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新・薄口コラム

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



早くやれば良かったと毎年後悔する人のための読書感想文講座③あらすじだけ読んで書くのは結果的に遠回りなワケ

皆さんがワンピースを好きであったとして、アニメも漫画も見たことない友達に「ワンピースってどんな話?」と聞かれたら、いくらでもワンピースの良さを伝えられるのではないでしょうか。
或いはみなさんがジャニーズのファンだったとして、異性の気になる友達に「Hey!Say!Jumpってどんなグループ?」と聞かれたらいくらでも説明できるはず。
ワンピースやジャニーズの良さを語るのも、いわば「感想」です。
読書感想文となると全く手が動かないのに、ワンピースやジャニーズの話になったらいくらでも感想が湧いてくる。
一見するとこの違いは自分が好きなものについて話しているからいくらでも説明できるように見えます。
しかし、必ずしも好きだから説明できるわけではありません。
別に、嫌いなものだっていくらでも説明できる場合があります。

例えば、嫌いな学校の先生を思い浮かべて下さい(笑)
その先生のどこが嫌いかを想像したら、いくらでも具体例が出てきませんか?
「あの時○○なんて言われた。」「授業ちゅうの○○な仕草がいや!」「○○って口癖がムカつく」のように、嫌いな理由はいくらでも思い浮かびます。
このように、仮に嫌いなものであっても説明はできるのです。

説明ができるかできないかの違いは、自分の好き嫌いではなく、それについて詳しいか否かによって決まります。
好きなものは放っておいても自分で調べていくので詳しくなりますし、嫌いなものもそう意識したときからやたら気に障るために自然と意識して、結果として詳しくなるわけです。
そして、ある物事に詳しければ必然的にそれについていくらでも話せるようになってしまう。
感想文でも何でも、何かについて述べるときは、詳しくなることが最も重要です。

この連続エントリの冒頭で、読書感想文を書けない人の特徴として、あらすじとあとがきしか読まない人を挙げました。
あらすじもあとがきも、物語を簡潔にまとめたものです。
したがって、いくらそこを読み込んでも、作品について詳しくはなれません。
あらすじは極限まで情報を削って、たった数ページに話の展開をまとめたものです。
そこでは主人公の感情の機微のきっかけや、そこに至るまでのエピソードは省かれます。
話の展開を説明するのにこうした部分はノイズになるからです。
だから、読書感想文を書こうと思っていくらあらすじやあとがきを読んだところで感想は浮かんできません。
あらすじやあとがきを読んだくらいでは、感想文を書くのに足る程度の詳しさには全く及ばないのです。

あらすじやあとがきだけではまるで詳しさが足りないといいましたが、逆に言えば詳しくなりさえすれば、勝手に感想文は浮かんできます。
それは冒頭の好きな作品や嫌いな先生について他者に語るというを思い出していただければわかると思います。
感想文で大切なことは細かく読んで、作品について詳しくなること。
そのためには読む際に、目が潤んだところや、腹立たしぬなった箇所に線を入れるのが有効です。
気になるところで付箋や傍線を引いていけば、1冊読み終える頃にはかなりの「詳しさ」になっています。
あとはそのメモ元に感想文をかくだけ。
書き方の方は別途まとめていきたいと思います。
まずはあらすじやあとがきだけでなく、しっかりと内容を読む。
そして、気づいたところに線を引いたり付箋を貼ったりして作品に詳しくなる。
ここから始めてみて下さい。
書き始めて止まらない分、結果的に早く書き上がるはずです!

アイキャッチは読書感想文にオススメの重松清さん「ナイフ」

ナイフ (新潮文庫)

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早くやれば良かったと毎年後悔する人のための読書感想文講座②感想文は選ぶ本で8割決まる

読書感想文とは何か?
僕は読書感想文で一番重要なことを、を一言で表すと、本の中から「あるある」って思える箇所を探す作業だと思っています。
主人公が思わず飛び出したその行為に「あるある」と共感したり、困難に立ち向かう姿に共感したり。
こんな風に作品の中の登場人物の行為で共感できるところを見つけ、その共感の根拠を自分の経験の中から探していく。
こうやって作ると、「感想文」は比較的簡単に作ることができます。

さて、前回のエントリで僕は、「薄い本を選ぶと感想文がかきづらい」と言いました。
その理由はここにあります。
読書感想文が「あるある」と共感できる箇所を探す行為であるとしたら、その共感を探す材料は広い方がいいのです。
もちろんページ数が多ければいいというわけではありませんが、分量が多くなれば単純に共感できる箇所に出会う確率は高くなります。
数ページで終わる作品は結末に向かって一直線に進みますが、200ページもあれば、当然脇で進むエピソードがあったり、物語が枝分かれしている部分もあります。
そういう細部のところで、「あるある」を見つける可能性が高くなるのです。
たとえば虫取りをしようとした時に、家の庭で虫を探すのと森に入って虫を探すのとでは、比べるまでもなく森に入っていった方が多様な昆虫と出会えそうですよね。
庭の虫取りはせいぜいカナブンが限界(笑)
フィールドを広くすればその分多様なアイデアに出会えるのは読書感想文でも同じです。

確かに数ページの作品は、読む作業はすぐに終わります。
しかし、「あるある」と思える場面に出会える可能性は低くなり、早く読み終えても書く段階でかなり悩まなければなりません。
結果として時間がかかってしまう。
逆に、多少分量の多い小説を選ぶと、最初の読む段階ではちょっとだけたくさんの時間が必要となりますが、その分「あるある」と共感できるポイントには幾つも出会えます。
だから、書き始めてからがとてもスムーズ。
ネタ元が乏しい段階でいくら悩んでも、いいアイデアは生まれません。
だから、読む段階で時間をかけるのと書く段階に時間をかけるのとなら、読む段階に時間をかけたほうが圧倒的に手間は少なくてすむのです。

ここまでは分量の話を中心に書いてきましたが、ページ数だけでなく、文体や時代背景によっても描きやすさは大きく左右されます。
たとえば、現代の作家の学校生活をテーマにして書いた作品と、明治時代の文豪が大人になってからの葛藤を書いた作品とを比べたとき、「あるある」と共感しやすいのはどう考えても前者です(笑)
昔に書かれた作品は、時代背景が今とは全く違います。
だから、作品世界にすごく入りにくい。
また、扱われる世界が大人の内面の葛藤だったり、おじいさんになってから感じたことだったりすると、全く共感できない場合があります。
仮に「周りの雑多な情報に触れないで、ただ盆栽を眺めてることこそが一番の幸せだ」みたいなことを言われても、学生の身からすればどうやったってそれに共感するのは難しいはずです。
また、作家によって文体も大きくちがいます。
一文字一文字、言葉の置き方にまでこだわった純文学と、読んでくれる人に対する伝わりやすさを優先して書かれた作品とでは、後者の方が圧倒的に読みやすいはずです。
そもそも難しい文体だと、それだけで読む気がなくなり、いつの間にか文字を追いかけているだけということにもなりかねません。
そうなってしまえば、「あるある」なんて当然みつけられません。
①作品の時代背景、②そこに書かれている場面、そして③作者の文体という3点から作品を探していくことも、読書感想文を書こうとする上では非常に大切なポイントです。

書く段階で悩まないために、できるだけ「あるある」が沢山得られるように、あまり薄い本を選ばない。
そして、作品の中から一つでも共感できるポイントを見つけるために、現代で自分の知っている世界を扱っていて、優しい文体で書かれた作家を選ぶ。
これが、本を選ぶ段階でもっとも重要なことです。
読書感想文は本を読むという「ネタ仕込み」の段階でその後の工程の8割以上が決まってしまいます。
是非、上に挙げた基準をもとに、自分にあった本を探してみて下さい。

アイキャッチは読書感想文に向いてそうな本②重松清さんの「季節風 春」

季節風 春 (文春文庫)

季節風 春 (文春文庫)


早くやれば良かったと毎年後悔する人のための読書感想文講座①薄い本ほど感想文は書きづらい

夏祭り、海と花火とかき氷。
楽しいイベントがいっぱい待っている夏休みももう直ぐです。
僕たち塾人にとっては夏休みは地獄の日々でしかない訳ですが(笑)それでも「夏休み」と聞くだけで、少しワクワクします。
さて、学生さんにとっての夏休みの風物詩といえば、「夏休みの友」と称して勝手に馴れ馴れしく親友宣言をかます大量の宿題と、読書感想文でしょう。
毎年毎年「来年こそは計画的に終わらせよう」と8月31日に誓って、結局次の年もその日を迎えて同じ後悔をする。
「来年こそは計画的に...アレッ!?これどこかで言った気がする。デジャヴー?」みたいな人も少なくないのではないでしょうか?(笑)
宿題の方は頑張ってもらうとして、読書感想文に関しては多少負担を和らげる手立てならいくらでもあります。
今回は(不定期で)数回に分けて、読書感想文の書き方についてまとめていきたいと思います。

「感想文なんてどうやって書いたらいいか分からへん!」
読書感想文が嫌いな人で一番多いのは、こんな悩みではないでしょうか?
これは最もだと思います。
小学校から毎年課題にされるのに、具体的な読書感想文の書き方を教えられることは、ほとんどありません。
もちろん、「こう書けばいい」という形式的なことは習うかもしれませんが、そんなの「収入を増やして出費を減らせば誰でもお金持ちになれる」っていうのと同じレベルのお話で、具体的にどうすれば良いのかは分かりません(笑)
そして、赤子同然で放り出されるから、全く上手く書けない。
こういう人って少なくないと思います。
したがってここでは、できるだけ具体的な読書感想文の書き方をまとめたいと思うのですが、その前に、読書感想文のどこで皆さんが躓いてしまうのか。
よくある読書感想文が書けなくなるパターンをまとめてみたいと思います。

①短い小説を選ぶ
夏休みの残り日数も減ってきて、焦っている人に多いのが、とにかく短い作品を選んで早く書き上げようという思考です。
実はここに大きな落とし穴があります。
感想文を書くにあたって一番難しいのが、短い作品から感想を膨らませること。
作品が短ければ短いほど、書く側の技術が要求されるのです。
だから、早く書きあげたいと思ったら、むしろ中〜長編の作品を選ぶことが近道だったりします。

②あらすじとあとがきだけで書こうとする
僕は読書感想文の書き方を端的に表すのなら、「作品の中から『あるある』を見つける作業」だと思っています。
主人公の心情に共感したり、境遇に自分を重ねたりと、場面ごとの登場人物に乗っかれる場所を見つけて、自分の経験を重ねていく。
これが感想文を書く最も簡単な方法でしょう。
そのために必要なことは、気になった情景描写を集めることです。
あらすじやあとがきには、こうした過程は書かれていません。
だから、あらすじとあとがきを読んでとにかく書き始めようとすると、原稿用紙の1枚目の後半くらいでパタリと手が止まってしまう訳なのです。

③いきなり書き始める
読書感想文の文字数は、小学生であれば1000〜1500字、中高生であれば2000〜2500字くらいです。
普段のテストに出てくる記述問題が多くて80文字前後、ちょっとした作文のテストでも200〜300文字というなかで、千文字を超える文章を書けというのは、なかなかにハードルの高い作業であるように思います。
実際に毎年学生さんが持ってくる相談で一番多いのは「そんなにたくさん書けない」というもの。
確かに1000〜2500文字、3枚から5枚の原稿用紙を埋めるのは少し大変です。
しかし、それは話のプロット(設計図)を書くことで解決できます。
本のような長い文章はもちろん、ブログでもニュース記事でも、何かしら文章を書く人がやっていること。
それが、話のプロットを打つことなのです。
いきなり冒頭から書き始めると、どういう結末になるかも、どのくらいの分量になるかも予想できません。
だから予め箇条書きでどんな構成にするかをまとめておきます。
そして、その箇条書きにしたものに基づいてブロック毎に書いていく。
こうすることで文字数の多い文章は出来上がります。

①短い小説を選ぶ②あらすじとあとがきだけで書こうとする③いきなり書き始めると、読書感想文を書けない理由として多い理由を挙げてみましたが、みなさん心当たりはないでしょうか?
もし、該当する人がいたら、次回以降をご期待下さい。
きっと、ちょっとだけ読書感想文が書きやすくなると思います。
というわけで、次回からは読書感想文の書き方についてまとめていきたいと思います!
次回は「感想文に向いた小説の選び方」です。

アイキャッチは読書感想文にオススメの本①モモ

モモ (岩波少年文庫(127))

モモ (岩波少年文庫(127))



イギリスの国民投票に感じる世界的な内向き傾向

少額ながらビットコインでお金を回している人間としては、イギリスのEU離脱の是非をめぐる国民投票の結果が気になります。
情報ソースが確認できないため、信ぴょう性は保証できませんが、24日の6時30分現在、投票を終えた直後の出口調査(本格的なものではないみたいです)では、残留52%離脱48%と、残留派がわずかにリードしているらしいです。
ここに期日前投票の人の票が加わる訳ですが、基本的に期日前投票に行く人はビジネスで忙しく、経済的に見れば明らかにEU残留の方がプラスであるということを考えて、僕は期日前投票の人の票は残留派が上回っているとみています。
というわけで、仮に残留52%離脱48%という速報値が事実であるとして、期日前投票の結果を加えれば、もう少し残留派が増える結果になるのではないかというのが僕の予想です。
朝の為替の動きや、投票終了直後のポンドの値動きを見ていても、やはり残留なのかなあと思います。

お金を運用している身としては残留か離脱かという結果が気になるのですが、世界的な空気感を見ている身としては、「選挙の結果が拮抗している」という事実そのものが気になります。
イギリスのEU離脱残留かの国民投票を含め、世界的に内向き傾向が蔓延しているように感じるのです。
アメリカではドナルドトランプという、強いアメリカを謳う大統領候補が誰も予想しなかった快進撃を見せています。
そして今回のイギリスの国民投票
両者に共通するのは、「感情的に自国優位が支持されている」ということです。
マクロな視点で経済を見れば、イギリスがEUを離れない方が多くのメリットを持っているのは明らか。
しかし、難民流入や経済停滞の不安感から感情的に離脱の声が膨らんでいました。
アメリカのトランプ旋風も大きくは同じでしょう。
国民の経済が停滞する不安感や広がる格差に対する不満感が、トランプ候補支持という形で現れたように思います。
これらはいずれも不安感からくる自国優先という意見です。
ニュースを見ていると、内向き傾向になっているというのは日本にも言えるように思います。
今回の総選挙は、アメリカ、イギリスに続いて日本も内向きな傾向を見せるかどうかという部分に、個人的には注目しています。

この世界的な内向き傾向は、僕の中で過去の世界大戦前の空気感と重なります。
世界的に経済が停滞して、ブロック経済のような内向きの政策に走り、争いが幾つかの場所で国家間の問題を抱えていて、それがきっかけである日大爆発した。
今の国際情勢を見てみると、この3つの要素がそろってしまっているように思うのです。
リーマンショックギリシャ危機、そして中国株の暴落と、経済的な停滞の例は枚挙に暇がありません。
そして、イスラム国という争いの火種を抱えています。
そしてアメリカとイギリスに見内向き傾向。
漂う空気感に何か、凄くイヤーなものを感じます。
僕はゼロ年代後半からの20年くらいが歴史の教科書に載るときは膨大な量になると思っているのですが、社会の空気感という意味でいけば、明らかに今年一年は大きな変化がある年になるように思います。
それがイギリスの国民投票であり、アメリカの大統領選挙であり、そして日本なら参議院総選挙。
改めて今回のイギリスの国民投票を追いかけていて、時代の節目に立ち会っているという強く感じました。
とりあえずイギリスはいー残留となるでしょうが、拮抗する離脱派の不満の思いが充満していることは事実です。
それはイギリスに限らず、他のEU諸国でも同じような気がします
選挙が終わったあとの、EU諸国の歩みが気になるところです。

楽譜やc言語も全部言語と考えた時に、それらを身につけている人と言語学習の相性を考えた

言語っていうものがその性質上、自分の意思を相手に伝えるツールであると考えたら、僕は楽譜も立派な言語であるように思います。
ピアノであるなら五線譜に音符を用いて、ギターであるなら6線とフレットが書かれたものを読み取って、もちろんその他の楽器ならそれに適した読み方がありますが、それを習得した者同士で意思疎通ができるという点では、言語に非常に近いものであるように思います。
もちろんこれは、音楽に限りません。
c言語の様なものでも同じです。
それを使ってやり取りをする集団があって、それを用いて読み書きをする場があれば、それは言語と同様の機能を有していると思うのです。

自分が音楽好きだから贔屓目になっている部分はあると思うのですが、音楽をやってきた人は、言語学習を得意とすることが多いように思います。
それは、音楽をやっている人々が、そうでない人たちと比べ、「言語的な何か」に触れてきた期間が圧倒的に長いからです。
僕は、学校の勉強で他言語を習得しづらい最大の理由は、覚えることのメリットがはっきりと思い描けないことにあると思っています。
学校の教科書や単語を覚える授業や、テキストの問題を解くという授業では、他言語でコミュニケーションを取ることの便利さや、何より他言語で情報を得られることの強みには気づけません。
そのため、学校での言語習得(主に英語)のモチベーションの中心はスコアを競うことになってしまう。
学校の英語が得意という人のほとんどは、言語を覚えた先の強みに惹きつけられて勉強しているのではなく、ゲーム的な何かに強いから得意という状態です。
だから、受験問題は解けるのに、ほとんど英語でコミュニケーションをとることができないといった事態になってしまう。

学校で学ぶ言語に比べると、楽譜を読める(書ける)力というのは極めて実用的です。
曲を弾くためには楽譜やコードを覚えなければ始まらない。
だから楽譜を覚えるわけです。
練習を積む中で楽器演奏に挫折する人は多くいますが、楽譜が読めなくて挫折したという人はほとんど聞いたことがありません。
これは、楽譜を読むことがゴールではなく、楽器を弾くことがゴールであるからだと思います。
楽譜を読むという行為は、あくまで楽器を弾くための手段である。
これを言語学習に当てはめると、ある言語を読み書きできるというのは、その言語でコミュニケーションを取るという目的のための手段であるとうことができます。
目的を遂行するための手段と考えるから、身につけて当たり前。
身につけた先の未来が思い描けるか否かで、その言語(言語的なもの)を習得するためのモチベーションの大きさは、全く変わってきます。

僕は点数を競うことに魅力を見出し、ゲーム感覚で行う言語学習も(高校まで)は否定しません。
ただ、そういった勉強が得意な人は、やはり限られてくるように思うのです。
であるならば、勉強に対する別の道義付けがあった方がいい。
それが、言語の習得をコミュニケーションをするための手段と認識するということです。
冒頭で、音楽をやっている人は言語学習を得意とする場合が多いのではないかと書きました。
その理由の一つは上に挙げた通りで、楽譜を読む力をつけたときと同じ感覚で、言語の習得を、それを使いこなしてコミュニケーションをとるための手段であると頭で理解しやすいだろうというところにあります。
ある言語、或いは「言語的な何か」を身につけることの強みを知っているのといないのとでは、伸び率が全くことなります。
覚えることが目的の人は、そこになんとかたどり着くためのエネルギーで言語学習に向かいますが、コミュニケーションを取る手段として言語学習をする人は、その習得を家庭に過ぎないと考えているのです。
100mきっかりを車で走ろうと思うとだいぶ前でブレーキを踏みますが、初めから500m先を見ている人は、そんなところでブレーキを踏みません。
結果的に後者の方がタイムはいいはずです。
手段としての言語という認識があるかないか。
これが言語学習の適性を左右する大きな要因の一つだというのが僕の持論です。
楽器を演奏する人ならだれでも、その言語を当たり前のように道具として使うことが身についている。
だからこそ、言語学習をする際にその感覚を持って勉強に臨むことで能動的に勉強ができる。
そういうわけで、言語習得には楽譜を読めることはメリットになるように思うのです。

星の花が降るころに考察〜主人公の成長を、心情「以外」から読み取る〜

中学一年生の教科書に載っている、安東みきえさんの星の花が降るころにという作品。
中学校に入って、まだ十分にクラスに溶け込めていない主人公。
そんな彼女は小学校からの友達(そして本人は唯一の友達だと思っています)である夏実と、ちょっとしたことからすれ違いが重なり、声がかけられない状態になっています。
2人は別々のクラス。
主人公が勇気を振り絞って声をかけたところ、ちょうど夏実がクラスの友達に声をかけられて、そちらに返事をしてしまう。
なんとか仲直りをしたい。
そう思って声をかけたのに、結果として無視されたような形になってしまいます。
そんな主人公が、幼馴染の男の子である戸部くんや、銀木犀の話を教えてくれるおばちゃんの言葉をきっかけに、前を向いて進もうとする。
主人公の葛藤と、前に進もうと決めた心情の変化が面白い作品です。

どうしても学校の教科書だと、主人公が前に進もうとする部分に注目されます。
国語の問題として扱う以上、僕たちもそうした読みに終始しなければならないのですが、個人的にこの作品の好きなのは、心情意外の部分に散りばめられた、主人公の気づきです。
夏実との思い出、自分の気持ちばかりが前に出ている主人公は、この作品のなかで2つのことに「気づき」ます。
ひとつは幼馴染の戸部くんの身長が高くなっていたこと。
主人公が夏実に無視されたところを見ていた戸部くんは、ぎこちないやり方で主人公を慰めるために声をかけます。
そんな彼の優しさに気づいて思わず涙を流す主人公。
戸部くんと久しぶりにしっかり話した主人公は、彼の身長が伸びていることに気づきます。
戸部くんの身長が伸びたことは、主人公が「自分意外の周りの変化」に気づく初めての場面です。
それまでにも変化に気がつく場面はありました。
しかしそれは全部、去年夏実と拾って袋に入れてあった銀木犀の花が枯れていくという変化だけ。
ポケットの中の銀木犀は、いわば夏実の内面のメタファー。
夏実は頻繁に銀木犀の花を思い出しますが、そこには周囲に対する目は無いわけです。
一貫して自分の問題でいっぱいいっぱいです。
夏実に頑張って声をかけようとしたり、それまでも主人公は何とか前に踏み出そうと、変化しようとします。
しかし、その時に頭にあるのはポケットの枯れた銀木犀、つまり、昔の思い出に囚われる自分の気持ちばかりです。
そんな、自分の方向にばかり向いていた主人公の視点が、戸部くんの背が伸びたという気づきで初めて外に向けられます。

もう一つ、物語の後半で、主人公がおばちゃんから銀木犀の葉が落ちることを聞きます。
「常緑樹じゃないの?」と主人公は銀木犀の葉が落ちることを知った主人公ら問いかけます。
それに対して「いくら常緑樹といったって、ずっと同じ葉っぱが付いているわじゃないよ」と答えるおばちゃん。
(思い出して書いているので、言い回しは違うと思います)
ここで主人公は常緑樹の銀木犀でも葉を落とし、そして新たな葉をつける事をしります。
ここも、主人公が新たなことに気づく場面と言えるでしょう。
銀木犀に主人公の気持ちがそのまま重ねられています。
それまでの主人公にとっての銀木犀は「一度つけた葉をずっと持ち続ける常緑樹」でした。
ちょうどここに、夏実との友情がずっと続くものであることを信じていた主人公の気持ちが重なります。
ずっと葉が落ちない、ずっと友情が続くと思っていたからこそ、主人公は萎れても尚、夏実と取った銀木犀の花を持っているわけです。
しかし、ここで主人公は常緑樹である銀木犀でさえも、一度は葉を落とし、新たな葉をつけることを知ります。
ここで初めて主人公は、夏実との思い出に執着するのをやめて前を向こうとする。
この心情の変化のきっかけになったのが、おばちゃんの話しによる「気づき」です。

自分の内面ばかりに囚われないで、外に目を向けて気づきを見つける。
そうすることで主人公が少しずつ成長していく。
僕が思う星の花が降るころにの魅力はここにあるような気がします。
分かりやすく主人公の心情が描かれているため、わざわざ情景描写の意味なんて考えなくてもこの作品は楽しめます。
しかし、散りばめられた情景描写の意味を追ってこそ、この作品ほ楽しめると思うのです。
なぜ銀木犀なのか?なぜその花を持っているのか?
そういった設定一つ一つに思いを巡らすことで、一層楽しめる作品のように思います。


 アイキャッチは安東みきえさんの「頭の打ち所が悪かった熊の話」(笑)

頭のうちどころが悪かった熊の話 (新潮文庫)

頭のうちどころが悪かった熊の話 (新潮文庫)


意識高い系という言葉と、彼らの価値を定義する

交流会に積極的に参加したり、イベントを立ち上げたりする学生を、いわゆる「意識高い系」なんて言葉で揶揄される場合があります。
意識低い系の学生(笑)よりは意識高い系の学生の方がずっといいんじゃないかというのが僕の考えでした。
ただ、同時に意識の高低という2分類では、自分の中でどうもしっくりこない部分があります。
そんな時にふと、今までは積極的か消極的かで意識高い系か否かを決めていた軸に、もう一本、「顧客視点」という軸を加えたら、意識高い系の学生というのが説明できることに気がつきました。
縦軸には顧客視点の有無、横軸に積極的か消極的かを置きます。
ここでいう顧客視点とは、思考の発露が自分が何をしたいではなく、周囲にどんなニーズがあるか、自分はどういう立ち回りをすればいいのかという視点で物事を見ているという意味です。

顧客視点の有無と積極的、消極的の2軸を引くと、4つのカテゴリーに分類されます。
①積極的で顧客視点がある
②積極的ではないが顧客視点がある
③積極的だが顧客視点がない
④積極的でなく顧客視点もない
この中で、意識高い系と揶揄される学生や若手社会人は③に分類されるのだと思います。
④の積極的でなく顧客視点もない人と比べれば、③の人たちが優れているのは明らかです。
そして、①の積極的で顧客視点がある人と比べたら劣ってしまうことも納得できます。
問題は、②の積極的ではないが顧客視点がある人と、意識高い系が含まれる③の積極的だか顧客視点がない人であれば、どちらが優れているかということ。

結論から言うと、僕は番号の通り、③よりも②の積極的ではないが顧客視点がある人の方が優れていると思っています。
その理由は、②の人の方が「価値」を生み出しやすいから。
どんなにエネルギーに満ちていても、ニーズと合わなければそのエネルギーが表出することはありません。
他に連結しないまま物凄い勢いで回る歯車みたいなイメージ。
どれほどエネルギッシュでも、自分の「したい」だけでは自己満足で終わってしまい、そのエネルギーが実際に評価される形にはならないわけです。
(そういう人たち同士が集まって、エネルギーの高さを評価し合うようなコミュニティもありますが、それは身内で完結した評価であり、外からは評価されません。バーチャルゲームの中でいい武器をたくさん持っている人の評価と同じです。)
一方で、多少エネルギーが低くとも、また積極的で無かったとしても、顧客視点があれば、周りが求めるものに目がいって、価値を生み出すことができます。
エネルギーは低くても、それを伝えるエネルギー効率がいいため、結果としては積極的だが顧客視点のない③の人よりも多くの価値を生み出すことになる。

社会に出ると、いやでも顧客視点を意識するようになります。
お金をもらうためには相応の価値を生み出さなければならず、その価値を生み出すには、何が求められているのかを考えることが不可欠だからです。
もちろん、それでも顧客視点がない人が殆どかもしれませんが、そもそもそういった視点が求められない学生と比べれば、顧客視点を持っている割合は社会人の方が高いように思います。
さて、顧客視点の有無という評価軸を持っていない人にとっては、②に当てはまる社会人は単に「やる気のないモブ社会人」と映るはずです。
積極性やエネルギーの高さという評価軸だけでいけば、②の人は③の人にはるかに劣っているからです。
しかし(エネルギーの高さをそのまま能力として評価されるコミュニティではなく)実際の社会で価値を評価しようとすると、③よりも②の方が多くの価値を生み出している。
この辺に、意識高い系という言葉がやや批判的なニュアンスで使われる理由があるように思います。

僕は別に、意識高い系が悪いとは思いません。
そうではなくて、顧客視点を身につければいいのにというスタンス。
自己啓発で奮起したり、交流会で夢を語るといったスマートなスキルアップもありますが、同時に地味な作業から地に足のついた実力をつけていく。
そういった部分も大切なのかなあと思います。

アイキャッチは若き老害(笑)常見陽平さんの「『意識高い系』という病気」