新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



ヨルシカ『アルジャーノン』考察〜「貴方」の幸せを願う僕の正体と僕が思う幸せを読み解く〜

ドラマ『夕暮れに、手をつなぐ』の主題歌としてリリースされたヨルシカのアルジャーノン。

曲単体としても良い曲なのはもちろんですが、小説『アルジャーノンに花束を』を踏まえると一層味わい深くなるなと思ったので、今回はこの曲について掘り下げてみようと思います。

 

歌詞の中に出てくる『アルジャーノンに花束を』のオマージュ

 

僕がこの曲を聴いて『アルジャーノンに花束を』と結びついたのは、タイトルというよりは歌詞の中に出てくる「長い迷路」というフレーズからでした。

あの小説における「迷路」をモチーフに歌詞を組み立てるのが素敵だなあと。

 

 

小説『アルジャーノンに花束を』は発達障害に悩むチャーリイという男の子が主人公の物語なのですが、その中に動物実験で脳手術を受けたネズミのアルジャーノンが登場します。

脳手術を受けたネズミのアルジャーノンは非常に高い知能を手にし、チャーリイとどちらが早く迷路をゴールするかという実験ではチャーリイよりもずっと早くゴールをしてしまいます。

それをきっかけに「僕も賢くなりたい」と望むチャーリイ。

そんなチャーリイはひょんなことから同じ手術を受け、発達障害から一気に超人的な知能を手にします。

突然人並み以上の知能を手にしたチャーリイは、その知性と思考力で様々な結果を出す反面、精神面は幼いままで、周囲と様々な軋轢を産んでしまい、そのことに悩みます。

そして、ある程度時が立った時、脳手術を受けたネズミのアルジャーノンの知能が急激に低下し、元よりも下がり、果ては死んでしまいました。

その時には自分に手術を施してくれた研究者たちよりも高い知能を得ていたチャーリイ。

彼は自分自身の知能でもって、アルジャーノンと同じ道を自分も辿ることを悟ります。

なんとか解決を試みるもその知性に匹敵する者は他におらず、解決策がないことが分かるだけ。

自分の運命を悟ったチャーリイは自分とアルジャーノンの症状を後世に伝えるために自分の症状を経過報告として手記に残します。

アルジャーノンに花束を』はその経過報告という体裁で展開する物語。

徐々に失われる知性の中でチャーリイが残す手記の最後にタイトルの意味は分かるのですが、そこを書いてしまうと壮大なネタバレになるので、今回はここまで。

 

以上が非常にざっくり書いた『アルジャーノンに花束を』のあらすじです。

迷路というのは脳手術で一時的な知能を手にしたアルジャーノンと知能が欲しいと望んだチャーリイを表す象徴的なフレーズな訳です。

 

「ゆっくり」を肯定する様々なフレーズ

 

ヨルシカの『アルジャーノン』には、ゆっくりとした時間の経過を示す描写がいくつか登場します。

「風に流れる雲」「少しずつ膨らむパン」「育っていく大きな木」「あくびを一つ」etc...

さらには歌詞中に全部で12回出てくる「ゆっくり」という言葉。

明らかに「ゆっくり」という部分を強調したい歌詞構成となっています。

これは『アルジャーノンに花束を』に当てはまるなら、一時的な知能を手にしたチャーリイとアルジャーノンとの対比と受け止めることができます。

彼らは一時的な知能を手にした反面周囲との折衝を繰り返し(あらすじでは省きましたが、ネズミのアルジャーノンもその高すぎる知能が理由で仲間から阻害されていました)、前以下の知能になり、その果てに死が待っていた。

それはある種才能を手にして生き「急いだ」象徴とも捉えることができます。

人並み以上の知性を得て、それゆえに苦しみ、自分の死を受け入れて晩年を過ごしたチャーリイとアルジャーノン。

その姿と照らせば、決して能力はなくても(仮に人並み以下でも)、ゆっくりと必死に一歩一歩もがき、それでも希望を失わない姿こそかっこいい。

そんな視点が『アルジャーノン』という曲には流れている気がするのです。

 

作品に出てくる「貴方」と「僕」とその思い

 

以上を踏まえた上で考えたいのが作中に出てくる人称代名詞についてです。

この歌詞には「貴方」と「僕」という歌詞が出てきます。

この歌単体で見れば「貴方」は僕に世界の楽しさを教えてくれた人、「僕」はそのおかげで前を向けたと受け止めることもできるのですが、それではどこか不自然な点が生まれてしまいます。

「貴方」が「僕」にかけがえのない世界をくれた人ととってしまうと、貴方にゆっくりとした変化を求めることや、貴方の成長をどこか客観的に見守るような「僕」の視点の整合性がとれません。

そういう部分を踏まえて、僕が提唱したい仮説は、この作品の「僕」は小説『アルジャーノンに花束を』に出てきたチャーリイとアルジャーノンなのではないかという読み方です。

彼らは知能を得たおかげで様々な世界を知れたと同時に、それゆえに生き急いで自分の最後を受け入れていきました。

そんな二人が振り返ってみたら、何も知らず、ゆっくりと、でも決して諦めずに困難にぶつかる姿こそ最も眩しく尊いものに見えるのではないかと思うのです。

そしてその視点から「僕たちと同じ轍を踏まないように」「ゆっくりと人生を踏み締めて」と語りかけてくれる。

そんな視点で描かれているのが、このヨルシカの『アルジャーノン』なのかなと。

作品へのオマージュを仮定した時、僕にはそんな風な曲に聞こえました。

抽象的だからこそ多様な解釈が可能なこの曲。

みなさんはどう受け止めますか?

 

アイキャッチはもちろん『アルジャーノン』

 

龍谷大学2022公募推薦入試国語第3問「曽我物語」現代語訳

赤本に現代語訳が載っていないため、現代語訳を作りました。

龍谷大学を志望する人がいらっしゃったら、過去問演習にご活用下さい。

(読みやすさを優先したため、細部に細かな誤釈があります)

 

安元二年三月の半ばころから、兵衛佐殿は北条の姫と深い関係になり、夜ごとに通いなさっていた時に、姫君が一人生まれなさって、たいそう睦まじくお思いになる中で、北条の姫との仲も並でないものとなりなさった。
 そもそも北条四郎時政の子息、小四郎義時は京へ上ることをとどめており、兵衛佐殿を守護し申し上げているときに、妹のところに兵衛佐殿が通いなさっていることを詳しくは知っていたけれど、表情に出さずに心の中で「同じ妹婿であるのに、どうして嫌うことなどあろうか。今は平氏が栄華を誇っている世の流れから外れているというだけである。むしろ血筋といい才覚といい、一族に迎え入れることは自分たちにとっても名誉なことだ。」とお思いになっていた。
 継母の女房は、この様子を見て、「あのように取り計らうのなら、自分が生んだ娘を兵衛佐殿と結婚させるのに」と思って、日々夜な夜な万寿御前(姫)を恨みなさることはこの上ないほどだった。前世からのご縁というものを知りなさらない女性の考えそうなことだが情けないことだ。女房は使いを用いてこのことを都へと告げなさった。北条殿も都から下っている最中であったため、垂井の宿で使いのものと行き合った。北条殿がこの手紙を開いてみなさったところ、思いもよらない婿を姫に取らせるという内容が書いてあり、ひどく動揺した。その驚きももっともである。というのも、北条殿は都で当国の目代である和泉の半官平兼隆を都で婿にとっていたのであった。彼は平家の侍でその一門である上に、都でもこの道中でも、家の者、家来に至るまでに対して互いに親切にし合って、まして伊豆についたあとは、一国の支配を任せると約束していたほどだったので、北条殿は「どうしよう」と思っていたのである。
 それで時政は両目を閉じて、「これまでの事を考えてみると、時政の先祖上野守直方は伊予守頼義公が奥州へ出向いていた時に、北条の屋敷へ参上しなさったときに、婿に取り申し上げて、そのまま奥州へお供し、安定して統治することになった。男の子供がたくさん生まれなさったことからも、源氏と北条氏の縁がいよいよ浅いものではないと考えなさって、将軍の妻にしたということを聞いている。この二人の間に生まれた子たちは八幡太郎義家、賀茂次郎義綱等で、子孫はますます繁栄し、それは末代まで長く続いていることだ。時政の家に源氏を迎え入れれば、同じく末永く繁栄することになるだろう。」と思いをめぐらせていた。「兵衛佐殿の件はそこまで嫌うことでもないのだろう。しかしながら、都で目代を婿にとり、お互いに親切にし合って帰っている道中であるので、どうしたものか」という気持ちも心に浮かぶが、また繰り返し「それならそれでいい。ただしそれならばそのことを知らないふりをして住まいに帰る事はできまい。目代と一緒に伊豆の国府へいきつつ、知らないふりで姫を呼ぶのが安心だろう」と驚く心を落ち着かせて、目代を連れて府庁にお付きになった。(中略)女房の方へは、「時政は目代を連れて府庁へ留まっています。(中略)都で目代を婿にとってきました。急いで姫をお連れ下さい」よあったので、継母の女房はたいそう喜んで、「万寿を目代のほうへつかわすのならば、私の娘を兵衛佐殿とむすばせればよいのか」と内心喜んでいるのは本当にあさましいことである。女房はすぐに姫君を参上させ、「これが北条殿からのお手紙であることよ」と見せられたので、姫君はそれをご覧になると胸もふさぐ気持ちがして、泣くよりほかにどうすることもできなかった。(中略)ちょうどその時、兵衛佐殿はどこかへおでかけになられた後だったため、これまでの二人の仲のことを語り合うこともできない。「とにかくそこへ行くことにしよう」とお思いになったので、不本意ながら出発しなさった。泣く泣く手紙をお書きになって書置きをしようとしなさったところに、兵衛佐殿が用事から帰って来なさった。北の方(姫)は泣き顔でうなだれていらっしゃる。兵衛佐殿はこの御有様をご覧になって、「これはどうしたことなのです」とおっしゃられたので、北の方は涙を押さえて「親にあります時政が、都で私を目代と結婚するように約束してきたということで、府庁からの使いがきたのです。今は親の命令に従おうとしていて、愛するあなたとの別れの苦しみで胸が焼かれる思いです。夫婦として最後まで添い遂げようという思いに違わまいとするならば、親不孝の罪をのがれることができません。どちらをとっても私の気持ちの落ち着きどころがないことが悲しく思います」と伏し沈みなさる姿はなんとも耐え難いものである。

 

 

 

 

2023年龍谷大学公募推薦古文「新花摘」(与謝蕪村)現代語訳

赤本に現代語訳が載っていないため、現代語訳を作りました。

龍谷大学を志望する人がいらっしゃったら、過去問演習にご活用下さい。

(読みやすさを優先したため、細部に細かな誤釈があります)

 

結城の丈羽は別荘を建てて、一人の老翁に留守を命じて常に留守番をさせていた。街の中ながら樹木が生い茂って、ちょっと世間の俗事を避けるのには具合がよいので、私もしばらくの間その場所に泊まった。(中略)私は奥の一間にいて布団をひき被ってうとうと寝ようとしていたときに、広縁の方の雨戸を、どしどし叩く音があった。(中略)とても不思議で胸がどきどきしたけれども、むくりと起きて、そっと戸を開けて見ると、目をさえぎるものがない。また、寝室で眠ろうとした時に、最初のようにどしどしと叩く音が聞こえる。また起き出て見ると、なにかの影さえない。
 とても気味が悪いので、老人に言って、「どうしよう」など相談したところ、老人は「(中略)狸のしわざである。またやって来て打つ時、あなたはすぐに戸を開いて追い払いなさい。私は、裏口の方からまわって、生け垣のもとに隠れて座って待つことにしよう」といって笞を引き寄せて構えながら様子をうかがっている。私も寝たふりをして待っていると、またどしどしと叩く音がした。「ああっ」と私が戸を開けると、老人も「やいやい」と声を掛けて出て来たところ、まったく何もいないので、老人は腹が立って、隅々まで探たけれども、影さえ見つからない。このようにすることが、連夜五日ほどになったので、心も疲れて、今となっては住むこともできなく思っていた時、丈羽の家の主任のような者がやって来て「そのものは今夜は参るはずはない。この明け方、(中略)村人が狸の年老いたのを仕留めた。考えるに、この頃、ひどく驚かし申し上げたのは、疑う余地もなくあいつの仕業である。(中略)」と語る。そのとおりにその夜から音がしなくなった。腹立たしいとは思うけれども、この頃、旅の寂しい独り寝を慰めようと訪れて来た、その狸の心がいじらしいので、浅くない前世からの契りでもあったのだろうかと、ふと悲しくなる。それで、善空坊と言う道心者に相談して、お布施を渡して、一晩念仏してその狸の菩提を弔いました。
  秋の暮れに仏に化ける狸だなあ。

 


 ある夜の午前二時ごろのこと、体調が少しばかりよくなったので、トイレに行こうと体を起こした。厠は奥の縁側、北西に行ったところの角にある。灯りは消えていて大そう暗く、慎重にふすまを開けて右足を差し入れたら、何であろう、むくむくと毛の生えたものを踏みあてたようだ。恐ろしかったのですぐに足を引っ込めて様子を見ていたのだが物音もない。不思議で怖いけれど気持ちを落ち着けて、次は左足でここだと思ってはたと蹴ってみた。しかしまったくもってそのようなものはない。いよいよ納得できなくて、震えながら住職などが生活する庫裏にあるところに行って、ぐっすり寝ている法師やお手伝いのものなどを起こして、あったことを語ると、みな起きだした。灯りを沢山炊いて奥の間に行ってみたところ、(中略)不審なものの影さえ見えない。皆は「あなたは病気で正気ではなく、ありもしなかったことをいっているのでしょう。」と言いながら怒りながら再び眠りについた。なまじそうでないとも言い切れない事だなあお申し訳なく思って、自分も寝室に戻った。そのまま眠ろうとしたときに、胸の上に重い石を乗せたような感覚がして、うめきにうめいた。その声が漏れ聞こえたのであろう、住職の竹溪師はいらっしゃって、「なんてことでしょう、これはどうしたことなのです」と助け起こした。少し落ち着いてあった出来事を語ったところ、「そのようなことは確かにあるのでしょう。かの狸小僧の仕業である。」といって、妻戸を開いて様子を見たところ、夜がすっかりと明けて、はっきりと縁側からしたに続き、梅の花が散らしたような跡がついていた。さて、先刻いろいろ言った人たちは「そういうことだったのか」と笑い合っていた。

 

 

 

龍谷大学2023一般入試国語第3問「落窪物語」現代語訳

赤本に現代語訳が載っていないため、現代語訳を作りました。

龍谷大学を志望する人がいらっしゃったら、過去問演習にご活用下さい。

(読みやすさを優先したため、細部に細かな誤釈があります)

 


男君が前の几帳を押しのけて「ここにいます。さあ出てご対面下さい」と申したので女君は恥ずかしいけれど前に出る。父の大臣が見なさると大変美しく、すばらしく成長して、たいそう白い綾の単重ねに二藍色の織物のうちぎを着なさって座っていらっしゃった。みると、この女君よりよいと思っていた娘よりも優れている。なんで落窪に押し込めて日々を過ごさせていたのかと思うと恥ずかしく思い、「(私のことを)情のないものだと思っていたために、今まで私に知られないでいらっしゃったのですね。対面できたことは、この上なくうれしく思います」とおっしゃると、女君は「私はまったくそのようには思っておりません。私が折檻されていたときに、男君とお会いしてお話した時に、『はやりあなたのことを不都合に思っていらっしゃるのでしょう。しばらくは(父に)知られなさるな』とありましたので、隠しておりました。心では全くそのようなことは思っておらず、いつかお目にかかれることを強く思っておりました」とおっしゃれば、父の中納言は「あの時、男君から冷たい対応をされた時は、『大そう失礼なことだ。何を思ってこのような仕打ちをしなさるのだ』とも思っていましたが、今全てを聞けば、女君の事をひどく扱っていたと思われていたから罰としてこのような仕打ちをされていたのだなあと、全て納得できたので、今はかえってうれしくもあります。」と笑いなさった。女君はたいそううれしく思って、「それはそれで恐れ多いのです」と申し上げたところ、督の君がかわいらしい男君を抱いて、「この子をご覧ください。心までも美しい子であります。あの天下の北の方も憎しみを持つ事はないと思います。」と父の中納言におっしゃると、女君が「またそんなよくない事を」と気まずいご様子でいらっしゃる。
中納言はその男君を見ると老いた身として大変可愛らしい、幼げな姿に心惹かれて、「こちらに」とおっしゃると、そのような老人(中納言)を怖がりもせず、抱いている督の君の手を借りて中納言のもとに抱かれたので、「本当に天下の鬼さえ憎まないでしょう。」と督の君が言えば、「いくつになられますか」と尋ねた。「三つです。」と督の君がお返しなされば、「ほかの子もいらっしゃるのか」とお尋ねしなさる。「この男君の弟は今、右大臣のもとにいらっしゃいます。また、姫君がいますが今日は物忌中ですので、今度ご覧にいれましょう」などと申し上げなさって、食事の準備係やお供の人、牛飼いにまで大そうなおもてなしをしなさった。
(中略)
 中納言も督の君もお酒が何杯にもなって酔いなさって、さまざまなお話をしなさった。「今はご要望があれば気兼ねなく言っていただけるとありがたいと思っております」と督の君が中納言に申し上げなさったので、中納言はうれしいこと限りなかった。日が暮れてかれりなさるとき、督の君は、大臣には衣箱の一対を、もう一方の方には日の装束を一下り入れて渡し、世の中でよく知られた高価な帯までそこにそえなさった。越前の前には女の装束を一式に、綾の反物を添えて渡しなさった。中納言は酔って出てきなさって、「今までの関係性を辛くおもっておりましたが、なんとも嬉しいお約束ができました」などとおっしゃる。中納言の従者は多くもないので、督の君は五位、六位、雑色にそれぞれ大そう豪華な土産をとらせた。彼らは中納言と督の君の仲が良くないと思っていたため、(これだけの贈り物をしてくれるなど)どのようなことがあったのだろうかと、不思議に思っていた。

米津玄師「地球儀」考察〜地球儀の意味と宮崎駿さんへのアンサーとしての「地球儀」〜

宮崎駿監督の新作映画「君たちはどう生きるか」の主題歌として書かれた米津玄師さんの「地球 儀」という新曲。 映画館で聞いた時は正直ピンと来なかったのですが、改めて歌詞を見ながら聞いたときに、「な るほど!」という気づきがあったのでその辺についてまとめたいと思います。


曲に出てくる宮沢賢治の詩の引用


地球儀というタイトルと、その出だしからどうしても「地球儀」というモチーフに目がいきがちだと思 うのですが、僕が面白いと思ったのはCメロの次の部分です。
〈小さな自分の 正しい願いから始まるもの ひとつ寂しさを抱え 僕は道を曲がる〉 この部分を見ると、宮沢賢治の「小岩井農場」の次の場面を思い出します。
=================================== ちいさな自分を劃ることのできない
この不可思議な大きな心象宙宇のなかで
もしも正しいねがひに燃えて
じぶんとひとと万象といつしよに まことの福しにいたらうとする それを一つの宗教風の情操であるとするならば そのねがひから砕けまたは疲れ じぶんとそれからたつたもひとつのたましひと 完全そして永久にどこまでもいつしよに行かうとする 〈中略〉
もうけつしてさびしくはない
なんべんさびしくないと云つたとこで
またさびしくなるのはきまつてゐる
けれどもここはこれでいいのだ
すべてさびしさとかなしさとを焚いて
ひとは透明な軌道をすすむ
ラリツクス ラリツクス いよいよ青く
雲はますます縮れてひかり
わたくしはかつきりみちをまがる(かつきりみちは東へまがる) ※( )内は修正版として掲載されているものです。 =================================== 〈「ちいさな自分」を劃ることのできない〉、〈もしも「正しいねがひ」に燃えて〉、〈「またさびしくなる」 のはきまつてゐる〉、〈「わたくしはかつきりみちをまがる」〉というように、超長編詩の「小岩井農 場」のパート九に出てくる言葉をこれだけ重ねているのは恐らく意図的でしょう。 米津玄師さんが「カムパネルラ」とう曲の中で銀河鉄道の夜をモチーフにしている点(其の中でも 今回の「地球儀」同様にフレーズ引用が多用されています)、そして何より「僕は一度銀河鉄道を やらなければいけない」といいながら「千と千尋の神隠し」を描いた宮崎駿さんの映画ということ で宮沢賢治をこっそり忍ばせたのは確信犯だと思います。


小岩井農場を引用した意図


さて、米津玄師さんが「小岩井農場」を引用したのはなぜなのでしょう。 宮沢賢治は自身のこの詩を「詩」と呼ばれることを嫌い、自らは「心象スケッチ」だと名乗っていた のだそう。

小岩井農場」は賢治自身が駅から農場まで向かう際に心に残った風景を、心の中の風景と混 ぜて描かれています。(ちなみに心象風景の中で「しゃべる鳥」が出てきます) 現実と心象風景、そして視覚に入った風景の断片が次々とつながって詩が成立するわけです が、僕はこれが「君たちはどう生きるか」と重なって感じました。 つまり直接的な映画との関連性を歌詞に反映するのは野暮だから、その構成をとった詩のフ レーズを引用することでわかる人(宮崎駿さんと鈴木敏夫さんは当然わかるでしょう)に伝わるようにしたのかなあと。


愛されて幸せに育った無邪気な幼少期を歌う1番


以上が構成面で気になった部分ですが、ここからはより直接的な歌詞の内容に触れていきたい と思います。
〈僕が生まれた日の空は高く遠く晴れ渡っていた 行っておいでと背中を撫でる声を聞いたあの 日〉 当然自分で自分の生まれた日を見ているわけはないので、これは誰かから自分が生まれた日の ことを聞いた場面であると考えられます。 主人公を「行っておいで」と見送るシーンから、恐らくお母さんでしょう。 この歌は優しい母親に見守られて育ってきた幼少期から始まるわけです。 続くBメロでは幼少期の成長が描かれ、サビは次のように続きます。
〈風を受け走り出す 瓦礫を越えていく この道の行く先に 誰かが待っている〉 サビの前半では無邪気に自分の進む道を走っていく主人公の心象が描かれます。 そして後半も〈光りさす夢を見る いつの日も 扉を今開け放つ 秘密を暴くように〉と続くように、とに かくまだ見ぬ世界に思いをはせながら無邪気に進む主人公。
そして〈飽き足らず思い馳せる 地球儀を回すように〉と締めくくられるわけです。 小さいころに地球儀をくるくるしながらどんな国があるのだろう?とわくわくした経験があるのは僕 だけではないはず。 一番では終始いっぱいの愛に守られてすくすくと育つ無邪気な主人公が描かれます。


別れや挫折を知った主人公を描く2番


〈僕が愛したあの人は 誰も知らないところへ行った あの日のままの優しい顔で 今もどこか遠く〉 1番とは一転して悲しげな様子から始まる2番のAメロ。 ここでの「僕が愛したあの人」は、もちろん恋人ととることもできますが、前後の文脈を踏むのな ら、家族の大切な誰かなのかなあという気もします。 ちょうど米津さんがLemonのインタビューで家族との別れを経験したというようなことを述べてい たと思いますので、少なくとも僕は「家族」であると受け止めています。
〈雨を受け歌いだす 人目も構わず この道が続くのは 続けと願ったから〉 Aメロを受けサビが始まるわけですが、ここでは一番と対照的に雨のシーンから始まります。 1番の歌詞の晴れと無邪気さがリンクしていると考えるのであれば、2番の雨は別れや挫折とリ ンクしていると考えるのが妥当でしょう。 主人公は大切な存在との別れを経験してただ続いた道を走っていたのではなく、自らがそれを選 んでいたということに気づきます。 「成長と別れ」みたいな安直なテーマに還元する気はありませんが、ここで主人公は大きく世界に 対する考え方が変わるわけです。

〈また出会う夢を見るいつまでも 一欠片握り込んだ秘密を忘れぬように 最後まで思い馳せる 地 球儀を回すように〉というサビの後半からも大切な人を忘れられない主人公の気持ちがうかがえ ます。 歌詞は1番と同じ「地球儀を回すように」ですが、前のフレーズを踏まえると、未知を知りたくて地 球儀を回した1番に対して2番は世界のどこかに大切な人との記憶を探すようにも受け止められ るところでしょう。
そうして続くのが冒頭でも扱ったCメロです。 ここまでの内容を踏まえるとCメロの「道を曲がる」は「初めて自分の足で道を選んだ」という決 意、そして「いつまでも過去を引きずらず一歩踏み出す」という意志があるようにも見えます。 歌全体を通して自分の今までとこれからを表そうとしたというのがこの歌を聞いたときの僕の解 釈です。


地球儀というモチーフで自分なりの「僕はこう生きる」を描いた米津玄師


僕の中で米津さんは小さなシーンを深く深く掘り下げるのがうまいという印象でした。(もちろん 「パプリカ」や「KICK BACK」みたいな曲もありますが) そんな米津さんが全体を描いたのは、宮崎駿さんが今回の「君たちはどう生きるか」で自分の足 跡のすべてを描こうとした(ように僕には感じられました)ことに対するアンサーなのかなと思いま した。 宮崎駿さんの「君たちはどう生きるか?」という問いに対して「僕はこうやって生きてきた」と答えた みたいな。 それはちょうど和歌に対する返歌ではないですが、そう考えると非常にしっくりくるつくりであるよ うに僕には感じられました。 なにより、そんな米津さんの「僕ばこう生きてきた」がそのまま今度は僕たちにたいする「君たちは どう生きるか?」の問いにもなっているという。
僕は聞き手の解釈が多様になるのが名曲の要素の一つと思っているのですが、その意味で米 津玄師さんの「地球儀」は僕の中で間違いなく名曲です。 みなさんはこの曲について、どう聞きましたか?

 

 



映画「君たちはどう生きるか」考察〜宮崎駿さんからの無量空処をくらったお話〜

軽快な枕のあとに続く名作古典落語の名シーンだけをつなげて一本に仕上げた立川談志の十八番のひとつ「落語チャンチャカチャン」
いつだったかの演目では「道具屋→火焔太鼓→大工調べ→らくだ→長屋の花見→...」と延々続いたのを思い出します。
家元、立川談志がそれまでの自身の演技で評価を積み上げたからこそ、たった1フレーズでも観客にそれを思い出させることができ、そんな神技染みた実績と実際の技術があるゆえに成立するのがこの演目なのだと今はわかる反面、家元を知ったばかりの僕は、恥ずかしい話当「ただ即興で名言をつなげるのとのどこがむずいのか」なんて思っていました。

この感情は5月に亡くなった、上岡龍太郎さんにも抱いたものでした。
初めて上岡さんを知ったのは引退後、横山ノックさんのお別れの会に出た姿。

https://youtu.be/3A4Ot4YzxMs

その時の一部の隙間もない話芸に憧れて動画やテープを遡るようになったのですが、途中全盛期の凄さに感動することを経由して、あの「お別れの言葉」に詰め込まれたそれまでの全ての技術とセンスの凄さに改めて驚きました。
こちらもまさにそれまでの人生の全てが詰め込まれた話芸です。

宮崎駿さんの「君たちはどう生きるか」を見た時の感覚は立川談志さんや上岡龍太郎さんのそれと近いものでした。

 

宮崎駿監督が放つ「無量空処」に耐えられるか

 

さて、具体的に映画を見てきた感想ですが、見終えた直後の率直な印象は「情報量が多すぎて思考が追いつかない」でした。
まさに呪術廻戦に出てくる五条悟の必殺技の領域展開「無量空処」という感じ。
今までの作品以上にやりたい事も意図も伝わってくるのですが、伝わってきすぎて脳が疲れるという印象でした(笑)

僕が「無量空処」のように感じた最大の理由は今までの宮崎駿さんの作品と比べ左脳を使う余地(ストーリーで楽しむ余地)が少ない点にあるように思います。
僕は作品を鑑賞する時、論理の積み上げの先にコンセプトを見出す左脳的な楽しみ方と、直接語られないが作品の節々に表出したた感覚の積み上げの先に観念を見出す右脳的な楽しみ方をします。
たとえば「千と千尋の神隠し」でこのふたつの見方をするのなら、前者は「少女が風呂屋での仕事を経験して独り立ちする話」ですが、後者では「宮沢賢治的な自己犠牲のお話」という全く違う側面が見えてきます。
桑原武夫さんが『文学入門』の中で語っている事ですが、本当に優秀な作品は、その真意が巧みに隠されていて何度も何度も触れ、少しずつ細かな違和感や表現を感じとる先に本当の表情を持っています。
僕が考える「右脳的な読み解き」はこちらにたどり着く作業のことです。

さて右脳的な読み方を説明した上で「君たちはどう生きるか」に戻りますが、大抵の作品は左脳的に楽しめて、その後その左脳的な楽しさというフックがあるから何度も味わい、味わう内にその奥にある観念のようなものに触れる体験をするのですが、この「君たちはどう生きるか」はいきなり右脳的な読み方を求めてくる印象です(笑)
なんというか美術館で絵を見るような感覚。
もちろんキャラクターの性格や描写、関係性、あるいは豪邸と宮崎駿さんの人生や時代性、人間関係や社会問題を結びつけて、それぞれのモチーフに意図を探るみたいな「左脳的」な読みもできると思います。
しかし特に今回のような作品ではそうした細かな意図を掘り返すような読み方は今後僕よりずっと凄い分析班が無限のコンテンツを上げると思うのと、個人的にはあえてその読みをしないほうが宮崎駿さんが伝えたかったことに近づけるような感じがするので、僕はあえてそういった考察班的な方は掘り下げないで行こうとおもいます。

絵画鑑賞ならば違和感や自分の興味のままに立ち止まる事も、戻る方も、または気になった部分をその場でメモする事も可能ですが、「映画」という時間も空間も全てを作り手に握られた表現手法では、そのようにこちらのペースで消化する事もできません。
この作品はストーリーというよりもそういう感覚的な受け止めが要求される感じ。
そのためこの作品を楽しもうとすると、100分近い間ずっと能動的に感覚に訴えかける情報を向こうのペースで受け止め続けなければいけないみたいな状態になるわけです。
これが僕の感じた無量空処感(?)なのかなと思います。

 

「僕はこうやって生きてきた」

 

宮崎駿がYouTuberみたいな正面撮りの固定カメラで「お前らはけしからん」って説教垂れる実写なら面白い。
映画を見に行く前は冗談まじりにこんなふうに思っていたのですが、実際に見た感想としては本当に宮崎駿さんがスクリーンの正面に出てきた印象で驚きました(笑)
ただしそれは正面を向いて「説教を垂れる」というのではなく、「僕はこうやって生きてきた」と自分の背中を見せる形で。

「これからの時代がどうなるかも分からないし、そこを生きる君たちに偉そうに生き方を指南することはできない。その代わり僕が辿ってきた人生をそのまま残すからこれを見て自分の道を探してごらん。」
僕が映画を見終えたあとに「君たちはどう生きるか」というタイトルから受け取ったのはこうしたメッセージでした。
それこそ吉野源三郎が「君たちはどう生きるか」という小説の中でコペル君と叔父とのやりとり、そして最後のコペル君の手紙を以て語りかけたのと同じように。
内容が小説と全然違うという意見を聞きましたが、実際に見てみるとかなり抽象化されてはいるものの、個人的にはむしろ「君たちはどう生きるか」をキチンと踏まえているように感じました。

作中で繰り広げられるのはこれまでのジブリ映画(というより宮崎駿さんが体験したあらゆる景色)の組み合わせ。
そこにはナウシカもあれば千と千尋風立ちぬ魔女の宅急便と、さまざまな作品を思い出すような情景が詰まっていました。
「かろうじて積み上がる積み木のモチーフ」は、まさに宮崎駿さんがスタジオジブリで手がけた13作品(風の谷のナウシカ/天空の城ラピュタ/となりのトトロ/魔女の宅急便/紅の豚/On Your Mark/もののけ姫/千と千尋の神隠し/ハウルの動く城/崖の上のポニョ/借りぐらしのアリエッティ/風立ちぬ/君たちはどう生きるか)を表しているのかなという印象です。
或いはイーハトーブ的な世界観に出てくる自己犠牲のようなやり取りからは宮沢賢治を、タッチの明らかに違う庭の水蓮からはモネをというように、おそらく宮崎駿さんが影響を受けたであろう様々な作品の断片も含まれます。(あえて「煉獄」という言葉を用いなかった地獄と天国の間の世界はダンテを、少年の走り出すシーンには高畑勲さんへのリスペクトをと、挙げればきりがありません)
以前プロデューサーの鈴木敏夫さんが「宮さんは何年も昔に行った旅行の話を持ち出してその時の絵を完璧に再現できる」みたいなことを言っていたのですが、まさにこのイメージでしょう

「少年の冒険」という一応のストーリーで繋ぎ合わせることで見せられる宮崎駿さんの生きてきたあと。
それを論理や理屈で受け止めるのとは違うところで感じて、僕たちは「君たちはどう生きるか」という問いをゆっくり考える。
それが、この作品なのかなと思いました。

 

感想

 

以上が僕がこの映画を見て率直に感じた所なのですが、最後に少しだけ感想を。
個人的には感動もあったし、途中から「すげえな...」って笑ってしまったのですが、映画を楽しみにきた人、あるいはそれこそ左脳的な読解でストーリーや構成、話の巧みさなどを楽しむ人にとってはしんどい作品なのかもなとも思いました。
上映後、僕の席の斜め前にいた坊主頭の子の引き攣った表情は忘れられません(笑)し、「物語」を楽しみにきたらその反応が正しいだろうなとも思いました。

また、僕自身も途中までは、「これは自分の弟子(エヴァ庵野さんやジブリで関わったスタッフ)に対しての「君たちはどう生きるか」やん!」という感覚で見ていました。笑(ごめんなさい...)
そんなわけで評価が分かれるのも当然だし、それこそ事前情報も一切ない中でクレヨンしんちゃん的な涙と笑いの冒険活劇を求めて行ったお客さんが戸惑うのも当然だろうなと思いました(かくいう僕も見始めるまでは「ナウシカ2」みたいなものを期待していたので)

あと全然関係ありませんが、この作品を「僕はこういう道を歩んできた」という背中を見せるために自分の記憶にある場面やアニメーションをまとめたと解釈した瞬間、僕の中で「これなんかの歌詞にあったな」という引っ掛かりがありました。
で、エンドロールにあいみょんの名前があるのを見た時に、「君はロックを聴かないだ!」となって(笑)
そう考えると、根っこの根っこにあるのは、宮崎駿さんの心の奥にずっと溜めてきた「僕の好きなものを知って欲しい」そして「少しでも近づいて欲しい」だったのかななんて事も。。

そんな妄想はさておき、賛否が沸くものこそ名作と考えるなら間違いなく名作でしょうし、一人の天才の頭の中をこれでもかと覗けるという意味ではむちゃくちゃ凄い作品だと思います。
気になる人はぜひ見てみて下さい。

 

追記「自分の感想がわからない」という人への補助線

 

この記事をアップした後、会った知人から「自分の感想がよくわからない」というお話を聞きました。
見たし、うおってなったけど、楽しかったと言われれば...なのだそう。
SNSを見ていると、そんな感想が散見されましたのですが、個人的にこの作品については岡田斗司夫さんが日曜の生放送で語っていた「わかった/わからない」「楽しい/楽しくない」「すごい/すごくない」の軸で整理すると自分の感想のスタンスがわかりやすいんじゃないかと思いました。
そこで岡田斗司夫さんのカテゴリに基づき、それにより生まれる感情とその感想を持つ人のパターンを言語化して見ました。
それぞれでの要素で分けると出てくる感想は次みたいな感じなのではないでしょうか。①【わかった×楽しい×すごい】

最高傑作!(映画と芸術が好きな人)
②【わからない×楽しい×すごい】
宮崎駿アニメのパレードだ!(これまでの宮崎駿アニメが大好きな人)
③【わかった×楽しくない×すごい】
すごい!けど...(ジブリの物語が好きな人)
④【わかった×楽しい×すごくない】
好みじゃない(好きじゃないアート作品に出会った人)
⑤【わからない×楽しい×すごくない】
よくわからない(感性で作品を楽しむ人)
⑥【わからない×楽しくない×すごい】
絶対意味を理解したい(内容考察が好きな人)
⑦【わかった×楽しくない×すごくない】
つまらない(ストーリーで映画を楽しむ人)
⑧【わからない×たのしくない×すごくない】
がっかり(エンタメを期待して見に行った人)

 

と、それぞれのパターンを考えて見ましたがいかがでしょうか?

 

 

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映画「怪物」考察〜誰にもわかってもらえない二人が目指すハッピーエンドはなに?〜

知り合いにおすすめされて久しぶりに映画館に見に行った、是枝監督の「怪物」

ここのところ教室の移転やら新講座立ち上げやらでバタバタしていて、めっきりインプットが減っていた僕にはむちゃくちゃ新鮮でした。

その気づきとともにインプットの大切さを忘れないために、この興奮を記述しようと久しぶりに備忘録的にブログを開きました。

 

映画が始まって1番、率直な印象は「間が長ぇな」というものでした(笑)

ただしこれは作品が間延びしているという意味ではなく、あくまで普段TikTokyoutubeで必要以上に間をカットした動画に見慣れてしまっていることを気付かされるような違和感です。

(そんな「間」について考えさせられた作品だったので、今回の感想はあえて章に分けずに書いています)

 

作品が始まってすぐ、僕はこの「怪物」という名前が、被害者と思っている当事者が実は客観的な「怪物」だった、もしくは世間に「怪物」と見られるクレーマーが実は被害者だったみたいな結末なのかなあくらいの感覚で見ていたのですが、作品の後半から一気にその空気が変わっていきます。

 

初めは主人公の母親視点で描かれる学校での問題が、次に先生の視点で描かれるわけですが、そこから少しずつ違和感の正体が明らかになるわけです。

(具体的な筋を書いてしまうと見ていない人にネタバレになってしまうので、できるだけプロットの説明に留めます)

その後主人公の視点からも描かれ、視点が移動するたびに少しずつ真実に迫っていくという構成で作品は進みます。

単なる繰り返しにならず、話が繰り返されるたびに疑問点がクリアになるだけでなく、ほんの少しずつ次の話題が出てくる構成はさすが是枝監督という印象。

そんな構成で進む物語なのですが、作品は全ての点がつながり、意外な形のハッピーエンドでおわります。

 

さて、ここまでプロットを極力隠して話を紹介してみたのですが、具体的な感想に入るとそうはいきません。

ということで、以下はネタバレを含みつつ、感想を書いていきたいと思いますのでご注意下さい。

 

僕は作品を鑑賞する時、ざっくりと①ストーリー、②時流、③作家のメッセージという3層に分けて解釈を行います。

例えばドラえもんであれば

①弱虫の主人公がガキ大将に意地悪されてロボに秘密道具を借りて懲らしめるも調子にのって別の問題を巻き起こし痛い目を見る物語

核家族する社会、便利になる社会を表す

③安易な科学万能主義の近代に対する警鐘

みたいな感じです。

 

これでいくと「怪物」は、①は凪良ゆうさんの「流浪の月」に見られるような、周りに理解してもらえない関係をとても繊細に描いたものという印象でした。

二人だけの時間にしか見せない友情。

それゆえに周囲に誤解を与えてしまうのですが、周囲に理解されなくても(されないからこそ)二人の絆は強く、それゆえあのエンディングに繋がるのだと思いました。

 

②の時流というところに関して、僕はこの「怪物」というタイトルが示すのはまさにここではないかと考えています。

もちろん校長先生やアル中の親父といった、罪がありそうな人も出てきますが(僕はその二人もトラウマと向き合うという意味で真の悪者ではないと描かれているように感じましたが)、作品に出てくるほぼ全ての人物が実はピュアで、それぞれの行動には悪気がありません(良くも悪くもいじめも悪気がない)

そんなピュアなやり取りも部分を切り取り色眼鏡でみると、とんでもない悪に移ってしまう。

そんな、それぞれの立場と、切り取った現実こそが、この作品がさす「怪物」ではないかとおもうのです。

これはちょうど切り抜きや短文で成立し、そこから「架空の事実」が生み出されてしまう昨今のSNSに似ています。

そうした世界観を、2時間以上の長尺で、他の作業をすることの許されない銀幕で見る者に伝えてくるところに、この作品の時流を踏まえたメッセージがあるように感じました。

 

最後に③の作家のメッセージですが、これに関して僕は作品を鑑賞している最中に「天気の子」と「銀河鉄道の夜」が頭にうかびました。

決定打はびしょ濡れになった二人が、列車の中で向き合って座るシーン。

あの場面が僕には銀河鉄道の夜に出てくる、級友を助けて命を落としたカムパネルラがジョバンニを優しく悟し、現世に返す場面とかさなりました。

ただし、銀河鉄道の夜で濡れているのはカムパネルラだけであるのに対し、「怪物」では二人ともびしょ濡れ。

その少し前に出てきた遊具を上へと進んだ先にたどり着いた「てっぺん」を鳥籠のように描いていたところ(生きづらい現世のメタファー?)と、この電車の中で話すびしょ濡れの二人を見た時に、悲しくも幸せな、あのハッピーエンドが頭に浮かびました。

宮沢賢治の作家性が「自己犠牲」とするなら、是枝監督は主観と切り取りでできた偏見という名の「怪物」を成仏させる役割を二人に背負わせたのかなあと。

 

宮崎駿さんが「千と千尋の神隠し」で宮崎流の「銀河鉄道の夜」をやったとするなら、是枝監督の「銀河鉄道の夜」がこの「怪物」だったのだろうなという印象を受けました。

(宮崎駿さんの「千と千尋の神隠し」と銀河鉄道の夜のお話はお時間があればこちらの記事を読んでいただけると幸いです左脳と右脳で"2回"読み解く『千と千尋の神隠し』 - 新・薄口コラム(@Nuts_aki))

宮崎駿さんが名付けにおける支配と解放という話の筋に隠れて兄弟愛という形で自分なりの「銀河鉄道の夜」をやってのけたとするなら、是枝監督は二人の幸せと世界を天秤にかけるという「天気の子」的な話の筋に隠して「銀河鉄道の夜」をやってのけたという印象です。

主人公と親友の二人だけはそれ以外の全ての周囲の負債を知ることなく(作中で描かれることなく)あのエンディングで救済される。

そして、二人の自己犠牲により「真実の全てを知った観客」は救済される。

宮崎駿監督が「銀河鉄道の夜」におけるザネリとジョバンニの役割を主人公の千尋に任せたとするなら、聴衆をザネリかつジョバンニの役割に据えたのが是枝監督なのかなあという印象でした。

 

だから最後に幸せに線路を走っていく二人をみて、こんなにも僕たちはつらく、でも幸せな気持ちになるのだろうと。

 

こんな感じで、映画を見ながらふと感じたことをつらつら書いて観ましたが、実際にはもっといろいろな気づきがあった気もするので、改めて思考を整理できたら言葉にまとめたいと思います。

鑑賞直後の1番の感想は「言葉にしづらい」(というか簡単に言語化できない)でした。

最近全然映画館に行けていなかったので、やっぱりきちんと作品を観にいかねばと感じました(笑)

 

アイキャッチはもちろん「怪物」

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