知り合いにおすすめされて久しぶりに映画館に見に行った、是枝監督の「怪物」
ここのところ教室の移転やら新講座立ち上げやらでバタバタしていて、めっきりインプットが減っていた僕にはむちゃくちゃ新鮮でした。
その気づきとともにインプットの大切さを忘れないために、この興奮を記述しようと久しぶりに備忘録的にブログを開きました。
映画が始まって1番、率直な印象は「間が長ぇな」というものでした(笑)
ただしこれは作品が間延びしているという意味ではなく、あくまで普段TikTokや youtubeで必要以上に間をカットした動画に見慣れてしまっていることを気付かされるような違和感です。
(そんな「間」について考えさせられた作品だったので、今回の感想はあえて章に分けずに書いています)
作品が始まってすぐ、僕はこの「怪物」という名前が、被害者と思っている当事者が実は客観的な「怪物」だった、もしくは世間に「怪物」と見られるクレーマーが実は被害者だったみたいな結末なのかなあくらいの感覚で見ていたのですが、作品の後半から一気にその空気が変わっていきます。
初めは主人公の母親視点で描かれる学校での問題が、次に先生の視点で描かれるわけですが、そこから少しずつ違和感の正体が明らかになるわけです。
(具体的な筋を書いてしまうと見ていない人にネタバレになってしまうので、できるだけプロットの説明に留めます)
その後主人公の視点からも描かれ、視点が移動するたびに少しずつ真実に迫っていくという構成で作品は進みます。
単なる繰り返しにならず、話が繰り返されるたびに疑問点がクリアになるだけでなく、ほんの少しずつ次の話題が出てくる構成はさすが是枝監督という印象。
そんな構成で進む物語なのですが、作品は全ての点がつながり、意外な形のハッピーエンドでおわります。
さて、ここまでプロットを極力隠して話を紹介してみたのですが、具体的な感想に入るとそうはいきません。
ということで、以下はネタバレを含みつつ、感想を書いていきたいと思いますのでご注意下さい。
僕は作品を鑑賞する時、ざっくりと①ストーリー、②時流、③作家のメッセージという3層に分けて解釈を行います。
例えばドラえもんであれば
①弱虫の主人公がガキ大将に意地悪されてロボに秘密道具を借りて懲らしめるも調子にのって別の問題を巻き起こし痛い目を見る物語
②核家族する社会、便利になる社会を表す
③安易な科学万能主義の近代に対する警鐘
みたいな感じです。
これでいくと「怪物」は、①は凪良ゆうさんの「流浪の月」に見られるような、周りに理解してもらえない関係をとても繊細に描いたものという印象でした。
二人だけの時間にしか見せない友情。
それゆえに周囲に誤解を与えてしまうのですが、周囲に理解されなくても(されないからこそ)二人の絆は強く、それゆえあのエンディングに繋がるのだと思いました。
②の時流というところに関して、僕はこの「怪物」というタイトルが示すのはまさにここではないかと考えています。
もちろん校長先生やアル中の親父といった、罪がありそうな人も出てきますが(僕はその二人もトラウマと向き合うという意味で真の悪者ではないと描かれているように感じましたが)、作品に出てくるほぼ全ての人物が実はピュアで、それぞれの行動には悪気がありません(良くも悪くもいじめも悪気がない)
そんなピュアなやり取りも部分を切り取り色眼鏡でみると、とんでもない悪に移ってしまう。
そんな、それぞれの立場と、切り取った現実こそが、この作品がさす「怪物」ではないかとおもうのです。
これはちょうど切り抜きや短文で成立し、そこから「架空の事実」が生み出されてしまう昨今のSNSに似ています。
そうした世界観を、2時間以上の長尺で、他の作業をすることの許されない銀幕で見る者に伝えてくるところに、この作品の時流を踏まえたメッセージがあるように感じました。
最後に③の作家のメッセージですが、これに関して僕は作品を鑑賞している最中に「天気の子」と「銀河鉄道の夜」が頭にうかびました。
決定打はびしょ濡れになった二人が、列車の中で向き合って座るシーン。
あの場面が僕には銀河鉄道の夜に出てくる、級友を助けて命を落としたカムパネルラがジョバンニを優しく悟し、現世に返す場面とかさなりました。
ただし、銀河鉄道の夜で濡れているのはカムパネルラだけであるのに対し、「怪物」では二人ともびしょ濡れ。
その少し前に出てきた遊具を上へと進んだ先にたどり着いた「てっぺん」を鳥籠のように描いていたところ(生きづらい現世のメタファー?)と、この電車の中で話すびしょ濡れの二人を見た時に、悲しくも幸せな、あのハッピーエンドが頭に浮かびました。
宮沢賢治の作家性が「自己犠牲」とするなら、是枝監督は主観と切り取りでできた偏見という名の「怪物」を成仏させる役割を二人に背負わせたのかなあと。
宮崎駿さんが「千と千尋の神隠し」で宮崎流の「銀河鉄道の夜」をやったとするなら、是枝監督の「銀河鉄道の夜」がこの「怪物」だったのだろうなという印象を受けました。
(宮崎駿さんの「千と千尋の神隠し」と銀河鉄道の夜のお話はお時間があればこちらの記事を読んでいただけると幸いです左脳と右脳で"2回"読み解く『千と千尋の神隠し』 - 新・薄口コラム(@Nuts_aki))
宮崎駿さんが名付けにおける支配と解放という話の筋に隠れて兄弟愛という形で自分なりの「銀河鉄道の夜」をやってのけたとするなら、是枝監督は二人の幸せと世界を天秤にかけるという「天気の子」的な話の筋に隠して「銀河鉄道の夜」をやってのけたという印象です。
主人公と親友の二人だけはそれ以外の全ての周囲の負債を知ることなく(作中で描かれることなく)あのエンディングで救済される。
そして、二人の自己犠牲により「真実の全てを知った観客」は救済される。
宮崎駿監督が「銀河鉄道の夜」におけるザネリとジョバンニの役割を主人公の千尋に任せたとするなら、聴衆をザネリかつジョバンニの役割に据えたのが是枝監督なのかなあという印象でした。
だから最後に幸せに線路を走っていく二人をみて、こんなにも僕たちはつらく、でも幸せな気持ちになるのだろうと。
こんな感じで、映画を見ながらふと感じたことをつらつら書いて観ましたが、実際にはもっといろいろな気づきがあった気もするので、改めて思考を整理できたら言葉にまとめたいと思います。
鑑賞直後の1番の感想は「言葉にしづらい」(というか簡単に言語化できない)でした。
最近全然映画館に行けていなかったので、やっぱりきちんと作品を観にいかねばと感じました(笑)
アイキャッチはもちろん「怪物」