新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



プロジェクトが回るかを判断する際に大事な「ハコ収益」という視点

昨年末から今年の前半にかけて、立て続けに新店舗やら移転やらプロジェクトの立て直しやらの話に関わることがあって、数字やデータと睨めっこという事が続いています。

僕個人は何かやりたい事ありきで行動するというよりは、成功可能性を検討してから動き出すみたいなタイプなので、どうしてもそういう話があると、まず実現可能性を考えてしまいます。

その観点からツッコミを入れるため非常に嫌がられるわけですが(笑)、半面だからこそ僕に話をしてもらえるのかなと思ったり思わなかったり...

広報や事業内容の観点からのマーケティングはもちろんですが、今回はそれよりずっと前の部分で案外見落としている人が多いなと思った損益分岐点周りの話をしていきたいと思います。

 

損益分岐点と操業停止点について

 

そのプロジェクトを続けるか否かの意思決定の指標の一つに、損益分岐点と操業停止点があります。

損益分岐点とは価格と平均固定費用と平均可変費用がイコールになる点(一個当たりの生産コストと料金が同じ場所)のことで、操業停止点は平均可変費用(一個当たりの原材料と料金がイコールの場所)とイコールになる点です。

損益分岐点を上回っていればとりあえず利益が出ますし、仮に損益分岐点を下回っていても操業停止点を上回っている限りは固定費用分の赤字は賄えます。

もちろん、もともと会社を回している人であれば、こんなことは当然なのですが、そうでない"半ビジネス"みたいなプロジェクトを回すにあたって、この辺の意識がすっぽり抜け落ちているということは珍しいことではありません。

初めから損益分岐点ギリギリの値段で強気の勝負をしたり、売るほど損をする物を強気で売り出したり。

好きな事を始めるのはどうぞご自由にと思うのですが、その際には損益分岐点をキチンと上回れるロジックを組めているかは必ず確かめるようにします。

 

「最低ハコ収容率」という考え方

 

損益分岐点と操業停止点に加え、僕はハコ収益率という観点を大事にしています。

ハコ収益率とは僕が指標を立てるために定義したもので、仮に総費用を賄うには会場やテナントを何%の集客で回す必要があるかという指標です。

[単位あたりの総費用/(客単価×収容人数×平均回転率)]というのがこの指標なのですが、これをもとに出たものを「最低ハコ収容率」とし、それを上回る集客の手立てが立つか否かを検討します。

客単価1000円、座席数10、平均回転数が6回×22日の飲食店の月あたりの総費用が70万円だとしたときに、最低ハコ収容率は53%となります。

この場合月平均で常に55%の重要率を維持できるロジックが検討基準です。

或いは客単価2万円、座席数30、平均回転率が2の塾(通塾日は固定でその学年にかかるため回転率は特殊)で費用が100万円の場合、最低ハコ収容率は83%となり、年間を通してこの生徒数が維持できる算段かあるか否かがポイントになるはずです。

 

減価率やビジネスモデル、立地など様々なものはありますが、「やりたい事主体」の人はまず理想ありきでプランを作るので、それを実現する難易度を体感で感じてもらう為、僕はこれをひとつの指標にしています。

 

成長期待を想定するための「最大ハコ収益」という視点

 

最低ハコ収容率に加えてもうひとつ、そのプロジェクトを最大で回した時にどれくらいの収益を生み出すかの期待度を考える指標として、僕は「最大ハコ収益」というものも大事にしています。

これはその会場なりテナントなりを運用した時に最大でどれほどの収益が見込めるか、裏を返せば現状のシステムでら(平均単価か回転数を上げない限り)「それ以上は期待できない」という上限を示す指標です。

先の例で言えば、前者の飲食店なら132万円、後者の塾なら120万円です。

中でプロジェクトを回す人にとっては、そこから費用を差し引いた額が、自分たちがそこで営むプロジェクトから得られる収益の限界値と考える事ができるでしょう。

 

別にぼくはこれをもって利益分配を考えようと言いたいわけではありません。

ただ、最低限行わねばならない努力と、努力が報われる限界値は知っておくべきだと思うのです。

特にやりがいで動く人たちはこういう部分に目を背けがちですが、片手間で行う事でない限り切っても切り離せない現実ですし、何より現実と腰を据えて向き合った方がより覚悟が決まると思うのです。

 

理想や想いの強さで人は行動しますが、理想や想いの強さで人は救えません。

やりがいベースで動くからこそ、動く前に現実を見据える事が大事だと思うのです。

そういう覚悟を決める手段として僕が使うのが「最低ハコ収容率」と「最大ハコ収益」です。

新たなプロジェクトを回そうという人の参考になれば幸いです。

 

アイキャッチは構造化のお話。

 

 

記録と記憶という人質

僕は仕事上複数の会社とやりとりするため、色々な連絡アプリを利用しています。

その中のひとつにChatworkがあります。

フリープランと有料プランがあるのですが、少し前まではフリープランだと作成できるグループ数に上限があり、現在は仕様変更があり、フリープランでは作成できるグループの上限が無くなった代わりに検索機能で遡ることができる期限がついています。

恐らくこの仕様変更は、初めに使いやすさを売りに利用者を増やし、ヘビーユーザーは多くのグループを作るので有料にせざるを得ないためそこで有料ユーザーを増やし、ある程度その戦略で頭打ちになる(そもそも上限以上にグループを作るようなハイクラスの囲い込みが終わる)タイミングで、今度はライトユーザー取り込みのために上限解除&検索制限にしたという意図なのでしょう。

因みにダウングレード(有料から無料への変更)は不可で、無料に戻したい場合は解約した後に新たに再登録が必要とのこと。

この、ユーザーの利便性ではなく利益追求を露骨に進めるやり方は僕は嫌いでは無いのですが(笑)、そんな露骨な経営戦略の中に、ふと今後の可能性が浮かんだので、今回はそれについてまとめたいと思います。

 

増え続ける記憶と記録という人質

 

「ダウングレード不可」というビジネスモデルを見た時、やはりそのモデルに進むよねというのが僕の第一の感想でした。

Google翻訳のカメラ機能は、Twitterでイジる以上の価値がある - 新・薄口コラム(@Nuts_aki)

これは僕が6年前くらいに書いた記事なのですが、当時何気なくGoogleドライブやGmailといったサービスを使っていた時に、「僕たちはこのサービスが明日から有料になったとして、"解約"という選択を取れるか?」という問いが浮かびました。

自分の現在の関係性あるいは思い出の大部分を蓄積している無料のサービスがあるとして、ある日そのサービスが有料になったら、僕たちは「関係性と思い出を保存するために一生上納金を払い続ける」か「そのサービスに頼っていた関係性と思い出を全て捨てて一から始める」かの選択を迫られるわけですが、その場合に自分は後者を選ぶのか、と。

ここでの関係性や思い出とは、プライベートなものばかりではありません。

それまで積み上げてきた仕事の記録ややり取りなども全て含みます。

例えば数年越しの仕事をしていて、そのログへのアクセスが不可欠な環境で、有料化に伴いリセットできるかどうかみたいなものもそう。

こう考えたときに、僕たちが今無料で使っているサービスのうち、実際に有料化されたとして「リセットできない」サービスはいくつあるかと考えたら結構な数になる気がします。

少なくとも僕はその手段でしか繋がりがない人がいるLINE、FacebookInstagram、ある程度の人数のフォロワーを抱えてしまっているYouTubeTwitter、note、ブログ、仕事や思い出のログを膨大に溜め込んでいるGoogleドライブ、様々なサービスの登録手続きに使用しているGmailあたりは解約することは不可能です。

仮に月額500円くらいなら、払わざるを得ないような気がします。

 

"FREE"経済の表と裏

 

 

2009年にクリスアンダーソンが発表して一躍話題になった『FREE〜〈無料〉からお金を生み出す新戦略〉』では、ウェブ界隈の急速な発展の先に生まれた「無料」文化の先にあるマネタイズ手法として、次の4つ(うろ覚えなのでざっくりですが...)が予想として書かれました。

 

①無料商品を広告に他商品を売り込む

②スポンサーを募って商品は無料提供

③一部の課金するヘビーユーザーと多数の無料ユーザーからなるフリーミアムモデル

④評判やファンという金銭以外の報酬の獲得

 

いずれもその通りで、実際にそういうサービスは多々生まれていましたが、クリスアンダーソンがこの本を書いて13年、個人的には今後、「暮らしと切っても切り離せなくなった段階での強制徴収」という無料サービスのビジネスモデルが生まれてくるように思います。

(正確には①無料サービスで全てを囲い込んでユーザーがそのサービスの中で暮らす「生活圏モデル」と、②暮らしの根底に居座った上で半強制的に徴収される「インフラ税金モデル」があると思っているのですが、今回は関係ないので置いておきます。)

チャットワークのダウングレード不可の有料化は、僕にとってその方向のサービスに出会ったひとつでした。

IT関連技術のおかげで広がりに広がった人間関係と思い出(記憶と記録)に月額いくらまでなら支払うかという思考実験。

あならならいくらまで支払いますか?

 

アイキャッチはもちろんFREE

 

 

 

 

 

キレイな社会の残酷さ

先日、「ホワイト企業がホワイトすぎて辞める若者たち」という記事を目にしました。

転職する際の転職理由を聞いたところ、いわゆるホワイト企業に勤める若者が「ホワイトすぎる」ことを理由にやめるのだそう。

企業が本人に聞いた場合であれば、それの真意は眉唾ですが、「ホワイト故に辞める」というのは一定のロジックが組めるように思いました。

 

僕は以前からホワイトかブラックであれば、若いうちはややブラック、というかハードな仕事をした方がいいのでは無いかという考えだったりします(もちろん体を壊してしまうような長時間労働や、余暇を楽しむ余裕もない安月給、精神を壊してしまうような酷いパワハラ体質等は別ですが...)

完全定時、でそこそこの給与、おまけに精神的な負担がまるでないという真っ新なホワイトというのは、その時は良くても、長期的なキャリアを考えた時に自分にとってどうなのだろうと考えるからです。

 

さて、ブラック企業という言葉を用いる時、①その人がどの定義でその言葉を用いているのかということと、②その人がどの程度のブラック企業を想定しているのかという点は共有しておく必要があります。

例えば長時間労働でもってブラックという人と、パワハラ体質でもってブラックという人では話が噛み合いませんし、企業文化としてハードなノルマを課すことをブラックと呼ぶ人と、業務改善命令が必要なレベルの悪質な搾取が行われるレベルでのブラックでは程度が違いすぎる訳です。

今回の僕の話が前提としているブラック企業とは、先の「転職理由としてのホワイト企業」の対になるものとして考えます。

恐らく先のホワイト企業という言葉が指すところは①の観点からすると給与のこととは考えにくいので、労働時間と職場環境という2点の側面で「ゆるい」職場、また②の程度としては「直ちに逃避する必要があるレベルではないが、いい条件の転職先が見つかったので転職した」というあたりでしょう。

それを踏まえて、今回の話をする際に想定するブラック企業は①a労働時間が時に長くb精神的な負荷が多少あり、②直ちに逃避する程ではないがキツイ職場とします。

 

ホワイト企業の残酷さ

 

そもそも僕が先のニュースに興味を持ったのは、常々「完璧なホワイト企業ほど冷たい会社はない」と思っていたからです。

基本的に何かができるようになるということには①自分の能力の範囲内で習得することと②自分の能力自体が拡張することの二つがあると考えています。

そして①に関しては負荷なく適切なマニュアルが有れば習得できる一方、②に関しては一定程度の負荷をかけることが必要です。

これは例えば筋トレを考えるとイメージがつきやすいと思います。

筋肉をつけたいと思った時、自分の限界+αのトレーニングをし、筋肉が痛み、その回復作用で元よりも筋肉がつくのと同様に、能力値そのものを上げるにはどうしても負荷が必要です。

仕事においてその負荷の部分が長時間やプレッシャーというようなものなのですが、それを適切な量と程度で新人に施すのは、実は膨大なコストがかかります。

 

時に本人のキャパシティを超える作業を習得してもらうために適切な手当を支払い、本人の苦にならない範囲で残業を依頼する。

あるいは就労時間内にキャパシティをギリ超える分量を課し、同様の教育効果を提供する(その場合はある程度の精神的負荷あるいは消化できなかった分を上司がフォローするというコストが発生します)。

さらには適切な評価指標や丁寧な面談や声かけによる目標設定における成長促進。

こういったものは莫大なコストがかかります。

 

一方で単に自分の企業に最適化した優秀な労働力に仕上げるのはそれほど難しくはありません。

どんな人でも仕事が円滑に進むように細かく設計された良質なマニュアルと、それを適切に与えるようなシステムを構築していればいいからです。

それがあれば企業の側はいちいち新入社員に膨大なコストをかけて育てなくとも、一定の水準でワークする労働力に仕上げる事ができます。

ホワイト企業の高待遇のカラクリは、本来人の能力値を育てるためにかけるコストをカットし、その分を社員に還元しているというものだと思うのです。

 

もちろん、そういった環境でも(そういった環境だからこそ)自ら主体的に動く人は育ちます。

しかし向上心や主体性に乏しい"普通の人"はそうはいきません。

本来ならそういった"普通の人"出会っても、少し多めの仕事を早くこなせるようになろうとしたり、予算目標とその達成に対する精神的負荷などによって本人にその意思がなくとも少しずつ成長できるように設計されているわけで、その負荷こそがブラックと呼ばれる根源なのだと思うのですが、そのコストを丸々カットし、やる気の無いものへの成長は期待せず、そういうものはシステムで最低水準を変えさせようとするホワイト企業では、"普通の人"の成長は見込めません。

 

終身雇用が当たり前ではない社会を想定して立ち回る

 

それでも終身雇用が当然であった時代であれば、全く問題はありませんでした。

別に本人が成長せずともその組織にいる限り企業の持つマニュアルやシステムによって一定水準のパフォーマンスが上げ続けられ、そのまま定年まで迎えるのであれば本人にデメリットは無いからです。

しかし、こうした特定のシステムに最適化した人材は別のシステムにも適応できるわけではありません。

また、仮に他のシステムに最適化したとしても、転職先のそもそも企業のシステムが優れていなければ、前と同等のパフォーマンスは出せません。

 

現在の企業の平均寿命は23.8年とされています。(10年未満に倒産する企業は26.5%、30年以上続く企業が倒産する割合は33.8%)

そんな中で終身雇用を無批判に前提とした(慎重な検討の末ならいいと思います)キャリア設計はリスキーでしょう。

自ら主体性に動ける人ならともかく、そうでない"普通の人"であれば、転職や自分のスキルで食べたいかねばならない可能性を視野に入れて、完璧なホワイト企業を避けるというのは合理的な選択のような気がします。

 

ホワイト企業というブランドの価値に注目されるようになるほど、"普通の人"が目の前の高待遇につられ、(長期的なビジョンを持たず)そちらに流れ、10年20年と経った時に困る人が大量放出されるということが起きるような気がします。(因みに僕はアイドル業界においてAKBグループで近いことが起きたと思っています)

そういった観点から、その匂いを嗅ぎつけた人が「ホワイト企業」を理由に転職するのは納得できるように思いました。

(まあ、その意思決定ができる人は、そもそも主体的に動ける人な気もしますが...)

 

アイキャッチは徹底的にマニュアル化された"いい会社"に作者される主人公を描くこの作品。

 

 

モチベーションのディストピア

落合陽一さんが世間に注目され始めた2016年くらいのころ、彼がデジタルネイチャーの時代には一歩踏み出す、モチベーションにしたがって動ける力が大事であるというお話をしていました。

僕もこれについては完全同意だった一方、落合さんの主張に関しては同意だけれど、同じくこの主張に同意している人とは少しスタンスが違うなという印象を受けていました。

「これからの時代はモチベーションが大事である」という言葉は多くの場合、「ICT技術が進歩するとさまざまな単純作業がなくなり便利なツールに溢れ、多くの情報にアクセスできるようになるから」という原因で述べられると思うのですが、僕は「ICT技術は性質上モチベーションのフォローはしてくないから」という理由で先述の主張を受け止めていました。

「技術進歩でやりたい事ができるようになる」というポジティブな要因というよりは、「今まではやる気という部分に対するフォローがあったけど、技術はそのサービスをしてくれない」という観点です。

 

例えばコロナの影響で、この数年で教育の分野にかなりの変化が訪れました。

学校で実施されたオンライン授業なんかはその典型でしょう。

これに関して無駄な登校が減り、しかも一流講師の授業が受けられて質も向上したという声もありましたが、これらの主張が前提としているのは「やる気に溢れた能動的な子」です。

或いはデジタルツールが導入され、間違えた問題をAIにより判別する事で、その子がつまずいている部分を見つけ出してオリジナルの問題を作成するみたいなツールも生まれましたが、アウトプットされた教材をやろうとしない子には効果がありませんし、そもそも判定するための問題をテキトーに解いた場合、出てくる教材に方がないことになってしまいます。

もちろんそれらのアウトプットされたものを管理する作業や動画付けする要素を人間がマンパワーで行うのであればフォローはできますが、その部分に於いては今までと変わらず、本質的に技術の進歩により根本的な問題が解決されるわけではありません。

むしろ空間という物理的な強制力がある場所に集まる場合と、画面の中の小さな空間からの声かけで、極論ミュートしてしまえば済むリモートの場合であれば、モチベーション維持やタスク管理のコストは引き上がっていると言えるでしょう。

自走できる人、あるいは周囲のサポートが潤沢にある環境にいる人にとってデジタル技術の恩恵は大きいですが、それらがない人にとってはかえって格差が広がるツールであるように思うのです。

 

これは学校と子供という構造だけでなく、会社と社会人という関係性においても同じです。

それまでも積極的に仕事をして、自ら能動的に価値を創出するような働き方をしていた人にとっては、ムダを削り、可能な選択肢を増やしてくれるリモートワークは非常にありがたい変化です。

一方、与えられた指示を最低限のエネルギーでこなしつつ、給料を楽しみに働くような人であれば、リモートワークはより怠惰な方向に進むための効果的なツールとして機能したに違いありません。

もちろん、そんな姿勢自体がいけないという話はもっともですが、今回はその精神の人がデジタルで救わられるかというお話なので、そこへの言及は意味がないので行いません。

会社というのはそういった人でも回るようにデザインされた組織(そうなっていないとブラック企業となる)なのでそれでも構わないのでしょうが、そういった人たちはスキルが身に付かず、長期的にみたら重大な損失を被る事になるかもしれません。

 

学校でも社会でもいいですが、サービスの提供サイドが個別に効率化・最適化をするということは、受け手サイドにとっては「言い訳の余地」が無くなるということになります。

例えば、対面の授業しかなく、提出も手渡しの場合であれば、実際は本人の意欲の無さに100%原因がある場合であっても「授業が分かりにくい」「提出指示なんてなかった」「途中で無くした」という言い訳が成立します。

しかし、仮に「誰もが認める最高品質の授業」と「こなせば確実に成長できるというお墨付きのある教材」と「ディスプレイに期限が明記して配信される提出課題」で学んでいる場合、伸びない責任は本人のやる気に帰着させられてしまうでしょう。

仕事の場合も同じです。

そうなった社会では「やる気」や「モチベーション」は無くてはならない能力となってしまうわけです。

 

僕は技術発展がもたらす世界は、全ての行動のモチベーションに対する責任を過去人が負わされつつ、さまざまな可能な事が増えていく社会だと考えています。

裏を返せば成果が出ないことややりたい事が見つからない事など、「怠惰」に対する責任も自分で追わなければいけなくなる。

もちろんやれる事が増えていくのは嬉しい事ですが、一方で「怠ける権利」はかなり意識的に確保していかなければならないように思うのです。

とくに技術発展を先端にいる人はとりわけモチベーションが高い人たちなわけですので、そういう人たちが設計する社会には「怠ける権利」という視点は生まれづらいような気がしていて、そのまま進歩が進んだ場合、彼らが望んだユートピアが、誰もに居心地のいいユートピアとなるとは限りません。

そんな匂いがコロナが広がるなかで一層強まった気がしたので、今回は2022年の備忘録として書き留めてみました。

 

アイキャッチメリトクラシーの夜明け

メリトクラシー

メリトクラシー

Amazon

 

 

クルタ族と幻影旅団の関係を設定から考える[前編]

 

今秋連載が再開したHUNTER×HUNTERですが、相変わらず毎回熱い展開を迎えています。

主人公不在でも他のキャラクターが主人公的なポジションを貼れるのはこの作品のお家芸だなと。

難しい設定や膨大な解説により、すでに読者が選定されているからこそ、さまざまなキャラクターが主人公的な立ち回りをしても成立するのかなと思います。

さて、そんな中でも興味が強いのはやはり幻影旅団の生い立ちが判明した部分です。

残虐の限りを尽くすと思われてきた幻影旅団が、実は悲しい過去をもつのではないかと言うこと、クルタ族との関係など、さまざま考えられそうな内容が出てきたので、備忘録として2回に渡り僕が思ったことをまとめたいと思います。

 

HUNTER×HUNTERの絵的な凄さ

 

今回の幻影旅団編の考察をするにあたって、まずは押さえておきたいのが、HUNTER×HUNTERの絵的な凄さの部分です。

その凄さを語る際、ストーリーやキャラクターに注目されがちなこの作品ですが、個人的には絵の構図の凄さに注目しています。

今回の連載再開の中で分かりやすい場面で言えば、ノブナガがトイレの壁を切るシーンでしょう。

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このような2コマが続くわけですが、刀の鞘に注目してみると、抜刀と同時に縦に置いたまま手を離し、両手で刀の柄を握り、四角に壁を切った後、スッと左手を鞘の上に添えるように描かれています。

何気ないコマなのですが、この描き方をすることで、いかにノブナガの剣術が速いのかを表しています。

こういう描写などから読み取れる情報量が異常に多いのが、HUNTER×HUNTERの魅力のひとつだと思うのです。

 

こうした作者の演出は、背景のトーンにも表れます。

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例えばこのパリストンという内面が読めないことで周囲を掻き回すキャラクターを描く際には、口八丁でデタラメを言う(本心ではない)場面では背景が黄色やオレンジ、しかもデタラメがピークになる時はインディアンの模様みたいなものまでが出る一方、本音に近づくにつれ、背景の色は濃い青になるように終始描かれています。

(元の作品ではデタラメが白、本音が黒という書き分けでした)

その代表が上に挙げた1枚目と2枚目に跨がる場面です。

ここで黄色→赤→青と背景が暗くなる事でタテマエから本音を話そうとする様子が描かれます。

これにより、読者に暗にパリストンというキャラクターがただの「嫌なやつ」でもただの「悪いやつ」でもなく、同時に非常に厄介な敵であることを示唆しています。

 

さらに構図にも注目です。

パリストンがタテマエで周りの邪魔をしている時は顔が右向き、本音で喋る時は左向きとなっています。

マンガは通常右から左へと視線が移っていくため、左側に配置された右顔(今回で言えば1枚目の下2枚)は読者の視線とぶつかり合うため敵を描くor人を止めようとする際に配置されがちで、右側に配置された左顔は読者の視線移動に沿うため、味方やこれから行動する場面で使われがちです。

分かりやすい例を挙げるとすれば、ONE PIECEに登場するこの場面でしょう。

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ジンベエがルフィの行動を止めようとする場面なのですが、進みたい主人公のルフィは右配置で左顔をみせ、それを止めたいジンベエは左に配置して右顔が見えるように描かれています。

パリストンの会話でも必ずこれがされているわけです。

(因みに同じ構図はクロロvsヒソカ戦でも使われていて、その時はヒダリにヒソカを置く事で、暗にクロロに負ける事が示唆されたような構図となっていました)

 

描写、構図に加えてもう一つHUNTER×HUNTERを楽しむ上で大事なものに、「演技」があると思っています。

「演技」というとドラマや舞台で役者がするものという印象になりがちですが、アニメやマンガの中にも演技をはさむ作家がいます。

(逆に「ワンピース」や「鬼滅の刃」「約束のネバーランド」といった、それを殆どしないからこそ分かりやすく人気になる作品もあり、どちらが良いandすごいと言うわけではありません)

HUNTER×HUNTERの富樫先生は間違いなく演技を挟むタイプ。

例をあげたらキリがないのですが、今回は旅団の話(まだ前置きです、すみません)ということで、マチとヒソカのやりとりを取り上げます。

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ヒソカは戦いで怪我をした腕を味方(実はこの後ヒソカは裏切る予定)に治して貰うのですが、これはその後に治してもらったマチと会話をするシーン。

ヒソカはバンジーガムとドッキリテクスチャーという2つの技を持っているのですが、後者は殆どの人間に隠しています。

マチはそのどちらもを知っている数少ない人間ということで、ヒソカが信頼している事が伺えます。

そんなマチの属する幻影旅団をヒソカは後に裏切るわけですが、この場面で何気なくマチを誘うシーンでその伏線となる演技がなされています。

ヒソカがマチに「団長もくるのかい?」と聞く場面ではヒソカの顔が隠されていて本心の表情が見えません。

一方、「一緒にご飯でも」と誘う際には嘘のような笑みとともに顔が描かれます。

これは「一緒にご飯でも」というのが嘘を含むということでしょう。

後の新しいおもちゃもできたことだしそろそろ狩るかというようなセリフと合わせれば、これがゴンという新たな楽しみができたため、幻影旅団を裏切る決心をした場面である事がわかります。

その際に(少なくとも他の団員に比べ)心を許しているマチを誘ったのは、純粋に食事という意味に加えて、仲間に加えようとか、マチだけは見逃そうというニュアンスがあるのでしょう。

この演技からマチとヒソカが敵対する事とヒソカが少しだけマチに愛着を持っていたことがわかります。

このヒソカの誘いをなんの勘ぐりもなく断るマチは、後にヒソカが生き返って旅団を全員殺すと宣言した際にメッセンジャーとして残された場面に対応してきます。

その辺は後半で触れるので今は置いておきますが、こんな風にキャラクターの演技が随所に登場するのがHUNTER×HUNTERの面白いところ。

※この辺は岡田斗司夫さんが自身のYouTubeで深く語っていましたことなので、気になる方はこちらをご覧ください。

https://youtu.be/Pa7p9bYkxao

 

伏線や展開予想をする際、ストーリーや元ネタを探るという方法もありますが、描写、構図、演技の3点から情報を集めることで、実は作者が密かにしまいている断片を集めると言う方法があります。

幻影旅団の関係を考えていくにあたって、今回は後者のアプローチをしていこうと思ったので、まずはその前段階として3点の説明をさせて貰いました。

後編ではこれらを元にして、幻影旅団の関係を考えていこうと思うので、よかったら次の記事もお待ちいただければと思います。

 

アイキャッチはもちろんHUNTER×HUNTER

 

 

 

【UG】ゴールが好きですか?それとも歩くのが好きですか?

「道草を楽しめ 大いにな
ほしいものより大切なものが きっとそっちに ころがってる」

これはHUNTER×HUNTERの主人公のゴンの父親であるジンフリークスの台詞です。

小さな頃から会ったことのない父親ジンを追いかけて、やっと対面できた時にジンからゴンに送られた言葉です。

「目的」が大切なのか、それとも「過程」が大切なのか。

単なるマンガのセリフにとどまらず、この言葉は僕たちの勉強や仕事における向き合い方にも響く繋がるものであるように思います。

 

このセリフではないですが、僕は仕事や勉強で目的に辿り着くことだけが全てではなく、過程を楽しむ余裕が大切だと思い、事実自分はそう過ごしてきましたし、生徒や後輩にもそういう立ち回りを進めています。

そんな中で出会ったのが今回のUG記事で紹介した日本ハムファイターズにドラフト指名された加藤豪将さんのセリフでした。

「歩く事が好きな人は、ゴールが好きな人よりも遠くへ行ける」

最近仕事で書いたばかりのコラムだったのですが、僕の中で示唆に富む内容だったのでUG記事として掲載することにしました。

 

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The man who likes to walk will walk farther than the man who likes destination.
今回日本ハムファイターズにドラフト指名された加藤豪将選手が入団会見の際にコーチに言われた言葉としてこんな言葉を言っていました。
日本語にすれば「歩くことが好きな人は、ゴールが好きな人よりも、絶対に遠くまで歩ける」となります。
この言葉は、入試にも通ずる部分があるように思います。

受験勉強というと、とにかく問題をこなして、知識を覚えて、毎回の定期テストや模擬試験、過去問でいい点数を取って、内申点を少しでもよくしようとがんばることが大事であるように思ってしまうかもしれません。
しかし、あまりに「ゴール」にこだわりすぎると、最終的に思わぬ遠回りとなってしまうこともあります。

たとえば、昆虫の足はどこから生えているのか?キャッチボールの軌道ってなんだかきれいだな。大河ドラマって面白い!漫画の主人公のあのセリフってどういう意味なんだろう?
こうした疑問は実は勉強に直結します。
上にあげたことに限らずさまざまなものに疑問を持っていれば、教科書で学ぶ知識は「覚えなければならないことがびっしり書かれた仕様書」から、「自分の疑問を解決してくれる魔法の本」に変わるかもしれません。
身近なものに疑問を抱く姿勢が「歩く」ことだとすると、気がつけばずっと遠くにたどり着ける可能性だってあるのです。

加藤選手は会見の中で、自分は6歳のときに野球を始めて以来、21年間1分も無駄にしないように野球に打ち込んできたと述べていました。
そんな人が言う「歩くことが好きな人は、ゴールが好きな人よりも、絶対に遠くまで歩ける」ということばは、なんだかとっても説得力があるように思います。

高校受験も大学受験もさらに気合をいれなければならない時期にさしかかりました。
授業がない日もどんどん自習に来る生徒さんが増え、目つきも明らかに変わったように感じています。
そんな今だからこそ、先の言葉を紹介したいと思いました。
みなさんは「ゴール」が好きですか?それとも「歩くこと」が好きですか?

UG【2015/10/06 思うと見える世界が変わります!】

勉強や仕事への取り組みに関して、僕はよく同じ物でもどれだけ丁寧に観察するかという「解像度」と、その分析から見えた観点をいかに多く取り込むかという「情報量」が大切だという話をよくするのですが、今回の記事はこの「解像度」と「情報量」という言葉にたどり着く前、まだこのアイデアを漠然と考えていた頃に塾の教室内コラムとして書いた記事を再アップしたいと思います。

7年前と言えば僕が25歳のころ。

今読み返すとアイデアこそ「解像度」と「情報量」のそれと近いものの、具体的な手法に落とし込めておらず、やり方は精神論という恥ずかしい内容に...笑

一方、具体的手法に落とし込む力がないからこそ、具体例をいくつも集めてなんとか読めるクオリティに持っていこうとするアプローチは、逆に今の僕がやっていない(当時ほどアンテナを広げてインプットができていない)ことなので、少し反省しなくてはとも思います。

今度改めて今の僕の言葉で「解像度」と「情報量」の話をまとめてみたいと思いますが、一旦は7年前のこの記事を掲載しようと思います。

 

思うと見える世界が変わります!

 

たとえばスマートフォンが欲しいと思うと、とたんに周りの人がスマホをいじっているの に目がいくようになります。
たとえば僕達はお腹がすいてくると、とたんに食べ物を頬張りながら歩いている人に目が 行き、飲食店の看板が目に付くようになります。
僕たちの眼は一度意識すると、無意識に関連した情報を集める習慣があるようです。
松本人志さんが昔、「おもろいこと探してるとホンマにおもろいことに目がいくようにな んねん!」と言っていました。
同じ景色でも、僕たちの意識しだいで目に飛び込む情報は異なるみたいです。
勉強も、この「意識」が大きく影響します。
僕は問題に向かうとき、解答の手掛かりを徹底的に探るのがクセになっています。
それこそ「て・に・を・は」に至るまで、細部に気を配り、解答お糸口を探します。
そんな意識でいると、自然と解法が見えてくるのです。
応用問題を目の前にすると、手が止まる子がいます。
そんな時は、何としても解答のきっかけを見つけてやろうというくらいの意識を持ってみ て下さい。
きっと、細部まで目を光らせ、同じ問題でも、今までと比較にならない情報が得られるよ うになるはずです。