新・薄口コラム

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



誰が言ったか?何を言ったか?どう言ったか?

これは自分自身が根っからの悩んでいる人をひきつける体質だからなのか分かりませんが、よく会社の上司やバイト先の理不尽な客に怒鳴られて、落ち込んだり怒ったりしている人の相談に乗ることがあります。

で、そういった悩みを聞いていると、十中八九ところで僕にはそういう経験がないのか?という質問になるのですが、僕はこう聞かれるだびに、「えっ、だって犬に吠えられていちいち腹立てたり落ち込んだりしないじゃん?それと同じ感覚だからへこみもムカつきもしない(笑)」と返すことにしています(笑)

もちろん僕のこの返しは、ギャグみたいな意味合いも多分に含んでいるのですが、僕のキャラクターもあいまって、たいてい返ってくる反応はあきれたというものかドン引きかのどちらか…

相手を徹底的に見下したこの物言いが、生理的に受けつけないという人が多いみたいです。

 

「文句言ってくるやつなんて犬みたいにみれば?」というこの言い方、実は僕のオリジナルではありません。

元は2ちゃんねる管理人の西村博之ひろゆき)さんが自身の番組の質問に対する返答で使っていた表現。

あの小憎らしい表情と馬鹿にした態度から発せられる「犬に吠えられたからっていちいち怒んないでしょ?」がとてもしっくりきたので、意識的に使っています。

ひろゆきさんがこの言葉を使うのはだいだい、他者からの理不尽な声を必要以上に気にしている人からの質問に対して。

「そんなに他人のことばなんか気にしなくていいよ」という意味を込めて言っている場合がほとんどです。

ニッコリと微笑みながら「そんなに他人のことばなんか気にしなくていいよ」と言えば思いやりに満ちたとても優しいことばに聞こえるのに、「吠えてきた犬にいちいち腹立てる?」という言い回しとひろゆきさんのあの表情が合わさると、途端に煽っているようにしか聞こえなくなるので不思議です。

 

「そんなに他人のことばなんか気にしなくていいよ」という意味の言葉で、僕のなかでもうひとつお気に入りの言い回しがあります。

それが、ソクラテスが市場で侮辱されたときに言ったとされる、「愚かな馬が私を蹴ったとして、どうして私がそのことにいちいち腹を立てる必要があるのだ?」というもの。

こちらも言い方自体はひろゆきさんに負けず劣らず(というか下手したらひろゆきさん以上に)ひどい言い様です。

しかしながら、「ソクラテスが言った」という枕詞が付いたとたん、どこか高尚な響きに聞こえてしまうから不思議です(笑)

 

「誰が言うかでなく、何を言うかが大切だ」なんてことをよく耳にしますが、上の例をみてみると、やっぱり誰が言うかが大事だよなという気もちになります。

仮にひろゆきさんが言った「愚かな馬が私を蹴ったとして、どうして私がそのことにいちいち腹を立てる必要があるのだ?」と、ソクラテスが言った「犬に吠えられてもいちいち怒ったりしないでしょう?」と置き換えてみると、やっぱり前者の方がムカつく感じがします(笑)

誰が何を言うか?に加えて、僕はもう一つ、「どうやって言うのか?」も重要だと思っています。

「愚かな馬が私を蹴ったとして、どうして私がそのことにいちいち腹を立てる必要があるのだ?」も「犬に吠えられてもいちいち怒ったりしないでしょう?」も、もともとは「人の言葉を必要以上に気にするな」というメッセージです。

それをこんな言い回しにしたばかりに、急にトゲトゲした印象になってしまうわけです。

 

僕たちが人と話すとき、何を言うか?と誰が言うか?ということはよく意識します。

しかし、どうやって伝えるかになると、途端に意識が向かなくなる。

頭に浮かんだ内容について、頭に浮かんだ言葉のままで出してしまうので、結果相手に真意が伝わりづらかったり、場合によっては相手を怒らせてしまったりすることさえあるかもしれません。

逆に、ちょっと伝えづらいことでも、言い方を変えて、自分らしい言い回しにすれば、傷つけることなく伝えられることもあります。

人に何かを伝えたい時は、①誰が言うか?②何を言うか?③どうやって言うか?の3点セットで考える。

これが、伝わる喋り方のファーストステップのように思います。

 

アドラーの言いたかったことも、ひろゆきさんにかかればこの通り(笑)

アイキャッチひろゆきさんのこの本です。

 

 

マルチコミュニタリアンのススメ

僕は卒業と同時にフリーで社会に出てしまった(その上で周囲に恵まれて、ある程度生活できてしまっている)ので、およそ人にお勧めできるような生き方はしていないのですが、ひとつだけ、大学を出た時から自分の中で意識していることがあります。

それが、タイトルにもした「マルチコミュニタリアン」でいるということです。

マルチコミュニタリアンとは僕の造語ですが、その名の通り「複数のコミュニティに属している人」のことを指しています。

学生の時、それまでの経験と、将来に向けて様々な社会人を観察していたときに、漠然と複数コミュニティに所属していることの大切さを感じたのです。

 

で、実際に社会にでて(というか放り出されて)から、僕は身一つで京都に来て、一から職場のコミュニティに参加したり、友人関係を構築したりということをしたわけですが、その中で、複数コミュニティに所属する大切さを実感しました。

 

京都に越して来て1年目、まだコマ数もロクになかった僕に、学生時代からお世話になっていた先輩から、マルチの勧誘がありました。

僕はあまりに時間を持て余していたので、「フィールドワーク」と称してそこのマルチ団体に所属しました(笑)

(因みに1年間で友達を勧誘しない上にポン酢一本しか買わなくて追い出されました...)

そこで熱心に勧誘に取り組む人を見た時の率直な感想は「この人たちにはここしか居場所がないんだ」というものでした。

そのグループの人たちは、彼らにとっての唯一の居場所であるのですが、同時にそのコミュニティにいるためには、マルチの勧誘を続けなければなりません。

結果、そのコミュニティにいるための資格として、活動にのめり込んでいく。

そんな人を多くみかけました。

 

社会人2年目。

縁があって僕は某NPOの関西支部の立ち上げに関わることになりました。

そのときに、当時の事務局長から聞いたNPOの現状に対する考察が非常に胸に刺さっています。

彼曰く、「国際協力だとか、支援だとかという言葉は、承認欲求が満たされない人を惹きつける。だから、そういう人を沼に落とさないためにも、入り口での面接が大事だ」とのことでした。

実際に、人事と広報を担当して、様々なNPOさんと交流ができるなかで出会った人の中には、そこコミュニティが居場所になっているという人が少なからずいる印象でした。

別のNPOを運営している知人も似たようなことを言っていたので、概ねどこの組織にも言えることなのだろうと思いました。

 

3年目。

徐々に仕事も増えつつあった僕は、とある女の人と出会いました。

彼女は新卒で会社に入社して、始めて一人暮らしを始めたとのこと。

で、彼女とご飯に行くたびに出てくるのは、会社の飲み会やプライベートでの繋がりは嫌というお話。

「そんなに嫌なら行かなければいいのに..」

そんな風に僕が言うと、それをすると関係が切れてしまうからできないということでした。

地方から出て来た彼女が持っていた「繋がり」は会社の同僚だけだったみたいです。

 

他にも、地元の知人で結婚して京都に嫁いだ子に、恋に盲目で他との関係を絶ってしまった子、しんどいと言いつつ頼まれた仕事を次々に抱えてしまう幼なじみ。

こんな感じの、なぜかうまくいかない人を、今まで何人か見てきました。

 

こうした人たちを見ていると、ある一つの共通項があります。

それは、「一つのコミュニティにしか属していない」ということです。

言うまでもなく、素の自分で関わるプライベートと、特定の目的のために集まった仕事でのやりとりは異なります。

にも関わらず、プライベートも仕事も同じコミュニティになってしまうと、プライベートの関係性の維持に、仕事的な手続きが必要になってしまうのです。

本当は気負わず素の自分で参加できるのがプライベートのコミュニティであるはずなのに、所属するコミュニティが一つしかない人の場合、そこで得られるこうようを、仕事のコミュニティに求めてしまいます。

そのせいで、プライベートにおける安心とが仕事における信頼の対価みたいになってしまうのです。

マルチ商法のコミュニティならば、そこの繋がりを持つためには商品を売らねばなりませんし、ブラック企業であれば、そこに所属するために労働力を捧げなければなりません。

こんな風に、プライベートと仕事が一緒くたになったために起こるのが「辞められない(抜けられない)という感情だと思うのです。

よく、「強い」人たちは、会社が嫌ならやめればいいみたいなことをいいます。

でも、辞められない彼らにとっての、そこにあるのは単なる仕事上の繋がりではなくて、プライベートでの友人関係でもあるのです。

だから、そこを切ったら、その瞬間にその人は一人ぼっちになってしまう。

これを恐れている人が多いのではないかなと思います。

 

僕がマルチコミュニタリアンを進めるのは、こうした状況に陥らないためです。

複数のコミュニティに所属しておけば、仮に一つのコミュニティでの評価が落ちたとして、そこを切ってしまえばおしまいです。

少なくとも、それを切った瞬間に、自分の繋がりの全てを失う恐怖心はない。

こうした余裕があると、人は強く出ることができます。

そして相対的にそういう人ほど結果が出る。

 

1つのコミュニティに公私を任せてしまうのは大変危険なことだと思うのです。

うまく言っているときは、もちろんこの上ない位に楽しいですが、一度歯車が狂い始めると、全てが上手くいかなくなります。

その上抜けたら全てを失うので、抜けるに抜けられない。

こうした状況に初めから陥らないやうにするための方法が「マルチコミュニタリアンのススメ」なのです。

複数のコミュニティに属性を分けておけば、仮に一つで信頼を失っても、「まあきいや」と割り切ることができます。

この態度こそが重要だと思うのです。

 

仮にいま、特定のコミュニティを抜けようという気持ちがあるのに抜けられないと思っている人がいたら、あなたの所属するコミュニティの数を考えて見てください。

もし一つしかない場合は、仕事を探すでも、そこに我慢して所属するでもなく、新たなコミュニティを探すというのが解である場合があります。

少なくとも僕は、そうした仮説のもとで、常に複数コミュニティに属するようにしてきました。

「繋がりのリスクヘッジ

そのためにも僕はマルチコミュニタリアンを勧めているわせです。

 

アイキャッチは『恋愛依存症

恋愛依存症

恋愛依存症

 

 

 

 

頑張る動機のネガポジと、動機のいらない頑張り方

「愛」とか「情動」というと、少し大仰に感じられるかもしれない。けれども、人々は「怒り」によってのみ、何かを否定することによってのみ動かされるわけではない。何かを肯定することも、行動の大きな原動力になる。「愛」や「情動」は、そうした肯定性を示す言葉である。(2009年)

出典を書き留めるのを忘れてしまっていた(後日調べて追記します)のですが、今年の高校3年生の第一回全統模試に出題された論説文に、こんな話が書かれていました。

本文では、否定的な感情だけでなく、肯定的な感情も、人を行動へと駆り立てる原動力になると続くのですが、僕はこの並び順を見た時に、なんとも面白なあと感じました。

というのもここだけみると、一般的に行動の要因は否定的な感情であり、肯定的な感情でも人は動くというのは、意外性のあることのように書かれていたからです。

(もちろん、そこから展開される本文の主旨と照らし合わせたら極めて妥当な書き方です)

 

みあき on Twitter: "「〜したい/になりたいから頑張る」っていう思いは全然続かないけど、「〜したくない/されたくないから頑張る」っていう思いは長く続くし、ほとんどの確率でちゃんと結果を出せると思ってる🧐 部活は全部そうだったなぁ…… "

今日の朝、知人とこんなやり取りをしていました。

彼女にとっての「頑張る」の源泉は、何かを「したくない」(失いたくない)とか、「されたくない」(失望されたくない)みたいな所にあるのだそう。

言われてみればなるほどなぁと思いつつ、先にあげた文章を思い出しました。

 

僕たちが普段の生活の中で「頑張るための源泉」と聞かれると、当たり前のように、「こんなことをしたい」とか、「理想の自分に近づきたい」といったような、(ちょうど冒頭に引用した文章とは真逆に)ポジティブな動機を頭に浮かべます。

でも、それこそ冒頭の文章が言うように、単なる行動の動機という意味では、ネガティヴなものも当然に候補として上がるわけです。

こんなことを考えているうちに、そもそも、頑張るのには動機が必要なのか?そもそも、頑張るための動機ってなんだ?

という問いが頭に浮かんできました。

 

知人のつぶやきからネガティヴな動機も頑張る要因になり得ることに気づいたなんて書きましたが、じゃあ僕はどちらの側かというと、(ややネガティヴ寄りではあるものの)実は努力に関して、どちらの感覚とも違う、「努力に動機はいらない」というスタンスを取っています。

努力を続けるために、良いことでも悪いことでも、何か「支え」となるものを作りたいということ自体がよく分からないのです。

あくまで努力は目的を達成するためのツールであって、そこに欲求はいらないというのが僕の立ち位置。

こういうスタンスで努力を捉える人って、恐らく一定数いるのではないかと思います。

 

①ポジティブな動機で努力を続ける人と、②ネガティヴな動機で努力を続ける人と、③そもそも努力に動機は不要と考える人。

これらのスタンスの違いがどこから生まれるのかを考えてみました。

そもそも、努力の目的は、達成したい目標を叶えるという「結果」を得ることであると言えます。

しかし、結果が得られるのは未来のことなので、努力の最中にいる自分にとって、その努力が身を結ぶか否かは分かりません。

「果たしてこの努力は報われるのだろうか...?」

努力の最中にいる人は、こうした不安に打ち勝たなければなりません。

僕はこの、打ち勝たねばならない「不安」を相殺する役割を担うものが動機だと思うのです。

とすれば、「動機」と「結果」と「努力」の間には、次のような関係が成り立つと言うことができます。

[ 動機 = 努力の結果に与える効果 - 努力の結果に対する信頼 ]

つまり、その努力がどれだけ結果に繋がるだろうと思った時に感じる不安と等価なのが、動機だと思うのです。

 

こう考えた上で、自分を努力に駆り立てる方法を考えるとするならば、先からも分かるように、アプローチ方法は❶不安と等価以上のモチベーションを引き出すのか、❷努力の結果に対する信頼を高めるかのふた通りになります。

そして、❶の動機とは、差分を埋める大きさのことなので、正負の符号よりも、絶対値の大きさが重要になってきます。

その意味でネガティヴでもポジティブでもどちらでもいい。

重要なのは、絶対値>不安になっているということなのです。

整理すると、先にあげた①ポジティブな動機で努力を続ける人と、②ネガティヴな動機で努力を続ける人と、③そもそも努力に動機は不要と考える人は、①②は共に❶にアプローチする手法で、③は❷にアプローチする手法ということになります。

その意味で①と②との間に、どちらがいい悪いというものはないと思うのです。

(もちろん、①②と③の間にも優劣はないのですが)

 

ただ、大抵の場合、①ポジティブな動機と②ネガティヴな動機と言われると、①が良いもので②は良くないものと思われているように感じます。

で、②の人を①の側に寄せようとする(あるいは、もしかしたら逆のコミュニティもあるかもしれません)

僕は、①で考えるのか②で考えるのかは優劣の話ではなく、本人の特性の話だと思うのです。

(そもそも同じ❶という区分なので)

だから、仮に②であるが故に苦しんでいる人がいたとして、①にしようよと強引に誘ったところで解決策はありません。

もし②の人が悩んでいたとしたら、それはネガティヴな動機が辛いのではなくて、「ネガティヴな動機で補わなければならない不安の大きさ」に辛さを感じているわけです。

であるならばアプローチ方法は②→①にしようとすることでなく、❷を高めることで、不安の絶対値を小さくしてしまう事なはず。

 

努力やその動機について①②(③)の分類で考えていると、どちらかのマウントの取り合いになってしまい、根本的な解決にはなりません。

そうではなくて、❶❷の軸で解決を探っていく。

「やりがい」や「やる気」に関するお話には、この視点が有効なんじゃないかと思ったらするわけです。

 

アイキャッチは不機嫌な排水溝(紹介したい本が見つからなかった...)

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ドリカム「もしも雪なら」考察〜「みぞれまじりの雨」から「大人の恋」を読み解く〜

高校生の頃、何気なく見ていたミュージックステーションスーパーライブに登場した、DREAMS COME TRUEの2人。

初めは「両親がよく聞いていら」くらいの感覚で、なんの興味もなかったのですが、曲が始まった瞬間にテレビに釘付けになり、演奏が終わると同時にその曲を借りようと、近所のTSUTAYA飛び出した事を未だに覚えています。

初めて音楽に圧倒された曲。

それが、僕にとっての『もしも雪なら』でした。

 

「何度でも」「朝がまた来る」etc...

アップチューンの曲にもいいものはたくさんありますが、僕が思うドリカムの真骨頂は、切ないバラードを歌った時だと思います。

『もしも雪なら』には、その良さがつまっています。

 

 

〈今まで大人のつもりでいた この恋をするまでは どうにもならないこんな気持ち わたしのどこに隠れてたんだろう〉

「恋に落ちた」ことを知らせてこの曲は始まります。

通常なら、「恋に落ちた」という描写から始まるのだから、ポジティブな恋愛の話に発展していきそうなものですが、『もしも雪なら』はどこか様子が違います。

どちらかというと、「好きな人ができてバンザイ!」ではなく、「好きになってしまった」という印象の言葉回しです。

その証拠に「この恋をするまでは大人のつもりでいた」と述べられています。

この主人公は、これまでの恋には「大人」の対応をしてきたわけです。

ここでいう「大人」とは何なのでしょう?

〈会いたい人には会えない〉

続くBメロで、このように語られます。

主人公が好きになった人は「会えない」存在だそう。

『もしも雪なら』は、歌が進むにつれて、主人公の境遇が明らかになってく不思議な作りになっています。

そして、「大人の恋」の正体も少しずつ分かってくる。

というわけで、続きを見ていこうと思います。

 

1番の2回目のAメロ〈何気ないとわたしの〜〉というところは、1番の好きになった瞬間を詳細に語るだけなので(著作権の関係から)省略します。

というわけでBメロから。

〈会いたい人に会いたいと 言えないクリスマス〉

主人公は、確かにある人のことを好きなのですが、その気持ちを伝えられません。

なぜ伝えられないのか?それがサビ以降で明らかになります。

 

〈大人の方が 恋はせつない はじめからかなわない ことの方が多い〉

〈誰にも言えない 友だちにだって この想いは 言えない〉

サビで、「大人の方が恋ははじめからかなわない」と歌われます。

そして、主人公の恋は「友だちにも言えない」もの。

ここから分かるのは、主人公が恋をした相手はすでに恋人(や家族)がいる人だったという可能性でしょう。

だから、クリスマスに「会いたい」と言えないわけです。

告白するのが恥ずかしいわけでも、勇気がないわけでもなく、「すでに相手には好きな人がいる」から、相手に気持ちが伝えられない。

これが、主人公の抱える気持ちです。

そして、〈クリスマスが急にきらいになる〉とサビは綴じられます。

 

2番のAメロで、さっそくこの答え合わせがあります。

〈あなたはすでに誰かのもので ふざけるか他愛ない 電話以外は思い出も 増えていかない 増えるはずもない〉

家族が恋人かは分かりませんが、相手にはすでに大切な人がいます。

だから、主人公との思い出はちょっとしたやりとりしか増えないわけです。

思い出なんて絶対に増やさないと確認した上で、Bメロには〈会いたい人には ぜったい会えないクリスマス〉と続きます。

1番の言い回しを繰り返しても歌詞としては成り立つのに、すでに主人公の状況が明らかになったからこそ、「会いたいと言えない」ではなく「絶対に会えない」に変えているところが、吉田美和さんらしいなと思います。

こんな風に、この曲は似た言い回しでも、少しずつ表現を変えることで、歌が進めば進むほど、主人公の恋が叶わないものであるという確信を強めていきます。

(ドリカムの歌のこういう構成って、本当に凄いところ)

 

そして2番のサビは1番の繰り返しなので省略。

そして、大サビに入る前にBメロが繰り返されます。

〈キラキラ輝く街 みんな奇跡願う聖夜〉

ここで場面はクリスマス当日になります。

クリスマスに「奇跡」を願う「みんな」には、もちろん主人公も入っているはず。

そんな主人公が叶えたい「奇跡」が、「好きな人と一緒にいる」ではなく、ただ「好きな気持ちを伝える」であるというのが、この歌の切なさを一層引き立てます。

そして最後のサビに。

 

〈大人の方が 恋はずっとせつない はじめからかなわない ことの方が多い〉

〈誰にも言えない すきな気持ちは 何も変わりないのに〉

サビの前半部分に注目すると、1番2番では〈大人の方が恋はせつない〉だったのが〈大人の方が恋はずっとせつない〉に変わっています。

実際に(好きな人には会えない)クリスマスを迎えたことで、気持ちが強くなっていることがわかります。

さらに後半部分では倒置を用いて、「好きな気持ちは変わらないのに、誰にも言えない」と続きます。

この「変わりない」とは、おそらく「大人の恋」と対応する「子供のころの恋」なのでしょう。

どちらも「好き」という気持ちなのに、今回の方は誰にも打ち明けられない。

この1フレーズによって、好きな人にはもちろん、知人にもそのことを共有出来ない主人公の状況が表され、そのことによって一層「せつなさ」が引き立ちます。

 

そして〈クリスマスがきらいになるほど〉とサビが終わるのですが、注目したいのは末尾の〈ほど〉という部分です。

実はここは、最後のAメロの繰り返し部分の歌詞と繋がっています。

〈けっきょく雨はみぞれまじり 苦笑いするしかなく〉

〈もしも雪なら 雪になったら あきらめないってひそかに掛けてた〉

クリスマスの天気は「雨」で「みぞれまじり」だったようです。

主人公は、もし雪が降れば気持ちを伝えようと密かに掛けていたと心境を述べます。

しかし、それも出来ずに終わってしまう。

僕がこの歌で1番凄いと思うのは、実はこの部分です。

吉田美和さんは、(恐らく意図的に)「みぞれまじりの雨」ではなく「雨はみぞれまじり」としています。

「雨の中にほんの少しだけ雪が混じっている」という描写にすることにより、主人公の望みがいかに儚いものであったかを一層引き立てています。

そもそも叶っても気持ちを伝えるだけなのに、それすら叶わないわけです。

そして最後、〈この想いはもうこのまま 溶けて消えてくだけ〉と終わります。

 

『もしも雪なら』の主人公は結局、好きな人に「好き」と伝えることすらできずに恋心をそっとおしまいにしてしまいます。

この伝えることすらできずに終わる恋みたいな、確かに大人になったらままある状況に注目して、それを歌に仕上げてしまえるところがドリカムの凄さなのだろうなと改めて思います。

ちょうど『もしも雪なら』の歌詞考察を始める前に、『秒速5センチメートル』を見て、その流れで永井荷風の『濹東綺譚』も読み返していたのですが、この『もしも雪なら』に描かれるモチーフは、どことなくこれらの作品に共通するものであるように思います。

 

アイキャッチはもちろん『もしも雪なら』

もしも雪なら

もしも雪なら

 

 

 

ことばへの感度を磨くということ

検閲が厳しかった明治期のエピソードである。ある演劇のセリフに「奥さん、一度だけ接吻させてください」というのがあった。検閲のため政府に提出したら接吻が社会に悪い影響を与えるということで削除された。
困るのはここからだ。昔から役所の仕事はルーズでいけない。接吻の部分だけが削除されていて、前後の文脈が無視されていたのだ。結果帰ってきたセリフは「奥さん、一度だけさせて下さい。」
杓子定規も考えものだ      (竹内政明「名文どろぼう」)

ついつい日常に起こる出来事を、何でもかんでも自分の仕事と関連付けて考えてしまう、「職業病」なんてことばがあります。
多分に漏れず、僕もその重症患者で、普段本を読んでいても、道を歩いていても、「これは国語的に面白いかも!」なんて思うと、ついついメモに控えておいたりします。
昔、付き合っていた彼女の言い間違えを「授業に使える!」と言いながら喜々とメモを取っていて大きく起源を損ねるなんてこともありました(笑)
そんな調子で使えそうなものは何でもかんでも「ネタ帳」に書き留めておくのですが、もちろんその中の大半が授業で使える代物ではありません。
冒頭に引用したのもその一つ。
さすがに繰り返す下ネタなんて、授業の中にはいれられません。
(美意識的にもそうですし、それ以前に僕の授業に馴染まない)
そういえば、知人と福井旅行をしていたとき、「パチンコBIG」という看板から「パ」を取るのでなくよりにもよって一つ加えた「パパチンコBIG」なんてのもありました(笑)
(こちらは一文字加えてとんでもないことになった例)
理由は多岐に渡りますが、僕のメモ帳には「面白いけど授業で使うものじゃない」というネタが、いくつも転がっています。
仕事では使えないけれど、日の目を見ないままなのも勿体無いというものばかりだったので、今回のタイミングでまとめて紹介してみようかと思います。

お笑いのネタ編

漫才師に落語家さんに劇作家さんetc…
僕はこの辺りの人たちを、「言葉選びのプロ」として定期的に追いかけています。
そんな中で出てきた国語のネタで使えそうで使えなかったものをいくつか紹介します。

1.「月とすっぽんぽん」(銀シャリさん)
銀シャリさんがM-1で優勝したときにも披露した、ことわざネタに登場したのがこちら。
ボケの鰻さんがことわざを覚えてきたといい、どんどん微妙に間違えていることわざを披露していきます。
この「月とすっぽんぽん」は一つ目の言い間違い。
「パチンコBIG」に「パ」の字を加えたのと同じように、事故が起こっています。
ちなみにムーディ勝山さんは、「パチンコのパの字をとってみたい」という「奥さん、させてください」みたいなネタをしていました。

2.「お前の炊いた豆」(銀シャリさん)
二つ目も銀シャリさんのネタから。
こちらは「料理のさしすせそ」のネタででてきたオチの手前のセリフです。
本来なら「お前のまいた種」のところを「ま」と「た」を入れ替えて、「お前の炊いた豆」としてしまうこのネタ。
健全な上に凝っているので使い勝手は良いと思っていたのですが、ついぞ使う機会はありませんでした(笑)
サンドウィッチマンさんの「コインケスギ」や、マンガ『銀魂』に出てきた「松平健の名字と名前を入れ替えると『けつだいらまん』になるアルよ」というヤツもここに該当します。

3.「エッチ、エロという番組がありまして」(ナイツさん)
こちらはナイツさんのキムタクが出てくる『HERO』というドラマを紹介する際に出てきたボケです。
『HERO』というタイトルを「H/ERO」と区切るというネタで、文節や単語の説明にいいかなと思う反面、やはり若干の下ネタなのでボツに。
同じパターンのネタとして、トロサーモンさんの『桃太郎』に出てくる「イヌサ、ルキジ」(「犬、猿、キジ」の読み間違え)などがあります。

4.「ビッグバーガーを1000個で」(サンドウィッチマンさん)
5.「シーチキン、歯肉炎、資産運用、死後硬直、宍戸錠」(トータルテンボスさん)
これらは単純に面白いけれど引用する場所が無かったネタです。
一つ目は「ビックバーガーをセットで」というのを店員さんが聞き間違えたというネタで登場したもの。
語感の近さに感動したことを覚えています。
そして5の方はトータルテンボスさんの『あるあるネタ』に出てきた掛け算九九4の段の読み間違えです。
本来は「四一が四、四二が八…」といくところを、「シーチキン、歯肉炎…」と言い間違えて続いていくこのネタ。
聞き間違え、言い間違えは使い勝手がいいのかと思っていたのですが、意外と使う引用の機会がありませんでした(笑)

6.「関口ギター教室」(ロバートさん)
次はロバートさんのネタからの引用です。
これは山本さん扮するギター少年が「関口、ギター教室」に来たつもりが実は「関、口ギター(くちギター)教室」だったという設定のネタです。
これは、「ここで、はきものを脱いでください。」と「ここでは、きものを脱いでください。」という読点の位置で脱ぐのが「着物」か「履物」かが変わるという話と同じパターンです。
これは良い引用として使えると思ったのですが、マニアックなためのボツに(笑)

本当はこの先に、コピーライターさんや作家さん、翻訳家さんの言葉の中から、メモしていたものを紹介しようと思っていたのですが、既に2000字を超えてしまったので、今回はここでおしまいにします。
(続きは機会があればまた書きたいと思います。)
書く事がないのでメモ帳を振り返っていたのに、思った以上に長くなってしまった…

 

アイキャッチは昨日に引き続き、竹内政明さんの本から。

 

夜更けにコラムを―「経済大乱」見聞記

夜更けにコラムを―「経済大乱」見聞記

 

 

「戦うため」の知識と「戦わないため」の知識

ーーワンピースって『次郎長三国志』だよね。ーー

以前鈴木敏夫さんが、『ワンピース』の作者である尾田栄一郎さんを自身のラジオに招いたとき、こんなことを言っていました。

それを聞いた瞬間に、尾田栄一郎さんが「よくぞ分かってくれた!」みたいに、明らかにテンションが高くなり、そこからあれよあれよと対談が進んだ様子を未だに覚えています。

 

ジブリのプロデューサーである鈴木敏夫さんは、僕が尊敬する方の一人。

あの手腕はもちろんですが、それ以上に、映画や小説、芸能といったコンテンツに対する造形がとてつもありません。

今までに宮崎映画を彩る様々な名コピーを生み出したり、プロモーションを手がけていると思うのですが、それらがことごとくうまくいくのは、ひとえに、あの膨大な知識量ゆえだと思うのです。

 

先日所用で東京に行ってきたのですが、その際に知人とご飯を食べていたら、学生さんから「知識を身に付けたい」という話題を貰いました。

その時の知人と僕の「答え」が真逆だったのが面白かったので紹介します。

彼の「知識を身に付けたい」という言葉に対する知人の答えは「目的を見つけろ」でした。

「目的がなければどんな情報に出会っても残らない。だから自分の琴線に触れる基準を作るためにも目的が必要」というもの。

これを聞いた時、素直に「なるほどなぁ」と思いました。

一方で、僕が考えていた質問に対する「答え」とは違いました。

 

彼の「目的を見つけろ」に対して、僕の意見は、「知識に色をつけるな」というもの。

「論理的な判断には正確な情報が必要だとして、正確な情報を得るためには自分の情報感度を磨かなきゃいけない。情報感度を高めるには広い知識が必要。」というのが僕の考え方です。

これはどちらが良い/悪いとかじゃありません。

(実際に知人も僕も「なるほどね」という感じでした。)

知人も僕も、おそらく両方の知識の得かたをしているし、その瞬間に質問してくれた彼にとって、どちらが重要と判断したかというだけの話です。

 

僕は目的ありきの演繹的な知識のインプットを、「『戦うため』の知識」、情報感度を高めるための帰納的な知識のインプットを「『戦わないため」の知識」と呼んでいます。

目的に基づいて、いかに早く無駄なく必要な情報にアクセスするかというのは、ビジネスをはじめ合理的でスピードのある決定が求められる場で必須のスキルです。

だから、「戦うため」の知識。

一方で、一見無駄に見える情報を吸収し、自分の情報感度を高めようとする帰納的な知識の入れ方は、何か着想を得たり、差別化をしようとするときに重要になってきます。

例えば、あるフィールドで戦うプレイヤーのうち、自分だけが気付けた情報を持っていたら、その情報差を利用して優位にことを進められる訳です。

その意味でこちらは「戦わない」ための知識と呼んでいます。

 

冒頭で尾田栄一郎さんがラジオに出演した話を書きましたが、尾田さんはメディア露出をほとんどしないことで有名です。

そんな尾田栄一郎さんがラジオに出演したきっかけは、鈴木敏夫さんとの「任侠もの」の話だったのだそう。

任侠ものの作品なんて、およそアウトプットベースではたどり着きません。

広く浅く興味を広げて、情報感度を高めているからこその、尾田栄一郎さんを動かした接点だと思います。

 

もちろん仕事で必要だからこそ、僕は目的ありきのインプットもむちゃくちゃやっています。

ただし、「今役に立つかは分からない/今後役に立つとも思えない知識」のインプットも同じくらいに大切にしています。

そういう知識が積み上げることで初めてできるアウトプットが存在すると思うからです。

 

知識を良質な調味料としたとき、目的ありきの知識習得が味付け用の調味料の数を増やすものだとしたら、無目的な情報習得は、僕の中で「ぬか床」を用意するイメージです。

(これを僕は知識の層と書いて「知層」と呼んでいます)

例えば、映画『風立ちぬ』を見て、堀辰雄やモネ、トーマスマンにファウストにダンテなどを知っていれば、あの映画から得られる情報量は段違いになりますし、そういう人同士が出会った時の話の共感度合いは非常に強いものになります。

もし、「知識を得たい」が実戦で役立てたいという意味のものであるとするのなら目的ありきの知識習得が有効です。

でももし、その「知識を得たい」が、何かに触れたときに様々な伏線や意図に気づける能力が欲しいというのであれば、身につけるのは「目的のない知識」です。

僕は鈴木敏夫さんのような大人がかっこいいと思うし、今後必要な人材はそういうタイプなのでは?(この辺を話すと長くなるので割愛します)と考えているので、この5年くらい、意図的にインプットの質を後者に張り切っています(2:8くらい)が、学生さんであれば[目的ありきの:無目的]=4:6、社会人なら[目的ありき:無目的]=7:3くらいが妥当な気がします。

比率に関しては個人の問題意識次第なので様々な主張をする人がいると思いますが、0:10や10:0を主張する人は信用ならない(というか稚拙)な気はします(笑)

一口で知識と言っても様々なものがあるので、この辺のバランスを考えた知識習得が重要であるように思います。

 

アイキャッチは僕の今のインプットのバランスや仕組みを作るのに参考にした、読売新聞一面コラム執筆者、竹内政明さんの文章術の本。

読み物として『名文どろぼう』『名セリフどろぼう』もおすすめです。

 

「編集手帳」の文章術 (文春新書)

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Plastic Tree「サナトリウム」考察~引用とメタファーから、「死」の匂いを辿る~

僕の一番好きなアーティストPlastic Tree
以前から歌詞考察をしたかったのですが、複雑すぎてずっとためらっていました。
ただ、かれこれ20本以上書いているのに、一番好きなアーティストの曲が無いのもなあと思ったので、今回思い切って扱ってみることにしました。
「どうやったらそんな歌詞が書けるのだろう?」と思う曲が数多くあるPlastic Treeの曲の中でも、群を抜いていると思うのがこの曲。
引用されている映画や小説、情景の意図など、できるだけ取りこぼしのないように拾っていきたいと思います。

映画『禁じられた遊びに出てくる』思い出と別れの象徴としての「十字架」

〈目を閉じて、いろんな君、瞳の奥におさめました。 微熱みたく気づかないままで、恋は虫の息です。〉
この曲は主人公が恋人である「君」との思い出をふり返るところから始まります。
サナトリウムとは長期的な療養が必要な人が入る療養所のことで、元々はかかったら治らないとされていた結核患者が入院することが多かった施設で、今回のそのモチーフで用いられています。
主人公が「目を閉じて」恋人を思い出すのは、恐らく既に恋人がサナトリウムに入院しているからであると考えられます。
もちろん「主人公がサナトリウムに入院している」という可能性も考えられるのですが、僕はこの歌に引用されている『禁じられた遊び』『風立ちぬ』の主題と重ねたときに、入院しているのは恋人の方が妥当であると判断しました(根拠は後述します)。
Aメロの歌いだしで恋人のことを思い出す主人公は「恋は虫の息」だといいます。
これは、恋人の命が長くないことを暗示していると解釈してよいでしょう。

こゝろ閉じて、いろんな僕、胸の中に溶かしました。 禁じられた遊びで燃やせば 孤独ってきれいな色。〉
Aメロの後半は自分の気持ちが歌われます。
「心を閉じて色んな自分を溶かす」というのは、自分の気持ちを隠そうとすることの婉曲表現ではないかというのが僕の解釈。
その自分の気持ちというのは、後ろに書かれている「孤独」でしょう。
主人公は、恋人がいないことで感じる孤独を、「こゝろ閉じ」ることで紛らわそうとしています。
ここで細かな解釈が必要なのが、「禁じられた遊びで燃やせば」の部分です。
ここに出てくる「禁じられた遊び」とは、60年代のフランス映画のタイトル。
この作品は戦争で両親と愛犬を失った少女と、その子が世話になる家庭にいた少年のやり取りが中心で話が展開するのですが、最後は二人が働いた「十字架を盗む」という悪事がばれてしまい、少女は孤児院に入れられてしまいます。
そして、少年と少女歯離れ離れになって、再会できないまま映画は終わります。
ここでの「禁じられた遊び」はこの映画のことを指すと考えるのが妥当でしょう。
映画『禁じられた遊び』では、父親に約束を破られて少女と引き裂かれる場面で、少年歯それまでに少女と一緒に盗んできた「十字架」を川に捨てるという描写が登場します。
少女との思い出であると同時に離れる原因になった十字架を川に捨てるという行為で、少女ともう会うことはないというのが象徴的に描かれています。
そんな「印象的な場面」に重ねて、「孤独もきれい」ということで、一層悲しさが引き立っているわけです。

Bメロのこの歌詞は、「レコード」になぞらえて、恋人との想い出をふり返る場面が描かれます。
ここは(この歌の中ではまだ)分かりやすい省略。
後半の〈うれしいくるしい、似ている呪文だ。辿れない時間へ、あと何センチ?〉を見ていきます。
〈うれしいくるしい、似ている呪文だ。〉
ここは、恋人との日々を思い出すたびに「うれしい」一方で、思い出すほどに新しい思い出はもう作れないんだという「くるしい」が同時に沸き起こる主人公の複雑な気持ちと解釈できます。
また、先述した「禁じられた遊び」に出てくる少年が十字架を流す場面の「思い出とつらさ」というモチーフもここで思い出されます。
そしてつづく〈辿れない時間へ、あと何センチ?〉というフレーズ。
「辿れる時間」がレコードに例えられた君との思い出だとしたら、「辿れない時間」というのは、君がいなくなってしまった時間のことでしょう。
Bメロに出てくる〈止まらないレコード〉というフレーズ、〈あと何センチ?〉というセリフから、死期が目前に迫っていることが分かります。
1番のそしてサビへ。

〈絡めた指をほどいていく、ちいさくサヨナラ唱えるように。〉
倒置法になっているので、ここは「別れを告げるように指をほどく」という、文字通りの解釈でいいでしょう。
ただし、「ほどけていく」ではなく「ほどいていく」という他動詞である所に、(ちょうど伊藤整の『典子の生きかた』に出てくる速雄と典子の別れのような)お互いにこれで終わることを承知した上の「意志」を感じます。
そして後半の〈はぐれた君の名を告げても、戻らない世界の決まり。〉
〈戻らない世界の決まり。〉というフレーズは、Aメロで出てきた映画 『禁じられた遊び』の最後の場面を彷彿とさせます。
禁じられた遊び』では、最後の場面で主人公の少女ポーレットが、一緒に遊んでいた少年ミシェルの名前を叫びながら走りながら、結局会えないシーンで終わります。
そもそもこの映画は戦争の中で少女が少女の運命が振り回される作品です。
ここでいう〈戻らない世界の決まり。〉は、『禁じられた遊び』のラストシーンに重ねて、手をほどいたらもう二度と会えないということを歌っているのだと読むことができます。

風立ちぬ』のモチーフに現れる生きる意志と死の不安

つづいて2番のAメロは堀辰雄さんの『風立ちぬ』の引用から始まります。
風立ちぬ、甘い屑が数えきれず散らかりそう。〉
小説『風立ちぬ』はサナトリウムに入院し、やがて死んでいく恋人と「私」とのやり取りが描かれた作品です。
この引用からも、恋人の「死」がより鮮明になります。
1番のところで、僕は入院しているのは恋人の方だと思うという話を書きましたが、それは『禁じられた遊び』で離れていくのも『風立ちぬ』で死んでいくのもともに女性の方だからです。
この2作品を意図的に引用している以上、やはりサナトリウムに入院しているのは女性であるだろうというのが僕の考えです。
風立ちぬ、いざ生きめやも。」
これは『風立ちぬ』の冒頭に引用されている、ポールヴァレリーの詩です。
現代語にしたら「風が立った。生きよう、でも生きられるだろうか」といったところでしょうか。
ここには、生きる意志と、死への不安の両面が描かれています。
(ちょうど一番に出てきた〈うれしいくるしい、似ている呪文だ。〉という部分に似たモチーフです)
ここで「風立ちぬ」という言葉を用いている以上、小説『風立ちぬ』をモチーフにしているのは明らかですが、歌詞の上では「風が吹いた」という意味で用いられています。
風立ちぬ、甘い屑が数えきれず散らかりそう。〉
風に吹かれて散らかる「甘い屑」といえば、書き溜めた手紙(=ラブレター)と考えるのが妥当でしょう。
ここでは、小説『風立ちぬ』をイメージさせると共に、風に吹かれて吹き上がるラブレターの描写がされています。

Aメロの後半かサビの前半にかけては、(まだ「サナトリウム」の中では直接的な表現が多いので)著作権等を考えてカット。
〈ざわめき。胸を囲まれたら、何処にも行けないままで。〉
2番のサビの後半なのですが、僕はやっぱりここに、小説『風立ちぬ』のモチーフを感じ取ります。
風立ちぬ』の中で、風に吹かれて倒れたカンバスを直そうとするヒロインをぎゅっと抱きしめて離そうとしない主人公が描かれます。
そして、ヒロインもほどこうとするでもなくそれを受け入れる。
〈胸を囲まれたら、何処にも行けないままで。〉は、その時のヒロインが「拒むでもなくすっと受け入れた」という表現に重なる部分を感じるのです。

繰り返しのサビへと続きます。
〈花束の花がひとつずつ、枯れてくのを眺めているような。触れないことにただ気づいて、待ちこがれた涙が出た。〉
前半は恋人が徐々に死へと近づいていることの象徴と考えていいでしょう。
「枯れていく花を眺める」というのは、自分では枯れていく花に何もしてやれないことと捉えれば、「触れないことに気付く」とは、恋人の症状が悪化していき、自分ではもうどうしようもない(何ならもう会えない)ことを表していると考えられます。

これまでに出てきた「禁じられた遊び」(好きな人と離れ離れになる)→「風立ちぬ」(死へと向かうきっかけ)→「枯れて行く花びら」(強い死の匂い)というモチーフを見ると、少しずつ「死」の印象が強くなってきます。
この辺も『サナトリウム』という曲のすごいところなのかなあという印象です。
そして大サビに入る前のAメロを挟んでクライマックスへ。

〈絡めた指をほどいていく、ちいさくサヨナラ唱えた、声。はぐれた君の名を呼んでも、帰れない世界のきまり。〉
一番のサビと言葉は近しいですが、その内容はまるで違います。
一番では〈絡めた指をほどいていく、ちいさくサヨナラ唱えるように。〉だったのがここでは〈絡めた指をほどいていく、ちいさくサヨナラ唱えた、声。〉となっています。
ここではしっかりと「サヨナラ」を伝えています。
つまり、はっきりとした「別れ」が描かれているわけです。
そして繰り返しの最後のサビ。
〈目醒めて、夢の花散らばれ。愁しみも静かに、サナトリウム----------〉
現実の花が前に出てきた「枯れていく花束」で「死」を象徴したものだとしたら、「夢の花」は「枯れていない花」つまり「生」を願うものと考えられます。
そして、それを「目醒め」た世界で「散らばって欲しい」と望むということは、この瞬間に恋人がなくなってしまったのでは?というのが僕の考えです。
その喪失感が後半の〈愁しみも静かに〉という下りと、その後の〈ざわめき。胸を埋めつくして、此処から動けないままで。〉という部分。
そう考えれば、〈何処にもいけないのは「こゝろ」 其処にいた君が笑うの。〉の意味が通ります。
最後の場面でちょうど恋人は息をひきとっているからこそ、「其処にいた君」(の思い出)が笑うし、それだけ思い入れが強いからこそ、「こゝろ」が「何処にもいけない」のではないかと思うのです。

といった感じで見てきたPlastic Treeの『サナトリウム』。
とにかく言葉で伝えるのが難しい世界観の曲だと思うので、気になった方がおられたら、まず聞いてみていただくのがいいかと思います。

 

 

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