新・薄口コラム

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



貨幣と世間とSNS〜「信用」をキーワードにお金について考える〜

貨幣とは何か?

 最近「貨幣とは何か?」みたいなことについて、あれこれと考えています。

経済学の定義でいけば、価値保存、価値尺度、価値の交換ができる便利なツールということになるのですが、僕はざっくりと説明するのなら、堀江さんや西野さんがいっているような、「貨幣とは信用の証明である」というのが最もしっかりくる説明であるように思います。

例えば知人に対してなら、仮に商品Aというものを「今度なんかで返してや!」っていって渡したとしても、かなりの確率で「お返し」が来るはずです。

もし私と知人の関係は、両者の間、そして両者が所属するコミュニティの中での信頼関係によって成り立っているわけなので、それを反故するということは起きづらくなります。

しかしながら、2人に全く接点のない場合は、こうした「信頼による担保」が生じ得ません。

そのため、商品の売買などの際には第三者に介入して貰うことで、信頼の保証を求める必要があります。

この第三者としての保証人が貨幣だと思うのです。

例えば、日本円であれば、「日本国」がその価値を担保してくれています。

或いは仮想通貨の場合は、仮想通貨使用権の人々がその価値の保証人になっている。

このように、全く接点のない人の間にも「信用」の保証をしてくれる働きこそが、通貨の最大の役割だと思うのです。 

信頼の保証を貨幣の価値としたときのコスト

さて、通貨の最大の役割が信用の保証にあるとしたら、既に充分信頼関係が成立している人同士の間の交換に関しては、一旦貨幣というツールを通し、第三者の担保を仲介させるのは、コストなのではないかというのが最近僕の考えている事です。

例えば、70年代の様子を描くドラマなどに出てくる「隣の家に醤油を借りる」、(代わりに後日お隣さんが困っていたら手を差し伸べる)という交換ができるとしたら、そこにいちいち貨幣を介在させるのは手間にしかなりません。

「醤油大さじ2杯分だから2円ね」みたいな形でお金のやり取りをしていたら鬱陶しくて仕方がありません。

こういう、十分に信頼関係が保証されているコミュニティにおいては、わざわざ改めて第三者による信頼の保証(すなわち貨幣の介入)を介さずに交換した方が圧倒的に低コストなのです。

 

もちろん、価値の大きな商品の交換に関してはこうはいきません。

例えば3000万円くらいの家を「今度助けて」なんて言って立てて貰うことはできないのです。

せいぜい「コミュニティに所属している」ということで信用が保証できるのは数千円〜数万円程度。

それ以上の交換に関しては、貨幣による第三者の保証を介した方がリスク>コストとなります。

というわけで、僕がここで話しているのはマイクロエコノミーとでも言うのか、極めて小さな交換におけるお話であるという前提はご了承下さい。 

西欧的「社会」VS日本的「世間」

阿部謹也『「世間」論序説』によると西欧には社会があり、日本には世間があると述べています。

社会というのは個人一人ひとりの努力によって作り上げられるひとカタマリのコミュニティ、それに対して世間は無限に存在する、そこに「いる」人たちの関係によって成立する小規模なコミュニティであるとしています。

(「コミュニティ」という言葉を使っていたかは覚えていませんが...)

例えば、混んでいる電車に乗った女の人が隣の席が空いた時、遠くから友人を呼んできて、「座れてよかったね」と喜んでいる時には、その2人にとって、車内に同乗している人たちは完全に無視されているわけです(同著より引用ですが、やや書き方は違ったかもしれません)。

これが「世間」です。

世間は社会を無視する代わりに、同じ世間の中にいる人とは極めて強い関係を結ぶことになります。

とするのなら、世間の中では貨幣を介さない交換が低コストになるのではないかと思うのです。

成熟したSNS空間は「世間」を作る

SNSが普及したことで、ウェブ上には様々な「新たな世間」といえるようなものが生まれています。

LINEやメッセンジャーのグループがまさにそう。

また、こうした繋がりの先に、シェアハウスやサロンのような、ウェブ空間的な繋がりを物理的に落とし込んだ空間も登場しつつあります。

これも形態をみれば「世間」と言えるでしょう。

小規模の交換において、既に信用の担保がなされているコミュニティ内でのやり取りならば、貨幣を介さない方がコストがかからないという先ほどの僕の仮説は、こうした新たにできつつある「世間」でこそ機能するように思います。

シェアハウスで「ちょっとご飯作りすぎたからよかったらどうぞ」とか、「駅まで行くから送ってく?」みたいなやり取りは、貨幣システムが浸透したり、高度経済成長を経験するなかでどんどん失われていきましまが、インターネットというツールが再びこうしたコミュニティを生み出しつつあるように思うのです。

(それに敏感になれず、SNS上で他者の批判をしている人もいますが...)

 

作家で思想家の東浩紀さんは、『弱いつながり』の中でインターネットには情報検索機能と他者とのコミュニケーション機能の2つがあると言っていました。

その、後者の機能の価値に気づき始めているのが、新たなコミュニティを作り始めている人たち。

その中で貨幣を保証人としない価値の交換が生まれるのは、ある程度起こりうることであるような気がします。

 

アイキャッチはモースの贈与論

贈与論 (ちくま学芸文庫)

贈与論 (ちくま学芸文庫)

 

 

 

メロスはどんな性格?学校の授業とは少し違う観点からメロスの人柄に探りを入れる!

国語の授業をしていると、時々学校の課題の相談をしてくる生徒さんがいます。

ディベートの仕方や作文の書き方などなど。

もちろんそういった質問は大歓迎ですし、何なら僕自身も考えることが好きななので、どんどん持ってきてほしいくらいなのですが、その中でもたまに、さすがにそれは難しいだろうという「難題」を見かけることがあります。

例えば小説を読んだ直後の授業で批評文について学び、その授業の課題で、「それでは前の授業でやった小説の批評文を書いてきて下さい」みたいなもの。

もちろん説明がされていればいいのですが、教科書に載っている「批評文の書き方」をノートに箇条書きしただけのものを以って実際にやってみようはさすがに可哀想だと思うんですよね(笑)

という訳でそういう課題が出た子には、実際に僕がその課題を解いてみて、どんな風にやればいいか伝えたりします。

 

最近そんな流れで、子供たちと「走れメロス」について話す機会がありました。

テーマは「メロスの性格はどんなものなのか、文章中の表現を根拠に考えよう」というもの。

自分で言うのも何ですが、非常に優秀な子たちなので、文中の表現から自分なりに性格を推測することはできていました。

ただ、それだけでは面白くないなと思い、メロスの走っていた体感速度と、実際の時速を比較してメロスの性格を考えるというちょっとシニカルな性格分析をしたら、意外とウケがよかったのでまとめておこうと思います。

 

少し前に、一般財団法人理数教育研究所が開催する「算数・数学の自由研究」作品コンクールに『メロスの全力を検証』という文章が出展されました。

その中で文中の表現から距離と時間を推定して、メロスの実際の速度を求めると言うことがされています。

f:id:kurumi10021002:20180219082821j:image

(写真はねとらぼさんの記事http://nlab.itmedia.co.jp/nl/spv/1402/06/news071.htmlから引用しました)

これによると、メロスの最後の追い込み(一度挫折しそうになった後、自分を奮い立たせて頑張って走るシーン)のペースは時速5.3キロ。

グーグルマップの徒歩が約5キロ、マラソン選手の平均速度が約9キロである事を踏まえれば、最後のスパートですら全然「走って」いないんですよね(笑)

 

次に、メロスの心境的にはどれ位の速度で走っているつもりであったのかを、文中の表現から考えていきます。

後半の全力で走っているメロスを表す描写として「少しずつ沈んでゆく太陽の、十倍も早く走った。」というものがあります。

地球の自転速度は赤道上で1674kmなので、太陽の速度もこれと同じと考えられます。

また、メロスの舞台はヨーロッパなので赤道よりも日が沈む速度は速いはず。

だから、少なくとも時速1674kmと仮定します。

そして、メロスはそれの10倍の速さで走ったと「感じて」いるわけです。

つまりメロスの心境的には時速16740kmで走っているつもりなわけです。

 

さて、数字が出揃ったのでここからメロスの性格を考えてみたいと思います。

メロスは王に向かって散々な啖呵をきった上で、最後は気力を振り絞って頑張ったかのように言っていますが、実際の速度は5キロちょい。

それを心境的には3000倍近くのものであると感じているわけです。

このことを踏まえれば、メロスは極端に自己肯定感が高い割に、パフォーマンスが低い男ということになってしまいます(笑)

だってほぼ「徒歩」を、「太陽よりも速い」と言っているわけですから。

また、文章の始めの方で「人の心を疑うのは、最も恥ずべき悪徳だ。」と王に向かって言っているのに、途中山賊に襲われたとき、「さては、王の命令で、ここで私を待ち伏せしていたのだな。」と王の心をがっつり疑ってしまっています。

この辺も合わせて、メロスは「他人に厳しく、自分には甘い、底パフォーマンスの男」という判断をされても仕方がないのかなあと思ったりしてしまうわけです。

 

もちろん、小説の枝葉末節をついて屁理屈を言うのが無粋なことは百も承知です。

でも、「文中の表現からメロスの人柄を考えろ」というのなら、こういう意見が出てくることだって想定しなければならないと思うのです。

少なくとも、全員が全員、メロスを読んで「人を信じることが大切」だとか「最後まで諦めないことが大切だと思った」みたいな感想を持つ必要はありません。

1人くらい、「カッコつけてる割に全然速くないから、メロスは口だけの男だと思う」みたいな感想を持ったっていいと思うのです(笑)

というわけで、わざと皮肉めいた見方をしたメロスの性格についての考えてみました。

 

アイキャッチはもちろん走れメロス

 

走れメロス (新潮文庫)

走れメロス (新潮文庫)

 

 

 

僕の文章が上手い訳がない!〜努力・才能・興味論争を考える〜

僕は小論文の添削をしたり、教材を作ったり、広報文を書いたり、それからライターの仕事を貰ったりと、「書くこと」に関して結構いろいろな形で関わっています。

そんな訳で文章を書く機会は、普通の人と比べれば多い気がします。

(そもそもこのブログと塾のブログを併せて毎日1本以上は趣味で文章を書いていますし...)

もちろん自分自身、文章を書くことが好きではあるのですが、「才能があるよね」みたいなことを言われると(嬉しいですが)そんなことはないと思ってしまいます。

確かに僕は文章を書くことが昔から好きで、高校くらいからブログを書いていました。

ただ、文章を書く才能があったのかと言われれば、決してそんなことはありませんでした。

むちゃくちゃ酷い出来です...

で、何でこんな話を書こうと思ったかというと、僕の高校くらいに書いていたサイトを見つけちゃったからなんですよね(笑)

これまで僕は高2くらいから今までなんだかんだ、ウェブリブログmixiアメブロはてなと書く場所を移して10年くらい文章を書き続けてきたのですが、始めの方から並べると、その酷さが際立ちます...

反面、驚くくらいに才能がない僕が、文章でお金を頂ける程度になった過程としては面白い記録になるんじゃないのかなと思ったので、恥を忍んで晒してみることにしました(笑)

 

 

C.S1 高校時代のブログ掘り起こし

まず、追跡できた僕の1番最初のブログは高2の時のものでした。

(それより前にはプロフ的な物をやっていたのですが、流石にそれは見つからず...)

ということでこれが高校のときの文章です。

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2006年9月

少し前なのですが模様替えをしました。私は片付けが大嫌いなので定期的に模様替えしないととんでもない事になってしまうからです。いつもは家具を動かしながら決めるのですが今回はしっかりといろんなものを測ってみました。そうしたら見事に計り間違えやミスばかりで友達が来ると一瞬絶句するような感じになってしまいました・・・なんかこう・・部屋のサイズ変わらないのに小さく感じます・・・・・・・

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これが当時のブログの1記事の全文...

何を伝えたいのかも、文章の構成も、そもそもそれらを考えるほどの分量もないクソ記事です(笑)

これが僕のブログを書き始めたときの文章。

こんなものを2年近く書いていたみたいです。

大体これが100本くらい。

 

C.S2 高校〜大学前期 mixi時代

僕が大学に入った頃にmixiが流行り、それまで書いていたブログはそこの日記機能で書くようになりました。

で、あいも変わらず誰にも求められていない駄文を書き散らしています。

(残念ながら)そのゴミクズを見つけてしまったので、(恥を捨てて)晒してみようとおもいます。

 

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2009年12月

名古屋で一人暮らししとる幼なじみの家に行ったときのお話です

なんか一人暮らし始めたと同時にウーパールーパー飼いはじめたらしいんですよ

なんでも偉くカワイイらしくお盆も
「あいつが死ぬから」
って言って2日しか実家にいなかったほど…

それであんまりにもかわいがってるもんで9月に名古屋行った時その人の家に顔出したんですね

部屋入に入ると机の上に大きな水槽

中をみるとかわいいウーパールー

 ・・・・

んっ!?

水の量おかしくないか

水槽に溢れんばかりの水ふらふら

僕はまあ生き物飼わないんであんまり知らないんですケドあいつ(ウーパールーパー)って両生類ですよね

両生類飼う時って陸地必要なんぢゃないんですか

それなのに水槽いっぱいに満たされた水

・・・

陸地は既に水没してる

 なんかもうムー大陸的な冷や汗

水深がありすぎてウーパールーパーが下までいけないんですよ

みてると何度も果敢に底を目指して潜るんですケド3分の2くらいまでいったところで

ピュ~

って水面に顔をだすんです

・・・

きっと水圧で下まで行けないんでしょうね…がまん顔

で,ウーパールーパーかわいそうだからもう少し水減らした方がいいんじゃないかってアドバイスしようとした瞬間

「あいつ泳ぐのホント好きなんだよなぁほっとした顔」

って屈託のない笑みで言われまして・・・

あまりに悪気がない顔だったんで水減らせなんて言えんかった

 だからきっと泳ぐのを楽しんでるんだって自分に言い聞かせてもう一度水槽をみたんですあせあせ(飛び散る汗)

・・・

溺れてるようにしか見えなかった・・・P.S.
なんでも今はムー大陸からラオス位まで水位が下がったらしいです手(パー)

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大分文章量は増えてきたのですが、何が言いたいのか分からない独りよがりな文章です(笑)

お笑い芸人さん(確かにしおかすみこさん?)辺りに影響を受けたのと、周りの人がみんな日記を書いていたのとで、ウケを狙った(全く面白くないのだけれど)文章を書こうと思っていた、そして、こんなものが面白いと思っていた大学生前半期...

これが大体200本くらい。

 

C.S3 ノートをとり始めた就活期

3回生の冬、就活を控えた頃に、学内のOB訪問会みたいなもので、就活のアドバイスをしている人に出会いました。

(今はその人の経営する居酒屋の常連という不思議は縁も...)

その方がノートを取るべきと言っていたのと、ちょうどその時に岡田斗司夫さんにハマっていて、その人もノートを取れと言っていたこともあり、僕はその時からノートをとり始めました。

また僕はその人の就活話を聞いて、就活にやる気になるのではなく、「こんな風にアドバイスしたい」という訳のわからないところに熱意を抱いてしまい、mixiから離れてアメブロでブログを開設します。

で、その時に書いていたのが以下の文章。

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2012年

しばしば受験で合格する人には共通点があるなんて言われたりします。学校の先生に言わせると成功する人は学校の授業をおろそかにせず、予習をしっかりしてきてテストでいい点をとる人だとか、、、
まぁそれが正しいか否かは別としてできる人に共通点があるという話に関しては、その通りだと思います。
そこ共通点とは授業をしっかり聞くとかそんなんじゃなく、言うなれば「成功者の思考」を持ち合わせているということです。受験でうまくいく人たちは、どこか共通した思考回路を持ち合わせているように思います。それが「マインド」と僕が言っているものです。成功者のマインドに自身を近づけると言うことは、自分を合格に近づける事と言っても過言ではありません。本日は、今まで見てきた「成功者のマインド」を紹介したいと思います。

まず、成功者のマインドというものを端的に表すと、以下の5つに分けることができます。
1.投資的に物事を考える
2.長い目線で取り組む
3.自分自身に責任を置ける
4.常に原因を考えると
5.前向きである
いかがでしょうか?どれも当たり前だと笑うかもしれませんが、この5つを全て体現できている受験生はまあ殆どのいないと言っていいでしょう。もちろん5つのうちいくつか該当する人、5に中途半端に該当する人はたくさんいます。しかし全てを100%こなす人となるとなかなか見かけません。
そうした人達の仲間入りをするために、すこし具体的に一つ一つの特徴を分析して見ることにします。


1.投資的に物事を考える
まず一つ目のポイントである「投資的に物事を考える」ですが、投資的と言うのは「結果・効果を想定する」という意味です。受験で成功する人達というのは、この結果・効果を想定するということを徹底しているのです。
もっと噛み砕くのであれば、「無駄な労力を削る事に長けている」ともいえるでしょう。
多くの学生は、受験勉強に真っ向から取り組むのですが、そこに「対時間効果」という概念が欠落しているのです。
言うまでもなく時間は無限に存在するものではありません。受験に割ける時間となったらなおさらです。ちょっと具体的に見て見ましょう。
仮に今日から来年度のセンター試験まで400日として(およそ合っているハズです)一日あたり勉強に費やす時間が平均6時間としても、400×6で2400時間しか残っていないことになります。
かつそれを単純に5科目で割ったら、一科目あたり480時間です。
さらに最も分野に区切りやすい数学を例に取ってみると数Ⅰ.A.Ⅱ.Bの4つに分けるとそれぞれ120時間(理系ならさらにⅢCも)。そこから数Bに焦点を絞ると、空間・平面ベクトル、数列、漸化式etc...
最終的にひと単元あたり30時間で受験レベルまで引き上げなければならないのです。そう考えると時間効率の悪い学習なんてしていてはいけませんよね?
だからこそ時間効率(=対時間効果)を意識する事が不可欠と言えるのです。


よく受験をするに当たって塾に入るべきなのかと言う事を聞かれます。
これも少し投資的に考えてみましょう。
塾に入るとプラスの要因として
1.理解度があがる(厳密には上がる気がする、つまりモチベーションがあがるってことですね)
2.入試情報が手に入る
3.自習室のような快適な学習スペースが手に入る
という3点が挙げられます。
それが年間の授業料(とくに予備校では生徒流出を防ぐため年はじめに一括振込の形式をとる所がおおいです。)よりも多くの効果を得られると思うのであれば受けたらいいということになるのです。
少し長くなってしまったので、成功者のマインド2以降は明日書こうと思います。
最後に一つだけ、、、
今日説明した投資的思考というのは一朝一夕で身につくものではおりません。もし少しでも納得していただける点があったのであれば、早速今日からこうした考え方をするクセをつけて下さい。

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当時塾のバイトをしてきたということで、受験のアドバイスをブログに書こうとこんなものを書いていました。

今思えば著者適性もなければターゲティングもない酷い文章です(笑)

ただ、この辺りで「伝えたい内容をこめる」ということと「分量を増やす」ということができるようになった気がします。

このときが60本くらい。

 

C.S4 記者になろうと決心した時期

就活をしているうちに、僕は社会に対する関心と文章を書くことが好きだったことがあり、記者になろうと思いました。

今振り返れば「自分の文章を読んでもらいたい」が当時の僕の欲求だったので、記者なんてそもそもベクトルが違ったのですが、当時の僕はそんなこと考えず、文章を書くスキルをひたすら上げようとしていました。

この頃、初めて知識量と文章の書き方に興味を持って、とにかく片っ端から本を読み漁り、文章の書き方の勉強をしていた。

そんな中で僕はよみうりしんふ読売新聞の一面コラム「編集手帳」を書いている竹内政明さんを知り、こんな文章を書ける人がいるのかと圧倒され、この人みたいな文章を書きたいと思うようになりました。

それからその人の本を読み漁り、毎日のコラムを手書きで移して構造や意図、引用のパターンなどをひたすら研究し、その書き方を真似してブログを書く期間がありました。

そのときが次の文章です。

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2013年

母親が娘に言った。
「大声で喚いたり、わがままを言ったり、そんなはしたないことばかりしていると誰もお嫁に貰ってくれなくなるわよ」
「でも、私、そんな人と結婚した男の人、一人だけ知ってるわ」
「誰よよれ?」
「お父さんよ」
(中公新書ラクレ「100万人が笑った!『世界のジョーク集』傑作選」早坂隆)

冒頭の話はパレスチナで出会ったジョークらしい。
日本にも蛙の子は蛙という諺があるが、親子が似ることは世界共通で微笑ましい笑いのタネになるようだ。

似たような言葉に「飼い主はペットに似る」というものがある。

根拠などない事は分かっているのに、何処か当たっている様に思える。

以前ブルドッグを連れたおばさんを見て、思わず笑ってしまった。

親子の話で今真っ先に頭に浮かぶのは上の動物園のパンダ親子だろう。

今月5日、上野動物園で生活しているシンシンが自然交配により子供を生んだ。

Twitter上ではにわかにパンダの子供の名前に関して盛り上がりを見せている。

上野動物園のパンダは日中友好の意味合いを持っている。
今の世間の注目度を見ると、その役割はしっかり子にも引き継がれている様に感じる。

元の「飼い主」である中国も、今の「飼い主」である日本も、ペットに似る似てくれればいいのだが、、、

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序破急を意識して、故事成語や洒落た具体例から時事ネタに繋げ、それを始めの「まくら」を絡ませつつまとめていくという竹内政明さんを意識した文章。

これが150本くらい。

 

C.S5 それ以降をまとめて

こんな感じで書いてきた後は、政治や時事ネタに対してコメントをする、主義主張の強すぎるイタイ文章(200本くらい)に流れました(笑)

それから、伝えたい事や著者適性、それから読んでもらえるものはなんだろうと考えたり、読書に価値を提供できるとは何かを考えて書き続けたのが800本くらい。

そのあたりからようやく「文章かいてみーひん?」みたいなことを言ってもらえて塾の生徒さんと保護者様に向けた勉強コラムを書いたり(今は300本くらい)、お金を頂いて書評を書く仕事のお話を頂いたり(50本くらい)、広報文でプレスリリースなどを書いたりということができるようになってきました。

 

 

よく生徒さんと話していると「どうせできひんし」みたいなことを言う子に出逢います。

で、その子に理由を聞くと、「才能がないから」という解答が多く帰ってきます。

やりたい事をするためには何が必要かという議論で「才能」か「努力」かという2元論をよくみかけますが、僕は「興味」こそが最も大切な要因だと思っています。

うえに上げてきた(恥ずかしい)例を見てもらえれば分かる通り、僕には文章を書く才能なんて微塵もありません。

(読んでいただければ分かる通り、今も下手くそですし。)

でも、そんな僕でも、文章を書く機会を頂くことがちょくちょくあり、それがどうして手に入ったかと言えば、一重に書き続けているからだと思うのです。

そして、なぜ書き続けているかといえば、才能があるからでもなく、努力できるからでもなく、ただただ「書きたい」から。

ここ最近の僕の文章が上手いだなんでもちろん思っていませんが、少なくとも高校時代の僕の文章と比べれば明らかに成長していると自負しています(笑)

好きだから探求するし、好きだから続けられる。

やる気も無く意志も弱い僕が文章を書くのだけはやめないのは、興味があるからだと思うのです。

もちろん業者により、才能が必要なものもあるとは思いますが、少なくとも僕程度(趣味で書き続け、それが仕事で役に立ったり副収入になったりする)でいいのなら、才能はいらないように思います。

(僕の最初の記事を「才能だ」と思ってもらえるなら別ですが...笑)

だから僕は何かをやるために必要なことは圧倒的に興味だと思うのです。

 

アイキャッチは僕の心の師匠、竹内政明さんの文章術

 

「編集手帳」の文章術 (文春新書)

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だからノートを取るといい〜労働や価値を正しく定義する

別に資本論を読み返したとかそういう訳ではないのですが、最近、労働と価値についてあれこれ考えています。

マルクスは価値の源泉はそれにかかった労働力によって決まると言っています(違ったかも)が、現代社会を考えると、単純に「労働」が価値を生み出すとは言えないように思うのです。

そもそも、「労働」とは何かという問いかけから先定義をした方がいいのではないかなと思っています。

 

僕は、このことを考えるにあたって、そもそも「労働力とは何か?」という問いを立てました。

で、僕なりに考えたのが以下の式です。

労働力=時間×体力×思考力

僕たちは様々なものを有していますが、その中で保存することのできない資源として「時間」と「思考力」と「体力」が挙げられます。

これらはいきている限り無限に使用することができますが、それを「保存」することはできません。

たとえば、「21歳の私の1時間を保存して、30歳になったら使おう」みたいなことはできません。

仮に21歳の時に時間を突き詰めて将来に投資したと言っても、それは「将来のリターンを見据えて時間を『使った』」のであって、その時の自分の時間を保存できている訳ではないのです。

同様に思考力と体力も同じです。

で、僕たちはこの3つの資源を保存することができないから、掛け合わせて保存できる形にしているのではないかというのが僕の考えです。

そして、それが「労働力」。

 

ここでいう労働力とは、いわゆる「仕事をする」という意味ではありません。

もう少し広義に、仕事はもちろん、料理でも遊びでも(昼寝ですらも)、時間と思考力と体力を掛け合わせたものすべてを「労働力」と呼んでいます。

で、この労働力はお金に変える事ができる。

そういうお金により数値化できる価値のことをここでは労働力と呼びます。

 

で、この労働力についてなのですが、そのイメージが昔と今では大きく違ってきています。

経営学でよく出るネジ工の実験やフォードの話で出てくるのは、おそらく極めて体力の側に寄っている場合です。

それに対して、今の仕事の多くは思考力の比重が大きくなっています。

僕は上の式に於いて[体力>思考力]の仕事の事を単純労働(或いは肉体労働)、そして[体力<思考力]の状態を知的労働であると考えています。

 

こういう分け方をすると、だから今ある働き方がどうのという、ライフワークバランス的な方向に話が行きがちですが、僕の興味があるのはそちらではありません。

そうではなくて、仮に労働が上の式で表せるとしたときに、思考力=0の場合や体力=0の場合はどうなのだろうというお話です。

もちろん上の式は掛け算であるため、どちらかがゼロであれば労働はゼロということになります。

つまり、少なくともお金に変換できる価値は生まれないということです。

よく、「アイデアには価値がない。実行してこそナンボだ」という事を聞きますが、これはまさに、上の掛け算において体力=0の場合を指します。

掛けた数値がゼロなので、労働力を価値とみなす考え方の範囲においては、明らかに価値はないわけです。

 

一方で、お金に換算できる「価値」とは違う尺度の価値が存在すると考える場合はどうでしょう。

僕は、時間×体力だけの場合と、時間×思考力だけの場合でも、「価値」自体は存在すると考えています。

そして、その「価値」は保存する事ができる。

労働力という価値に関しては、信頼やお金、者などに変換することで価値保存をすることができますが、労働力そのものを保存することはできません。

ヘアカラー液と同じように、混ぜて仕舞えば使うしかないのです。

それに対して、思考力か体力のいずれかがゼロの場合の、労働ではない「価値」に関しては、そのままの状態で保存することができます。

例えば体力のみのものであれば、蓄電のような形で保存することができるのです。

僕はこの性質を以って、思考力=0の時間×体力のことをエネルギー、体力=0で時間×思考力のものをナレッジと呼んでいます。

労働力であれば何かに変換しなければ価値が保存できない(例えば会社で働いて対価をもらうなどしなければただの時間と体力と集中力の浪費になってしまう)のに対し、エネルギーとナレッジは保存できるのです。

仮に休日に起きていて、「ダラダラ過ごす」という労働をしたとしても、それをお金などに変えることをしていなければ、価値として保存はできません。

(例えばニコ動で寝配信みたいな形にすればお金として価値保存ができます)

しかし、することがない日にひたすら発電機に繋いだペダルを漕いでいるなどをしたとしたら、そのエネルギーが保存されたものとして手元に残るのです。

 

エネルギーが直感的に理解しやすいのは対して、ナレッジはイメージがしにくいかもしれませんが、確かに価値保存をすることが可能です。

例えば、僕たちが何かを始めようというときに、昔考えたアイデアが役に立つ事があります。

こんな風に、昔考えたことがずっと先に役立つことがあるというのは、ナレッジとしての価値保存がされているということなのです。

 

確かにエネルギーもナレッジも、そら自体には価値はありません。

しかし、保存しておくことで、将来に莫大に価値を生み出す可能性がある。

エネルギーの方に関しては、僕たちは随分前からこれをやってきました。

一方でナレッジの方はなかなかそうされてはいません。

それどころか、先の例のように「アイデアには価値がない」などと言われ、軽視されてきました。

しかし、エネルギーがそうであるように、溜めに溜めたナレッジは、いざ体力を掛け合わせたときに、莫大な労働力を生み出す可能生があります。

そのための保存としては、ほとんどの人がやっていないからこそ大きな武器になるように思うのです。

労働力を生産し、それを別の形で価値保存するというのはセンスが必要です。

(寝配信のように、「寝ること」さえもお金にすることはできるけれど、それにはセンスや需要が必要)

それに対して、エネルギーとナレッジの保存は誰でもできます。

たとえば、家に発電機を置いておいて、暇なとき漕ぎ続ければ、あとあと使えるエネルギーが充電されているでしょうし、ナレッジに至ってはノートにメモするだけで保存することができます。

そして、それを然るべきタイミングで体力或いは思考力と掛け合わせて労働力という「変換可能な価値」にする。

こういう風に考えると、日頃から考えたことをノートに書き、それをずっと溜めておくことが、どれだけ将来の自分の武器になるかが分かると思うんです。

どうせ何もせず無駄にする時間があるのなら、将来の溜めにナレッジを溜め続ける。

自分自身がまだ実験中なので、結果は何とも言えませんが、将来に対する差別化戦略としては、これが非常に有効であるように思います。

 

 

アイキャッチマルクス資本論

 

資本論 1 (岩波文庫 白 125-1)

資本論 1 (岩波文庫 白 125-1)

 

 

 

日本の名付けとは何か?ソシュール的とキリスト教的に分けて考える

先ほどツイッターで連続ツイートをしたのですが、あまりに迷惑な長さになってしまったと思ったので、ブログにまとめ直しました(笑)


今日のやることは一通り終わったので、最近あれこれ考えていたのだけれど言語化できていなかったものを書き散らしてみる。
ソシュールによると、ある物は存在するから名付けられるのではなく、名付けられた瞬間から存在するとされる。
これはキリスト教の創世記にある名付けとは真逆の考え。

キリスト教の創世記では(確か)神様が粘土で鳥や獣を作って、それをアダムに見せると、アダムがそれらに適した名前をつけていったとされている。
つまり、初めに物があって→それに名前をつけるという流れ。
ソシュールは反対に、名前をつけることで初めてそれに意味が加わると言った。
例えば、ここにそこが深く、プラスティックでできている手のひらに乗るくらいの大きさの容器があったとして、それに「コップ」と名前を付ければ水を飲むとしての機能を持つし、「プランター」と名付ければ土を入れて花を植える容器になる。
或いは「プリンのゴミ」と名付ければ、既に役割を果たした容器になる。
ソシュール的には名付け→意味となる。

 

「名付け」という観点からみると、日本の落語にある「やかん」という話が面白い。
長屋の住人の八五郎が物知りのご隠居に様々な物の名前を聞く話。
八五郎の「なぜ『やかん』は『やかん』というのか?」「なぜ『鰻』は『鰻』と呼ぶのか」という質問に対して、ご隠居が屁理屈をこねていく。

例えば、「侍が兜の代わりに被って敵陣に突っ込んだら、一切に矢を打たれて、それが『かーん』と当たったから『やかん』だ」とか「あの魚は鵜が飲み込むのに難儀するから『うなぎ』(鵜が難儀)だ」などと返す。
面白いのはこれらがまず形ありきという所。
ソシュールかキリストで言えば後者に近い。

 

存在が先か名前が先か問題は、仏教と神道の顔があるかないか問題にも近いところがあると思う。
例えばお寺には仁王像だとか阿弥陀像といった、仏様の姿を模した木像やら銅像やらがある。
一方で神社に祀ってあるのはご神木や石などだ。
元々神道では、神を形で表すという習慣がなかった。

 

神道では、八百万の神がいて、それらには顔や名前がない。
イザナギスサノオのように、名前のある神もいるがそれらについても実体に関する記述はない)
また、きちんとした名称のある祭神を祀る神社でも神を一宮、二宮、三宮、一殿、二殿、三殿と呼んだり、ご神木や石を「ナナシノキ」や「ナシラズノ木」といった「名前のない」という名づけをしたりして呼んだりする。
そういえば 千と千尋の「カオナシ」も顔がないという名づけがされている。

 

こうした「顔のない」神道も6世紀に仏教が伝来することで影響されたことがわかる。
山折哲雄によれば、仏教が伝来したあと伊勢の多度神社に多度神の「神像」が作られたそうだ。
この辺りから日本の神にも形ができてきた。
以上が仏教と神道におけるお話

 

話は飛んで漢字に関して見てみたい。
漢字は元々、ある物を見てその絵を崩すところから生まれた(やや誤解のある言い方かもしれないけれど...)
これを踏まえて、先のソシュール的かキリスト的かという判断をすると、漢字も後者ということになる。

 

物体のイメージを記号化したものが象形文字であるため、その延長にある漢字は、
もともとイメージを字にしたのが象形文字であるなら、漢字は初めに物があって→それに名前をつけるというものであるといえる。
その漢字を基盤としてコミュニケーションをとる文化圏の人は、キリスト的な名づけの思考をしていたのかもしれない。
またまた話は跳んで、今度は現在のお話。
(話がとっ散らかっているけれど、そもそも雑記なのでご勘弁下さい)

僕たちはケータイの普及と共に顔文字を、LINEが普及してからはスタンプを多用するようになった。
僕はこれを選択肢の中から感情を選び、選択したモチーフの範囲で伝わる感情表現でやりとりする行為であると思っている。
スタンプを名付けとみなせば、名付けによって感情が表出したと見ることができる。

名付けることにより感情が表れると見ると、極めてソシュール的。
恐らく漢字が伝達し、ひらがなやカタカナが生まれて以来、日本の先人たちは自分の感情の機微を表すのに最もよい表現をずっと探してきた。
異論は承知だが、僕は感情をよく表す名を授けるという意味で、こちらをキリスト的と考えている。

 

選択肢の中から感情を選ぶことが当たり前の絵や文字によるコミュニケーションの世界において、選ぶことができない感情は存在しないものとして扱われる。
例えば同じ「おもしろい」という感情でも、細か鍬ければ「愉快」「可笑しい」「痛快」「滑稽」「小気味いい」「喜ばしい」などいくらでも細分化することができるが、「おもしろい」という言葉しか知らない人にとっては、全てが同じ「感情」として認識される。

一九八四年という小説の中で、ジョージ・オーウェンは国民の使う語彙を減らすことで彼らの思考力を低下させようとする「ニュースピーク」という言語を作った。
思考は言語があって初めて生まれるものである(こういうと文字の場合と文章の場合でソシュール的とキリスト的が入れ替わってしまうように聞こえるかもしれないが、文字の話と文章の話は違う次元の問題)あるならば、思考の元になる言語を奪えば、そもそも思考ができなくなるというわけだ。

 

であるならば、表現の多くにスタンプが浸透した、いわば「スタンプネイティヴ」のような世代が出てきたら、その便利さ故に持っている語彙力は極端に少なく、それに伴って思考力は低くなると思う。

 

で、これをもって世の中を憂うみたいな厭世家のような事をする気は全くない。
そうではなく、需要と供給の関係で考えれば、AI等の技術の発展でこれからは今まで以上に「考える」人が求められ、その中で思考力がある、つまり語彙力が豊かな人材は相対的に価値が高くなるだろうというお話。

 

だから、国語を勉強した方がいいんじゃないかなと思ったりする訳です。
と、自分のフィールドに無理やり落ち着けてみました(笑)
一眠りしたら、居酒屋探して飲みに行こう。

 

 

アイキャッチはまだ名前のないこの人(猫)

吾輩は猫である〈上〉 (集英社文庫)

吾輩は猫である〈上〉 (集英社文庫)

 

 

 

炎上は摩擦と多数決で発生する

※だいぶ酔った状態で音声入力したので、誤字脱字や意味が噛み合わない所がありますがご了承下さい(笑)

 

炎上は摩擦と多数決から生まれる。

これが僕の持論です。

これまでずっと当たり前のようにこの言葉を使ってきたのですが、先日知り合いと飲んでいた時に「何を言っているの?」というリアクションをされて、僕が言わんとしていることが全く伝わっていないことに気づきました(笑)

ここ最近の「岡崎体育さんのファン炎上事件」「のぶみさんの歌詞炎上事件」「予備校の先生の入試悪問炎上事件」を見ていて、僕が考えていた冒頭の白のちょうどいい具体例のように思えたので、言語化してみたいと思います。

 

「火事」は摩擦による火種と増幅装置(多数決)によって起こる

炎上は勝つ炎上は摩擦と多数決によって起こるというのが僕の持論ですが、摩擦には①意味言語と感情言語の摩擦、②生産者と消費者の摩擦、③利他的と利己的の摩擦の3種類があります。

 1つ目の意味言語と感情言語の摩擦に関しては、前回のエントリで書いたので詳しい説明は省きますが、言葉には客観情報のみを有する者と主観的な判断を含むものが存在していて、その両者を区別してコミニケーションを取る人々と、すべての言語を感情言語として捉える人がいます。

 1つ目の摩擦は、意味言語と感情言語を使い分けて語った人のツイートを、感情言語の解釈の範囲でのみ理解することによって生じる摩擦です。

 2つ目の生産者と消費者の視点と言うのは、その人がゼロからものを作る立場に立ったことがあるのかどうかと言うものに由来するものです。

仮にAという同じコンテンツであったとしめも作り手の立場に関わっている人と消費するだけの人では、それに対する評価はまるで異なります。

2つ目の摩擦はこれが原因で生じるものです。

最後の利他的と利己的の間の摩擦は、フランスの人が何を求めて行動しているかによって決まります。

例えば日ごろから自分の利益ばかりを考えている人にとっては、全ての行動は自分に還元があることを前提としています。

一方で他者を喜ばせることこそが信用の源泉である、あるいは価値の源泉であると言うことを知っている人は、自分の利益の前に、他者にどのような利益を与えることができるのだろうと言う風に考えて毎日を過ごしています。

 3つ目の自己的と利己的の間の摩擦は、この両者の間に生じるものです。

 Twitterの炎上を観察しているとそのほとんどがこの3つの摩擦をきっかけにしているように感じるのです。

 

C.S1 岡崎体育さん炎上問題

 ミュージシャンの岡崎体育さんがファンクラブの会費をお金で区別しようとしたことによって炎上が起きました。

岡崎体育さんの主張に対して、多くのTwitterユーザが、「お金は払えないけれども岡崎さんのことが大好きです」とか「好きと言うのはお金によって判断されるものなのか」と言うような視点からの批判が殺到しました。

もちろん「ファン」(自称岡崎さんのことが大好きです」とか「好きと言うのはお金によって判断されるものなのか」と言うような視点からの批判が殺到しました。

もちろん「ファン」と自称する人たちの主張がわからないわけではありません。

しかし彼らの言う「ファン」の主張は、極めて消費者的な視点であるように思えて仕方がないのです。

文章でも漫画でもアニメでも、ダンスでもイベントでも構いませんが、何かしらのものをゼロから作ったことがある人であれば、それを生み出すためにかかる費用や手間がどれほどのものであるかを知っています。

当然何かを作るためにはお金がかかるわけです。

「生産者」である人は、このことを見に染みてわかっています。

だからこそ、ファンは大切だけれどもと言う断りを入れた上で、ファンクラブにお金のシステムを導入したのだと思います。

一方でこうしたものを作ったことのない消費者の視点に立ってみれば、「なんで好きという「好意」でその人を見ているのに、それ以上の見返り(お金)を要求されるのか」、あるいは「ある人を応援したいと言う気持ちを持っているだけなのに、それはお金でランク付けされなければならないのか」という気持ちを持つのもわかります。

応援している人は100%その人に対する行為から行動しているわけです。

それをお金と言うわかりやすい形に変えてくれと言われたら腹が立つのもわかります。

一方でこれはあくまで「消費者」の視点です。

仮にどんなに夢を売っている仕事であったとしても「お金」という現実問題が目の前に常に横たわっていると言う事実を避けられないのが生産者。

そのことに意識がいかず消費者の論理で責めたのが今回の岡崎体育さん炎上問題だと思うのです。

このケーススタディーでは、岡崎体育さんと言う1人の生産者に対して数百数千人と言う単位の消費者の人が一斉に食ってかかりました。

この部分が僕が言うところの多数決。

岡崎体育さんの炎上問題は、生産者と消費者の視点の間の摩擦に多数決の論理が合わさって発生したものだと思うのです。

 

C.S2 のぶみさんの歌詞炎上事件

2つ目は絵本作家ののぶみさんが作った、子育てをするお母さんの気持ちを綴った詩の炎上問題です。

この歌が発表されるや否や、様々な人たちから子育てをするお母さんが自分の趣味を我慢して子供のために尽くしているとも取れる歌詞の内容に対して批判が集まりました。

この歌に対して作詞者ののぶみさんを擁護するようなコメントを様々な著名人がしていましたが、その人たちも一緒に炎上しているようなことも少なくありませんでした。

僕はこの炎上問題に関して、意味言語と感情言語の解釈の違いが根本的な理由にあると思っています。

もともと、母性だとかお母さんという言葉は、それ自体には評価や気持ちだとかいった感情が含まれている言葉ではない、つまりただの意味言語に過ぎません。

にもかかわらず多くの人がこの言葉に対して「子育てのおかげで自我を抑制せざるを得ない母親がかわいそう」だとか、「子供は母親が育てるのは当たり前なんて言う思想が透けて見えるような歌詞を書く事は悪である」といったような主観による判断が含まれる、つまり感情言語のロジックによる解釈がこの歌と作者の一連の発言に対して殺到してしまいました。

歌詞を意味言語と感情言語に分けてみると、実は作者の主義や主張といった「感情」が強く前面に出ているところは驚くほどに少ないことがわかります。

一方で、自分の思い込みによって、作者が意味言語として使おうとした言葉を全て感情言語として主観で判断すれば、前に述べたような理由における反感や反発はわからないわけでもないのです。

のぶみさんの歌詞の炎上は、感情言語ロジックで意味言語を解釈してしまう人が集まってしまった(=多数決)ことによって生じたものであると思うのです。

 

C.S3 大学入試、悪問題指摘炎上問題

 最後は、入試問題に関する炎上の事例です。

去年の終わりごろに、大阪大学の入試問題をめぐって、実は不正解のものも答えになるのではないかと言う議論が巻き起こりました。

話題になったおかげで大阪大学がその問題を見直し、それが合否の判断になっていた人々はすべて合格と言う措置が取られました。

これと似た事例は他にもないわけではなく、それに対して、ある予備校の先生が「京都大学も出題ミスがあるのではないか」ということを見つけ、それをマスコミにリークしました。

そのことに対して、「売名行為である」という言葉を始め多くの誹謗中傷が集まっていました。

「売名行為である」として批判した人のロジックを考えると非常に面白いことが分かります。

おそらくこの入試問題の間違いを指摘した先生は、売名行為をしようと思っていたという事はなかったのではないかと思っています。

純粋に、受験生がフェアな入学試験を受けることができるようになって欲しいと言う気持ちから出てきた指摘であると思うのです。

 

マズローの欲求階層説では、承認欲求と自己実現の欲求と言う2つが提示されていますが、このどちらに軸足があるかによって思考が全く変わります。

承認欲求とはあくまで自分を認めてもらいたいと言う欲求です。

ここにとらわれている人にとっては、その人の行動は全て自分の承認欲求を満たすための手段であると映ります。

一方で、自己実現の欲求を追求している人にとっては、自分の行動の原因は力が自分に戻ってくることではなく他者に対して何を与えられるかというところにあることがほとんどです。

おそらく、出題ミスを指摘した予備校の先生は、自己実現の欲求のところに 位置しており、本当に受験業界が自分の指摘によって変わればと思っていたのではないかと僕は思っています。

一方で、全ての行動は自分の承認欲求を満たすためにあるという解釈が当たり前である人にとっては、こうした人の行動は全て売名であったり、自分に有利になるような行動とったと目に移ります。

ここの部分に生まれた差異が、Twitter上では承認欲求を求める人が多かったせいで(多数決)延長と言う事態になってしまったのではないかというのが僕の持論です。

 

 

Twitterの面白いところはあらゆる人々が平等に発信する権限と受信する権限を持っているところにあると思っています。

だからこそ本来であれば交わるはずもなかったトライブにいる人同士(交わってはいけないトライブにいる人同士)が平然と、あたかも対等であるかのように触れ合うことができるようになったからこそ多くの問題が生じているのだと思っています。

炎上と言うのはここに原因の根っこがある。

本来交わるはずもなかった全く異なる価値観で動く人々が、数の力に物言わせて別の考え方の人を断罪する。

そこにあるのは善悪の区別ではありません。

あくまで「摩擦」と「多数決」のみ。 

これが僕の考える炎上という現象です。

 

アイキャッチは炎上の火中ののぶみさんの絵本

 

ママがおばけになっちゃった! (講談社の創作絵本)

ママがおばけになっちゃった! (講談社の創作絵本)

 

 

 

感情言語と意味言語〜ネットの炎上の仕組みを考える〜

僕は言語論を学んだことがあるわけでもないので、もしかしたらもうとっくにそんな区別は存在するのかもしれませんが、僕は言語について感情言語と意味言語の2つが存在すると考えています。

感情言語とは、人によって尺度の変わる主観的な気持ちを表す言葉のことです。

一方で意味言語とは複数の人が同一の判断を下すことができる客観的な情報を扱う言語のことです。

例えば塩と言う言葉に関して、「調味料である」や「白い」(色付きのものもありますが)というのは誰が見ても基本的に変わることがないので意味言語となります。

一方で「しょっぱい」や「おいしい」と言った言葉は、使う人ごとにニュアンスが変わります。

こういったものを僕は感情言語と呼んでいます。

 

「塩」を例にした場合は直感的にわかりやすいですが、これが抽象的な言葉になると区別が急に曖昧になります。

例えば責任と言う言葉。

「責任がある」という言葉がある現象に対して責任を負っていると言う事実を表します。

そこには善悪の判断が介入することがないのでこれは意味言語です。

一方で「悪い」という言葉は人によって解釈が異なるため感情言語と言うことになります。

この2つを合わせると「責任があるから悪い」とうことになるのですが、前者は意味言語で後者は感情言語であるため、それらをそのままイコールで結ぶことは適当ではありません。

本来であれば責任があると言う事実確認の後に、個人の解釈として良いか悪いかの判断がつくはずなのです。

 

誤解を恐れずにあえて言えば、僕はハイコンテクストの社会では、意味言語と感情言語が明確に区別されて利用されていて、ローコンテクストの社会では意味言語と感情言語の区別がないままに使われていると考えています。

これは別にどちらが良いとか悪いとか言う話ではありません。

僕の定義では意味言語と感情言語の区別がある所をハイコンテクストの社会、区別せずに使うことをローコンテクストの社会と呼んでいるだけです。

意味言語と感情言語の区別をする人同士の会話では誤解や問題が生じないのと同様に、意味言語と感情言語の区別がない者同士の会話であれば何の問題も生じません。

問題が生じるのは、意味言語と感情言語の区別をする人としない同士のコミニケーションが発生した時、つまりハイコンテクストとローコンテクストのコミュニティーの人が半ば事故的に出会ってしまった時です。

 SNSが発達した現在こうしたことが頻繁に起こるようになってしまいました。

 SNSにおけるやりとりは所属するコミュニティーやバックグラウンドを共有しない人たちとの出会いを容易に発生させます。

その声で言葉の認識のズレが生じて、そこから炎上が起こるように思うのです。

 

Twitterで意味言語と感情言語を区別して発した言葉を、意味言語と感情言語の区別をしないのが当たり前の人私が聞いたとしたら、発信者の意図しない受け取られ方をされると言う事は容易に起こります。

例えば意味言語と感情言語を区別して使う人が「責任はあるが悪くはない」と発言したとします。

意味言語と感情言語を区別しない人にとっては「責任がある=悪い」ということなので先の意見は成立しないわけです。

そのため、「責任はあるが悪くは無い」と言う発言をした人に対し、あいつは悪いことをした人の方を持つのだという誤解が生じるのです。

昨今のSNS上での援助を見ているとこうした違いが原因となっているものが少なくないように思います。

そしてこれらは根本的な意識の違いによる問題によるものなので(繰り返しますがそれが良い悪いと言う話ではありません)、解決することはないでしょう。

SNSが感情言語と意味言語を区別せずに使う人が大半であるのだから、それに合わせて感情言語中心に会話をするようにか、意味言語と感情言語を分けて考える人自身が、それに対する批判をものともしないメンタルを身に付けるかのどちらかしかないように思います。

少なくともここまでSNSが普及し、またさらに今後普及していくであろう社会では、意味言語と感情言語の区別がない判断をされると言うのが当たり前に少なくともここまでSNSが普及し、またさらに今後普及していくであろう社会では、意味言語と感情言語の区別がない判断をされる傾向が強まることは避けられないことです。

ハイコンテクストで物事を語る人間は、今後ますます公の場(誰でもアクセスすることのできるSNS上)での発信が窮屈になっていくのではないかと思うのです。

 

アイキャッチは炎上を物ともしない2人の対談本