新・薄口コラム

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



野良猫奇譚

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珍しく人なつっこい我が家の飼い猫ソラ(上)と逃げはしないケド嫌悪感をあらわにする母の実家の飼い猫ナナ(下)

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久しぶりに母方のばあちゃんの家に行った。

ばあちゃんの家にはナナというネコがいる。

爪を切るために病院に行けば自ら手を前に出し、お客の腕の中ではいつまでも大人しくしているという事で近所で礼儀のいいと評判のネコだ。

 よく僕の実家にいるソラと比較される。

自分で言うのもなんだがソラは行儀が悪い。

ケガをして倒れていたのを母が拾ってきたのだがうちに来たばかりは野良猫そのものだった。

父があげようとしたエサには見向きもせず、ひょいと食卓に飛び乗って父のサンマを取って逃げていく。

そんなのが当然だった。

あの時の父の切ない顔は今でも覚えている。

ときが経つにつれ幾分大人しくなりはしたが、それでも未だに行儀が悪い。

ソラは人が食事をしているとすぐによこせと言ってくる。

食べ物を渡さないとすぐに噛み付く。

 

高2の時あまりにも噛み付くので指先にアロエを塗って待っていたことがある。

案の定ソラはオヤツをあげなかった僕の右手に噛み付いた。

その時のソラの顔は今思い出しても面白い。

有吉並に顔のパーツが近づいていた。

5年間ソラと暮らしていて唯一の白星だ。

まあそんなソラと比べると一層ナナの大人しさが際立つ訳だ。


本当にナナは行儀がいい。

周りの人びとはナナは一度も怒ったりした事がないと思っている。

しかし僕は一度だけ,本当にその時だけだがあの何をされても怒らないナナが本気で怒ったところをみた事がある。


それは夏の暑い日の午後だった。

ばあちゃんが廊下で股を広げて寝ていた。

その広げた股の間でナナは丸くなっていた。

すやすや眠っていたように思う。

やがてばあちゃんの頭の方からすさまじいいびきが聞こえ始めた。

僕と母のいびきのうるささはきっとここから来ているのだろう。

そんないびきに迷惑そうに目を覚ましたナナだったがそのときは怒りもせずそこでじっとしていた。


時が経ちばあちゃんの地鳴りは収まった。

そしてしばらくすると
「ぷぅぅぅっ~」 という音が聞こえた。

もちろん頭でなく尻からだ。

同時に 「ニャッッー!!?」 という叫び声が廊下に響いた。

股に挟まっていたナナには相当こたえたのだろう,振り向いた時にはナナの牙がばあちゃんの太腿に食い込んでいた。

今度は 「ぎゃっっー!!?」 という悲鳴があがる。

ばあちゃんが痛みで跳び起きた。

その時のばあちゃんは何が起こったのかわからないという表情をしていた。


それ以来ナナの怒った姿は誰も見ていない。

おそらく理由まで含めて怒ったナナを知っているのは自分だけだろう。

ナナを抱きながら僕はふと思いだし笑いをした。

 

受験勉強で有利に戦うための「超」基本スキル

「受験勉強に最も有効なものは、社会人の1年目に習う超初歩の仕事スキルである」というのが僕の持論です。
恐らく、普通の仕事をしている社会人の人ならば、並の高校生と同じだけの勉強量を積めば、たいていの場合行きたい学校にいけると思うのです。
裏を返せば、それくらい社会人と高校生の仕事(受験生の場合は勉強)のマネジメントのスキルに差がある。
だからこそ、社会人が当たり前のようにやっている仕事管理を受験に持ち込めば、非常に有利な戦いができると思うのです。

僕が思う受験勉強が有利になるための社会人の仕事スキルはコスト意識とマルチタスク・マネジメントとKPIの設定。
これに加えて日頃から生産性の意識を持っていたら尚良し。
この辺を普段の学校生活で身につける機会はほとんどないため、これらをしっかりと意識することでかなりの勉強効率の改善が見込めます。
コスト意識とは、限られた予算の中で何をするのが効果的であるかと考える思考です。
受験勉強の場合、予算に該当するのが「時間」です。
勉強計画を立てさせると、殆どの子が「数学に〇時間、英語には×時間必要で国語には△時間…」というように計画を立ててしまいます。
で、いざやるべきことを書き出した時点で、その計画は履行不可能である事に気がつく。
これを僕は予算積み上げ型の学習計画と呼んでいます。
仮に使えるリソースが無尽蔵に存在しているのであればこういう計画でもいいかも知れませんが、仕事の上では殆どの場合使えるリソースは限られています。
だから社会人はそのリソースの中で何ができるかを考える。
一方で学生さんはこうした考え方になれていません(というかむしろ学校の中でコスト積み上げ型の計画ばかりを見てきている傾向がある)。
勉強の計画を立てる上で重要なのは「限られた時間の中で最大限の効果を発揮する手段」を考えること。
コスト意識の有無は、勉強の結果に非常に大きな影響をもたらします。

次に僕が重要であると思っていることがマルチタスク・マネジメントです。
受験生を見ていると、やる気に任せて無計画に勉強をしている人を多く見かけます。
もちろんモチベーションは大切ですが、多くの場合、受験では複数の科目の実力が必要になってきます。
であるならばやはり、複数の仕事を上手くさばくためにマルチタスク・マネジメントを意識する必要があります。
ちきりんさんが以前ブログで書いていましたが、社会人になると殆どの職業において様々な仕事を同時並行で進める必要があります。
どれか一つができてもあとの全部が期限切れでは仕事は成り立たないわけです。
勉強も全く同じ。
やる気や好き嫌いで動くのもいいですが、結果他の科目の実力が伸びなければ意味がありません。
そのため、雰囲気やその場の感情に流されず、複数の科目を同時に学習できるようにしっかりと計画を立て、それに基づいて勉強を進めていく必要があります。

3つ目に重要なことがKPIの設定。
どうしても学校生活では成果をすぐに求められることがほとんど。
そのためこちらも学校ではあまり身につかない考え方です。
受験勉強は大体1年以上をかけた戦いです。
もちろん途中で模擬試験が何度もありますが、全内容が出題範囲である試験で毎回明確な成果を出し続けることは容易ではありません。
そのときに重要になってくるのが、KPI(Key Performance Indicator)の設定です。
KPIを受験勉強に当てはめるのであれば、短期的な勉強の結果を数値で判定すこととなるでしょう。
例えば何月までに単語を何語覚えるとか、いつまでに〇〇という単元はセンターの過去問で間違えないようになるといった形。
何となく頑張るというような抽象的なことではなく、あくまで数値で達成の可否が測定可能で、かつ測定手段のある指標で目標を立てる。
長いスパンでの勝負となる入試の勉強では適切にこの計画が立てられることが非常に重要になってきます。

コスト意識を持っていて、マルチタスク・マネジメントができ、自分でKPIを設定できて、1年くらいの猶予があれば、まあ行きたい大学にいけるように思います。
さらに勉強に対して生産性の意識を持って取り組むことができればさらに合格は現実的になります。
これらはいずれも社会人としてはごくごく当たり前のスキル。
1年目に習う、というかそれがなければとても仕事で使い物にならないくらいに重要な考え方だと思います。
ただそれは、利益や成果を求められる環境に身を置かねばなかなか教えてもらえません。
だからこそ受験生でこれら全てを一定水準で持っている人は少なく、だからこそ、こうした考え方を受験勉強に取り入れることで周囲に大きな差をつけることができると思うのです。
受験勉強はそれまでの「学び」というよりも会社における「仕事」に近いものです。
だからこそ「仕事」の論理で向き合うことが有効な戦略となるのです。

 

アイキャッチは英語のカリスマ関正夫先生の参考書

 

 

10年前と比べて、女の子の見た目とラーメンの味って格段に進化していると思う

日本の最大の強みは、外からパクってきたものを芸術の域まで押し上げること。

昔何かの番組でコメンテーターが言ったこの言葉に、思わず膝を打った記憶があります。

確かに、天ぷらにせよすき焼きにせよ、元は海外から入ってきたものなんですよね。

それが日本という風土の中で独自の進化を遂げる。

その変化が非常に面白い気がします。

 

先日、某大手会社のマーケティング部で働く先輩とご飯を食べた時、「ラーメンってこの10年で進化したよな」という話になりました。

彼曰く、俺らの子供の頃と比べて、明らかにラーメンのクオリティが上がっているとのこと。

これを聞いて、先ほどの「日本の最大の強みは外からパクってきたものを芸術の域まで押し上げる」という言葉を思い出しました。

天ぷらもすき焼きもすでにある程度進化をした後の物なのに対し、ラーメンは現在進行形で芸術の域まで押し上げられようとしている料理。

そういう意味で、非常に面白い料理であるように思うのです。

 

僕らが小さい頃(10年くらい前)のラーメンといったら、醤油ベース(あってもせいぜい味噌か塩)のスープに卵とメンマと薄切りチャーシュー、それにナルトが乗っているというのが一般的なイメージです。

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(浜松市 「楊子菜館」さん)

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(京都市 「ラーメン壱番館」さん)

どちらも僕が好きなラーメン屋さんの写真ですが、見た目はとても普通です。

10年くらい前までのラーメンといえば、これが当たり前だったように思います。

 

 

ゼロ年代半ばになってくると、鶏ガラや豚骨、そしてこってり系ラーメンやつけ麺、魚介系ラーメンといったものが流行り出します。

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(大阪市 「博多ラーメンげんこつ」さん)

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(京都市紫野 「楽楽楽」さん)

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(鹿児島 「鹿児島ラーメン豚とろ」さん)

あくまで僕の肌感覚ですが、この辺りから途端に味のバリエーションが広がったように思います。

ITが普及して食べログのようなサービスができたことで、珍しい(もちろん美味しい)お店があると、瞬く間に噂が拡散するようになったことが、ラーメン店のバリエーションが増えたことの一因ではないかと思っています。

 

 

ラーメンのバリエーションが多様化するという流れは、SNSが広がった辺りからより顕著になります。

SNSの普及により、より口コミの力が強化されることで、様々なお店が発見されやすくなります。

僕が富山の「富山ブラック」や青森の「味噌カレー牛乳ラーメン」を始めとした、地方のラーメンを知ったのは完全にSNSがきっかけ。

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(富山ブラック 富山市「西町大喜」さん)

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 (味噌カレー牛乳ラーメン 青森市「味の札幌」さん)

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 (岡山市 「ぼっけゑラーメン」さん)

尖ったラーメンや、インパクトのあるラーメンは口コミで拡散されやすくなります。

90年代半ばにできてゼロ年代に広がり始めたとされる家系ラーメンですが、本格的に広がり出したのは、実はこの辺りで、きっかけはSNSによる学生界隈での口コミの拡散にあるのではないかと思っています。

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(一乗寺 「夢を語れ」さん)

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(草津市 「風花」さん)

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 (草津市 「にぼ次郎」さん)

 

そして、スマホの写真機能が発達し、インスタを始めとした写真を投稿するサービスが広がった現在は、さらにラーメンのバリエーションが多様化してきました。

味や独自性に加えて、その「見た目」も重要になってきました。

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(熊本ラーメン 草津市「せからしか」さん)

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(牛骨ラーメン 京都市「長しま」さん)

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(ハマグリラーメン 十三「クソおやじ最後の一振り」さん)

 

 

もちろんデバイスがでてきたから、それにあったラーメンが作られるようになっただなんて思っていません。

あくまで今回はすでにあるラーメンを時系列に並べただけ。

ただ、こうしてみて見ると、間違えなくこの10年で新しいラーメンが開発されているように思います。

学生時代に中国へ留学したとき、本場のラーメンを楽しもうと思いお店に入ったら、あまりの違いに驚いたことがありました。

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(中国大連 「?????」さん)

 これはかなり日本の味に近いものですが、実際はもっとシンプルで、僕たちの知っている「ラーメン」とはかけ離れたものでした(それはそれで美味しかったですが 笑)

 外からパクってきたものを芸術の域まで押し上げる。

それが現在進行形で行われている(しかも様々な外部環境を踏まえて進化している)ラーメンというジャンルは、観察対象として非常に面白いように思います。

倉木麻衣『渡月橋~君 想ふ~』考察~「想う」と「思う」の使い分けと本歌取りの意図を読む~

千早ぶる 神代もきかず 龍田川 からくれなゐに 水くくるとは (在原業平

さまざまなことが起こったという神の世界でもそんなことは聞いたこともありません、まるで唐紅のくくり染めに見えるほどに紅葉が竜田川を真っ赤に染め上げるだなんて。

 

百人一首の中に収録されているこの歌。

倉木麻衣さんの『渡月橋~君 想ふ~』を聞いて、久しぶりにこの和歌を思い出しました。

今年の春に公開された映画版名探偵コナンの主題歌であった『渡月橋~君 想ふ~』。

初めて聞いたときは、何で渡月橋流れる桂川が紅葉で真っ赤に染まるのか分からないという印象だったのですが、先日用事で嵐山に行った時に、ふと別の解釈もできることに気がつきました。

で、そのためには「千早ぶる 神代もきかず 龍田川 からくれなゐに 水くくるとは」の和歌の背景を知っておくことが重要ということで、冒頭で引用しました。

まずこの歌と和歌は本当に関連があるのかと言うことですが、それはこの歌をエンディングに起用した劇場版名探偵コナンの重要なヒントの一つとなっていたこと、歌詞に「から紅」「水くくる」という言葉があることから、この和歌を意識して作られたと考えるのが妥当でしょう。

ということで、以後、この歌は「千早ぶる~」の和歌を元に作られているという前提で考察していきます。

 

「千早ぶる 神代もきかず 龍田川 からくれなゐに 水くくるとは」の和歌は、在原業平が屏風絵を見て詠んだものとされています。

屏風絵に描かれた紅葉の葉っぱで真っ赤になった龍田川。

それを見て、在原業平が「そんな素晴らしい光景は神々がいた時代でさえも聞いたことがない」と表したものです。

僕はこの「神々がいた時代でさえも聞いたことがない」という部分が、『渡月橋~君 想ふ~』を理解する上で非常に重要だと考えています。

 

渡月橋~君 想ふ~』の歌詞を見てみると、3つの時間軸が入り混じって構成されていることが分かります。

ひとつ目が冒頭の〈寄り添う二人に 君がオーバーラップ〉から始まる、主人公がいる現実の時間軸。

そして次が1番のBメロ〈君の言葉忘れないの〉や2番のAメロ〈いにしえの景色 変わりなく〉というところに表れる、当時「君」と一緒だった過去の時間軸。

そして最後がサビの中に出てくる、「から紅」の和歌によって表される架空の時間軸です。

僕はこの歌について、この3つの時間軸をいったりきたりしながら主人公が「君」の事を想っていると考えることで、自分なりに納得のいく理解をする事ができました。

 

まず一番のAメロ、現実の時間軸で主人公は寄り添って歩くカップルを(おそらくかつて「君」と歩いた嵐山で)見かけて、そこに当時の「君」との思い出をオーバーラップさせています。

その姿をみてさまざまなことを思い出すのが1番のサビの手前まで。

そしてサビに入ると未来へと思いを馳せた場面に移行します。

1番のサビで和歌に関する背景が生きてきます。

〈から紅に染まる渡月橋 導かれる日願って〉という部分は、もしも渡月橋からみえる川の景色がから紅に真っ赤に染まったのなら、もう一度「君」に会いたいと主人公が願っていると捉えることができます。

と、同時に「千早ぶる~」の和歌では、上の句で「神代もきかず」と言っているように、そんなことは現実世界ではありえないということをこの主人公は知っており、その上で、もし渡月橋が真っ赤に染まったなら、「君」に会いたいと願っていると捉えることができるのです。

これらの要素から、一番のサビには、もう会えないと分かっている主人公が、それでも「君」に会いたいと想い続ける心情が読み取れます。

 

2番のAメロは、再び過去の時間軸で情景が描かれています。

〈いにしえの景色変わりなく 今この瞳に映し出す 彩りゆく季節越えて Stock覚えていますか?〉

初めて聞いたとき、僕はこの部分をはるか昔のこととして捉えていたため、どうしても意味が繋がりませんでした。

しかし、〈いにしえの景色〉を「君」と一緒にすごした日々と考えると、内容が繋がります。

かつて一緒に見た景色を、季節が変わったけれど「君」もまだ覚えてくれていますか?

〈Stock覚えていますか?〉にはそんなニュアンスが込められているように解釈できます。

そしてBメロでは再び主人公が会いたいという心情を吐き出し、2番のサビへと繋がります。

 

2番のサビでは再び和歌に重ねていつかあなたにまた会いたいという思いを歌っています。

〈から紅に水くくるとき 君との想いつなげて〉

ここは紅葉の葉が川を括り染めのように真っ赤にすることがあったなら、「君」と想いをつなげて欲しい。

やっぱりここには和歌の上の句にある「千早ぶる 神代もきかず 龍田川」の部分に出ている「そんなこと神様がいた時代にも聞いたことがない」というニュアンスが言外に含まれています。

そして〈いつも君を探してる〉と結ばれる。

 

そのあとCメロで再び自分の心情を語り、最後のサビに繋がります。

1,2番のサビが「千早ぶる」の和歌になぞらえた未来の時間軸であったのに対して、最後のサビは現在の自分の視点で描かれています。

〈から紅の紅葉たちさえ 熱い思いを告げては ゆらり揺れて歌っています〉

この歌詞で注目すべきは「思い」という言葉です。

それまでは「想い」であったのに、最後だけは「思い」となっています。

(僕が見た歌詞サイトの誤植である可能性は捨て切れませんが…)

「想い」という言葉には、「心に思い浮かべたもの」という意味があります。

それに対して「思い」の場合、しっかりとした意思のようなニュアンスが出てくる。

それまでは和歌の上の句をにおわすことで、「君」と再び一緒になることを「不可能なこと」として、自分の中で「想う」だけであったのに対し、最後のサビでは〈から紅の紅葉たちさえ 熱い思いを告げては〉と、「思い」を告げることに言及しています。

つまりこの歌の主人公は、現在の景色を見たり過去を回想したりする中で、「君」のことを考え、最後は「想い」を秘めるだけでなく、「思い」として伝えようとしているのです。

そして、初めの勇気の無い主人公を伝えるために和歌の一部を本歌取り(和歌の技法の一つで、ある歌の一部分を歌の中に引用することで、その歌の言外にある筆者の意図を伝えようとすること)の要領で引用している。

っというのが僕の『渡月橋~君 想ふ~』という曲に対する解釈です。

もしかしたら全く以って的外れかもしれませんが、あくまで見方の一つとしてまとめてみました。

 

いかがでしたでしょうか?

(↑この前、永江一石さんがこの締め方をするウェブの記事をディスっていたので、便乗して使ってみました 笑)

 歌詞はこちらから(渡月橋 ~君 想ふ~ 倉木麻衣 - 歌詞タイム

 

アイキャッチはもちろん渡月橋~君 想ふ~』

渡月橋 〜君 想ふ〜 (初回限定盤) (DVD付)

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「正しい」で語る人、「正しさ」で語る人。

僕はこの数年、「自分の主義主張を優先しない」を、モットーに生きています。

これは決して自分の意見がないだとか、主体的でないというわけではありません。

そうではなくて、ひたすらに「正しい」を正確に捉えたいと思っているからです。

あらゆる物事を判断する際に、僕は「正しい」と「正しさ」があると思っています。

「正しい」とは物事のありのままを捉えることで、「正しさ」とは自分がそうあるべきと信じる物にのっとって捉えることです。

例えば、人種差別に関して、「正しさ」で言えば「人種差別はなくなるべき」となりますが、「正しい」でいうと、「そうはいってもみんなどこかで差別意識を持っている」というようになります。

言葉の対比の観点から便宜上「正しい」と言っていますが、どちらかというとニュアンスとしては「現状」に近いかもしれません。

 

僕は基本的にあらゆる場面で、仮にそれが自分の意見と異なっていても「正しい」を選択するようにしています。

問題解決の大前提は、物事を正確に把握することだと思うからです。

何かについて議論していると、たまに自分の意見を守ることが(無意識に)前提となっている人に出会います。

自分の意見を守ることが先に来ている人はどうしても出てくる解決策の部分が弱くなってしまう。

入り口の時点で「現実はこんなもんだよね」という部分が置き去りになっているからです。

「正しさ」で語る人は、現状をこう変えたいという、自らがゲームメイカーになって動かしていく場合には非常に強さを発揮しますが、逆に、自分が大きなルールの中で勝負していくような場面では、判断を誤りやすくなってしまいます。

 

僕が最近よく考えるものの1つに、TOP&NO.2論があります。

組織でもチームでもプロジェクトでもいいけれど、あらゆる複数人が関わって進めていく物事において、どういうポジションの人が先頭に立っているとうまくいくかというお話です。

TOPとNO.2の考え方を「正しさ」と「正しい」の2つで分類すると、構成は次の4パターンになります。

①TOP→正しさ NO.2→正しさ

②TOP→正しさ NO.2→正しい

③TOP→正しい NO.2→正しい

④TOP→正しい NO2→正しさ

もし①のようにお互いに正しいことを信じるタイプであったとすると、主義主張が非常に近しい場合は別として、基本的には意見が対立し、空中分解を起こします。

また仮に、主義主張が近いとしても、あまりにそれを優先するあまり、現実を捉え間違えて、誰に刺さらないアウトプットを生み出すことになりかねません。

次に③を見てみると、この場合だと「正しい」ことを選択するため、手堅いけれどスケールしないものが生まれやすくなります。

 また「正しい」は徹底的に自分の意見を排除する必要があるため、物事を動かすための推進力が生まれづらくなり、組織が展開しにくくなります。

まずいのは④のTOPが「正しい」を追求し、NO.2が「正しさ」を追求する場合です。

本来TOPを支えるために的確なアイデアを提示するのがNO.2の役割。

それが自分の主義主張を優先し始めると、組織としての方針がブレ始めます。

また、TOPは「正しい」を優先しているため、いちいち主張が食い違い、NO.2の不満を増やしてしまいます。

結果として組織全体が常に不満の爆発しやすい危険性を孕むことになるわけです。

僕が最も理想的な組織の形であると思っているのが、②のTOPが「正しさ」を追いかけ、NO2が「正しい」を大切にする場合です。

この形だと、TOPが推進力を担保し、一方でそのために弱くなった戦略性をNO.2が補えるようになります。

 

僕は個人として動く場合にはそれなりに自分の「正しさ」を大切にしますが、人のプロジェクトに参画する場合は、徹底的に「正しい」側に寄るようにしています。

そして、「正しい」から導いた自分の意見を決して押し通そうとしない。

自分自身がTOPに立つことが好きではないということもあって、僕はTOPの人に重宝されるNO.2というものをよく考えています。

現時点でのその答えが「正しい」を追求する人なのです。

大抵の場合、熱量のある人ほど上の立ち位置になるので、勢いのある組織ほど①になりがち。

だからこそ、そこで自分の意見は一旦棚上げして、「正しい」を正確に把握できる人材は、(特にTOPに)重宝されると思うのです。

そんなわけで、ひたすら正確に「正しい」を捉えることができるように物事に向き合う今日このごろ。

テクノロジーに最適化する

僕はテクノロジーを人間に最適化するという考え方に懐疑的で、むしろ歴史上の流れを振り返れば、大きな革命が起こったとき、人間がテクノロジーに最適化してきたという事実があると考えています。

これまでの大きな革命といえば農業革命と産業革命がありますが、僕たちの祖先は農業革命を通して、移住から定住に、その日暮らしから収穫時期に合わせた暮らしに、そして、小規模のまとまりから集団生活へとその生活のしかたを変化させてきました。

これは、農業という大きな「発明」によって、完全に生活スタイルが変化した例といえます。

農業において最も重要なことは、収穫時期に次の収穫時期まで生き延びることのできる食料を確保すること。

そのため、人々の生活は日の出入りや四季に合わせたものになりました。

また、個人で行う狩猟とは違い、農業は集団で行うことでより効率的になります。

したがって集団で過ごすようになり、かつ優秀な指導者が一定規模の人たちを束ねるようになります。

 

同様に産業革命を経て、僕たちは自分たちの生活をテクノロジーに最適化してきました。

産業革命の最大の発明は「蒸気機関」、人間以外の動力の発見です。

1人の人間が担っている全工程を蒸気機関が一度に担うことはできませんが、行程を細分化し、それぞれにあった単一の動きをし続ける機械を生み出せば、結果として1人の人間が生み出していた製品を機械によって生み出すことが可能になります。

僕はこれが産業革命の重要なポイントで、これを実現するために産業革命以降あらゆる分野で行われてきたことは「行程の細分化」であると思っています。

あらゆる行程を細分化することで、技術を代替可能なものにしてきました。

たとえば、ある機械のパーツが壊れても、すぐに同様のパーツと取り替えれば、全体としてすぐに復帰するという具合です。

これは機会だけでなく、人間にも当てはまります。

様々な仕事を部署で分けることで、「その人がいなければ成り立たない」ものから、「どんな『労働力』でも代替可能」なものにしてきました。

色のついていない「素材」を大量に採用し、様々な部署に配置する新卒一括採用は、まさにそうした思想の基づいている制度だと思うのです。

 

農業革命、産業革命を通して僕たちは生活のスタイルをテクノロジーに最適化してきたということを考えると、今日のIT革命の中でも、恐らく僕たちは生活をテクノロジーに合わせて最適化していくことになるはずです。

実際に、パソコンやスマホなしに今の生活は考えられないことからも分かるように、既にミクロな部分では、最適化をしつつあります。

ただ、僕が興味のあるのは、もっと大きな枠組みの部分。

農業革命でいうところの「時間概念」、産業革命でいうところの「細分化」のように、IT革命によって生まれるコンセプトのようなものがあるように思うのです。

それをいち早く見定めて、そこに向かって自らを「最適化」することができれば、今後、面白い立ち位置がとれるように思うのです。

そのコンセプトの可能性として「多動力」や「評価」、「好奇心」みたいなものが上げられますが、僕はどこかしっくりこない気がしています。

もっと、端的で(そしてそれは恐らく期待するポジティブなものではないもの)があるのではないかと思うのです。

話上手の「作り方」

円滑なコミュニケーションは実は簡単で、僕はコミュニケーションとは相手に何かを押し付けることと自分が引き受けることのシーソーゲームであると思っています。

相手に引き受けてもらう自分の話の総量と、相手が話したい内容を引き受ける自分側の分量が等しければ、それは円滑なコミュニケーションになり、相手よりも自分の方が引き受ける分量が多ければ、その相手にとって自分は「話を聞いてくれる人」ということになります。

コミュニケーション能力について、しばしば「話すのが上手い人」という認識がされますが、実態は巧みに相手を話しの主役にできる人が「コミュニケーション能力の高い人」という評価を貰っているように思うのです。

 

話が上手い人が、相手よりもしっかりと話に耳を傾けることであるとしたら、コミュニケーション能力が低い人というのは、「自分の話ばかりをする人」ということになります。

僕はこの「自分の話ばかりする」には、相手に無理やり話を聞くことを共用させるタイプと、相手が話を聞かざるを得ない状態にさせてしまうタイプの2通りの種族がいると思っています。

僕はそれぞれマウンティングタイプ、メンヘラタイプと呼んでいます。

 

マウンティングタイプに関しては会話において相手を「負かそう」としがち。

誰かが話しているときに自分のエピソードをかぶせてきたり、相手を論破しようとしたりするタイプがここに該当します。

相手は話が面白いから「聞き手」を引き受けてくれているわけではなく、「聞かざるを得ない」から聞いてくれているというのが最大のポイントです。

マウンティングタイプの会話が生まれやすいのは、年齢的に差がある場合や、立場的な差がある場合。

聞き役と話し役の比率が歪んでいるだけでなく、会話のコンテンツ以外の部分で「聞かざるを得ない」状況を作っているため、会話をしていて聞き手には大きな負荷をかけています。

いつも会話をする人が後輩や若い人ばかりという人は注意が必要です。

 

もう一つのメンヘラタイプとは、自分は悲劇のヒロインであるというアピールをすることで周囲に無理やり聞き役を強いる人たちのこと。

通常、自分の話に興味を持ってもらうことはそんなに簡単ではありません。

しっかりと相手の興味の範囲で話題を考えなければ、自分の話に耳を傾けてもらうことは容易にはできません。

しかし、不幸アピールだけは別。

自分がいかにつらいかというアピールは容易に相手の関心を惹きつけることができます。

目の前で「自分はこんなにつらい境遇なんだ」という会話をされれば、周囲は聞かざるを得ないからです。