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新・薄口コラム

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



EXILEの銀河鉄道999はマーケティング的に成功か

少し前に銀河鉄道999のエントリを書いた関係でYouTube銀河鉄道999の動画を貪っていたのですが、その過程でEXILEのカバーする銀河鉄道999にたどり着きました。
普段はあまりコメント欄は見ないのですが、不意にコメント欄が気になって見てみたら批判の嵐(笑)
EXILEファンの方のEXILE擁護意見、EXILEアンチの方の批判、そして往年のゴダイゴのファンの声と、多方面で面白いなあと思いました。
それぞれのコメントはともかく、僕は純粋にEXILEマーケティング戦略として、ゴダイゴ銀河鉄道999カバーが成功だったかどうかに興味があったので、その辺をいじってみたいと思います。

これは完全に僕の憶測ですが、そもそもEXILE銀河鉄道999をカバーした動機って、新しいファン層の開拓にあったんじゃ無いかって思うんです。
普段EXILEに馴染みが無いであろう団塊ジュニア世代に対してアプローチをかけようと思ったとき、ゴダイゴというチョイスは大正解だと思います。
ただ、問題はここから。
新しいファン層を獲得しようと思ったら、カバー曲をきっかけに、他の曲にも興味をもってもらうことが不可欠です。
そこが銀河鉄道999をカバーしたことでできたかどかがポイントだと思うのです。

僕がEXILEを聞くようになったきっかけは、Choo Choo Trainでした。
これもカバー曲。
アレンジにボーカルの声が合っていたこともあり、そこからEXILEを聞くようになりました。
今まで興味のなかった層にリーチして、そこから新たなファン層を開拓していくといういう意味で、ChooChoo Trainのカバーは成功だったと思います(少なくとも僕みたいなタイプには)
それに対して銀河鉄道999の場合は、Choo Choo Trainのときの様にはなりませんでした。
むしろ、EXILEのカバーをきっかけに、ゴダイゴの歌う原曲を久しぶり聞いてみたいと思った人の方が多い様な気がします。
EXILE銀河鉄道999をカバーしたのと同じくらいの時期からゴダイゴのテレビ露出が増えていることからも、EXILEのカバーを聞いてEXILEに興味を持つよりも久しぶりにゴダイゴをみたいと思った人が多かったと考えることが出来ます。

EXILEのカバーした銀河鉄道999については、特に思ったことはありません。
ただ、純粋にマーケティング的な観点で見たときに、僕は失敗、、、Choo Choo Trainのときほどは上手くいかなかったのでは無いかと思うのです。

将来役に立つスキルを身につけるなら、英語よりパソコンだと思う

僕の基本的な考え方はとてもシンプルで、一言でいえば「逆張り」です。
以前、超簡単!自発的に女の子がスカートを短くするのと男子の制服着崩しをやめさせる方法 - 新・薄口コラムというエントリを書いたのですが、これの基本的な考え方も、「どうしたらスカートを短くするのをやめさせられるか」ではなく、「どうしてスカートを短くしたいのだろう」という考え方から行いました。
多くの人がAに行くのなら、その反対方向を考える。
何かについて考えるとき、僕はまず、この逆張りから入ります。

就活シーズンになったためか、僕のFBやTwitterのタイムラインにしばしば就活に役立つスキルなるものが流れてきます。
その中でよくあるのが「英語力」です。
で、これを見てぼくが考えるのは「逆張り」で、むしろ英語力は役に立たないのではないかということ。
小中高の学習指導要領に大学まで、様々な場面でグローバル人材としての英語の必要性みたいなことを耳にしますが、ここまで重要性が説かれてしまったら、「最低限必要なスキル」としてならともかく、「英語ができる=武器になる」とはいかないように思うのです。
もちろん、現実として僕の周りには英語ができるが故に一流企業に勤めている友達がたくさんいます。
しかし彼らの「英語ができる」は海外に1年以上の留学をしていて、且つTOEICでは軽々900点を超えるレベルのお話です。
確かにこのレベルならば武器になりますが、それも現時点(厳密には僕が就職活動をしていた3年前)のお話。
ここ何年も英語力の大切さが強調されているので、おそらく「武器になるレベル」は今後ますます高くなると思うのです。

英語力はいわば求められるハードルがインフレ化している分野です。
世間でその重要性が叫ばれれば叫ばれるほど、要求されるラインは上がり、投資した時間あたりのリターンは小さくなっていくはず。
そんなわけで僕には、英語をこれからの自分の武器にしようとはどうしても思えないわけです。
こんなことを言うと、「じゃあお前は何を武器にしたらいいと思ってんねん!」と突っ込まれてしまいそうです(笑)
僕が仮に今大学生だったとして、これからの社会に出る上で身に付けておこうと思うスキルを考えるとしたらそれは、間違えなく「デフレ化」を起こしている分野だと思います。
たとえばパソコンなんかがその典型例です。
i-Phoneを筆頭に、ゼロ年代後半から、驚くべきペースでスマホが普及しました。
それに伴って、若者のパソコンの所有率は低下しています。
しばしばスマホはパソコンの小型版というような紹介のされ方をしますが、その機能的な特徴から見たとき、明らかにパソコンとは異なるものであるということができます。
パソコンの基本的な用途が「生産」にあるのに対して、スマホの基本は「消費」です。
これは、オフィスワーカーをターゲットにしたことで成功したマイクロソフトがパソコンでのシェアで圧勝し、消費者をターゲットにスマホのシェアを撮っていったApple社の成功からも明らかです。
根っこをたどればパソコンは生産のための「道具」で、スマホは消費のための「道具」なのです。
この辺はちきりんさんのブログで詳しくまとめられています。
僕がねらいどころだなと思うのは、生産者側のデバイスであるパソコンと消費者側のデバイスであるスマホという明確な特性の違いがあるにも関わらず、両者はしばしば混同して語られ、しかもこの軸で見たときにスマホのシェアが圧倒的に伸びているという部分です。
スマホとパソコンという同じ電子機器としてみれば、より新しい技術が古い技術を淘汰しつつあるというように見えますが、パソコンを「生産デバイス」と、スマホを「消費デバイス」と読み替えると、消費デバイスが生産デバイスを淘汰しつつあると見ることができます。
これが、僕の考える「スキルのデフレ化」です。

度々このブログのエントリで言っていますが、僕は現状起きていることに対して「いい」とか「わるい」とかいう意見は持ち合わせておりません。
単順に、「こう見えるから、僕はこう動く」という部分のみ書いています。
したがって、上に書いたお話に関しても「こうあるべき/こうするべき」といった「べき論」は一切ありません。
ただ、生産ツールとしてあるパソコンが今の一番若い世代にとってなじみの薄いものになりつつあるのであれば、それを使いこなせることは大きな武器になるなと思っているだけの話。
少なくとも、インフレ化しつつある「英語力」よりは、デフレ化しつつある「パソコンのスキル」の方が、効率よく周りと差別化できるように思うのです。
もちろんここで言う「パソコンのスキル」とは、ExcelやWard、パワポにとどまらず、最低限のプログラミングやデザインができるというレベルです。
ただ、それでも今後求められるであろう英語力の水準と比べたら、こちらのハードルの方がずっと低いように思います。
よく、僕みたいな考え方は天邪鬼とかひねくれてるとか言われますが、100%間違えではないと思っています。
少なくとも変革期には「逆張り思考」が思はぬところで役に立つような気がするのです。
なんて、英語を教えている人間が言うのもおかしな話ですが。。。

 

 アイキャッチはこの前偶然すれ違った落合陽一さんの本

これからの世界をつくる仲間たちへ

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ゴダイゴ銀河鉄道999考察~英語詩と日本語詩の対比から見る映画のその続き~

最近ゴダイゴさんの代表曲、「銀河鉄道999」にハマっています。
僕が生まれるよりもずっと昔の曲ですが、平成生まれの僕が30年以上経ったいま聞いても、名曲だなと思います。
何より、あれほど映画のシーンにマッチした曲はそうそうないと思うのです。
Aメロの「さあ行くんだ その顔をあげて」の部分は低いBの音からどんどんうえに上がっていきます。
この歌いだしが、映画で銀河鉄道999が夜空に向かって昇っていくシーンとぴったり重なります。
その結果、出だしを聞いただけで映画を知っている人間をワクワクさせてくれます。
また、原作者の松本零士さんは「999」という名前には「1000の1つ手前」つまり少年が大人になる直前という意味を込めたのだそう。
映画は、主人公がメーテルと別れて終わるのですが、「銀河鉄道999」という名前を松本零士さんのいう意味で解釈したら、少年が自分を運んでくれる列車から降りて一人で歩き出す、つまり少年が列車から降りて大人になったと解釈することができます。
しかし、映画の最後だけをみるとどうしてもメーテルとの別れを悲しむ少年の姿が印象に残ります。
これから一人で歩き出す姿はあまり想像できない。
そこにゴダイゴ銀河鉄道999が流れ、Aメロでグッと上り調子のメロディが流れることで、少年が前を向いて歩き出したと安心させてくれます。
あの出だしの4小節で銀河鉄道999が空へ昇っていく場面と、主人公が前を向いて歩き出す(=少年が大人になる)という成長の両方が伝わってくる。
本当に面白いAメロだと思います。

メロディはもちろんのこと、歌詞に関しても面白いなあと思うことが多くあります。
僕がこの曲を初めて聞いて真っ先に気になったのは、視点が三人称であるということです。
「あの人はもう思い出だけど君を遠くで見つめてる」
「そうさ君は気づいてしまった」
「あの人の目がうなづいていたよ別れも愛のひとつだと」
おそらくここで言う「君」が主人公の鉄郎、「あの人」がメーテルなのでしょう。
この歌の歌詞では特定の人物の視点ではなく第三者の視点で書かれています。
この書き方のおかげでいい意味で感情移入せずに歌詞の展開を聴けるのだと思います。
そしてサビの部分の英語詩。

「The Galaxy Express 999 Will take on a journey A never ending journey A journey to the stars」
銀河鉄道999が君を旅に連れて行く、終わりのない旅、まだ見ぬ星へ向かう旅に)
鉄郎にもメーテルにも感情移入していないからこそ、この歌詞を僕たちは自分達に重ねて聞くことができます。
この歌詞は銀河鉄道999の英語詩を作詞した奈良橋陽子さんが最もこだわったフレーズだそう。
そして、ゴダイゴのメンバーの人たちも、英詩のまま残したいといって、この形になったようです。
何度も出てくる「journey」のフレーズがあることで最後のリフレインがいっそう引き立っているように思います。

サビの英語詩の部分は曲の雰囲気を決める際にも影響を与えたのだそう。
あるインタビューで、タケカワユキヒデさんがこの曲を作曲した時点ではもともとバラードだったと言っていました。
それを編曲したミッキー吉野さんがアップテンポな曲調にしたと言っていました。
その際に「Fly me to the moonならゆったりだけど、Journey to the starsだったらもっと早いイメージだ」と思ったのだそう。
Fly me to the moonはゆったりとしたジャズのスタンダードナンバーの一つ。
確かにそれと比べると「銀河鉄道」「Journey to the stars」はもっとテンポが速いような感じがします。
凄く的確な表現だなあと思いました。
こうしてできたのが、今の銀河鉄道999。

いつものことながら考察を書くつもりがただのファンの感想になってしまいました(笑)
ただ、もう一点だけどうしても紹介したいことがあるので書かせてください。
それはもともとの英語詩についてです。
この曲は作詞家の奈良橋さんがまず英語詩を書き、曲が完成した時点で日本語の歌詞が乗せられるという形で作成されています。
元の歌詞と日本語の歌詞を比較するととても面白いのです。
「I thought I reached the end」
「The end of a long long journey」
「Only to find It’s not over」
「There’s so much more to discover」
(僕は長い長い旅の終わりに着いてしまったと思っていた)
(でもまだ旅は終わっていないことに気づいたんだ。まだずっとたくさんの見つけなきゃいけないものがあることに気づいたんだ)
英語の歌詞では一人称で描かれています。
そして、日本語の歌詞よりも主人公の「これから」に向かって進んでいく姿が伝わってきます。
「I thought I reached the end」というのが銀河鉄道999での冒険のこと。
前で挙げたように、少年であった「鉄郎」の気持ちです。
そして、映画の最後でその旅の終わりにたどり着きます。
そして歌の中で主人公は「Only to find It’s not over」まだ終わっていない、というより自分の足で探さなければならない新たな旅に気がつきます。
これが
文法的にここで「Only to find」と結果用法が用いられることで「少年としての旅が終わり、『その結果』新たな旅に気がついた」というニュアンスが伝わります。
少年としての旅が終わった結果気づく新たな旅というのは紛れもなく「大人になる」ということ。
日本語の歌詞は映画のナレーションのような第三者視点で映画の最後をきれいに纏め上げているのに対し、英語の歌詞は主人公の「言葉」で描かれている。
僕はこの両方を聴くことでまるで映画の続きを見ているような印象を受けました。
そして、その両者がサビの「A never ending journey」の部分で繋がる。
そんな風に聴くと、凄く壮大な世界観を持った曲のように感じます。

・・・と言うわけで結局完全にファンの感想文になってしまいました(笑)

 

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 アイキャッチはもちろん銀河鉄道999

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使うデバイスが思考を規定する

少し前にひどく酔っ払って、大きく転倒してしまい、スマホの画面に大きなヒビが、、、笑
酔っ払って転ぶ時はスマホが割れないように転ばなきゃと反省しました。
(まあ、そんなになるまで 飲むなという話なのですが、、、)
で、新しいスマホに替えようと思ったのですが、欲しい機種は2ヶ月待ちとのこと。
そんなに待てないので画面だけどこかで治すことにしたのですが、そのまま帰るのも味気なく、ふと視界に入ったiPadを衝動買いしてしまいました。
もともと仕事に色々使えないかと興味があったのでまあいいかなあと購入したのですが、予想外に使い道がなくて困っています(笑)
遊び道具としてはこの上無いのですが、やはりそれだけではもったい無いので。。
そんなわけで色々実験中です。

そんな実験のひとつとして、このエントリもiPadで更新しています。
もともとピアノをやっていたということもあって、片手でのタイピングに慣れれば、パソコンでの入力に近い速度でいけそうなんですよね。
パソコンと同等のスピードでタイプできれば、出先のどこでも文章が書きやすくなるというのと、iPadのサイズに最適化した思考による文章というのが書けるかと思い、目下練習中です


僕は使うデバイスやアプリのフォームによって思考のパターンが変わってくると考えています。
例えば、ツイッターでのやり取りに慣れている人は自ずと表現できる文字数が140字であることから、その範囲で思考するようになります。
また、ラインでのやり取りは基本的に一文完結型。
その行間を感情を表すスタンプで埋めるという形をとります。
そうなると必然的に思考は会話のそれと近くなるはず。
使うアプリ以上にデバイスによる制約は大きなものであると言えます。
たとえばスマホ(iPhone5s)のメール機能の1行あたりの字数は19字。
そして、文字を打ちながら見ることのできる行数は10行です。
必然的に文章の前後のつながりを意識するのはその範囲になり、パソコンで考えたときの文章構成とは異なるものになります。

 

リア充非リア奮闘記〜「君に届け」と非リアがリア充になる方法〜

今朝Facebookを見ていたら、ブラックサンダーのCMが流れてきました。
リア充vs非リアのラップバトルという内容。
ブラックサンダーにもラップバトルにもほとんど興味がないのですが、内容が面白く、ついつい最後まで見てしまいました。

僕は自分のターニングポイントがどこだったかと言われたら、迷わず高1のときのクラスであったと答えます。
なんというか、クラスの9割がリア充で、その上半分以上がリーダー肌みたいな、とんでもない連中が集まっていました。
今でも入学式の日の自己紹介の後のちょっとした自由時間に何故か始まった、罰ゲームがショートコントのタケノコニョッキを覚えています(笑)
男女関係なく当たり前のように罰ゲームで即席コントをして、キチンと笑いをとっていく。
人を楽しませることに特化した人が集まっているクラスでした。

6月くらいになったとき、偶然席替えで隣になったヤツが何故か僕のことを好いてくれて、そこから色々なことに巻き込まれるようになりました。
その最たるものが生徒会長への立候補
「俺生徒会になるから、応援演説よろしく」
そう言われてからトントン拍子に進んでいき、気がつくと彼が生徒会長になっていて、僕も役職をやることに。
ぶっ飛んだヤツだったために同級生だけでなく先輩との交遊も広く、気がつくと僕の交遊関係はとんでもなく広がっていました。

ブラックサンダーのCMでいうところのリア充と非リアで言うのであれば、間違えなく僕は非リア気質です。
それが、高1のときのクラスの環境とそこで出会ったヤツに生徒会に巻き込まれたことによって、僕はリア充側も体験することができました。
一方で非リアの友達がたくさんいて、一方でリア充な友達とも関わってという形で、僕の高校生活は結構楽しいものだったように思います。
そんな感じで幸運にもリア充と非リアの両方の交友関係があり、またどっちつかずでもあったため、それぞれの長所や短所をどちらかに属するよりも引いた目で見てきたつもりです。

リア充サイドの印象を一言で表すと「楽しいけど疲れる」です(笑)
とにかく陽気な連中が集まるため、びっくりするくらい面白いことが次々に起こり、まず飽きることはありません。
反面、交友関係が広くなるので、空気を読むとかそういうのと別に、単に友達関係が大変だったように思います。
何より最大なのは面白いけれど明らかに生産性がゼロであるということが分かりきっていることがツライ(笑)
それに対して非リアサイドを一言で表すと「充実しているけれどつまらない」といった感じです。
リア充と聞くと充実しているのはリア充サイドのように聞こえますが、実際に充実しているなと感じるのは非リアの方でした。
深く狭い交友関係で、共通の趣味を掘り下げるため、自分自身の知識の蓄積を確認できます。
だから充実感は非リアの方があったように思いました。
(この辺は僕の適正が非リアサイドということもあるかもしれませんが)
ただ、非リアサイドはびっくりするくらい「キラキラ感」がなくつまらない。
男女関係なく一緒に遊ぶことが当たり前で、オシャレに気を使い周りを楽しませることに特化した人が集まった環境のほうが、どう考えたって刺激的です(笑)

非リアでありながら行きたいときにリア充を体験させてくれる。
僕の立ち位置は客観的にみて恵まれたものだったように思います。
で、そんなツイている立ち位置にいられた人間として、非リアがリア充のコミュニティに属す方法をあれこれ考えたのですが、①みんなに知られる一芸をもっていて、②リーダータイプのリア充の友達と仲良くなるの2つしか無いように思います。
しかも、より重要になってくるのは②の方。
つまり運です(笑)
非リアの人がリア充コミュニティと関わろうとしたら、単発的でいいなら自ら声をかけるだけで大丈夫ですが、継続的な関係を作るのであれば、向こうサイドから声をかけられなければなりません。
君に届け」の爽子メソッドですね(笑)
声をかけられそうな環境にいてタイミングを待つ
次に向こうが声をかけるだけのメリット(一芸)を持っておく。
そして、声をかけられたときに向こうサイドに飛び込む。
これが僕の考える非リアがリア充と関わるための手法です。
爽子であれば肝試しの相談でやのちんとちづが偶然教室に残っていたタイミングで霊感が見えると皆に怖がられていた爽子が出くわし、それをきっかけに2人のグループに入った。
こんな具合になると(それが楽しいかどうかは別として)非リアがリア充サイドに関わりを持つことができるように思います。

ブラックサンダーのラップバトルにいちいち共感しつつ、このエントリの草稿を考えている最中、リア充が非リアサイドに関わる方法も同時に思いついた(海月姫メソッド)のですが、それはまた次回書きたいと思います。




Aal Izz well〜きっと、うまくいくとカイジの思考法における類似点

先日知り合いの方からご紹介頂いた、「Aal Izz well〜きっと、うまくいく」という映画を見ました。
この映画の感想自体は書くととても長くなってしまうので、また今度にするとして、同時に久しぶりに賭博黙示録カイジを読んでいて、個人的にこの二つの作品は似ているなあと感じました。
一流大学の教育に疑問を持った主人公が自らの行動で周囲の人間の考え方を変えていく、「Aal Izz well〜きっと、うまくいく」。
借金を背負った身で命を掛けたギャンブルに挑み未来を切り開くカイジ
書かれている内容も扱うテーマも全く異なりますが、僕は両者に妙な共通性を感じました。

僕がこの2つの作品に感じた共通性は、先入観に流されない主人公の姿勢と、理不尽を受け入れる主人公の考え方です。
この2つの作品の主人公は、徹底して「事実」だけを見ています。
「普通に考えたら」とか「あの人が言うのだから」といった、わけを考えずに事象に納得するということは絶対にありません。
Aal Izz wellのランチョーは、周囲が理不尽と思いつつも受け入れてきたことには当たり前のようにNOをつきつけ、黙って聞いていた話に疑問符を投げます。
ここで徹底されるのが、常に事実を追い、自分の頭で考える姿勢です。
カイジも同様に、一貫して「事実」のみに忠実です。
勝負内容こそギャンブルですが、そこで勝つための戦略は、先入観を捨てて常に事実と向き合って導いた確かな戦略。
問題にぶつかるたびに、徹底して頭で考え、勝てる方法を紡ぎます。
この、「困難に対峙したときにノイズに惑わされない思考」が、両者には共通しているように感じました。

もうひとつの共通性が、2つの作品の主人公が理不尽に文句を言わないということです。
“理不尽な事が世の中にあるのは当たり前” 、”それを恨んだり諦めているヒマがあったら…”“楽しんで理不尽と戦おう”
暗殺教育の最終巻に出てくる台詞です。
Aal Izz wellとカイジが似ていると感じたもうひとつのポイントは、この「楽しんで理不尽と戦う」というような主人公の問題に対する向き合い方です。
どちらの主人公も、幾度となく理不尽な壁にぶつかります。
その度に周りはその現状に文句をいうのですが、この2作品の中で主人公だけが置かれた状況に文句を言いません。
むしろ置かれた状況を利用して、どうやって逆転するかを常に考える。
明らかに理不尽と思えることにぶつかっても、ランチョーは文句を言わず、状況を上手く使ったその場の機転で乗り越えます。
同様にカイジも現状の過酷さに悲観するのではなく、敷かれたルールを使ってどう勝ちを掴むかを考えていきます。
この考え方を見て、2つの作品の主人公が似ているなと感じました。

同じ思想を持った主人公でありながら2作品のアプローチは間逆です。
王道から自分の頭で考えることと理不尽への向かい方を書いたAal Izz well〜きっと、うまくと、邪道(「王道に対する」という意味で)からその2つを描いたカイジ
先入観にとらわれないこととルールを利用するということは好き嫌いが分かれるかもしれませんが、僕は大好きな考え方です。
そして、この2作品はどちらも、そういう思考法の主人公が出てくる物語。
僕はコンテンツを楽しむときに、特定の登場人物にライドすることはあまりないのですが、これらの作品に関しては久しぶりに主人公にライドしてしまいました。
ストーリーに共感して一方の作品だけみたことがあるという人にはオススメできませんが、主人公の思考方法に惹きつけられたという人には是非2作ともを見て欲しいなと思う作品です。




現職の政治家が「今回の選挙はとても大切です」というのは失礼だと思ったというお話

「今回の選挙はとても大切です。是非とも皆さんの一票を○○にお願い致します!」
授業をしていたら、目の前の駅の街頭演説が聞こえてきました。
細部にこだわる必要はないのかもしれませんが、僕はこの応援演説の言葉を聞いて、申し訳ないですがこの候補者だけは「無いな」と思ってしまいました。
この候補者の方は現職の参議院議員
前回の選挙で当選した方です。
今回初めて当選を狙っている人ならともかく、現職の参議院議員が「今回の選挙はとても大切です。」というのは、あまりに失礼ではないかと思ったのです。

「今回の選挙はとても大切です。」
「今回の選挙は」というような「は」の使い方をしてしまうと、当然そこには「前回と比べて」というニュアンスが出てしまいます。
従って、言外に「前回の選挙は大切でなかったけれど」という意味を含んでしまうわけです。
今回初めての当選を狙っているのなら、この言葉を使っても全く問題はありません。
しかし、現職の議員さんが「今回の選挙は大切」といってしまえば、そこには「前回自分に皆さんが投票してくれた選挙は大切でなかった」という意味が加わってしまいます。
つまり、「今回の選挙は」と強調してしまった瞬間、前回の選挙で自分に一票を入れてくれた有権者投票行動を無下にしたことになるのです。
もちろんこれを言った人にはそんな意図は微塵もないことでしょう。
そして、そんな一言をとってケチをつける人なんてほとんどいないのが実情でしょう。
そもそも大半はそんなこと気にも止めない。
しかし、実際問題として僕はどうしてもこの言葉に違和感を感じましたし、せっかく投票するのなら、そういう細部の一言、一文字にまで気を配り通せる政治家に投票したいと思ったというのが正直なぼくの気持ちです。
「てにをは」一つにまで気を配っている政治家さんは、やっぱり自ずと言葉に説得力を感じます。

元芸人で2000年に芸能界を引退した上岡龍太郎さんの「私が上岡龍太郎です」という登場文句。
或いは黒子のバスケに出てきた「赤司はエンペラーアイを持つから強いんやなくて、赤司がエンペラーアイを持つから強いんや」という台詞。
たった一文字でニュアンスが変わるという言葉選びの妙をつついた表現をみると、思わずグッと引き込まれます。
これは単に僕がそういった表現が好きだという好みの問題ですが、やはりそういった部分を意識した言い回しを選べる人は、教養があるように感じますし、どこか信頼できるように思います。
投票日は明後日。
もしかしたら明日、明後日で僕がみた某候補者はまた、僕の職場の最寄駅の前で演説をするかもしれません。
その時は是非、「てにをは」に滲むニュアンスまで意識して、100%自分の主張が伝わるようにして欲しいなあと陰ながら願ったりしています。
たった一文字で変わるニュアンス。
「伝えること」でご飯を食べている人間として、自分自身の言葉選びを意識させられた瞬間でした。

上岡龍太郎かく語りき―私の上方芸能史 (ちくま文庫)

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