新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



【UG】Twitterスラム論(2015-01-28「Twitterは日本の未来のスラム街」)

イーロンマスクがTwitterを買収し、さまざまな話題が世間を駆け巡っています。

今日はそれに絡めて僕が昔書いたTwitter関連の記事を再アップ。

こちらは8年くらい前当時24〜25歳の時に今後の自分の立ち回りの戦略を考えるにあたって記事として残したものなのですが、我ながら結構いいラインをついていたんじゃないかなと思っています(笑)

 

ざっくりとしたロジックは次の通り

①情報化により人々の時間の価値がさらに上がる

SNSの普及で一般人の発信からウェブのコミュニケーション的側面が加速する

③有名人と一般人の注目格差がとんでもなくなる

④一方で一般人はウェブのコミュニケーション機能の側面から"対等に“有名人に絡む

⑤有名人にとってそれは非常なコスト

⑥有名人は有料等入場資格のあるSNSに移動又はクローズドなコミュニティに籠る

⑦有名人から無料のTwitterに投下されるのは告知や出涸らしの情報で、そこでの声は無いものとされる

⑧残るのは劣悪な情報と声と広報だけ

 

ちなみにここでの⑥のクローズドなコミュニティはオンラインサロン、⑦の無いものとされる吠えるだけの一般人はTwitterのミュート機能やさまざまなSNSの選択表示機能に相当する訳ですが、西野亮廣さんがオンラインサロンを始めたのが2016年、Twitterのミュート機能もちょうど実装されるかどうかの時期だったことを考えると結構いいラインの予測だったのでは無いかと思っています。

 

仮に今後イーロンマスクによりTwitterが有料化されるとしたら、入り口にハードルを設けた有料SNS化という⑥の前半に書いたことも実現されることとなるでしょう。

 

この記事では、そうした変化を遂げたSNSを「スラム街」と表現しましたが、それは「新たなテクノロジーが広がった世界で人々の行動原理はどうなるか?」という観点に注目したかったという意図があります。

今後の自分の立ち回りを考える場合、「どんなテクノロジーが広まるか?」の予測にあまり意味はありません。

それよりも大切なのは「新たな技術が広まった世界では人々の行動原理がどう変わるか?」の部分。

そこが読めて初めてそのニーズを汲んだ自分の意思決定ができるわけです。

 

さて、そうした誰もが発信力とコミュニケーション手段を得た反面、肝心の満たしたい承認の欲(リアルで満たされる人には存在しない者になるというのが僕の当時の予想)は、「存在が無かったもの」なされる社会では満たされず、そういう環境における立ち回りというのも考えてはいたのですが、今回は本筋とされるのでまたの機会にそちらはまとめたいと思います。

ひとまず今回はTwitterのスラム街化というエントリのアップグレード版の紹介ということで、お時間があればお読みください。

 

2015-01-28執筆

Twitterは未来の日本のスラム街」

Twitterは日本の未来のスラム街 - 新・薄口コラム(@Nuts_aki)

 

アイキャッチ岡田斗司夫さんの未来予想

 

 

UG【2015/10/05】ゴムは伸ばしたまま、そして目標は下げないで

ちょうど秋から冬にかけて、高校生ならば公募推薦を終えたあたりで、志望校に関して悩む生徒さんが出てきます。

この記事はFacebook向け(当時)に書いたものです。

脳科学者の苫米地さんが語っていたコーチングの手法を高校生向けに調整して、安易に志望校を下げることのデメリットをまとめました。

 

ゴムは伸ばしたまま、そして目標は下げないで

 

中学生でも高校生でも、この時期になると模試の結果を受けて、志望校を下げようかと迷 う子を見かけます。
もし本当に行きたい学校とめぐり合えたのであれば志望校の変更はいい事だと思います。
しかし、模試結果で不安になったから下げるというのは絶対に避けるべきです。
ゴムは引っ張ると元に戻ろうとする力が働きます。
強く引っ張ればその分引っ張る力は大きくなるのです。
この引っ張る力は、目標と換言することができます。
目標は高いほど、それに引っ張られる力は強くなる。
ただし、引っ張る力が強くなるほど、戻る力も大きくなります。
ちょうど、模試結果を見て自信をなくすように。。
季節が秋に移り、肌寒さにいっそう不安が増す気持ちは分かります。
しかし、ここで不安に負けてはいけません。
いずれ決断しなければならない時期が来ます。
そのときまで、できるだけ掲げた目標は下げないようにしましょう。
目標を下げない限り、上へと引っ張る力が働くはずです。

UG【2015/9/22】辞書ってこんなに面白い!

こちらは、私の所属する塾のために書き下ろした過去のコラムの再掲載となります。

辞書を引く習慣についてのコラムを書きたかったのですが、ただ書くだけではつまらないと思い、実際にさまざまな辞書に載っている例文を比較するという構成にしました。

 

【2015/9/22】辞書ってこんなに面白い!

 

みなさん、わからない言葉が出てきた時にどうしますか?
周りの先生やお父さんお母さんに尋ねる、Google先生で検索する、或いはなかったことにしてスルー(笑)
分からない言葉に出会ったら、辞書を引くようにしてください。
勉強になるのはもちろん、それ以上に面白い出会いがあります!
例えば「恋愛」ということば。
三省堂さんの新国語辞典では「男女が互いに、または一方的が、相手をすきになり、いつも一緒にいたいと思うようになること。」だそう。
一方で、同じ三省堂さんでも、新明解国語辞典では、「特定の異性に対して他の全てを犠牲にしても悔い無いと思い込むような愛情を抱き、常に二人だけでいたい、二人だけの世界を分かちあいたいと願い、それが叶えられたといっては喜び、ちょっとでも疑念が生じれば不安になるといった状態に身を置くこと」とされています。
主幹の山田忠雄さんは過去の恋愛で何があったのかというくらいの具体的な説明(笑)
「恋愛」の項目は極端ですが、辞書を見比べると、意外な解説というものに、案外出会います。
こうした事も、辞書を引く楽しみのひとつだったりします。
もちろん僕たちに聞くのも、web検索も手段としてはアリですが、たまに辞書で言葉を引いて、面白い解説との出会いを求めてみるのもいいかもしれません。

一青窈『かざぐるま』考察〜「かざぐるま」に込められたメタファーを紐解いて主人公の想いを追う〜

「待つことも恋でした」

 

映画『蝉しぐれ』の主題歌として一青窈さんの『かざぐるま』を聴いたとき、「これだけで映画のキャッチコピーとして成立してるやん」という印象を抱きました。
この映画の正式なキャッチコピーは「20年、人を想いつづけたことはありますか。」というものだったのですが、要するに「待つことも恋でした」という意味なんだろうな、と。
そんな印象とともに僕の中に強く印象に残っているこの曲を今回は考察していきたいと思います。

 

運命に振り回されて結ばれない二人

 

〈あれは十四、五のほのか照れ隠し ふたりで歩こうと決めた 川ではないけど〉
過去の回想から始まる1番のAメロ。
照れながら『一緒に歩こう』と決めた、その道ではないところを歩む。
ここから二人は恋仲であったこと、そして今は二人が当時思い描いたのとは違う人生を歩んでいることがわかります。
映画『蝉しぐれ』は藤沢周平さんの代表作とも言える小説『蝉しぐれ』を原作にした作品です。
『かざぐるま』に登場する人物たちもこの作品に沿った関係性になっているため、まずは『蝉しぐれ』のあらすじをざっと拾っていきたいと思います。

蝉しぐれ』は文四郎という主人公とふみというヒロインの二人の恋を描く時代小説。
文四郎とふみは若いころにお互いに恋心を持つのですが、結ばれません。
文四郎はあるとき父が謀反の罪を被せられて死罪となり、文四郎自身も苦しい生活を強いられます。
一方でふみは藩主に見初められやがて側室に。
お互いを思いながらも離れ離れになり20年が経過したときに、二人は再会する機会に恵まれます。
数十年越しの気持ちが通い合って二人は一夜をともにするのですが、そこで文四郎が聞いたのはふみの出家するという意思。
文四郎は最後にふみに会えた半面、このときが最後になり、蝉しぐれが響く中、ふみのもとを去っていくところで小説が終わります。

こんな風に、ずっと相手のことを思い続け、ようやく出会えた二人も離れ離れになってしまう切なくも美しくお話が『蝉しぐれ』という作品です。
『かざぐるま』の歌詞に出てくる冒頭の「ふたりで歩こうと決めた 川ではないけど」という部分からはこの作品のストーリーが想起されます。

〈いつのまにここにいつのまによそに 水玉模様の僕は両手をふり返す〉
続くAメロの繰り返しではバラバラの運命を歩むことになる二人が手をふる描写が描かれます。
これは、愛し合っている二人が運命を受け入れて別れを告げる場面でしょう。
そしてサビヘ。

 

君にとっての思い出のひとつでいいという「僕」の想い

 

〈ただとおりすぎただけ 君がまわるためどこ吹いた風でした くるりかざぐるま〉
サビはこれだけ。
場面を頭に浮かべれば風車がくるりと揺れたそれだけの場面しか描かれません。
しかし、僕はこの淡白な感じがいっそうこの曲に出てくる「僕」の心情を引き立てているように思うのです。
「君がまわるためどこ吹いた風」と描かれていることから、「かざぐるま」が君、「風」が僕と解釈するのが妥当でしょう。
表題にしている「かざぐるま」を主人公にするのではなく、あくまで一瞬吹いた「風」に主人公をあてるのが非常にきれいだなあと感じるこの描写から、あくまで幸せの中心にいてほしいのは「君」で、自分のことは過去に一瞬吹いた風程度の存在として忘れてしまってくれてかまわないという主人公の想いが伝わります。
そして、自分は忘れられても相手の幸せを願うという気持ちから、「僕」の「君」に対する気持ちがわかる。
自分との出会いなんて、「君」にとっては遠い昔、ほんの些細な出来事に過ぎなくていい。
そんなスタンスの主人公。
2番でも一貫して同じ主人公の姿勢が描かれます。

 

「今の幸せ」と「あの日の幸せ」をともに抱く大人の恋

 

〈幸せだから、と急にいい人に いつか帰ろうと決めた 町ではないけど〉
2番のAメロは主人公の気持ちでしょう。
主人公もそれなりの幸せをつかんだようです。
しかし「いつか帰ろうと決めた町ではないけど」と言っているあたりから、一番の幸せは元の町に戻ること=「君」と結ばれることというわずかな未練が描かれます。
大人になるとずっと大切に思う人はいつつ、今目の前の人と結ばれるみたいな感情はわかるような気がします。
これは今の幸せに不満があるということなのではなく、今の幸せは紛れもない本物だけど、あなたのことはずっと思い続けていますという気持ち。
そんな「君」のことを未だに思い続けてる主人公が描かれます。
〈いつのまにかわりいつのまにふたり 幸せな夢の中できれいに泳げたの〉
別々の運命を進み、そこで別々の幸せを手にした二人だけれど、今でも当時の思いは忘れていない。
そんなずっと一人のことを想い続ける主人公。
このテーマは『蝉しぐれ』とまさに重なります。

〈ただお目にかかるため 君がまわるためどこ吹いた風でした くるりかざぐるま〉
ここでもたった一瞬の君との出会いでよかったと歌われます。
ただここでは「お目にかかるため」というように少し距離がとられた表現になっています。
ここには「どうせ結ばれなかったんだから」と自分に言い聞かすような雰囲気がにじみます。

 

アイキャッチはもちろん「かざぐるま」

かざぐるま

かざぐるま

  • Nippon Columbia Co., Ltd./NIPPONOPHONE
Amazon

 



 

コンテンツの再利用という企み〜コンテンツ信用創造論〜

去年の夏あたりに、今後の社会変化に対応するため、SNSで色々な実験をしてみたいななんてことを思い、この一年ひっそりと実験をしていました。

noteを2本運営し、このブログと別のブログを作り、もともとやっていたTwitterに加え、tictok、 InstagramYouTube動画、YouTubeショート動画などなど(笑)

そうした媒体でそれぞれ、音声だけのコンテンツ、動画コンテンツ、文字コンテンツ、画像コンテンツといった発信方法でさまざまな形を実践してみるとともに、内容面でも本気で作り込んだもの、自分のスキルを活かしたもの、自分の好きなものはもちろん、パクリ、マーケティングに全振りした内容ゼロのクソコンテンツ、お金配りコンテンツまで、思い立った仮説は一通り実験してみました(笑)

で、いろいろやってみて最近手応え&興味を持ったのが、「コンテンツの再利用」というアイデアです。

 

「コンテンツの再利用」は、もともと岡田斗司夫さんが2020年の堀江貴文さんとの対談で言っていたお話。

岡田斗司夫さんは2000年代、YouTuberが全盛になるずっと前からニコニコ動画などのライブ配信プラットフォームを使って、動画の発信を続けています。

そんなこともあり膨大なコンテンツのストックを持っている岡田さんは、せっかくあるのに「昔のもの」というだけで再生されづらいのはもったいない、アップグレードという形で再発信するのは価値があるのでさという仮説のもとコンテンツの再利用ということを最近始めています。

これを見た時に「なるほどな」と思いました。

 

僕は14年にこのブログを開設し(前のブログを開設したのは2010年)、今は1100本以上の記事、塾向けに書いたコラムが400本、音声コンテンツが200本くらい持っています。

その中にはまさに岡田さんのアイデアを真似できるなと言うものがあり、僕も「コンテンツの再利用」を実践することにしました。

 

「コンテンツの再利用」の実験をするにあたって僕が考えたのは次の2通りです。

ひとつは同一メディア上でのコンテンツの再利用、もう一つは別メディアでのコンテンツの再利用です。

具体的に前者に関しては、このブログ内でシリーズものでアップしていて、そこそこアクセスを稼いでいた記事をアップグレード版ということで、内容を付け加え&一つにまとめると言う形で再投稿ということをしています。

これにより新たな記事でのアクセス数を得るのとともに、過去の記事への流入を図っています。

 

もう一つ、他メディアへの再利用という部分では、実験的に歌詞考察記事をj-popの歌詞を題材にした現代文の講義という建て付けでnoteのマガジンの連載に、1スライドのピンポイント考察という形でInstagramに、そしてInstagram用に作ったスライドを用いてYouTubeの動画にという形で「コンテンツの再利用」の実験をしています。

noteに関してはこれを意識的に始めたのがつい最近なのでまだ大きな成果には現れていませんが、これまでも試験的にアップしていた歌詞考察記事のいずれもが各記事ごとに数1000pvの閲覧数になり、通算pvも上昇し始めているので、一応の効果は出てきつつあるのかなと思っています。

インスタに関しては始めたのが1月前で、これまでの農業アカウントとしてフォローして頂いていた方が減るものの(僕のインスタは今年の春まで農業アカウントだった)、代わりに歌詞考察を見てフォローしてくれる人がいて、また投稿に対して新規の方からぼちぼちいいねがいただけるようになってきました。

そしてYouTubeに関しては1週間目の割に1万再生は頂いており、今後実験を繰り返すオモチャくらいにはなりそうな勢いです。

 

「歌詞考察」のコンテンツを他メディアで再利用するというアイデアは、僕にとって色々なマーケティングの実験でもあります。

音楽はちょうど、アーティストのメディア露出、タイアップ作品の放映等で作品発表後も繰り返し話題にあがります。

それならば、アーティストや曲に関連したコンテンツは何度もタイムラインに上がりやすくなるのではないかと思うのです。

(僕のブログでいうテストの解説記事などと同じ仕組み)

こうした実験の意味も込めて行なっているコンテンツの再利用。

さまざまなデータが揃う過程で、その実験そのものも記事にしていけたらなあと思っています。

 

アイキャッチはコンテンツを資産にするお話の本

 

 

「壁」をモチーフにした10年代のマンガたちと、20年代のマンガから見る今後の世界の歩き方

僕は以前、ゼロ年代~10年代の漫画の特徴として、「壁」をテーマに考察を書いたことがあります。
僕がライターの仕事をいただけるようになったのもその記事がきっかけだったので、感謝してもしきれないような記事なのですが、それを書いたのが今からちょうど8年前。
その中で中心的に扱っていたのが『進撃の巨人』だったのですが、実はそれ以降読みかけで終わっていました(笑)
そんな『進撃の巨人』を先日読み終えたので、答えあわせと、改めて感じたことをまとめていこうと思います。

 

「壁」というモチーフの変化

 

20年代に入り、『進撃の巨人』を読み終えたときに、まず気になったのは、ゼロ年代(正確には95年~05年)と、10年代(05年~15年)に登場する「壁」というモチーフに対する描かれ方の印象の変化でした。
HUNTER×HUNTER』の暗黒大陸、『ONE PIECE』のグランドライン、『トリコ』のグルメ界、『FAIRY TAIL』のアラキタシアの大陸、『進撃の巨人』の壁、『約束のネバーランド』の農園と、物理的・心理的「壁」というモチーフは、とかくゼロ年代、10年代に多く書かれたように感じますが、そこにこめられた「意味」が前者と後者では大きく違うように感じるのです。
HUNTER×HUNTER』『ONE PIECE』『トリコ』といった作品には、「壁の向こう側の世界」は無限の可能性を持つものとして描かれていました。
ちょうどやや後半に該当する時期に始まった『トリコ』の面白いのは、前半は希望の土地として描かれた世界が、いざ入ってみるととんでもない地獄であったという形で物語に組み込まれているところです。
また、『HUNTER×HUNTER』や『ONE PIECE』でも、話数を進めるごとに、希望の土地から弱肉強食の厳しい世界であるように描かれ方が変化したのも象徴的です。
しかし、これらの作品では、初めは「希望の土地」として描かれていました。
それに対して、『FAIRY TAIL』『進撃の巨人』『約束のネバーランド』といった10年代の作品(と僕が分類している作品群)では、「壁」の外の世界が、希望ではない不安な存在として描かれていました。

コンテンツが反映させる「時代性」について

僕は作品を楽しむ際、共通する「時代性」のようなものを考えます。
90年代、ゼロ年代は別の記事で昔書いたことがあるので今回はふれませんが、10年代の作品に強く感じたモチーフが「理不尽な呪いからの解放」と「理不尽な運命の受容」です。
たとえば、男性向けの漫画をいくつかあげると、『進撃の巨人』『約束のネバーランド』に加えて『呪術廻戦』『鬼滅の刃』『ぼくのヒーローアカデミア』などがここに該当すると思うのですが、こういった作品はいずれも、いきなり巨人に襲われる、食料にされる、悪霊に取り付かれる、妹が異形、敵の標的となるというような「ある日突然理不尽な目に会う」ということと、自身が全てを引き受けて世界を滅ぼすor救うみたいな「解決策が極めて理不尽なものである」というような共通点があるように感じます。
僕はある日突然振ってきた理不尽を「呪い」、自分ひとりがそれを引き受ける解決手段がない状態を「生贄」と呼んでいるのですが、その文脈でいえば「呪いと生贄」が10年代の時代性なのかなという印象。
僕はゼロ年代を、壁というモチーフを基準にして、グローバル化や世界基準での動きを考えなければならないという「壁を壊された」危機感をもつ人と、「壁の内側に閉じこもって」現実から目を背けたい人たちが両方存在する「新時代への挑戦と拒絶」の時代と考えていました。
それがいざグローバル化によって外に視線を向けたらそこにあったのは壁の中よりもはるかに厳しい、ときに理不尽であったということが僕たちの気持ちの中にこれでもかと染み付いてしまった時代ろいうのが僕が思う10年代です。
そこでは、新時代へ挑戦しようとした人間の、「外の世界」にあった今まで以上の競争や理不尽な環境と、もう篭っていられないと思い「外に出ようと」壁の中で世界を拒絶していた人たちを鼓舞するもなびかないことに絶望し、一人で向かい合わなければ行けないというような関係しかなかった。
これがそれぞれ、前者が「呪い」後者が「生贄」というようなモチーフに象徴されているのかなというのが僕が10年代の作品を非常に大雑把にではありますがまとめたときに抱いた感想でした。

 

壁のない世界の歩き方

 

こんな風に書くと非常にヘビーな結論しか残っていなかった10年代ですが、出口のない閉塞感で記事を終わるのも味気ないので、20年代の「歩き方」を、これまた漫画を参考に考えていきたいと思います。
僕たちは20年代をどのように立ち回ればいいのか。
これを考えるために僕は先に挙げたような10年代のバットエンドにならざるを得なかった作品の共通点と、ゼロ年代、10年代、そして20年代の今もなお「壁」というテーマを含めた上で連載する『ONE PIECE』に答えを見出したいと思います。

10年代の閉塞感に満ちた作品のほとんどはまとまりが国家や種族、そしてそれらの衝突
というものでした。
だから物語を終えるためには①対立するもの同士の間で白黒つけるか、②一人が生贄となり両者の妥協点を探るしか存在しません。
そのためどうしてもハッピーエンドにはなりづらくなっていた。
これはそのまま今の時代に投影できることだと思います。
ひとことでいえば、「国家」や「民族」、「同じ価値観」といった抽象的なつながりに依拠した団結間とそのぶつかり合いなため、主語が大きすぎるわけです。
こういった単位あたりの「壁」が取り払われ、絶えず自分たちの存在意義を能動的に探し続けねばならない社会では大きすぎる主語はまとまりを生みづらくなります。
そして生まれるのは異なる価値集団との争いと、同じ価値集団の中での価値観への忠誠度合いによる見下しです。
少なくとも僕には「壁」がもう存在しない世界において、ここにはポジティブな出口は存在しないように思います。

 

ではどうすればいいのか。


ゼロ年代を超え、こうした10年代の作品群も超え、なお連載が続く『ONE PIECE』では、海賊の冒険が描かれるわけですが、それぞれの年代ごとにきわめてその時代性を表したような冒険が描かれたように思います。
かなり大雑把なくくりですが、『ONE PIECE』ではまず世界の大秘宝を探すというコンセプトで海賊ごとの競争が描かれ、そこから徐々に国を助けるといったテーマになってきて(それでもアラバスタ、空島、ウォーターセブン編あたりまでは国民を救うという色合いは少なく、魚人島あたりから民を救う色が強くなってきたのは印象的です)、そして最近は「同盟」という考え方が多く出てくるようになりました。
僕は20年代の身の振り方に関してはこの『ONE PIECE』的な仲間意識が重要になるのではないかなあと思っています。
ONE PIECE』の世界では、自分を受け入れてくれる仲間のクルーとなり、目的が合致するもの同士が同盟という形で手を組む(「傘下」というのもほぼ同じでしょう)という関係が登場します。
これと同じように、極めて親しい人たちで家族的な仲間関係を構築するとともに、その時々に価値観や利害関係で合致した人たちと手を組む関係性を結ぶというのが「壁」の壊れた社会での立ち回りかただと思うのです。
価値観と利害関係と居心地が三点セットのすりあわせが求められる主語の大きな集まりに居場所をもとめるとこはどんどん厳しくなり、そういう集まり同士はぶつかりが絶えないというのがこれからの社会だと思うのです。(実際に僕の目にはそういう歪が表出しつつあるように映ります)
こういう大きな主語にいれば自分が強くなった気がしますし、なによりその価値集団において熱心に貢献している人たちは構成集団のうち関心の低い人たちに対してもマウントがとれるため心地よさを感じるかも知れないですが、その巨体そのものの寿命が近いというのが僕のみたて。
そういうところから出て、気心知れた団結と利害関係による団結のハイブリッとな生き方のポジションをとる。
これが、20年代の空気感であり、振り返ってこういう結末に向かう作品が多く出てくるのではないかなあというのが僕の20年代のコンテンツの予想です。
答え合わせはまた6年後くらいにしてみたいと思います。

 

アイキャッチはワンピース

 

 

【UG】2022年版僕が贈り物にしたい本当に美味しいと思う日本酒TOP5

7年前、ちょうど日本酒にハマったばかりの頃、僕は「モテる日本酒の選び方」なんていうブログのエントリを何本か書いていました。

当時20代半ばに差し掛かったばかりで、フリーでようやく食えるかどうかくらいだった時に偶然激安チェーン店で飲んだ出羽桜で日本酒を知り、次に(当時精一杯の背伸びで)飲んだ獺祭で完全に日本酒にハマりました。

と、2015年と言えばちょうどそのくらい。

そんな金も経験も無かった若造が書いた記事だったので、コンビニ酒(美味しいのはあります!)と齧った知識で背伸びした十四代が並んでいるみたいな有り様でした。

 

その記事から7年近く経ち、飲んだ日本酒のメモ(僕は何でも集めたい派なのです...)は数百種分になり、コロナ禍では流通が止まったのをいい事に家の日本酒コレクションを増やすなどして、当時よりは日本酒の知識も広がりました。

今回はそんな自分の成長比較も込めて、僕が人のお店やお家に招かれた際に持っていく、今時点で本当においしいと思うTOP5を並べてみる事にしました。

どれもオススメなので気になるのがあれば試してみてください!

 

と、ランキングに入る前に...

いきなり日本酒を紹介したかったのですが、ひと口に「美味しい日本酒」といっても、その評価は人それぞれだと思います。

特に日本酒はフルーティ系を好んで飲む人からthe・米みたいなガツンとくる系が好きな人までがいるため、前者が好きな女性がうっかり職場で話したらおっさん上司から後者を勧められて苦笑い何てことも起こり兼ねません。

したがって、まずはランキングに行く前に、ランキングを作った僕自身の好みを下に並べておきます。

この辺りにピンとくる方には、以下の記事も楽しんで頂けるかと思います。

 

パッと思いついたよく見かける日本酒(よほど種類を指定しないと変わるもの以外は日本酒名のみにしています)

白鶴大吟醸、風の森、盾野川、鍋島、獺祭、東洋美人、醸し人九平次、作、出羽桜、紀土、雁木、仙禽、花陽浴、三井の寿など

いわゆるフルーティ系、甘い系が好きだったりします(今家の常備酒にしているのは30年ものの長風萬里(本江酒造さんの昔のやつ)の純米大吟醸の古酒と、ゴリゴリのハード系ですが 笑)

フルーティ系、甘い系の日本酒が好きな人はぜひ以下のお酒をお試し下さい。

 

TOP5仙禽雪だるま(しぼりたて活性にごり酒)

仙禽 雪だるま 1800ml

仙禽 雪だるま 1800ml

  • ノーブランド品
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というわけで僕の中での5位はこちらです。

2017年くらいからの僕の不動のTOP5の一角を担うのがこの仙禽雪だるま。

入手が面倒なので最近は毎年これを仕入れる行きつけのお店で楽しむ程度ですが、非常に美味しい仕上がりの一品です。

にごり酒なのに非常にフルーティで、その上活性ということで仄かな炭酸を感じます。

そのため初めての人はちょっと飲んだことがない感覚になるかもしれません。

また、にごり酒にかわいい雪だるまのイラストというデザインのため、友人や恋人の家に行く際の手土産としても最適です。

 

TOP4村祐(黒)

4位は村祐の黒(純米大吟醸相当)です。(すみません、写真は黒が無かったので別ラベルです...)

ほのかに黒砂糖のような香りがする甘いタイプの日本酒で、ディナーに合わせるという感じでは無いかもしれませんが、僕がこれを開けるときは、ゆっくり長く飲むことを想定します。

黒糖のような香りということもあり、ガツンと甘みを感じるように思うのに、不思議と下に変な甘さが残らない。

とっても不思議なお酒です。

 

TOP3而今(純米吟醸)

僕の中でTOP5はなんだろうと考え始めてから最も長くそこに入っているのが長いのがこのお酒。

正直純米吟醸以上ならどれでもいい(というか而今純米大吟醸は手に入れられない)ということで、今回はこれにしました。

非常にフルーティでスッキリしていて、あえて僅かにノイズを加えた獺祭みたいな感じでしょうか。

熟した果実から溢れ出てくるあの香りと近い匂いで、気づくと自然と飲んでしまうようなお酒です。

 

TOP2BLACK SWAN(特別純米 黒麹仕込)

フルーティなのに飲むとしっかり味が口中に広がって、ほんのり炭酸味もあるような感じもし、米っぽさも奥の方で確かに感じられるのだけど全体としてはスッキリ。

多分、他の日本酒では味わえない独自の味がするのですが、それは間違いなく美味しく、そしてそれはフルーティ/甘い系が好きな人が好む物に近いはずです。(なんというか、ワインの楽しみ方に近いかもしれません)

ラベルもむちゃくちゃオシャレ(上は僕オススメの銘柄ではありませんが、こちらも勿論美味しいです)なので、お土産用としても絶対に喜ばれると思います。

 

TOP1新政No.6 TypeX

写真はType Rになってしまいましたが、僕の中ではやっぱりこれが1番です。

非常にフルーティで発酵時点で発生するほのかな炭酸味がある上品なお酒です。

鼻元に近づけることで香る匂い、口に入れた時の味、舌に触れる感覚、その全てが素晴らしく、「これが日本酒」という感覚と「これぞ日本酒」という感覚が同時に来るようなお酒です。

何より珍しい上にパッケージもお洒落なため、お土産に持っていくときっと喜ばれるはずです。

 

以上が僕が人に贈ろうと思って思い浮かべる現時点のTOP5です。

いずれも自信を持ってオススメできますので、ぜひ試してみてください。