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新・薄口コラム

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



テクノロジーが発達した社会で必要になるスキル

世の中のあらゆる「仕事」(勉強や家事なども含めます)には瞬間の判断が必要な仕事と、まとまった時間が必要な仕事の2種類があると考えています。

瞬間の判断が必要な仕事とは、人とのコミュニケーションが必要であったり、素早く成果物を出すことが求められる仕事のことで、まとまった時間が必要な仕事とは、複雑な思考が必要な分析や創作、膨大な思考実験の繰り返しが必要なタイプの仕事のこと。

何かを実行する仕事には前者が多く、何かを生み出す仕事には後者が多いという印象です。

両者の仕事は全く毛色が違っていて、2つの力を同時並行で行うことは不可能です。

たいていの人はこの両方をバランスよく行っているのですが、突出したアウトプットは期待できません。

厳密にはアウトプットはできるけれど、「競争で競り勝つ」という毛色の闘いになります。

で、人によってはアウトプットそのものに特性を持たせるため、意図的にどちらかに振り切ってしまっている人がいます。

そもそも他の人が50:50で力を割り振っている部分を10:90くらいの比率にしてしまえば、特定の分野において優位に戦うことができるからです。

 

正面からぶつかって競り勝つみたいな戦い方が大嫌いな僕は、まさにこのタイプ。

元々は瞬間の判断が必要な仕事を得意としていたのですが、大学3年生くらいのときから、まとまった時間の必要な仕事を自分の武器にしようと意図的に切り替えてきました。

今後の社会の動向(数年ではなく10年以上のスパン)を考えたとき、まとまった時間の必要な仕事をする力が大きな差別化に繋がると考えたからです。

ネットの普及によりコミュニケーションツールが著しく発展したことで、現在の社会においては、とかく瞬間の判断が必要な仕事ができる人が重宝されがちです。

そして、ロジカルシンキングができると尚良い。

合理的な思考により即時に適切な判断ができ、それに基づいて即座にアウトプットができる人材が、いわゆる「できる人」という評価を受けやすい社会です。

こうした人材が現時点の社会では非常に重宝されることは極めて当然の流れです。

合理的思考も、即時の判断も、即座の行動も、ネットが普及した社会において極めて最適化された能力だからです。

かつては人間がやりたいと思っても、物理的障壁によりできなかったことが、IT技術の進化により可能になりました。

ようやく人間のやりたいことに「ツール」としてのITが追いついてきたというイメージです(最先端のトレンドはともかく、一般の人びとにとってのITに関しては)。

このように、ツールと人間の欲求の程度がほぼ均衡している状況では、そのツールを自在に使いこなすこと自体が「価値」として判断される。

だから瞬間の判断が必要な仕事ができる人が優秀と評価されるわけです。

 

現時点では瞬間の判断が必要な仕事ができる人が評価されており、この状態が技術発展の最大値であるのならば、僕もそちらのスキルを磨こうとしたと思います。

しかし、これまでの産業革命や農業革命に照らし合わせてみると、まだまだ変化の途中に感じるのです。

そう考えるのであれば、この先には「人間のやりたいこと<ツールとしてできること」という関係になるタイミングがくるはずです。

僕はこの、「人間のやりたいこと<ツールとしてできること」という構造になった段階で必要なスキルは、瞬間の判断が必要な仕事ができることではなく、まとまった時間の必要な仕事で高いアウトプットをひねり出せる人材であると考えるのです。

今はまだ人間の独壇場ですが、即座の判断と言うのは人口知能が発達すれば、やがてそことの競争になります。

そのときに、膨大な情報にアクセスし、そこから瞬時に最適解を見つけ出してくるAIには人間一個体では絶対に勝てないと思うのです。

合理的思考にしても、同じです。

その「合理さ」が誰でも理解できるものであるとしたら、それはロボットがトレース可能です。

その時点までテクノロジーが新化した社会では、瞬時に判断ができる人材でなく、ロボットができない分野にこそ価値が生まれると思うのです。

 

AIを初めとするテクノロジーとアウトプットの面で差別化するにはどうしたらいいか。

それには「合理的」な思考プロセスとは違う、自分独自の思考プロセスを持っている(ちょうど古典経済学に対するマルクス経済学みたいな形)か、インプットの段階で情報を絞ったり特殊なインプットにしたりするなどして、アウトプットを強引に捻じ曲げるという2パターンがあります。

前者は自分で世の中の見かたのルールを構築する能力が必要で、後者は価値のあるアウトプットを生み出すために膨大な独自のインプットが必要です。

いずれにせよ瞬間の判断では対応できない能力です。

 

こういうものを生み出す力を今から付けて置くと、長期的にみて貴重な存在に慣れるのではないか。

そんなことを思っているため、20代はここに奉げようというのが、僕がとっている行動戦略です。

ブログやコラムを書いているのもこの一環だったりします。

こんな戦略をとっているため、思考の最中にガンガン横槍をいれてくるコミュニケーション型のSNSや、電話がうっとうしくてたまりません(笑)

僕が電話嫌いなのはそういう理由から。

1時期は四六時中ディスプレイを見ているくらいにスマホジャンキーだった僕ですが、今はいかに自分の時間を確保するためにコミュニケーションツールを「従」のポジションに持っていくかをいろいろ工夫しています。

で、そのために僕がしている工夫をまとめるつもりで書いていたのに、前の部分の説明が余りに多くなってしまったので、それはまたいつかにしたいと思います。。。

「対話:制作:研究」の比率で考える仕事区分と、理想の仕事の見つけ方

僕はある人がどのような仕事をしているのかに関して、次のような区分で考えています。

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様々な仕事の特性を「対話」「制作」「研究」の3つの要素に分けて、それぞれの割合で考えるというもの。
たとえば、すでに売るべき商品が明確に決まっていて、新規のお客さんにそれを売り込む営業をしているAさんであれば「対話:制作:研究」は80:10:10、デザインをしているBさんならば「対話:制作:研究」は20:50:30といった感じです。
もちろんこれは特定の職種であれば〇〇という形で比率が決まっているものではありません。
「職種」という枠組みではない尺度で仕事を比較するために僕が考えている指標です。
この数値の比率が近いほど似た仕事内容であり、比率が遠いほど仕事としては遠いものであるというのが僕の考え方。
同じ営業であっても、この比率がかなり違う場合があります。
例えば、僕の先輩で素材メーカーの営業をしている人がいるのですが、彼は営業先のニーズに合わせて商品をカスタマイズするので専門的な知識が要求されます。
そのため僕の中では彼の仕事の比率は50:10:40としています。
また、別の友達でトイレタリー製品の営業をしていた人がいるのですが、彼の主な営業はすでに商品を置いてもらっているドラッグストアとの信頼関係の構築でした。
従って彼の仕事の場合、この比率が60:30:10という印象です。
同じ「営業」であっても全く比率が違うので、僕の中ではまったく違う仕事という位置づけ。

因みに僕は自分の仕事について、「対話:制作:研究」が10:30:60くらいだと考えています。
一見すると指導をしなければならない塾講師は、「対話」がメインのようにも思えますが、実際に教壇に立っている時間は全体の語句僅か。
むしろ大切なことは、そこで最高のパフォーマンスを発揮するための教材作りだったり、科目の研究だったりします。
優秀な講師ほど、その科目の熱心な研究かであり、上手な編集者であるというのが、この業界に身をおいているものとしての実感です。
そしてこの仕事に対して僕は殆どストレスを感じないので、おそらく僕にとってはこの比率に近い職業が向いている仕事なのだと思います。

いろんな職業についてみて行きたいと思います。
ホリエモンキングコングの西野さんのような、いろいろなイベントを立ち上げて回す人に関しては、「対話:制作:研究」が60:10:30くらい。
デザイン会社で働いているデザイナーさんは20:40:40、仕事を受注してコードを書くプログラマーは50:30:20。
広告代理店の営業は70:10:20、ショップ店員は70:0:30、日本料理の板前さんなら0:40:60といったところでしょうか。
学校の先生は60:20:20くらい、大学教授は30:10:60、ブロガーは5:30:65くらいのような気がします。

自分の行っている仕事の比率を3つの要素から考えてみて、その仕事が自分にとって負担を感じるものでないのであれば、その仕事は自分にとって向いている仕事であるということができます。
先にも書いたとおり、僕は塾の仕事に殆どストレスを感じない(実際は周りの環境のおかげな気もしますが…)ので、僕にとっては10:30:60という比率が自分に向いた仕事ということになります。
何かに熱中することの極めて少ない僕がブログに関しては続けているのも、この比率に近いからなのだろうと思います。

僕は最近、この指標に基づいた仕事の分類をすることにはまっています。
いろいろな人と話していると、無意識にこの指標を考えてしまう(笑)
今はまだせいぜい20くらいの職業についてしか考えていませんが、これが100とかになったら、かなり面白い職業区分表ができるのではないかと思っています。
「対話:制作:研究」という視点における職業分類。
みなさんの仕事は、どんな比率ですか?

 

アイキャッチはリンダ・グラットンの「ワークシフト」

ワーク・シフト ― 孤独と貧困から自由になる働き方の未来図〈2025〉

ワーク・シフト ― 孤独と貧困から自由になる働き方の未来図〈2025〉

 

 

2007年京都産業大学一般AS2月3日「更級日記」現代語訳

赤本古文を訳してみた、

赤本に全訳が載っていないので、全訳を作ってみました。

僕が結構好きな和歌のやりとりが収録されている入試問題です。
内容の背景を捉えることを第一目標としているので、直訳とは若干異なるところがありますが、ご了承下さい。
(とくに敬語に関しては、話の筋を理解しやすくするためにあえて無視している箇所が多くあります)
順次赤本に全訳が載っていない古典の文章の訳をアップしていこうと思います。


かつて住んでいた家は、広々と荒れていて、ここに来るまでに過ぎてきた山々にも劣らないほどでした。恐ろしげなほどに木が茂っていて、ここはまるで都の中とも見えない様子です。引越しの整理もまだ終わらず、非常に慌しかったのですが、私がいつしかは読みたいと願い続けていたものでもありますので、「物語を手に入れて欲しい。物語を手に入れて欲しい。」と母にせがむのでした。すると母は、三条の宮に衛門の命婦として仕えている親族の一人を頼りに手紙をよこしたところ、私たちが戻っているということを珍しがり喜んで、三条の宮から頂いた素晴らしく仕上げられた冊子を何冊か、硯の箱のふたに入れてよこしてくれたのでした。私はとてもうれしくてなって、昼夜を問わずこの冊子を読むのに始まり、まもなく他のものも見てみたいと思うようになったのですが、ほかにあてもない都の片隅に住んでいる私が、いったい誰に物語を読ませてくれと頼むことができましょうか、そんな頼りなどあるはずもございません。
 私の継母であった方は、父に宮仕えをしていたのですが、地方に赴任することになった時に、思い通りに行かないことがあって、父を恨んで、外に出て行くといって、5歳くらいの子供などを連れて出て行ってしまいました。「私のことを思ってくれたあなたの気持ちは、忘れることなどないでしょう」と言い、たいそう大きい軒先の梅の木を見て「この梅の花が咲く季節には、きっと戻ってきます。」と言い残して出て行ったあの人を心の奥底で恋しく思ってひっそりと泣いているうちに、その年も過ぎていきました。
 早く花が咲いてほしい。そのときは再びここに戻ってきましょうといった継母のことを思いながら花を見て待っていたのですが、梅は咲いたのに連絡がありません。悲しくて花を折って、継母の下に
 頼めしをなほや待つべき霜枯れし梅をも春は忘れざりけり
 (あなたが帰ってくると聴いたので梅の花が咲くのを待っていたのですが、私はまだ待ち続けなければならないのでしょうか。冬に枯れた梅の花さへ春の季節を忘れずにきれいにさいたのに、あなたは戻って来てはくれないのですね。)
と書いて送らせると、しみじみとしたことを書いて継母から和歌が帰ってきたのです。
 なお頼め梅のたち枝は契りおかぬほかの人も訪ふなり
 (まだ頼りにしてお待ちになっていなさい。梅の花のもとには思いもかけない人が訪れるとも言われておりますのだから。)

 

アイキャッチ更級日記

 

更級日記 平安時代の元祖文系オタク女子の日記

更級日記 平安時代の元祖文系オタク女子の日記

 

 

トレンディエンジェルと銀シャリに学ぶ、就活で必要な「キャラ」という能力

面白い会話とは、相手との共通の話題にどれだけ自分のエッセンスを散りばめるかである。

これが僕の持論です。

話し相手と一緒に盛り上がることのできる話題を持っていて、その上で話しながらそこに自分だけが持っている知識や経験の引き出しをお互いに開けていくようなやり方で進めていくと、大抵会話が盛り上がります。

だから、僕はできる限り人と一緒に盛り上がるための「共通文脈」としての話題と、自分しか持っていない珍しい情報ソースというのを意識して、情報を集めるように心がけています。

そんな僕がいろいろな話のネタ元として重宝しているのがオタキングこと岡田斗司夫さんがニコニコ動画で解説している番組です。

最近バタバタしていて追いかけられていなかったので、一気に溜まっていた分を見ていたのですが、その中でふと出てきた「芸人のキャラ問題」がとても印象に残りました。

 

きっかけは、視聴者からの「一昨年くらいからM1グランプリやthe・MANZAIがたまらなく感じるようになったのだが、その理由を言語化してほしい」という質問が来たことでした。

その時にトレンディエンジェルを引き合いに出して話した岡田さんの話がとても示唆に富んでおもしろいなと感じたのです。

岡田さん曰く、一昨年のM1やthe・MANZAIで活躍した芸人はキャラが面白い人で、去年の決勝に残った人は全員がネタの面白い人だったとのこと。

僕もこれには完全に同意で、一昨年はトレンディエンジェルメイプル超合金といった、キャラが立っている芸人さんが評価され、実際にその後のテレビ露出も増えていたのに対し、去年は徹底的に「ネタ」が評価されているという印象でした。

 

僕はこの「キャラが面白いのか」それとも「ネタが面白いのか」という問題は、芸人に限らず一般の人にも当てはまると考えています。

一緒に話をしていて面白い人には、その人のキャラクター自体が魅力的な場合と、話す内容が面白いという2パターンがあるということ。

両者とも「面白い」には違いないのですが、キャラが面白い人とネタが面白い人とでは、明確にウケる場面が異なるように思います。

 

先日知り合いと就活について話をしていたのですが、その時にこと「キャラが面白いのかネタが面白いのか」問題に話が及びました。

一緒にいると大変魅力的で、共通の知人であるAさんが、明らかに優秀であるはずなのに、就活ではなぜかうまくいかなかったのはなんでだろうという話をしていたのですが、その時に結論として出て来たのが、Aさんはネタが面白いタイプであるということでした。

就活は短時間で自分の魅力を売込まなければならない以上、どうしてもキャラを意識的に押し出している人の方が評価される傾向にあります。

Aさんは話の引き出しは多岐に渡り洞察も面白いのだけれど、いかんせんキャラが分からない。

恐らく、あったばかりの人が数分話す程度では、「よく分からない人」という評価になってしまうのだと思います。

ちょうどトレンディエンジェルと真打ちのベテラン落語家を比較している感じ。

30分以上のネタでじわじわお客さんを引き込むような落語家さんが4分くらいの極めて短い時間で評価されたら、それは話の長いだけに見えてしまうと思うのです。

限られた時間の中であるならば、いかに一瞬で場の空気を自分のフィールドに引き込むかが必須になります。

そして、自分のフィールドに引き込む最大の武器が「キャラ」なのです。

 

就活では、極めて身近な時間の中で的確に自分の魅力を相手に伝える必要があります。

そうなるとやはり、キャラが面白いことが圧倒的に有利になる。

僕は就活で評価されているコミュニケーション能力なるものは、往往にしてキャラが立っているか否かということに過ぎないと思っています。

何時間も言葉のキャッチボールをするなかでジワジワ伝わってくるその人の魅力みたいなものは、そもそも就活という枠組みの中には測る指標がない。

結果的に極めて短い時間の中で相手に自分の魅力を伝える必要が出て来て、それをするのに重要なものが「キャラ」なのだろうと思うのです。

周囲からの評価は高いのに就活で苦戦する人は、十中八九ここに原因がある。

※ここで強調しておきたいのが、「周囲からの評価が高い」ということ。自分で周囲からの評価が高いと思い込んでいる人はここには該当しません。

 

就活がその構造上、ネタよりキャラが重視されるのであれば、その市場に入っていく際に自分の「キャラ」を立たせなければ仕方がありません。

僕自身、塾の先生をしているので、キャラを立てるということは常々意識しています。

キャラを立てるのに最も重要な視点は、他の要素を捨てていくこと。

あれも伝えたい、これも伝えたいでは、結局相手に自分像が伝わらなくなってしまうのです。

どんな話題でもハゲという自虐が流れているトレンディエンジェルは、やっぱり見ていてどんな人かというのが伝わってきます。

この、根底に流れるイメージこそがキャラで、それを明確にすることと、アピールする内容の根底に、そのイメージが脈々と流れている。

こうなって初めて面接官に「らしさ」が伝わるわけです。

いろいろなネタを持っている人ほど、こんな自分も知ってほしいと思ってしまいがち。

しかしそれは伝える側のエゴで、受け手は「要するにどんな人?」を求めているわけです。

少なくとも就職活動においては構造上そうなってしまう。

であるならば、たとえネタが面白いタイプの人であっても、ある程度はキャラで戦う他ありません。

キャラとは他の要素を捨てること。

この意識を持ってセルフマネジメントができれば、就職活動はそれほど大変でないどころか、比較的優位に進められはような気がします。

 

アイキャッチは「耳で感じる斎藤さん」

 

 

 

 

 

汚部屋美人はなぜ直らない!?子供に部屋を片付けさせる方法とスマホバキバキ問題について

例えば、吐き出したばかりの唾を吸い戻してくれと言われて、躊躇わずに出来る人は殆どいないと思います。

僕はこの「吐き出した唾は汚い」問題には、色々な物事を説明する真理があると考えています。

 

「口の中にある唾は汚いとは思わないのに、それを吐き出した途端に僕たちはそれを汚いと感じる。」

何の本かは忘れましたが(確か「バカの壁」か「唯脳論」)、養老孟司さんが言っていた言葉だったと思います。

部屋がどうしても片付けられない人について説明するときに、この「唾はきれいか」問題が非常に役に立ちます。

僕も大概部屋がグチャグチャな人間なので、部屋が片付けられない、即ち汚部屋オーナーの気持ちはなんとなく分かります。

彼ら(僕ら)にとって、部屋は唾における口の中と同じ位置付けなんですよね。

つまり、彼らにとって、部屋は身体の延長的な位置付けであるという認識なのです。

 

これまた出典が曖昧で申し訳ないのですが(確か「ちぐはぐな身体」だったと思います)、鷲田清一さんが身体とは何かについてかなり納得させられる説明をしてくれていました。

スポーツ選手にとって、使う道具は自分の体と遜色ない感度で操作することができます。

例えば、テニス選手ならば、ラケットに伝わる振動などから様々な情報を受け取るかもしれません。

また、身体障害者の人にとって、普段の生活で「足」として使っている義足は、まるで本物の足の用に使えて、実際にそこから多彩な情報を読み取っています。

それならば彼らにとって義足は身体の一部として充分機能しているのだから、身体として考えた方がいいのではないのだろうか。

確かこんなことが書かれていたと思います。

 

鷲田清一さんの組織として繋がっている部分にとどまらない拡張した身体という見方と、養老孟司さんの自分の内側にあるうちは僕たちは汚さを感じることはなく、外に切り離れた瞬間から汚いものと認識するという話をつなぎ合わせて、汚部屋オーナーの胸中を考えてみることにしたいと思います。

まず、汚部屋が気にならない人にとっては、自分の部屋=自分の身体の延長に近い感覚なのだと思います。

そして、自分の身体の一部なのだから、その中が多少汚くとも気にならない。

この感覚って、部屋を身体の延長的に捉えていない人には絶対に理解できないことだと思います。

自分と世界の境界線が物質的なカラダの範囲である人間にとっては、自分の部屋は自分の「外」にある存在です。

だから、そこはきれいにする。

一方で、部屋を片付けられない人にとっては部屋はカラダの延長で、家のドアが外の世界との境界になっているわけです。

僕の母は綺麗好きで、高校時代によく「部屋がきれいだと気持ちがいいでしょ」と言われ片付けをさせられたのですが、僕にはその感覚が全く分かりませんでした。

部屋の入り口が身体の境界線というような認識をしていた僕にとって、部屋がきれい=気持ちがいいはそもそも持ち得ない感覚だったのだと思います。

「それならあなたは口の中の唾が汚いって言って必死に口をゆすぐの?」くらいの感覚。

汚部屋オーナーと綺麗好きの間では「部屋」といものの認識の時点で既に噛み合っていないのです。

 

こんな具合に部屋が汚い理由に対してひたすら屁理屈を並べて部屋を片付けなかった僕ですが、先生をするようになって子供たちから部屋を片付けられないという言葉を聞くと、さすがに汚部屋側にたつのもいかがかと思うようになりました。

で、部屋を片付けないことに対して屁理屈を並べるのなら、部屋を片付けなければならない理由も屁理屈で考えてやれと思ったのが去年の秋。

というわけで僕は今、屁理屈で固めて部屋を片付けなければならない理由を子供達に説いています(笑)

子供達を納得させる際、僕はまず自分の物はどう扱っても構わないということを話します。

そこに共感を得た上で、「自分の部屋」は誰のものかという話をするのです。

「自分の部屋」の利用者は紛れもなく自分ですが、所有者は違います。

賃貸の住まいなら大家さんのものですし、自分の家であっても所有しているのは基本的に父親あたりの大人です。

つまり、日頃僕たちが思っている「自分の部屋」は、自分の部屋という名の父の所有物であり、そこにあるのは父の所有物の一部を好きに使わせてもらっているという関係なのです。

僕たちが友達に貸した漫画がボロボロになって帰ってきたら怒るように、親にとって自分がお金を出した建物が壊されると腹がたつこと同じように、親の所有物である「自分の部屋」が汚されるのはそれだけ腹立たしいことなんだと伝えます(笑)

これが、僕たちが注意する立場になった時に考えた部屋を片付けなければならない屁理屈です。

 

話を一体どこに落ち着けたいのか分からなくなってしまったので、一度身体性の話に戻ります。

少し前にスマホのディスプレイがバキバキの人の話をニュースで見かけました。

バキバキのディスプレイで平気な理由が分からないというもの。

多分これもその人にとってスマホがどういう位置付けであるのかに由来しているのだと思います。

スマホのちょっとした数も許せない人は、スマホを身体の境界線の外側として捉えているだけでなく、「自分らしさ」を保管するアクセサリーとして捉えているのでしょう。

だから、そんな「理想の自分を表す装置」の1つがバキバキであるなんて理解ができない。

それに対してスマホがボロボロでも気にならない人は、スマホを身体の延長として捉えている。

転んで手にアザができたのを受け入れているのと同じく、スマホが傷ついていてもまあ仕方がないと考えているのだと思います。

少なくとも、直しに行って自分のスマホを何日も手放すのより、今のままの方が安心するという感覚。

この場合もそもそもの認識がまるで違うのでお互いに理解などできません。

汚部屋問題、スマホバキバキ問題について語る時は、そもそも相手にとっての部屋やスマホの位置付けが自分とは異なるということを前提知識として知っておかなければならないとおもうのです。

 まあそもそも理解してどうなるんだという話ではあるのですが。。

 

アイキャッチ養老孟司さん「唯脳論

 

唯脳論 (ちくま学芸文庫)

唯脳論 (ちくま学芸文庫)

 

 

 

2015年京都産業大学一般前期1月28日井原西鶴「日本永代蔵」現代語訳

赤本に全訳が載っていないので、全訳を作ってみました。
内容の背景を捉えることを第一目標としているので、直訳とは若干異なるところがありますが、ご了承下さい。
(とくに敬語に関しては、話の筋を理解しやすくするためにあえて無視している箇所が多くあります)
順次赤本に全訳が載っていない古典の文章の訳をアップしていこうと思います。

 

ある時、夜が更けてから樋口屋の門を叩いて、酢を買いに来る人がいた。土間の仕切り戸の奥まで、かすかに声が聞こえた。雇われている男が目を覚まし、「どうしたのです。」と問いかけた。「ご面倒かもしれませんが、一文の酢を頂けないだろうか。」と言う。雇われの男は寝たふりをして返事もしなかったので、酢を買いに来た男は仕方なく帰っていった。夜が明けて樋口屋の亭主は、この雇われの男を呼び出して、何の用もなく「家の入り口を三尺掘れ」と命じた。言われたとおりに雇われの久三郎は上半身の衣服をまくって鍬を手に取り、一生懸命汗水流して、どうにか掘り進めた。その深さが三尺に達したとき、主が「そこに銭が埋まっているはずだ。まだ掘り出せないのか。」と言った。久三郎は「小石、貝殻のほかは何も見えない」と返した。それを聞いて亭主は「それほどにしても一銭もお金は手に入らないということをよく心得て、これからは一文の商いでも大切にしなければならないのです。昔、連歌師の宗祇法師がこのあたりにいました。歌道の流行っているときに、貧しい薬屋で和歌を好むものがいて、何人かのものを招いて二階の座敷で歌詠みをしていたのだそうです。その主が歌を詠む番になったときちょうど、胡椒を買いに来た人がいたといいます。この薬屋は和歌の集まりの人びとに断りを入れて、一両ほどの胡椒を渡し、三文を受け取り戻ってきて、心静かに一句を詠んだのだそうです。それを見た宗祇はその姿勢をたいそう褒めたと言われています。人はみな、この薬屋のように仕事に向き合うのです。私ももともとは持っていたお金も少なく、一代でここまでの財を築いたのです。それができたのも、家計のやりくり(丁寧な商いを)してきたからこそなのです。これをしっかりと覚えておけば、悪いようにはなりますまい。」

 

 

新版 日本永代蔵 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)

新版 日本永代蔵 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)

 

 

2010年京都産業大学一般前期2月4日「蜻蛉日記」現代語訳

赤本に全訳が載っていないので、全訳を作ってみました。
内容の背景を捉えることを第一目標としているので、直訳とは若干異なるところがありますが、ご了承下さい。
(とくに敬語に関しては、話の筋を理解しやすくするためにあえて無視している箇所が多くあります)
順次赤本に全訳が載っていない古典の文章の訳をアップしていこうと思います。

 

こうして、母の葬儀のためにしなければならないことをあれこれと行ってくれるひとも多く、全てし終えてしまいました。今は一同閑散とした山寺に集まって、することもなく時間を過ごしておりました。夜には眠ることも無く泣き暮らしつつ、ふと山の方を見れば、霧が山の麓まで立ちこめておりました。母を失って京に帰ったとしても、いまさら誰を頼ればいいのでしょう、頼りにする場所など私にはあるはずもありません。やはりここで死のうと思うのだけれど、私を生かそうとする人々がいることがつらく感じます。
 そうこうするうちに、7月も10日過ぎになりました。僧たちが母の供養のための念仏をする間に話していたこと偶然耳にしたところ、こんなことを話しておりました。
「亡くなった者をはっきりと見ることができるところがあります。しかし、そこは近づけばそこはたちまち消えてしまうそうです。遠くからみることならできるのだとか。」「それはどこにある国なのですか。」「みみらくの島と言うそうです。」
僧たちがそんな風に語るのを聞いいて、私はたいそうそこを知りたく思い、また母を思うと悲しくなって、こんな風に詠んだのです。
「せめて母がそこにあるということだけでも見ておきたいのです。みみらくの島よ、もしその名前の通り私たちの耳を楽しませてくれるというのならば、私に母のことを聞かせてくれ」
こう詠んだのを弟が耳にしたようで、泣きながらこう返してきました。
「どこかにあると噂で聞いたみみらくの島に、亡くなった母を求めて会いに行きましょう。」

 里に帰ろうと急いでいるわけではないのですが、私一人で決められることではありませんので、今日、集まった者たちはみな住まいに戻ることになりました。ここに来るときは私の膝に臥した母がいて、なんとか安らかに過ごしてほしいと思っておりました。道中は母の看病で汗を流しながらも、さすがに死ぬことは無いだろうと思って、どこかで安心しておりました。それが今回はたいそう気持ちが軽く、驚くほどにくつろいで載ることのできる牛車であるため、それがいっそう私に母を失った悲しみを感じさせるのです。
自宅に戻って車から降りてみたのだけれど、全くなにも考えられないほどに悲しみが込み上げてきます。母と一緒に集めた花々は母が病床に臥してから手付かずになっていたのですが、それらは生長していっぱいに花を咲かせております。母のためにしなければならない特別な供養も周りの人びとが執り行ってくれたため、私はただ母との想い出の庭の草をみながら、ただ古今集にある「ひとむらすすき虫の音の」が口をついてでてきました。
「これといった手をかけてやった分けではないのに花がいっぱいにさいたことだなあ。これも全て母の残していった命の恵みなのでしょうか。」
そんな風に詠みながら、私は母のことを想っておりました。

 

アイキャッチ京産大の過去問