています。

(そのため毎年8月のコマが以降がエライことに...笑)

予備校などの大人数に対する指導と違い、1:1の個別指導で、その目的もAO入試から難関国公立の小論文対策まで毎年様々です。

作文の指導における僕の仕事は「受け持った生徒さんが望む所に受かるのに必要なレベルまで達すること」です。

大人数に対する講義ならば、最大公約数が伸びる指導を提供することが何より大切ですが、1:1指導の場合、そうはいきません。

担当している「その1人」が伸びなければ、それは失敗となってしまうのです。

 

一口に作文・小論文といっても、受ける大学や入試形態によって試験は様々です。

小論文と言いながら、半ば志望理由を書かせるような大学もあれば、完全に論理的な思考を求めてくる大学も。

そんな多種多様な入試に対応できる力を子どもたちに身につけさせるために、自分なりに様々な研究をしてきました。

 

始めは担当する事が決まると、まず問題を研究して、毎回合格までの仮説を立てて、そこから一回ごとの授業に落とし込むという方法で試行錯誤を繰り返していたのですが、この1.2年で、自分の中に「こうすれば普遍的な実力がつくのではないか」という公式のようなものが積み上がってきました。

そんなタイミングで冒頭の生徒さんからのメッセージを頂いたので、勢いで書き始めることにしました。

 

本屋さんに行けば、小論文対策や作文対策の本が何冊も並んでいます。

僕もその内のかなりの本を読んでいますし、実際にいい参考書ばかりではあるのですが、どうしても実際に指導している時の肌感覚とのズレを感じる部分がありました。

どの参考書に載っているやり方も、テクニック重視で、もっとこう、「基礎体力」みたいな部分に言及したものが無いように感じたのです。

そして、実際に作文を入試で使うことになる生徒さんの多くは、実はこの部分でつまずいているのではないかなあとおもいま。

(心当たりがある人はいませんか?)

 

僕がこらからまとめていくことは、スマッシュやドライブといった豪快な「決め技」ではなくて、ラリーを続ける方法やそもそもの筋トレのような、「決め技」に繋がるまでの手順です。

ドラえもんひみつ道具のような、「これだけ使えれば大丈夫!」みたいなテクニックを期待して読んでもらったとしたら、きっと期待ハズレに終わってしまうと思います。

でももし、AO入試などで作文が必要だから気合いを入れて勉強を始めようと思ったはいいけれど、そこに書かれていることのレベルが高すぎるとか、そもそも手がうごかへん!みたいな部分で心が折れそうな人がいたとしたら、何かしらの突破口を提示できるはずです。

 

冒頭に紹介した生徒さんに僕が教えたのは、本当に基本的なことだけ。

文章の「書き方」なんて、60分も教えていないくらいです(笑)

そうではなくて僕が教えたのはもっと基礎的な、英語で言えば単語を覚えるとか、数学で言えば計算ドリルとかのような部分です。

でもそれを続けた結果、合格点(しかも合格者最高点!)にたどり着くことができたわけです。

筋トレや素振りのような「地味〜な」練習が敬遠されることは重々分かっています。

でも、それがなければその先の大技を覚えたところでまるで意味がありません。

参考書はどうしても後者に寄ってしまう(そもそもラクをしたくてお金を出すのだから、誰もお金を出してしんどいことなんか選びませんよね?笑)ので、一層前者に振り切った作文・小論文の勉強法を作ってみる事にしました。

タイトルの通り、今年のAO入試にも間に合う進度で書き進めて行こうと思いますので、どうぞよろしくお願いします!

 

アイキャッチは僕が大好きな国語の参考書

 

ふくしま式「本当の国語力」が身につく問題集[小学生版ベーシック]

ふくしま式「本当の国語力」が身につく問題集[小学生版ベーシック]

 

 



 

 

ルールに関する向き合い方と社会の中での戦い方

ルールに対する向き合い方に対していろいろな人を観察しているのですが、ザッと次のようなパターンになっているように思います。

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まず、そもそもあるルールが存在するとき、それを「破る」「破らない」の選択肢があり、次に破った場合はそれに正当性があるか否か、破らない場合にはルールを利用するのか、それともそもそもルールに関して視点を及ぼしたことがないのかという部分で4つに分けることができます。
ルールは守るべきものと認識しているけれど自分本位に、相手を出し抜くためにルールを破る人を僕は「悪い人」と分類しています。
因みにこれは名目上「悪い」と言っているだけで、そこに正義不正義の判断は含んでいません。
例えば詐欺で5億円を盗んだあとに捕まって懲役10年の実刑判決を受けた人が「年収5000万なら悪くないか」みたいに言うとかが該当します。
もっとスケールが小さいところで言えば、事前にテストの内容を知っているとか、お金を積んで自分に有利な働きかけをしてもらうとか。
こういうのが僕の考える「悪い人」タイプの人たちです。

同じ「ルールを破る」でも、次のルールを吟味した上で破るパターンに属する人は「悪い人」と少し異なります。
ここに含まれる人は、前提として既存の枠組みそのものを疑います。
そしてその結果、明らかにそのルールが形骸化していたり、理不尽なものである場合、或いは将来的に上手くいかなくなるだろうと判断するからルールを逸脱します。
つまりルールを破ることで「正しさ」を示そうとしているのです。
ここに含まれる人は、ルールを破ることで問題提起をしているともいえます。
このような積極的ルールの放棄をする人を僕は「アツい人」とカテゴライズしています。

ルールを守る人たちは「そもそもルールの存在を日頃から意識していない人」と「ルールの存在を良く見ている人」にわけられます。
ルールの存在を良く意識している人は、そのルールを上手く使って、自分が有利にことを運べる方法を模索します。
だから僕はここに該当する人たちを「ズルい人」と名付けています。
パッと聞くと「悪い人」と同じじゃないかと思われるかもしれませんが、「悪い人」と「ズルい人」には「ルールの内か外か」という部分に明確な区別があります。
「ズルい人」はあくまで「ルールの中で」立ち振る舞いを選ぶのです。
(たまにギリギリを狙った結果、ルールを破ってしまう人もいますが…笑)
ルールは守るけれどスポーツマンシップ微塵もない。
それが「ズルい人」のイメージに近いかもしれません。
ごく少数ですが、性格上はここに該当するのに、良心の呵責からルールを利用することができない人というのも存在します。
ここに該当する人はいつもルール上のひずみに気付くのに、それには目を瞑って苦手なフィールドで戦うことになります。
だから僕はこの人たちを特に「ツラい人」と分類しています。

最後のそもそもルールを意識する必要の無い人たちというカテゴリに分類する人たちもいます。
ここにいる人たちは普段から法律や社会の決まりごとみたいなものを意識することがありません。
そういったものは「常識」として身体感覚として身についているからです。
ルールを破ろうだとか、利用してやろうだとかいう視点がそもそもない。
だから、たまに「ズルい人」や「悪い人」がそうした戦い方で大きな成功を手にした姿をみると、批判的な感情を抱きます。
ここに該当する人にとっては、「ルールを意識する」人たちは、自分たちと同じ前提で(フェアプレー的な精神で)戦わないことに生理的に不快感を抱くのです。
そして、恐らく大多数がここに含まれます。
とうわけでここに含まれる人を「普通の人」としています。
因みにルールを守った上でフェアプレー的な戦いをする人の中で勝ち上がる能力を持った人は「凄い人」、その勝負で負けるひとを「チョロい人」としています(笑)

「悪い人」「アツい人」「ズルい人」「普通の人」(+「ツラい人」「凄い人」「チョロい人」)という分類は、あくまでその人の性格的な戦い方を端的に表したもので、それぞれに正義不正義も優劣も存在しません。
あくまで好みのお話。
皆さんはどこに該当しますか?

高校生を悩ます「山月記」は授業で飛ばされがちな冒頭20行の解釈でほぼ決まる!?

塾のコラム用に書いたのですが、小難しくなり過ぎてしまったので自分のブログエントリにしました(笑)


昨日の授業終わりに定期テストの範囲の質問を受けていたとき、現代文の『山月記』のお話になりました。
山月記』は多くの高校で、2年生の時に勉強します。
そして、1年生で習った芥川龍之介の『羅生門』と同じく、やや取っ付きづらい作品かもしれません。
諸々質問されたのですが、どうしてもテスト対策ベースでは表面的な説明に重きを置かなければならず、作者の技量の凄さとか、地名の果たす舞台装置としての役割だとか言ったものは説明することができません。
そこで、テストでは直接聞かれることは少ないけれど、『山月記』にもっと興味をもってもらえるのではないかという、僕なりの着眼点をいくつかまとめてみようと思います。


虎になる前から李徴が虎になることは示されている

物書きに限らず、何かを作る人は読者の考えるより何倍も細かな所まで気を配っています。
中島敦さんのような繊細な文章を書く人ならそれは明らかです。
山月記では、姿を消した李徴が虎の姿となって袁傪の元に現れるわけですが、よくよく考えて見ると、人が「虎」になるなんて不自然です。
にもかかわらず読み手はその事実を当然のように受け入れているし、何なら「なるほど虎になったのね」と、少し納得しさえしてしまいます。
なぜ僕たちは李徴が虎になるという不自然な展開を、そこまで違和感なく受け入れることができるのか。
その理由は中島敦さんの技巧に隠されています。

李徴が虎になって出てくるまでに、作者は李徴の性格を示す際、虎を暗示させるような言葉を多用しています。
「虎榜(こぼう)」「狷介(けんかい)」「頗(すこぶ)」「埒のつくり+虎)+略」(かくりゃく)」「歯牙」「狂悖(きょうはい)」「発狂」
(教科書で確認してみて下さい)
「虎」がつく漢字にけものへんに牙にetc...
山月記には、李徴が虎になったと発覚する前から、李徴の説明がなされる部分に「虎」を連想させる言葉が多用されています。
そのため読み進めるうちに、無意識に李徴の性格と虎というイメージが結びついてしまうのです。
その上で出てくる虎の姿になった李徴であるため、どこか「虎」であることに納得してしまうのではないかと思います。


臆病な自尊心と尊大な羞恥心も冒頭に描かれている


「隴西の李徴は博学才穎、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね」「ついで江南尉に補せられたが」「いくばくもなく官を退いた後は、故山、虢略に帰臥し」「数年の後、貧窮に堪たえず、妻子の衣食のために遂ついに節を屈して、再び東へ赴き」「汝水のほとりでついに発狂した」
冒頭に登場する、李徴の移動を表す部分を抜粋してみました。
殆どの教科書に地図が載っていたと思うので、ここに書かれている場所をチェックしてみて下さい。

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まず、博学才穎と言われた李徴は隴西という、この描写の中で最も西にいました。
そして、江南という東の地(当時は田舎のイメージです)に仕事で渡り、そこの「俗悪な」上官に嫌気が差して、故郷(故山)に帰ります。
故郷の虢略は隴西よりは東ですが、赴任先の江南と比べればだいぶ西にあります。
そこで詩を作り名を上げようとするのですが、上手くいかず、次第に生活が困窮し、「俗悪」といって見切りをつけた東の地に再び赴かなければならなくなるのです。
そして河南省の汝水(虢略よりはやや東だが全体的には西よりの場所)で発狂して虎になってしまいます。
この東西の移動にそのまま李徴の心情の揺れが表れていると読む事ができます。
最も西にいたときは上手くいっており、東の地に派遣され様々な事に我慢せねばならず、それに耐えかねて故山に戻り才能を頼りに成功しようとするが上手くいかず、再び東に戻り、今度は当時は下に見ていた者が上官になるという経験をする。
そして、再び西に向かおうとした所で発狂してしまう。

冒頭の東西の移動と、そこに表れる李徴のかっとうをまえて「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」という言葉や、後ろに続く自分の弱さの告白を読むと、一層李徴の気持ちが理解しやすくなります。
「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」を抱える李徴が、赴任先の待遇に耐えられず、もう一度才能を信じて西に向かったのに、それも上手くいかず、再び(今度は自らの決断で)東に向かわなければならなかったのです。
中島敦さんは、李徴の東→西の移動が「臆病な自尊心」を、西→東の移動が「尊大な羞恥心」を表しているように設定しているのではないかと思います。

こんな風に見ていくと、まだまだ読み取れる事が沢山ある山月記です。
テスト期間にそこまで読み解く必要はないですし、そもそも時間もないと思いますが、もしなるほどと思うところがあったら、テスト終わりの暇なときにでも読み返して見て下さい。

 

アイキャッチ山月記

 

李陵・山月記 (新潮文庫)

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