新・薄口コラム

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



センター地理の「ムーミン」問題が話題なので、明日に引きずらないようにざっくり解説をしてみた

評論家の岡田斗司夫さんは、表面的な部分に惑わされずあくまで構造を比べたら同じだよねということを説明するためによく「カレーと肉じゃが」を例に用います。
岡田さん曰く、「女性が『得意料理はカレーと肉じゃがです』っていうと料理が得意なように聞こえるけど、あれ、実は材料も調理法も殆ど同じで、味付けだけがちょっとちがうんだよね。」だそう。
確かに(細かな工程にケチをつければ別ですが)味付けがみりんとしょう油なのかスパイスなのかという違いを除けば、殆ど工程は同じです。

入試問題の中ではしばしば、表面的な情報に惑わされず、その問題の本質を捉えることを要求する問題がでてきます。
僕はこうした問題を岡田先生の言葉を借りて「カレーと肉じゃが問題」と呼んでいるのですが、今話題になっているセンター地理で出題されたムーミンと言語の対応を聞く問題は「カレーと肉じゃが問題」の典型例だと思うのです。

もちろんこの問題はムーミンが好きだったり、作者のトーべ・ヤンソンの出身地を知っていたりすれば有利になってしまいます。
したがって50万人以上が受けるセンター試験(今年は528,323人)で特定の分野に詳しい(今回ならば文学)人に有利な問題を出すのはいかがなものかという切り口からこの問題が批難されれば理解できる部分もあるのですが、一方で単に「全員が知っているわけでもないムーミンの出身地を答えの根拠にするなんてけしからん」という意見に関しては、(少なくとも僕には)問題の意図が捉えられていなかったというように見えてしまいます。

以下は専門外の人間が高校時代の知識で類推しただけなので本気にしないで欲しいのですが、僕はこのムーミンの問題に関しては、「与えられた情報から根拠を拾い、地理の知識と結びつける問題」であったと考えています。
問題文の『ニルスのふしぎな旅』『ムーミン』『小さなバイキングビッケ』に引っ張られるとどうしても「キャラクター」に気をとられてしまいそうですが、しっかりとその背後にも問題の問わんとする「意図」が描かれています。
今回の問題は言語の知識でも、ましてキャラクターに対する理解でもなく、「絵」の周辺情報から正解にたどり着くという物だったように思うのです。

今回の問題に関して、重要なことは『ムーミン』『小さなバイキングビッケ』ではなく、フィンランドノルウェーという地名です。
この2つの国名を聞いて、立地を頭に浮かべ、気候区分を頭の中で思い浮かべた上で設問の絵を見れば、問題の意図をはっきりと汲むことができます。
フィンランドノルウェーもともにスカンディナヴィア半島付近に存在する国(スカンディナヴィア諸国という括りではフィンランドは含まれなかったはず...)で、ノルウェーは大西洋に面しているのに対し、フィンランドバルト海に面したやや奥にある国です。
どちらも高緯度に位置する国ですが、大西洋側は偏西風と暖流の影響により西岸海洋性気候で「高緯度の割に温暖な気候」であるということを考えれば、ノルウェーが「比較的暖かい」知識ということにたどり着けます。
それを踏まえて『ムーミン』の背後にはクリスマスツリーのような木(モミの木?)が、『小さなバイキングビッケ』の背後には海賊船がそれぞれ描かれていることを考えれば、どちらがノルウェーでどちらがフィンランドかという「根拠」にたどりつけるわけです。
そして言語の方の選択肢にはトナカイが書いてあるので、そちらがフィンランドであるという「推測」が成り立ちます。
ムーミンの問題で問いたかったのはこうした「思考」ではないかというのが僕の考えです。

確かに日頃からこういった「カレーと肉じゃが問題」は「〇〇のときは××になる」みたいな情報処理型勉強しかしてこないと手が止まってしまうかもしれません。
しかし、これがセンター試験である以上、何の意図もない問題が出題されるはずもなく、キチンと意図を読み取れば習った「地理」の知識の範囲内で解けるはず。
その前提の下にしっかりと対策をしていれば、難問でも新傾向の問題でもなく、普通に正面から解けた問題だと思うのです。
もちろんこの問題でうろたえてしまったという人もいるでしょうし、「この問題のせいで…」という感情を持った人もいるかもしれません(先ほども触れた通り、特定の学部や科目の知識に長けた子に有利な可能性のある出題はいかがなものかとう切り口であれば、その主張が分からないこともありません)。
しかし、終わった問題にいちいち文句を言ったところで点数は上がりません。
この問題で点数を落としてしまったのなら、一点でも明日の試験で取り戻す方に意識を向けるべきです。
基本的に僕はセンター試験の振り返りは、2日目が終わるまで行わないのですが、この問題に関してはう路絶えている人が少なからずいたので、ざっとまとめてみました。
この問題自体がどうというのではなく、「問題の意図を汲む」題材としては明日の試験にも役立つ可能性があると考えたからです。
まだセンター試験は終わっていません。
本日の試験が上手くいった人は明日もそれが続くように、残念ながら思うようにならなかったという人は明日の試験で少しでも挽回できることをかげながら祈っています。

偉そうに書いていて全く的外れだったらごめんなさい(笑)

 

アイキャッチはもちろん「ムーミン

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「やりたいことがない」を科学する~「欲求」「欲情」「欲動」「欲望」というやりたいことの4分類~

進路の話や将来の目標など、教育業界にいると「やりたいこと」という言葉に頻繁に出会います。
と同時によく聞くのが「やりたいことなんてあらへん!」という言葉。
僕自身どちらかといえばやりたいことがいろいろあるタイプの人間なので、「やりたいことがない」はいまいちピンと来ないのですが、だからといって「やりたいことがないなんてあるハズない!」とばっさり切り捨てるのは、少し乱暴なように思います。
全体体に「やりたい事がない」という人に対して理解しようとする姿勢が、「やりたいことに溢れている側」には少ないように思うのです。
ということで「やりたいことがない」問題について、いろいろ分解してみました。

そもそもやりたいことがないという状態がどうして生まれるかという原因を考えると、一番は「やりたいこと」という言葉の曖昧さにあるように思います。
やりたいことをすればいいと言っている人の使う「やりたいこと」の定義と、やりたいことなんてないという人の「やりたいこと」の定義とで、認識のズレが生じているように思うのです。
僕は「やりたいこと」という言葉の使われ方に関して、縦軸に他者の承認の有無、横軸に努力や時間の必要性を置いた、次のマトリクスで表すことができると思っています。

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そして第1象限にある他者の承認が必要で且つ達成までに努力や時間が必要なやりたいことを「欲望」、第2象限にあたる努力や時間は必要ないけれど他者の承認が必要なやりたいことを「欲求」、他者の承認も努力や時間も必要でない第3象限のやりたいことを「欲動」、そして自分だけで完結するけれど努力や時間が必要な第4象限に該当するやりたいことを「欲情」と呼ぶことにします。
(「欲動」は僕の造語、「欲情」「欲望」「欲求」は本来の意味と異なる使い方をしていますが、その点はご了承下さい。)
この中で一番簡単に実現できる「やりたいこと」は欲動です。
時間や努力も他者の承認も不要であるため、すぐに行動に移すことができる。
反対に一番難しいのが第1象限の欲望です。
今すぐ「やりたい」と思っても努力も時間も必要なうえに、他者の承認も必要であるため、考えた直後に叶うというものではありません。

やりたいことを聞くとき、聞く側がどの象限までを要求しているかと聞かれた側がどの象限を想定しているかのズレがあると、「やりたいことがない」という現象が生まれます。
例えば、堀江貴文さんはよく講演会や番組で「やりたいことがない人なんていない」といっていますが、内容を聞いていると「欲動」を聞いているというのが分かります。
反対に堀江さんに「やりたいことがない」という人は大体第1か第4象限を考えている。
このギャップによってやりたいことがある人とない人の認識のズレが生まれると思うのです。

やりたいことがないという人は、自分の「やりたいこと」を「欲望」「欲情」「欲求」「欲動」のそれぞれのベースで考えるのが有効です。
たとえば、音楽が好きな人で「自分が書いた曲がみんなに知られたい」は欲望で、そんな夢だと壮大すぎて「やりたいこと」として認知もしていないかもしれません。
しかし、その「欲望」を「欲情」ベース、「欲求」ベース、「欲動」ベースで考えてみたら、「やりたいこと」としてあがってくるかもしれません。
「自分が書いた曲がみんなに知られたい」という「欲望」を「欲動」の範囲で考えれば「曲を書きたい」だし、「欲情」の範囲ならば「いい曲を書きたい」だし、「欲求」の範囲なら「曲を誰かに聞いてほしい」になります。
「曲を書きたい」なら極端な話口笛一つですぐにできますし、単に「誰かに聞いて欲しい」ならYoutubetwitterにあげたり、誰か友達に送って感想を聞けばいいだけの話です。
この辺だったら何も難しくない。
例えば「女の人と仲良くしたい」なら、「欲動」なら「誰かとセックスしたい」、「欲情」なら「モテたい」、欲求なら「デートしたい」、欲望なら「好きなこと付き合いたい」みたいになります。
或いは「筋トレ」なら、「筋トレしたい」なら「欲動」、「筋肉をつけたい」なら「欲情」、「筋トレの方法に感心してもらいたい」なら欲求、「筋トレで身につけた肉体を褒めてもらいたい」なら「欲望」になります。

「欲望」になるとなかなか見つかりづらいかもしれませんが、「欲動」や「欲求」ラインなら案外誰でも持っていると思います。
或いは、「やりたいこと」を答えると同時にそれを履行する義務を負うような感じがして、つい口をつぐんでしまう人も、「欲情」「欲動」のラインならいけるかもしれません。
「やりたいこと」を聞く側は「欲望」だけではなく、「欲情」「欲求」「欲動」でもいいよということをそれとなく伝えることが必要だろうし、反対にやりたいことを聞かれた場合、「欲望」ではなく「欲動」や「欲情」だけれどみたいな断りを入れて話し出すみたいなことが有効なように思います。

 

アイキャッチは「モチベーション」についてのこの本

 

デジタル化時代の価値は0と1の間に落ちている

中学校の技術の時間に糸鋸を使う授業があって、先生が言うのとは全く違う手順で機械をいじってひどく怒られたことがありました。

僕は母の家系が大工で父の家系が配管工で、小さい頃から工具に触れて育っていました。

だから糸鋸は小学校入学前からの遊び道具。

で、当然のように父や祖父がやっているのと同じように機械をいじったら、なんでもそれは「アブナイ」やり方だったみたいで、それは違うと怒られたわけです。

そんな、小さい頃から「習った」手順と、技術の授業で習う『正しい』手順が違ってたまに悩むことがありました。

テストで工具の名前を聞かれて、大工のおっちゃんが普段「それ取ってくれ!」みたいなノリで使う俗称を書いてバツになったり...笑

 

先日久しぶりに地元に帰省して、母方の祖母とご飯を食べに行きました。

祖母は典型的な地元の人で、会うと地元出来事や半径1キロで起きた話題を無限リピートするみたいな人なので、車でご飯を食べに行ったりすると、その道中はそんな話ばかりになります。

僕は友達であっても過去の思い出を回顧して盛り上がったり、会社の愚痴が会話の中心になったりする集まりは途中で抜けるくらいに目的のない話が苦手なので、正直祖母のそういった話はむちゃくちゃ苦手です。

 

ただ、そんな祖母と食事に行くと、僕が話に釘付けになる話題があります。

1つは祖父の建てた家を見かけた時で、もう1つは建設中の家を見た時。

 

祖母と一緒に車で移動していると、地元トークの合間に不意に外を指差して「あれお父さんが建てたんだけどね」と話し始めることがあります。

「お父さん」っていうのはずっと昔に亡くなった祖父のこと。

役所から検査に来た人と揉めた話とか、施主ともめた話とか、家を長持ちさせるために祖父がどういう工夫をしていたかとかを事細かに教えてくれるのです。

この話がいちいち示唆に富んでいてむちゃくちゃ面白い。

祖母としてはそれまでの身のない話の延長で話しているつもりなのでしょうが、そこには職人の(妻として見てきた)視座が詰まっていて、僕としてはためになる情報ばかりなのです。

そんなものどう探したって教科書には載っていません。

祖母のこの話を聞く度に職人の技術が口承だったり盗んで覚えろみたいに言われたりするのは、別に技を隠したいとかではなく、そもそも伝える側が意識もしていない(教えようとしてもいない)レベルの所作にあるからなのだろうと思います。

 

もう1つ面白いのが建てている途中の家を見た時の祖母の話です。

祖母はよく、建設中の家を見かけるとその建て方のいい部分と悪い部分を全て指摘します。

それが現代の建築論的に正しいのか間違えているのかはともかく、素人目に聞いていて納得できるところが多々あるわけです。

いきなり「基礎を全て打ったら土が死ぬ」とか意味のわからない事を言いだすのですが、それを何度も聞き返して掘り下げていくと確かに納得してしまいます。

 で、最近の大手の建て方を一通り悪く言ったと思ったら、「〇〇建宅」はいい仕事をしていると持ち上げてみたり。

(この建築会社の名前は意外でした)

 

僕ら若者は(というか特に僕は)年上の世代の事を根性論だとかムダが多いとか技術に追いついていないとかどこか小馬鹿にしているところがあるように思います。

ただそれは、あくまで今の技術に対する検知のお話で、それまでに積み上げた経験自体に意味がないなんてことは決してないんですよね。

僕はデジタルの基本はムダの排除だと思っている(この辺は0と1の話からすると長いので割愛します)のですが、その先の差別化にはデジタルで排除されたノイズにこそ価値が生まれるように思っています。

僕は良く、温故知新にもじって、過去を踏まえず最先端を礼賛する人の事を「盲故知新」と表現している(反対に昔の論理を引っ張ってきて今はダメだというのは「温故憂新」)のですが、盲故(故きに目を閉ざす)は自ら長期的な強みを手放しているように思うわけです。

僕はデジタルが大好きで先端技術に興味があるのですが、だからこそ同時に、0と1に分解する際に切り捨てられた情報の中に眠る「貴重」な価値にはアンテナを張り巡らせておきたいなとおもったりするわけです。

 

最近特に、両親の家系に「職人」を持つ僕にとっての「温故知新」はこの辺にあるのかなあと考えています。

 

アイキャッチは温故知新を地で行った立川談志さんの現代落語論。

これが20代の仕事とかヤバすぎる。

現代落語論 (三一新書 507)

現代落語論 (三一新書 507)

 

 

 

一日店長のお店の出店アイデアと企画会議が盛り上がる理想のパーティの作り方

僕は何かしらお題を与えられて、それに対して考える事がとても好きで、飲み会のときは大体相手からもらった「お題」に対して考えるみたいな事をしています。

ありがたいことに昨年の25日から8日まで、ほぼ毎日誰かしらと飲んでいて(肝臓がヤバイ)、そこでむちゃくちゃ色々な「お題」をもらいました。

その中で特に面白いなと思ったのが、日替わり店長のお店に出店する際のアイデア作りです。

 

僕の知り合いの何人かが、しばしば日替わり店長をできるお店に出店をしているのですが、そこで何をするかということに対するアイデアの出し方を聞いて、非常に面白いなと思いました。

「日替わり店長」という話を聞いた時に僕が最初に考えたのは「一日だけしか出店しない」が武器になるアイデアとは何か?です。

「日替わり」であるのなら、それほどリピーターは期待できず(店のファンは除く)そもそも素人の出店と考えたらクオリティも期待できません。

だったらそれらの要素を逆に利用すれば差別化になるのではないかと思ったのです。

例えば素人が料理の味で勝負しようとすればその先には本業でしのぎを削るプロたちが競争相手に待っています。

一方、リピーターやお店の収支を考えたら、原価率などを考えなければいけません。

こういった部分は「普通のお店」であれば絶対に意識しないといけないところです。

逆に言えば、ここを取っ払ってしまった勝負の仕方を考えれば、面白いコンセプトのお店を出店することができるのではないかと思ったのです。

 

そんな仮説を立てながら僕がふと思いついたのは、世界中にある餃子のような料理を集めたお店と、日本中のご当地練り物を集めたおでん屋さんです。

1つ目の世界中にある餃子のような料理を集めたお店というのは、ロシアのペリメニ、ネパールのモモ、トルコのマンティといったように、調理工程が餃子と類似した料理を世界中から集めてきて、それだけを提供するお店です。

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(ロシア料理「ペリメニ」)

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(ネパール料理「モモ」)

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(トルコ料理「マンティ」)

 

スペイン料理のお店やロシア料理のお店ならありますが、世界の料理を「餃子」で因数分解したお店は見当たりません。

というか、メニューが「餃子」だけでは何度も来たいとは思えず、リピーターを付けようとするのは困難です。

だから、「一日だけの出店だから成立する」に該当します。

また、「美味しい餃子」で勝負した場合は食べる側が味を知っているので料理の腕を比較されてしまいますが、ペリメニやモモにならそもそも殆どの人が食べたことがありません。

だから、「こんな感じの料理なんだ」とう発見さえお客さんに提供できれば、それが満足度になる(あくまで商品として提供しているのは世界中の面白い料理を知るという経験価値です。)。

ということで、素人の料理であるという点もクリアできます。

 

もう1つの日本中のご当地練り物を集めたおでん屋さんというのも同じような発想法です。

例えば静岡の黒はんぺん、宇和島のじゃこ天、津軽の大角天みたいなものが食べられるみたいなイメージ。

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(静岡「黒はんぺん」)

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(宇和島「じゃこ天」)

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(青森「大角天」)

ご当地おでんをやっているお店はあっても、ご当地おでんだけを集めた天下一武道会みたいなおでんをやっているお店はなかなかありません。

というか普通に毎日人を呼び込まなければいけないお店では、コストがかさむわりに出オチ感が強く(=リピーターが見込めず)できないはず。

やっぱり「一日だけ」だから成立するコンセプトです。

また、最悪スープの素を買ってくれば最低限のクオリティが確保できるため素人の料理という部分もクリアできます。

 

というわけで年末年始はこんなことを考えながら飲んでいたわけですが、別に僕が書きたかったのはこのアイデア自体ではありません。

そうではなくて、アイデアが生まれやすい土壌っていうのがあるよねというお話。

色々な人が出すアイデアを聞いていて、僕はある人が生み出すアイデアの出し方は大きく①自分がやって見たい②需要がある③使える要素から考える④必要性から作り出すの4つに分類できるように思いました。

①のアイデアの出し方はあくまで自分の欲求ベースで、自分はこんなことをしたい!だからやる!というタイプのアイデア出しです。

ジョブズなんかがこのタイプ。

②は何かのアイデアを作るとき、まずは市場調査をするタイプです。

コンサルタントをしている人たちに多い気がします。

③は先ず自分たちが持っている要素を見て、その武器の活かし方を考えようとするアイデアの出し方。

多分Dr.ストーンやアイシールド21を書いている漫画家の稲垣理一郎さんはこのタイプ。

そして最後④はこれが必要なんだからしなければならないという、必要性から考えるタイプです。

①と似ていますが原動力が外に向いている点が異なります。

 

①〜④のいずれが優れていて、いずれかが劣っているというわけではありません。

そうではなく、同じタイプの人が集まっても突飛なアイデアは生まれないし、議論の場で面白いアイデアを出したいのならば4つのカテゴリーを得意分野にする人が集まった方がいいよねというお話。

同じカテゴリーの考え方の人でも当然生み出す発想は違いますが、根本的な思考のベクトルが近いので、それを混ぜても突飛な色は生まれません。

同じベクトルの人同士の集まりは変な色は生まれづらいですが、人を感動されるものも生まれません。

マゼンダブルーとネイビーを混ぜるみたいな感じ(笑)

 たしかにどう転んでも汚くはならないだろうけれど、生まれる色は予想できてしまいます。

しかし、そこでショッキングピンクを持った人が入ってきたらどんな色になるかは分かりません。

もしかしたらドブ川みたいなものになるかもしれませんし、思いもよらなかった艶やかな紫が生まれるかもしれません。

イデア出しって、こういう幅があることが重要だと思うのです。

だから、企画やアイデアを練る時には、上の4系統を集めることがいいんじゃないかと思います。

 

アイキャッチ稲垣理一郎先生のDr.ストーン

 

 

 

地方都市でマンション建てるべきか?

帰省中ということで地元のお話を。。。

地元の知り合いで、小さい頃から非常によくしてもらっているお金持ちのおばちゃんがいるのですが、以前帰省した時に新しくマンションを建てるという話をしていたので(僕は買えないので)面白いなと思って色々話を聞いていました。

で、その話を聞いた率直な感想は、「それはやめた方がいいだろう」です(笑)

 

おばちゃんがマンションを建てると決めた一番のきっかけは「その話を持ってきてくれた人は信頼できる」だそう。

一応話を聞いた上で僕は(パッと手に入るものではありますが)数値を見せてやめた方がいいのではという話をしたのですが、人に対する信頼は無機質な「数値」よりもはるかに強いらしく、結局マンションを建てることにするそうです。

数値に基づくアドバイスは聞かないとなると、僕ができるアドバイスはないので、あとは単純に「マンションを建てる人のロジックはどういうものなのか」ということと、「地方都市でのマンションの営業マンの売り込みロジックはどういうものなのか」という二点に絞られたため、ほぼインタビューみたいな形で色々な話を聞いていました。

 

おばちゃんの話を聞いて一番強く感じたことは、数値云々の前に、「相対化」するという概念がないのだということです。

例えば、僕は高校卒業と共に関西に引っ越し、滋賀県草津市京都市にそれぞれ同じくらいの長さ住んでいたので、地方都市の浜松市、都心に近い草津市、観光地の京都市の「土地勘」のようなものがあります。

人が流入する街のイメージと、人が流出する街のイメージが身体感覚として感じます。

だからこそ、マンションを建てるという話を聞いた時に僕の頭にはマンションを建てる/建てないという軸の他に、縦軸として人口流出都市/人口流入都市というものが出てきて、4象限で考えてしまいうわけです。

で、比較したいから数値を調べて納得するということになる。

 

一方でおばちゃんは生まれも育ちも生粋の浜松市民。

外に住んだことはありません。

だから、他の都市と比較するという視点がないわけです(それが悪いという訳ではななく)。

おばちゃんの話を聞いていると、浜松市の人口というパイ自体が減っていくという「視点」がありません。

浜松市という(地方の)中心都市には70〜80万人の人がいて、彼らに対して魅力的(=新しい)マンションを建てて提供するといった感じでした。

なんていうか、遊園地に新しいアトラクションを増設するようなイメージが近いのかなと思います。

増設したらそりゃ利用者増えるじゃん!という感じ(笑)

そもそも遊園地自体の集客が減っていくという想定をしていないわけです。

 

遊園地の例になぞらえるのなら、地元を離れて数年かを過ごした人は、いわば別の遊園地を知った状態です。

例えば生まれてこの方浜名湖パルパル(僕の地元の遊園地)しか行ったことがない人にとっては、確かにそこは面白い場所なのですが、ディズニーランドやユニバーサルスタジオジャパンを見てしまったら、「それと比較して」という視点が生まれるはずです。

(もちろんこれは浜名湖パルパルがつまらないという話ではないです。)

僕は地元が嫌いではないですし、面白ところもたくさんあると思っていますが、同時に頭には常に「今住んでいる京都と比較したらどうだろう」という視点があります。

 

浜松市の人口推移を見ると、この30年で2/3まで落ち込むというデータが出ています。

これは全国の平均と同じ水準。

東京や大阪のように殆ど人口が減らない地域もある中で全国平均と同じというのは、地方にしては頑張っているということではあるのですが、絶対値として減っている中で立地的に優位性のない場所にマンションを建てるのはやはり悪手だと思います。

何より、「浜松は都市だ」と周囲の地域と比較してそう認識してしまっているおばちゃん(とそう説得している営業マン)の視点がヤバい。

ミクロな地域での人口の奪い合いでうまくいける規模と、そんなんではどうしようもない規模があると思うのですが、マンションに関しては明らかに後者です。

タイタニックの中で生き残ることができる場所を探しても、その船自体が沈んだら意味がないよねというお話。

(ただこの辺は市区町村別に分けた分析をしたときの人口の推移を見た訳ではないので断言できませんが。もし浜松市の人口が3/2になっても、その区の人口増加率が2/3以上ならまだいいかもしれませ)

 

という訳で、おばちゃんのマンションの話を聞いていろいろ気づきがありました。

そもそも国語の先生がマンションについて語るのもおかしな話ですが(笑)

(もちろんそういう断りと、素人意見という前置きはしました)

 

アイキャッチは上念司さんのこの本。

こんなん貼ったら大工の棟梁だったじいちなんに怒られる(笑)

 

家なんて200%買ってはいけない!

家なんて200%買ってはいけない!

 

 

 

思考の長さは周辺環境に規定され、「長さ」こそが長期的に価値になるという仮説

僕は極度のスマホジャンキーで、仕事中でも(授業の時以外は)常に片手にスマホを持っているというような感じだったのですが、この半年くらいで、意識的にそれを止めるようにしました。

思考をするにあたって、ウェブ検索などこちらから情報にアクセスする系のものであればともかく、ラインやメッセンジャーのように、即時性が求められるものに関しては非常に厄介であると感じたからです。

ラインやメッセンジャーでメッセージが送られてきて、それに返事をしようとすると、どうしても一旦そこで思考が途切れます。

この「一旦途切れる」が10年20年スパンで見た時に、非常に大きなデメリットになるような気がするのです。

 

とあるデータで、今の20代は一日あたり平均50〜60回スマホを見ると言っていました。

仮に一日8時間の仕事をして、6時間の睡眠、食事や準備諸々に2時間を費やし可処分時間が8時間であるとして、それを60回で割れば、思考のスパンは480÷60で8分という計算になります。

(もちろんトーク系アプリの利用率には時間ごとの濃淡があるはずなので、一概には言えませんが、ならしてみると現代を生きる20代の自由時間における平均的な思考の「長さ」は8分ということができます。

例えば多くの受験生が時間が足りないというセンター試験の数学でも60分×4問で一問あたりの思考時間が15分はあるわけですが、上の数字はそれよりも少ないということになります。

 

僕はこれを以って「だからスマホをやめるべき」とか、「そういう環境になったのだからそれに適応すべき」とかいう「べき論」を語りたい訳ではありません。

ただ、事実としてそうだよねというお話をしたいだけ。

その上で、どんな時でも希少性=価値であると思っている(これは僕の考え)ので、全体的に思考のスパンが短くなっているのなら、長期的に見た時に長い思考を積み上げたことが差別化に繋がるのではないかと思い、意図的にメッセンジャーから距離を取るようにしています。

ビジネス書や仕事術の記事を読むと、優秀なビジネスマンほど「直ぐに・的確な」返答をするというようなことが書かれています。

もちろんこれは正解で、早く、手数が多く、グイグイと売り込むことが勝つための要因になる今の時代を生きる人と横並びの競争したときはこうした人が「優れている」と評価されます。

しかしここに縦軸を入れて考えると、即時性の競争に身を投じたことで失われる深い思考の蓄積で差別化をするという戦い方が出てきます。

深い思考を積み上げた先に得られる自分だけのロジックは、後から気づいたとしても得るのに同じだけの時間がかかります。

そして、「そんなものは見つけた人のロジックを使って手数とスピードで上回ればいい」という戦い方をする人がいて、確かにそれは正しいのですが、少なくともロジックを提供する「胴元」にはなれません。

ロジックそのものを提供したりする側には、こうした深い思考が不可欠です。

今の「できるビジネスマン」的な振る舞いの先には、こうした「胴元」的なポジションは無いように思います。

 

20代の方が時間があると言われていて、しかもその20代の思考のスパンが短くなっているとしたら、10後、20年後の同世代との勝負を見据えたときに強い武器を持つために「今」の勝負を降りる。

これが僕の基本的な考え方です。

よく、「勝ちたいという欲がないの?」と言われることがあるのですが、「今」の戦いに本当に興味がないのはここ辺が影響しているように思います。

仮説を立てて10年単位で実行して、それがうまくいった方が面白い。

思考のスパンの差異による差別化は、その実験の1つだったりします。

 

アイキャッチは僕の大好きな西村博之さんの最新本

 

無敵の思考 ――誰でもトクする人になれるコスパ最強のルール21

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世界観のレンジの違いと炎上のメカニズム

最近ツイッターを見ているとやたらと炎上をしている人を見かけます。

或いは、炎上までいかなくとも、心無いリプライや誹謗中傷が集まっていたり...

なぜ炎上したのか?や誰が悪いのか?には興味はないのですが、その炎上のメカニズムについては非常に気になったので、多くの「炎上」的なリプライを集めるツイートを眺めていました。

で、色々なツイートを見ていて思ったのが世界観のレンジの違いによる「気持ち悪さ」や「常識ズレ」のようなものが原因になっているのではということでした。

 

僕は実家に帰ると家族や親戚の人から「お前は車を買わないのか」という話を始め、違和感のある「当たり前の疑問」を受けます。

これを聞くたびに僕は「世界観のレンジの違い」を感じていました。

どの地域に住んでいて、どれくらいの生活圏で暮らしているかによって、「当たり前」はまるで異なると思うのです。

 

例えば僕の地元である静岡県浜松市は、鉄道は東西にJR、中心地から北は一本の私鉄が走り、バスは遠鉄バスという一社のみが運行しています。

そして大型商業施設が中心地から10km圏内くらいに点在し、かつ最寄りの大都市名古屋までは100km以上離れているので、自ずと生活パターン離れてその大型商業施設に囲まれたエリアになります。

一方で僕が住んでいる京都はJRの他に市営地下鉄、阪急線、京阪電車京福電車、叡山鉄道など、多くの鉄道が走っていて、バスも市バスと京阪バスなどがかなり細かな移動網を引いています。

そして四条烏丸河原町に密集した繁華街があり、50kmくらいの範囲に大都市としての大阪がある。

浜松市という環境にとっての「便利」は、京都市という環境にとっての「不便」であるということはザラにあるわけです。

(だって、生活のロジックが違うわけなので)

 

上の例で行けば、浜松市京都市の両方を知っている僕にとっては、浜松市にとっての常識と京都市にとっての常識があることが分かっています。

浜松市の場合は(一人暮らしであっても)車がない生活様式は考えられませんが、京都市の場合は(むしろ一人暮らしの場合は)車を持つことが多大なコストになりうるのです。

一方で、浜松にしか住んでいない親族にとっては「車が必須の生活」が当然で、それがデメリットになる生活様式たいうものを体験したことがありません。

仮にそれを口で説明したとしても身体感覚としてそれが理解できず、どうしても認識にギャップが生まれてしまうわけです。

これが僕の考える、思考のレンジというお話です。

浜松市から出たことのない人にとっての思考のレンジは半径10kmくらいで、浜松市出身で京都に住む僕は浜松と京都の両方を結んだものがレンジとなります。

これが日本中を飛び回る人であれば思考のレンジは日本全体となるわけですし、仕事で世界を飛び回る人にとっては仕事でのレンジは世界全体となります。

そして思考のレンジによる理解の差異は、常に一方方向に生じるわけです。

 

対面であれば思考のレンジの差があっても、会話の中でそれを修正することができる一方で、ツイッターのような文字情報を基本に行うコミュニケーションでは、思考のレンジの修正がしにくくなります。

会話の場合は話し手と受け手の間には常に文脈が存在しますが、ツイッターの場合はAという情報が投稿された後に、特定の個人がそれを発見し、自分の元に受け取るわけなので文脈が存在しません。

文脈が無いと100%自分の価値観のレンジの中で情報を処理することになるので、大きな思い違いと、それを前提にした誹謗中傷が発生するわけです。

 

例えば数学の問題で「次の場合のaの値がどうなるか?」という問題があって、その答えが「a=bである」となった時にそれを批判する人はいません。

はっきりと前提となる情報が共有され、文脈が理解されているからです。

しかしもし、a=bを何の前提もなく理解したらどうなるでしょう。

仮にこの問題の出題者は世の中全てが[a=bである]といっているなんて解釈をしたら、次に現れるのは「ならばこの出題者は[baby]という単語は[bbby]とでも言いたいのか」みたいは誤解が生じる訳です。

 

数学の例で書けば「そんなバカな」と思うかもしれませんが、実際に炎上の起きているつぶやきを見れば、これと同レベルの現象が平気で起きています。

そしてこれは価値観のレンジの差によってもたらされるわけです。

僕はツイッターのようなSNS潜在的にこうした誤解を生むシステムを内包していると思っています。

そしてその誤解を防ぐことはできません。

最近の炎上は有名人が不用意な発言をしたことでも悪いことをいったのでもなく、単にここの差異に原因があると思うのです。

 

アイキャッチは中川さんのこの本。内容は好きでは無いけれどタイトルがぴったりだったので(笑)ほ

 

ウェブはバカと暇人のもの (光文社新書)

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