新・薄口コラム

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



珍走団がよくて、ダサい族がダメな理由

朝起きたらふと頭に浮かんでいた「珍走団」という名前。

確か2チャンネルで生まれた暴走族を指す呼び名だったと思います。

これとは別に、10年前くらいに沖縄の宜野湾署が暴走族を撃退するためにつけた「ダサい族」という名前。

珍走団」はなるほど!ってなるのに、「ダサい族」はえっ...?ってなってしまう。

この両者の違いが気になってずっと頭の思考容量を食い続けていたので、いい加減鬱陶しくなって文字に起こすことにしました(笑)

 

珍走団」がよくて、「ダサい族」がなぜダメなのか?

僕の午前中の仕事のパフォーマンスをほぼ犠牲にしてたどり着いた答えは「悪意のない嘲り」の有無という部分でした。

珍走団」には「悪意のない嘲り」があるんですが、「ダサい族」にはそれがないんですよね。

というか正確にいうと、「ダサい族」という名前には、「悪意」があって「嘲り」がないのです。

 

これはあくまで僕の感覚なのかもしれませんが、「珍走団」という呼び方には、高いところから異物をみているような、徹底的な見下しを感じます。

(なぜ「珍走団」からそんな印象を受けたのかは言語化できていませんが...)

それに対して、「ダサい族」というのは、名付けようとした大人の「あいつらを潰してやりたい」という敵意みたいなものが如実に表れているんですよね。

「敵意」というのは自分が相手を視界に入らねば生じ得ない感情です。

つまり敵意を抱く時点で、相手を自分と同じフィールドで扱うことになるわけです。

 

珍走団」という呼び方には、そもそも視野にも入らない変なカタマリという印象があります。

同じフィールドと認識することもなく、でも確かに「嘲り」の意図を感じる。

珍走団」という言葉はそんな印象を含有していると思うのです。

 

暴走族の気持ちは僕には分かりませんが、その行為には少なからず「かっこいい」とか社会に対する反発みたいな意味が含まれているように思います。

だから、①そもそも同じ立場だと認識しもしない立ち位置から②圧倒的な悪意を感じさせるという「珍走団」の方が圧倒的に優れていると思うのです。

それにしてもつくづく「悪意のない嘲り」を当然のごとくに生み出せる2チャンネルははやっぱり有能だなあと思います。

 

BUMP OF CHICKEN『ロストマン』考察~現実を知って尚夢を追いかける男の物語~

基本的にひとアーティスト1作品にしようと思っていたのですが、ついつい『宇宙飛行士への手紙』、『乗車権』に続いて3作品目に手をつけてしまったBUMP OF CHICKEN

そのくらいに好きだったりします。

藤原さんの書く歌詞が、時に物語的で頭の中に鮮明に絵が浮かんだり、時に哲学的な歌詞でそれまで言語化できていなかったモヤモヤを解像度の高い言葉で表してくれたり。

そんなBUMP OF CHICKENの『ロストマン』が箱根駅伝のテーマソングだったそうで、ひょんな事から知人とツイッターで盛り上がり、そりゃ僕も考察エントリを書かなきゃいけないだろうというわけで、久しぶりに歌詞考察をしてみました!

 

因みにきっかけとなったしもっちさんの考察記事はこちらです!

(https://note.mu/shimotch/n/n5b2db2005b27)

 

 

 

夢を叶えた先の世界って、どんなだろう?

僕が『ロストマン』を好きになったのは、この数年でした。

高校生の時のお気に入りは『車輪の唄』や『プラネタリウム』、大学生の頃は『レム』や『ハンマーソングと痛みの塔』など。

ここ最近になって『ロストマン』が急に好きになったのは、自分がある程度辿った道を振り返るような年齢になったからなのかもしれません。

ロストマン』に出てくる「僕」から「君」への語りに、どこか自分を投影するような部分があるのです。

 

<状況はどうだい 僕は僕に尋ねる 旅の始まりを 今も 思い出せるかい>という語りかけから始まるこの曲。

これは後の歌詞で「僕」と「君」に分かれるところからも分かることですが、尋ねる「僕」は現在の自分、そして語りかけられる「僕」は昔の自分という構造になっています。

そして、『ロストマン』は今の僕の立ち位置から過去の自分へ語りかけるという形で続いていく。

 

<選んできた道のりの 正しさを 祈った>

「選んできた」という過去の振り返りがあることから、今の自分の気持ちと判断するのが妥当でしょう。

僕がいいなあと思うのは、ここで「祈った」という言葉が用いられているところ。

自分は一生懸命進んできたけれど、その道が本当に正しいのかという不安が現れているようにも感じます。

そしてもう一度Aメロが繰り返されて、一気にサビに突入します。

 

<破り損なった 手造りの地図 辿った途中の 現在地>

僕はこの曲を、「昔の夢を叶えその世界に入り、ある程度うまくいっているけれど、様々な現実に出会って迷いや不安を抱えている主人公の等身大の気持ち」ではないかと思っています。

「手作りの地図」というのは、夢を追いかけていた当時の「僕」が思い描いていた未来。

それを「破り損なった」という言葉で修飾しているのは、いろいろな現実の問題に向き合いながら、昔描いた理想の中には捨てざるを得ないことも多かったけれど、未だに当時の自分の「想い」が捨てきれないでいるということの象徴であるように思います。

その当時の「僕」が考えた未来からみたら、今の自分はどんなところにいるのだろうと思いを馳せるのがこの部分。

そして歌詞は<動かないコンパス 片手に乗せて 霞んだ目 凝らしている>と続きます。

「コンパス」が自分の指針(目標)のメタファーだとすると、それが「動かない」というのは、自分の目標を見失ってしまったということだと思うのです。

初めはこの世界に入りたい(恐らくはミュージシャンになりたい?)と憧れだけで頑張っていたけれど、いざその世界に入り、そこである程度の成功を収めたからこそ、様々なしがらみが生じて、自分がやりたかったことがわからなくなっている。

僕はそれが、「動かないコンパス」で「破り損なった手作りの地図」の上に現在地を探す作業だと思うのです。

次の<君を失った この世界で 僕は何を求め続ける>と続く歌詞にもそれは現れています。

こんな感じで、今の自分の立ち位置が分からなくなった状態で2番へと向かいます。

 

<状況はどうだい 居ない君に尋ねる>

ここでも、「居ない君」というように、以前その世界に憧れたであろう当時の「自分」は切り離されています。

 

<忘れたのは 温もりさ 少しずつ冷えていった>

異論があるのは承知ですが、僕はこの表現を情熱が冷めつつある主人公の辛さみたいなものかと思いました。

実際にその世界に入ることで様々な現実と向き合わねばならず、夢だけで突っ走った当時の様な熱量だけでは進んでいけない。

そんな今の「僕」の気持ちが表れているのではないでしょうか。

そう考えると、次の<どんなふうに夜を過ごしたら 思い出せるのかなぁ>に、非常にスムースにつながると思うのです。

 

 2番目のサビにある〈強く手を振って 君の背中に サヨナラを叫んだよ〉

僕がこの歌で最も好きなのはこの部分です。

「君の背中に手を振った」というのは、夢を追っていた当時の「僕」から、実際にその世界に飛び込んで、そこで成功するという覚悟を誓った言葉であるというのが僕の解釈。

憧れで走ってきた少年の「君」とは決別し、本気でその世界で勝ちに行く「僕」の決意表明。

そんな意味がこの部分にはあるのかなあと思っています。

そして〈そして現在地 夢の設計図 開く時はどんな顔〉と続く2番のサビの後半。

そんな現在の自分の葛藤がここでも見え隠れします。

 

そしてCメロでかつての自分に対する懐古をはさみ最後のサビへ。

ここで注目したいのは〈不器用な旅路の果てに正しさを祈りながら〉というフレーズに表れる主人公の心境の変化です。

「正しさを祈る」という表現は冒頭でも登場しますが、ここでの使われかたとは対照的です。

一番のAメロでは、「歩んできた道のりの正しさ」つまり、過去を否定したくないというネガティブな祈りでした。

一方でここでの「祈り」は「道のりの果てに正しさ」があることを祈るという、将来への希望になっています。

つまりこの時点になって行き先が分からずに立ち止まっていた主人公が再び前に進む決意をしているということなのです。

そしてそんな意識の転換の後に最後のサビへと続きます。

(本当は〈僕らが丁寧に切り取ったその絵の名前は思い出〉という「僕」と「君」の思いが一致する部分もあれこれ書きたいのですが、文字数が多すぎるので泣く泣く省略...)

 

〈強く手を振って あの日の背中に〉

ここは2番目のサビと同じ入りをしますが、意味合いは先ほどと全く異なっています。

2番目の部分では、どちらかというと当時の自分に手を振って進んでしまった自分への後悔のようなものが感じられました。

しかし、こちらではもう一度前へ踏み出そうという決意が感じられます。

これはCメロでの心情の変化をふまえたものでしょう。

再び進むことを決めた主人公が当時の自分に「サヨナラ」を告げるのは、「本当にこの道でいいのだろうか」という迷いを断ち切ったという象徴です。

 

〈破り損なった手造りの地図 シルシを付ける 現在地〉

当時の捨てられなかった夢のメタファーである「手作りの地図」に、新たに現在地にしるしをつけます。

これは当時の「僕」が描いた夢に向かって再び歩き出そうとする意思表示です。

当時思い描いていた道とは違うけれど、もう一度今の地点からそこを目指したいという気持ちの表れかもしれません。

〈君を忘れたこの世界を愛せた時は君に会いに行くよ〉

やや強引ですが、僕は「君を忘れたこの世界を愛せた時」というのを「現実で夢を叶えられたとき」という位の意味で捉えています。

実際にその世界に入ってみるといろいろな現実の困難を経験して、迷って、思い描いていたのと全然違う現実を見ているけれど、それでも当時の夢に向かって頑張る。

それまでは理想ばかりを語っていた自分を捨ててでも這い上がる。

そんな決意表明のように思います。

だからこそ「君」との〈再会を祈りながら〉になる。

ただ前に進むだけでは「再会」のための「決別」はいりません。

一度「君」を捨てなきゃいけないのは、それくらいの覚悟で進む決意をしたからだと思うのです。

 

もちろん人によって解釈は 異なると思いますし、その人の置かれている環境によって気になる部分が異なることは承知しています。

(それがBUMPの歌詞のイイ所なんだろうと思ったりします)

少なくとも今の僕にとっての『ロストマン』は、「昔の思いを捨ててでももう一度目標に向かって歩き出す男の決意表明」のように感じました。

みなさんには『ロストマン』がどう感じますか?

 

 

 

ロストマン/sailing day

ロストマン/sailing day

 

 

 

twitterに転がるお気に入りの対義語を集めてみた

国語を専門に教えているということもあって、やっぱり僕は言葉遊びが好きだったりします。

不登校は不幸じゃない」なんて素敵な言葉遊びから、「菅野美穂は『2時間飲み放題(にじ[かんのみほ]うだい)』という言葉に隠れてる」みたいなものまで、ツイッターにはこういった面白い言葉遊びがゴロゴロしていて、こういうのんを見つけると、胸がときめきます(笑)

 

で、最近僕がはまっているのが「対義語」シリーズ。

きっかけは偶然流れてきた「『やせ我慢』の対義語は『デブ大騒ぎ』だ」というものでした。

「デブ大騒ぎ」なんてキラーワードが出てきたら気に留まらないわけがありません。

(出典は忘れてしまったので、twitterで検索してみて下さい)

これをみて以降、優秀な対義語(?)をストックしているのですが、ある程度溜まってきたので(というか仕事で使わなそうなネタなので)この機にまとめておくことにしました。

 

「やせ我慢↔︎デブ大暴れ」をみた直後、こういった「粋な」対義語に興味を持って最初に出会った「これだっ!」というものは、「みんな違ってみんないい↔︎揃いも揃ってみんなダメ」というものでした。

それを作った人の心意気と同時に、社会を皮肉るスタンスがにじみ出ています(笑)

他にも「仮想通貨」の対義語が「リアルゴールド」だったりと、面白いものがいくつも転がっていました。

一例を以下に紹介しておきます。

(あくまでSNSに投稿されなのを見て覚えていたものなので、気になれば検索してたどり着いて下さい。

僕がいいなあと思った対義語は以下の感じ。

・「赤の他人」↔︎「白い恋人たち

・「こどもチャレンジ」↔︎「大人ギブアップ」

・「いないいないばあ」↔︎「いつまでもいるじじい」

・「冷やし中華始めました」↔︎「おでんもう終わりました」

・「八方美人」↔︎「一点を見つめるブス」

・「いきなりステーキ」↔︎「満を辞して刺身」

この辺の言葉遊びの妙や、ニュアンスの取り替えがむちゃくちゃ面白いなと思います。

 

上のものは言葉の繋がりでひねった系が多いですが、純粋な機転の利かせ方で面白いものもたくさんありました。

例えば、、、

・「SEKAI NO OWARI」↔︎「BEGIN」

・「森ガール」↔︎「海坊主」

・「あばれる君」↔︎「しずかちゃん」

・「一匹狼」↔︎「101匹わんちゃん」

・「ワンコイン」↔︎「にゃんこアウト」

などなど。

 

面白いなと思ったものをevernoteにタグ付けして集めているのですが、それがだいぶ溜まったので棚卸してみました(笑)

(繰り返しますが、僕のオリジナルではなく、twitterで見かけたものを思い出して並べているだけですので、気になった方は調べて見て下さい。)

 

因みに僕のお気に入りは林檎丸さん(@maxkaede0)さんの

・「謎解きはディナーのあとで」↔︎「犯罪は朝飯前」(https://twitter.com/maxkaede0/status/377830496321142784?s=21)

だったりします(笑)

 

昔、twitterは昔の人でいうところの和歌だなんていう主張を聞いたことがあるのですが、SNSの最大の魅力は、著名人のライフハックや仕事論が聞けることでも、友人と24時間距離が離れていても繋がることができることでもなく、こういった「とんでもないレベルの機知の働き」に出会えることにあるというのが僕の持論だったりします。

 

こういうtwitter上に転がる名作を集めて、『新・万葉集』みたいなもの作ろうかな(笑)

 

アイキャッチは意味の説明が面白い新明解国語辞典

僕のお気に入りはやっぱり「恋愛」の解説です(笑)

新明解国語辞典 第七版 特装青版

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承認欲求のメカニズム〜ワーカーホリック・マルチ商法・メンヘラに陥る仕組みを考える〜

孤独感に苛まれ、寂しさに打ちのめされた経験を持つ人なら、誰でも愛や友情を希求して止まない思いに駆られたことがあるだろう。-中略-大多数の人間は、こうした親和的承認への欲望を抱き、愛と信頼の関係を求めている。

(山竹伸ニ「『認められたい』の正体」講談社現代新書)

ここ最近、僕の中の大きな関心ごとの1つに「承認欲求」がありました。

冒頭に引用した本は、考えていたモヤモヤが晴れるきっかけになった一冊。

ずっと、社会人になってマルチ商法にハマる人や、いわゆるメンヘラと言われるようになる人について、仕組みを説明できないかと考えていたのですが、この本に書かれていた「親和的承認」と「集団的承認欲求」という2つの承認を使えばうまく説明できるのではと思ったのです。

 

山竹さんの定義によると「親和的承認」とは家族や親しい友人から与えられる無償の愛や友情といった類の承認のこと。

これは、何かを相手に与えたから得られるといった性質のものではなく、ただそこに自分が存在するだけで与えてもらえます。

ただし親和的承認は、もっと欲しいと思ったからといって、自分の欲求によって増幅できるものではありません。

なぜなら、親和的承認は他者から無償に与えられるものだから。

それに対して「集団的承認」は、特定のコミュニティにおいて、何かしらの貢献をしたときに、それに対して得られる名声や賞賛の声みたいなものをさします。

こちらは自分のコミュニティに対する貢献度によって得られるとのなので、親和的承認と比べると、自分で票をコントロールできるといえるでしょう。

 

どんな人も基本的に親和的承認と集団的承認を得ていて、親和的承認をa、集団的承認をb、自分の承認欲求をnとした場合、a+b>nの状態を保とうとしているというのが僕の仮説です。

 

承認欲求が満たされないという状態に陥りやすいのは、高校を卒業して大学で一人暮らしを始めたとか、就職して都会に出たとか、ライフサイクルが変わったときに発生するパターンと、バイトやサークルを辞めたり、仕事を辞めたりといった、特定の組織から離脱したときに起こっている場合です。

こうなる理由として僕が考えているのは、それまでは自分の中でa+b<nという状態を保てていた承認欲求が、環境変化によってa+b<nになってしまうが故に生じるものという仮説です。

例えば大学で一人暮らしを始めたとか、就職して都会に出ていったとかになる場合、それまで自分が付き合ってきた家族や親しい友達、つまり親和的承認を与えてくれていた要素と離れなければならなくなります。

また、バイトやサークル、会社を離れることになる場合、それまで得られていた集団的承認を失うことになる。

前者の場合はaの値が少なくなることが原因で、後者の場合はbを得る手段が無くなることが原因で、それぞれa+b<nという状態になってしまいます。

このとき、前者であれば減少したa分を補うために、新たなa(親和的承認)を満たしてくれる集団をもとめるか、aの減少で足りなくなった分をb(集団的承認)で補おうとするかという行動をとることになる。

bを増やそうとすると、とにかく仕事にコミットするワーカーホリック的な人が生まれます。

若くてむちゃくちゃ仕事が好きな人には、減ってしまったaの承認を補うことが行動の源泉になっている人も少なくないと思うのです。

こちらの場合はただのワーカーホリックなので問題はない(むしろ社会にとっては正ですらある)わけですが、足りなくなったa分を、新たな親和的承認で補おうとする人は注意が必要です。

山竹さんが指摘する通り、親和的承認はこちらのコミットがいらない代わりに、他者から与えられるのを待たなければならないアンコントローラブルな承認です。

つまり、自分の意志で増やせるものではないのです。

にもかかわらずこちらを増やそうとしてしまうと、「一見親和的承認を提供してくれているように感じるコミュニティ」に吸い寄せられる可能性がでてきます。

この、「一見親和的承認を提供してくれているように感じるコミュニティ」の展開が、新興宗教だったり、マルチ商法だったりといったものだと思うのです。

僕は以前、一年ほどマルチ商法のフィールドワークをしたことがある(一年で1人も紹介せず、買ったのがポン酢一本だったので追い出された 笑)のですが、その時の組織の戦略は、まずやってきた人(主に新社会人)に、コミュニティと親しい友達を提供することだったのです。

つまり、そこで擬似的な親和的承認が得られるわけです。

(もちろん実際には人脈と商品の購入をという「貢献」によってかろうじて保たれる関係性なのですが...)

本来なら自分が望んだ所で中々得られる物でもない親和的承認が容易に得られる様に感じるため、aを増やすことでa+b>nに戻そうとしている人はそこに誘われやすくなります。

以上のように、ライフサイクルの転換でこれまで得られていた親和的承認が下がってしまう人が取る行動には①ワーカーホリックのようなパターンと②マルチ商法などの擬似的な親和的承認に流れるパターンがあります。

 

次に、何らかの形で組織を抜かなければならなくなった人のパターン。

こちらの場合は、それまで得られていた集団的承認の源泉を完全に失うことになります。

つまりそれまで所属していた組織から切り離された人はa+0<nという状態。

この状態で承認欲求を満たそうとすればaの値を増やすしかありません。

しかし、繰り返し述べているように、親和的承認は他者から与えられる物で、自分ではアンコントローラブルです。

いくら自分が欲しても、本人の意志で増やせるものではないのです。

しかしながら、bという供給源が断たれた場合、aに頼るしかありません。

そのためこの状態になると、本来なら自分の意志で増やすことができないaを強引に増やそうとします。

そしてその手段が自傷行為をはじめとする、自らを切り売りするという方法。

相手が注意を向けなければならない状況に持ち込んで、無理やり親和的承認を満たすという方向に向かいます。

僕はこれがいわゆる「メンヘラ」という状態だと思うのです。

(断っておくと、僕はワーカーホリックもマルチ商法等に傾倒することも、メンヘラになることも悪いことだとは思っていません。あくまでその状態と原因を考えると、こんな感じなのではないかなというお話です。)

 

僕はワーカーホリック的な働き方をする人も、新興宗教マルチ商法に傾倒する人も、メンヘラと言われる状態になる人も、根っこの部分にはこのa+b<0という承認欲求の不足があると思っています。

その意味でどれも同じ。

こうした状態から回復するためには、親和的承認aを得られる人間関係を長期的に醸成しつつ、集団的承認bを得られる組織に複数所属し、そこに対して常に一定のコミットをしておくというのが1番妥当な解決策であるように思います。

もしくは自分の持っている潜在的な承認欲求nを減らすというアクロバティックな方法か(笑)

(これは出家とか瞑想とかが必要そう...)

承認欲求を減らすことは中々簡単ではありません。

だとしたら、急にa+b<nとならないように日頃から備えておくか、そうなったときに仕組みを理解しておき、目先の承認にとらわれず、長期的に上の不等式の不等号が転換するように動くという戦略を立てることが大事だと思うのです。

そんなことを「『認められたい』の正体」を読んで感じました。

 

アイキャッチはもちろんこの本。

「認められたい」の正体 ― 承認不安の時代 (講談社現代新書)

「認められたい」の正体 ― 承認不安の時代 (講談社現代新書)

 

 

 

日本人の「悪い」観から考える課題解決~善悪の判断と原因の所在を区別する~

昔落合陽一さんが[lucky]と[happy]の意味を内包している「幸福」という言葉の特殊性を指摘していました。

本来[happy]であるという感情を示す「幸」と、偶然いいことが起こったという意味の「福」を引っ付けた言葉を使ってしまったせいで、日本人には幸せと運がいいことが結びついて理解されるというのが落合さんが言っていたこと。

とても面白い指摘だと思いました。

確かに僕たちは、幸せや成功みたいなものは、運によって転がり込んでくるかのように思いがちです。

そんな結びつきがどうして起こるのかと考えたときに、その所在が「幸福」という言葉にあるのではという仮説は、一定の納得度があります。

 

「幸福」という言葉によって幸せと運がごちゃ混ぜになっているというのが落合さんの指摘ですが、僕は同様のことが「悪い」という言葉にも言えるのではないかと考えています。

日本語の悪いには、「いじめをするなんて、その人が100%悪いよ」という、不道徳や不正を指摘する[bad]のような使い方と、「それさきちんと確認しなかった君が悪いよ」というように、英語で言えば[fault]のような落ち度を表す使い方があります。

前者は善悪の判断であるのに対し、後者は原因の所在。

日本人は、そのどちらも「悪い」という言葉で表してしまうが故に、善悪の判断と原因の所在が一緒くたにされがちであるように思うのです。

 

本来なら善悪の判断と原因の所在が異なることなんてザラです。

例えばお婆ちゃんが営んでいる個人経営の駄菓子屋でウトウトしているすきに万引きが横行していたとして、悪いのは100%万引きをした者でしょう。

しかし、原因の所在を考えたとき、必ずしも万引き者に全ての責任があるとは思わないと思うのです。

そもそも簡単に万引きされるとしたら、何かしら対策も練られるはずです。

それをせずに毎回も被害を訴えるだけでは何も解決しないと思うのです。

 

善悪の判断と責任の所在が混同しているが故に解決しない問題のもう一つの典型が「いじめ問題」だと思います。

あれも、善悪の判断としては「いじめる側が100%悪い」という部分に異論はないでしょうが、だからといって、原因の所在も100%「いじめる側」に求めているのが解決しない最大の原因ではないかと思うのです。

誤解の無いよう断っておくと、僕はだからといって原因の所在を「いじめられる子」にあると言いたいのではありません。

僕が最大の原因だと思っているのは、今まで原因の所在として議論の俎上に上がってきたことのない「システム」の部分です。

いじめに関しては、悪いのは「いじめる側」、原因の所在は「学校というシステム」ではないかというのが僕の仮説です。

 

以前、とあるいじめの専門家なる人が、「現代のいじめは対象となる子がいなくなっても、別の子がターゲットとなっていじめが起こる」という主張をしていました。

これって、現代の子どもたちに問題があるのではなく、学校という「システム」そのものに問題があると思うのです。

いじめられる子といじめる子がいなくなってもいじめが起こるのであるとしたら、それはもうシステムに原因があるのではないかと…

学校という仕組みレベルで見ると、不特定多数の子が①無作為抽出で、②強制的に教室に収まり作業をこなし、③原則として行かないという選択肢がない環境であるといえます。

(これは学校のコンテンツを批判しているというのではなく、あくまで一番大枠の「システム」の話です。カリキュラムがどうだとか、先生がどうとかいう話では一切ないので、そこはご理解下さい。)

事実、同じように刑務所や会社やママ友など、①~③が揃ったコミュニティではいじめあるいはそれに類似した行為が発生します。

エビデンスはないですが、これは直感的に理解していただけるはず)

このニュース(http://news.livedoor.com/article/detail/15581630/)にもあるように、田舎の村では今も村八分のようなことがあるようですが、これも①~③が揃っている場所といえます。

反対に、①~③のいずれもないコミュニティでは、いじめは起こりにくい。

 

いじめに関しても、善悪の判断と原因の所在を一致させたがることが、解決を阻む最大の要因となっていると思うのです。

そしてその理由は、やっぱり善悪の判断と原因の所在という二つの意味を「悪い」という言葉が含有していることに由来しているというのが僕の考え。

 

別に僕は、これを以って「悪い」という言葉を使わないようにした方がいいだとか、安易に「悪い」という言葉で片付けているからダメなんだみたいなことを言いたいのではありません。

そうではなく、僕たちは無意識の内に「悪い」という言葉で善悪の判断と原因の所在を一緒くたにしがちだから、何かの問題を解決しようとする時は、善悪の判断と原因の所在を意識するとよりよい解が得られる可能性が高まるのではという提案のお話しです。

ソシュールじゃないですが、僕たちは言語で文節されていないものを無意識に区別することはできません。

だから、問題解決の手段として、問題が解決しない根本原因が「文節化されていないこと」にあるという可能性に目をむけるメンタリティが重要だと思うのです。

冒頭の「幸福」や「悪い」という言葉はあくまでその一例。

解決策の発見方法として、使用する言語を疑うというパターンを持っておくと便利なように思います。

 

アイキャッチはこれ!読みやすいのでオススメです。 

言葉とは何か (ちくま学芸文庫)

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四二段 2015年龍谷大学公募推薦「平中物語」現代語訳

赤本に現代語訳が載っていないので訳してみました。
過去問研究の一環でざっと訳している物語なので、細かな違い(時に大きな読み間違えがあるかもしれません..)はご了承下さい。
また、あくまで話の筋を追うことを第一に訳しています。
そのため、文法事項や敬語はあえて無視しているところがあります。

 


またこの同じ男には、噂には聞いていたが、まだ言葉も交わしたことのない女性がいた。何とかして言い寄ろうと思う気持ちがあったので、しばしばこの家の門の前を歩いていた。こんな具合だったのだけれど、女に言い寄るあてもなかったところ、ある素晴らしい月夜に、いつものごとくこの家の門の前を通ると、女たちが多くそこに集まっていた。男は馬から下りて女性たちに声をかけた。女たちから返事があることを男は嬉しく思い、そこにとどまっていた。女たちは、男がお供に連れていた者に、「彼は誰なのでしょうか。」と聞いたとこと、「(もしかしたら噂で名前はご存知かもしれませんが、しかじかという)その人です。」と答えた。女たちはそれを聞いて、「噂には聞いたことがありますがまさかその人とは。それならば家に招いてお話でもしましょう。」「どういった理由でここにいたのかも聞いて見ましょう。」などと言い合う。女たちの中の一人が「せっかくでしたら、この庭に出ている趣深い月も楽しんでいってもらいましょう。」と言ったので、この男「なんて良いことでしょう」と言って、一緒に屋敷に入っていった。女たちは御簾の内に集まって、「それにしてもどういった縁でしょうか、噂に聞いていたような身分の高いあの男性が、現実にこんな所にやってきて、一緒にお話しなんかができるなんて。」屋敷に仕えるいろいろな者に言い交わしていた。例の男と一緒にちょっとした事を話したり、女の中にはこの男に心惹かれ、熱心に語り合うものもいた。集まって話をしているうちに、男も不思議と嬉しくなってきて、よくぞ言い寄ったと思って時間を過ごしている程に、この男が乗っていた馬が、何かに驚いたようで、綱を引き放って逃げてしまった。お供のほとんどは逃げた馬を追いかけていき、一人だけがその場に留まり、例の男に気付いてもらえるようなそぶりで屋敷の前を歩いていた。男はそんなお供の者の姿を捉え、その様子がばつが悪く思えて、屋敷に招いて「どうしたのか」と聞いた。お供の者が「このようなことがあって」と事情を説明すると、男は「早く隠れなさい」といって、奥へと追い込んだ。その様子をみた屋敷の女たちが「どうかしたのでしょうか」と尋ねてきたので、男は何事もなかったそぶりで「何でもありません。私が乗ってきた馬がものに驚いて逃げてしまったようなのです。」と答えた。女たちがそれを聞くと、男の言葉に反論するように、「いいえ。それはきっとあなたが夜になっても奥様の下に顔を出さないものですから、あなたの奥様が嫉妬からあなたに行ったいやがらせか何かでしょう。なんと恐ろしいことでしょう。ちょっとした気晴らし程度のことまでもやかましく追求するような奥様をお持ちのような方とは、親しくお話しすることもできません。」と不快な様子でつぶやきながら、みんな屋敷の奥へと戻っていってしまった。男はこうした態度の女たちに向かって「なんて残念なことだ。全くそのように妻がしたのではなく、単なる偶然だというのに」と言ったのだが、すでに女たちは屋敷に入ってしまい、男の弁明は単なる独り言になってしまった。返事をする人もいなかったので、男はあきらめて屋敷の外に出た。翌朝の時雨に打たれながら、男は一首、こう詠んで送った。

その夜に、憂き名をもらい(誤解をされて)しかたなく帰り路につきました。名取川を渡っていると、ちょうど既に涙で濡れた袖に時雨が降ってきたのです。

女からの返しにはこうあった。

時雨がしきりに降るあなたの古い家だから濡れてしまったのでしょう。もしかしたら雨に紛れて濡れていた袖の涙と言うのは、私が隠れてしまったことを悲しく思ってくれたからなのでしょうか。

こうした返事に男は喜んでまたものなどを言って送ったのだけれど、返事は無かったため、やりとりは自然になくなった。

 

龍谷大学・龍谷大学短期大学部(公募推薦入試) (2016年版大学入試シリーズ)

龍谷大学・龍谷大学短期大学部(公募推薦入試) (2016年版大学入試シリーズ)

 

 

 

 

テスト前日に確認したい「北の貧困/南の貧困」③「貨幣への阻害」はリア充に誘われたオタクを考えると分かり易い!?

「現代文の論説文って結局何なん?」

僕はこのように聞かれた時、「『それって本当に良かったの?』を問いかける学問だ」という話をよくします。

もちろん現代文を教えている同業者の方からすれば、「そんないい加減な...」と非難される(というか半ば呆れられる)こともある程度覚悟して、その上で直感的に子どもたちに伝えらるなら何と表すのだろうと考えた言葉が上記のものです。

近代に様々な進歩があり、私たちの生活は目に見えて豊かになりました。

だからこそ、その進歩が100%正しいと思っている。

でも、もしかしたらそれは先進国のごく一部の人にのみ当てはまるお話しで、場所が違ったら違う解釈が出てくるかもしれない。

場合によっては恩恵を受けていると思っている我々の生活にも、実は「歪み」が生じているんじゃないか。

そんな、「当たり前」に対する問いかけが、現代文で扱う文章が、読み手の僕たちに伝えようとしていることではないかと思うのです。

 

『南の貧困/北の貧困』で見田宗介さんが指摘しているのはまさにこの部分。

[1日1ドル以下の生活をしている人=貧困]という定義は、僕たちのように何を手に入れるにしてもお金で解決する生活をする人にとっては当然の考え方なのかもしれないけれど、「お金=生活手段」っていう全体がそもそも間違えじゃないの?という投げかけをしているのが、アメリカの先住民の話から始まる段落だと思うのです。

見田宗介さんはアメリカの先住民を例にとって、「彼らが住み、あるいは自由に移動していた自然の空間から切り離され、共同体を解体された時に、彼らは新しく不幸となり、貧困になった。」「貧困は、金銭を持たないことにあるのではない。金銭を必要とする生活の形式の中で、金銭を持たないことにある。」と述べています。

これをすごーく悪意のある例えにするなら以下の感じ。

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あるクラスではオタク気質の男の子が隅に集まって、アニメ談義に花を咲かせていた。

ある日、クラス皆んな仲良くしてほしいと本気で願う委員長がやってきて、「さあ、みんなで遊ぼう!」と男女入り混じるリア充の会話に彼らを招いてあげた。

当然オタク気質の男の子たちは会話に馴染めずモジモジしているだけ。

クラスの隅で仲間どうし慎ましくアニメ談義をしているときは幸せだったのに、リア充の中に入ったせいで、かえって息苦しさを感じるようになってしまった。

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この例えが適切だとは思っていませんが、「貨幣への阻害」を直感的に知ってもらうのなら、これが最も近いのではないでしょうか(笑)

「北」の人たちの価値尺度で「貧困」を決めつけ、そのに根付いた「南」の人たちの生活や地域性を無視した政策を押し付けてしまえば、良かれと思って行った政策も、彼らの立場からすればかえって生きづらくなる場合もあるよね。

これが、アメリカの先住民の例で述べられていることのように思います。

5段落目の「貨幣を媒介としてしか豊かさを手に入れることのできない生活の形式の中に人々が投げ込まれる時、つまり人々の生がその中に根を下ろしてきた自然を解体し、共同体を解体し、あるいは自然から引き離され、共同体から引き離される時、貨幣が人々と自然の果実や他者の仕事の成果とを媒介する唯一の方法となり、所得が人々の豊かさと貧困、幸福と不幸の尺度として立ち現れる。」という言葉は、おそらく前半部分で最も理解しづらい部分ではないかと思うのですが、上に挙げたオタクの例を踏まえて読んでいただけると、ほんの少しだけ理解しやすくなるのかなあと思います。

教室の隅でアニメ談義に花を咲かせている人たちにとって、リア充の人たちにとって「かわいそう」に見えるその行為も、実は充実していたりするんですよね。

それを自分たちの基準による「幸せ」を彼らにも与えようとするから、等の本人たちにとってはかえって苦しくなってしまう。

そんな可能性って考えたことがありますか?という強烈な批判が、5段落の言葉に現れています。

続く段落で見田宗介さんは、「ある人の幸せを全く違う人の幸せで測るのが間違えということは皆分かっているのに、ついついやってるよね」と言います。

そして、無意識に「やってしまっている」優しさに気づかないから政策として「方向を過つもの」になってしまう。

そんな、ある種痛一番突かれたくない部分を指摘して、次の段落に続きます。

 

本当は倍くらいまとめるつもりだったのですが、久しぶりすぎて長くなってしまいました。

続きは近日中に書きたいと思います。

 

アイキャッチリア充という「貨幣への阻害」に葛藤するイケメンオタクを描いた山田玲司先生の『Bバージン