新・薄口コラム

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



倉木麻衣『渡月橋~君 想ふ~』考察~「想う」と「思う」の使い分けと本歌取りの意図を読む~

千早ぶる 神代もきかず 龍田川 からくれなゐに 水くくるとは (在原業平

さまざまなことが起こったという神の世界でもそんなことは聞いたこともありません、まるで唐紅のくくり染めに見えるほどに紅葉が竜田川を真っ赤に染め上げるだなんて。

 

百人一首の中に収録されているこの歌。

倉木麻衣さんの『渡月橋~君 想ふ~』を聞いて、久しぶりにこの和歌を思い出しました。

今年の春に公開された映画版名探偵コナンの主題歌であった『渡月橋~君 想ふ~』。

初めて聞いたときは、何で渡月橋流れる桂川が紅葉で真っ赤に染まるのか分からないという印象だったのですが、先日用事で嵐山に行った時に、ふと別の解釈もできることに気がつきました。

で、そのためには「千早ぶる 神代もきかず 龍田川 からくれなゐに 水くくるとは」の和歌の背景を知っておくことが重要ということで、冒頭で引用しました。

まずこの歌と和歌は本当に関連があるのかと言うことですが、それはこの歌をエンディングに起用した劇場版名探偵コナンの重要なヒントの一つとなっていたこと、歌詞に「から紅」「水くくる」という言葉があることから、この和歌を意識して作られたと考えるのが妥当でしょう。

ということで、以後、この歌は「千早ぶる~」の和歌を元に作られているという前提で考察していきます。

 

「千早ぶる 神代もきかず 龍田川 からくれなゐに 水くくるとは」の和歌は、在原業平が屏風絵を見て詠んだものとされています。

屏風絵に描かれた紅葉の葉っぱで真っ赤になった龍田川。

それを見て、在原業平が「そんな素晴らしい光景は神々がいた時代でさえも聞いたことがない」と表したものです。

僕はこの「神々がいた時代でさえも聞いたことがない」という部分が、『渡月橋~君 想ふ~』を理解する上で非常に重要だと考えています。

 

渡月橋~君 想ふ~』の歌詞を見てみると、3つの時間軸が入り混じって構成されていることが分かります。

ひとつ目が冒頭の〈寄り添う二人に 君がオーバーラップ〉から始まる、主人公がいる現実の時間軸。

そして次が1番のBメロ〈君の言葉忘れないの〉や2番のAメロ〈いにしえの景色 変わりなく〉というところに表れる、当時「君」と一緒だった過去の時間軸。

そして最後がサビの中に出てくる、「から紅」の和歌によって表される架空の時間軸です。

僕はこの歌について、この3つの時間軸をいったりきたりしながら主人公が「君」の事を想っていると考えることで、自分なりに納得のいく理解をする事ができました。

 

まず一番のAメロ、現実の時間軸で主人公は寄り添って歩くカップルを(おそらくかつて「君」と歩いた嵐山で)見かけて、そこに当時の「君」との思い出をオーバーラップさせています。

その姿をみてさまざまなことを思い出すのが1番のサビの手前まで。

そしてサビに入ると未来へと思いを馳せた場面に移行します。

1番のサビで和歌に関する背景が生きてきます。

〈から紅に染まる渡月橋 導かれる日願って〉という部分は、もしも渡月橋からみえる川の景色がから紅に真っ赤に染まったのなら、もう一度「君」に会いたいと主人公が願っていると捉えることができます。

と、同時に「千早ぶる~」の和歌では、上の句で「神代もきかず」と言っているように、そんなことは現実世界ではありえないということをこの主人公は知っており、その上で、もし渡月橋が真っ赤に染まったなら、「君」に会いたいと願っていると捉えることができるのです。

これらの要素から、一番のサビには、もう会えないと分かっている主人公が、それでも「君」に会いたいと想い続ける心情が読み取れます。

 

2番のAメロは、再び過去の時間軸で情景が描かれています。

〈いにしえの景色変わりなく 今この瞳に映し出す 彩りゆく季節越えて Stock覚えていますか?〉

初めて聞いたとき、僕はこの部分をはるか昔のこととして捉えていたため、どうしても意味が繋がりませんでした。

しかし、〈いにしえの景色〉を「君」と一緒にすごした日々と考えると、内容が繋がります。

かつて一緒に見た景色を、季節が変わったけれど「君」もまだ覚えてくれていますか?

〈Stock覚えていますか?〉にはそんなニュアンスが込められているように解釈できます。

そしてBメロでは再び主人公が会いたいという心情を吐き出し、2番のサビへと繋がります。

 

2番のサビでは再び和歌に重ねていつかあなたにまた会いたいという思いを歌っています。

〈から紅に水くくるとき 君との想いつなげて〉

ここは紅葉の葉が川を括り染めのように真っ赤にすることがあったなら、「君」と想いをつなげて欲しい。

やっぱりここには和歌の上の句にある「千早ぶる 神代もきかず 龍田川」の部分に出ている「そんなこと神様がいた時代にも聞いたことがない」というニュアンスが言外に含まれています。

そして〈いつも君を探してる〉と結ばれる。

 

そのあとCメロで再び自分の心情を語り、最後のサビに繋がります。

1,2番のサビが「千早ぶる」の和歌になぞらえた未来の時間軸であったのに対して、最後のサビは現在の自分の視点で描かれています。

〈から紅の紅葉たちさえ 熱い思いを告げては ゆらり揺れて歌っています〉

この歌詞で注目すべきは「思い」という言葉です。

それまでは「想い」であったのに、最後だけは「思い」となっています。

(僕が見た歌詞サイトの誤植である可能性は捨て切れませんが…)

「想い」という言葉には、「心に思い浮かべたもの」という意味があります。

それに対して「思い」の場合、しっかりとした意思のようなニュアンスが出てくる。

それまでは和歌の上の句をにおわすことで、「君」と再び一緒になることを「不可能なこと」として、自分の中で「想う」だけであったのに対し、最後のサビでは〈から紅の紅葉たちさえ 熱い思いを告げては〉と、「思い」を告げることに言及しています。

つまりこの歌の主人公は、現在の景色を見たり過去を回想したりする中で、「君」のことを考え、最後は「想い」を秘めるだけでなく、「思い」として伝えようとしているのです。

そして、初めの勇気の無い主人公を伝えるために和歌の一部を本歌取り(和歌の技法の一つで、ある歌の一部分を歌の中に引用することで、その歌の言外にある筆者の意図を伝えようとすること)の要領で引用している。

っというのが僕の『渡月橋~君 想ふ~』という曲に対する解釈です。

もしかしたら全く以って的外れかもしれませんが、あくまで見方の一つとしてまとめてみました。

 

いかがでしたでしょうか?

(↑この前、永江一石さんがこの締め方をするウェブの記事をディスっていたので、便乗して使ってみました 笑)

 歌詞はこちらから(渡月橋 ~君 想ふ~ 倉木麻衣 - 歌詞タイム

 

アイキャッチはもちろん渡月橋~君 想ふ~』

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「正しい」で語る人、「正しさ」で語る人。

僕はこの数年、「自分の主義主張を優先しない」を、モットーに生きています。

これは決して自分の意見がないだとか、主体的でないというわけではありません。

そうではなくて、ひたすらに「正しい」を正確に捉えたいと思っているからです。

あらゆる物事を判断する際に、僕は「正しい」と「正しさ」があると思っています。

「正しい」とは物事のありのままを捉えることで、「正しさ」とは自分がそうあるべきと信じる物にのっとって捉えることです。

例えば、人種差別に関して、「正しさ」で言えば「人種差別はなくなるべき」となりますが、「正しい」でいうと、「そうはいってもみんなどこかで差別意識を持っている」というようになります。

言葉の対比の観点から便宜上「正しい」と言っていますが、どちらかというとニュアンスとしては「現状」に近いかもしれません。

 

僕は基本的にあらゆる場面で、仮にそれが自分の意見と異なっていても「正しい」を選択するようにしています。

問題解決の大前提は、物事を正確に把握することだと思うからです。

何かについて議論していると、たまに自分の意見を守ることが(無意識に)前提となっている人に出会います。

自分の意見を守ることが先に来ている人はどうしても出てくる解決策の部分が弱くなってしまう。

入り口の時点で「現実はこんなもんだよね」という部分が置き去りになっているからです。

「正しさ」で語る人は、現状をこう変えたいという、自らがゲームメイカーになって動かしていく場合には非常に強さを発揮しますが、逆に、自分が大きなルールの中で勝負していくような場面では、判断を誤りやすくなってしまいます。

 

僕が最近よく考えるものの1つに、TOP&NO.2論があります。

組織でもチームでもプロジェクトでもいいけれど、あらゆる複数人が関わって進めていく物事において、どういうポジションの人が先頭に立っているとうまくいくかというお話です。

TOPとNO.2の考え方を「正しさ」と「正しい」の2つで分類すると、構成は次の4パターンになります。

①TOP→正しさ NO.2→正しさ

②TOP→正しさ NO.2→正しい

③TOP→正しい NO.2→正しい

④TOP→正しい NO2→正しさ

もし①のようにお互いに正しいことを信じるタイプであったとすると、主義主張が非常に近しい場合は別として、基本的には意見が対立し、空中分解を起こします。

また仮に、主義主張が近いとしても、あまりにそれを優先するあまり、現実を捉え間違えて、誰に刺さらないアウトプットを生み出すことになりかねません。

次に③を見てみると、この場合だと「正しい」ことを選択するため、手堅いけれどスケールしないものが生まれやすくなります。

 また「正しい」は徹底的に自分の意見を排除する必要があるため、物事を動かすための推進力が生まれづらくなり、組織が展開しにくくなります。

まずいのは④のTOPが「正しい」を追求し、NO.2が「正しさ」を追求する場合です。

本来TOPを支えるために的確なアイデアを提示するのがNO.2の役割。

それが自分の主義主張を優先し始めると、組織としての方針がブレ始めます。

また、TOPは「正しい」を優先しているため、いちいち主張が食い違い、NO.2の不満を増やしてしまいます。

結果として組織全体が常に不満の爆発しやすい危険性を孕むことになるわけです。

僕が最も理想的な組織の形であると思っているのが、②のTOPが「正しさ」を追いかけ、NO2が「正しい」を大切にする場合です。

この形だと、TOPが推進力を担保し、一方でそのために弱くなった戦略性をNO.2が補えるようになります。

 

僕は個人として動く場合にはそれなりに自分の「正しさ」を大切にしますが、人のプロジェクトに参画する場合は、徹底的に「正しい」側に寄るようにしています。

そして、「正しい」から導いた自分の意見を決して押し通そうとしない。

自分自身がTOPに立つことが好きではないということもあって、僕はTOPの人に重宝されるNO.2というものをよく考えています。

現時点でのその答えが「正しい」を追求する人なのです。

大抵の場合、熱量のある人ほど上の立ち位置になるので、勢いのある組織ほど①になりがち。

だからこそ、そこで自分の意見は一旦棚上げして、「正しい」を正確に把握できる人材は、(特にTOPに)重宝されると思うのです。

そんなわけで、ひたすら正確に「正しい」を捉えることができるように物事に向き合う今日このごろ。

テクノロジーに最適化する

僕はテクノロジーを人間に最適化するという考え方に懐疑的で、むしろ歴史上の流れを振り返れば、大きな革命が起こったとき、人間がテクノロジーに最適化してきたという事実があると考えています。

これまでの大きな革命といえば農業革命と産業革命がありますが、僕たちの祖先は農業革命を通して、移住から定住に、その日暮らしから収穫時期に合わせた暮らしに、そして、小規模のまとまりから集団生活へとその生活のしかたを変化させてきました。

これは、農業という大きな「発明」によって、完全に生活スタイルが変化した例といえます。

農業において最も重要なことは、収穫時期に次の収穫時期まで生き延びることのできる食料を確保すること。

そのため、人々の生活は日の出入りや四季に合わせたものになりました。

また、個人で行う狩猟とは違い、農業は集団で行うことでより効率的になります。

したがって集団で過ごすようになり、かつ優秀な指導者が一定規模の人たちを束ねるようになります。

 

同様に産業革命を経て、僕たちは自分たちの生活をテクノロジーに最適化してきました。

産業革命の最大の発明は「蒸気機関」、人間以外の動力の発見です。

1人の人間が担っている全工程を蒸気機関が一度に担うことはできませんが、行程を細分化し、それぞれにあった単一の動きをし続ける機械を生み出せば、結果として1人の人間が生み出していた製品を機械によって生み出すことが可能になります。

僕はこれが産業革命の重要なポイントで、これを実現するために産業革命以降あらゆる分野で行われてきたことは「行程の細分化」であると思っています。

あらゆる行程を細分化することで、技術を代替可能なものにしてきました。

たとえば、ある機械のパーツが壊れても、すぐに同様のパーツと取り替えれば、全体としてすぐに復帰するという具合です。

これは機会だけでなく、人間にも当てはまります。

様々な仕事を部署で分けることで、「その人がいなければ成り立たない」ものから、「どんな『労働力』でも代替可能」なものにしてきました。

色のついていない「素材」を大量に採用し、様々な部署に配置する新卒一括採用は、まさにそうした思想の基づいている制度だと思うのです。

 

農業革命、産業革命を通して僕たちは生活のスタイルをテクノロジーに最適化してきたということを考えると、今日のIT革命の中でも、恐らく僕たちは生活をテクノロジーに合わせて最適化していくことになるはずです。

実際に、パソコンやスマホなしに今の生活は考えられないことからも分かるように、既にミクロな部分では、最適化をしつつあります。

ただ、僕が興味のあるのは、もっと大きな枠組みの部分。

農業革命でいうところの「時間概念」、産業革命でいうところの「細分化」のように、IT革命によって生まれるコンセプトのようなものがあるように思うのです。

それをいち早く見定めて、そこに向かって自らを「最適化」することができれば、今後、面白い立ち位置がとれるように思うのです。

そのコンセプトの可能性として「多動力」や「評価」、「好奇心」みたいなものが上げられますが、僕はどこかしっくりこない気がしています。

もっと、端的で(そしてそれは恐らく期待するポジティブなものではないもの)があるのではないかと思うのです。

話上手の「作り方」

円滑なコミュニケーションは実は簡単で、僕はコミュニケーションとは相手に何かを押し付けることと自分が引き受けることのシーソーゲームであると思っています。

相手に引き受けてもらう自分の話の総量と、相手が話したい内容を引き受ける自分側の分量が等しければ、それは円滑なコミュニケーションになり、相手よりも自分の方が引き受ける分量が多ければ、その相手にとって自分は「話を聞いてくれる人」ということになります。

コミュニケーション能力について、しばしば「話すのが上手い人」という認識がされますが、実態は巧みに相手を話しの主役にできる人が「コミュニケーション能力の高い人」という評価を貰っているように思うのです。

 

話が上手い人が、相手よりもしっかりと話に耳を傾けることであるとしたら、コミュニケーション能力が低い人というのは、「自分の話ばかりをする人」ということになります。

僕はこの「自分の話ばかりする」には、相手に無理やり話を聞くことを共用させるタイプと、相手が話を聞かざるを得ない状態にさせてしまうタイプの2通りの種族がいると思っています。

僕はそれぞれマウンティングタイプ、メンヘラタイプと呼んでいます。

 

マウンティングタイプに関しては会話において相手を「負かそう」としがち。

誰かが話しているときに自分のエピソードをかぶせてきたり、相手を論破しようとしたりするタイプがここに該当します。

相手は話が面白いから「聞き手」を引き受けてくれているわけではなく、「聞かざるを得ない」から聞いてくれているというのが最大のポイントです。

マウンティングタイプの会話が生まれやすいのは、年齢的に差がある場合や、立場的な差がある場合。

聞き役と話し役の比率が歪んでいるだけでなく、会話のコンテンツ以外の部分で「聞かざるを得ない」状況を作っているため、会話をしていて聞き手には大きな負荷をかけています。

いつも会話をする人が後輩や若い人ばかりという人は注意が必要です。

 

もう一つのメンヘラタイプとは、自分は悲劇のヒロインであるというアピールをすることで周囲に無理やり聞き役を強いる人たちのこと。

通常、自分の話に興味を持ってもらうことはそんなに簡単ではありません。

しっかりと相手の興味の範囲で話題を考えなければ、自分の話に耳を傾けてもらうことは容易にはできません。

しかし、不幸アピールだけは別。

自分がいかにつらいかというアピールは容易に相手の関心を惹きつけることができます。

目の前で「自分はこんなにつらい境遇なんだ」という会話をされれば、周囲は聞かざるを得ないからです。

オンラインサロンの最大の強みは「社会で楽しむ人」と「社会を楽しむ人」の接点を作ったところにあると思う

ここ最近、柄にもなくいろいろな人とあってしまって(?)います。笑

で、そんな人たちと話をしている中で思ったのが、「社会で楽しむ人」と「社会を楽しむ人」がいるなあということです。

本当はこれをx軸としたらy軸には「能動的な人」と「受動的な人」があるのですが、それを書くと内容がずれてしまうので、今回は予め「能動的な人」の群に絞ったお話です。

「社会で楽しむ」というのは、今の社会に対して何らかのアクションを起こし、自分のやりたい事をどんどん作っていこうとするタイプです。

新しいビジネスを作りたいとか、新しいコミュニティを作りたいとかそんな感じ。

「社会」というおもちゃを使って、新しい遊びを発見する人たち。

彼らは非常に熱量に溢れていて、絶えずいろいろな人をひきつけます。

一方で「社会を楽しむ」というのは、何かを生み出すことは好きだけれど今ある社会の中に「自らが関わって」何かしようというのではないタイプです。

今の社会に面白い素材は十分にそろっているのだから、それを楽しもうというのがこの人たちです。

「社会で楽しむ人」が「社会」というおもちゃを使って新しい遊びを発見するのであれば、「社会を楽しむ人」は「社会」という遊び場の中でワクワクを見つけるイメージです。

この人たちも同じく非常に大きな熱を持っています。

 

「社会で楽しむ人」も「社会を楽しむ人」も、能動的に動いている時点で「熱」に溢れているのですが、その「熱」の見え方は少し異なります。

僕は「社会で楽しむ人」の持つ熱はエネルギー(Energy)と形容するのが最も近く、「社会を楽しむ人」の持つ熱は好奇心(Curiosity)と呼ぶのが一番近いように感じています。

前者は面白いことを生み出すために行動するため、その行動力の源泉としてエネルギーに溢れていて、後者は面白いことを発見するために行動するため、その行動力の源泉として好奇心に溢れています。

これらはどちらに優劣があるというわけではなく、単純に志向性の問題なのです(社会で活躍するには前者の方が向いていると思いますが…)。

 

いろいろな人や組織を見ている中で思うのは、面白いものを次々と生み出せるチームには、例外なくかなり高次元の「社会で楽しむ人」と「社会を楽しむ人」を抱えているということです。

仮に「社会で楽しむ人」の持つ熱をE型、「社会を楽しむ人」の持つ熱をC型とすると、E型とC型の熱量が交わったとき、単体で攻める異常の能力が発揮されます。

たとえば、E型の熱しかない組織はガス調節ねじだけを開いてガスバーナーの火をつけているようなものです(赤い火のヤツ)。

そもそも燃費が悪いし、仮にそれで限界まで火を大きくしたとして、土台となるバーナーが痛んでしまいます。

E型の熱量の人が集まった組織は、そこについていく人たちが疲弊しやすくなってしまうのです。

反対に、C型の熱量を持った人ばかりが集まった組織では、構想ばかりが先走り、全く形になりません。

先ほどのガスバーナーでたとえるのなら、空気調節ねじだけが前回の状態(笑)

こうしたひとばかりが束ねる組織ではついてくる人々は何がしたいのか分からず、いずれ空中分解を起こしてしまいます。

ガス調節ねじと空気調節ねじの両方を開いて初めてガスバーナーが機能するのと同じように、E型の熱量とC型の熱量がそろったとき、初めて大きな力になると思うのです。

(もちろんそれぞれ単体でも一定の結果はでますが)

 

E型の熱量とC型の熱量が混在するコミュニティを作りだすというのが、これからの社会で何かを生み出すためには非常に重要であるような気がします。

そして、実際に多くの人たちがそれに向かって動いている。

堀江貴文さんや西野亮廣さんのやっているオンラインサロンなんかは、まさにこうした流れにあるように思います。

2013年龍谷大学一般入試「今鏡(藤波の中 飾太刀)」現代語訳

内容の背景を捉えることを第一目標としているので、直訳とは若干異なるところがありますが、ご了承下さい。
順次赤本に全訳が載っていない古典の文章の訳をアップしていこうと思います。

※因みに過去問は東進の大学入試問題過去問データベース から入手可能です

 

富家の入道、藤原忠実のご子息は、長男が法性寺の太政大臣で藤原忠道、次男は宇治の左の大臣で藤原頼長と言いました。

ご令嬢は高陽院と呼ばれ、泰子の后という名で、法性寺(忠道)殿とは同じ母を持つ姉という関係でありました。

たしか齢40のころだったでしょうか、高陽院は長承3年3月に、后となり、その後保延5年に、院号を与えられたのです。

 

頼長は確か土佐守盛実の娘を母に持っていた者であったと記憶しておりますが、彼は見た目も素晴らしく、多方面にわたり、優れた才を発揮しておりました。

堀河大納言から、『前漢書』という書を引き継いでおりました。

その書は堀河大納言が匡房の中納言から伝えられ、その後に伝える人が現れずにいたのを、頼長が引き継いだのでございます。

今はその伝えも絶えてしまいました。

頼長はこのように、様々な書物に造詣が深く、『因明』という名の、僧が読むような本までも、奈良の僧たちをたどり、読んでいたと聞いております。

詩歌管弦を披露する場では笙の笛を演奏したそうです。

書をお書きになるときは、わざといい加減にお書きになったのでしょうか。

兄の法性寺(忠道)殿に自分の筆跡が劣っているから比べられたくないというそぶりをしていたのを見て、 法成寺(忠道)殿は、「私は漢詩も作るのに、それならばお前は漢詩をお作りにならないほうがいいだろう」とおっしゃったとかうかがいました。

法成寺の焼けてしまった塔を修理しなさるときも、滞りなく進め、日記等にも広く精通しておりました。

 

一方、性格は自分に対しても相手に対しても大変に厳しいものでした。

行事を行うときは伝統を好み、上達部で公式の席に現れないものに対してはみな呼び出し、時には道で会う人に厳しく叱責することもあったと評判でした。

公事を行うときは、遅れてやってきたものや用事で出席を拒むものがいれば、家を焼き払ったほどであるそうです。

奈良に済円の僧都という名僧がおり、彼が公事への出席に出席できないと伝えたときは、京にある彼の宿坊を壊したほどです。

済円の僧都には仲胤の僧都という盟友がいて、2人は日頃から歌合いの場などで「お前こそが鬼だ」と言い合うような仲だったのですが、仲胤が「済円が公事を断ったら宿坊を壊された」という話を聞いて、済円の元に

(和歌)本当にあなたの家を壊したような人がいるのだとしたら、それはあなたに勝る鬼のような人であるようだなあ

と読んで送らせたのだそうです。

(中略)

 父の富家殿と法性寺(忠道)殿の親子の間柄は、最後にはよくないものになってしまい、父は頼長を鳥羽院とともに引き立てて、藤原家の長男の位を授けてしまいました。

加茂の詣でなどは本来最高の権力者がするものなのですが、頼長は兄の殿を差し置いて参拝をし、また藤原家の本流である東三条殿をも手に入れてしまったと聞いています。

法性寺(忠道)殿と頼長殿が並んで内覧の宣旨などを受け、帝のお供をしていました。

こうした時期に鳥羽院はお亡くなりになって、讃岐院と頼長殿が策をめぐらせて、後白河院が位にいるときに、大炊の御門殿で戦が起こしたのですが、帝の守りも強く、頼長殿は馬に乗り前線に出ていたときに、誰が討った矢だったのだろうか、頼長殿に当たって、奈良まで逃げた辺りで、ほどなく息を引き取ったのでした。

 

 

今鏡 (上) (講談社学術文庫 (327))

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SNS上での企画会議の弱点と、差別化戦略を生み出す方法

僕は何かの打ち合わせをする場合、できるだけ「顔をつき合わせたい」と思っています。

SNS上でのやり取りは、どうにも自分に向いていないと思っているからです。

簡易な連絡をしたり、人と繋がったりするのには便利なSNSですが、企画会議のようなものはやはり顔を付き合わせたほうがいい(最低でも電話)というのが僕の持論です。

SNS上でのやり取りは、少なくとも速度と情報量の2点において、リアルなコミュニケーションよりも劣っているように思うのです。

 

僕が最も億劫に感じるのは情報を伝えるスピードです。

知り合いと話したり、居酒屋で飲んだりするときはかなり意識して話すスピードを落としているのですが、本来僕はかなりの早口です。

その場でアイデアを出さねばならない場合や論理を構築する局面になると、雑談をしているときの2倍くらいの早さになってしまいます。

で、僕はこの緩急が自分の中で非常に重要だと思っているのですが、文字情報のやり取りには速度がないのです。

もちろん、SNSで発言を投稿するのにはスピードがあるのですが、僕が言いたいのはもっとミクロな視点で、一つのメッセージを構築する場合のスピードです。

いつも文章を書いているということもあり、普通の人と比べればいくらかタイピング(スマホフリッカー入力も)は速いほうだと思っているのですが、それでもしゃべっているときのスピードと比べれば圧倒的に遅くなってしまいます。

僕は別に頭が良いわけではありません。

だからとにかくしゃべるスピードに任せて手数を増やすのが僕の打ち合わせでの振舞い方です。

これがSNS上のやりとりになると意見のやりとりの速度の差が話しているときほど大きくならず、おまけに話しているときの文字数とは違う、身近なやり取りが中心になる(僕は話しているときの一文がものすごく長いのです)ので、明らかにパフォーマンスが下がってしまうことが分かるのです。

 

もう一つ、僕がSNSでの議論を好まない理由が情報の伝達量の差にあります。

文字情報よりも話し言葉話し言葉よりも映像、映像よりもリアルな体験というように、情報量はどうしても文字になると少なくなってしまいます。

これは僕の感覚値ですが、SNS上での企画会議の場合、最大でも口で説明したときの80%くらいしか自分の意図は伝わらないと思っています。

また受け手が理解するフェーズでも、情報伝達の制度は下がると思っています(こちらも80%くらい)。

仮に自分の意見を100としたときに、顔を付き合わせていつ場合、ジェスチャー等も交えて都度調整をすることで90くらいの情報が相手に伝わるとします。

一方で文字情報の場合、自分が文字に起こす段階で100×0.8=80という情報量になり、さらに相手が受け取るタイミングで8掛けになるため、実際に相手に伝わる量は64となってしまいます。

大きな枠組みや手数の多さで勝負する人ならばそれで構わないと思うのですが、僕みたいな理屈をこね繰り返してアイデアを出すタイプの人間にとっては、この伝達する情報量の差が致命的だと感じるのです。

 

SNSが発達した結果、どこでも打ち合わせができるようになったという人もいますが、僕はそれで上手くいくのは①基本方針を定めて、②いかに速く、③どれだけ手数が多いかが勝負になる系統の仕事の進め方に限るように思います。

(逆に言えば、今はそうした戦い方をする人に有利な土壌ということもできるでしょう。)

しかし、それで生み出すことができるのは独自性の高くない、スピード重視のアイデアです。

そうした、「ジャンク品」ともいえるアイデアではなく、しっかりと練り込んだ、そのアイデア一つで差別化が計れるというようなものを出そうと思った場合、Face to Faceのコミュニケーションが重要だと思うのです。

SNSによって、一見するとドコでも会議ができるようになったように感じます。

しかし、それは上の3条件を満たす会議がしやすくなった(幅を利かせるになった)ということであり、裏を返せば、そうでないアイデアを要する場合は対面が重要で、そこにこそ独自性の鍵が眠っているのではないかと思うのです。

だから僕はできるだけ対面での企画会議をしたいし、そういったことを続けられる組織が長期的に独自性を出し続けられる気がします。

 

アイキャッチは飲み会でのアイデアを最大の強みにしているキングコング西野さんの「魔法のコンパス」

 

魔法のコンパス 道なき道の歩き方

魔法のコンパス 道なき道の歩き方