新・薄口コラム

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



ルールに関する向き合い方と社会の中での戦い方

ルールに対する向き合い方に対していろいろな人を観察しているのですが、ザッと次のようなパターンになっているように思います。

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まず、そもそもあるルールが存在するとき、それを「破る」「破らない」の選択肢があり、次に破った場合はそれに正当性があるか否か、破らない場合にはルールを利用するのか、それともそもそもルールに関して視点を及ぼしたことがないのかという部分で4つに分けることができます。
ルールは守るべきものと認識しているけれど自分本位に、相手を出し抜くためにルールを破る人を僕は「悪い人」と分類しています。
因みにこれは名目上「悪い」と言っているだけで、そこに正義不正義の判断は含んでいません。
例えば詐欺で5億円を盗んだあとに捕まって懲役10年の実刑判決を受けた人が「年収5000万なら悪くないか」みたいに言うとかが該当します。
もっとスケールが小さいところで言えば、事前にテストの内容を知っているとか、お金を積んで自分に有利な働きかけをしてもらうとか。
こういうのが僕の考える「悪い人」タイプの人たちです。

同じ「ルールを破る」でも、次のルールを吟味した上で破るパターンに属する人は「悪い人」と少し異なります。
ここに含まれる人は、前提として既存の枠組みそのものを疑います。
そしてその結果、明らかにそのルールが形骸化していたり、理不尽なものである場合、或いは将来的に上手くいかなくなるだろうと判断するからルールを逸脱します。
つまりルールを破ることで「正しさ」を示そうとしているのです。
ここに含まれる人は、ルールを破ることで問題提起をしているともいえます。
このような積極的ルールの放棄をする人を僕は「アツい人」とカテゴライズしています。

ルールを守る人たちは「そもそもルールの存在を日頃から意識していない人」と「ルールの存在を良く見ている人」にわけられます。
ルールの存在を良く意識している人は、そのルールを上手く使って、自分が有利にことを運べる方法を模索します。
だから僕はここに該当する人たちを「ズルい人」と名付けています。
パッと聞くと「悪い人」と同じじゃないかと思われるかもしれませんが、「悪い人」と「ズルい人」には「ルールの内か外か」という部分に明確な区別があります。
「ズルい人」はあくまで「ルールの中で」立ち振る舞いを選ぶのです。
(たまにギリギリを狙った結果、ルールを破ってしまう人もいますが…笑)
ルールは守るけれどスポーツマンシップ微塵もない。
それが「ズルい人」のイメージに近いかもしれません。
ごく少数ですが、性格上はここに該当するのに、良心の呵責からルールを利用することができない人というのも存在します。
ここに該当する人はいつもルール上のひずみに気付くのに、それには目を瞑って苦手なフィールドで戦うことになります。
だから僕はこの人たちを特に「ツラい人」と分類しています。

最後のそもそもルールを意識する必要の無い人たちというカテゴリに分類する人たちもいます。
ここにいる人たちは普段から法律や社会の決まりごとみたいなものを意識することがありません。
そういったものは「常識」として身体感覚として身についているからです。
ルールを破ろうだとか、利用してやろうだとかいう視点がそもそもない。
だから、たまに「ズルい人」や「悪い人」がそうした戦い方で大きな成功を手にした姿をみると、批判的な感情を抱きます。
ここに該当する人にとっては、「ルールを意識する」人たちは、自分たちと同じ前提で(フェアプレー的な精神で)戦わないことに生理的に不快感を抱くのです。
そして、恐らく大多数がここに含まれます。
とうわけでここに含まれる人を「普通の人」としています。
因みにルールを守った上でフェアプレー的な戦いをする人の中で勝ち上がる能力を持った人は「凄い人」、その勝負で負けるひとを「チョロい人」としています(笑)

「悪い人」「アツい人」「ズルい人」「普通の人」(+「ツラい人」「凄い人」「チョロい人」)という分類は、あくまでその人の性格的な戦い方を端的に表したもので、それぞれに正義不正義も優劣も存在しません。
あくまで好みのお話。
皆さんはどこに該当しますか?

高校生を悩ます「山月記」は授業で飛ばされがちな冒頭20行の解釈でほぼ決まる!?

塾のコラム用に書いたのですが、小難しくなり過ぎてしまったので自分のブログエントリにしました(笑)


昨日の授業終わりに定期テストの範囲の質問を受けていたとき、現代文の『山月記』のお話になりました。
山月記』は多くの高校で、2年生の時に勉強します。
そして、1年生で習った芥川龍之介の『羅生門』と同じく、やや取っ付きづらい作品かもしれません。
諸々質問されたのですが、どうしてもテスト対策ベースでは表面的な説明に重きを置かなければならず、作者の技量の凄さとか、地名の果たす舞台装置としての役割だとか言ったものは説明することができません。
そこで、テストでは直接聞かれることは少ないけれど、『山月記』にもっと興味をもってもらえるのではないかという、僕なりの着眼点をいくつかまとめてみようと思います。


虎になる前から李徴が虎になることは示されている

物書きに限らず、何かを作る人は読者の考えるより何倍も細かな所まで気を配っています。
中島敦さんのような繊細な文章を書く人ならそれは明らかです。
山月記では、姿を消した李徴が虎の姿となって袁傪の元に現れるわけですが、よくよく考えて見ると、人が「虎」になるなんて不自然です。
にもかかわらず読み手はその事実を当然のように受け入れているし、何なら「なるほど虎になったのね」と、少し納得しさえしてしまいます。
なぜ僕たちは李徴が虎になるという不自然な展開を、そこまで違和感なく受け入れることができるのか。
その理由は中島敦さんの技巧に隠されています。

李徴が虎になって出てくるまでに、作者は李徴の性格を示す際、虎を暗示させるような言葉を多用しています。
「虎榜(こぼう)」「狷介(けんかい)」「頗(すこぶ)」「埒のつくり+虎)+略」(かくりゃく)」「歯牙」「狂悖(きょうはい)」「発狂」
(教科書で確認してみて下さい)
「虎」がつく漢字にけものへんに牙にetc...
山月記には、李徴が虎になったと発覚する前から、李徴の説明がなされる部分に「虎」を連想させる言葉が多用されています。
そのため読み進めるうちに、無意識に李徴の性格と虎というイメージが結びついてしまうのです。
その上で出てくる虎の姿になった李徴であるため、どこか「虎」であることに納得してしまうのではないかと思います。


臆病な自尊心と尊大な羞恥心も冒頭に描かれている


「隴西の李徴は博学才穎、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね」「ついで江南尉に補せられたが」「いくばくもなく官を退いた後は、故山、虢略に帰臥し」「数年の後、貧窮に堪たえず、妻子の衣食のために遂ついに節を屈して、再び東へ赴き」「汝水のほとりでついに発狂した」
冒頭に登場する、李徴の移動を表す部分を抜粋してみました。
殆どの教科書に地図が載っていたと思うので、ここに書かれている場所をチェックしてみて下さい。

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まず、博学才穎と言われた李徴は隴西という、この描写の中で最も西にいました。
そして、江南という東の地(当時は田舎のイメージです)に仕事で渡り、そこの「俗悪な」上官に嫌気が差して、故郷(故山)に帰ります。
故郷の虢略は隴西よりは東ですが、赴任先の江南と比べればだいぶ西にあります。
そこで詩を作り名を上げようとするのですが、上手くいかず、次第に生活が困窮し、「俗悪」といって見切りをつけた東の地に再び赴かなければならなくなるのです。
そして河南省の汝水(虢略よりはやや東だが全体的には西よりの場所)で発狂して虎になってしまいます。
この東西の移動にそのまま李徴の心情の揺れが表れていると読む事ができます。
最も西にいたときは上手くいっており、東の地に派遣され様々な事に我慢せねばならず、それに耐えかねて故山に戻り才能を頼りに成功しようとするが上手くいかず、再び東に戻り、今度は当時は下に見ていた者が上官になるという経験をする。
そして、再び西に向かおうとした所で発狂してしまう。

冒頭の東西の移動と、そこに表れる李徴のかっとうをまえて「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」という言葉や、後ろに続く自分の弱さの告白を読むと、一層李徴の気持ちが理解しやすくなります。
「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」を抱える李徴が、赴任先の待遇に耐えられず、もう一度才能を信じて西に向かったのに、それも上手くいかず、再び(今度は自らの決断で)東に向かわなければならなかったのです。
中島敦さんは、李徴の東→西の移動が「臆病な自尊心」を、西→東の移動が「尊大な羞恥心」を表しているように設定しているのではないかと思います。

こんな風に見ていくと、まだまだ読み取れる事が沢山ある山月記です。
テスト期間にそこまで読み解く必要はないですし、そもそも時間もないと思いますが、もしなるほどと思うところがあったら、テスト終わりの暇なときにでも読み返して見て下さい。

 

アイキャッチ山月記

 

李陵・山月記 (新潮文庫)

李陵・山月記 (新潮文庫)

 

 

 

槇原敬之『Hungry Spider』考察〜蝶を逃した蜘の気持ちと蜘蛛の巣に潜む作曲者の孤独〜

いつものことですが、あくまで「僕の解釈」なので、その点はご了承下さい。

 

小さい頃、カーステレオからよく流れてきた槇原敬之さんのHungry Spider。

僕がこの曲を好きになったきっかけは、妖艶なその曲調からでした。

大人になってある程度歌詞の意味なども理解できるようになってくると、僕がこの曲に惹きつけられる場所は歌詞へと移っていました。

なんて孤独な歌なんだという印象です。

その頃になって、槇原敬之さんがちょうどこの曲の発表時期に覚醒剤で捕まったことを知ったのですが、そんなことは関係なしにこの曲は孤独に満ちているというのが僕の解釈です。

 

Hungry  Spiderは終始美しい蝶に恋をした蜘蛛の物語というメタファーで「叶わぬ恋」を描いていますが、もう一段掘り下げたところに槇原敬之さんの「気持ち」があるのではと僕は思っています。

 

 

蜘蛛と蝶の物語を読み解く

偉そうに作曲者のホンネを探るみたいなことを言いましたが、そのためにもまずは普通にこの歌を解釈しなければなりません。

(そもそもの歌詞がメタファーで作り上げられているため、まずはそこを攻略しなければホンネも何もないので...笑)

 

<今日も腹を減らして一匹の蜘が 八つの青い葉に糸をかける ある朝露に光る巣を見つけ きれいと笑ったあの子のため>

この曲の登場人物はきれいな蝶と、その蝶を好きになってしまった蜘。

蝶はある日、朝露で光る蜘蛛の巣を見て「きれい」と微笑みます。

それを見た蜘が蝶を好きになってしまう。

そして、毎朝蜘蛛の巣を張ってまたあの蝶に喜んでもらおうとしています。

しかし蝶がきれいと言ってくれた巣は、本来そんな蝶たちを捕まえるためのもの。

朝露で光る一瞬はきれいでも、それが乾いたら彼らを捕食するための罠。

蜘は蝶にまたきれいと笑って欲しいけれど、そこに蜘蛛の巣を張って蝶が近づいてきてしまえば、いつかは蜘蛛の巣に捕まってしまうかもしれません。

そんな葛藤を描くのが1番のAメロとBメロです。

 

<I'm a hungry spider. you're a beautiful butterfly>

このサビには自分と好きになった相手は全く違うものであるということ(恐らく自分に言い聞かせている?)が示されています。

どうせそもそも近づくこともできないのだからこの恋は諦めよう。

そんな気持ちが描かれます。

そして、2番で物語は別の日に移ります。

 

<今日も腹を減らして一匹の蜘が 八つの青い葉に糸をかけた その夜 月に光る巣になにか もがくような陰を見つけた>

1番が「糸をかける」と(厳密にはこの言い方は正しくありませんが)現在形で描くことで昨日も今日も明日も行なっている習慣的行為であるのを表すのに対して2番では「糸をかけた」と過去形にすることで、特別なことが起きたのだと暗示させている所は本当に見事だと思うのですが、槇原さんの歌でそこを指摘していたら(多すぎて)終わらないので、今回はスルーします。

蝶のことを好きになってしまった蜘に問題が起こります。

好きだった蝶が自分の巣に引っかかってしまったのです。

蜘は当然その蝶を食べるつもりはなく、助けようと近づきます。

しかし、いくら蜘が助けようとしていても蝶にとっては醜い捕食者が罠にかかった餌を食べに来ているようにしか見えません。

そのため、蜘が<今すぐ助けると言うより先に 震える声であの子が「助けて」と繰り返す>わけです。

かつて朝露に光る巣を見て笑ってくれた蝶に好意を抱いていた蜘は、いざ目の前で好きになった相手を助けようとして、全力で怯えられてしまいます。

そして2番のサビに。

 

<I'm a hungry spider. you're a beautiful butterfly>

1番同様に自分と相手は違うと言うことを言い聞かせるこの歌詞ですが、前の文脈によってその意味合いは決定的に異なっています。

1番では、相手を傷つけないために自分から言いきかせたこのセリフですが、2番では実際に相手に拒絶されることで気づかされた立場の違いを振り返るセリフになっています。

だからその後ろには、いっそ巣にかかる全てを食べれば傷つかずにいられるのだろうかという歌詞が続く。

この辺の構成がとんでもないなと思います。

 

そして3回目のBメロのあと、最後のサビで<I'm a hungry spider. you're a beautiful butterfly 叶わないとこの恋を捨てるより この巣にかかる愛だけを食べて あの子を逃した>と意味深な歌詞に続きます。

1番のサビでも<叶わないとこの恋を捨てるなら この巣にかかる愛だけを食べて あの子を逃がすと誓おう>というように似た表現が出て来ていますが、ここを解釈するには、槇原敬之さんが「恋」と「愛」をどういう意味で用いているかを考える必要があります。

辞書的な意味では「恋」は気持が惹きつけられて相手に思いを寄せること、「愛」は相手を愛しむ気持となっています。

恐らくここでも好きだから相手に近づこうとするのが「恋」、好きだからこそ相手のために身を引こうとするのが「愛」くらいに解釈するのが適当であるように思います。

蜘は最終的に相手と恋に落ちることはできないと悟って、それでも好きという気持ちは捨てられないので、自分は手を出さないという選択をします。

そして、ただきれいな蝶を眺めるだけの存在に徹することを選ぶわけです。

 

一見蜘は蝶を逃す前と後でやってることはまるで変わらないように見えますが、一緒になれないとは感じつつも蝶に振り向いて欲しくて蜘蛛の巣に朝露をつけていたときと、一緒になれないと自覚した上で蜘蛛の巣から蝶を眺めるのとではまるで意味が違います。

蜘は自分の気持ちを捨てられないのを認識した上で、その蝶を想い続ける道を選択したのです。

 

以上が僕のこの歌に対する解釈です。

で、普段ならここでまとめてしまうのですが、この曲に関してはもう少しだけ掘り下げてみたいと思います。

 

Hungry Spiderにおける「蜘蛛の巣」は何なのか?

僕がこの曲で最も気になったのが、蝶と蜘の間に物語を生じさせた「蜘蛛の巣」が何のメタファーであるかです。

蝶は朝露に光る蜘蛛の巣を綺麗と言うし、蜘も喜んでもらうために毎日蜘蛛の巣を貼り続けます。

一方で、蜘は巣を「あの子のような蝶を捕まえるもの」と言っている。

そして、光る蜘蛛の巣に惹きつけられて絡め取られた蝶を助けようとして初めて蜘が蝶に近づくと恐れられる。

僕はこの蜘蛛の巣は、才能のメタファーであると考えています。

作曲者の槇原敬之さんにとっての才能とはもちろん歌のこと。

蜘は、本当なら自分のことを好きになってもらいたいのに、蝶がきれいといってくれるのは自分の作った蜘蛛の巣の方。

僕はHungry  Spiderが、本当は等身大の自分を分かってもらいたいのに、集まってくるのは自分の才能に惹きつけられた人ばかりであるという作曲者の孤独感を歌ったのではないかと思っています。

もう1つ、朝露で光る蜘蛛の巣と、朝露が乾いた巣に関しても当時の槇原敬之さんの複雑な心境が描かれているように思います。

槇原さんは、自分の曲を「ライフソング」と呼び、恋愛とかに限らず、もっと普遍的なものを歌いたいという想いを持っている方だそう(どこかの特集で語っていたと想います。思い違いだったらすみません。。)

実際、「どんなときも。」「僕が1番欲しかったもの」や「Flrefly〜僕は生きていく」や「世界に一つだけの花」のような恋愛以外の曲も多く描いています。

しかし、槇原敬之さんといえば「もう恋なんてしない」とか「冬がはじまるよ」みたいにどうしてもラブソングの印象が強い歌手です。

キラキラ光る蜘蛛の巣がラブソング、本当に自分が描きたい曲が乾いた巣というメタファーも含まれているのかなとも思いました。

 

こんな風に何通りにも読むことのできるHungry  Spider。

サイケデリックな感じで好みが分かれるところかと思いますが、僕はオススメの一曲です。

 

アイキャッチはもちろんHungry  Spider

 

Hungry Spider

Hungry Spider

 

 

 

井上ひさし『握手』はONE PIECEと同じ構造!?西洋料理店に隠れる時間転換の妙

今日のテスト対策をしていた時のこと、とある生徒さんから「どこがいいのかさっぱりわからへん!」という言葉を頂きました(笑)

その作品は井上ひさしさんの『握手』という小説。

その生徒さんに理由を聞いたら、「主人公が何もしないからおもんない」のだそうです(笑)

確かにその主張には納得するところもありつつ、一方でこんな読み方もできるよと、その質問で気づかされたことが多々あったので、僕なりにこの作品の凄さや中学生の皆さんが苦手意識をもつ理由について考察してみたいと思います。

 

『握手』は『ONE PIECE』である!?

僕はこの作品の構成について説明するとき、「ONE PIECEの好きな場面を教えて?」とよく聞きます。

エニエスロビーでロビンを助けるとき、幼少期に全てを失い恩人に流してもらったロビンの悲しい過去に、人にもトナカイにも仲間外れにされた自分を唯一仲間として扱ってくれたヒルルクを失った経験のあるチョッパー。

ONE PIECE』では、ドラマのクライマックスに差し掛かったところで、毎回必ずといっていいように「過去の回想シーン」を挟みます。

過去の回想シーンで登場人物の人生を知ることで、読者はどんどんそのキャラに引き込まれていく。

意図は全く違いますが、井上ひさしさんの『握手』では、これと同じ構成がとられていて、それをはっきりと意識して読まないと、読み間違えが起きたり、ストーリーが分からなくなったらしてしまいます。

 

物語の最中に回想シーンが入るなんて、小説だったら当たり前じゃないの?

そんな風に思われるかもしれませんが、中学生が国語の教科書で読む小説の中でこの構成に出会うのは、この『握手』が初めてです(たぶん)。

一年生で習うヘッセの『少年の日の思い出』も二年生で習う太宰の『走れメロス』もほかの作品も、基本的に大掛かりな回想シーンは登場しないんですよね。

だから、普段本を読まない子にとっては、文字情報でいきなり過去の回想シーンと現在を行ったりきたりする作品はこれが初めてですし、初めてだからこそ、それをはっきりと自覚しておかないと読み違えてしまうという自体が起こってしまうのだと思います。

(実際、テスト対策をしていても、現在のルロイ修道士の様子を聞かれているのに過去のシーンに根拠を求めている人がたくさんいました。)

現在のルロイ修道士のある動作を見たとき、そこに主人公が記憶の中のルロイ修道士を思い出し、そこから過去の回想に入る。

この転換のスムーズさが、この作品の面白いところの1つであるように思います。

 

登場人物が座ったままで物語が展開する面白さ

『握手』はとある西洋料理店で主人公が子どもの頃に孤児院でお世話になったルロイ修道士と再会する場面から始まります。

そして、2人はご飯を食べながら当時のことを話し始め、主人公がルロイ修道士の仕草や振る舞いを見るたびに、幼少期を思い出すという形で展開していきます。

だから、僕に登場人物に動きがなくてつまらないといった生徒さんの感想は、確かにその通りだったりします。

ただ、「登場人物が動かない」のはその通りなのですが、だからといってそれがそのまま「つまらない」であるかといえば、そんなことはないように思います。

この現在と思い出を行き来する描写が本当に上手だと思うのです。

 

西洋料理店という設定に隠れる時間転換の妙

小中高で習う小説の中でも、個人的に井上ひさしさんの『握手』はかなり好きな部類に含まれます。

思い出と現在の場面を行き来することに違和感を感じさせない設定&情景描写が凄いと思うのです。

冒頭にさりげなく出てくる「西洋料理店」という言葉。

僕たちは何気なくその場面を読み流してしまいますが、中盤にこの設定が効果的に機能します。

物語の中盤で、主人公はルロイ修道士がフォークを持つ手の潰れた指の爪を目にして、ルロイ修道士の指が「そうなった理由」を振り返るシーンへと繋がります。

ルロイ修道士は若い頃、日本軍(厳密には違いますが本筋とズレるのでご容赦下さい)に労働交渉をしたときに、逆らった見せしめとして指の爪を木槌で潰されたという過去をもっています。

そんな過去を知って、主人公が幼い頃を過ごした天使園という孤児院では、「だからルロイ修道士は日本人を恨んでいる」という噂が流れました。

しかし、子供がおひたしや汁の実を食べる様子を本当に嬉しそうに見ているルロイ修道士の姿をみて、たちまちにそんな噂は消えてしまいます。

そして、主人公がスプーンをお皿に置く描写で場面が現在へと戻ってきます。

 

僕はこの「スプーンをお皿に置く仕草」で場面が元に戻ったということを知らせる文章の構成が凄いと思っています。

過去のシーンでも直前まで食事をしているわけなので、普通に読んだらそれが思い出の中の動作なのか、現在の動作なのかは分からないはずなのです。

にもかかわらず、読んでいると当たり前のようにそれが「現在」であると読者は認識してしまいます。

その仕掛けが、冒頭に置かれた「西洋料理店」9という設定と、記憶を思い出すきっかけになったルロイ修道士の潰れた指を見せた「フォーク」、そして「スプーン」という言葉にあると思うのです。

 

西洋料理店という設定のおかげで、僕たちはスプーンとフォークを使って主人公とルロイ修道士がご飯を食べている場面を頭に思い浮かべています。

一方で、先にあげた天使園での食事の場面に出てきたのは「おひたし」と「汁の実」という情報。

ふつう「おひたし」といえばほうれん草や小松菜などの野菜を茹でたものを、「汁の実」といえばお味噌汁やお吸い物を想像するのではないでしょうか。

これらの料理の情報から僕たちの頭に浮かぶのは、天使園の子どもたちが「和食」を食べている場面です。

「おひたし」や「汁の実」にスプーンはおかしいのです。

そんな訳で「スプーンを置く」という動作が思い出の中の話から現在に切り替わる場面で機能しているわけです。

 

この場面に限らず、いろいろなところで情報を的確に出すことによって読者の頭に浮かぶイメージが上手くコントロールされています。

そうした「うまさ」を追っていくと、また別のところに面白さを感じることができるのではないでしょうか。

当然現在のルロイ修道士に思い出を重ねるうちに、主人公がルロイ修道士が会いにきた「本当の理由」に気づいていくという本筋の面白さもあります。

ただ、それは今回注目したかった部分ではないのと、ネタバレするのも野暮なので控えておきます。

当時自分が中学生だったころはつまらないと思っていた国語の教科書でしたが、改めて読み返してみると、掲載順から伺える段階的に物語を読めるようになるための工夫や、作品自体のすごさに気づくことが多々あります。

皆さんも機会があれば、是非読み返してみて下さい。

 

アイキャッチは『握手』が掲載されているこの本

ナイン (講談社文庫)

ナイン (講談社文庫)

 

 

 

 

遊園地が好きで、嫌い。〜「遊園地を楽しむ」と「遊園地で楽しむ」について〜

「せんさん(僕のあだ名)だって遊園地好きじゃないでしょ?笑」

少し前に、とあるmtgに参加していた時に友達から不意にこんなことを言われました。

そのときは理屈を組むのが面倒だったので「もちろん!」と即答したのですが、よくよく自分が「遊園地が好きか?」を自問してみると、実は結構遊園地が好きであることに気がづきました。

大前提として人混みと待ち時間が嫌いで、同じ人と長時間(朝から晩まで)いることが嫌いなので、まあ「遊園地」という設備とはことごとく相性が悪いわけですが、それを差し引いても好き嫌い度合いはプラマイゼロくらいなので、「遊園地」それ自体は結構好きなように思います。

ただ、明らかに「遊園地で楽しむ」のは嫌いです(笑)

「遊園地(を)楽しむ」なら好きだけれど、「遊園地(で)楽しむ」のは好きじゃないというのが、僕の「遊園地好きじゃないでしょ?」に対する最も正確な答えであるような気がします。

 

学生時代に富士急に遊びに行ったとき、一緒に行った子に「お化け屋敷とジェットコースターがむちゃくちゃ怖かったね!」と言われて、僕はびっくりするくらいそれに共感できなかったことを鮮明に覚えています(笑)

お化け屋敷は「驚き」はあったけど「怖さ」はなかったし、ジェットコースターは「高く」て「速い」けど「怖い」はなかったじゃん?みたいな感じです。

もちろんそんな場を台無しにする事は口にしませんでしたが、なぜ「驚き」や「高さ」や「速さ」を一緒くたに「怖い」と表すのかが、全く理解できなかったわけです。

(高所恐怖症だから「高い」が「怖い」はわかります 笑)

 

こんな風に書くと「お前はやっぱり遊園地が嫌いだろ?」と思われそうなのですが、決して楽しんでなかったわけではないのです。

僕だってお化け屋敷もジェットコースターも楽しんでいました(笑)

ただその楽しんでいる部分が「むちゃくちゃよく作り込まれている」とか「絶叫マシーンの楽しませる仕組み」とか、そういう部分というだけ。

或いは自分がアトラクションに乗ったとき、どういう感情が沸くのかを言語化できたりすると楽しかったりします。

ディズニーランドのスペースマウンテンに初めて乗ったときは「怖い」と感じ、それが視覚情報が得られないことによる「不安」からきてる物なんだと自分の中で勝手に納得してテンションが上がったりと、アトラクションに関してもとにかく「分かる」が楽しいわけです。

 

僕の遊園地の楽しみかたはどこまでも「遊園地(を)楽しむ」であって、「遊園地(で)楽しむ」ではないみたいです。

もちろん「遊園地に一緒に行った人(たち)とわいわいする」という時間の共有の部分に関しては、行くたびにむちゃくちゃ楽しいと思っています。

これはあくまでアトラクションと空間自体に対する感想。

遊園地が嫌いという人の中にも実は①遊園地が楽しめない人と②遊園地は楽しめる人がいるような気がします。

僕は典型的な②のパターン。

もちろん①の場合はそもそも行く必要はありませんが、②の場合は案外食わず嫌いなだけで行ったら楽しめるのかなと思うわけです。

というわけで遊園地における「遊園地(を)楽しむ」というやり方は結構オススメだったりします。

 

4月末からGWに書いたメモを整理していたらそんなことが書いてあったので、エントリにしてみました。

多分こういうやつはモテない(笑)

 

 

アイキャッチはメンタルをロジックで切らないという名言を残した山田玲司先生の『モテない女は罪である』です。

モテない女は罪である

モテない女は罪である

 

 

 

生産性とモチベーション

「教育において最も重要なものは生産性である。」と言うのが僕の持論です。

いくつかの誤解を生むのを承知で先に結論を述べましたが、やっぱり生産性と言う考え方は非常に大切だと思うのです。

 

僕がここでいう「教育において最も重要なものは生産性である」と言うのは、教える側の視点ではありません。

子供たちにとって最も重要なものが生産性であると言う意味です。

また生産性を上げて効率的に受験勉強に取り組めば良いといった意味でもありません。

もっと広い視点でいろいろなものに取り組むためには子供たちのもっと広い視点でいろいろなものに取り組むためには、子供たちの時間の多くを占める学校の勉強あるいはそれに類する受験勉強において、生産性の視点を持って取り組むことが不可欠だよねと言う視点から子供たちの時間の多くを占める学校の勉強あるいはそれに類する受験勉強において、生産性の視点を持って取り組むことが不可欠だよねと言う視点から生産性が重要であると考えています。

 

よく小学校の頃はいろいろなものに興味があったのに大きくなるにつれて興味が薄れてしまうと言う意見を聞きます。

これに対して詰め込み教育の弊害だとか女子校でもランチすることが問題であるといった意見をよく耳にしますが、僕は単純にこれに対して詰め込み教育の弊害だとか女子校でもランチすることが問題であるといった意見をよく耳にしますが、僕は単純に学年が上がるにつれて「忙しくなる」事が原因であると考えています。

例えば小学校の頃であれば学校が4時に終わり、その後には何時間も自由時間がありました。

仮に塾や習い事をしていたとしても中学生や高校生のそれと比べたら、相対的に自由な時間を大きいはずです。

中学校に入ると当たり前のように宿題が出て、部活動に介入し練習をして、おまけに塾などに入っていればその授業と復習までしなければならない。

高校に入ると学校までの移動距離が長くなり予習も加わりますます時間がなくなります。

詰め込み教育のせいで興味が削がれていくのではなく、ギチギチのスケジュールのせいで興味を持つ時間がないと言うのが子供たちの興味関心意欲の低下モチベーションの低下の最大の理由ではないかと思うのです。

 

時間がなさすぎて興味を持つ機会がなくなっているのであれば、解決策は興味を持つ文字費やすことができる時間を確保することです。

そのためのやり方としては①やらなければならないことを無視するか②やらなければならないことにかかる時間を減らすの2パターンがあります。

よく学校の勉強なんかせずにやりたいことに没頭しろと言う著名人がいますが、これは典型的な①のアプローチに入ります。

ちなみに僕はこのアプローチの仕方を支持しているし、実際に僕も小さい頃はこのタイプだったので、やりたくないことなんか全部無視して好きなことだけに取り組めばいいと思ってこのタイプだったので、やりたくないことなんか全部無視してできた時間を好きに使えばいいと思っています。

しかしこのアプロー好きに使えばいいと思っています。

しかし必ずしも全員がこのアプローチを取れるわけではないと思うのです。

真面目で優秀な子ほどそうは言っても「やらなければならないことがあるのだから」と思って、勉強などを投げ出すことができません。

やりたくないことを投げ出せない人にやりたいことに没頭しろと言うのは論理的に合っているかもしれませんが解決策としては無意味です。

であるならば、②のアプローチを取るしかないと思うのです。

だからこそ僕は子供たちの教育において生産性が重要であると思っています。

 

僕は通常担当してであるならば、②のアプローチを取るしかないと思うのです。

だからこそ僕は子供たちの教育において生産性が重要であると思っています。

 

僕が授業を担当しているクラスでは、基本的に半年で4倍の生産性を身に付けることを目標としています。

平均の2倍のスピードで記述ができるようになり、記述量が他のこの半分になれば容易にこの目標は達成されます。

生産性が4倍になるとそれまでの75%の時間が自由に使える時間となります。

その時間を使って、やりたいことや興味のあることを探してもらえればいいと思うのです。

 

「やりたいことを見つけるとか」「好きなことを追求しろ」とか言うことがよく言われていますが、それを見つけるための時間をどうやって作るかを教えてくれる大人があまりにもいません。

それではあまりに実効性がなさすぎると思うのですそれではあまりに実効性がなさすぎると思うのです。

だから僕はやりたいことを見つけるための時間の作り方を伝えると言う部分に焦点を当て、その解決策の1つとして生産性の向上と言うのを目標に掲げています。

やりたいことを見つけるための土台作りを助けるやりたいことを見つけるための土台作りを助ける大人が、子どもたちの周りに1人ぐらいいてもいいのかなあと思うのです。

 

KinKi Kids『スワンソング』考察~描写に表れる彼女の本音を深堀りする~

一生に一度だけ咲いてそれまでにできた竹林とともに散ってしまう竹の花。
死に花を咲かせた『RAVE』のシバや『NARUTO』のガイの父etc…
「死に際に一度だけ」というモチーフは色々あり、どれもきれいなものばかりですが、その中でもKinki Kidsの『スワンソング』は僕のお気に入りだったりします。
スワンソングとは、「生涯鳴くことのない白鳥が、死に際に一度だけ美しい声でなく」という言い伝えを表す言葉。
Kinki Kidsの『スワンソング』はこれをモチーフに作られています。
死に際に美しい声で鳴いて死んでいく白鳥に別れなければならない男女の最後を重ねてあるのですが、メロディはもちろん、それ以上に歌詞から浮かぶ情景に圧倒されます。

〈青空に目を伏せて ぼくは船に乗り込む〉
主人公の視点から始まる冒頭のサビでは、「青空」という明るい展望を示唆する情景から目を伏せるという悲しみを暗示させる描写が使われます。
そして、船に乗り込んでいく。
次に続く〈桟橋を走ってる 君の髪 雪崩れて〉という表現と合わせて、ここでは、何らかの理由で別れねばならない二人の別れ際が描かれていると判断することができます。
そして、〈死にゆく鳥が綺麗な声で 歌うように波が泣いた〉という表現で冒頭のサビが終わります。
「歌うように波が泣いた」という表現が、次のサビを引き立たせるために大きな役割をしている(と僕は思っている)ので、簡単に触れておこうと思います。
ここで重要なのは、スワンソングを暗示させる「死にゆく鳥の声」は波の音の比喩になっているという部分です。
あくまで主人公の「ぼく」は君を見ながら聴こえてくる波音が、「泣き声」に聞こえているわけです(詳しい繋がりは後ろで書きます)。


そして1番のAメロが始まります。
〈君の優しい白い手~未来がずれたのか〉
最初は船から主人公が「君」の手を見て過去の回想へと進むシーンです。
そして繰り返したあとの1番のAメロのサビでは彼女との思い出を〈ぼくと生きた数年が君を綺麗に変えたね〉と振り返る。
〈すぐ泣いた君がこんなに冷静装う〉
泣いてばかりだった君が「冷静を装って」泣かずにいるという表現から、主人公が「君」との数年の時間を思い出しているのを表すのと同時に、このあとのサビで別れを切り出した「君」も「冷静を装っているだけで、本当はつらい気持ちである」ということを暗に示しています。
僕が『スワンソング』が凄いと思うポイントはこの辺にあります。
中島敦の『山月記』で、主人公の李徴が虎になる前から、李徴の性格を述べる際に何度も「虎」を連想する表現を用いることで、いざ李徴が虎になったとき、読者にそれを納得させるような工夫がさせていますが、この曲もそれと似たような、1番のサビの意味がそれまでの歌詞の節々に散りばめられています。
そしてBメロでは〈辛いばかりだね遠距離恋愛〉と、ここでふたりが別れなければならない理由が明らかになる。
そして、サビに入ります。

〈ほんとうに終わりなの君はコクリ頷く〉
1番のAメロの白い手を見た後からの回想は主人公が「終わりなの」と聞き、「君」が頷いて返すこの場面まで続いています。
そして、ここで主人公が〈青空に目を伏せて〉船に乗り込んだ経緯が全て明らかになる。
ここからは再び主人公が「君」のことを見ている視点に戻ります。
〈桟橋の端に立ち手を振っていたけど 潮騒の中 無声映画のようにひざを折って泣いた〉
僕が最も好きなはこの部分です。
桟橋の端で手を振っていた「君」が泣き崩れたシーンです。
ここを手を振っていた「君」をみて主人公が泣き崩れた場面だと考えると内容を取り違えてしまいます。
仮に主人公が泣いていたら、「潮騒」という表現も「無声映画」という表現もいらなくなってしまいます。
無声映画のように泣いた」というのは泣き崩れたのは見えるけれど、声は聞こえないということ。
そして、そんな「君」の姿を見ている主人公の耳には、冒頭でスワンソングのように聞こえると言った波の音(=潮騒)だけが響いているわけです。
1番で「海が泣いた」と表していたのがここで生きてきます。
「君」が泣いている姿は確かにみえるけれど、声も聞こえない(=ぼくにはどうすることもできない)。
そんな二人の間に潮騒だけが響き、それがまるで「泣いている」ように聞こえるというのがここの情景です。
ここまで無駄なことばを排して情景を伝えられるのは本当に凄いと思います。

2番のAメロは再び主人公の思い出から始まります。
〈丘の上から見下ろす港 この景色が好き〉
主人公が「君」ではなく、町が好きな理由を述べる。
これは「君」に対してここに残る理由が「君」以外にもあることを伝えようとしているように解釈できます。
それに対してBメロでは(聞いて私たち 生きてる重みは 自分で背負うの 手伝いはいらない)と続きます。
主語が「私」にかわったことから、これは「君」が言ったセリフということになります。
Aメロで主人公が街が好きと言って、そこに留まる可能性を述べた直後に、「君」が「手伝いはいらない」と伝えます。
ここから「君」の方から別々の道を行こう切り出していることが分かります。
これだけ見ると単に「君」が別れを告げたように見えますが、これまでの「君」の情報、そしてここからのサビの繰り返しを見ると、「君」の本当の気持ちが分かるのです。

というわけで、最後に「君」の本音を考察していきたいと思います。
まず、〈ほんとうに終わりなの君はコクリ頷く〉(生きてる重みは 自分で背負うの 手伝いはいらない)という表現から、別れを切り出したのは「君」である事が分かります。
そして、〈すぐ泣いた君がこんなに冷静装う〉ということから、精一杯強がっていたことが分かります。
では、彼女の本音はなんなのか?
以降のサビでは冒頭の(青空に目を伏せて~)のサビと1番の〈ほんとうに終わりなの~〉の歌詞が繰り返されます。
しかし、その中で1フレーズだけすっぽりと抜けているところがあります。
僕はこの部分が「君」の本音が表れている部分だと思うのです。
それが〈潮騒の中 無声映画のようにひざを折って泣いた〉という部分。
「君」の本音は「泣き崩れるくらいに悲しい」です。
主人公は一貫して「君」のことを思い出したり、〈本当に終わりなの〉と言ったり、〈景色が好き〉とそこに留まる理由を言ったり、「君」と別れることを拒んでいました。
一方でそんな主人公を送り出すために強がっていたのが「君」。
主人公が乗り込んだ青空に浮かぶ船(変な表現ですが)は前途が有望な未来のメタファーと捉えることができます。
主人公はこれから広い世界に旅立つことができるのに、自分(「君」)のことを気にするあまり踏み出せないで居る。
そんな主人公を前に進ませるために「君」は別れを切り出した。
でも、本心では主人公を送り出したら泣き崩れるくらいに別れたくなかった。
スワンソング』はそんな二人の関係を描いた歌だと思うのです。