新・薄口コラム

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



テスト前日に確認したい「北の貧困/南の貧困」③「貨幣への阻害」はリア充に誘われたオタクを考えると分かり易い!?

「現代文の論説文って結局何なん?」

僕はこのように聞かれた時、「『それって本当に良かったの?』を問いかける学問だ」という話をよくします。

もちろん現代文を教えている同業者の方からすれば、「そんないい加減な...」と非難される(というか半ば呆れられる)こともある程度覚悟して、その上で直感的に子どもたちに伝えらるなら何と表すのだろうと考えた言葉が上記のものです。

近代に様々な進歩があり、私たちの生活は目に見えて豊かになりました。

だからこそ、その進歩が100%正しいと思っている。

でも、もしかしたらそれは先進国のごく一部の人にのみ当てはまるお話しで、場所が違ったら違う解釈が出てくるかもしれない。

場合によっては恩恵を受けていると思っている我々の生活にも、実は「歪み」が生じているんじゃないか。

そんな、「当たり前」に対する問いかけが、現代文で扱う文章が、読み手の僕たちに伝えようとしていることではないかと思うのです。

 

『南の貧困/北の貧困』で見田宗介さんが指摘しているのはまさにこの部分。

[1日1ドル以下の生活をしている人=貧困]という定義は、僕たちのように何を手に入れるにしてもお金で解決する生活をする人にとっては当然の考え方なのかもしれないけれど、「お金=生活手段」っていう全体がそもそも間違えじゃないの?という投げかけをしているのが、アメリカの先住民の話から始まる段落だと思うのです。

見田宗介さんはアメリカの先住民を例にとって、「彼らが住み、あるいは自由に移動していた自然の空間から切り離され、共同体を解体された時に、彼らは新しく不幸となり、貧困になった。」「貧困は、金銭を持たないことにあるのではない。金銭を必要とする生活の形式の中で、金銭を持たないことにある。」と述べています。

これをすごーく悪意のある例えにするなら以下の感じ。

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あるクラスではオタク気質の男の子が隅に集まって、アニメ談義に花を咲かせていた。

ある日、クラス皆んな仲良くしてほしいと本気で願う委員長がやってきて、「さあ、みんなで遊ぼう!」と男女入り混じるリア充の会話に彼らを招いてあげた。

当然オタク気質の男の子たちは会話に馴染めずモジモジしているだけ。

クラスの隅で仲間どうし慎ましくアニメ談義をしているときは幸せだったのに、リア充の中に入ったせいで、かえって息苦しさを感じるようになってしまった。

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この例えが適切だとは思っていませんが、「貨幣への阻害」を直感的に知ってもらうのなら、これが最も近いのではないでしょうか(笑)

「北」の人たちの価値尺度で「貧困」を決めつけ、そのに根付いた「南」の人たちの生活や地域性を無視した政策を押し付けてしまえば、良かれと思って行った政策も、彼らの立場からすればかえって生きづらくなる場合もあるよね。

これが、アメリカの先住民の例で述べられていることのように思います。

5段落目の「貨幣を媒介としてしか豊かさを手に入れることのできない生活の形式の中に人々が投げ込まれる時、つまり人々の生がその中に根を下ろしてきた自然を解体し、共同体を解体し、あるいは自然から引き離され、共同体から引き離される時、貨幣が人々と自然の果実や他者の仕事の成果とを媒介する唯一の方法となり、所得が人々の豊かさと貧困、幸福と不幸の尺度として立ち現れる。」という言葉は、おそらく前半部分で最も理解しづらい部分ではないかと思うのですが、上に挙げたオタクの例を踏まえて読んでいただけると、ほんの少しだけ理解しやすくなるのかなあと思います。

教室の隅でアニメ談義に花を咲かせている人たちにとって、リア充の人たちにとって「かわいそう」に見えるその行為も、実は充実していたりするんですよね。

それを自分たちの基準による「幸せ」を彼らにも与えようとするから、等の本人たちにとってはかえって苦しくなってしまう。

そんな可能性って考えたことがありますか?という強烈な批判が、5段落の言葉に現れています。

続く段落で見田宗介さんは、「ある人の幸せを全く違う人の幸せで測るのが間違えということは皆分かっているのに、ついついやってるよね」と言います。

そして、無意識に「やってしまっている」優しさに気づかないから政策として「方向を過つもの」になってしまう。

そんな、ある種痛一番突かれたくない部分を指摘して、次の段落に続きます。

 

本当は倍くらいまとめるつもりだったのですが、久しぶりすぎて長くなってしまいました。

続きは近日中に書きたいと思います。

 

アイキャッチリア充という「貨幣への阻害」に葛藤するイケメンオタクを描いた山田玲司先生の『Bバージン

 

 

 

趣味を価値を帯びさせる〜タイプ別価値創出の仕方分類〜

趣味と価値の境界ってどこだろう?なんてことを、最近考えています。

同じ「何かを集めるのが好き」なのに、例えばプリキュアのグッズを集めるみたいなものはやっぱり趣味の域を超えなくて、一方でみうらじゅんさんなんかは旅行先で見つけた役に立たないお土産に「いやげもの」という名前をつけることで何人もが興味を持つ「価値」に昇華しています。

同じ「集める」という行為なのに一方は趣味で止まって、もう一方は価値創出に成功している。

こと「コレクション」という行為に関して言えば、価値創出ができているか否かの基準は、新たなカテゴリを生み出せているかどうかにあるように思います。

 

例えば、プリキュアのグッズを集めるというのは、すでにあるカテゴリの中で行なっている行為に過ぎません。

誰かが用意した「プリキュア」というカテゴリの中でコレクションをしているので、それは消費の域を出ない。

一方で、みうらじゅんさんの「いやげもの」というコレクションの場合、「お土産屋でよく売られているけれどもらっても困るもの」という人々の共感が得られる「あるある」で、新たなジャンルを生み出しています。

この他者が感じる「あーわかる!」の分だけ、価値が生み出されているわけです。

 

コレクション型以外にも、趣味には色々なジャンルがあります。

僕がざっと思いつくのは「何かを集める」行為であるコレクションの他に、「何かを体験する」「何かを研究する」「何かを作る」あたり。

これらはいずれも趣味の範囲です。

で、こうした趣味を価値のラインに引き上げようとしたら、それぞれに手段が異なると思うのです。

先にあげた「コレクション」の場合は共感を呼ぶカテゴライズが最もオーソドックスな価値創出の仕方。

同じように他のそれぞれにも価値創出の仕方(しやすい方法)があって、それを意識していると、自分が普段なんとなく行なっている趣味が、他の人に価値を与え得るものになると思うのです。

「何かを体験する」タイプの趣味を持っている人がしやすい価値創出の手順は、人を巻き込むことです。

言われてみたら面白そうだけど、自分から動こうと思いきれない人を巻き込んでいくのがこのタイプ。

「本好き」はただの趣味だけれど、同じ本好きを集めて「読書会」を主催したり、映画好きを集めて映画遠足をしてみたりという形にしてみたら、そこにははっきりと価値が生まれます。

ここでの価値は「同じタイプの人と繋がりたい」という体験タイプの人が持つ欲求に答えること。

 

「何かを研究する」タイプの趣味を価値に昇華する方法は「調理」です。

(少し漠然とした言い方ですが、これしか言葉が見つからなかった...)

例えばカップラーメンを食べ比べたとして、そこで終わっていたらただの趣味ですが、どういう違いがあって、どんな工夫がなされているのかというのを比較して、やったことがない人に伝えて「なるほど!」と思ってもらえるレベルで情報にしていたら、そこに価値が生まれます。

ここでの相手に与える価値は、「それを知るために払った時間とお金とエネルギー」。

言われてみれば興味はあるけれど、自分でやろうとはしない。

そんな欲求に答えることで価値が生まれます。

 

そして最後の「何かを作る」タイプの趣味について。

ここはアクセサリーでもブログでも何でも構いませんが、具体的に成果物が生まれるタイプの趣味は全てここに該当します。

ここに含まれるものは形がため、既に価値があるのでは?と思われがちですが「形があるものに落とし込む」というアウトプットの仕方をしているだけで、当然それだけでは価値があるとは言えません。

形がある=価値があるだったら、僕たちが毎日生み出しているうんこだって価値があることになってしまいます(笑)

「何かを作る」タイプの趣味で価値創出をしようとした場合の相性のいいやり方は、相手の「欲しい」を具現化することになります。

それは「ちょうどこんなのが欲しかった!」というそれを見た後に感じる共感かもしれませんし、「こんなのが欲しい」と聞いたものを具現化するのかもしれませんが(先に物ありきになる可能性があるのは「作る」趣味ならではです。)、いずれにせよ相手の「欲しかった」に答えることで価値が発生します。

 

「何かを集める」「何かを体験する」「何かを研究する」「何かを作る」というフェーズであれば本人の趣味の範疇を出ませんが、そこにそれぞれ「カテゴライズ」「巻き込み」「調理」「具現化」が合わさると急に価値を帯びる。

極論を言ってしまえば、価値を帯びさせたいのなら「他者視点を持て」というだけでおしまいなのですが、それではちょっと漠然としすぎています。

なので、それぞれの性質の趣味に他者視点を加えてみるにはどういう方向性がいいのかなあと思った時に僕が考え付いたのが上のやり方です。

僕は別に趣味なんて個人の楽しみで終わらせればいいものと思っているタイプですが、それでも人に共感してもらえたら、人の役に立ったら嬉しいと思うことはあります。

もしそういった方向に自分の趣味を持っていきたい方がいれば、ぜひこの辺りの切り口を試して見て下さい。

 

アイキャッチは趣味に価値を帯びさせることの天才、みうらじゅんさんの『「ない仕事」の作り方』

この本はオススメです!

「ない仕事」の作り方 (文春文庫)

「ない仕事」の作り方 (文春文庫)

 

 

 

評価経済を考える~信用の「交換価値」と「資本価値」~

経済学等で習う「正しい」お金の価値とは大分異なりますが、僕はお金には欲しい者があったときにそれを手に入れるために使うことができる「交換価値」と、お金そのものが増えていく「資本価値」があると考えています。
持っているお金の量は一定で、それを豊かさのために欲しいものと交換するか、資本として積み立てるかは本人の自由。
ほしい者を得るために使えば、その分だけ将来の資本蓄積は減りますし、「資本価値」の側を重視すれば、長期的に持っているだけで積み立て時点よりも多くなる可能性があります。

この数年で、評価や信用がお金の代わりに機能する社会がやって来たというようなことが言われるようになってきました。
その認識に対しての僕の意見はともかく、信用が「お金的に」動くようになった社会というのは、信用の「交換価値」の側面にスポットを当て始めた社会であるというように感じています。
従来の信用というのは、それのおかげで仕事が舞い込んできり、話が円滑に進んだりと、いわばそれを元手に価値生産ができるという類のものでした。
いわばこれまでの信用や評価といったものは「資本価値」のみを持っていたものなのです。
SNSの発達やクラウドファンディングなどのサービスが充実によって、信用や評価は、「資本価値」の他に「交換価値」として用いられるようになります。
信用が多い人はそれを用いて欲しい物を手に入れたり、お金に換えたりということが可能になりました。
現在の「信用がお金の代わりになりつつある」という現象は、テクノロジーの進歩により、それまでは不可視であった信用や評価の「資本価値」が多くの人に注目されるよういになったというものだと思うのです。

僕の興味の対象はここから。
お金に「交換価値」と「資本価値」の2つの機能があり、目先の快楽や豊かさのために前者の機能を多用すれば、その分後者の機能を使う際の「元手」は減っていきます。
仮に1000万円のお金を持っている人がいたとして、それをそのまま「資本価値」の機能で運用すれば長期的にはそれが毎年100万円ずつお金を生む可能性があったのに、1000万円のうちの半分を「消費価値」として使えば、長期的には毎年50万円ずつしかお金を生み出さないということになります。
長期的な視点でリターンを得ようとするのなら、できるだけ「資本価値」の側面からお金を運用した方がいいということになるのです。

信用にもお金と同じように「交換価値」と「資本価値」の2つの機能があると考えたときに、前者の機能を多用していれば、長期的に後者の機能で得られたであろう「価値」を失うことになるというのが、最近の僕の仮説です。
現在の「信用がお金のように様々な機械を手に入れるための手段になりつつある」という主張は、信用が持つ「交換価値」と「資本価値」の2つの機能のうち、「交換価値」の機能で使い倒している状態であるように思うのです。
当然その一方で「交換価値」として利用した分だけ、「資本価値」の機能で用いることのできる信用や評価の総量は目減りしている。

たとえば、あるイベントに人を集めたくて、自分の信用を「交換価値」として利用します。
そうすると仮に誘ったAさんは好意でそのイベントに参加してくれるかもしれませんが、その部分でAさんに対して積み上げていた信用が減っていることになります。
それを繰り返してAさんとの間に積み上げた信用がゼロになると、Aさんとの関係が途切れてしまう。
反対にどうしても集客をしたいイベントがあったとしても、そこにAさんを呼ぶのが相手にとってメリットのない行為だと考えて、集客のために呼びたいという気持ちがあってもそこで「交換価値」の機能を行使しなかったとします。
そうすると、Aさんに対して積み上げた信用や評価が「資本価値」の側面からどんどん積みあがっていき、やがて、直近のイベントに呼ぶことによって失われる交換価値分はリターンで賄えるくらいまで大きくなるかもしれないのです。

信用を「資本価値」の機能から見たとき、本来の信用の使い方はこの「資本が生み出すリターン値>信用する信用の量」になるように運用しなければなりません。
そうしなければ、どんどん信用が減っていってしまう。
逆に言えば、「資本が生み出すリターン値>信用する信用の量」となるように信用を利用すれば、自分の積み上げた信用がへることはありません。
本来こうやって使うのが従来の信用だったのですが、それを「交換価値」に着目して、目先の利益のために「信用資産」を食い潰しているのが現在の信用経済を叫ぶ人たちのように思うのです。
もちろん、消費した分だけどんどん信用や評価を稼ぐというのならば、それはそれでいいと思います(そして、さまざまな技術が発達した現代ならばそれは可能であると思います。)。
ただ、そうやって集める信用の先には、「交換価値」が可視化されていなかった時代に信用や評価を積み上げてきた結果得られる「資本価値」の側面からみたような信用を持っていることは不可能であるように思うのです。
そして「信用価値」の機能を重視した信用や評価の積み上げを同世代があまりしていない(=信用や評価の「交換価値」の機能ばかり使っている)としたら、長期的には「資本価値」を積み上げたと言うのは希少性になり得るだろうというのが僕の考えです。
そんな訳で僕は自分の活動に対して何でもかんでも集客目的で連絡を取ったり、売り込みをしないというスタンスをとっています。
それが正しいのかどうかなんて、現状で分かる余地もないのですが、直感的に、上手く行くような気がしているのです。
あくまでこれも社会実験の一つですが、信用や評価の「交換価値」と「資本価値」というのは、おいかける価値のあるテーマであるように思います。

 

アイキャッチはサルトゥ・ラジュの『借りの哲学』

 

借りの哲学 (atプラス叢書06)

借りの哲学 (atプラス叢書06)

 

 

虹の色の見える数と、認識について

ツイッターでつぶやいたのですが、長くなりすぎたのでブログに転載しました。

なので口調は若干違うかもです。。。

 

もちろん名付けることで認識して、現状を打破する効果もあるのだけれど、反対に名付けることで存在を固定化してしまうものが存在する。
だから僕は名付けることで現状を固定化して肯定する口実を作るくらいなら、名付けないで曖昧にしておくのも手だと思っている。

例えば、虹が7色だと言い出したら境界面で6個の争いが起こるけれど、虹が4色なら争いは3つになる。
極端な話「虹は虹だ」ということにしておけば、色の境界を主張する争いは起こらない。

世の中の議論を見ると①「赤はここまで」みたいな色の境界面を争う系の議論と、②「俺はx色に見える」という色の数を争う系の議論がある。
前者はどこかで解決可能なのに対し、後者は議論が解決しない。
②の時、僕はよく「虹は虹でしょ」みたいな論法でひっくり返すのだけど、大体もっとこじれる(笑)

色数が違う人同士の議論は、基本的に①1番色数が少ない人に合わせて話すか、②共通の色の部分に関して深めるか、③色数が違う以上平行線なのを認識して近づく余地を探すくらいになる。
ここで色数の違いを正そうとするとぐちゃぐちゃになる(僕はこの行為を「マウント」と呼んでいる)。

因みに文脈はずれるけれど、「世界はもっとシンプルだよ」と色数が多く見えている人に色数が少ない側を理解してもらうことを「合理化」、「世界はもっと多様で面白い」と色数が少ない人に色数が多いと知ってもらうことを「教化」と呼んでいる。
(ここでの「合理化」「教化」は僕独自の定義)

例えば赤と黄色の間に橙色を設定している人が赤と黄色の2色で設定している人に理解してもらう場合、まず橙という区別の認知と理解をしてもらわなければならないように、色数の話を議論したら、必ず色数を多く設定している側の意思疎通コストが高くなる。
そのコストは色数の差が大きいほどでかい。

じゃあ何色で認識するのが1番幸せかというのが僕の今の興味で、大体一般の人は5色くらいの印象。
その上で1〜3色だとややつまらないし、10色を超えると意思疎通コストがかかりすぎてかえってつらい。
7色くらいだと色が少ない人を教化しつつ、色が多い人には合理化を語れてちょうどいい気がする。

個人の認識の話になると、自分より認識する色数が少ない人の認識は理解できるけれど、伝えられる情報はぼやける。
色数の区分の多い人が少ない側の論理で話そうとすると、紫の持つ美しさを赤と青の区分の中で説明しろって言われても無理な様に色数の区分を減らした分だけ主張は弱くなる。

反対に色数が多い人の認識はそもそも当人の認識の外だから理解できない。
ただ「もしかしたら自分の認識の外に別の色を設定している」という可能性に意識を向けておくのは可能で、この想像力みたいなものが重要な気がしている。
って話をするのが面倒だから、いつも「虹は虹じゃん」って言っている(笑)

モチベーションとネガティブと、精神的エネルギー枯渇問題について。

『社会の次は”精神の持続性”が求められる時代になっていく』
最近「やる気」や「欲求」についてあれこれ考えていたのですが、家入一真さんがこんなツイートをしているのを見て、最近考えていたことが一気に繋がったので備忘録として書きとめておきたいと思います。

よく行動の源泉をエネルギーに見立てることがあります。
僕も実際にそう思っていますし、多くの成功している人を見ていてもこれは正しいように思います。
この行動に起こす源泉たるエネルギーをモチベーションと呼んでいます。
僕の興味は仮に行動を起こす源泉であるモチベーションが「エネルギー」のようなものだとすると、それを大量に消費し続けていけば、どこかでエネルギー不足になるのではないかということでした。
「あくまで『エネルギー』というのは「見立て」に過ぎないのだから本物のエネルギーと違って枯渇することは無い」という反論?(というか主張)も十分に分かるのですが、実はモチベーションが無限に見える人も、実際には「モチベーションの生産量>モチベーションの消費量」の状態が続いているだけではないかというのが僕の現時点での仮説です。

やる気の反対で、世の中に「不満」を撒き散らす人がいます。
ご飯に行ったときにグチや不満ばかりこぼしたり、Twitterで有名人に罵詈雑言を飛ばすようない人たち。
僕はこれらを負のエネルギーと捉え、正のエネルギーをモチベーションと呼ぶのに対し、不のエネルギーを「ネガティブ」と呼んでいます。
モチベーションが何かを生産するのに使える一方で、ネガティブは何かしらの成果物に変換することができず、誰かに引き受けてもらうしかありません。
産業廃棄物みたいな感じ(笑)
そしてネガティブには与える場合と受け取る場合があり、それを「発散するネガティブ」と「吸収するネガティブ」と呼ぶことにします。

上記のようにエネルギーをモチベーションとネガティブに分けたとき、その人のエネルギーは下のように表すことができます。

「エネルギー=(生産したモチベーション+発散したネガティブ)-(消費したモチベーション+吸収したネガティブ)」

仮に(生産したモチベーション+発散したネガティブ)>(消費したモチベーション+吸収したネガティブ)の場合、エネルギーの総量は増えていきます。
反対に(生産したモチベーション+発散したネガティブ)<(消費したモチベーション+吸収したネガティブ)の場合は徐々にエネルギーは減っていき、やがては枯渇してしまう。

ここ最近、新しい働き方ややりたい事をやるべきだというメッセージをあちこちで見るようになりました。
(「とにかく行動しろ」というメッセージとともに)
このメッセージ自体はいいことだと思っている(実際に僕もこっちのタイプ)のですが、行動すればその分だけモチベーションは消費されます。
だからこそ、「行動しよう」というメッセージが市民権を得ている現在では、モチベーションの消費量は上がっているでしょう。
一方で、ネガティブの吸収量も上がっています。
それまでは対面したときにしか発信できなかったネガティブが、インターネット及びSNSの発達により、①常時、②どこにいる人にでも、③匿名でネガティブをぶつけることができるようになりました。
またこうした技術の発達で、今まで見えなかった成功者が可視化したことも、ネガティブを生み出す要因になっているように思います。
以上のように、エネルギーをすり減らす要因である「消費したモチベーション」と「吸収したネガティブ」の量は増えているということができます。

仮にエネルギーが減る要因が増えていたとしても、その分だけエネルギーが増える要因が増えていればエネルギー不足の心配は無いのでは?という考えは当然出てくると思います。
ということで次はエネルギーを増やす要因について考えることにします。
エネルギーを増やしたければ「生産したモチベーション」か「発散したネガティブ」のいずれかを増やせばいいわけですが、このうち、「発散したネガティブ」、つまりネガティブの発散は行動が必要となります。
そのため、時間という物理的な制約が生まれてくる。
同じようにモチベーションの消費にも行動がともなうため、ネガティブの発散とモチベーションの消費には「発散したネガティブ+消費したモチベーション=可処分時間」という等式が成り立つことになります。
とすると、モチベーションを消費して積極的に行動する人ほどネガティブの発散に使える時間は少なくなる。
逆に、行動しない人(≒消費するモチベーションが低い人)ほどネガティブを発散しやすいといえます。
そのため、積極的に行動する人ほどネガティブの発散がしづらく、エネルギーの総量は増やしにくくなっているわけです。
ネガティブを撒き散らして自分のエネルギーの総量を増やすという方法に対するいい悪いという僕の意見は今回はおいておきます。
(というかその是非に僕は興味がないので…笑)

最後にモチベーションの生産ですが、「行動が大切」というメッセージが多く広がっている割に、モチベーションの生産方法に対して言及するメッセージは驚くくらいに少ない印象です。
(たいていは、「本当にやりたいことなら没頭できるはず」みたいな精神論か、「人は絶対にやりたいことがあるはず」というモチベーション神授説)
余談ですが僕の周りにはそんな曖昧にされがちな「モチベーションの増やし方」について教育やビジネスという枠組みから挑戦している人たちがいて、僕は彼らのことを本当にすごいなと思っています。
話を戻すと、モチベーション消費の大切さが叫ばれるほどにはモチベーションの生産が追いついていないというのが現在です(と僕は思っています)。

というわけで現在は(行動をしている人ほど)エネルギーの生産よりも消費が多い社会と言え、この状態が続けばエネルギー不足がやってくるのではないかと思うのです。
このエネルギーという言葉を「精神」と言い換えれば、まさに家入さんがいうところの、「社会の次は”精神の持続性”が求められる時代になっていく」ということになっていくと思います。

なんていう現在に対する見立ての上で、解決策としては「消費したモチベーション」か「吸収したネガティブ」を減らすしかありません。
しかし、現代の社会で生き残るには前者をやめるのはリスキーすぎる。
(もちろん、空回りするような人はそこを減らした方がいいかと思いますが…)
とすれば、やることができるのは「吸収したネガティブ」を減らすという選択。
少し前にアドラー心理学を書いた『嫌われる勇気』がヒットしましたが、そこに書かれているのは周りの目を過度に恐れないようにしようということで、それはネガティブの吸収を減らす処世術としてみることもきます。
多くの人々が薄っすらとネガティブの吸収を避ける必要性にそれとなく気付いているのではないかと思うのです。
で、さらにその先にネガティブの吸収を断つ手段としてサルトルのアイデアがあるわけですが、そんなものを書き始めたら終わらなくなってしまうので、この辺で…

 

アイキャッチサルトルの嘔吐。

たぶん、ロカンタンの気持ちが分かる人が多い気がします(笑) 

嘔吐 新訳

嘔吐 新訳

 

 

問題に対するアプローチの方法とそこに現れる人間観

繰り返し発生する問題に直面したとき、その解決策としてどの様なアプローチを取るのかは人により様々で、好みの方法には各人の人柄が出る様に思います。

ある定期的に起きる問題があって、それを解決しなければならないとした時に、僕がパッと思いつく問題解決へのアプローチは①how型と②if型と③why型の3つ。

①のhow型とは、どうやってやればその問題が解決できるのか?という、解決法を探すタイプ、②のif型は何か繰り返し起きてしまう問題に直面した時に、「もしそれが続けばどの様な損失が起こるのか?」という可能性を考え、そこから自分を律するというタイプ、そして③は「なぜその問題が生じるのか?」という原因を考え、それを取り除こうとするタイプです。

 

「朝起きられない」という繰り返し生じる問題を例にそれぞれのアプローチを考えていきたいと思います。

①のhow型の場合は、どうやったら寝坊を改善できるかという、特定の現象に対する解決策を探します。

頭が痛い時、その痛みを取るためにロキソニンを飲むイメージ。

「寝坊」という問題であれば、いい目覚ましを探すとか、短時間睡眠でも快適に起きられる方法を探すとか、快眠グッズを選ぶとかいう方法がここに当てはまるでしょう。

次に②のif型の人であれば、「寝坊という事情を繰り返すとどういうことが起こるのか?」というように、問題そのものを「問題」とするのではなく、その行為の結果生まれるリスクや損失を「問題」と捉えます。

そして、そのリスクや損失を正確に把握することで自分を自制して問題解決を図ろうとする。

これが②の手法です。

そして③のwhy型は、原因を取り除くことで問題を解決しようとします。

「寝坊」の場合、「そもそも何故寝坊するのか?」を考えて、それが寝不足だったらそれを取り除くにはどうしたらいいかを考え、起きられない理由が精神的に負担を感じることにあるのならそれを取り除かない限り寝坊は繰り返すと考えます。

 

僕はここで、それぞれの解決策のどれが正しくてどれが間違えているみたいな正誤の話や、どれが優れているみたいな優劣の話をしたいわけではありません。

ん。

(そもそも対決方法は好みの問題なので、そんなものありませんし...)

ただ、問題解決の手法としてどれを取るのかには、その人の「人間観」みたいな物が出て、分類するととても面白いように思うのです。

①〜③を時制という側面から見ると、①→現在志向、②→未来志向、③→過去志向とみなすことができます。

①のhow型の人は現在起きている問題に対して注目し、②のif型の人は「仮にどうなるか?」を考え、③のwhy型の人は起こった原因を振り返る。

それぞれの着目するところにその人「らしさ」が出るように思うのです。

 

また、それぞれのアプローチにはその人の「人間観」みたいなものも出ているように感じます。

大きく分けると②③は同じグループ。

共に問題を「自分に原因があるもの」として把握しています。

ただし、その先の人間の前提は間逆。

(やや強引な言い方ですが)if型の人は「行動は意識で変えられる」という人間観であるのに対し、why型の人は「意識じゃ人は変わらない」という人間観です。

「行動は意識で変えられる」から、それをした時の未来をきちんと意識しようがif型アプローチで、「意識じゃ行動は変えらない」から原因を取り除いて解決しようとするのがwhy型のアプローチ。

それに対し問題解決の手法に注目するhow型は、問題を特定の個人に由来する物ではなく、誰もに等しく発生し普遍的な解決策があると考える点で、「基本的には人は同じ」というスタンスと考えられます。

(この辺り、僕は③タイプなので説明が曖昧かもしれません...)

繰り返しますが、それぞれのスタンスのどれがいいとか、どれが優れているとか、優劣をつけたいわけではなく、実際に優劣なんてありません。

ただただ、こういうタイプがいて、こういう人間観なんじゃないかなと思ったことを分類しただけ。

おそらく大抵の人が、問題に直面したとき、自分の考え方に近いやり方で対応しがちだと思うので、それでうまくいかない場合は、他のアプローチを選択してみるのがいいかもしれません。

そんな問題に対応するための「カードを増やす」という意味で、この分類は役に立つ気がします。

因みに僕のイメージではホリエモン、箕輪さんは①、落合陽一さんやメタップスの佐藤さんは②、Showroomの前田さんやけんすうさんは③といった印象です。

 

 

アイキャッチはhow型で検索して一番上に出てきたこの本(笑)

できる人は超短眠!

できる人は超短眠!

 

 

 

「物語る」ことばが伝える物語

[Poets often use many words to say a simple thing.]
-詩人は簡単なことを言うのに、いつもたくさんの言葉を使うのよ-
Jazzのスタンダードナンバーの一つ、「Fly me to the moon」はこんな台詞で始まります。

この歌い出しは僕のお気に入りのフレーズなのですが、僕はこの一文が「物語とは何か」について非常に適確に表していると思っています。
物語にせよ広告コピーにせよ、本当に練り込まれた言葉は、その言葉から自然と物語が発生すると思うのです。

小説家のヘミングウェイは友人に「10文字で小説を書くことは可能か?」というお題を与えられたときに、[For sale: baby shoes, never worn]という「物語」を書いたと言われています。
日本語に直すと「売ります、赤ちゃんの靴。未使用。」といったところでしょうか。
英語にして僅か6字、日本語でも16字足らずと、俳句よりも短い言葉の中にしっかりとした「物語」が描かれているわけなので驚愕です。
この文章をただ読めば「靴を売っている人」という単なる「情報」に過ぎませんが、小説としてどのような人の言葉なのかということに意識を向けた途端、鮮明な物語が浮かびあがります。
その「物語」を説明すること自体が無粋なことは百も承知で、このエントリを進めるために、あえて[For sale: baby shoes, never worn]に込められた物語を文字にしてみたいと思います。
「ある街に、出産を控えた女性が幸せに暮らしていた。彼女は我が子の誕生が待ち切れなくて、これから生まれてくる子のためにさまざまな準備をしていた。赤ん坊の靴はその一つ。生まれてくる我が子を思いながら着々と準備を進めていた彼女だったが、不幸にも流産となってします。そこに残されたのが生まれてくるはずだった『その子』のために用意した新しい靴。今はもう自分でその靴を持っていても意味が無い。そればかりか見る度に悲しみがこみ上げる。だから売りに出すことにした。その時の立て札が『売ります。赤ん坊の靴、未使用。』だった。」
ヘミングウェイは、この、英語にしてたった6文字の文で、このような失意の女性を描ききっています。

他にもいろいろなところで「物語ることば」を見かけます。
夏目漱石が生徒たちに「[I love you]をどう訳すか」と投げかけたエピソードもこの典型でしょう。
自分の生徒に向かって「君は[I love you]をどう訳すか」と問いかけたとき、その中の一人が「我君を愛す」と訳し、それを聞いた漱石が「日本人はそんな風に表現したりしない。『月がきれいですね』とでもしておきなさい」と言ったのだそう。
[I love you]を訳した「月がきれいですね」という日本語もきれいに「物語る」言葉だと思います。
確かに、「月がきれいですね」と相手に伝えられる距離、人間関係、シチュエーションを考えれば、その言葉に含む意味は[I love you]以外に考えられません。
昔マツコデラックスさんが、「好きって言葉を使わずに好きって伝えるのが歌でしょ」と言っていたのですが、漱石の逸話は見事にそれを体現しているように思います。

冒頭で引用した[Fly me to the moon]では、詩人はたくさんの言葉を使って気持ちを表すといった主人公が、「でも君はニブいから、通訳しながらいくよ」(宇多田ヒカルさんの日本語訳です)と言ってメインの部分で[Fly me to the moon, and let me play among the stars. Let me see what spring is like Jupiter and Mars.]と歌います。
この部分を和訳すれば「私を月に連れてって 星たちに囲まれて遊んでみたいの 木星や火星にどんな春が来るのか見てみたいの」といった感じでしょうか。
この歌で描かれる詩人の女性は、自分の恋人に向かってこう投げかけたあと、[In other ward](つまり,,,)と言って[hold my hand]「私と手を繋いで!」と続けます。
確かに「月まで連れてって」という言葉は「ワクワクした世界を見せて」という意味になるし、そこに彼女を連れて行くならば「手を繋が」なければなりません。
[Fly me to the moon]を「物語る言葉」として感じると、詩人が言ったとおりになります。

いつの、どの会社のものであったかは忘れてしまいましたが、とある新聞の投稿で僕の中で出会った最も印象に残っている「物語る言葉」があります。
それが次の言葉。

「おばあちゃん」へ
私に色々なことを教えてくれたおばあちゃん。最後は命の儚さを。本当にありがとう。

確か「『ありがとう』が伝わる表現」というようなお題だったのですが、これを見た時に衝撃を受けました。
もちろん言葉で伝えているのは「ありがとう」なわけですが、そこにはどれだけおばあちゃんが好きだったのかという気持ちも、おばあちゃんを失った悲しみも込められています。
そんな気持ちを全部ひっくるめて「ありがとう」のひと言に込めている。
とても素敵な「物語る言葉」です。

ある文を見た時に文字通りに読むという力を「情報読解力」、文に描かれた背景に思いを馳せる力を「物語読解力」と僕は呼んでいます。
最近は情報に溢れ、行間より即時に文字を情報として把握することが基本となるSNSでのコミュニケーション(僕はこれをフローのコミュニケーションと呼んでいます)では、「物語読解力」は軽視されがちですが、無限に情報に溢れた社会で価値を生み出すにはこの「物語読解力」です。
情報そのものは誰でも手に入るとしても、それの解釈は人によって違い、同じ情報に触れられるとしたらその「解釈」にこそ価値があると思うのです。
「『物語る』ことば」はその訓練にちょうどいいのかなあと思ったり。。。
また、そんなものを抜きにしてもこういった文に触れると純粋に感性が刺激さませんか?
「『物語る』ことば」に触れておくことは、感覚的な面からも、実利の面からもさまざまな効果がある気がします。

 

アイキャッチヘミングウェイ

誰がために鐘は鳴る 上 (新潮文庫)

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