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新・薄口コラム

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



ライフワークバランスを真剣に考えると1日3時間の残業が妥当

ライフワークバランスなんて言葉をよく聞きます。
生き方も働き方も人それぞれなので、仕事とプライベートをともに充実させるという考え方自体には全く疑問はありません。
ただ、変に細かな性格のライフワーク「バランス」という以上、しっかりと「バランス」をとるべきだよなと思ってしまうのです。
で、しっかりとバランスを取ろうとしたら、僕の中では一日3時間くらいの残業はしなければいけない計算になります。

ライフ(プライベート)とワーク(仕事)のバランスを取るという以上、その比率は恐らく1:1が妥当なはずです。
仮に移動時間や睡眠時間、そのた諸々を含めて一日あたり8時間を消費するとしたら、一日あたりの残り時間は16時間。
それをライフとワークに均等に分けるとしたら、それぞれ8時間が「バランスのとれた」配当でしょう。
これなら一見すると1秒たりとも残業せず、定時に帰るのが「バランス」のとれた働き方に見えます。
でも、基本的にこの分け方には休日は含まれていません。
当然ライフとワークでバランスを取るのならば、休日なんていう100%ライフの側による物を除いて考えるのはフェアじゃない。
休日分に生じる「ライフ」分のアンバランスは、月曜〜金曜までの部分で調整しなければなりません。

土日も本来ならそれぞれ8時間分の「ワーク」に割く時間が割り振られています。
この2日分あわせて16時間を月曜〜金曜に均等に分配すると、1日あたり3時間12分です。
というわけで、本当の意味でライフワークバランスを実現しようと考えたら平日は毎日3時間ちょっと残業して、それでちょうどいい計算になってしまうのです(笑)

決してライフワークバランスという考え方が嫌いなわけでも、そういう考え方をする人をディスりたいわけでもありません。
ただ、バランスという言葉を使う以上しっかりとバランスが取れていないと気になるし、少なくとも僕はその辺を考えずに「ライフワークバランス」という言葉を自分都合で使うのはいやだなあと思うので、数値として一回考えてみました。
というわけで、僕がもし週休2日のサラリーマン生活をしていて、ライフワークバランスという言葉を使うとしたら1日あたり3時間ちょいの残業をしなければいけないことになってしまいます。
そんなの絶対に嫌だ、、
おそらくライフワークバランスという言葉を武器に、仕事とプライベートを本当の意味で5分5分にしようとしたら、大半の人が今以上に働かなければならないという結論になってしまうのではないでしょうか?(笑)

なんて、人の半分くらいの時間しか働いていない僕が書いても全く説得力はないのですが、、、

アイキャッチ堀江貴文さんのこの本

8月末で内定が出ていない人のための就活術〜あなたの勝ちパターンは何ですか?〜

どんなジャンルにせよ、こういう形に持ち込むという「勝ちパターン」を持っている人はとても強いように思います。
ホリエモンであれば徹頭徹尾ものごとを合理化し、ムダな部分を排除してレースに勝つというパターン。
2ちゃんねる管理人のひろゆきさんであれば、ルールをよく理解してその穴をつくという勝ちパターン。
有名人に限らず、この人デキるなと思う人には、みんな勝ちパターンがあるように思います。
逆に何をやってもうまくいかないという人は、自分の勝ちパターンとは違うフィールドで戦っている気がします。
たとえば、一個一個のアイデアの質は低いけれど、大量に思いつくことができる人にとっては、質ではなく量で攻めるというのが「勝ちパターン」になるはずです。
にもかかわらず、企画力みたいな部分で勝負しようとする。
或いは、丁寧な仕事が強みの人が仕事を仕上げるスピードで勝負したりなど。。
たいがい僕も仕事ができない(笑)人間なので、自分の勝ちパターン以外のところで勝負したときにどの位悲惨な結果になるのかは身をもって体感してきました。

この「勝ちパターン」に持ち込むというのは、就職活動においても有効な考え方です。
黒の無地の服を着て、髪型は就活カット、ノックは3回などの「就活生としてのマナー」を身につけ、志望動機も型どおり。
これって勝ちパターンという視点で考えると1番まずい方法です。
なぜなら、いわゆる「定型」に近づけば近づくほど、そこで勝てるのは徹底して自分を型に当てはめるのがうまい人になり、そうでない人にとっては自分の勝てるフィールドから遠ざかることになるからです。
当時僕が就職活動期に友達と飲んでいたとき、彼は「とくに指示がないのならスーツやネクタイで周りと違うようにするなんてリスクをとる必要はない」と言っていました。
僕はこれを聞いて最初に思ったのが、特に指示がないのなら、自分から型にハマって勝ちパターンから遠ざかるなんていうリスクをとる必要はないのでは?ということでした。
確かに彼にとっては「型に合わせる」ことこそが勝ちパターンであったので、まさに差別化することはリスクだったのかもしれませんが、全体からみると、型にはまることを勝ちパターンとしている人は5人に一人くらいではないのかなあと思います。

表面的にわかりやすいので服装の話を書きましたが、当然勝ちパターンは外見的なことばかりではありません。
たとえば志望動機についても、自分の勝ちパターンを意識して書けているかどうかで、その通りやすさはかなり変わってくると思うのです。
おそらく就活本に載っているような志望動機で内定を得られる人は、自分の発した言葉を疑いなく信じることのできるタイプです。
多分全体の10%くらい。
逆に、就活本と最も相性が悪いのは、自分の言葉に懐疑的な人。
クラスの打ち上げなどにリア充な友達に誘われたとき、自分も参加していいのかなと少しでも思ったことのある人はおそらくこのタイプです。
こちらも全体の10%くらい。
彼らにとって、「とりあえずの正解を信じ込んで語る」という戦略は最も苦手な方法であるため、マニュアルを読めば読むほどにうまくいかなくなってしまうわけです。
心当たりありませんか?(笑)

勝ちパターンは大きく幾つかに分けることが出来るのですが、それを書き始めたら文字数がとんでもないことになってしまうので置いておくとして、自分の勝ちパターンを理解しておくというのは、処世術として非常に便利なように思います。
またいろんな人の勝ちパターンを知っておくと、人とのやりとりも非常に円滑になります。
というわけで、就活で悩んでいる人がいたら、今までの自分を振り返ってみて、「勝ちパターン」を意識してみるといいと思います。

日本一説得力のないブログの続け方講座(仮)

長いこと、長いこと、ブログの更新をとめてしまっていました。。。

塾の講習中は思ったよりも忙しく、お盆休みは思いのほか人と会う約束がつまってしまい、これらを言い訳に、ほぼ1ヶ月間更新をサボってしまいました(笑)

普段なら、朝起きてまずブログのネタを考えていたのですが、あまりに書いていなくて、はてなブログを開く習慣すらなくなる程度に更新頻度が衰えているのですが、書いていないからこそ書き続けるためのコツが分かったように思いました。

ということで、自戒の意味もこめてブログを続けるこつについてまとめてみたいと思います。

 

① 習慣化する

まず何より大切なことはこれに尽きます。

スケジュールを決めて書くように意識するとか、モチベーションを保つというやり方が大切なように思いますが、一番手っ取り早いのは、「書くのが当たり前」の状態にするということです。

「書こう」「書きたい」「書かなければ」というのではなく、書くのが当たり前の状態。

それこそ会社に行くことやお気に入りのアプリを開くこと、できるのならご飯や睡眠と近いところにまで引き上げる。

それが、ブログを続ける際に最も効果的です。

そんな風になるはずがないと思われるかもしれませんが、実際に僕がほぼ毎日更新しているときは、これに近い状態です。

朝目が覚めて何かしら1500~2000程度の文章を書き上げないと、次の動作に移れない。

そのくらいブログを書くことが生活の一部になっていました。

意思や義務感ではどうしても続きません。

いかに早くやる気のようなフェーズから一歩進めることができるのかということが、ブログを書き続けるコツであるように思います。

 

 

② インプットを増やす

これも、ブログをしばらく書いていなくて痛感したことです。

僕は普段、最低でも本は20冊くらい、ブログやニュースサイトそしてラジオやニコ生などの情報源を合わせて50くらいは見るようにしています。

もちろんそれ以外にもSNSで流れてきた情報、飲み屋で一緒になった人たちの話も大事な情報源です。

普段はこういった部分から自分のアンテナに引っかかるものをノート等に記録して、ブログや人との会話で活かせるように、自分なりに情報を整理しているのですが、一月もこうしたインプットを怠っていると、そもそもアイデアが枯渇するみたいです。

普段であればぱっと出てくるアイデアが、全く浮かびません。

自分の中で無意識に積み重なったものがないため、何かを見ても、反応が鈍くなってしまうみたいです。

「何か書きたいことがあってブログを始めたのはいいけれど、続かない…」なんて人もいるかと思いますが、そういう人はがむしゃらに書く(=アウトプットの量を増やす)のではなく、情報のインプット量を増やしたほうがいいように思います。

僕も今、絶賛もとのインプット量に戻れるように生活リズムを戻しています(笑)

 

 

③ 自分のアイデア、自分の文体を意識する

これもしばらくブログを書いていなかったために完全に自分の中から消えてしまったなあと思うことだったりします。

僕はこの「薄口コラム」を書くに当たって、アップするエントリにいくつかの条件を設けています。

その中のひとつが、「身近なニュースやコンテンツに対して、国語の『読解的なアプローチ』で意見を述べる」ということ。

エントリを書くときに、「自分の意見」でも「自分の感想」でもなく、自分の「視点」のみを書くように心がけています。

自分の中でエントリを書く際に一定の縛りを予め設けておくと、何かを見る際に無意識にその角度からアプローチするようになり、ネタに困らなくなります。

自分のアイデアや文体を意識すると、ブログが非常に書き易くなるのです。

 

 

つらつら書き並べてみましたが、ようはここ最近ブログを書いていなかったせいで、上の3つが自分の中から全く消えてしまって困っているということです。

このへんの感覚をはやく取り戻さなければやばいなあと。。。

とりあえずリハビリ期間という意味でしばらく拙い文が続くと思いますが、どうぞよろしくお願いします(笑)


アイキャッチはブログ飯
 

ブログ飯 個性を収入に変える生き方

ブログ飯 個性を収入に変える生き方


「なぜおばちゃんは高校野球を見て感動するの?」問題について

毎日書いているときは、一日でもブログを更新していないときがあると、「あっ」となり、半ば強迫観念といえるような「書かなければいけない」という気持ちに迫られるのですが、何日も書いていないと、パソコンの前に向かってブログのエントリを書こうとすると、なぜか書きたくないという気持ちが勝ってしまい、気がつくとずっと更新をしていない状況になってしまいました。
やはり、習慣化することは大切だなと思う今日このごろです。

大分ブログの更新をしていなかったこともあり、ポケモンや都知事選など、書きたいネタはたくさんあるのですが、直近で面白いなと思ったことがあるので、「なぜおばちゃんは高校野球を見て感動するの?」問題について書かせてください。
始めに僕の立ち位置を確認しておきますが、僕は高校野球に全く興味がありません。
正直なところ見ていて感じる感想といえば、熱そうだなということと、チアの子がかわいいなくらいです。。。
先日、母の実家に挨拶に行ったとき、祖母がテレビで高校野球を見ていました。
そして祖母はいつものように「やっぱり高校球児が頑張っている姿をみると感動する」といっていました。
ここです!!僕が高校野球についてずっとわからなかったのは球児が頑張っている姿を見ると感動するというところなんです。
先日生徒の女の子も球状に試合を見に行ったらしく、同じことを言っていました。
高校野球に限らず、箱根マラソンなどもそうですが、僕は「人が頑張っている姿を見ると感動する」という言葉を聞くたびに「どこにどうして感動するの?」と聴いています。
もちろんこれは決して嫌味ではなく、本気で何処に感動するかを知りたいと思うからです。
で、何人にも聞いているのですが、どうしても僕が納得できる理由が得られませんでした。
何人にも聴くうちに(そしてその殆どに面倒なやつという視線を向けられるたびに)、これはもう、向こうに懇切丁寧に説明してもらうのではなく、こちらから擦り寄っていくしかないなという結論に至りました。
そして、僕が自分の中で高校野球をみて感動する理由を考えてみました。
それが以下の仮説です。

僕が考えたのは、高校野球に感動するか否かのポイントは、その人が高校球児以上の努力をしているか否かにあるというものです。
仮に高校球児と比べると、自分は全く努力をしていなかったとします。
そうすると、高校野球を見ていると、「あれだけ頑張った子たちが努力で結果を掴んで感動した。」あるいは「あれだけ人生をささげて頑張ったのに夢が破れてかわいそう」という気持ちが生まれるのだと思います。
逆に、普段から高校球児よりもはるかに多くの努力をしている人がいるとします。
この部類の人にとっては、高校球児の努力は別に評価に値するレベルではありません。
むしろ何かを掴み取ろうと思うのであれば最低限必要な努力量。
そうなってくると、高校野球の見え方が途端に変わってしまいます。
当たり前の努力をした人たちが試合をして勝ち負けを競っているだけ。
そこには一過性の勝敗に関するワクワクはあるかもしれませんが、「努力した人たちが夢に向かって頑張る」という種の感動は生まれません。
自分が高校球児(ここでいう「高校球児」はスポーツをみて感動するという手のコンテンツの代名詞としての扱いです)の努力が自分の想定する努力よりもはるかに大きいと感じる人にとっては、高校野球は感動するコンテンツで、自分の方がはるかに努力していると自負している人にとっては何も感動する要素がない。
これが、高校野球に感動する人としない人の違いなのかなあと思います。

こんな風に書くと高校球児の努力を馬鹿にするなと言われてしまうかもしれませんが、少なくとも僕は自分の仕事や関わるプロジェクトに関して、高校球児と比べても負けないくらいの努力をしていると自負しています。 
だから、高校野球をみて微塵も感動はしないけれど、磨かれたプレイを見れば凄いとは思うし、その練習量を察すると彼らに負けないくらいに努力をしようと元気づけられることはあります。
たぶん感動するか元気づけられるかは、コンテンツに対する向き合い方の違いなんだろうなあと思います。
そんなわけでこれが現時点で考える、高校野球に感動するか問題のとりあえずの考えです(笑)

受験で成功するのに必勝法はないけれど、上手くいかない「必敗法」はあるのではないかというお話

僕は学生時代も含めると、かれこれ8年ほど塾講師をしているのですが、これまでに出会って来た子どもたちを振り返ってみると、つくづく「合格する子にパターンはないけれど、落ちる子は共通しているな」と思います。
よく、合格するための「正解」を聞かれるのですが、正直なところ、勉強時間にしろ勉強方法にしろ、自分が第一志望に掲げた大学に入学した子の方法は様々です。
量と時間と根性で突破した子もいれば、徹底的な効率化で合格した人もいます。
「これさえすれば!」といったうたい文句の塾や参考書を見かけることがありますが、正直受かるのには(無駄を省くことはできても)正しい道なんてないように思います。
一方で、受験が上手くいかなかった子に目を向けてみると、いくつかの共通点を見出すことができます。
合格する子には共通項、必勝パターンみたいなものはないが、失敗する子には多くの点で共通するパターンがあるというのが、おそらく教育に関わる人たちの共通認識であるように思います。
ということで、僕が強く感じる「上手くいかない子」の共通項をまとめてみたいと思います。

①スケジュールを立てない、計画通りに動けない
何かを達成するためには、その工程表、つまりスケジュールが不可欠です。
家を建てるのであれば設計図が、銀行から資金を調達するためには事業計画所が。
そういった「どういう工程で進み、どのくらいの期間で達成するか」という計画がなければ、ある程度の規模の目標は達成できません。
もちろん計画表がなくても達成できることは多く存在しますが、それは①計画表がいらないくらい簡単な目標であるか②計画表がいらないほど自分の能力が上回っているかのいずれかです。
誰の目にみても明らかにその工程どおりにいけば目的を達成できるという計画を示せる人はどんな分野でも一定の成果を出すことができます。
逆に、無計画な人は現状の実力の範囲内でしか成果を得られません。
そのため、受験勉強で自分の現状よりも大きな目標を掲げる場合、計画をしっかりと立て、且つそれを守れなければ目標を実現することは不可能なのです。
受験が上手くいかない人は例外なく、このスケジューリングができていません。

②勉強を「~したい」で行っている
受験勉強がある目的を達成するための手段である以上、そこあるのは「~しなければならない」という、mustによる意思決定です。
当然そこには自分の好き嫌いやわずらわしさといった「気持ち」と対立する事柄も多く登場します。
結果がでない人ほど、「この勉強がしたい」「この科目が好き!」といった、自分の感情を優先しがち。
結果として、好きだったりラクだったりする科目にばかり勉強の配分が傾き、合格からどんどん遠ざかります。
勉強の成果は対数関数的に増大します。
したがって、たとえ得意な科目であっても、9割から9割5分に伸ばすことは苦手科目を5割から5割5分に伸ばすことと比べれば大変なのです。
その辺を割り切ることができず、自分のやりたい気持ちを優先していれば、当然結果として合格は遠ざかります。
これもやはり受験勉強がうまくいかない子に共通する特徴です。

③コスト意識がない
時間であれお金であれ、基本的にあらゆるものが有限です。
特に試験日が固定されている受験生に関しては、「時間」は非常に貴重な資源です。
どんなささいな物に関しても、常に投資した時間に対してどれほどのリターンがあるのかには意識を向けておかなければなりません。
極端な話、周りに時間の制約があって自分にだけ時間が無限に与えられたならば、どんなことでもかなえることができるのです。
受験で上手くいかない人ほど、この「コスト感覚」が薄いように思います。
「この勉強をしなければいけない」というものを見つけたら、それのリターンがどれほどかを考えず、とにかく膨大な時間を費やしてしまうのです。
本来有限であるはずの時間を無限のものであると思い湯水のように使いこめば、当然そのツケは後の自分に回ってきます。
受験勉強でいえば、受験日に間に合わないということになるのです。
限られた期間の中で目標を達成しようとすれば、限られたリソース(時間)をどう使うかに目を向けなければいけません。
それをしなければ当然、得られる結果は配分ミスによる期待にそわないものとなってしまうのです。

他にもいろいろとありますが、特に上に挙げた三点は、受験で上手くいかない人に例外なく共通します。
もちろん、これら3つをしないようにするだけで合格できるなんてものではありませんが、少なくとも合格の可能性は出てきます。
もし受験生の方で、自分でこれらを自覚している、あるいは周りに注意されたことがあるという人は、ぜひ注意してみてください。

EXILEの銀河鉄道999はマーケティング的に成功か

少し前に銀河鉄道999のエントリを書いた関係でYouTube銀河鉄道999の動画を貪っていたのですが、その過程でEXILEのカバーする銀河鉄道999にたどり着きました。
普段はあまりコメント欄は見ないのですが、不意にコメント欄が気になって見てみたら批判の嵐(笑)
EXILEファンの方のEXILE擁護意見、EXILEアンチの方の批判、そして往年のゴダイゴのファンの声と、多方面で面白いなあと思いました。
それぞれのコメントはともかく、僕は純粋にEXILEマーケティング戦略として、ゴダイゴ銀河鉄道999カバーが成功だったかどうかに興味があったので、その辺をいじってみたいと思います。

これは完全に僕の憶測ですが、そもそもEXILE銀河鉄道999をカバーした動機って、新しいファン層の開拓にあったんじゃ無いかって思うんです。
普段EXILEに馴染みが無いであろう団塊ジュニア世代に対してアプローチをかけようと思ったとき、ゴダイゴというチョイスは大正解だと思います。
ただ、問題はここから。
新しいファン層を獲得しようと思ったら、カバー曲をきっかけに、他の曲にも興味をもってもらうことが不可欠です。
そこが銀河鉄道999をカバーしたことでできたかどかがポイントだと思うのです。

僕がEXILEを聞くようになったきっかけは、Choo Choo Trainでした。
これもカバー曲。
アレンジにボーカルの声が合っていたこともあり、そこからEXILEを聞くようになりました。
今まで興味のなかった層にリーチして、そこから新たなファン層を開拓していくといういう意味で、ChooChoo Trainのカバーは成功だったと思います(少なくとも僕みたいなタイプには)
それに対して銀河鉄道999の場合は、Choo Choo Trainのときの様にはなりませんでした。
むしろ、EXILEのカバーをきっかけに、ゴダイゴの歌う原曲を久しぶり聞いてみたいと思った人の方が多い様な気がします。
EXILE銀河鉄道999をカバーしたのと同じくらいの時期からゴダイゴのテレビ露出が増えていることからも、EXILEのカバーを聞いてEXILEに興味を持つよりも久しぶりにゴダイゴをみたいと思った人が多かったと考えることが出来ます。

EXILEのカバーした銀河鉄道999については、特に思ったことはありません。
ただ、純粋にマーケティング的な観点で見たときに、僕は失敗、、、Choo Choo Trainのときほどは上手くいかなかったのでは無いかと思うのです。

将来役に立つスキルを身につけるなら、英語よりパソコンだと思う

僕の基本的な考え方はとてもシンプルで、一言でいえば「逆張り」です。
以前、超簡単!自発的に女の子がスカートを短くするのと男子の制服着崩しをやめさせる方法 - 新・薄口コラムというエントリを書いたのですが、これの基本的な考え方も、「どうしたらスカートを短くするのをやめさせられるか」ではなく、「どうしてスカートを短くしたいのだろう」という考え方から行いました。
多くの人がAに行くのなら、その反対方向を考える。
何かについて考えるとき、僕はまず、この逆張りから入ります。

就活シーズンになったためか、僕のFBやTwitterのタイムラインにしばしば就活に役立つスキルなるものが流れてきます。
その中でよくあるのが「英語力」です。
で、これを見てぼくが考えるのは「逆張り」で、むしろ英語力は役に立たないのではないかということ。
小中高の学習指導要領に大学まで、様々な場面でグローバル人材としての英語の必要性みたいなことを耳にしますが、ここまで重要性が説かれてしまったら、「最低限必要なスキル」としてならともかく、「英語ができる=武器になる」とはいかないように思うのです。
もちろん、現実として僕の周りには英語ができるが故に一流企業に勤めている友達がたくさんいます。
しかし彼らの「英語ができる」は海外に1年以上の留学をしていて、且つTOEICでは軽々900点を超えるレベルのお話です。
確かにこのレベルならば武器になりますが、それも現時点(厳密には僕が就職活動をしていた3年前)のお話。
ここ何年も英語力の大切さが強調されているので、おそらく「武器になるレベル」は今後ますます高くなると思うのです。

英語力はいわば求められるハードルがインフレ化している分野です。
世間でその重要性が叫ばれれば叫ばれるほど、要求されるラインは上がり、投資した時間あたりのリターンは小さくなっていくはず。
そんなわけで僕には、英語をこれからの自分の武器にしようとはどうしても思えないわけです。
こんなことを言うと、「じゃあお前は何を武器にしたらいいと思ってんねん!」と突っ込まれてしまいそうです(笑)
僕が仮に今大学生だったとして、これからの社会に出る上で身に付けておこうと思うスキルを考えるとしたらそれは、間違えなく「デフレ化」を起こしている分野だと思います。
たとえばパソコンなんかがその典型例です。
i-Phoneを筆頭に、ゼロ年代後半から、驚くべきペースでスマホが普及しました。
それに伴って、若者のパソコンの所有率は低下しています。
しばしばスマホはパソコンの小型版というような紹介のされ方をしますが、その機能的な特徴から見たとき、明らかにパソコンとは異なるものであるということができます。
パソコンの基本的な用途が「生産」にあるのに対して、スマホの基本は「消費」です。
これは、オフィスワーカーをターゲットにしたことで成功したマイクロソフトがパソコンでのシェアで圧勝し、消費者をターゲットにスマホのシェアを撮っていったApple社の成功からも明らかです。
根っこをたどればパソコンは生産のための「道具」で、スマホは消費のための「道具」なのです。
この辺はちきりんさんのブログで詳しくまとめられています。
僕がねらいどころだなと思うのは、生産者側のデバイスであるパソコンと消費者側のデバイスであるスマホという明確な特性の違いがあるにも関わらず、両者はしばしば混同して語られ、しかもこの軸で見たときにスマホのシェアが圧倒的に伸びているという部分です。
スマホとパソコンという同じ電子機器としてみれば、より新しい技術が古い技術を淘汰しつつあるというように見えますが、パソコンを「生産デバイス」と、スマホを「消費デバイス」と読み替えると、消費デバイスが生産デバイスを淘汰しつつあると見ることができます。
これが、僕の考える「スキルのデフレ化」です。

度々このブログのエントリで言っていますが、僕は現状起きていることに対して「いい」とか「わるい」とかいう意見は持ち合わせておりません。
単順に、「こう見えるから、僕はこう動く」という部分のみ書いています。
したがって、上に書いたお話に関しても「こうあるべき/こうするべき」といった「べき論」は一切ありません。
ただ、生産ツールとしてあるパソコンが今の一番若い世代にとってなじみの薄いものになりつつあるのであれば、それを使いこなせることは大きな武器になるなと思っているだけの話。
少なくとも、インフレ化しつつある「英語力」よりは、デフレ化しつつある「パソコンのスキル」の方が、効率よく周りと差別化できるように思うのです。
もちろんここで言う「パソコンのスキル」とは、ExcelやWard、パワポにとどまらず、最低限のプログラミングやデザインができるというレベルです。
ただ、それでも今後求められるであろう英語力の水準と比べたら、こちらのハードルの方がずっと低いように思います。
よく、僕みたいな考え方は天邪鬼とかひねくれてるとか言われますが、100%間違えではないと思っています。
少なくとも変革期には「逆張り思考」が思はぬところで役に立つような気がするのです。
なんて、英語を教えている人間が言うのもおかしな話ですが。。。

 

 アイキャッチはこの前偶然すれ違った落合陽一さんの本

これからの世界をつくる仲間たちへ

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