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新・薄口コラム

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



aiko「瞳」考察〜主語はだれ?生まれてくる子供に向けた母の慈愛を描いた歌〜.

ずっと書きたかったのだけれど書けなかったaikoさんの「瞳」という曲の考察。

どうしてもある一箇所の解釈ができず、文章にまとめることができないままでいました。

先日ちょうど永井荷風の「濹東綺譚」を読んでいて、すっと腑に落ちる解釈が浮かんだので、まとめてみます。

 

「瞳」という曲は、aikoさんが友人の結婚&出産の時に書き上げた曲だそう。

確か何かの番組で、本人は発表する気が無かったのに、鶴瓶さんがうっかりこの曲のことを話してしまい、CDに収録されることとなったというようなことを言っていました。

終始優しいメロディで、子供の成長を見守る視点で書かれているこの曲ですが、僕にはどうしても一点だけ解釈ができない箇所がありました。

それが、一番のサビの最後の一言「あたしはあなたのそばにいる」という部分です。

「あたし」という一人称が誰を指したものであるのかが、ずっと分かりませんでした。

一人称の使い手を母と考えてしまえば、「今頃がんばっているのか」や「遠慮がちに歌います」という歌詞が成立しません。

かといって一人称がaikoさん自身であったとすると、「あたしがあなたのそばにいる」が通じなくなってしまいます。

「あたし」が指すものがaikoであるにしても、歌のモデルとなった女性であるにしても矛盾してしまいます。

僕はこの部分にずっと引っかかっていました。

 

「濹東綺譚はここに筆を措くべきであろう」

僕は濹東綺譚のこの部分、作者が(正確には濹東綺譚という小説を書いている主人公)メタフィクション的に登場するここがお気に入りなのですが、これを読み返していたときに、「瞳」も同じなのではと思いました。

つまり、初めはaikoの視点で書かれていて、途中からは母の視点ではないかということ。

もちろんaikoさん自身の解釈はどこにもないので、あくまで僕の想像ですが、以下そんな仮説のもと、歌詞を追ってみたいと思います。

 

-今頃がんばってるのか それとも新しい光が 青白い瞳に映ってるのか 間に合うように届けようと 遠慮がちに歌います "Happy birthday to you"-

僕が上で書いた解釈では、この部分の主語はaikoさん自身です。

「今頃がんばってるのか」や「間に合うように届けようと」は、明らかに近くで見ているわけではありません。

また、「遠慮がちに歌います」がお母さんでは成り立たない。

だから、ここはaikoさん自身がこれから生まれてくる赤ちゃんに向けて「おめでとう」といっているのだと思うのです。

そして(Happy birthday to you)からはちょうどaikoさんが本を開いて作品を読んでいくかのように、主人公(あたし)は母親、あなたは赤ちゃんで話が進みます。

ここからはお母さんが赤ちゃんに生まれた時に伝えるメッセージとして読むのがいいのではというのが僕の解釈です。

 

そんな風に読んでいくと、一番のサビ歌詞「胸を身体を引き裂くような別れの日もいつかは必ず訪れる そんな時にもきっとあたしがあなたの側にいる」の意味が伝わります。

今から生まれて来ようとする赤ちゃんに対して、「私はずっとあなたの味方だよ」と優しく語りかけるお母さんの姿が目に浮かびます。

aikoさんが友人のそんな姿を想像して書いたのではないかなと思います。

 

そして2番のAメロ。

「明日最後を遂げるもの 明日始まり築くもの」

これは一言で「いろいろな出会い」と考えてしまえばいいのかなと思います。

生きていくと様々な出会いがあるよというお母さんからのメッセージです。

そして続く「時が過ぎて花を付けたあなたの〜」の部分。

「花を付けた」は赤ちゃんが美しく成長したときのこと。

恐らく花ざかりということで青春の時あたりを表しているのでしょう。

あなたがよろめいたときに手を掴んでくれる人があなたを愛する人で、そんな人にいつかは出会うでしょうと続きます。

 

そして2番のサビ。

ここでは辛いことがあれば目を閉じて立ち止まってごらんと続きます。

そして、小さなとき幸せでいっぱいだった自分を思い出して。

そのときの自分がきっと支えになることでしょうと言って2番のサビは終了。

あの時(幼い時)のあなたの姿を見てきたから、どんな困難に直面しても、あなたならきっと乗り切れるよという、母からのエールが2番のサビの中心にあるメッセージでしょう。

 

そして最後のサビの部分。

2番のBメロで「よろめいたときに掴んだ手」と表された最愛の人が登場します。

やがて大きくなったら1人で歩くようになり、やがてあたし(=母)の手から離れていかなければなりません。

そんなときあなたを支えてくれる存在が、あなたを「愛する人」。

「胸を身体を頭を心をもがれるような別れの日もくる そんな時にもきっと愛する人がそばにいる」

この部分幅が解釈の幅が広くて迷う所です。

ここの別れを、あたし(=母)ともいつかは分からなければならない時が来る。

つまりいつか母は死ぬけれど、その時もきっとあなたを支えてくれる人はいるから大丈夫だよという意味で捉えることができます。

そして、こう捉えるとこの歌の歌詞がずっと深い(重い?)ものになる。

1番で「私はずっと味方だよ」といい、2番では「悩んだ時は昔の自分を思い出して」とあなたの事を信じ、そして最後には「この先いつか自分と別れる時が来るだろうけど、その時も愛する人がそばにいてくれるから大丈夫」と伝える。

これ以上ないような、母の慈愛を描いた歌になります。

最後の部分には必ずしもそんな意味を込めたのではないのかもしれません。

しかし1番で書いた以上のつらい別れで、かつあたし(母)ではない愛する人が側にいてくれるはずでしょうといわなければならないのは、母との別れ以外はないと思うのです。

でなければ「どんなときでもあなたの味方」という1番の歌詞と整合性がとれないので。

 

ということでaikoさんの「瞳」という曲の歌詞を見てきました。

冒頭部分なハッピーバースデーという気持ちをこめたaikoさん自身のお祝いの言葉から始まり、そこからはaikoさんがこの歌を贈った友人が母親として子供と付き合っていく姿を思い描いて書いた。

そして、その母はどんなときでも赤ちゃんの味方で、彼(彼女?)のする事を信じていて、そして自分が亡くなった後でさえきっと大丈夫と励ましてくれるような存在。

aikoさんらしい、優しさに満ち溢れたお祝いの歌であるように思います。

 

もちろん突飛な解釈や誇大な解釈に思われるところはあるかと思いますが、あくまで僕にはこう感じたという1つの味方を提示しただけですので、その辺はご了承下さい。

 

 

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など。

 

 

 

 

アイキャッチはもちろんaikoさんの「瞳」が集約されているCD

 

彼女

彼女

 

 

 

金持ち父さん貧乏父さんの考え方を、ブログ運営に当てはめる

昔、マルチの勧誘を受けていたときに出会った「金持ち父さん貧乏父さん」のお話。
面白そうだったのでしばらく通いつめていろいろな話を聞いていたのですが、僕があまりにも物を買わなかったので追い出されてしまいました。
因みに買ったのは数ヶ月でポン酢一つだけ(笑)
っと、マルチの話は横に置いておくとして、この前久しぶりに「金持ち父さん貧乏父さん」の話に出会いました。
そこに書かれていること自体は非常に納得できるもので、とても分かりやすく資本主義の仕組みがまとめられています。
端的にまとめると、資本主義の社会には雇われる人と自営業者と大規模経営者と資本家がいて、この順にステップを上がり、資本家になろうよという話。
僕の解釈では、この本に書かれていることは①まずはお金を生み出すための資本を作り②その資本を回すことでお金を増やそうという2点です。
そして、それぞれのやり方は異なり、①のステップで重要なことは資金を積み立てる足し算の作業、そして②のステップはいかに回転率を上げるかという掛け算の作業。

たいていの人が上手くいかないのは初めからいきなり掛け算の思想で何かに取りくむからで、成功している人の掛け算の手法を見て「あの人は才能があるから」と羨んだり、妬んだりしているというのが僕の印象です。
ホリエモンがゼロで語った、「何もない自分に小さな1を足していく」というのはまさにこのことで、①のステップでいかに基本値を大きくするのかが大切であるように思います。
そして、そこにこそ膨大な努力や工夫が必要で、それを抜けた成功者の振る舞いをみても、絶対にそのレベルには到達できません。
初動の段階で積み上げる部分をいかに根気よく行うか、これが重要であるように思います。

お金を稼ぐということ以外に、何かで努力するというときにも全く同じことが言えます。
たとえば僕はこのブログを運営しているわけですが、ブログのアクセス数を上げようと思ったときにできる戦略は2つのステップに分かれていると考えています。
1つ目が、コンテンツ拡充フェーズ。
いかに質がよく、需要のあるエントリを蓄えることができるかという段階です。
そして一定の段階を超えたら、書き手自身のキャラクターでアクセスを稼ぐ段階に入る。
これを2段階目としてブログ拡大フェーズと呼ぶことにます。

コンテンツ拡充フェーズで重要な考え方がまさに足し算の思考法です。
あくまで質を担保した上ではありますが、量を少しずつ積み上げて、そもそもの認知度やブランド力をあげていく。
認知度、ブランド力を高める段階で掛け算的な増やし方はできません。
ここは100%愚直に積み上げなければいけないマッチョな世界でしょう。
そして、この段階を抜けてブログ拡大フェーズに入ると、いかに回転率を上げるかということになります。
ここで重要なことが、いかに回転率を上げるかということ。
自分の知名度でも、ブログのネームバリューでも、扇情的なタイトルでも話題のコンテンツに絡めたエントリでもいいと思いますが、とにかく一つ一つのエントリで新たな読者を開拓し、そこから他の記事に飛んでもらう導線を意識することが重要です。

自分自身ができているかと言われれば、このブログはまだコンテンツ拡充フェーズなのでまだまだ書いたようにはできていませんが、多くの人気ブログをみていると、この流れをたどってきたように思います。
そして、ブログに問わず、何かで成功するためには、この段階を意識することが大切なようです。
第一段階では足し算を意識して、第二段階では掛け算を意識する。
この思考の住み分けができていることが、何かで結果をあげるための第一の条件であるように思います。

 

金持ち父さん貧乏父さん

金持ち父さん貧乏父さん

 

 

ルールに向き合うときの4通りの考え方

僕は「ルール」に対する向き合い方には4種類あり、その立ち振る舞いを見ると、その人の性格が分かると思っています。
ルールに対する向き合い方は以下の4通り。
①ルールの中で勝負する
②ルールを利用する
③ルールを守らない
④ルールを壊そうとする
おそらくたいていは4パターンのうち、①は特に言うまでもないでしょう。
普通に何かで勝負するときの思考法です。
問題は②~④について。
具体的にこの思考法をとる人の例を挙げて考えてみたいと思います。

まず、②のルールを利用する人の思考について。
これは、あるルールが決められていたら、そのルール同士の組み合わせで何とか自分に優位に物事を進められないかと考える思考法です。
例えば奨学金について。
奨学金とは、「学校に行くのにかかる費用を借りる制度」です。
ただし、見方を変えれば「利子率の極めて低い借金」と見ることもできます。
しかも審査は学校の成績という、他のあらゆる借金よりも格段に低いハードル。
こう考えて大学入学時に奨学金を満額借りておいて、卒業時に手元に残しておき、車のローン等の変わりに使うみたいなこともできてしまいます。
これが「ルールを利用する」思考法です。
電子マネーができたばかりでまだ法整備が確立されていないときにボーナスを自社の電子マネーで払おうとしたホリエモンや、2ちゃんねる管理人のひろゆきさんが得意な思考法。
一般に、この思考法をする人は「ずるい」とみなされがちです。

③のルールを守らないというのも比較的理解されやすいでしょう。
学校の「ルール」を守らなければ不良、法というルールを守らなければ犯罪者ということになります。
そして、ルールを破った場合、自由を得られる場合とそのリスク分のメリットが得られますが、その代償として信用や社会的な地位を失う、場合によっては罰せられることもあるというもの。
守るべきルールを完全に逸脱し、そのリスク分でレバレッジをかけるのがここに該当する思考法です。
②で例に挙げたひろゆきさんがここに該当する好例です。
ひろゆきさんは2ちゃんねるに書き込まれた誹謗中傷損害賠償として何件もの損害賠償を請求されています。
しかしそれらはいずれも踏み倒しています。
裁判で損害賠償請求をされているので財産が差し押さえられれば当然没収されてしまいます。
しかし、差し押さえる財産が見つからない。
そのため、損害賠償とそれに応じないことで支払わなければならない額が莫大な金額に膨れ上がっても、支払うことなく逃れています。
莫大なリスクと引き換えにメリットを得る。
これが③の思考法です。

最後の④の思考法について。
これが最も厄介であるといえます。
ここに該当する人は、システムの不備をついて、システムを破壊しようと試みます。
コンピュータで言うところの、バグを見つけるイメージです。
僕の職場は駅前にあり、頻繁に不法駐輪の自転車を撤去する撤去車がやってきます。
たとえばこの自転車が撤去される歩道に近所のマンション(そこそこ高級)に留めてある自転車を何台か混ぜておいたらどうでしょう。
おそらく自転車が盗まれたと考えて盗難届けを出すと撤去されて撤去自転車の預かり場所に補完されていると連絡が行きます。
保管場所はかなり遠くにあり、しかも罰金も取られるため、非常にストレスです。
仮にそんなことが何度か続けば、マンションの人たちのクレームは全て自転車撤去の団体に向かいます。
自転車をそこに移動することを完全に見張ることは不可能だからです。
一方で自転車を撤去する人たちも不法放置自転車なのかマンションから持ってこられた自転車なのかを判別するのは不可能。
そうなると、自転車撤去を止めざるを得なくなります。
非常にスケールが小さい上に、そもそも僕がここに該当する思考法が苦手なこともあって、少し分かりづらかったかもしれませんが、これが④のルールを壊そうとする思考法です。
スケールが大きくなると、非常に厄介。

以上①~④が僕の考えるルールに対する向き合い方です。
これとは別に、ルールを作る考え方もありますが、それは少し違う話になるので、ここでは割愛します。
殆どの人は①に属し、その中で高いパフォーマンスを発揮できる人が、いわゆる世間で言う「頭がいい人」であり、「優秀」な人である。
そして②~④に属する人は、「ずるい人」で、「悪い人」で、「怖い人」と評価される。
しかし、②~④に属する人の中にこそ「面白く」て「度胸」があって「頭のいい人」が潜んでいるのだと思います。
というわけで僕は②~④にとてもひきつけられてしまうのです。
みなさんは何処に該当する思考が得意ですか?

 

アイキャッチはルールを変える思考法

 

 

先週出会った教育界隈の人たちの熱にあてられて、柄にもない教育観を書いてみた(あくまで個人の感想です。)

先週は教育界隈の人とよく出会う一週間でした。
行きつけの居酒屋で教育系の事業を立ち上げた方と出会ったり、他の塾の先生と話したり、土日は教育系のNPO法人さんのお手伝いで親子クッキングコンテストのお手伝いをしたり、そこで小学校の先生と出会ったり、2日連続で塾の先輩と飲んで周ったり(笑)
で、僕は基本的に自分の教育観みたいなものを人に語るのは好きではないのですが、教育に携わる人たちと飲んでいれば、否が応でも話はそういう方向に行きます。
やっぱりしゃべっていると頭の中で考えてしまうので、浮かんだことをまとめておきたいと思います。

いろいろな人と話している中で強く感じたことは、指導者としての立ち位置の違いでした。
僕は生徒と先生の関係の作り方に関して、縦軸に二人の立場、横軸にコミュニケーションのとり方をおくことで、4つに分類することができると思っています。
①立場が対等で相互のコミュニケーションがある「親子的関係」
②明確な上下関係があって、相互コミュニケーションがある「師弟的関係」
③立場が対等でコミュニケーションが一方的なものが「インストラクター的関係」
④明確な上下関係があってコミュニケーションが一方的な「教祖信者的関係」
一つ目の「親子的関係」をとる人は、学校教育や個人塾の先生に多い気がします。
大手の学習塾なら③の「インストラクター的関係」で、予備校になると④の宗教信者的関係が増えてきます。
師弟的関係は、個別指導や専門学校系の勉強に多い気がします。

僕が子供たちと関わる上で大切にしているのは、②の「師弟的関係」です。
自分自身がそういう関わり方がすきということと、今後の塾業界のニーズは、ここに注目が集まると思うからです。

これまでの学校教育について、僕は猪子寿之さんの「学校は基本的に個人プレーである」という意見に近い立場です。
一見すると集団での評価が大事にされているようですが、それはあくまで「過程」の話。
たとえば議論やディスカッション、グループ活動は大切にされるけれど、成績の評価はあくまで個人ごとに出るし、全ての科目で評価されるのはその子自身の能力です。
学校教育は「過程」が集団重視で「結果」が個人主義といえます。
一方で社会に出る(特に組織ではなく個人として)と、あくまで結果はチームプレーで評価されます。
そして反対にそこまでの過程は「ひとりひとりに何ができるか」という個人の能力が重視されがち。
つまり社会での評価は「過程」が個人主義で、結果は集団重視ということです。
そしてIT技術の発達に伴い、この傾向はますます強くなっていくと考えています。
なぜならITの発達が物理的・時間的障壁を取っ払ってしまったから。

昔ならある企業につとめ、そこで仕事をせざるを得ませんでした。
だから物理的に複数の仕事を掛け持つなんてできませんでした。
しかし今はそれが可能です。
ある仕事をしているその隙間時間で別の仕事をこなすこともできますし、そもそもネットを使えば、24時間何処でも仕事をすることができます。
僕はあるNPO法人に所属しているのですが、本部は東京にあります。
それでもSNSをはじめとするネット環境を利用して、何の苦もなく仕事ができています。
放物線の最大値を通り過ぎた現代では、右肩上がりの企業成長と人口増加が前提になっている現行の終身雇用制度や年功序列は基本的に維持することは困難になるはずです。
そうなったときに、上に挙げたようなプロジェクトごとに「個人」で参画して、その場の集団で結果を出すという仕事の仕方をできる人材が重宝されると思うのです。
で、どこからでも必要とされる「個人」とは、代替可能な知識を有した人材ではなく、一長一短があったとしても、その人の武器を備えた人(ここで言う武器は「自分のアタマで考える」力も入ります)。
で、そういった人材を育てる最良の方法が、師弟関係にあると思うのです。
図らずも昨日のプロフェッショナル仕事の流儀がそんな特集でしたが、どこかでそういう教育が求められているということなのかもしれません。

もうひとつ、僕が重視していることがあります。
それが、「ITの右脳的側面に注目する」ということです。
18才のころからかれこれ7年近く塾業界に関わっているのですが、その中で見てきた教育の「IT化」が個人的には非常に違和感を持つものでした。
どの「IT化」も基本的には無駄を省いて合理的な方向に持っていこうというものなのです。
例えば子供たちの間違えた問題番号にチェックを入れると、その子に適した問題が作成されるといったものです。
もちろんそういう方向にもIT技術は使うことができると思いますが、それはITの可能性の一方の側面でしかないと考えています。
僕はこういったITの導入を「左脳型のIT」と呼んでいます。
合理化で無駄を省き、最短経路を提示する。
問題や生徒の間違えを細分化して、そこから抽出したデータを組み合えるというのはまさに本義の方の「デジタル」です。
こうした効率化のアプローチは確かに一定の学力層の子に有効でしょう。
しかし、そこで想定されているのは「勉強をするのが前提」の子供です。
性善説」ならぬ「性学説」に基づいた考え方です。
おそらく、そういった最適化で学力(それも「数値上」の)が伸びるのはごく一部の「優秀な子」です。
そして皮肉なことにそういう「優秀な子」は教育に多くのお金を払ってくれる親の家庭にこそ多い。
だからこそ自然の流れにまかせておけば、教育におけるITの導入は合理化・効率化といった「左脳型のIT」に行くことになるのだと思います。

僕がITに最も期待しているのは、これとは正反対の可能性です。
いわば「右脳型のIT」。
データ処理をして合理化するという方向ではなく、教科書のページ制約や印刷コストから開放されたことで、極端な話、全ページフルカラーの教材を作る事だってできるようになりました。
また、紙の教科書が性質上一ページずつ進んでいかなければならなかったのに対し、デジタルならば気になった知識をタップしたらさらに詳しい情報を見ることができるという「三次元的」な教材だって作成かのうです。
そもそも紙媒体ではできない、思考過程を動画でそのままトレースするという事だって容易になったし、セルロースのような複雑な化学式なんかを3D映像で表示することだって可能でしょう。
こういった、従来の教材ではできなかった表現方法を模索することが、僕の考える「右脳型のIT」です。
この方面は子どもたちを同質のビットとして扱うのではなく、好奇心を焚き付けるきっかけを提供します。
合理化に比べてこちら方面の可能性が軽視されすぎているのではないかと思うのです。


「右脳型のIT」という部分にも繋がってくることなのですが、僕が師弟のような関係というところに可能性を見ている最大の理由は「無駄」を教えられるところにあると考えています。
ゼロ年代後半から、やたらとロジカルシンキングフェルミ推定といった「合理的」な考え方がもてはやされました。
それらの本のうたい文句は決まって「成功する人はこう考える」です。
僕はこれに非常に疑問を感じていました。
おそらく成功したと言われる人たちは膨大なトライ&エラーの中でその思考法にたどり着いたのだと思うからです。
そして彼らを彼らたらしめているのは合理的思考そのものではなく、膨大な試行錯誤の中で最終的にはそぎ落としてきた「無駄」の方にこそあると思うのです。
同じAという結論であったとしても、マニュアルをみて直線でそこにたどりついた人と、試行錯誤の結果Aという解にたどりついた人とでは対応力が違います。
論理的思考は確かに便利な能力だと思います。
特に受験や就職活動、サラリーマンの日常的な仕事に関しては。
ある定点的な結果において両者を測定した場合、たしかにロジカルシンキングを駆使した場合の方がいい結果になるかもしれません。
しかし長期的に見たときには、むしろロジカルシンキングを用いない思考を続けた側のほうが良いアウトプットをする気がするのです。
論理的思考の根本が無駄を排し客観的に導き出せる解を探ることにあるとしたら、つきつめればそれの行き着く先はみな同じ結果になるはずです。
(そもそもロジカルシンキングがそういう思想のもとに生まれた考え方です)
先に述べた「左脳型のIT」のゴールはまさにこれ。
つまり、ロジカルシンキングを突き詰めた先には、ITとの競争が待っているだけだと思うのです。

合理化・効率化がITの最も得意な分野です。
反対に最も苦手な分野は何かといえば、それは無駄を積み上げることだと思うのです。
ITは世界中の誰もがおいしいという料理を作ることは可能かもしれないが、世界中の全員を「マズイ」といわせる料理を生み出すことはできないというのが僕の持論です。
そして、人間が追い求めるのはこちら側だと思うのです。
定点では価値を帯びない「無駄」も、積み重ねれば、独自の視点を世の中に提示するための豊穣な土地になり得ます。
僕はこの膨大な無駄の積み重ねを知識の層ということで「知層」と呼んでいます。
長い年月をかけて豊かな「知層」を育めば、そこからは合理化ではたどり着き得ないアウトプットを生み出すことが可能だと思うのです。
そしてそれが進化するITとの最大の差別化要因になる。
そういった教育はできなくとも、そういった可能性を提示できる大人が身近にいるのといないのとでは子供たちのその後の気づきの機会に大きな影響を与えます。
僕は子供たちにとってそんな大人の一人でいたいと思っています。

柳田國男は調査に行くたびに、あらゆる自分の気付きを生徒に伝えたといいます。
そして言わずもがな柳田は他分野に造詣の深い知識人。
科目という極めて現代的な垣根を容易に超えて、圧倒的なカバー率を示すことのできる教育者は現在どれほどいるか分かりません。
少なくとも社会システムがそれを求めていない以上、人数はかなり減っているように思います。
しかし現代のように様々な意味で転換点を迎えているときこそ、そういう包括的な教育者の存在が必要であるのではないか。
少なくとも僕はそんな風に考えています。
ただし、僕は何処までいっても塾講師。
それでご飯を食べているし、それが好きだからやっているという節があります。
だから、あくまでその範囲の中で、あるいはその仕事を完全に全うした上で自分の目標としている柳田のような知識人的教師を目指したい。
それが僕の考えている教育だったりします。

っと、これだけくそ真面目に書いたらさすがに先週いろいろな人に影響されて帯びた熱もたいがい冷めてきました。
しかも前半と後半で筋がぐちゃぐちゃだし。。。
熱にまかせた殴り書きなので勘弁して下さい(笑)
さて、メタモン探しながら出勤しよう。

「恋ダンスのガッキーが可愛すぎる」問題について雰囲気イケメンの五大法則から考えた

よくよくみたらそれほど端整な顔立ちという訳ではないのだけれど、一緒にいるうちにカッコよく見えてきたり、可愛らしく見えてくる。

こんな人って意外に多く存在するように思います。

僕はこういった人たちを雰囲気イケメン、雰囲気美人と呼んでいて、彼らの研究が僕の関心ごとの1つでもありました。

もう一つ、僕はここ最近「ガッキーの恋ダンスはなぜ可愛いすぎるのか」問題にハマっています。

で、ガッキーの恋ダンス(というか「逃げ恥」のみくりさん)が雰囲気イケメン、雰囲気美人の法則に完全に合致していたので、その辺についてまとめてみたいと思います。

 

僕の考える雰囲気イケメン、雰囲気美人の5大法則が、以下の通りです。

⒈雰囲気イケメン(美人)は白い歯を見せて笑う

2.雰囲気イケメンは不機嫌をコミュニケーションに持ち込まない。

3.雰囲気イケメンは相手を会話の主役にする

4.雰囲気イケメンは相手にとってのホステス・風俗嬢・チアガールを兼任する

5.雰囲気イケメンはトレジャーハンターである

僕の長年にわたる膨大な「飲み」というフィールドワークの結果、雰囲気バイアスのかかるイケメンさん美人さんの共通項は上の5つに集約されるという結論に達しました。

感覚値ですが、この5大法則を守っている人はそれだけで脳内イケメン・美人補正が70%くらいかかっているように思います。

つまり、仮に本来顔の整い具合が50点という単位だったとして、この5大法則をきちんと守っている人はその70%つまり35点がプラスされ相手には85点くらいに移る訳です。

顔立ちは変えられない(変えるにしてもコストとリスクが大きい)けれど、脳内補正でかなりの場合イケメン・美人濃度は上げられるというのが僕の持論です。

 

雰囲気イケメン、雰囲気美人の五代法則をざっくりと説明してきたいと思います。

まずは「白い歯を見せて笑う」という第一法則。

これは改めて説明するまでもないでしょう。

カッコいい・可愛い人たちは例外なく歯を見せて笑います。

AKBやでんぱ組のような女性アイドルはもちろん、男性アイドルでも、基本的に歯を見せて笑います。

嵐のメンバーの白い歯の見せ具合なんて見事です。

小泉進次郎も羽鳥アナも斎藤工石川遼もそう。

とっつきづらいイメージのあるX JAPANYOSHIKIですら、笑うときは白い歯を見せています。

因みに恋ダンスのガッキーに至っては、歯を見せていないのは最初の手を回す一瞬とBメロのワンカットのみ。

あとは全て笑っていました。

 

第二法則の会話に不機嫌を持ち込まないというのもわかりやすいので問題ないと思います。

会ったときに不機嫌だとその時点で相手に「何かあったの?」と聞かせることを強要します。

つまり、本人にその意図が無くとも、会ったその瞬間から気を使わせることになるのです。

逆に言えば、常に笑顔で接するというスタンスの人たちには、この気の使い方はしなくていい。

この相手の気を楽にしてあげる軽さ分が雰囲気バイアスとして、イケメン・美人度合いを高めます。

 

次に「相手を会話の主役にする」という第三法則。

この辺から徐々にハードルが上がってくるように感じます。

人は基本的に自分のことを話すのが大好きなので、会話をしているときに自分の話を聞いてくれると、途端にその人に対して心を許すようになります。

雰囲気イケメン・雰囲気美人の人は、例外なく聞き上手。

コミュニケーションにおいては基本的に相手を主役に立て、自分は相手が話しやすいパスやトスを打つことに徹します。

 

第四法則は少し説明がいるでしょう。

「男は自分専用の風俗嬢とホステスとチアガールが欲しいのです」というのはマンガ家の山田玲司先生の意見。

つまり、自分のことを受け入れてくれて(風俗嬢)、自分の話を聞いてくれて(ホステス)、自分のことを応援してくれる(チアガール)女性を求めているということになります。

もちろん男性に限りません。

女性だってこれに該当する人を求めています。

 

そして最後の「トレジャーハンターである」という第五法則。

会うたびに自分が見つけた面白いこと、自分の出会った素敵なことに気が付ける能力のことを、僕はトレジャーハンティングと呼んでいます。

(というかこれも山田玲司先生の言葉なのですが)

雰囲気イケメン・雰囲気美人の人たちは、このトレジャーハンティングの精度が極めて高い。

自分しかしらない面白いこと、ワクワクすることをこれでもかというほど持ち合わせています。

そしてそれを押し付けるでもなく、さりげなく相手に分け与えてあげる。

以上5つが、僕の考える雰囲気イケメン・雰囲気美人の五代法則です。

 

さて、これを踏まえて「逃げるは恥だが役に立つ」のガッキーが演じる森山みくりを見てみたいと思います。

まず第一法則はガッキーが演じている以上、文句なしで満たしています。

特にエンディングの恋ダンスは見事です。

【公式】再生回数3800万超!!「恋ダンス」フルver.+第8話予告 11/29(火)『逃げるは恥だが役に立つ』【TBS】 - YouTube

f:id:kurumi10021002:20161126084236j:image

(www.rbbtoday.comさんより)

本当に一部の隙間なく、笑顔で白い歯を見せています(笑)

第二法則に関しては作中では「契約結婚」という雇用としての新婚であるため、基本的にみくりは不機嫌を家庭に持ち込みません。

したがってここもクリア。

第三法則も第四法則も、第二法則と同じ理由から達成しています。

そして最後の第五法則ですが、これは契約結婚を持ち出したり、恋人の美味しい部分だけが欲しいと言い出したりするみくりというキャラ設定がすでに特徴として内包している。

ということで雰囲気イケメン・雰囲気美人の五代法則を全て満たしてしまっているんですよね。

で、それを元が100点のガッキーが演じている訳なので、100点にバイアス分の70点が加算され、100点満点のところが170点というとんでもない数値になっている。

これが、恋ダンスのガッキーが可愛すぎる問題の理由かなあと思います。

 

というわけで僕の考える雰囲気イケメン・雰囲気美人の五代法則。

まだまだ精度を上げたいので、みなさんの周りに雰囲気イケメン・雰囲気美人さんがいらっしゃったら、僕に紹介してください(笑)

 

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シミルボンさんへの寄稿記事

シミルボン(結婚はぜいたく品!?「逃げ恥」「タラレバ」の強烈コンボ)

月間アクセスがいくつ以上ならはてなブログをProにした方が得か?

朝起きてメールチェックをしていたら、「あと7日ではてなブログProが使えなくなります」の文字が!

そういえば去年の12月に1年契約ではてなブログProにしたんだったということを思い出しました。

 

僕のこのブログは、自分でいうのも何ですが、SEO対策が全くなっていません(笑)

カテゴリもグチャグチャだし、そもそもここ半年のエントリはカテゴリ分けもされていません。

PC版のトップ画に関しては、カテゴリのどのボタン押してもアニメ・マンガ考察に飛んでしまうバグを修正してもいない(笑)

そんなわけで、まあとにかくまともにブログを書いている人間の中では、かなりいい加減な運用をしていると思います。

 

さて、そんないい加減な運用をしている僕ですが、はてなブログを有料会員にしたのには、自分なりの理由があります。

それが、ブログ運営をブログで発生したお金で行いたいという意図があったからです。

一年前の12月、もう直ぐ次のアクセス数が1万に届きそうというところで、はてなブログをProに移行することにしました。

その時のアドセンスの収益が月に300円くらい。

無料会員だとスマホ版には広告が貼れず、この月300円というのはPC版ブログページからのアクセスによるものです。

また、当時のアクセス数を見てみると、パソコンからのブログ訪問者の割合は30%ほどでした。

だったらスマホ版にも広告を貼ることで月の売り上げは3倍、年間にしたらはてなブログをProにしてもブログだけで回していけるなという算段です。

 

そんなわけではてなブログProに切り替えたわけですが、一年経った結果は最終的にアドセンス広告+アフィリエイト+その他寄稿依頼などで10万円弱の利益を発生させることができました。

細かく書くとアドセンスの規約にひっかかりそうなので、アドセンスの売り上げはiPadの値段くらいとぼかしておきます 笑

そもそもブログで売り上げを出すことを目標としていないわけなので、その上でこの数値は、僕としてはそこそこ満足のいくものだったりします。

「ブログの運用費用はブログで稼ぐ」ができました。

 

具体的にどのくらいのアクセス数からはてなブログProにした方が得なのか?

SEOをまるで意識していない上に、AVの話から古典の話まで好き勝手にとっ散らかしている僕のブログは、数あるブログの中でもひと際収益率が低いはずです(笑)

それでも月に8000PV位だった去年の12月の広告売り上げだけで、はてなブログProにしても元が取れる計算でした。

はてなブログProにするかしないかの境目はちょうどこの辺にあるような気がします。

1万を超えているのなら、Proにした方が得というのが個人的な見方です。

 

去年実験的にはてなブログProに移行してみて、思いのほかブログを運用するための資金が溜まりました。

こいつを使って来年はもう少しだけ運用の仕方を拡大してみようかなあなんて思っています。

少なくともSEO対策は早急の課題(笑)

タッチパネルで注文式のお店にいって、何押しても「枝豆」に飛んだら詐欺ですからね。

とりあえず直近は、今年度の終わりまでには月間アクセス数5〜6万くらいという目標達成することとしておきたいと思います。

 

アイキャッチは僕のブログ運営とは月とスッポンの収益率、秒速で1億円稼いだ(!?)アノ男の本(笑)

 

 


 

和歌の読み方、楽しみ方

この2週間ほど、僕にしては(予想変換で「バカにしては」ってでてきたんだけど、どういうこと?笑)珍しく、ガッツリ働いていました。

で、その中で普段やらない単元をテスト対策で扱ったのでそこで思ったことを徒然と。。

 

中学生のテスト対策で和歌の単元を扱いました。

僕は必ずしも和歌が好きなわけではないのですが、自分なりに和歌の良さを考えると「俺には世界がこう見える」っていう世界の見え方を提示してくれるところにあると思っています。

例えば「春過ぎて夏来たるらし白たへの衣干ひたり天の香具山」だったら、「新緑で染まった緑の山にアタックのCM顔負けな真っ白のシャツが干してあるところって夏の訪れを感じるよね」みたいな感じ。

その作者がワクワクしたところを三十一文字(みそひともじ)で切り取ったのが和歌だと思っています。

その視点で和歌を読んでいくと、自分の中にどんどん「感覚」の引き出しが増えていく。

 

人は知らなければ見ることはできないという例で、僕はいつもカイユボットの「パリの通り、雨」を例に出します。

この絵画には雨の日のパリの景色が描かれているのだけれど、そこに雨粒はありません。

濡れた地面と人々の雨傘で、雨の日が描かれている。

チームラボの猪子さんは、これを「その頃のヨーロッパには雨は細い線で描くとそれっぽく見えるという考え方がなかった」と説明しています。

浮世絵で初めて雨が線で描かれ、その技法が広がることで、今の僕たちが当たり前に描く「細い線」の雨が生まれます。

また、前提でそういう見え方が刷り込まれているから、僕たちは雨を見たときに「細い線」に見えているわけです。

つまり、知っているから知覚することができる。

 

僕は正直あまり和歌が好きではなかったので、その技巧やそこに込められた意図を読み取ることを楽しみにして読んでいました。

だから、必然的に頭に残っているのは超絶技巧が凝らしてある和歌ばかり(笑)

「唐衣 来つつなれにし つましあれば はるばるきぬる 旅をしぞおもふ」

たとえば枕詞、序詞、掛詞、縁語と修辞法がふんだんに盛り込まれ、その上それぞれの頭の文字を繋げるとお題である「かきつばた」がしっかりと入っている(折り句といいます)この歌。

あるいは和歌ではないですが、江戸時代の狂歌師である蜀山人が詠んだ近江八景(瀬田・唐崎・粟津・堅田・比良・石山・長谷寺三井寺)を全て読み込んだ「乗せたから 先は粟津か ただの籠 ひら石山に 走らせてみい」など。

ツイッターで拾って来たやつだと、上から読んでもしたから読んでも同じになっている「ダメ男子 モテ期が来ても 死んだ目だ」なんていう川柳もなかなか技巧派だと思います(笑)

技術至上主義で見ていくとこんなものばかりが頭によぎりますが、これを和歌は先人が残した「見え方の見本市」のように捉えるようになってからは、好きな和歌が変わってきました。

例えば霜の降りた庭の橋を一年に一度織姫と彦星が出会うためにかかると言われる天の川のかささぎの橋に例えた百人一首の「かささぎの 渡せる橋に おく霜の 白きを見れば 夜ぞふけにける」や、万葉集の恋をしているときに好きな人を待っていて、来たと思ったら秋の風が簾を揺らしただけだったという恋心を描いた「君まつと 我が恋ひをれば 我が宿の 簾うごかす 秋風の吹く」なんかがうまいなあと思うようになりました。

 

「確かにそんな風に見えるよね」っていう、作者の発見として見れば、和歌も少しだけ楽しめるような気がします。

そもそもどういう風に楽しめばいいのかを教わることなくいきなり和歌をあてがわれても、なかなかにキツいところがあるように思うんですよね(笑)

たぶんこれは芸術作品も同じです。

いろんな人の世界の切り取り方をコレクションしたいという視点が備われば、楽しめるものなんだと思います。

小難しいうんちくや技法を知る必要はないけれど、見たままに感じろも不親切。

芸術作品にふれさせるときは、見る「視点」を伝えることが大切なのではと思います。

 

アイキャッチは「ちはやふる